1. ワンダーウーマン
《ネタバレ》 色彩鮮やかなの島の描写が少し長いかなと思いつつ、曇天と煤煙のロンドンパート、さらにモノトーン気味の前線へと舞台が移るにつれて、 その対比がより際立つ仕組みであることに気付く。 複葉機と共に海中に沈んでいくクリス・パインを救う出会いのシーンと、 ラストで夜空に上昇していく彼を追うことが出来ない別れのシーンも対となるだろう。 格子に囲まれた牢獄に見立てたクライマックスの航空管制塔など、美術もよく使いこなしている。 当初、クリス・パインが実験室からノートをあっさりと盗むシーンでのサスペンス演出の無さに拍子抜けしたのだが、 後々これらの屈託のなさが本作の美点であると実感されてくる。 清々しいほど場当たり的に、後先考えず、その場その時の信念に忠実な行動原理のキャラクター達。 塹壕から出て、駆け引き抜きで堂々と歩を進めるガル・ガドットの雄姿はそれゆえに美しい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2017-08-31 23:52:13) |
2. わたしに会うまでの1600キロ
《ネタバレ》 山上から誤って片方の靴を落としてしまったヒロインは、もう一足の靴も潔く放り投げる。 それを実際にシェリル・ストレイドが行ったかどうかはまったく問題でなく、何よりも映画の要請として投げる。 『ダラス・バイヤーズクラブ』は主人公が病に冒されつつも行動的に世界各地を飛び回る、何ともフットワークの軽い映画に思えたが、 こちらはフラッシュバックを交えながらの地道な歩行の映画だ。 出発の朝、荷物を詰め込んだバックパックを何とか背負おうと悶絶格闘するヒロイン。 その重みの感覚、テント設営の不慣れな手つき、旅と共に身体じゅうに出来た傷や痣などの描写が実に丹念である。 劇中で、森で出会った子供が歌いだす。その清らかな歌声が不思議に沁み入る。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2015-10-18 18:06:36) |
3. 藁の楯
台詞が多すぎる。 余貴美子に語らせる、殺人未遂者の動機の補足説明などは完全な蛇足だ。 特に、後半での大沢たかおと山崎努の二度に渡る問答やら、 岸谷五郎の熱弁やらの長々とした弁論に至っては、 平行して藤原達也を放置する映画内時間の間延び状態となり、 作劇上の瑕疵ともなっている。(松嶋菜々子の扱いに関して) 機敏なアクションの連続で緊張感を持続させた前半からの失速ぶりが勿体ない。 監視社会化のアイデアを駆使してひたすら危機突破の活劇に徹すれば また違った面白さを獲得しただろうが、 後半はA級的内面ドラマに傾きすぎたということだ。 藤原の逃走シーンでの木々の不穏なざわめきや、 杖をつく山崎努の着衣をなびかせる風の感触など、 後半も台詞の無いシーンこそ所々で光る。 [映画館(邦画)] 6点(2013-05-19 21:07:43) |
4. わたしを離さないで
《ネタバレ》 寄宿学校以外の世界を知らず、また精神の存在自体を問われる設定の主人公として、児童期から青年期を繋ぐキャスティングは重要なポイントとなるが、その点とくにキャシーを演じるイソベル・メイクル=スモール(少女期)とキャリー・マリガンの相似とキャスティング・リレーはほぼ完璧といって良いのではないか。 両者共に、意思的でありながら柔らかな佇まいにおいても通じ合い、一見淡白な身振りの中に秘めた思いを滲ませている。 二人の女優が、それぞれベッド上で想いを押し留めるように胸に手を当てながらプレゼントのカセットテープを聴くシーンの切ない情感がいい。 劇中、ヒロインを唯一照らし出す陽光は黄昏の残照のみ。 鉄線に絡みついたビニル片が風に揺れる、夕暮れの丘。 廃船が一隻打ち上げられている鈍色がかった海岸線。 共に、世界に抗うことの出来ない小さな存在を象徴するアイテムとして原作にもあるが、その忠実な視覚化という意味でロケーションの貢献も大きい。 [映画館(字幕)] 7点(2011-06-19 20:40:23) |
5. 私の優しくない先輩
序盤から延々と続くモノローグに、役者の漫画的身振りと表情演技とテンションに、過剰な画面加工と効果音に、この先どうなることやらと白け気味になりかけるのだが、中盤の恋の駆引き劇あたりから不穏感と気まずさを湛え始め、徐々に引きこまれる。 雨の中、山の手にある友人宅から坂を下り夜の川原へと、劇は浮遊感から下落のイメージに包まれ、後半の生々しい撮影スタイルと川島海荷のオルターエゴであるモノローグは凄味を増し、画面との齟齬は対位的に増幅されていく。 シンクロか否かよくわからないが、後半の体育館内および火まつりシーンでの二人の生々しい台詞の応酬ともつれ合うアクションが、炎と闇のスペクタル性と共に素晴らしい。 そして出演者全員によるエンディングも、スタイルは全く違うが大林版『時をかける少女』のラストを思わせる至福の時間。 キャストの振り付けの統率とロケーションに合わせた配置。時々刻々の入射光の加減を配慮し、手持ちからクレーンへの自然な繋ぎまでこなしたキャメラワーク。このロングテイクにはスタッフ・キャスト共々、相当な準備が費やされた筈。熱情の賜物といえる。 [映画館(邦画)] 8点(2010-07-25 23:56:54) |
6. once ダブリンの街角で
《ネタバレ》 路上ライブを捉えるファーストシーンの手持ちカメラの揺れがいかにも即興風を装うのだけれど、次に窃盗男を追いかける場面では付近の店内に飛び込んでいく二人を捉えたかと思うと、次の瞬間にはカメラは二人が飛び出してくるであろう隣の出入り口の方を早くも向いてしまっている。案の定、手筈通りに二人が飛び出して来るのでその予定調和ぶりに一気に興ざめしてしまう。また、楽器店で男女が初めてデュエットする場面も受け容れ難い。カメラは不必要に動き回り、まるで二人の演奏の邪魔でもするかのように二人の直近まで寄りと引きを過剰に繰り返す。この無配慮に振り回されるカメラが煩わしい。といった具合に序盤は撮影面で不満が多いのだが、後半は次第に持ち直してくる。小品の趣ながら、中盤以降はクレーンを使ったショットも計3箇所あり、特にそれらが感情を伴った動きでいい味を出す。いずれも場所はヒロインのアパート前。まず、夜中に乾電池を買って戻る場面では、彼女の孤独感を表すかのようにカメラは上昇し、暗闇の中で彼女の小ささが強調されていく。そして歌っていた歌詞のように、カメラは上昇しながら行き場を失くす。対するラストシーンのクレーンは、ドアから出てくる笑顔のヒロインに俯瞰から真っ直ぐ躍動的に寄せていく。(さらにピアノへ)男の思いの軌跡のように。そして最後のショットは、思いを受け取った彼女のいる窓辺から外の世界への開放的な移動。二人の感応が、それぞれ三様のカメラの軌跡として表現されている。これらのクレーンの運動は美的だ。 [映画館(字幕)] 7点(2010-02-15 22:16:17) |
7. ワイルド・フラワーズ
主演:鈴木美妃の存在感が光る。 新人俳優らしい序盤の垢抜けない硬さがあってこそ、リング上の立居や表情や本格的なレスリング技が次第に様になっていく姿が劇中の成長物語と通じ合い映画後半の盛り上がりを生んでいる。 タッグを組むこととなる石川美津穂、ライバルの東城えみ&キューティー鈴木といった実質的なプロたちに交じりながら、終盤には彼女たちの凄味、貫禄、技の切れとスピードに対し全く引けをとらない渾身のファイトぶりが素晴らしい。 クライマックスのタッグ試合でひたすら四人の身体がぶつかり合う迫真性は日本版『カリフォルニア・ドールズ』の趣だ。 また粗末なガレージ内の練習場、地味で狭い選手寮、寂れたキャバレー内に設営された試合会場といった真実味のある美術もまた王道的なスポーツドラマに納得性を与えている。 [DVD(邦画)] 7点(2009-05-18 21:45:42) |
8. 私は貝になりたい(1959)
橋本忍自身によるテレビ用脚本の劇場版だが、撮影・音楽・美術など東宝黒澤組の錚々たるスタッフの支えによって、映画として差別化が図られている。縦構図を多く取り入れ、画面に奥行きをもたせると共に、随所で丹念な長回しを多用してフランキー堺他の演技の持続から迫真性を引き出している。最期の笠智衆との静かな対話場面などがその白眉といえるだろう。村木与四郎氏による床屋の細やかな内装美術とその画面内配置は、主人公夫婦の人となりや戦中戦後の生活実感をよく表現し、対照的に巣鴨プリズン内の殺風景をより際立たせている。暗闇に浮かぶ絞首台の俯瞰ショットとハイライトも強い余韻を残す。そうした「善良なる」主人公への感情移入や共感を促す作劇や演出はそつない故に、映画自体の宿命ながら「反戦」という理性的主題論においては非常に弱い。例外的エピソードに基づくドラマは横浜裁判という国際問題のもつ欺瞞性を日本のヒエラルキーの問題へと矮小化させ、「戦犯」裁判の本質を見誤らせる危険を多分に孕んでいる。 [ビデオ(邦画)] 5点(2009-02-09 21:45:27) |