1. 無法松の一生(1943)
《ネタバレ》 冒頭、2階の部屋の窓からカメラが飛び出してそのまま地面に降り、子供を迎えに来た母親の表情を捉える---という演出が目を引きはするのですが、単にそれだけだったら、撮影技術は今の方が上な訳で(とは言え「この時代の映画の映像」を「こういう形で見せられる」ことへ驚きがあることもまた確か、ですが)。しかし、このカメラワークを皮切りに、時代を超えたような意表を突く演出を挟みつつ、テンポよく物語を綴っていく手際の良さは、これはもう間違いなく、見事なものです。もしも、この作品を一度見てピンと来なかった、と言う方がいたら、絶対に二度三度見直した方がよい、とお勧めしたいですね。誰もが確実に満足できる、とまでは保証できませんが・・・。 カメラが2階から降りる前に、天井に吊るされるランプが描かれるように、このシーン、夕暮れなんですね。街角に灯がともり、警官が訪れた家でオヤジと会話中、屋外に見える隣家にもポッと灯が灯る、という、時間の推移。その一方、この家の2階では、「夕方なのに」今頃になって布団でモソモソ起き上がろうとしている小汚い男。カメラがその表情を捉えると、無精ヒゲだらけでおよそスターらしからぬ顔のバンツマが登場する、という仕掛け。1階での警官とのトボけたやりとりに対し、2階のトボけたバンツマ、という何ともユーモラスなオープニング。 この冒頭から、芝居小屋での騒動~少年との出会いとその父の死~少年とその母との交流(無法松の過去、運動会)~成長した少年(成長しない無法松)~祇園太鼓~~と話が流れて、この辺りから検閲でカットされたらしく、ちょっと繋がりの悪いまま、唐突に無法松が死んでしまい、ここまでの作品のテンポの良さからすると本当にもったいない!と思うのですが、後述するように、その違和感を超えるような感動が、ここにはあります。 冒頭の次に来る「芝居小屋での騒動」のエピソードで描かれる、芝居小屋の中の空間的な広がり、これなんかは、撮影技術の上がった今の映画でもなかなか見られない、特筆すべき描写ではないでしょうか。とても印象的です。ここで大暴走するのも無法松なら、水戸黄門モードの月形龍之介に説教されて大反省するのも無法松。バンツマは月形龍之介とほぼ同じくらいの年齢だと思うのですが、まあ実に落ち着きのないこと。「無茶をする人」と「でも非は素直に認める気のいい人」を足せば、普通は後者の印象が勝つと思うのですが、そして実際、物語も後者の無法松を描くのですが、どうもバンツマが演じると、妙に前者のイメージも印象に残って、映画の最後まで何となく、危うさのようなものが漂ってます。単なる善人ではない、「型に嵌らない存在」としての、無法松。 で、ある日、怪我をした少年を助けた無法松。少年の家を訪問し、父親と意気投合するも、父親は体調が急変、帰らぬ人となってしまう。というあまりに性急すぎる展開ではあるのですが、ここでも絶妙な演出がそれを支えており、医者を呼びに行く無法松、玄関に残された少年の母親、それをクレーンで上部から捉えたカメラが、二人が去った後も回り続け、やがて映像はそっと墓地のシーンへ変わっていく。テンポがいいと同時に、余韻があるんですね。 少年との交流が始まり、その母との交流が始まります。無法松の人力車に乗っている最中にほったらかしにされてしまう客のパントマイムが、サイレント映画を思い起こさせたりもして。 で、、、やがて少年は成長していき、無法松もそれに戸惑うことも多くなってきて、時代に取り残されたような「古い人間」になってくるのですが、祇園太鼓のシーンではそれが、肯定的に描かれます。もはや叩くことができる人もいなくなってきた様々な打ち方を彼が披露し、それを遠くでどこかの爺さんが、感動して周囲にも「よく聴いとけ」と言いながら耳を傾けている。まさに、繋がる瞬間、ってヤツです。 この太鼓のシーンの描写がこれまた、実にダイナミック。カメラは右に左に躍動し、波飛沫の映像やら、雲がモクモクと湧く映像やら、といったイメージも挿入されたりして、今どきのミュージックビデオに引けをとらない斬新な音楽映像となっています。時代を超越してますね。 この後、物語の上では唐突に無法松は死んでしまう・・・というか、死んじゃってる、ので、ちょっと収まりが悪いんですね。だけど、過去の思い出のようなシーンが次々に、多重露光を駆使した映像によって綴られ、そして、時間の流れを示すように作中で何度も登場した人力車の車輪の映像が、ここでついに、動きを止めてしまう、それを見れば、物語が飛ぼうがどうしようが、彼の死を感じずにはいられません。だから、違和感が無い、というか、違和感を超える感動。 映画前半の登場人物がラストで再登場し、物語を締めくくりますが、何だか誰も歳くってないような(笑)。 [CS・衛星(邦画)] 10点(2025-06-28 09:58:30)(良:1票) |
2. 無法の王者 ジェシイ・ジェイムス
《ネタバレ》 ジェシー・ジェイムズものの一本。とくると、『地獄への道』を思い出しますが、なんだかやたらそっくりなシーンが出てきて、フィルム流用なのか、それともパロディなのか。たぶん前者の気が。 とは言え映画自体が『地獄への道』をそのまま踏襲している訳ではなく、回想シーン主体で、時間が行き来するやや複雑な構成。回想シーンが多いというのは、どうしても語り口が断片的になって求心力が落ちる反面、シーンの転換の早さが作品の面白さになっていたりもして。限界と可能性が、表裏一体。 銃撃戦に、ダイナマイトを使ったアクション。爆破シーンに遠景を交えるのがカッコイイ。 ラストシーンでは、傍観者たる町の人々が動きを止め、その中をホームレス風のオヤジが歌をうたいながら歩いていく。 ところで、物語の背景には、南北戦争とその後のゴタゴタ、というのがある訳ですが、こういう作品見てると、アメリカって国にはもともと結束力など無くって、この国は常に何らかの形で対立を必要としているんじゃないかと思えてきます。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2023-07-30 08:59:46) |
3. 胸に輝く星
《ネタバレ》 風来坊のごとき主人公がふらりと町に現れ、「何かを残して」またふらりと去っていく。いいですね~。これぞ西部劇の醍醐味。 その主人公が、ヘンリー・フォンダ。無精ヒゲの顔に、人生経験というか、積み重ねてきた過去が、窺われます。基本的にはこの主人公、自分の過去はあまり語りたがらなくって、西部劇のヒーロー像としては王道、なんですが、会話の節々で、つい自分の過去を漏らしてしまうのが、ちょっと脇が甘い(笑)。要するに、そういう口の重い主人公が、断片的ながらもついつい過去を語ってしまうように水を向ける、脚本の構成になってるんですね。上手いと言えば上手いんですが、でもちょっと脇が甘いと言えば脇が甘い。 それはともかく。「何かを残される側」として登場するのが、若き保安官アンソニー・パーキンス。一本気でいささか頼りなく、こういう役に似合いそうな俳優としてはロック・ハドソンあたりが思い浮かぶのですが、アンソニー・パーキンスが演じることでやや神経質な感じも出ています。意外なことに、銃捌きも見事だったりするのですが、いや、早撃ちならいいってもんじゃないんだよ、ということを彼に教える、ヘンリー・フォンダ。影響を与える側、与えられる側。一方通行のようでいて、実は双方向なのが、これまた西部劇の(に限らないけど)醍醐味ですかね~。 リー・ヴァン・クリーフが出てたりして、やっぱり悪役なのか、というと、案の定、いいヒトではないのですが、あくまでチンピラ風情であって、この町にはもっとやっかいな真の悪役がいる。それがネヴィル・ブランド。え、誰かって? あの『殺人ブルドーザー』のたった6人しかいない登場人物の一人ではないですか。周囲の人間を扇動し、町を牛耳ろうとする彼と、若き保安官との対峙。 その二人の対峙するシーンが映画では二度描かれ、どちらも巧みな構図で印象的に描かれますが、その二度の対峙における、ヘンリー・フォンダの立ち位置の違いが、さらにこのシーンの印象を深めています。一度目はこの対立から少し身を引いた位置からの助太刀。それが、クライマックスである二度目のシーンでは保安官と並んで立っていて、胸には星のバッジが。いやホント、痺れるんです、このシーン。 リー・ヴァン・クリーフたちが起こした事件のために町は大騒動となり、奴らをリンチにかけろ、とばかりに町民の一部が暴走。縛り首にすべく準備されたロープが、これ見よがしに揺れてたりする演出が、焦燥感を煽ります。 そんでもって、上述の対決へ。前回は主人公が銃で助けたけど、今回はあくまで保安官が対決に挑む。彼がこの町を守っていくための通過儀礼。主人公は彼の側に立って、それを見守る。 ラストシーンは、町を去る主人公の馬車のそばへ保安官が歩み寄り、やがて二人が離れていく様を、移動カメラのワンカットで見せており、作品自体の縮図というか、総まとめのように感じられるワンカット、でもあります。 充実のラスト。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2023-03-26 03:34:05)(良:1票) |
4. 無敵社員
一時間ほどしかない上にこれと言って中味も無く、およそ映画を一本見たと言う気にはなれないのだけど、若く明るくサワヤカな健さんを見られただけで、貴重な経験と言えるのかな、と。これが健さんかと思うと、少し、目の毒ですけれども。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2021-03-03 20:14:43) |
5. 無法松の一生(1958)
松五郎と吉岡の奥さんとの関係って要するに、ヨハネス・ブラームスとクララ・シューマンみたいなもんですな(笑)。とは言っても、不器用なところ以外は、全く違うキャラクターですが。こういう「武骨で豪快で気風が良くて、でも奥手」というキャラは、本当に憎めない(これでモテモテだったら、許せない)。内容的には、短いエピソードの積み重ねで、いわばオムニバスと言ってもいいくらいのもの、しかも長い映画ではないので、その点、やや軽い印象はあるのですが。でもそれを補うのが、若き日から年老いるまでの松五郎を全身で演じ切った三船敏郎で、流れる歳月を実によく表現しています。そしてまた、映画において、「主人公の内面」なんて実はどうでもよいということ、そんなものを表現するのが役者の仕事ではない、ということ。「内面」が宿るのは、登場人物の中ではなくて、映画そのものの中であることが、よくわかります。撮影も見事ですね、時代を表現する屋外の光景もいいですが、屋内シーンのセット撮影は、何だか、空気が澄んで感じられるような。 [CS・衛星(邦画)] 8点(2012-06-17 10:23:39) |
6. ムーンウォーカー
率直に言います、“マイケル・ジャクソン”って、かなりキツイと思う。その思いの受け皿になってくれる作品がコレ。相応にキツく仕上がっております。しかしまあ、音楽ビジネスの最先端にいた彼が、映画のジャンルではこうやって最後端に陣取っていた、という守備範囲の広さには、ある意味驚かされますが(笑)。前半のコマ撮りなど、特撮は結構楽しいです。リチャード・エドランドを彷彿とさせる「80年代特撮」の味わいが、懐かしい雰囲気。 ・・・それにしてもマイケル・ジャクソンのコスチュームは、タケチャンマンに似ている。 [CS・衛星(字幕)] 3点(2011-05-22 02:15:05) |
7. 息子の部屋
《ネタバレ》 息子の死という重いテーマを、煽り立てることなく、やや控えめの、抑えた表現で描いていることに、好感が持てる。この事件をきっかけに、家族全体が、閉ざされた雰囲気につつまれていくのが、息子の元ガールフレンドの訪問により、社会へのつながりが新たに芽生え、開放感へ向かうラストの素晴らしさも忘れがたいもの。ではあるのだけれども・・・・・・なんだろう、この釈然としない感覚は。いくら抑えたタッチとは言え、「息子の死」というものの重さに対し、何か醒めた感じがしてしまうのは、文化の違い、価値感の違いなのか?拭えない違和感が残ってしまう。「もしあの時、こうしていれば」という空想にふけるシーンがある。そりゃそうだろう。誰だって後悔に苛まれるだろう。当り前だ。しかしその“当り前”をわざわざ、殊更に映像として描くのはどうか?本当の苦しみは、映像で示された後悔そのものではなく、“このような後悔が繰り返し繰り返し押し寄せ、自分を責め苛む苦しみ”ではないか? 後悔を具体的に描くことで、かえってその後悔の持つ重みが薄れてはいないか? 確かに映画として「表向きは」抑えた表現をとることは、それはそれでよいだろう、けれども主人公の内面に当然あるはずの、無限の哀しみ、慟哭までも、映画から姿を消してしまってはいないか・・・・・・? さらに言えば、この違和感はもしかしたら、「ホカホカと不自然に明るい屋内シーン」にも関係があるのかもしれない。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2007-09-15 00:15:53) |
8. 息子のまなざし
映画的な“大局”からの視点ではなく、生身の人間の視点を思わせる生々しい映像が、ハンディカメラによってどこまでも綴られる。このため、極端なまでに断片的な印象を受けるが、次第に映画の背景が浮かび上がってくる。それでも、映画はあくまで彼ら登場人物たちの人生の、ある「一断片」を描いているに過ぎないのだが、考えてみれば我々の人生もまた、一見連続的であるようでいて、実は非連続な断片の集合体に過ぎない。この映画でも、「ある事」をたまたま「してしまった」人と、たまたま「してしまわなかった」人がいて、そこに何か明確な差があったわけではない。「ある事件」から5年たったその日、あるきっかけがあり、ある顛末となった・・・では「1年後」だったら?「4年後」だったら?あるいはそれこそ、例えば雨が降ってなかったら?それは誰にもわからない。我々もまた、たまたま何かをしちゃったり、(より多くは)何かをせずに終わったりして、無難に終わったり、後悔を残したりする(後者の方が記憶に残るために、我々は過去を思い出すたびに頭をかかえてしゃがみこんでしまうのだけど)。そこに何とか因果を見出そうとするはかない試み。人生がときに複雑怪奇に思えるのは、実は人生の断片が脈絡無く連続しているそのシンプルさが、それが実に残酷だからではないのか(ある日突然、事件・転機は訪れる。主人公の男と少年の間にも、大きな変化が発生した、にもかかわらずなお、ラストシーンは「外面的には」日常と連続している「かのような」この人生の不可解さ。これが時には救いにもなり得るのだが・・・)。この映画の演出方法は、もしかしたら映画的ではないのかもしれない、けども、人生の真実をしかるべき方法で描いた、ひとつの映画の可能性と言えるだろう。 [DVD(字幕)] 9点(2006-05-02 22:17:16) |
9. 村の写真集
我が家の徳島出身者の話では、「徳島弁がヘン」だそうですが(笑)。ここはやはり出演者を徳島関係者で固めないとな。まず高橋写真館長は坂東英二だな。しゃべりまくりそうやな。じゃあジャンボ尾崎か。行方不明の姉役には、えーとえーと、瀬戸内寂聴。なんでやねん。ほんで、息子役は、困ったな、お、そうそう、大川隆法。 とかいうヨタ話はさておき。ユーモラスな人間模様と、美しい徳島の風景が、実に魅力的な映画でした。ちょっと親父を美化しすぎるセリフが過剰にも思えたものの、まあ、このくらいのサービスはあってもよいかな、と。ガンコ一徹藤竜也は、「村の風景」を写真として残すことに情熱を燃やしながら、徳島の自然あふれる「村の風景」の中に自らが溶け込み、静かに消え去っていく。写真を撮る瞬間の控えめな笑顔がたまらない。映画を観てる最中よりも、観終わった後で、あの笑顔が脳裏に浮かび、何だか泣けてくる。まさに即身仏ですよ、こりゃ。しかし村の他の人々もまた、自分達の生活を営みながら、彼同様にこの谷間の静かな村に溶け込んでいく存在なんだけども、ダム建設により村そのものが変化していきつつある、その脆さ。皮肉にも、その非永続というギリギリの線に美しさがあったりする。この先いつでも撮ることのできる映画ではない、「今撮っておかなければいけない」映画、なのでしょう。また、映画の中でかわされる、様々な「ありがとう」の言葉。藤竜也は写真を村の人々の写真を撮らせてもらうたびに頭を下げて丁重な礼を言う。その彼もまた、「生前の親父を撮ってくれたことに対して」「病身をおして山奥まで写真を撮りに来てくれたことに対して」ありがとう、の言葉を受ける。故郷・徳島に対して思い入れの無かったはずの息子もまた、徳島まで足を運び「来てよかった」と言う中国人(?)彼女に、ありがとう、の言葉を漏らす。ちょうど、この「ありがとう」の言葉が、通奏低音のごとく、映画を貫いて流れつづけます。というわけで、映画『村の写真集』はオアシス運動を応援しています、提供は立木写真館でした、なんちゃって(蛇足ですが本作の写真監修は立木義浩氏) [DVD(邦画)] 9点(2006-04-29 10:40:58)(良:1票) |
10. 武蔵と小次郎
ニュースフィルムみたいなドキュメンタリータッチの、愛想の無いナレーションで始まる本作。小次郎っていうと美剣士を想像しちゃうけど、いやあ、こんなタルんだおっさんだとは。こりゃただのセクハラ親父。さて一方、武蔵はというと・・・中盤の見どころ、吉岡一門との死闘! まさに静と動の織りなす、舞踏のような立ち回り! とは言っても、ちょっと「静」が多すぎるぞ~。もっと一生懸命、動け~。辛くも勝利を挙げる武蔵、しかし深手を負い、荒治療に必死に耐える・・・。つまり、ですね。ここでの武蔵も小次郎も、決して超人ではありません。いわば、人間「武蔵」と人間「小次郎」を描いた映画、であります。後半の武蔵にいたっては、ナゼかちょっと小恥ずかしい青春ドラマに突入。オネエチャンの頭を指で小突いて「こいつぅ~」とかやってみたり、果てはブランコに乗ってみたり。ああ、そんな武蔵殿の姿、見とうなかった(笑)。さて突然ですがここで問題。八雲太夫は小次郎に何回「斬らないで」と言うでしょうか(本当に突然だ)。正解は後ほど。物語の構成としてはまず、「吉岡又七郎との決闘の八百長依頼&それに伴う悲劇」というモチーフが、「八雲太夫の武蔵への決闘回避依頼」へと再現されるとともに、前述の八雲の「斬らないで」モチーフが巌流島直前の篠の「行かないで」に再現されるという、この構成の巧みさ。しかもこの巌流島前夜、小次郎は「八雲にそっくりな」照世と、静かな、不気味な時間を過ごしており、彼の悲劇が暗示される・・・。さてクイズの正解ですが、私の勘定によると16回、なかなかクドいですね。暇な方、誰か確認してネ。最後に、クライマックスの決闘シーンについてですが、これまたちょっと動きが足りなーい。でも、それを補うかのごとく、カメラアングルをグルグル振り回し、なかなかダイナミックに描かれておりましたね。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2005-09-12 22:38:21) |
11. MOON44
金は無くてもSF映画を撮る事は可能である。アイデアが無くてもやはり撮る事は可能である。両方無いと、チト辛い。でもやっぱり撮れちゃう。そしてそんな映画に似合うのは、やはりB級映画界きっての男前マイケル・パレでしょう(ま、他にもそんな俳優ゴロゴロいそうですが)。大宇宙の衛星、そこでは鉱物資源の採掘が行われてるんだけど、何やらヘンなロボット(ホントに変)の乗る宇宙船がそれを襲う。しかしストーリーはそんな事そっちのけで、潜入捜査官パレの冴えない活躍が描かれております。派遣されたMOON44で出会った訳有りっぽい囚人ジェイク・オニール、演ずるは、おお、『地獄の女囚コマンド』で人気沸騰、皆さんお馴染みのブライアン・トンプソンではないか。これだけでもう、少し得したような損したような複雑な気持ちに。見どころはヘリによる追撃シーン(もろミニチュア撮影でイサギヨさ炸裂)、スターウォーズのパクリだろ、とか、今更言う気も起こらない。ま、しかしですね、無闇にスモーク炊いてみたりする、雰囲気作りのための工夫(悪アガキとも言う)は、観るべきものが無くも無く、手作りの素朴さを味わうには、うってつけの映画ではないかと(ちょっと褒めすぎたか?←全然褒めてないっての)。 4点(2004-02-14 01:11:14) |
12. ムトゥ 踊るマハラジャ
さすがインド人、踊りがうまい。だから長尺でも見飽きません。さすがは世界一の映画大国。女優さんは驚く程美人だし、馬車チェイスは手に汗握るし、カンフーアクションも何となくサマになってるし。かなり楽しめましたよ、コレは。 8点(2003-10-11 21:36:25) |