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 > 鉄腕麗人 さん
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プロフィール
コメント数 2648
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 44歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  あんのこと
辛い。悲しくて、最悪な結末ではあるが、彼女の一生が特別なわけではない。目を逸らさず直視すべき現実。
[インターネット(邦画)] 8点(2025-03-22 17:37:43)★《新規》★
2.  フォールガイ
溢れ出るスタントマンリスペクトと映画製作における“アクション愛”。もっとアクション描写に振り切ったアクションコメディかと思いきや、想像以上にラブコメ度も高く、アクション・コメディ・ロマンスがバランスよく配置された愛すべき娯楽映画だった。
[インターネット(字幕)] 9点(2025-03-16 10:55:58)
3.  カンバセーション・・・盗聴・・・ 《ネタバレ》 
ジーン・ハックマン追悼鑑賞。盗聴の専門家が大企業の陰謀を暴く〜的な話かと思いきや、信仰心が深いくたびれた中年男が、自身の生業に対する罪悪感に苛まれて、精神をすり減らしていくという極めて地味な映画だった。
[インターネット(字幕)] 6点(2025-03-13 16:32:09)
4.  ファーストキス 1ST KISS(2025)
自分自身、結婚をして丸々15年が経過した。主人公たちの年齢設定や結婚生活の期間は、ほぼ自分の現在地点と重なり、“夫婦ドラマ”としてとても感情移入しやすかった。 この映画の主人公たちほどは、自分たちの夫婦関係はすれ違っていないつもりではあるけれど、彼らが織りなすその関係性の変化とそれに伴う悲喜劇は、それでもダイレクトに突き刺さる部分が多かった。  こんな悲しみや苦痛を背負うくらいなら、むしろ最初から出会わなければ良かったのに、という思いは、その程度は様々だろうけれど、きっと世界中の“夫婦”が必ず抱えるジレンマだろう。  松たか子演じる主人公は、「離婚」をするその日に夫を亡くし、様々な感情の行場を見失ったまま、虚無な日々を過ごしていた。 すでに心が離れていた夫の死を悲しんでいるのか、それとも離婚できぬまま“夫婦関係”を続けざるを得なくなってしまったことに苛立っているのか、彼女自身その心情の“正体”を見いだせず、静かな絶望を抱えているように見えた。  そんな折、3年待った取り寄せ餃子をものの見事に焦がしてしまったことで、この世界の堰が、文字通りに崩れ落ちる。そして彼女は、夫と出会った15年前の夏の日をループする――――。  15年後の夫の死(列車事故)を回避するために、主人公が画策するあれやこれがとても間が抜けていて面白い。 肉屋に立ち寄らせないために若き夫をコロッケ嫌いにさせようとしたり、本屋に予約していた学術書を未来から持ってきて混乱を招いたり、緊急停止ボタンの存在を刷り込んで別の大惨事が起こる未来を生み出しそうになったりと、彼女は奔走するけれど、どれも上手くいかない。  幾度もタイムリープを繰り返し、途方に暮れる主人公は、ある決意にたどり着く。 そう、そもそも結婚なんてしなければいいのだ、と。  15年後の妻と15年前の夫が、繰り返し紡ぐ数時間のラブストーリーは、とても眩くて、ユニークだった。 他愛もない会話劇で上質なドラマを創出している点においては、「最高の離婚」「大豆田とわ子と三人の元夫」等数々の名作夫婦劇を生み出してきた坂元裕二ならではの作劇だったと思う。 主演の松たか子は、「大豆田とわ子と三人の元夫」でもそうだったように、阿吽の呼吸で坂元裕二が生み出したキャラクター像を体現し、魅力的な存在感を放ち続けていた。  その一方で、タイムリープものとしてはいささか詰めの甘さが目立っていたようにも思える。 そもそも主人公が15年前にタイムスリップしてしまう経緯がとても強引だし、その後本人の意思で簡単に時間移動を行えてしまうストーリー展開は流石にチープすぎやしないか。 また、タイムリープを行っている主人公は15年前の夫との“デート”を繰り返しているわけなので彼に対しての距離感が縮まっていくことに理解できるけれど、反対に松村北斗演じる若き夫は、常に初対面なわけであり、双方の距離の縮まり方に違和感を禁じ得なかった。 最後の“告白”後のくだりも、いくら学者の卵とはいえ理解が速すぎないかと思わざるを得ないし、そのまま恋に落ちるというのは、ラブストーリーとしてもややチープに感じた。  若き夫が真相を知るクライマックスの展開についても、あまりにも直球過ぎたなと感じる。 自らの未来の悲劇を、あれほどダイレクトに説明されて、それでもその未来に突き進んでいくというのは、流石に非人間的ではないか。 彼が真相に触れる経緯については、主人公が落とした“付箋”のみで薄っすらと感づく程度に留めたほうが良かったのではないかと思う。 自らの死を頭の片隅では感じ取りつつも、それでも眼の前に現れた愛しき人と過ごす時間を選ぶ。そういうバランスのほうが、この映画が描き出した“夫婦愛”がもっと際立ち、映画的なマジックも生まれたのではないか。   ただし、それでもこの映画が坂元裕二ならではの会話劇と夫婦劇で、作品としての品質を保っていることは間違いない。 結局、“未来”は変えられなかったけれど、主人公の奔走により、15年間の夫婦生活は幸福なものになった。それは決して現実を歪曲したわけではなくて、この映画の妻と夫が、本来歩むはずだった生活を取り戻したという帰着だったのだと思う。  夫の死をちゃんと悲しみ、ちゃんと泣くことができた日、取り寄せ餃子が届く。 今度の餃子はきっと上手く焼けたに違いない。
[映画館(邦画)] 7点(2025-03-02 23:17:10)
5.  しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜
人気アニメシリーズやゲームの“3Dアニメ化”という企画がしばしば実現し公開されるが、「その需要は一体どこにあるのだろう?」と、非常に懐疑的に思う。  多くの場合、慣れ親しんだアニメのビジュアルに対して、3D化されたキャラクターの造形にまず違和感を覚え、それはすぐに嫌悪感や気味悪さにまで発展することが多い。まともに鑑賞していないが、「STAND BY ME ドラえもん」などはその最たる例だろう。  そんなわけで、「クレヨンしんちゃん」の3Dアニメ化である本作も、まったく観るつもりは無かったのだけれど、ある休日の午後、暇を持て余した小4の息子がリビングで観始めたので、仕方なく遠目で鑑賞した。  結果的に、懸念していた3Dアニメに対する違和感や嫌悪感を覚えるには至らなかった。なぜなら、3Dアニメの造形に、オリジナルのアニメのキャラクター造形と比較して、それほど大きな差異が無かったからだろう。 無論、声優陣も同一なので、3Dアニメを観ているという感覚自体が薄かったように思う。  が、それならば、ということである。 それならば、何も3Dアニメにする意味があったのか?ということであり、詰まるところ「誰得?」という印象に着地する。 “超能力”を題材にして、ファンタジックでスペクタクルなストーリー展開は用意されていたけれど、元々「クレヨンしんちゃん」映画といえば、映画ならではのエキサイティングな世界観を展開させることが売りでもあるので、特に今作のみが特筆してエンターテイメント性が高まっているというわけでも無かった。  確かにクライマックスにおける、“特撮的対決”シーンには、3Dによる立体感やダイナミックなカメラアングルが効果を発していたのかもしれない。 でも、その点においても、クレしん映画においては、縦横無尽なアニメーション表現によりエキサイティングなアクションやアドベンチャーを創出し続けているので、特別さを感じるには至らなかった。  むしろ、3Dアニメ化による“労力”が通常よりも嵩んでいるのか、他作よりもストーリーテリングにおいては平坦で類型的だったと感じざるを得なかった。  監督は、Netflixドラマ「地面師たち」の記憶も新しい大根仁。 ラブコメからシリアス、アニメまで守備範囲の広さは、堤幸彦や秋元康のもとでキャリアを積んだこの監督ならではの特性であろう。 ただその一方で、ある種の節操の無さや、各作品における拭い去れない軽薄さみたいなものも、しっかりと受け継いでいるなあと感じる。
[インターネット(邦画)] 4点(2025-02-15 08:15:57)
6.  ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー
「スター・ウォーズ」シリーズにおける人気キャラクターであり、映画史上における“アウトロー”の代名詞でもあるハン・ソロの前日譚映画として、真っ当な冒険活劇だった。 彼のアウトローとしてのキャラクター性の確立、そして本編を侵害しないキャラクター造形等、ロン・ハワード監督らしい誠実で、職人監督らしい堅実な仕事ぶりに好感を持てる。
[インターネット(字幕)] 7点(2025-02-09 10:26:41)
7.  愛にイナズマ
とてもバランスが悪くて、本当に伝えたいメッセージを上手くは表現しきれていない映画。でも、愛さずにはいられない映画。
[インターネット(邦画)] 8点(2025-02-08 09:27:27)
8.  真実の行方 《ネタバレ》 
主演のスター俳優を、複層的な意味で“食らう”新人俳優の怪演に面食らう。 がしかし、本作を1996年公開当時に観られていたならば良かったが、既に“エドワード・ノートン”という俳優の地位が確立されてしまっている今観てしまうと、その衝撃が半減とまでは言わないが、目減りしてしまうことは否めない。
[インターネット(字幕)] 7点(2025-02-02 10:08:45)
9.  E.T.
現在43歳、自分が1歳の時に公開された映画史上においてあまりにも有名で、世界中から愛されるSF映画を、初めて鑑賞することになった。 年末年始、地方のスクリーン事情では、あまり目ぼしい劇場公開作品が無くて、特別上映されていた本作が2025年最初の劇場鑑賞作品にもなった。 何よりも、この映画の“初鑑賞”を劇場で、しかもIMAXで体験できたことは、個人的な映画ライフのトピックスになり、とても幸福なことだったと思える。  多感な少年が、迷い込んだ異星人と出逢い、友情を育み、大人たちの干渉から逃れ、自転車で宙を駆け、感動的な別れに至る──そんな物語。  “初鑑賞”とはいえ、真っ当な映画ファンのはしくれとして、本作がどういう作品なのかという「情報」は、ほぼ熟知してしまっていたと言っていい。 おおよそその“知識”通りに映画は展開され、様々な場面で何度も目にしたことがある有名な数々のシーンを、映画鑑賞として初めて観た。 分かりきった展開、見覚えのあるシーンの連続であるにも関わらず、映画そのものへの愛おしさに溢れる世界観と、クライマックスの高揚と感動に対して涙が滲んだ。  CG以前のクリエイティブによる異星人の造形は、文字通りに“魂”を吹き込んでいる。 決して生命を表現する物体としてリアリティがあるわけではないし、精巧なわけでもない。 それでも、少年と出逢い、心を通じ合わせる“E.T.”には、キャラクターとしての息吹があり、この映画のテーマをちゃんと成立させている。 今や、実際は存在しないものを映像世界の中で息づかせ、“登場人物”として成り立たせることはあたり前のことであり、“人間”の造形すらCGやAIに取って代わろうかという時代だけれど、その映画史的な文脈の発端には、この映画が確実に存在するのだろう。  スティーヴン・スピルバーグの映画の中でも、特にファンタジー性に溢れ、どちらかというとウェットな映画世界に見える。子どもから大人まで楽しめるファミリームービーであることは間違いない。 けれど、少し俯瞰して作品を振り返ると、やはりそこにはスピルバーグ監督ならではの少しドライな“視点”も含まれていたように感じる。  特に印象的だったのは、作中での“大人”の描かれ方だ。 本作では、終盤に至るまで、主人公の母親以外の“大人”は「表情」が映し出されない。迷い込んだ異星人の足跡を追う者たちや、学校の教師など、確実に意図的にその顔を映すこと無く描かれている。 それは、子どもたちの視点から見た大人たちに対する不穏さや、ある種の恐ろしさを表現すると同時に、子どもたちも、大人や社会に対して理解せず、狭い世界観の中で生きているということを表していたように思える。  表情を隠された大人たちの言動は、一方的で横暴なように映っていた。しかし、終盤に入り、彼らの表情が見えてくると、当然ながら彼らもそれぞれの理念や信念を持って対応しているということが伝わってくる。 主人公をはじめとする子どもたちは、異星人との交流と同時に、大人たちの「表情」から伝わる葛藤や苦悩にも触れ、成長をしていく。それは本当の意味で、“未知なる世界”へと視界が広がったことへの証明だったのだろう。  子どもたちと大人たちの関係性を一方的で類型的な描写に留めず、客観的な視点によって描き出した様が、とても印象的だった。 それはまさに、先日鑑賞したばかりの「フェイブルマンズ」で描かれた、スピルバーグ本人が自身の家庭環境を俯瞰して捉える様に通じていたと思える。  ストーリー展開的には全体的に大雑把で、なぜそういう展開になったのかと疑問符が生じる場面も多々あったことは否めない。 ただそういう粗削りな側面も含めて、大巨匠が映画史における新たな時代を作り出そうとする黎明期の作品であることを感じさせた。  あ、あと主人公の妹役のドリュー・バリモアが天才少女すぎた。
[映画館(字幕)] 8点(2025-01-27 17:37:23)
10.  エイリアン:ロムルス
リドリー・スコット監督が生み出した「エイリアン」は、言わずもがなSFホラーの金字塔であり、いまなお世界中の映画ファンやクリエイターを虜にし続ける傑作である。時代を越えて、映画表現そのものが刷新されていくほどに、その価値は高まり、映画史に深く刻みつけられている。  その稀代の人気シリーズの最新作は、御大リドリー・スコットが監督ではないものの、オリジナルの世界観と恐怖感をきちんと継承し、エンターテイメントとして上質で精度の高い作品に仕上がっていた。 
1979年の「エイリアン」と、ジェームズ・キャメロンが監督した「エイリアン2」の間の時間軸として描かれるストーリーと映像世界は、リドリー・スコットが生み出した美術デザインや空間デザインのエッセンスが色濃く反映されていた。敢えて粗い粒子感を持たせた映像美も、オリジナルのルックへの敬意が表れており、地続きの世界線であることを丁寧に表現していたと思う。  個人的には、リドリー・スコット自身が監督した“前日譚”である「プロメテウス」と「エイリアン:コヴェナント」のその後のストーリー展開を待ち望んでいたため、今回の最新作がまた別の時間軸であることにがっかりし、劇場鑑賞をスルーしてしまった。
だが、実際に本作を鑑賞してみると、そのストーリーテリングにおいて、「コヴェナント」や「プロメテウス」が紡ぎ出したストーリーの要素も少なからず盛り込まれており、本作が決して安易なリブートではなかったことに納得した。  「エイリアン:コヴェナント」では、新たな“創造主”になろうとするアンドロイドが、「生命」そのものに対する“レイプ”を犯す。その顛末は、「エイリアン」と冠されたSFシリーズの前日譚としてはあまりにも異質で、禍々しく、一部のファンにとっては大いなる失望を招いた。
しかし、それは「エイリアン」という映画が、実は生命そのものの抗いと、純粋な暴力、それに伴う圧倒的な恐怖を描き出した作品であったことを追求した結果だったようにも感じた。  この最新作においても、そのテーマを踏襲するかのように、異なる生命体による“レイプ”とその“産物”が、さらに禍々しく描き出される。
非常にショッキングでえげつないその展開は、またしても多くのシリーズファンを失望させたかもしれないが、「エイリアン」という映画世界が孕む「真意」に対して、相応しいストーリーテリングだったと思えた。  「生命」そのものが犯した“禁忌”を目の当たりにしながら、生き延びた新たなヒロインは、先の見えないあまりにも不確かな旅を続ける。その先に待ち受けるものは何か。かつて創造主が宇宙の星々に撒いた企みなのか、それとも創造主に憧れたアンドロイドが作り出した新たな世界なのか。
分岐し広がった「エイリアン」が織りなす宇宙観が、一つの場所へ収束していくような期待感と、まだ見ぬ恐怖感が同時に押し寄せてくるような新章に感嘆した。
[インターネット(字幕)] 8点(2025-01-27 08:32:49)(良:1票)
11.  MEG ザ・モンスターズ2
鑑賞から一週間以上経ってしまい、本作における細かいストーリーテリングについての記憶は薄れ始めている。ストーリー性の薄い、雑多な映画であることはまず断言したい。
しかし、だからと言って、本作に対して低評価のレッテルを貼るつもりは毛頭ない。なぜなら、どれだけ大雑把で馬鹿馬鹿しい映画であったとしても、本作がモンスター映画として、サメ映画として、そしてジェイソン・ステイサム映画として、真っ当に面白い映画であったことは間違いないからだ。  個人的に、昔からB級モンスター映画が大好きで、数多の同ジャンル映画を観てきた。
名作「トレマーズ」を筆頭に、「ザ・グリード」、「アナコンダ」、「ピラニア3D」など、伝説的なB級モンスター映画は数多い。 そして、その中でも最も人気の題材であり、それだけで一つのジャンルとして派生しているのが、“サメ映画”の系譜だろう。 1975年、スティーヴン・スピルバーグ監督の「JAWS/ジョーズ」以来、“サメ映画”はモンスター映画の代名詞となり、A級からZ級までおびただしい数の作品が生み出され続けている。
「JAWS/ジョーズ」は映画史的な価値が高い純粋な大傑作なので、サメ映画界におけるB級モンスター映画の筆頭はやはりレニー・ハーリン監督の「ディープ・ブルー」だろう。人類の叡智(?)が生み出した超巨大で知能の高いモンスター鮫と人間たちの攻防を描いたその設定とストーリーテリングは、B級モンスター映画史の一つの金字塔と言える。  そして、本作は、そのB級モンスター映画史、サメ映画史の連綿たる系譜にしっかりと降り立つ、大仰で馬鹿馬鹿しい“見事”な作品だった。
無論、前作の段階でもその映画史的な文脈はしっかりと受け継がれた作品ではあったけれど、作品内のテイストがもう一つアンバランスで踏み込めていない要素があり、手放しで興奮できなかった。 しかし、続編である本作は、前作のマイナス要素を完全に呑み込み、融合させ、オリジナリティへと昇華させてみせている。
すなわちその要素とは、本作の主演が“ジェイソン・ステイサム”であるということだ。“サメ映画”でありながら、同時に“ジェイソン・ステイサム映画”でもあることが、前作時点ではもう一歩うまく馴染んでいない印象があったが、本作においてはその2つが文字通り噛み合い、B級モンスター映画としての魅力が爆上がりしている。  普通、サメ映画の場合、絶対的弱者である人間たちがモンスターであるサメからどのように生き延び、もしくはどのように死んでいくかということを固唾をのんで見守るものだ。しかし、本作の場合はその様相が逆転する。
人間に襲いかかるモンスター鮫が、同様にモンスターであるジェイソン・ステイサムによってどのように撃退され、滅殺されるかをニヤニヤしながら堪能する映画となっている。 それは、モンスター映画としては反則的展開であるけれど、ジェイソン・ステイサムだからこそ許されるストーリーテリングだろう。  そんな反則的主人公を主軸においた登場人物たちのキャラクターも良い。
中国資本の映画なので、前作から中国人キャラが多い作品だが、本作では主人公らが所属する企業の社長キャラが印象的だった。早々に死亡フラグが立てられた惨殺要員かと思いきや、本人の台詞通りにしぶとく生き残り、最終的には主人公顔負けのヒーロー像を半ば強引に仕上げていく様がユニークだった。
また、90年代のハリウッド映画で育った者としては、前作に引き続きキャスティングされ、存在感を放つクリフ・カーティスの活躍も嬉しい。  続編として幾つかの違和感や不安定さを改善し、ある部分では強引の呑み込ませ、鑑賞者に許容させることに成功している。“サメ映画✗ジェイソン・ステイサム映画”の正しいアップデートだったと思える。  つらつらと駄文を綴ってしまったが、それくらいB級モンスター映画ファンの琴線を揺さぶる作品であったということ。評価点以上に満足度は高い。
[インターネット(字幕)] 7点(2025-01-22 22:27:44)
12.  ヘルドッグス
長らく韓国映画に後塵を拝していたバイオレンスアクションにおいて、負けずとも劣らない快作。
[インターネット(邦画)] 8点(2025-01-03 23:53:01)
13.  フェイブルマンズ
なぜ私は3年前に公開されたこの映画を、映画館で鑑賞せず、今の今まで放置してしまっていたのか。自分自身のことながら、まったくもって理解に苦しむ。 2025年2本目の鑑賞作品にして、最高得点、フェイバリットの上位に入り得る、私にとっては最高で最愛の映画作品だった。  --- 夢と狂気の世界に囚われたフェイブルマン家の人々 ---  暗闇を恐れて映画館に足を踏み入れることを嫌がっていた年端もいかない少年が、両親に連れられて観た「地上最大のショウ」に心を奪われることから、フェイブルマン一家の物語は始まる。それは「映画」という“夢と狂気の世界”への入口だったのだろう。 主人公の最たる理解者である母親から8mmフィルムカメラを渡され、彼は目に映るもの、そして頭の中に浮かんだイメージを、次々に写し撮り、「映画」を生み出していく。 イマジネーションと映画作りの才能に富んだ少年の眼差しは、明確な意志が満ち溢れていると同時に、ほとばしる才気が抑えきれないような危うさや、現実世界でも夢の中を浮遊しているような不安定さも感じ取れる。  そして、その眼差しは、本作の創造者であり、主人公の実像でもあるスティーヴン・スピルバーグのあの眼差しに重なり、入り交じるようだった。 世界最高の映画監督と言って無論過言ではないスティーヴン・スピルバーグが、そのキャリアの最終盤において描き出したこの半自伝的映画は、「映画」というものがもたらす奇跡と呪縛を等しく映し出した素晴らしい作品だった。 映画ファンのはしくれとして、そしてかつて映画製作を志した者の一人として、個人的な人生観にも染み渡る特別な作品だった。   --- スピルバーグだからこそ描き出せた映画製作にまつわる愛と憎しみ ---  あのとき、幼い少年に、映画の中で映し出されたスペクタクルを見せなければ、“衝突”に対する衝動は起こらず、彼はもっと平凡に生きられたかもしれない。 あのとき、彼に8mmフィルムカメラを渡さなければ、この家族は表面的には波風が立つことなく、離散せず、幸せに過ごし続けられたかもしれない。 あのとき、興行の世界に身を置く大叔父を家に入れなければ、彼は普通に進学し、就職し、父親同様にビジネスで成功したかもしれない。  「映画」に出会わなければ、主人公は平穏で安らかな幸せな人生を歩めたのかもしれない。 しかし、母親が強く発し、子どもたちにも復唱させたように、「すべての出来事には意味がある」。 母親が衝動的に追いかけた竜巻の道を阻まれたことにも、主人公が撮った家族フィルムに母親の浮気心が映り込んでいたことにも、ユダヤ人差別をする同級生たちにいじめを受けたことにも、その出来事自体には悲痛が伴っていたとしても、その先に意味は生まれ、それが人生の価値となる。  そういうことを、決して幸福とは言い切れない少年時代を通じて深く理解した主人公、もといスティーヴン・スピルバーグは、それを具現化して表現する手段として「映画」を撮り続けてきたのだと思う。  人生は上に昇るか、下に降るかの連続であり、ど真ん中の平坦な地平線に向き合うことは死ぬほどつまらない。 スティーヴン・スピルバーグは、これまでも、これからも、スクリーンに映し出される世界の地平線を上へ下へと大きくずらし、面白き映画世界を生み出し続ける。
[インターネット(字幕)] 10点(2025-01-03 23:51:09)
14.  男はつらいよ 純情篇
元日。今年の正月は諸々の理由から親族との新年会が控えめだったため、午後から映画を観始めた。
3年連続で新年一発目は“寅さん”でスタート。三が日特有の空気感と正月モードの思考状態に、「男はつらいよ」が織りなす人情喜劇は、時代を越え、この国の人々の心にぴたりと合う。  長崎の五島列島に渡っていた寅次郎が、ふと郷愁の念に駆られ、故郷浅草柴又に舞い戻る。毎度お決まりの展開ではあるが、寅さんの行方を心配しつつ、同時に彼の帰郷に戦々恐々とする“とらや”の面々の右往左往が面白い。 個人的には、渥美清演じる主人公以上に、森川信演じる“おいちゃん”や、三崎千恵子演じる“おばちゃん”、太宰久雄演じる“タコ社長”らの間の抜けた掛け合いが最高に愉快で、「ああ、今年もとらやに帰ってきたな」と、鑑賞作品6作目にして感じるようになった。  本作のメインストーリーでは、とある事情で“とらや”に下宿する美人人妻(若尾文子)に、例によって寅さんが一目惚れし、トラブルを巻き起こすという、これまたお決まりのパターン。
お決まりの展開自体は良いのだが、本作のマドンナに関わる描写は、少々おざなりだったように思う。売れない小説家の夫に辟易して家を飛び出し、結局何の解決も得られないまま、少々横柄な態度で迎えに来た夫に説得されて帰っていく様子は、仕方がないとはいえ前時代的で、溜飲が下がらない思いだった。 
それを見送る“さくら”の神妙な面持ちが表すように、「我を貫けない時代性」こそが、このエピソードが描き出したかったテーマなのかもしれない。しかし、それにしても描き方が類型的で面白みに欠けていた。
「妻は告白する」など、日本映画史を彩る大女優の一人である若尾文子がマドンナ役だっただけに、少し残念だった。  一方で、本作の人情物語要素を補い救っているのは、ある父娘によるオープニングとエピローグであろう。
子を抱えて家に戻ってきた家出娘を宮本信子が演じ、漁村で宿を営む年老いた父親を森繁久彌が演じている。
 数年ぶりに戻ってきた娘に対して、心の中では彼女の無事と生まれた孫の存在を愛おしく思いつつ、娘のこれからの人生を考え、あえて厳しく叱る父親の哀愁が印象的だった。
彼らのシークエンスがエピローグにも描き出され、本作が伝えたかったであろう人間関係や家族関係にまつわるテーマが、感動とともにしっかりと帰着している。
メインストーリーのマドンナ像が軽薄な印象だったため、むしろこの父娘のエピソードを主軸に描いたほうが良かったのではないかとさえ思えた。  ともあれ、2025年も寅さんと共に映画ライフがスタート。今年は、悲喜こもごものバラエティーに富んだラインナップを観ていこうと思う。
[インターネット(邦画)] 7点(2025-01-03 23:50:22)
15.  素晴らしき哉、人生!(1946)
12月はクリスマス映画を観ようキャンペーン第3弾。2024年最後の映画は、世界で最も愛されているクラシック映画を初鑑賞した。 こういう映画に対してあれこれ講釈を垂れるのも無粋だろう。タイトルが表す通り、「素晴らしい映画」この一言に尽きる。  フランク・キャプラ監督の作品を初めて観たが、モノクロームのフィルムの中で繰り広げられる決して色褪せることのない映画表現を心から堪能することが出来た。 冒頭の画面を止めた表現で始まるモノローグシーンや、各シーンのシームレスな場面転換など、古い映画にありがちなテンポの悪さをまったく感じなかった。 また、登場人物たちの言動や台詞回しも、前時代的な違和感がなく、軽妙でフレッシュだった。善人も悪人も含めて、魅力的な人物描写こそが、本作を映画史に残る名作たらしめた最大の要因だろう。  ストーリーテリングの妙技もまた素晴らしい。 “天使たちが自殺しそうな主人公を救う”という物語の結末を敢えて最初から示しつつ、主人公の生い立ちと人生模様を丁寧に描き連ねていく展開が意外だった。 鑑賞前にあらすじを読んだ限りでは、人生に絶望した主人公の前に、彼を救うため天使が現れるところから物語が展開するのかと思いきや、重要キャラである“二級天使”はなんと映画の最終盤まで登場しない。  「自分なんて生まれてこなければ良かった」と絶望する主人公に対して、彼が生まれなかった世界の悲惨さを見せつけることで生きる意味を見出させる、というのがこの物語の“アイデア”だ。 しかし、この映画の作り手は、その“あり得なかった世界”を劇的に見せるのではなく、主人公自身が一つひとつ積み重ねた「普通の人生」こそを丁寧に描き、観客に見せることに重点を置いた。そうすることで、映画のクライマックスに至る頃には、観客は既に主人公の人生が意義深く、光に満ち溢れたものであることを、二級天使と同様に深く理解した状態で、最初から認識していたハッピーエンドを心から納得して迎えられることが出来る。  かつて夢見た将来像を実現できなかったとしても、広い世界に出ることなく小さな街の中で人生を終えたとしても、そこにはその人生にしか成し得なかった意味があり、何にも代え難い価値が存在している――このことを雄弁に物語るストーリー構成に感嘆した。   自分自身、人生はまだ半ばではあるが、ジェームズ・スチュアート演じる主人公同様、「あんなこともできたんじゃないか」「もっと違う人生もあったんじゃないか」と思うことはままある。ただ、それと同時に、もし異なる人生を送っていたとしたら、「今」のささやかな幸福を彩る家族や友人たちは存在していなかったかもしれない――そんな恐怖も明確に感じる。  誰しも生きていれば、嫌なこと、辛いこと、苦しいことは尽きない。それでも、その次の瞬間まで生き続ければ、自分の人生にずっと存在していた光に気づく瞬間が訪れるかもしれない。それは、時代や生活環境、人生観に関わらず、すべての人間にとって普遍的な価値観だろう。  この80年近く前の映画がいくつもの時代を超えて、アメリカ本国はもちろん、世界中で愛されている理由がよく分かる。映画世界の顛末に、純粋に涙が溢れた。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-12-29 08:32:56)
16.  ナポレオン:ディレクターズ・カット
年末の日曜深夜に158分の劇場公開版を観終えて、床に就いた。 翌日の月曜日は有休を取っていて、年末の大掃除やら、買い物やらと、頭の中のToDoリストは数日前からひしめいていたのだけれど、そこに新たな“やるコト”が急遽飛び込んできた。 そう、「『ナポレオン』のディレクターズ・カットを観るコト」だ。 午前中、最低限の大掃除をこなしながらも逡巡した。何せこのディレクターズ・カット版の尺は「206分」である。年末のこの気忙しいタイミングで、3時間半近くの時間を割くことにはさすがに躊躇したけれど、結果的に言うと大正解だった。 (現状Apple TV+のみでしか観られないことを踏まえると、本作を観ずに試用期間を終了していたとしたらと思うとちょっとゾッとした。)  前置きが長くなってしまったが、結論としては、本作こそが御大リドリー・スコットが描き出したかった「ナポレオン」映画であったことは間違いない。まあ“ディレクターズ・カット”なんだから当然なのだが。 前夜に劇場公開版を観終えた時点で僅かに感じていたことではあったが、このディレクターズ・カットを観た後では、劇場公開版は158分のボリュームにも関わらず、要点を押さえた“総集編”に見えてくる。 あまりにも重要すぎる幾つものシーンによって、このディレクターズ・カットは、より立体的に、よりドラマティックに、ナポレオンという偉人の異様な人間模様を表現し尽くしていた。  タイトルは、「ナポレオンとジョセフィーヌ」にすべき  このディレクターズ・カットにおいて最も重要なポイントは、本作の第二の主人公とも言える、ナポレオンの妻・ジョセフィーヌの人生と人間描写がより明確に映し出されていることだろう。 劇場公開版では、ジョセフィーヌは“ある状況”から既に解放された状態で登場し、ナポレオンと出会う。しかし、本作ではその前段となる彼女が置かれた悲痛な境遇と、そこから連なる“思惑”がしっかりと描き出されていた。  正直言って、このジョセフィーヌにまつわる数々のシーンが有ると無いとでは、彼女のキャラクター自体に対する印象はもちろん、映画作品全体の印象が全く異なってくる。 彼女の歩んだ人生と人生観がより克明に描き出されることで、この映画が映し出す時代背景もより明確になり、何よりもナポレオンが彼女を愛し、心酔した理由がより強く伝わってきた。  ナポレオンを演じるホアキン・フェニックスは言うまでもなく圧倒的な存在感で、歴史上最も有名な偉人の一人の演じきっている。 そしてその主人公像に勝るとも劣らない存在感で本作を“支配”するジョセフィーヌを演じたヴァネッサ・カービーが素晴らしかった。彼女のときに高圧的な視線、艶めかしい肢体、崇高なプライドに溢れたその佇まいは、ナポレオンのみならず本作の鑑賞者すべてを魅了している。   そしてその男は、遠い彼方の地で、一人彼女を想い続ける。  やはり、リドリー・スコットが本作で本当に描き出したかったことは、ナポレオンの英雄譚でもなければ、支配者像でもなく、とんでもない大人物ではありながらも、滑稽で愚かで人間臭い一人の男のあり様だったのだと思える。 一人の女性を愛し、支配しようと懸命になり、依存し、また依存され、別れ、遠い彼方の地で一人孤独に彼女を想い続ける男の一生。 それこそが、現役最強の大巨匠が創造したナポレオン像だった。
[インターネット(字幕)] 10点(2024-12-29 08:31:33)
17.  レッド・ワン
今年の12月は“クリスマス映画”をしっかり観ようキャンペーン第2弾。 先週末鑑賞した「バイオレント・ナイト」に続き、今宵のクリスマス映画も、強烈なサンタクロースが登場した。 本作の場合は、人知れず実在していて、正真正銘の唯一無二の存在であるサンタクロースが誘拐されてしまい、我らがザ・ロックとキャプテン・アメリカが共闘を組んで挑む救出劇。クリスマスシーズン向けのファミリー向け娯楽ムービーとして、申し分なく面白かった。  30年前だったら主人公役はアーノルド・シュワルツェネッガーが演じていたのだろうなと思いつつ、主演ドウェイン・ジョンソンのアクションスターぶりがまずもってエンターテイメント性に溢れ、安定している。 そのバディとなるのが、最近マーベル映画復帰も発表されたクリス・エヴァンス。キャプテン・アメリカ役の聖人君子像からの反動か、「エンドゲーム」以降の出演作は、意図的に“汚れ役”ばかりを演じているようにも思うが、元来この俳優はそういう役柄が合っているように思う。本作でも、“悪い子リスト”掲載必至の賞金稼ぎ+父親役を好演している。  サンタクロースの存在が、実は国際的な「機密事項」であり、彼とその“仕事”=“クリスマス”を徹底的に守る秘密機関と各国の協力体制があるという設定がユニーク。 米国大統領ばりに大勢のSPに守られ、戦闘機のエスコート付きで各国を飛び立てば、専用機(巨大なトナカイたち)の速度は超音速を凌駕する。 世界一有名な伝説のキャラクターを軸にした大空想が問答無用に楽しい。  主人公は、“ボス”であるサンタクロースを尊敬、崇拝し、彼を守る自らの職務に誇りを持ちながらも、プレゼントを送り届ける対象である人間自体に絶望している。そんな彼がこの救出劇を通じて、人間の性善説を再確認していくというストーリーテリングは、ベタで王道的だけれど、それがクリスマスらしく、率直に良いと思えた。  注文をつけるとするならば、サンタクロースの存在とその組織(国?)の功績を、世界中の国家機関が機密事項として認識しているという設定なのだから、もう少し“世界各国のクリスマス描写”があると良かったなと思う。 言語も歴史も宗教観も気候も季節も異なる中で、それぞれの国で異なるクリスマス文化があり、それでも共通して愛されるサンタクロースという絶対的な存在が、世界を一体にする。そういう描写があれば、本作の帰着である「性善説」にもっと説得力と、意義が備わったのではないかなとは思う。  今この瞬間も、世界のあちこちでは争乱が収まらず、子どもたちは泣き続けている。そのことを暗に言及し、“クリスマス”という行事の価値を高められることができていれば、本作はファミリームービーをの枠を超えた究極のクリスマスムービーにもなり得たと思える。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-12-26 22:36:49)
18.  フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン
スカーレット・ヨハンソンの60年代コスチュームが美麗。もっとくだけたコメディかと思いきや、アポロ11号の発射シーンなど、映像的にもしっかりと作り込まれており、映画の作り自体がとてもリッチだった。フェイクニュースに対する見極めを、個々人に求められる今だからこそ、今なお陰謀論が根強く残る月面着陸の捏造を題材にした本作のテーマは、社会の本質をついているとも思えた。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-12-22 16:26:28)
19.  ナポレオン(2023)
私が「ナポレオン」について知っていたことといえば、小学生の頃に学校の図書室で読んだ学研まんがの伝記シリーズに描かれていた通り一遍の生涯と、ナポレオンを「英雄」として推していたベートーベンが、彼が皇帝になったことに失望し激怒したという逸話くらいだった。 
本作を観終えてまず思ったことは、「ナポレオンってやっぱりとんでもない人間だったのだな」ということ。そして、「世界史(ヨーロッパ史)ってえげつなくて、残酷で、なんて面白いんだ」ということだった。  御大リドリー・スコットが、相変わらず年齢的な限界をまるで感じさせない熱量で描き出すこの映画は、重厚な歴史モノでありながら少しも鈍重ではなく、あらゆるタイプの映画作品を創り上げてきた巨匠ならではの軽快さや軽妙さも備えていた。ナポレオンという偉人の特異な“人間味”に溢れた、濃厚でエキサイティングなドラマであった。
映画史の文脈における、エネルギッシュとフレッシュの最高到達点を齢87歳にして更新し続ける現役最強巨匠のクリエイターとしてのパワーには、驚嘆を越えてただただ感嘆する。  本作はナポレオンの伝記映画ではあるが、必ずしもこの大人物の英雄伝や支配者としての功罪を歴史になぞって描き出した映画ではない。
そこには映画的なフィクションやサービスが多分に盛り込まれており、この作品単体を観てナポレオンの人物像を決定づけるべきではないし、リドリー・スコットもそんなことを求めているわけではない。  ただし、ナポレオンがあまりにも“普通じゃない”人間であることは明らかであり、それは歴史が語る事実としても証明されている。
この映画は、その普通じゃない人物のただならぬ半生を、卓越しつつも野心的な映画表現によってこれでもかとキャンバスに塗りたくるように描き出した、まあ控えめに言って傑作だと思う。  正直に言えば、この映画世界のボリューム感に対して、158分という尺はあまりにも短すぎた。
前述の通り重厚なドラマを全編通して感じつつも、やはり濃密すぎる彼の人生の“総集編”を観ているような感覚をどこかで否定できなかった。  年末の週末深夜に本作を観終え、寝床に潜り込んだ私は、翌日の何かと忙しい休日を犠牲にしてでも、3時間半の“ディレクターズ・カット”を観るか否か逡巡しながら眠りに落ちた。  つづく。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-12-16 00:38:42)
20.  バイオレント・ナイト
12月、今年は“クリスマス映画”をしっかり観ようと思い、まずは昨年末からキープしていた本作を満を持して鑑賞。 アメリカの伝統的なクリスマス文化を踏襲し、ブラックジョークとバイオレンスに満ち溢れた映画世界は、世界中のボンクラ映画ファンに愛されるに違いない。  「ダイ・ハード」+「ホーム・アローン」+「バッド・サンタ」  1980年代生まれの映画ファンにとっては、特にツボにハマる要素が連発される映画だった。 ストーリー展開としては、ほぼ「ダイ・ハード」の主人公ジョン・マクレーンをサンタクロースに置き換えたと言っていい。とある大富豪の豪邸で“仕事”に取り掛かろうとしていた酔いどれサンタが、武装集団による急襲に巻き込まれる。  ユニークだったのは、主人公は正真正銘のサンタクロースではあるものの、それほど超人的な身体能力を持ち合わせているわけでもなく(1000年前は戦士だったらしいが)、割と血みどろになりながら戦う一連のアクションシーン。 その様子は、まさに「ダイ・ハード」でブルース・ウィリスが演じたジョン・マクレーンそのもの。未対面のバディとの無線でのやり取りなど、同作を多分に意識したオマージュも愉快だった。  様々なクリスマスデコレーションをはじめとして、たまたま手に取ったあらゆるものを武器にして、“悪い子”たちを血祭りに上げていくサンタの活躍が痛快である。(その咥えたキャンディーまで凶器にしてぶっ刺すなんて、遠慮がなくてとても良い)  主演のデヴィッド・ハーバーも、ベストキャスティングで、粗雑&粗暴だけれど魅力的で格好いい“バッド・サンタ”を喜々として演じていた。悪オジキャラ俳優の代表格として近年出演作が目白押しだが、本作を見て愛される理由がよく分かった。  子どものキャラクターによる「ホーム・アローン」展開もしっかりとバイオレントに描き切り、タイトルに相応しい“一夜”を過ごさせてくれるこの映画は、まさに最強(最狂)のクリスマス映画であろう。  そのくせ最後にはしっかりとハートウォーミングに帰着させる、想像以上に隙のない作品だった。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-12-15 07:54:36)(良:1票)
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