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プロフィール
コメント数 421
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  八日目の蝉 《ネタバレ》 
心に残る映画。僕は「なかなかよかったぞー」と叫びたくなる。  原作小説は、以前、大澤真幸の評論で紹介されていたことをきっかけにして読んだ。現代人は、自らの人生を回収し安心できるような既成の物語を失っており、伝統的な精神分析で解釈し癒すことができない、つまり物語によって内面化され得ない「新しい傷」を負っている。大澤はそう言う。『八日目の蝉』の登場人物達はそのような「新しい傷」を負った人々である。希和子が薫に注ぐ愛情には母性という根拠(物語)が最初から失われている。そして、希和子に育てられた薫は、その無根拠の愛情故に、始めから根拠が失われた世界を生きざるを得なかったのである。  「根拠が失われた社会の中で、人はどのような生きる正しい道筋を辿ることができるのか?」 これは、村上春樹の小説のモチーフにもなっていたように、80年代以降の文学的核心だったのだと僕は思う。(意識的にも無意識的にも僕らはそこにこそ共感したのだ) そんな現状認識を踏まえなければ、『八日目の蝉』の「物語を失った人々の新しい物語」という本来的な意義を理解することはできないだろう。『八日目の蝉』は母性愛を問うた物語ではなく、そういった幻想(母性というのは近代社会の生んだ物語でもある)が剥ぎ取られたところにどのような物語が可能なのかという、物語自身の可能性を問うた物語なのである。(『トウキョウソナタ』と同じモチーフ)  さて、映画は、希和子や薫の淡々としたモノローグで構成される小説世界をうまく映像化していたと思う。そもそもこの題材は、小説よりも映画向きである。解釈の仕方は鑑賞者次第だけど、改めていろいろと感じさせるものが僕にはあった。小説で印象深かったラストシーンの希和子の言葉にまた涙した。そして、新しい関係性を掴む薫の決意にも改めて感動した。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-03 10:01:41)
2.  善き人のためのソナタ 《ネタバレ》 
彼は何故、監視対象者を幇助するような行動を取ったのか?その答えを同時進行的に辿る、そういう映画なのだと思った。  彼女に恋をしたからだろうか? 最初のきっかけはおそらくそうなのだろう。そして、原題にあるように、彼が自分と違う「他者の人生」に深く感銘してしまったこと。それが実際の理由なのだろう。  監視していた劇作家が恋人の裏切りを知りながら、彼女を許したこと。それは何故なのか。人を許すとはどのようなことなのか?彼はその答えを知りたいと切望した。劇作家が弾く音楽を聴き、その読む本を読み、その佇まいを想像し、彼はその本質に触れたのだと思う。彼は「他者」を発見したのである。そして、彼は二人の他者の人生に実際に触れる。  最後に彼は劇作家の本の謝辞に自分を発見し、それを「私のための本」と言う。それが彼にとって「他者の人生」を「そうありたい自分の人生」と重ねられた瞬間だった。彼の微かに誇らしげな笑顔がとても印象に残った。   ※各自の点数評価のことなので僕にはどうでもいいことですが、邦題でこの映画の内容を判断するのはちょっと可哀そうな気がします。。。
[映画館(字幕)] 9点(2011-01-17 22:13:45)(良:2票)
3.  夜のピクニック
現代のロード・ムーヴィー。80kmをただひたすらに歩くという年に1度の歩行祭を彼女たちが特別なことと思い、そこに現代では既に埋没してしまった「青春」を掘り起こして、その古の情熱を感じたいと願う、その心情自体が実に現代的なのだと思った。しかし、この映画は当然のことながら従来の熱い青春映画とは対極の位置にある。確かに主人公の女の子と男の子の境遇は特別で、一歩間違うと湿っぽい叙情劇となりうるのだが、それがギリギリのところで乾いた共有感覚によって持ちこたえられ、実に爽やかな青春のワンシーンに差し替えられる。その過程のある種中途半端な心理劇の中に、この作品のその中途半端故の乾ききった「ニュアンス感覚」の現代性がある。また、青春という定型ファンタジーがリアルへとあまりにも容易に転換するそのマンガ的なリアルさがとてもリアルなのだ。 ロード・ムーヴィーとは何かを探す旅を写す。そこには常に不可能性の可能性とも言うべき不条理な行き方が見え隠れするのがこれまでの常だった。そういう意味で、この映画は正にロード・ムーヴィーたる資格を持ちながら、それを見事にはたき込み、うっちゃってしまう。彼らの答えは実に安直で、恐ろしいほどのハッピーエンディングに結びついてしまうのだ。それが現代の浅薄さ、画一性を象徴しているところは、おそらく映画的に言って確信的と思われる潔さで、それが僕にはとても面白いと思えた。結局のところ、それをニュアンス的に共有してしまう、その面白さが僕らの中にもあって、それがこの作品の評価を支えるのだろう。そして同時にこれはもう後戻りができないのだろうという諦念をも感じた。 ちなみに小説も読んだが、小説の方は説明過多という感じで、僕には映画の方がしっくりきた。 あと、全然関係ないけど、生徒達のTシャツが少し気になった。主人公のTシャツがチェで、あと青と赤のモッズのトレードマークTシャツのやつもいたなぁ 
[映画館(邦画)] 7点(2006-10-21 01:37:02)
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