1. しあわせの隠れ場所
《ネタバレ》 サンドラ・ブロックがオスカーに値するほどの演技かは甚だ疑問が残る。しかし、同年の他候補を見れば、消去法で彼女になったのかな、というのが率直な感想。常連、イギリス人、一発屋が相手だったのだから。 そんなことより! この「あまりにもアメリカ的」「典型的なまでにアメリカ」な要素と描写がこれでもかと詰まってることに「なんだかなぁ~」とのため息が先に来る。 保守本流のリッチな白人、街の向こうにある退廃した黒人文化。案の定の対立と不安がそこに乗っかり、されどリッチな白人はそんな差別も偏見もモノともせず突き進むスーパーウーマン。「あっぱれ母さん!お見事です!」互いは次第に溶解し、「嗚呼、人間ってなんて素晴らしいのでしょう。博愛主義万歳!キリスト教最高!」でチャンチャン♪ ベタはベタでその醍醐味や面白味はあるものだから一概に否定はしないけど、この映画はあまりにも、あまりにもであるし、もしかしたら「"やっぱりアメリカ人ってバ○なんだ"と、再確認させるのが裏の意図なのか?」とさえ勘ぐりたくなる。 美しいストーリーだと思いますよ。でもそこから何も学ばない、似たような美談は何十年も前からあるけれど、その頃から何一つ変わらないかの国。人口が多すぎるせいなのだろうか?アメリカ嫌い付ける薬ではなく、アメリカ嫌いにさせる薬のようであった。 [地上波(字幕)] 3点(2013-09-28 13:39:11) |
2. タロットカード殺人事件
《ネタバレ》 いわゆる「時間潰しにもってこい!」系の作品。細かく見ていけば、アレンにしては珍しく雑な展開を見せる箇所がある。また、オチに使われた元ネタ(英米での通行車線の違い)も昔からしばしばジョークのネタとして用いられてきたもので目新しくはない。Upper classの英国人への描写も正直ベタが過ぎて現実的ではない・・・ とまあ、難クセをつけようと思えばいくらでもつけらるが、あくまでも気軽に見る作品であって、論評し、考察する映画ではないので、これはこれでいいのだと思う。アレンの“New Muse”スカーレット・ジョハンスンとのコンビも磨きが掛かってきたようだ。 [DVD(字幕)] 5点(2009-05-10 22:35:24) |
3. リトル・ヴォイス
《ネタバレ》 北イングランド、労働者階級、貧困、怠惰、自暴自棄、かりそめの夢・・・イギリス北部が舞台の時にはお馴染みといえる、非常にイギリス的というより、まさに「イギリスの浪花節」をストレートで行く作品。ハリウッド・エンディング希望の、アメリカ映画好きの人には同じ北イングランドが舞台でも「リトル・ダンサー」の方に一票だろうが、「切なさ」「人生の苦々しさ」という点ではこちらに軍配が上がる。なるほど脚本の粗さ(父親の幻影が現れる理由、LVが声を突然に発するシーンの動機付けなど)や、全体に流れる「安っぽさ」はある。しかし、本作の根底にあるのは、まさしく「人生とは、本来惨めで悲嘆に暮れるもの」というイギリス人的現実主義そのものだ。その好悪と評価は、視聴者がこの人生訓を映画として見せられてどう思うか?で変わってくるだろう。「苦しいからこそ、せめて映画の世界では100%楽しいものを」という人も多いだろうが、日本人にはこういう「大部分を占める苦味と、わずかな希望」が好きな人は多いと思う。 さて、主演のジェーン・ホロックスだが、彼女はイギリス国内ではよく知られた存在。飛び抜けた美人でもなければ、抜群のスタイルの持ち主でもないが、TVの超人気コメディドラマで出色のパフォーマンスを見せたり、はたまたシリアスな政治ドラマや舞台での経験も豊富な女優である。本作も元は彼女が主演し、好評価を得ていた舞台作品の映画化である。また歌手としてアルバムも出しており、その芸域の広さはかなりのものだ。もっと世界的に知られて当然の人だと思うのだが、本人はハリウッドなど世界的な場での活躍を望まず、家族との生活を大事にしながらロンドンを中心に、静かに、しかし確実な足跡を残している。派手さはないが、実力に裏打ちされた非常に魅力的な女優である。 [DVD(字幕)] 7点(2008-11-25 02:02:07) |
4. トスカーナの休日
《ネタバレ》 「これ、当のイタリア人が見たらどう思うのだろう?」というのが最後まで頭の中に付いて回った。「イタリアと言えば?」→ 女好きのイタリア男たち、フェリーニ、生の謳歌、東欧人への偏見・・・あまりにも典型的な「いかにもイタリア」な描写の数々を前に「やっぱりアメリカ人って世界を知らないんだなあ」と思わずにはいられなかった。それはちょうど彼らが描く「SAMURAI」に違和感を持つ日本人と同じようなもの。原作は未読だが、「イタリア及びイタリア人はこうであって欲しい」というアメリカ人の願望だけで作られたようは話でガッカリ。息を飲むような絶景、燦々と降り注ぐ太陽、色鮮やかな食材と陽気な人たち。それだけで取り繕うにも、そうは問屋が卸してはくれないないでしょう?。離婚し、傷心の女性が異国の地でいくつかの喜怒哀楽を繰り返しながら、生きる意味を見直し、自分もまた成長していくという流れもこれまで何度となく繰り返されてきたテーマで陳腐。陳腐なテーマと典型的かつベタな描写の数々。その先に出てきてのは、ただただため息。 [DVD(字幕)] 3点(2008-11-03 01:43:22) |
5. マイ・フェア・レディ
みなさん指摘のように「尺が長い」。いくら名作と言えども、やはり限度というのがある。 さて、その「名作」の誉れ高い本作は観る側が「英語という言語(特にイギリス英語)にどれだけ精通しているか?」によってかなり評価は分かれてくるように思う。単に字幕でストーリーを追うだけではこの映画の本当の良さは伝わらない。字幕、すなわち日本語になってしまうことでセリフの面白さが半減されてしまのうは「外国人」には仕方ないことだが、残念だ。 英語はもとより、フランス語圏などでも「どういうアクセントで話すか」「相手のアクセントはどうか?」など、言語、発音に対するこだわりは、日本人の想像を遥かに超えるものがある。かのサッチャー元首相ですら、御国訛りを矯正するのに苦労したと聞く。イライザのヒドいコックニー訛りとインフォーマルな表現など、言外の意味が会話にいちいち含まれていて、それがこの映画の裏の醍醐味。競馬場での一連の会話は、あまりに典型的な上流階級的英語と、イライザが羅列する知性に欠ける単語の数々との対比に面白さが詰まってる。ラストシーンのイライザのセリフ、「 I washed my face and "ands" before I come I did」は知性はゼロだが、美しい。 このときオードリーは確か30歳を越えていたと思われる。なるほどイライザの設定年齢とには違和感を感じる。特にドレスアップしてレディとなった時は顕著だ。それでもやはり愛くるしい仕草や表情は健在。可愛らしい表情を作って可愛らしく見せることは誰でもできる。しかしオードリーは、いっけん可愛くない表情ですら可愛く見せてしまう。まさに「魅せる」という字がふさわしい、本当の意味で「可愛い」女性だったのだろう。しかも単に愛くるしいだけでなく「品性」が常に伴っていたところに彼女が「永遠のプリンセス」であり続けた理由がある。 [DVD(字幕なし「原語」)] 7点(2008-09-09 23:16:11) |
6. ヴェロニカ・ゲリン
せっかくいい役者を揃えて、テーマも意義深いものなのに、淡白で雑な仕上がりとなっている印象を受けた。編集がヘタだったのか、脚本に深みがなかったのか理由はわからないが残念だ。彼女の生き様を伝えたかったのか、アイルランドの近代史ドキュメンタリーとして見せたかったのか、意図が中途半端。だが!さすがはケイト・ブランシェット。彼女が主演でなければ、この点数すら上げられなかっただろう。特にアイリッシュ英語特有のアクセント、方言を見事に自分のものとして消化していたのには驚く。それも「関東の人が話すインチキ関西弁」のような付け焼刃的な薄っぺらいものではなく、あくまでナチュラルに。おそるべし、オージー、ケイト・ブランシェット! [DVD(字幕)] 4点(2008-05-06 02:54:35)(良:1票) |
7. ヘアスプレー(2007)
《ネタバレ》 四の五の言わずに元気になりたいのなら、おススメの映画。カラフルで、リズミカルで、そしてキュートで。主役のニッキー・ブロンスキーの可愛さと、彼女の本作への愛情が溢れており、微笑が絶えない。授業中、居眠りをしてしまうシーンは特に可愛い。思わず口ずさみ、踊りだしたくなるナンバーの数々は、単純に言って素晴らしい。 舞台版にはないシーン、曲があったり、ラストシーンでミス・ヘアスプレーになるのが黒人の女の子というのも舞台とは違うオチだ。映画版へ移行するにあたって黒人への差別問題をこのあたりで配慮したのかな、とも思う。1962年の設定で今から40年以上も前のことだけど「未だこの問題に何ら進展のないアメリカって国はどうなの?」と、楽しい映画でありながら、その脇でちらりと思う。 「自分が正しいと思うことは、多少の障害があっても信念を持って貫き通せ!」、「現実は厳しいものだから、せめて映画の中だけでも楽しく、夢を見させて」という、いかにもアメリカ的な発想に満ちた作品だと思う。いじわる役を演じたミシェル・ファイファーが美しすぎて、意地悪なんだけど、愛らしいのも高得点だ。 [映画館(字幕)] 7点(2007-11-24 03:46:11) |
8. ラヴェンダーの咲く庭で
ひとことで言えば「老いらくの恋」という事なんだろうけど、それにしてもイギリスが誇る大女優2人の演技は見事。「これが演技。これぞプロ」という感じひしひし。恐れ入った。それぞれの心の機微、互いの微妙な距離感、そして立場上の違い、ズレを表情、声の抑揚、後ろ姿でこれほど上手に演じられる人はそうはいないだろう。 精神的に病んでいたり、身体的に不自由な役をして「上手だ」という印象を持たせるのは、簡単だけど、「静」や「穏」しかない中で「うまい!」と思わせるのは、そうとうな「腕」がいる。映画そのものより、2人のその「腕」に大拍手。 [DVD(字幕)] 5点(2007-06-19 01:23:28) |
9. 8人の女たち
ミステリーとミュージカルという新しいマッチングの縦糸に、大雪ゆえに孤立した豪華屋敷での、いくつもの秘密を持つ女たちの告白劇という古典的メロドラマの横糸。そこにお金、性、嘘、欲が組んず解れつ絡み合う。発想は悪くないと思う。しかしながら、まとまりのないまま、いたずらに新旧の「型」を詰め込みすぎたがゆえに、果たして何が「本線」なのかサッパリ分からなくなってしまった気がする。なるほど豪華女優陣の競演は確かに「華」がある。ドヌーヴは未だ「ザ・女優」臭プンプンであるし、ベアールの放つ色香は艶やかで艶かしい。けれど・・・軸がない、芯がない、支柱がない。映像、色彩も悪くはないのに、その点がとても残念だ。これがフランス映画でなかったら、最後まで見られたかどうか疑わしい。フランス語特有の語感、音の響きで何とか耐えられたというのが正直な感想だ。 [DVD(字幕)] 4点(2006-07-30 01:45:32) |
10. メリー・ポピンズ
たとえば日本でも「泳げタイヤキ君」のように、表は子供向けだが、裏側は大人社会を皮肉ったり、現実を憂うダブル・ミーニング的なモノはある。既に他の方々が指摘されてるように、本作も裏の意味として大人社会のみならず、イギリスの階級制度を同時に皮肉ってる。それをオーストラリア生まれのトラヴァースが描いている点がまず面白い。加えて、日本のそうした作品群が、いたずらに悲観的だったり、斜に構えて世間を見渡すことだけに終始するのに比べて、原作者トラヴァースは、なんだかんだと嘆きつつも、最後の最後では「この世の善、人間の善性」を心のどこかで信じているように思う。それがメリーポピンズの、現実離れしているが、見る者を最後にハート・ウォーミングにさせる力となってる気がする。もちろん、歌やダンス、特撮技術は目を見張るものがあるし、それだけで普遍的な価値を持つ作品だが、実はそれだけではない、奥が深い、メッセージ性にも富んでいる。Spit Spot! [DVD(字幕)] 8点(2006-06-17 15:38:38) |
11. 穴(2001)
《ネタバレ》 いかにもな内容と展開で「それっぽい」気にさせられるが、実はそんなに大したことのない映画の典型。すべてが物足りない。プロット、映像、人物描写どれも未熟でありザツだ。ドンデン返しというほどのエンディングでもないし、この種の作品に付き物の不気味さ、不快さ、窮屈さも足りてない。彼女の殺害動機を「思春期特有の我」で括りたかったのなら、もっと丁寧な心理描写をする必要があった。見る者への恐怖心の煽り方も稚拙。ある意味、本作の完成度こそ皮肉にも思春期的で中途半端だ。ただ単に「すごーく不愉快な女」を見させられてただけ。鬱屈さがない。慰めがあるとするなら、今をときめくキーラ・ナイトレイの初々しさが垣間見れたことだけだ。 [DVD(字幕)] 3点(2006-06-06 00:56:28)(良:1票) |
12. プロデューサーズ(2005)
トニー賞史上、歴代最多受賞数を記録した、ブロードウェイはもちろん、ウェストエンドでもスマッシュヒットを今も続ける作品の映画版。映像的に映画ならではの違いはあるが、内容は舞台版とセリフも含めてほぼ一緒。よくできている。ウマ・サーマンとウィル・フェレルを除けば、メインキャラクターは皆ブロードウェイのオリジナル・キャストだけあって共演者同士の息もピッタリ。基本的にはスラップスティックだが、世界史、ショウビズ、あるいはゲイに対する皮肉も効いていて、ただの「おバカ・コメディ」ではない。ある程度の知識がなきゃ笑えない作りになってる。また、ミュージカルである以上歌は絶対的な重要性を持つが、その歌詞も実にうまくできている。単純に韻を踏むだけでなく、英語ならではのダブルミーニングを多用した同音異義語の数々で、すこぶるうまい。残念な点を挙げるとすれば、ウマ・サーマンのダンスがお粗末だったこと(お母さんがスウェーデン人だから適正ではあったけれど)。舞台版では歌われるキーになる曲が一曲削除されてしまったこと。もうひとつは、本作最大の皮肉といえるセリフが、同じく舞台版とは違い消えてしまったこと。自主規制か、どこぞの団体からのクレームを恐れてかは知らないけれど、ちょっと残念。でも完成度は高い。 [DVD(字幕)] 8点(2006-05-29 21:26:48) |
13. マッチポイント
《ネタバレ》 ひと言で片付けるなら、現代版「重罪と軽罪」といった感じ。おおよそのストーリーはほぼ一緒。ただ「重罪と軽罪」が「人生の不公平さ」「諦めと無常観」を描いたのに対し、本作は“運”ということを強調していて、それをテニスにおける「Luck」と掛けて人生を描いている。タイトルの由来は安易だが、うまくまとまってはいる。最後のオチは「ほう、そっちを使ったか」と、まずまずの出来。また、「あのウディ・アレンがロンドンで撮った!」ということで話題になったが、それほどロンドンっぽさが出ているわけではない。さしものアレンもNYほどロンドンを知らないのは当然といったところか。いつものように配役、キャスティングはさすがにうまい。どの俳優もその役とまったく違和感なし。関係ないが、本作におけるスカーレット・ヨハンソンは確かに艶かしく、魅力的でエロティック。ときおり「瀬戸朝香にそっくり!」と思ったのが意外な発見だった。 [映画館(字幕)] 6点(2006-05-19 05:45:59) |
14. あの頃ペニー・レインと
はっきり言ってアイデアも二番煎じなら、人物設定も焼き直し、リライトで新鮮味はまったくない。けれど、古き良きアメリカ、今ではまるでお目にかかることのない「アメリカの良心」が全体から感じられ悪くない。こうなるであろう展開、こうなるでろうキャラクターの心模様が裏切りも驚きもなく映し出されている。同時代を生きた人は回顧を、そうでない人は想像をする「あの頃のアメリカ」とはきっとこうだったのだろう。郷愁と、ほんの少しの切なさを誘う「遠い日の少年」のみずみずしい物語。いかにもキャメロン・クロウがメガホンを握った作品だ。ペニー・レイン・・・いい響きである。 [DVD(字幕)] 5点(2005-10-01 03:16:20) |
15. さよなら、さよならハリウッド
《ネタバレ》 その経歴ゆえ、その知性ゆえ、そのスタンスゆえ。「もっと別の意味があるのではないか?」観る者の深読みを誘うトクな映画作家。それがウディ・アレンである。ベタベタなスラップスティックであっても、甘っちょろい男女の恋物語であっても「もっと複雑で重層的な意図が・・」と意味を訪ねる観客は数知れない。どこまで計算しているかは本人のみぞ知るところだが、誠実な作りをしていることだけは確か。誠実は「自信」と言い換えてもいい。 酔ってホテルに戻ったエリーとハルがスクリーンから唐突に消える。画面に映るは殺風景な部屋の片隅と2人の声だけ。今、こんなシーンを堂々と見せることのできる監督は彼を置いていない。西海岸の気候や文化を茶化すのも、作品に自身を投影し、道化に徹するのも自信あればこそ。自分を最も支持してくれる国を賛美しつつ、しかし一方ではピンぼけでカメラアングルもままならない作品を「芸術だ」と評するフランスの行き過ぎた形而上路線をからかってみせる。そしてエリーとのあまりにも安直な恋物語を見せることで、本作をも皮肉の俎上へと載せてしまうというこの度量。これを送るアレンもアレンなら、受けたカンヌも大したもの。 アメリカに愛想を尽かし、おいそれとパリへ旅立つヴァルとエリーを囲むのは、彼が愛してやまないNYのこの上ない絶景。皮肉と揶揄、そして矛盾。「アニーホール」以来、手を変え品を変え、アレンが追ってきたのは人間こその不条理だ。だからウディアレンは今日も映画を作る。一義的にこのドタバタコメディに笑い転げるもよし、何かの比喩や暗示があると勘ぐりを入れるもよし。人の心を強く惹きつけるものは一色ではなく、相反するような複数の色を持つものだ。解釈する楽しさを教えてくれる当代一の名監督に大きな拍手を。好演したマーク・ライデルにも拍手。着古したラルフローレンに身を包んだアレンよろしく、いかにも人間的な滑稽さで観客を包む本作は、ちょっと古風だけれど、でも気分はすこぶるいい。 [映画館(字幕)] 8点(2005-05-11 15:04:59)(良:1票) |
16. アバウト・シュミット
評価するのが難しい作品。このどこにでもいそうな人の、どこにでもありそうな晩年を、多少の毒ッ気を放ちつつ、あまりにキレイ事すぎるオチを持ってくることで「さぁ、感じろ!」という訴えを感じることは確かにできる。素直に受け取れば、実にキリスト教的な人生訓だ。「けれど・・・」。最後までこの言葉がついて回った。ジャック・ニコルソンの主演でなければ、はたして最後まで鑑賞できたかと言えば甚だ疑問。それは見る側の年齢だとか経験の有無、世代的なことが起因ではないように思う。アメリカという国が持つ脂っこさ、アクの強さのひどく代表的な役者であるニコルソンが何一つ人生の楽しみを持たずに生きてしまった老いぼれを、多少のコミカルさを交えて演じるというのは、なるほど役者の実人生とシュミットの人生とを対比的に表現する上で効果的であるし、時の流れを映す上でシンボリックですらある。そこが製作者の意図ならば、まずは成功だ。けれど、その意図はあまりにも浅く陳腐で、脚本は拙いと言わざるをえない。鑑賞者は、少なくとも私には「鈍感かつ単純な発想」としか受け取れなかった。しかしながら、あえてそう描くことで「単純な現代アメリカ」を暗喩し、なおかつ皮肉っているのであれば、「お見事だ」と言い換えることはできる。さぁ、本作の真の意図はどっちだ? [DVD(字幕)] 5点(2005-05-03 03:12:00) |
17. デブラ・ウィンガーを探して
「ドキュメンタリー映画としてどうだったか?」と問われれば、編集その他諸々を考えると稚拙な出来。よって評価としては4点。ただし、個々の女優それぞれが発したホンネ(カメラの前である以上、どこまでホンネだったかはさておき)を聞けたのはなかなか面白かった。映画女優という特殊な職業に関係なく、すべての女性にとって、もしくは男性にとっても古典的かつ普遍的なテーマを主題としているが、男性の私から見て、説得力があったのは既に半引退状態の人か、非アメリカ人の意見だったことは興味深い。もしくはハリウッドではない、インディペンデントな映画、他国に活躍の場を持っているアメリカ籍の女優たちに、いち女性としての思慮の深さが感じられた。女性性、年齢、男性の存在だけではなく、アメリカという自分たちの国そのもの、社会観や文化に葛藤の、疑問の対象を向けたらさらに意義深い作品になったのではないだろうか。それにしてもメグ・ライアン。ニワトリ化にますます拍車が掛かってる。もう止められないのか? [ビデオ(字幕)] 4点(2005-04-11 01:41:23) |
18. アニー・ホール
世間的にはウディ・アレンの一番の出世作であり、代表作である、ということになっている。確かにグラミー賞の主要部分を総なめにし、かのチャップリンも絶賛。それまでドタバタ・ナンセンスコメディばかりを撮っていたアレンが初めて本格的な人間ドラマを描いたということで、マジメな映画関係者のお偉いさん方がやっと“見るに値する”ものとなった記念碑的作品でもある。既に幾人かの方々が指摘されているように、この作品は映像的な手法(分割カット、字幕の工夫、時系列が前後する編集など)だけに注目しても楽しめる。しかし、それだけではない別の様々な要素が含まれていて、たとえばアメリカ国内における東部と西部の地理的な対比、そこに住む人々の気質的なそれも上手に描けている。しばしばニューヨーカーはロスの能天気なキャラクターを今でもバカにしたりするが、この部分を本作では“嫌味ギリギリ”のところで描いている。この点に注目しても楽しめるはずだ。他にも時代色の強い言葉だったり、インテリが嬉々としそうな単語を羅列させたり(それを自慢ではなく皮肉の道具としているのはさすが!)、と複数の内容を盛り込んでいる。もちろんアメリカという国の予備知識や、いかにも映画的な見方をしなくとも、単なる男女の恋愛映画として見ても楽しむことができる。メインとなる2人の恋の行方を伝えつつ、サブ・コンテンツも無理なく同時に盛り込むという多面的かつ多角的な作りは、なるほど秀作と呼んでいい出来栄えであり、ウディ・アレンがただの映画作家ではないことを如実に物語っている。 8点(2004-10-20 00:23:50) |
19. 月の輝く夜に
その昔「クレイマー、クレイマー」でフレンチトーストというものを知った。そして本作ではパンの中央をくり抜き、そこで目玉焼きを作るという新しいパン料理を知った。イタリアではよくある朝食メニューなのだろうか?さて感想だが、「月の神秘性」にかこつけ、シェールとニコラス・ケイジの無理やりな恋の落ち方など、展開や人物描写における脚本の粗さは拭えない。そうはいっても、いかにも家族、親類の結びつきを大事にし、マザコン男が多い「イタリアな国民気質」が描かれていて、ベタではあるが、おもしろい面もある。やはり「人の生」を表現させたらこの国に勝る人種はいない。オスカー受賞のシェールは意図的に淡々と演じたのだろうか?えてして濃くなりすぎるイタリア的暑苦しさを、彼女がおさえたスタンスを維持することで作品温度のバランスが保てたような気がする。もしかしたら、それが現地人ではない、「移民であること」を暗喩させていたのだとしたら、たいしたものだ。 4点(2004-07-20 23:47:19)(良:1票) |
20. ボウリング・フォー・コロンバイン
《ネタバレ》 「自由」とは、どこまでも魅力的で、果てしなく尊いものであると思う。しかし、少しでもその意味を履き違えると、救いがたい状況を作り出してしまう。今、その悪例を端的に示しているのが、United States of America.大アメリカ帝国だ。もはやその誤った認識は、国内のみならず海を越え、山を越え、大陸を越えて世界中へと伝播させようとしている。ラストシーンでNRA会長のチャールトン・ヘストンが亡くなった6歳の少女の写真をしっかりと見つめ、ひと言、お悔やみの言葉を述べてくれたらと思ったが、やはり無理だった。それはそうだろう。彼の考える「自由」の恩恵が、あのビバリーヒルズの大豪邸であり、その引き換えとしてあるのが年間10000人を超す犠牲者たちだ。彼の冷酷なあの背中が「自由」を履き違えた今のアメリカを端的に物語っていた。ドキュメンタリー映画の評価基準をどう定めるのか、正直言ってよくわからない。題材なのか?編集方法なのか?それとも構成の仕方なのか?ライブ映像ではない以上、どうしたって不公平性は残るだろう。自身の意見に沿うよう都合よく編集を重ねたのかもしれない。しかし、本作が提起した事象は紛れもなく現実に起きた、あるいは今起きていることなのだ。アメリカだけに全責任を押し付けても始まらないが、その一端を背負ってるのもまた事実だ。「やらせだ!」「悪意がある!」「偏見だ!」と都合よく目を背けてきたツケと言い換えてもいい。マイケル・ムーアが正義の味方で、100%の善人だとは思わないけれど、それでもまだ彼のような存在があることが、そしてこのような作品にアカデミー賞という極めてポピュラリティある賞を与えたことが、アメリカに残された数少ない「救いの目」であると思う。社会を告発し、権力に物申す姿勢もまた「Free Country」の証明を意味するものだと思うから。 7点(2004-06-24 21:16:48)(良:1票) |