1. 耳をすませば(1995)
《ネタバレ》 耳をすませばのテーマは「成長」だ。同年には、エヴァンゲリオンが「思春期における成長過程」を描き、耳をすませばとの類似が見える。エヴァンゲリオンとは「アイデンティティの確立」がテーマの物語だ。巨大ロボットという絶対的な存在と、思春期におけるアイデンティティの曖昧さの対比。敵の襲来、父や周りの人々との関係、全てにおいて主人公は周りに流されながらも、少しずつ成長の兆しを見せていく。そして主人公は「ここにいてもいいんだ」という結論を導く。一方「耳をすませば」の場合。雫は自分の可能性を試す事に受験勉強もそっちのけで没頭し、絶対的な自己を追い求めている。この非常に能動的な姿は、自己を相対化する時代においては異質に映る。現代社会では、場所ごと、接する人ごとに自分の姿を変えていく。雫の自己の可能性を追及する姿は、すこし古い考え方とも取れる。しかし、宮崎氏はこの時代に、自立し、他者に左右されず自己の行動によってのみ自我を確立する10代の姿を描きたかったのではないか。監督のインタビューで「当初、僕はこの雫なり、雫が想いを寄せる少年をフツーの男の子にしたかったんですが、宮崎さんの考えは絵コンテを描くに従い、違ってきた。途中から描くに値する理想の人物として雫や聖司を描き始めた。具体的には、雫が「物語」を書こうとするあたりからかな。やっぱり宮崎さんだなぁという感想を持ちましたね」と語っていることからもそれは推測される。つまり、エヴァンゲリオンの主人公像=現代の若者。宮崎駿アニメの主人公像=現代の若者に求める理想像である。この作品は、多様化する価値観が存在する現代に、あえて絶対的な「価値観」を提示したのではないか。耳をすませばでは、未来はぼやけたままだ。雫に小説の才能があるのか、聖司に職人の適正があるのか、そういった事が描かれていない。そこに描かれるのは夢に向かう前向きな姿勢であり、努力であり、それを温かい眼差しで見つめる家族の姿だ。宮崎駿氏はインタビューで「この作品は、一つの理想化した出会いに、ありったけのリアリティーを与えながら生きることの素晴らしさを、ぬけぬけと唄いあげようという挑戦である」と語った。混沌とする現代において「耳をすませば」とは、一つの理想形とも言えるものをを観客である私たちに示した上で、「成長」を求めた作品だったと言えるのではないか。 [DVD(字幕)] 7点(2006-03-10 23:11:39) |