181. アンボンで何が裁かれたか
ジュネーブ条約ってのがそもそも変なものだと思うべきで、それは戦争ってものの「変」につながっている。将校は労役につかせてはいけない、なんて格差にこそ戦争の本質があるんじゃないか。『戦争にかける橋』も、けっこうそこにこだわってたし、欧米人にとっては日本の野蛮のポイントだったらしい。そしてそのしわ寄せが一般兵士に行っちゃう図式。自首してきたクリスチャンの好青年を裁かねばならなくなる不条理。ただ図式がきれいに浮かびすぎたきらいはありました。イケウチのふてぶてしさこそが、あちらの人が見る日本人の典型なんでしょう。やはり切腹は出ちゃいました。怨みつらみを述べずに従容と死についていく、あれも分かりやすい日本人の姿。うねりに欠けた作品だし、分かりやすく簡単に整理しすぎちゃった気もするが、理解しようとする姿勢は認めます。 [映画館(字幕)] 6点(2013-09-16 09:20:08) |
182. 眠狂四郎 殺法帖
いちおう抜け荷がらみの話なので、悪の側がひっそりと動くのは分かるが、それにしても厚みがない。悪いお殿さまと悪い商人・銭屋が剥き出しで存在して、それを取り巻くグラデーションが感じられない。ナンバー2なり、その手下どもなりのピラミッドが想像され得ない。玉緒さんはかつて縁があったんだから唐突に城内に現われるのも分かるけど、狂四郎も唐突に江戸藩邸内に出現する。手下は何をしているのだ。チームが存在しない若山富三郎も所在なげで、いちおう狂四郎と吊り合う一匹狼的存在のようだが、なら何をしたいのか・なんでそこにいて飛んだり跳ねたりしているのかが、よく分からない。二人ともけっきょくのところこの事態に対する態度がよく分からないので、最後に砂丘で向かい合っても盛り上がらない。砂地での争いって足跡が残るのでカメラマンが撮影するの面倒だと思うが、すぐに踏み荒らされていて誰の足跡か分からないようになっていた。けっきょくモヤモヤしたまま、崖っぷちに狂四郎が立てば、終わったんだな、とは思えるのであった。/今ほかの方のレビューを読んでたら、鱗歌さんが音楽が「春の祭典」に似てると指摘されていた。まったく同じ印象を持ったので嬉しかった。坊さん連中がぞろぞろ塀ぎわを歩くあたりだと思うが、『羅生門』の「ボレロ」より似ていて、盗用ギリギリの線。これから同曲を聴くと『ファンタジア』ではなく、坊さんの行列が出てきそうだ。 [CS・衛星(邦画)] 4点(2013-09-15 09:46:41)(良:1票) |
183. 好人好日
笠智衆が数学教授をやるの。数学教授は変人というステレオタイプがあり、やってることはまさにステレオタイプなんだけど、笠さんだといいんだよね。あの喋り方かな。ああいう喋り方を許してしまう状況、っていうか、映画の現場もよかったんだと思う。俗物の作り方もいいのかもしれない。三木のり平に勲章を盗まれて、神道ナントカ会の菅井一郎が「陛下から頂戴した勲章を盗まれるとは何事」といきまくあたり、俗物が対比されている。かつて『勲章』という風刺映画を作った監督の勲章へのこだわりもうかがえる。この菅井一郎って役者さん、どちらかというとこういうクサい芝居する人だと思うんだけど、なぜか小津の『麦秋』ではそれほど気にならないのが不思議。そういえば、笠はあれでは菅井のせがれだったんだ、そして本作には『秋刀魚の味』と同じ娘がいる。 [地上波(邦画)] 6点(2013-09-14 09:43:26) |
184. ざくろの色
私のノートには文章の合間にいろいろ図が描きこまれていて、言葉だけで記録をとるのが難しい映画だったのが分かる。階段の図に矢印が二つ(上っていくのと通過するのと)描きこまれてたり。壁画のタッチ、黒から白へ変わる、ということも何度も繰り返し書かれている。びしょ濡れの本、枠を持って歩く人たち、ろうそくの原に倒れている老いた主人公、なんてイメージが延々と綴られている。おそらく伝統に根ざしたイメージなんだろう。仕種や表情なんかもそうで、一人よがりになっていなかった。人形劇を見ている清潔感がある。やぎ、ロバ、鶏、羊、といった家畜の匂いも、頭だけでこしらえた宇宙じゃなくしている。もちろん伝統は格闘すべき対象であるべきなんだけど、差し迫った敵に対するときに団結する土台にもなるもので、グルジアの一般民衆がこの映画をどういうふうに受け止めたのか知りたい。黒いものが白くなっていくって、浄化のイメージでいいのかな。 [映画館(字幕)] 9点(2013-09-13 09:46:05) |
185. 二人で歩いた幾春秋
入学式のあたり木下節快調。金網越しに親子が並行移動する。この金網は学歴の差なんだろう。『二十四の瞳』では船に乗っている修学旅行の同級生と、奉公人となって働いている松っちゃんが並行移動し、『野菊の如き君なりき』では若坊ちゃんと奉公人がやはり並行移動する。一緒に進みたい者たちが、遠慮や気後れから離れて同じ方向へ進むとき、木下映画では泣けるんだ。本作では父と子がそれをやる。佐田啓二は木下に見いだされて『不死鳥』でデビューしており、二年後に亡くなる彼は木下作品ではこれが最後の主演だろうが、渋い境地を見せ始めていた(せがれの恋人が倍賞千恵子という年齢)。佐田・高峰の夫婦で若山彰の歌が入るという明らかな『喜びも悲しみも幾歳月』の二番煎じだが、五年おいて二番煎じやるってのもすごい自信だ(本作は道路工夫の話)。 [地上波(邦画)] 6点(2013-09-12 09:52:19) |
186. 薄桜記
《ネタバレ》 立ち回りってのは、立ってやるものだったが、これは寝てやるのがミソ。立って刀を構えて相手のスキを探して互いにグルグル回るから「立ち回り」なんだろうか。戸板に寝て、しかも右手がなく、片足も負傷している。素人の私にはスキだらけに見えるが、そこは雷蔵、強いのだ。刀を杖に体を起こそうとしているときなど、もう全身スキのようだが、敵は刀を構えてたじたじとするだけで、雷蔵が体を起こし終わってから斬られに突っ込んでくる。武士道である。倒れているときには、ワーッと叫んでただ雷蔵の上を跳び越したりしている。半分歌舞伎の立ち回りと思って見ればいいのか。ああいう様式とリアリズムの中間の不思議な世界であった。悲壮美ではある。敵方の一人が短筒で仕留めようとするのを止め、代わりに出ていった別の敵があっさり斬られちゃうのも武士道である。前半は、千春に襲い掛かる凶暴な「お犬さま」がやけに人懐こそうだったり、飛び掛かっているというより投げつけられてるようだったりなど、なかなかノレなかったが、右手を斬られるあたりから凄絶さを秘めた伝奇的な雰囲気が漂い出した。夕焼けの橋の上での立ち回りには、あとで五人の手負いの経過を思い出すところも含め、やはりリアリズムから遊離しかけた美しさがある。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2013-09-11 09:53:46) |
187. 生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言
カバーかけたまま走り出す車のイキのよさで乗せ、次第に原発に集中していく。原発ジプシーと呼ばれるワタリの労働者の問題。30年前の映画だ。今も現場で働く人たちがマスコミに登場してこない気味悪さが続いている(欧米だったら英雄視されるだろう事故始末をしている彼らが、日本では顔が映るとモザイクがかかったりする)。廃液漏れなんてまさに今直面してるわけだ。飲み屋でビール瓶をボーボー吹くので彼らの不安が伝わる。浜での宴会で、今まで出会った人の名前を並べ立てる声が、呪文のような効果を出す。あれは題名になっている党の党員名簿でもあるのか。なら政治的な映画かというと、原田芳雄が白いのかぶっていれば、宗教的な気配が漂う。天気雨ってのも宗教的だし。「弱いものは助け合うべきだが、その弱さゆえに仲間を裏切ってしまうこともある、でもその疚しさを持続させれば、いつか弱いもの同士の連帯が可能なのではないか」といったメッセージが浮かぶが、これは政治的なのか宗教的なのか。甘いと言われればそうだが、その切実さが迫ってくるので、つい「あふれる情熱、みなぎる若さ」と叫んでしまうのであった。 [映画館(邦画)] 8点(2013-09-10 10:00:18) |
188. サブウェイ
《ネタバレ》 地下鉄網は、フランス人にとってヴィクトル・ユゴーの時代の地下水道とつながっているようだ。さらにはナチに占拠されていた時代のレジスタンス運動とかも考えると、自由とか抵抗の足場として地下がごく自然にイメージされている。もう民族的イメージと言ってもいい。東京も勝手にどんどんいろんな地下鉄が掘り進められ、魔窟のように広がってこんがらがり、本作のような自由な隙間がどこかに生まれていそうな気分があって、けっこう地下鉄好き。初めての連絡通路を歩いていると、思わぬ場所に出てしまいそうな期待を感じることがある。そういう地下鉄ロマンってのはよく分かり、そこには納得した。ただ映画としては「洒落てるでしょ」感がちょっと鼻についた。死に至るロマンスってのが本当に好きな国だとは思うが、命を張った果てがロックバンドの演奏ってのは、かつての革命の歴史を思うといささか寂しい。今はそういう時代なんだと正直に認めているわけか。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2013-09-09 09:06:45) |
189. インド夜想曲
『マリエンバート』などの線、ヌーボーロマンって言うの? 何が真実か分からず途方に暮れるってのが芸術になる。各国語が交わされる。英仏独印ポルトガル。その迷宮感。舞台がインドで、行方不明になるにはうってつけの国だ。静けさが続いて主人公はぼそぼそとつぶやく。ゆっくりゆっくりネジを巻いていく緊張感。病院のゆっくり回る扇風機。山積みのカルテ。なんか『黒いオルフェ』にこんな雰囲気なかったっけ。バスの待合わせの占いのあたりから、ミステリアスな雰囲気が高まってくる。あなたはここにいない、というお告げ。そしてラストへ向けてだんだん「彼」の気配が濃くなっていくあたりが見どころと言えば見どころ。そして語りの中で彼と僕とが逆転し…。たしかにこういう物語の枠組みの中で、ある種の洗練を続けた作品ではありましょう。でもこういう世界に対する切実さがこっちにあんまりないもんだから、こういう「上品な洗練」をもっとナマのインドとぶつけたほうが面白いんじゃないか、と思ってしまうほうの人間なんで、やや猫に小判。ナマのインドから逃げて小さな世界に閉じてしまったもったいなさのほうが来てしまう。ちょっと面白かった発見は、インドって中世ヨーロッパが残ってるってことか。シューベルトの五重奏がいい感じなのは、やっぱり下地はヨーロッパなんだよな。 [映画館(字幕)] 6点(2013-09-08 09:34:37) |
190. レナードの朝
《ネタバレ》 せりふを使わないで発病の経過を示していく導入がすこぶるいい。ベンチに名前をナイフで彫りかけて手がしびれる。いつも成績がAかBのレナード君のテストの採点をしている先生がノートを調べると、単語の端がズーッと流れてる。ここらへん怖い。友だちが遊びに誘いに来たのに、帰さなければならない雪の日。視点は医者に移り、バイキンの本見ながら食事をする学者肌。治療が始まる。ボールによる訓練、音楽療法。床の模様替えをして、ルーシーが歩き続けるとこ。水飲み場へ行くのかと思っていると、その脇の窓辺に立つの、ニクい。で新薬の投与による目覚め。悲喜こもごも。熱帯植物園で退屈してるあたりのユーモア感覚。やがて「アルジャーノンに花束を」的な展開になり、ドアの外の自由から遮断される。痙攣が始まると歯を磨くときに便利、なんてユーモア入れちゃうのも凄い。娘が食堂でダンスしてくれるのに泣けるが、彼女がバスに乗るまで窓から見送るのも涙。そう、これは窓の映画ね。R・ウィリアムスはいつもの通り邪気のない善意の人で、困った人でもある。映画も彼を勇気のある立派な人とのみは捉えてなく、でも大量投与で少なくとも一時的な目覚めを与えることは出来たわけで、医療と言うものの難しさを思う。人と人との間にある距離のはるかさ、それだけに人と人とが出会えることの奇跡的な美しさ。 [映画館(字幕)] 8点(2013-09-07 09:55:22)(良:1票) |
191. 愛がこわれるとき
《ネタバレ》 だんだんと旦那がパラノイアと分かってくるあたりがいい。いかにも楽しげな新婚生活。服の汚れを謝るのも微笑ましい。と思っていると、タオルの掛け方から缶詰の向きとか、潔癖の過剰さが露わになってくる。嫉妬狂を扱ったブニュエルの『エル』を思い出す。マニアっていいんだな。どうしても旦那のほうに肩入れして見てしまうんだけど「幻想交響曲」を流すってのはつまんなかった。ヒロインが海に消えてからは、視点が代わる。ここらへんからは旦那とヒロインとの知恵比べとなる。男装させたり舞台衣装つけて踊ったり、いささかプロモーションフィルム的でダラケた。愛する妻を見つけた夫が、タオルを揃えたり缶詰を整頓したりしてるとこを想像するとおかしい。何も殺さなくてもいいとおもいません? 愛ゆえの襲撃者は怖い。愛を捧げ尽くした男の物語。 [映画館(字幕)] 6点(2013-09-06 09:54:56) |
192. チ・ン・ピ・ラ(1984)
ラストの白服の船長さんの嘘っぽさ・いかにも取ってつけた感じが柴田君の幻影のようでもあって、それほどキズとは思えない(寺山修司の映画によく出てくる海軍軍人を連想したので、より幻想っぽく思ったのか)。三十男の焦りという中心テーマの侘しさがいい。じゃれ合うチンピラのままでいたいけど、やくざの成熟社会(親分子分のキッチリした関係)に追い詰められてもいるわけで、ヤーさんの“制服”への嫌悪感もある。で、すぐデパートの屋上へ行ってしまう。アマチュアなんだな、もうしばらくアマチュアで居続けたい。親分と一緒にメロンに手が伸びちゃうなんてスケッチもよかったな。サインペンで刺青に色を入れる、これがラストで生きてくるんだ。 [映画館(邦画)] 7点(2013-09-05 13:29:18) |
193. 推定無罪
ハッとさせる場面があんまりなく、裁判映画を面白くしたのはアメリカなんだけど、本当の裁判はこういうものなのか。初めのほう、ハリソン・フォードの不審な行動のあたりはミステリアスで悪くないんだけど、彼が主人公でもう「いい人」って予断が来ちゃってるから、キャスティングの段階での問題ですな。彼が弁護士に対して、自分が有罪であるかのように論じて、検事のプロを見せるとこがちょっと面白い。製作側は検事局の殺伐とした人間関係に興味を持ったのだろうか。そっちを中心にすればなんとかなったかも知れない。面白いと評判のミステリーを映画化すると、まず面白くないとこに、本と映画の根本的な構造の違いがあるようだ。音楽、J・ウィリアムズは地味め。 [映画館(字幕)] 5点(2013-09-04 09:32:55) |
194. 国東物語
この監督さんは、人が宗教感情を持つ瞬間てのに興味を持ってる人で、日本では貴重。菊池武治が修行をするあたりからが本題。びょうびょうとした感じがいい。シャリーンシャリーンという音が響く。人が土と一緒に生きてる仏教はひたすら歩く。それに対して大友宗麟のキリスト教は「父と子のように愛し合える国」を念じ始める。この対立をこそ描くべきだったろうが、うまくぶつからなかったような。後者の排他性が前者を潰していってしまう。もっともその後のキリスト教弾圧を私たちは知ってしまっているので、受け止めは複雑になる。この国には今さら「愛」という概念はいらないんじゃないか、ってのはもっと突っ込んで面白くなれそうなところだった。前半の父と子が疑い合っている状況が、キリスト教の教義「父と子と精霊と」と皮肉に照らし合わされる仕掛け。中央に人がこちら向きに座っている構図が好きで安定感がある。夜討ちを掛けるときのお面の効果などよいが、音楽が甘すぎた。合戦シーンには低予算映画の哀しみがしみじみと満ちている。 [映画館(邦画)] 6点(2013-09-03 09:30:23) |
195. ロシア・ハウス
ソ連がらみのスパイものだがKGBが悪役でなく、西側の情報局がもっぱら悪役という珍品。ソ連のひんやりとした街のたたずまいが美しい。たまたまなのか狙ったのか、それともいつもこうなのか、ほとんど曇天で、リスボンと対照される。あとダンテ役のクラウス・マリア・ブランダウアー、臭みギリギリのところもあるんだけど、うつろな感じがいい。でもスパイサスペンス映画としてはもっと単純なほうが好きだな。イスラム過激派という次代の悪役が登場するまでの過渡期の手探り状態を映画史的に確認することは出来る。S・コネリーがCIAの尋問に対しておちょくるあたり楽しい。M・ファイファーがレニングラード攻防戦の説明をしているときに、コネリーがアイラヴユーと言いつつ寄っていき、彼女が無視して説明し続けるところとか。ジェリー・ゴールドスミスのひんやりとしたジャズっぽい音楽はいい。 [映画館(字幕)] 5点(2013-09-02 10:00:01) |
196. 伽倻子のために
グイグイ横向きに力が加わる作品ではなく、静かにゆっくり沈澱していく下向きの力がかかった映画。物語を語るというより、主人公の記憶があちこちから湧いてくる感じ。さして重要ではないかもしれない幼稚園のバザーのシーンも、記憶を通過した懐かしさがあるのでキラリと光る。地べたに置かれたものの影、不意に鳴り響くオルガン。そして水漏れ調査のシーン。静けさと響きと。ずっと向こうの道が左手に折れてるあたりの板塀がテラッと光ってる。行く末は明るいなんて象徴じゃなく、どちらかと言うと侘しさがあって、暗闇に置かれた金屏風のよう。あれが利いてて、なんとも切ない。全体に白くなろう白くなろうという意志が感じられ、タイトルからそうだった。記憶がなかった時間を懐かしんでいるのか、憧れているのか。白い霧、白い朝鮮服。この白の反対がドローンとした夕陽。別に朝鮮と日本じゃないけど。 [映画館(邦画)] 7点(2013-09-01 09:18:23) |
197. スティング
敵討ちの物語で、それも人種を超えて仇を討つ話になっているところが、60年代末から続く70年代初頭の社会的気分だったのだろう。映画の中は30年代で、屋内シーンでも窓の外で30年代をやっている。ベトナム戦争からアメリカが手を引くころで、同時代にウンザリしていたアメリカ人は、理想郷をそこに見たようだ。偽のノミ屋を設営するあたりが眼目、そこらへんの楽しさは映画のメイキングを見ている楽しさと似ている。ホンモノのようなセットが組み立てられて、エキストラの人選が行なわれ、スタートの掛け声でニセモノがホンモノっぽく動き出す。映画の楽しさとは「騙されること」なのだな、と改めて思う。役者ではR・ショウとP・ニューマンがよく、彼は酔い潰れて登場することが多いな。見事なカードさばきを見せた最後にクショクショとしくじるあたりが彼の味。本筋の話はスマートなのだが、映画としてはいささか枝毛が乱れているようなところがあり(たとえば殺し屋との絡み)、もうちょっと刈り込めたのではないか。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2013-08-31 09:59:11) |
198. ナサリン
裏切られる善意、報われない慈悲。予定調和を引っくり返していく。被害者が加害者に変わっていく。それをキリストが大口開けて笑って見ている。弱者を救うことが、虐げることになってしまう。タダ働きさえ、低賃金労働者への嫌がらせになってしまう。厳しいですな(この前の日本の震災でも、援助物資がだぶついて商店の復興を妨げてしまった)。その厳しさも苦渋として描くのではなく、ほとんどギャグとして描く。そして巡礼ということ。何かに憧れて、しかしそれにたどり着けるかどうか分からず歩み続けることなのか。後半の補導されていく人々は巡礼のようでもあり、ブニュエル映画でしばしば見た光景のようでもある。引きずること。ペストの町で少女がシーツを引きずって歩いていく。牢屋でナサリンが引きずり回される。思えば『アンダルシアの犬』でもロバの死骸を乗せたピアノを坊さんが引きずってたなど、彼の作品でよく見かけるモチーフ。ラストに鳴り響くのがカランダの太鼓。異様に晴れた道でパイナップルの施しを受けるナサリンに、神はありやなしや。 [映画館(字幕)] 8点(2013-08-30 10:04:51) |
199. ワールド・アパートメント・ホラー
日本人にとって「外人」は、黒船以来、さらにはマッカーサー以後、まずアメリカの白人によって代表されるんだけど、本作には出てこない。台湾、中国、フィリピン、パキスタン、バングラデシュとアジア人ばかり。しかも彼らに個性を勝手に付けないで、「日本人の目を通して見たアジア人一般」であり続けているところがこの作品の面白さ。まずタテマエとして「アジアは一つ」「隣人と仲良くしなければならない」「日本で苦労している外国の方たちの立場に立って」といった無垢な弱者としてのアジア人像ってのがある。それと同時に(欧米文化はどんどん入ってくるのに)いまだに未知の闇というアジアに対する不気味感もある。どちらも個性を持てない。それを反映した映画世界は、ホラーに近づいていく。住人たちに追い詰められて「日本人は白人なんだ」って言っちゃうとこ、せりふの上からだけ見ればテーマを整理しすぎたと思うが、ちょっとためらって言うし、言って、あれ? 変だな? というニュアンスがあったし、あそこらへん、正直に1991年の日本人だった気がする。クレーンでゆっくり浮遊しながらアパートを見る視点。 [映画館(邦画)] 6点(2013-08-29 09:39:03) |
200. 秋のミルク
ドイツ版「おしん」。でもドイツは厳しい。旦那の叔母さんてのが憎々しいいじめ役で、この人ラスト近くで「ごくろうさんだったね」という一言があって和解する感動の一幕が来るぞ、と思ってたら、なかった。旦那に追い出されて終わり。グリムに出てくる悪いおばあさんだった。ヒロインがだんだんたくましくなっていく物語。母の死を回想し、これからはお前が母親だ、という言葉を思い起こすと奮起する。ナチの高官にも食ってかかる。政治的反感ではなく、生活レベルでの・自分の人生を良くしようとする態度。これは強い。ナチズム下の一般大衆の描写。外に高官が来てみんなが敬礼しているときに主人公がケーキなんか食べてると、店のおばさんが非難がましくヒットラーの演説流してるラジオの音量を上げる。ドイツ農家の暮らしってのが分かって、男や老人が威張ってるのは日本「おしん」と似てる。カッコーワルツのひなびた味わい。ちょっと愚痴っぽかったけど、愚痴のない庶民の暮らしなんて古今東西なかっただろう。 [映画館(字幕)] 6点(2013-08-28 09:33:39) |