1. ワイルド・レンジ 最後の銃撃
流れ者の男意気。DVDの時代になり、10分ごとにアクションの見せ場作らないと消されちゃうと心配して「小刻み活劇」が主流になってきているのに、最後の銃撃へとゆっくり高めていく息の長いテンポが嬉しい。雨が降れば道が川になってしまう町。板を順繰りに渡して歩くの。アネット・ベニングとの恋模様もある。指が入らない東部時代の記念のカップいうのは、ラストで家の象徴となる。じゅうたんの上の汚れを拾ってるコスナー。着替えてるベニングがドアを閉めるあたりもいい。ロバート・デュバルとのコンビ。あとマイケル・ガンボンなど周りの役者はおおむねいいのだが、肝心のコスナーが若干魅力に乏しい。あんまりすさんだ過去があるように見えない。 [DVD(字幕)] 7点(2014-03-02 10:15:01) |
2. ワイルド・アット・ハート
オズの魔法使いがベースになってるよう。「虹の彼方に」や黄色いレンガ、“靴をキュッキュッ”があるけど、空気はルイス・キャロルに近かった。クレージーな人々の中を旅していく二人組。母親がトランプのクイーンの貫禄。小さな火と燃え盛る炎が繰り返される。煙草の火のように抑えた情熱と、めらめらといく火事の炎。その二種類の火の間の狂気の世界。…てなふうに頭ではまとめたものの、もひとつ彼の世界に徹底できなかったと言うか。ユーモアの質が、この人のユーモアとは違う気がした。昔のポピュラーソングはこの人のよく使うものだけど、「ラヴミー・テンダー」はなんか違った。フェイントの笑いであって、この人のはもっと「本気がとんでもない方向に発揮されてる笑い」なんじゃないか。 [映画館(字幕)] 7点(2014-01-14 09:26:25) |
3. わが心のボルチモア
移民の家族史もの。ファミリーの団結が次第に衰えていく哀感。難しい名前クリチンスキーがケイになってしまう。七面鳥を切るのを待てない兄弟は喧嘩になり、そして次第に訛りのないアメリカ国民になっていく。少年が火事のときの告白をするあたりが一番いい。その勇気を祖父が促し、父が褒める。しかし実は…、って話。時代風俗を出すのは大変だったろうが、いちいちパパが息子に古い車を指さすのは、なくもがな。もっとさりげなくていいんじゃないか。昔の話をするときは8ミリふう。みんなでテストパターンを凝視するテレビ事始めも面白い。市電の事故が笑える。いい映画だがもうちょっと冒険もしてほしかった。目新しさがあまりない。傷つかない場所から眺めたアメリカ史。正しいアメリカ人へのなり方。 [映画館(字幕)] 7点(2013-12-06 09:57:51) |
4. われらの恋に雨が降る
ベルイマンの初期作品は原作が別にあるものなので、筋だけを追うと「若い恋人たちを応援するような人生肯定的」だったりする。なのにときどき脚色者の陰気な顔がちらちらするところが味わい。もちろん原作がそうなのかも知れないけど、これは脚色者のせいだと勝手に思い込めるほど、彼のトーンが現れてくる。嫌がらせをする地主の感じなんてズバリそう。孤独で偏屈。原作にすでに存在してるキャラクターでも、癖のある部分が拡大されベルイマンの登場人物になってしまっているんだろう。妻の腹の中のよその子に対する殺意で、お得意の罪のモチーフがクローズアップされてくる。仲の悪い夫婦ってのも彼の終生のモチーフになっていくわけだ。映像は冒頭からいい。傘をさす人々がバスに乗り込むけど、一人だけ残っている。ヒロインが金を持ってないことを示す切符買いのシーン(一つ手前までの料金をきく)。若い二人には犬、地主には猫が配される。空や雲が妙に明るく、途中に入る絵入りのタイトルがかわいい。 [映画館(字幕)] 7点(2013-11-01 09:51:28) |
5. ワールド・アパートメント・ホラー
日本人にとって「外人」は、黒船以来、さらにはマッカーサー以後、まずアメリカの白人によって代表されるんだけど、本作には出てこない。台湾、中国、フィリピン、パキスタン、バングラデシュとアジア人ばかり。しかも彼らに個性を勝手に付けないで、「日本人の目を通して見たアジア人一般」であり続けているところがこの作品の面白さ。まずタテマエとして「アジアは一つ」「隣人と仲良くしなければならない」「日本で苦労している外国の方たちの立場に立って」といった無垢な弱者としてのアジア人像ってのがある。それと同時に(欧米文化はどんどん入ってくるのに)いまだに未知の闇というアジアに対する不気味感もある。どちらも個性を持てない。それを反映した映画世界は、ホラーに近づいていく。住人たちに追い詰められて「日本人は白人なんだ」って言っちゃうとこ、せりふの上からだけ見ればテーマを整理しすぎたと思うが、ちょっとためらって言うし、言って、あれ? 変だな? というニュアンスがあったし、あそこらへん、正直に1991年の日本人だった気がする。クレーンでゆっくり浮遊しながらアパートを見る視点。 [映画館(邦画)] 6点(2013-08-29 09:39:03) |
6. 忘れられた人々
《ネタバレ》 メキシコスラムのルポのように始まり、盲人から金を奪い、いざりの車を坂道から滑り落とし、ほんとどうしようもない不良連中。なんかカタワに対する微妙な不快感を目覚めさせるようなところがあって、見てて実にいやーな感じになる。不良のリーダーハイボによるフリアン殺し、真っ当に働いているところを呼び出して、後ろから殴って殺しちゃう。罪を半分着せられるペドロ、さあここらへんから残酷な歯車が回り出す。ペドロの孤独が浮き上がってくる。スローモーションの夢が素晴らしい。舞い散る鶏の羽根。肉の塊は食料だけでなく母の愛でもあろう。ペドロは母に喜んでもらいたく働き出すが、母は「どうせ」と思っている。そしてここぞと言うときにやってくるハイボ。母の手で感化院に送られてしまうペドロ。院長に信頼され、この映画で始めて明るく町を歩くペドロ、しかしまたハイボが来る。ここらへんの、救いを用意したようでいて、それを次々に取り上げていく残酷ったらない。イタリアのネオ・リアリズモのようでいて、あの「最後には心の芯が温まる視線」がない。ただ救いのない現実を記録していく。ペドロが見ただろう現実のやりきれなさを再現することに集中する。もちろんそこにはペドロだけでなく、あのどうしようもないと思われたハイボも含まれるだろう。彼の最期の、路上でゆっくり首を振る動作が忘れられない。それでも忘れられていく彼らたち。映画とはこういう仕事をしなければいけない、としみじみ思わされた作品。 [映画館(字幕)] 9点(2013-08-25 09:26:21)(良:1票) |
7. ワイルドバンチ
終盤の四人並んでの道行きは、まさに仁侠映画のそれと同じ情動でシビレはするんだけど、なんかそれまでの彼らとうまくつながって感じられない。列車強盗の際の、いい歳をしたオジサンたちがいたずらっ子っぽく楽しんでやってる感じが(ここはとてもいい)、突然悲壮のオトコになってしまう。オジサンたちの心の底で育っていた「自由な時代の終焉への哀しみ」が、ラストで爆発したと見るべきなんだろうか。あの変化こそが眼目なんだろうか。最初の強盗のあと、怪我した手下を楽にしてやったパイク、今回はエンジェルの仇を命を捨ててまで討つ。たしかにマパッチ将軍(『真珠』の監督エミリオ・フェルナンデス)は憎々しいが、それだけ発作的行動のような「短慮」感も漂ってしまう。ずっと跡を追ってきたR・ライアン、この旧友がどう絡むかと思っていると、いわば詠嘆役で、作品がまとまりはするが、これだけのためにずっと追ってきたのかと肩透かし感もある。西部劇の時代が車や機関銃が登場して来てもう終わりのころを、囚人が捕り手になったり死人のブーツを盗み合うような乱世として捉えている。陽気なメキシコ音楽を背景にしていることの効果。役者はみんないい。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2013-08-09 09:50:27)(良:1票) |
8. 別れのタンゴ
戦後にも高峰三枝子のメロドラマは作られ、私は『懐しのブルース』ってのとこれを見て満腹になったが、ほかにもまだまだ『想い出のボレロ』とか『情熱のルンバ』とか、目が星と光るような題名のがある。『懐しの…』は見事なまでの通俗メロドラマで一つの典型として見られるものだったが、第二弾のこれは原案が吉村公三郎というせいか『暖流』の設定を思わせるような・ちょっと階級闘争的なヒネリを加えてあって、意外と拾いもの的に楽しめた。若原雅夫の高峰に対する憎悪が、階級憎悪と重なりかけるんだ。それがすぐ和解して愛になっちゃうのも、頬の傷だけで何とか納得させてしまう。そこらへんメロドラマの味付けにも時代的反映があるんだなあ、と思った。あと面白かったのは、ヒロインが劇中で歌手となりスターとなって、この映画の中で『別れのタンゴ』という映画を撮ってしまうこと。こういうスター成功譚は戦前からあるが、この作品を地方の映画小屋で見ている高峰ファンが、かつて彼女とラヴロマンスがあったと錯覚できるような作りになってる。メロドラマにもメロドラマなりの工夫の歴史があるのだ。 [映画館(邦画)] 6点(2013-03-22 09:56:06) |
9. 私がウォシャウスキー
《ネタバレ》 女探偵と女の子が悪を暴くの。男じゃなく「女・子ども」が果敢になる面白さなんだろうが、このころでももうそれほど目新しくは感じられなくなっていた。K・ターナーの魅力に負った企画だろうが、これも新鮮さの点ではもう弱くなっていた。でもこういう年頃になった女優って日本では主人公任されないのが、邦画の駄目なとこだよな。主人公に個性的な弱点をもう一つ欲しいところ。舞台がシカゴで、ニューヨークに比べると地方都市の味がちょっとある。母親として失格した彼女と、自分の子を殺そうとする女とが対比されていたのかなあ。犯罪に何かと日本人が絡んでいたころ。モーターボートの追っかけがありました。 [映画館(字幕)] 5点(2012-12-30 09:08:31) |
10. 我等の仲間
友情の崩壊ストーリーよりも、田園の美しさに見惚れた。田園っちゅうか、川沿いのあたり、川遊びとかね。白黒だと木々の色が出せなくて駄目だろうと思いがちだが、かえって光に敏感になるので美しい。冒頭から木々の並びを流す画面だった。堪能堪能。開かれた祝祭気分の仲間うちの世界、これが一人ずつ去っていくことになるんだが、完全に分解しないで、最後二人だけで友情よみがえって終わったとしても、ちっとも甘くないと思うよ。悪女にリアリティなくても、それに振り回される男のほうに説得力があるからいいのね。みんなで瓦を飛ばされないように屋根に寝たのが一番の思い出だぜ、なんてのがいい。この監督は、巨匠というより名匠という言葉が似合う。(ハッピーエンドの版もあるらしい) [映画館(字幕)] 7点(2012-11-02 10:04:56) |
11. ワーロック(1959)
《ネタバレ》 最初はいいの。ならず者に蹂躪されてる町ワーロックの人たちが、ちゃんとした保安官を雇えないかといった『七人の侍』的展開で、善悪のクッキリしたドラマが予想される。雇われるのがH・フォンダのクレイにA・クインのモーガンで、男臭が立ちこめる。ならず者がフレンチパレスにやってきて楽しげな音楽を奏でていたピアノ弾きが逃げ、音楽が消えた中をフォンダが階段を下りてくる緊張なんかがよく、ここらへんまでは大いに期待した。人物を立体的にしようと複雑な過去を投影してあるのが、どうだろう、ドラマを濁らせてしまってはいなかったか。R・ウィドマークは、悪漢側からイイモンに変わって物語上の主人公のようだが、その心の変化は彼の言葉だけに頼っていて(アパッチのふりして虐殺を行なったのに愛想が尽きた)、弱い。モーガンが一番屈折してるようなのだけど、これつまりホモ映画なのか。クレイを男にすることに生きがいを持ってる友だちと一応定義できるが(クレイだけが俺を人間扱いしてくれた、とか言ってた)、見る角度で同性愛ギリギリなんだな。クレイが結婚するってので拗ねちゃって撃ち合いに無理に持っていき、わざとのように的を外して自分は友に撃たれて死んでいく、ってなんか「ホモの純情」って話かとも見える。スッキリした活劇を期待してたとこに、そこらへんで余分な濁りが入ってしまう。最後のウィドマークとフォンダの対決(っぽい展開)も、両者の人物像が確定しきってないので盛り上がらず、映画のほうもそれを見越してか盛り上げないで終わっちゃう。でも、馬上の男が去り女が泣いて見送ると、西部劇を観終わったな、という気分はキチンと残った。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-17 09:47:58) |
12. わが街(1991)
このころのアメリカ映画、青臭さというか、過剰な真面目さが目立った。都会はひどいところだ、って幻滅も繰り返される。でも世界には独裁政権や内戦や飢餓が満ち満ちていて、今までのアメリカ映画だったら「そういうのに比べると我が国はいいし、なんてったって僕らは自由だ」って謳ったはず。でも自信がないんだ、このころになると。クヨクヨしてるアメリカが正直に出ている。縁とか絆とか、そういう手触りのあるところから徐々に回復していこうとしているみたい。ひとつひとつのエピソードは物足りないんだけど、全体のクソ真面目さには、意外と好感が持てた。捨て子を拾う縁、黒人の友人との絆、こういう中で何か邪悪で醜いものをつかまされてしまう可能性もあるけど、でもとりあえず少しずつ手をつないでいこう、って気持ち。「青臭さ」が、このころのアメリカでは貴重な、かえって息をつけるところだったのかも知れない。『サリヴァンの旅』が好きなのね、この監督。 [映画館(字幕)] 6点(2012-07-02 09:53:12) |
13. ワン・フロム・ザ・ハート
これ『地獄の黙示録』の次の監督作で、意表をついたミュージカルで映画ファンを驚かせたものだった。冒頭、ネオンの裏から店の中にはいっていってテリー・ガーの鏡にまで至るワンカット。男のほうの話から女に移っていって、いろいろあってまた男に戻ってくるまでのワンカットも楽しかった。男女の歌が心理を描いていくのが義太夫を思わせ、このラブストーリーは都市生活者にとっての「民話を元にした人形浄瑠璃」を思わせられた。主人公は人形なんだから、歌わない。しかし踊りはもっと見せてもらいたかったな、彼らは操られているんだから。ま、ちょっと見せたガーのダンスのぎごちなさを思うと仕方なかったのかもしれない。シルエット・タンゴが美しい。だいたい撮影が逆光の好きなV・ストラーロで、あの人の人工光による世界では、これと『ディック・トレイシー』がとりわけ美しかった記憶。デュエットが流れているときの人物が手持ちぶさたなのに、もう一工夫ほしいところ。 [映画館(字幕)] 7点(2012-05-21 10:20:04) |
14. わが青春に悔なし
本作が作られたのは、まだこれからの日本の進路が定かでないころで、世情もとりあえず共産党的な気分が沸騰していた(とりわけ東宝撮影所内は)。そういうシナリオをもらった監督は、こんな感じでいいのかなあと手探りで前半を作ったよう(藤田進の事務所の前、入るのをためらう原節子のカットの連続で季節のうつろいを表わすのは『姿三四郎』の復習だ)。後半の農村の場になって、好きだったソ連映画のタッチを大っぴらに練習することが出来た。ここに至って気合いが入ってきたのが分かる。原が昼間一人で田へ出て行くあたりの悲壮感、木々が嘲うところなどなど、もう完全に黒澤タッチ(『蜘蛛巣城』のバーナムの森)。原節子も全編を通し徹底してバタ臭く、しばしば泰西名画風のポーズを決めたり、ヨーロッパ・とりわけロシア的なものへの傾斜がうかがえる(彼女が弾いていたのはムソルグスキーの「展覧会の絵」だし、原が出たもう一本の黒澤映画はドストエフスキーの『白痴』だ)。監督はこのシナリオから左翼イデオロギーでなく、「平凡なものよりギラギラしたものへ志向する」ヒロイン像を中心に据えたのだ。 [映画館(邦画)] 6点(2012-03-10 10:04:43) |
15. ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地黎明
悪役がイギリスではなくアメリカになっているのが、このころの香港映画のややこしさか。中国語版ではなく英語版で観たので、あの甲高い声が制限され物足りなかった。香港映画はときに画面の陰影が美しいのもあるが、アクションものははっきり見せるのが大事なので、照明はいたってザッパク。好敵手との争いが見せどころになる。二人だけでは、やることが限られてしまうので、ときに丸太・ときに梯子を絡めて頑張っていた。梯子絡みのシーンはかなり長かったよ。アクションの連続いうのも、サービスのようでいて退屈を呼んでしまうこともあり、難しいのだな。人のシルの残りを飲んでいる名人インが、悪に引きずられていく過程。悪人どもの間で一生懸命武術を見せてるあたりの哀しさに味わい。 [映画館(字幕)] 6点(2012-01-18 09:56:50) |
16. 私は二歳
《ネタバレ》 エッセイ映画というか、育児本をベースにして一本の映画を撮る試み。普通の監督ならその芯のなさが足かせになるところを、この人は好き放題が出来ると喜んでるみたい。子どもの動きを記録したドキュメンタリー調からアニメまで動員している。小ネタの連鎖でブツブツになりそうなところを、大きく前半の団地時代・後半の姑との同居時代と分けて、まとめている。託児所の不足、はしかへの対応、などの「役立つ情報」も織り込み、しかしちゃんと劇映画としての構えを崩さない。役者では後段の浦辺粂子の姑が傑作で、確信犯的甘やかしのベタベタ感が、嫌味にならずに「お祖母ちゃん一般」の姿になっているのは大したものだ。しっくりしてなかった嫁と姑の女連合が、亭主のしくじりで共同して攻撃してくるあたりがおかしい。昔の映画は時代の映像記録としても楽しめるが、それだけでなく時代の傾向の記録にもなっていて、本作で団地から親の家に移る展開は、おそらく当時の傾向を反映していたのだろう。子どもの成長とともに家族は一軒家に移り、団地はいつも若夫婦が入れ替わって回転していく、ってのが団地発足当時の計算だった。しかし大都市部の住環境はそれほど甘くなく、団地で高齢化が進む未来が待っているとは、このころはまだ誰も考えてもいなかったわけだ。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2011-10-08 10:11:26) |
17. 私は好奇心の強い女
いかにもあの時代にふさわしくインタビューで始まる。スウェーデンに階級は存在するか、って。ここらへんテキパキとしていて面白い。労組の事務所に行ったり、スペイン帰りの人にフランコについて尋ねたり。またパルメ教育相との実際の対話、マーチン・ルーサー・キングとの構成されたインタビューなども織り込まれる(パルメはベトナム反戦デモに大臣として参加し、アメリカ大使が抗議して本国に引き上げたのが68年。ついでに言うとパルメは首相になっても米軍の北爆を「ナチス以上の蛮行」と公言した。のちに暗殺される)。スウェーデンというとまず「フリーセックス」とくるのが当時の一般的認識傾向で、この映画もそういう「スケベ」の線で話題になったのだが、もうひとつ「ラジカルな平和主義」も忘れては悪い。この毛沢東主義に注目が集まっていた時代に、中ソにも否定的な意見を述べたくだりがあって、そういうとこ真面目。ボカシがはいると、テレビで「映像が不鮮明で申し訳ない」というアナウンスを入れるのがおかしい。非暴力主義の軍事訓練のパロディは、もひとつそっちの社会情勢が分からないので、笑えなかった。ヒッピー風の禁欲生活を対象化したおかしさもあった。懸賞付きクイズも入る。そういう、もうあの時代の匂いプンプンのポップな映画。しかしいろいろ政治の時代とその風俗をコラージュしながらも、政治の現場から遠い地点にいる若者たちのいらだたしさみたいなものを感じたが、当たっているかどうか。主役の女学生を演じたレナ・ニーマンと、ベルイマンの『秋のソナタ』で病気の妹を演じたレナ・ニーマンとが同一人物かどうか確認していない。 [映画館(字幕)] 6点(2011-02-02 09:34:08) |
18. 若者のすべて
《ネタバレ》 3章の「ロッコ」から、それまでのネオリアリズモのタッチと、神話のような世界とが重なってきて交響し、圧倒的。長男は小家庭に籠もり外界には無関心、四男は都市でやっていこうと決心して、その信念に沿って勉強してる。長男の消極的都市生活に対して、積極的都市生活。五男は未来への希望であり、故郷へ帰れる者、さらには故郷を富ませるであろう者として存在する。重要なのはもちろん、次男のシモーネと三男のロッコの対立で、この二人の自分の役割に執着するその過剰さが、神話の雰囲気をかもす。獣性と聖性の対立という二元論で片づけてもいいんだけど、さらにこの二人がどちらも都会に不適応であるところが厚み。クライマックスでロッコがシモーネのことを、「家のいけにえ」と言ってたけど(公開時の字幕では、私のノートを信ずるなら「家族の土台となる者」)、あれは自分も含めてなんだよね。クリーニング屋での女たちにからかわれながらの働き、ジムで見込まれたときの歯まで調べられる扱われよう、酔いどれて酒場で友だちに馬鹿にされる痛ましさ。それは彼ら兄弟が地上に堕ちた神々の気配を漂わせているからこそ増幅される惨めさなんだろう。シモーネが金をたかるシーンでテレビがずっと古典画を映し続けていたのなんか、これは古典悲劇なんだよ、と監督が確認してるみたい。四男はロッコのことを「許してはけないものまで許してしまった」と言ってたけど、その過剰さが彼を神々の高さにまで引き上げ、また社会との不適応を招いている。ナディア陵辱シーンの、この兄弟の惨めさの極みがそのまま神性に通じていくようなあたり、ゾクゾクする。みなで雪掻きに出かけていくシーンは、後で振り返って悲しむために仕込まれた失楽園用情景だな。父が故郷にいるあいだずっと辛抱し、憧れ続けていた北部都市にやっと出てきたという母も悲しい。南部の暮らしのつらさを描いた場面はワンカットもないのだけれど(それならもう『揺れる大地』でミッチリ描いた)、それがずっと映画の通奏低音になっている。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-27 10:27:10)(良:1票) |
19. わかれ路
二人の女の間でうじうじする男。そういう状況を状況として丁寧に描くのは日本映画の得意な世界なんだけど、あちらだと短編小説的なキッチリした展開とオチが必要となる。あのラストを生かすとするなら、女の取りっこの話を中心にすべきでしょうな。どちらも最後に勝ったのはアタシだと思う。三方一両損の裁き。男はもっと後退させるべきでしょう。そこらへんで、あちらとこちらの違いを考えさせられた。妻に愛人らしいのができるとスネたりする情けなさは、あちらもこちらも変わらず。迷ってるときにジイサンと孫とを登場させ、家庭への思いと赤毛への思いを引き出すあたりは納得できる。 [映画館(字幕)] 6点(2010-10-27 10:07:55) |
20. ワイアット・アープ(1994)
愛あり悲しみあり、挫折あり立ち直りあり、厳しすぎたりしても人間味ありと、中庸へ中庸へと導かれていくつまらなさ。ワイアット・アープという名前がなければ、前半は総崩れになるのではないか。つまり西部劇としてでなく伝記映画として見ろ、ってことか。そう思うと、多民族国家アメリカにも、やはり民族的英雄が生まれてしまうという悲劇を目撃することになる。せめて、もっと皆に「愛されなかった」彼を詰めれば面白くなったかもしれない、自殺未遂を繰り返す「妻」の目を通すとか。でもケビン・コスナーって複雑なキャラクターを演じられるタイプじゃないんだよね。美女が登場しない3時間11分、ワルのほうに魅力がないのも致命的欠点。ラスト近くでズルズルとヤマ場が絞り切れない。OK牧場のあともだらだらと続く、「伝記映画」だから。トウモロコシ畑から始まってバッファローの走りがあり、コスナー作品を回顧しているようなところがあった。唯一映画らしかったのは、無法地帯と化した町を弾痕だらけの看板で見せたとこか。 [映画館(字幕)] 5点(2010-09-02 09:58:19) |