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プロフィール
コメント数 418
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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201.  ブレイクダンス2/ブーガルビートでT.K.O!
私の記憶が確かならば、、、「ブレイクダンス2」は日本でメジャー公開された上、かなり大々的に宣伝された為、ある意味でブレイクダンスというダンススタイルが爆発的に浸透するきっかけとなった映画ともいえる。もちろん、風見慎吾も忘れちゃいないよ。でも彼の「涙のTake A Chance」がヒットしたのはこの映画の後なのだ。僕が初めてブレイクダンスらしき踊りを観たのはライオネル・リッチーの「オールナイト・ロング」(1983)のPVの中である。そこでブレイクダンスという奇妙なダンスを披露していたのが何を隠そうこの映画の主役2人、オゾーンとターボなのだ。(もちろん、マイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」での伝説のムーン・ウォークも忘れちゃいない。)それから、2人は「ブレイクダンス」という映画に出演し(パート1はまだマイナー上映だったと思う)、その余勢を駆ってつくられたのがこの続編なのである。この映画の中で、特に、ターボのブレイクダンスは炸裂しまくっていた。あの部屋が引っくり返る中でブレイクダンスを踊り続けるシーンは今でも印象に残っている。それから主題歌キャロル・リン・タウンズの「ミラクル」も流行りましたね。ちょっとだけ。でもあれは結構いい曲だったと思うよ。実はこの映画を僕は映画館で2回か3回観ている。(そのうちの1回は「ブレイクダンス」パート1と同時上映だった)当時、まだ中学生の頃。何故、この映画を繰り返し観たのか? そう僕はブレイクダンスに目覚め、仲間と一緒に練習していたからなのだ。この映画を観ていろんな技を覚えたものである。今思うとかなりこっぱずかしい記憶だなぁ。。。でも、この映画って、僕らの世代にとってちょっとしたツボなんじゃないかな。たぶん。
8点(2004-10-16 01:23:41)
202.  ミッドナイト・ラン
僕の中では、デニーロの映画で12番目ぐらいかな。「ミッドナイトラン」以降の映画に限定すれば、ベスト3には入るだろう。確かに「デニーロの転機になった映画」というイメージはある。あまりにも普通の映画で普通のデニーロだったからね。当時、僕の中でこの作品は、流行りの刑事アクション&コメディ系映画のワンオブゼムとの印象しかなかった。<デニーロである必然を全く感じなかったのが最大の印象だったのだ。> まぁ今観ればまた違った印象を受けるとは思うが。。。個人的にデニーロの本質とは、自然に滲み出る孤独と狂気の表情、現実への「もどかしさ」を漂わせる語り口にあると感じている。そういったイメージによって支えられた彼の存在感を自ら吹っ切ったのがこの「ミッドナイトラン」だったのだろう。この作品によって、彼の役者としての可能性が広がったのは間違いないが、明らかにアプローチを変えた以降の作品群のあまりの「普通っぽさ」に一抹の寂しさを感じることもまた確かなのである。これは、あくまで個人的にではあるが。。。
7点(2004-10-10 19:45:37)(良:1票)
203.  仁義の墓場
実在した石川力夫については知らないが、渡哲也演じる主人公は、かなりヘヴィーな人物である。映画も「仁義なき戦い」の流れを汲みながら、そんな主人公を中心として、よりディープな雰囲気を漂わせる。深作の手にかかっては渡哲也もこうなってしまうのか。。。敢えて渡哲也が演じる必要があったのかどうか分からないが、まぁ作品としては、なかなかすごみがあります。というか、凄すぎるよ。
9点(2004-10-09 22:32:40)
204.  シルバラード
ローレンス・カスダンズ・オールキャストによる西部劇。やっぱり「再会の時」の影響か、日本でいう団塊の世代、ベビーブーマー達が若き日の挫折や心の傷を抱えながら、家族や仕事という世間的な安定に対する無意識の不安と常に葛藤し、自らの心の支えとなるべく「精神」を確立しようともがき奮闘しつつ、極悪牧場主に立ち向かう西部劇、という感じが漂う。。。まぁこれは半分冗談ですが、実際、とても若々しく、颯爽としたニューウェイブ西部劇に仕上がっていると思います。ケビン・クラインやスコット・グレンにはまだまだ西部劇の主人公たる圧倒的な存在感がなく、なんとなく弱々しいところもこの世代の西部劇らしいですね。
8点(2004-10-09 22:29:18)
205.  レディホーク 《ネタバレ》 
ミシェル・ファイファーとルトガー・ハウアーが素晴らしい。妙にもやけた軽々しいファンタジーアクション映画。確かにその通りですね。80年代特有の陳腐なバックミュージック。確かに。でも、僕は好きだなぁ。ミシェルとルトガーという孤高かつ美的なカップリングの妙。それはまた動物的な御姿を持つ二人の孤高性でもある。そりゃなんてったって鷹と狼なんだからね。間を取りもつ語り部たるマシューの独白も僕は良かったと思いますよ。呪術に捉えられた二人が異形の相手を思いやる姿、人間に戻った二人が抱き合うラストシーン。ラブストーリーとしてもなかなか魅せます。MTV的なスタイリッシュさは「ストリート・オブ・ファイヤー」に通じるものがあるかな。良くも悪くも80年代的センスでしょう。
8点(2004-10-09 22:28:11)
206.  フレンチ・コネクション
昔、テレビで何遍もやっていて、その度に何遍も観たけど、とにかく面白い作品です。オープニングのポパイ登場のシーンなんてサイコーですよね。何だコイツは、って感じで出てきたと思ったら、ハチャメチャやって、確かに殺伐としているけど、男同士の意地の張り合いが滲みでているっていうのかな。展開が退屈? そうかな。でも、僕は、展開の退屈さも含めて、あの雰囲気が大好きなのです。まぁポパイっていうキャラクターに痺れているだけなのかもしれないけどね。 僕にとっては、古いとか新しいとか関係なく、ヒジョーに単純に「好きな作品」です。
8点(2004-09-20 11:53:29)(良:2票)
207.  ハンバーガー・ヒル
当時、「プラトーン」「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」とベトナムものが立て続けに上映され、僕らは仲間内でどれが一番気に入ったかを言い合ったものである。ちなみに僕はハンバーガー派であった。 ベトナム戦争は、アメリカの国家的戦争であり、アメリカ軍の戦争従事者にとっての敵はアメリカの敵である。つまり、彼らが自らの死を意識した時、それは「国家に対する死」ということになる。僕らは単純にそれをこう言いかえることができる。僕は国の為に死ぬことができるのだろうか、殺すことができるのだろうか、と。 僕が当時、「ハンバーガーヒル」を最も評価したのは、この単純な問いこそが作品のテーマであった点である。 日本が国を賭して戦い、国民が国民として国の為の死というものを初めて意識し始めたのは日露戦争の頃からだろう。ハンバーガーヒルの激戦は、僕にあの二百三高地を思い出させた。ただ国の利害の為に、戦略的高地を奪う為に、命令されるがままに、自らの狂気と引き替えにして命を落とした多くの若者達の煩悶が僕には聞こえてきたのだ。 昨今、日本にも微温的なナショナリズムが叫ばれているように感じるが、僕らにとって、そのナショナリズムの基盤とは一体何だろうか? 日本とは? 国家とは? 自由とは?  日常とは? これらの原理を理解した上で国民国家というものを考えた時、僕らは「国の為に死ぬことができるか?」という問いに出会わざるを得ない。<日本が軍隊を持つことはこういうことだろう。> ハンバーガーヒルも二百三高地も単なる歴史絵巻ではないと考えたい。
8点(2004-09-04 00:36:11)(良:1票)
208.  ボウリング・フォー・コロンバイン
なかなか面白かったとは思う。アメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミによって煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念により常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪そのものを助長している。。。なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。ただ、それを理解した上で問いたい。何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた<それは15年前から先に進んでいない>。確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。 ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。
8点(2004-09-04 00:32:33)
209.  ラン・ローラ・ラン
『ラン・ローラ・ラン』は、ハイゼンベルグの不確定性原理によって見出され、シュレディンガー方程式により導き出された世界の確率論的存在、多世界解釈論に基づいている。さすがドイツ映画である。この映画は、スタートからローラという電子を発射させ、観測によって3つの違った結末(位置)を用意する。これはまさしく量子論の基礎となる「2重スリット実験」そのものではないか。。。 この実験により、電子は粒子であると同時に確率論的に存在する波であり、観測前の電子は確率としてしか存在し得ないということが明らかとなったのである。観測前のローラの世界には幾多の行き方が確率論的に存在するが、それは観測と同時に収縮する。結局、ローラは最後にどうなるのか? 生きているのか、死んでいるのか。この映画は、3つの収縮の可能性を提示したのみで、どれを選択しているとははっきり言っていない。シュレディンガーの猫は、生きているのか?死んでいるのか? 生きている状態も死んでいる状態も量子論的には同時に在りえて、そしてその状態は確率としてしか存在し得ない。あぁ、つまり、彼女(世界)は生きていながら、同時に死んでいるという、「確率」という存在でしかないのだ。。。あぁぁぁ、それを否定するには、彼女が生きている世界と死んでいる世界が同時に存在しなければならず、それは観測者である僕らが既にパラレル(多世界)に存在しているということになるのだぁ!! と、別に感嘆するまでもなく、この映画はパラレルワールドをさらりと描いているので、あまり考えすぎずにパンクに楽しむのが正しい鑑賞方法だろう。
[ビデオ(字幕)] 7点(2004-08-29 16:51:56)(笑:1票)
210.  アメリカン・ビューティー
主人公が取り戻そうとしたのは、自身の「青春」である。彼が会社を辞めてフリーターになり、娘の友達に魅せられて肉体を改造し、マリファナを吸ってロックを絶叫するのは、自らの青春への信とその回帰の意志からくるものであろう。この映画は、そんな青春に象徴される精神の自由とか、利己主義とか、社会に対する無責任さなどというものに対する無邪気な信頼を描いたものなのだろうか。  きっかけは、主人公を襲う妄想であった。現代的妄想とは、現実によって侵食された内面からの末期の悲鳴である。そしてそれは現実/世界を超越する意志という失われた原初的思念の新たな発現になり得るのである。 この物語のもう一方の主人公は隣人の若者であろう。彼の存在によって、ケビン・スペイシーの無邪気さは相対化されていると感じた。彼の現実は最初から不透明である。そこには回帰すべき青春への信などというものは既にない。しかし、彼とケビン・スペイシーはまるでコインの裏と表のような存在であるようだ。彼らが同じ世界を生きている以上に共有している思念を感じるのだ。それこそがこの映画のモチーフである「生きていくことへの信」だろう。そのモチーフに繋がる若者の動機が少し弱いかもしれないが、ある意味でそこにこそ「青春」というタームを超えたこの物語の新たな可能性を見たような気がする。
9点(2004-08-27 23:37:02)(良:1票)
211.  東京物語
「私ずるいんです」 笠智衆に対して頑なに言い募る原節子は、最後に救われたのだと僕は思う。「東京物語」とは、大都会でひとり生きてきた原節子演じる紀子が自らの頑なさを笠智衆という在るがままの御仁にぶつけることによって救われる物語なのである。もちろんこの大傑作映画は、登場人物たちのさざめく日常を丹念に描き、様々な人々の様々な奮えを静謐に表現することによって、実に多面的で奥が深い作品となっている。その多くの場面に僕は感銘を受けた。 それでもやはり、原節子という優しさの象徴のような女性がその内情の弱さを吐露する場面は、この物語のクライマックスであり、それは笠智衆という「精神」の静かな態度によってしっかりと受け止められるのである。最終的に、笠智衆は妻に先立たれ、子供達には厄介者扱いされるような不遇の立場にあるわけだが、彼はその立場を捩れなく自然に抱えこむことによって、決して自らの弱さに屈しない、かつ自らの強さを誇張することのない凛然とした「勁さ(つよさ)」を見出すのである。原節子が最後に救われ、癒されたのはそんな彼の自然さであり、「勁さ(つよさ)」である。彼女が自分の「ずるさ」と自然に向き合えたことこそが彼女自身の癒しだったのだ。 笠智衆が一人佇む最後のシーン。彼が自分の人生を十分に反芻しており、そのことから滲み出る自然体であることの「勁さ」というものを僕は切に感じることができた。そして、僕も救われたのである。
10点(2004-08-25 01:20:02)(良:2票)
212.  ゴッドファーザー・サガ<TVM>
「ゴッドファーザー・PART1」と「PART2」を年代順に並べなおした「ゴッドファーザー・サガ」。テレビの深夜劇場で4週連続2時間づつ放映していたのを眠い目をこすって観続けたのは、僕が高校生の頃だった。少年ビドーがコルレオーネ島から逃げるところに始まって、アメリカのイタリア移民社会での貧しい暮らしぶりやその中で暴力によってのし上がっていくところの淡々としていながらも叙情的な映像、ドラマティックで緊張感溢れる殺戮シーンと若きデニーロの哀愁と野望を秘めた表情、その精悍な立ち回り、時折発っするセリフから漂う掠れた雰囲気などなど、初回にしてぐぐぐいっーと惹き込まれたものだった。その後のブランドやパチーノの登場、とくにパチーノの挫折や成功の具現者としての憎悪と苦悩の歴史から、忘れがたい胸を締め付けられるようなラストシーンに至るまで、全てに通底した「呪縛の歴史」には圧倒されたと言う以外に言葉がない。でも、このコッポラ作品には、<その後の大傑作「地獄の黙示録」にも通じるが>歴史大作であるとともに、ニューシネマ的な青さ、もどかしさが僕にとって大きな魅力なのである。デニーロやパチーノのようなニューヒーロー達の若々しい存在感は、その「もどかしさ」の体現者として、僕らの胸をしめつける。この物語は、ファミリーの血の結束をテーマとしながらも、魂の孤独へのアンビバレンツな感情、呪うが故に救われる、その絶対的な孤独への呪縛を描いていると言えないだろうか。「この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、しからずんば。。。世に孤独ほど憎むべき悪魔はいないけれども、かくのごとく絶対にして、かくのごとく厳たる存在もまたすくない」-坂口安吾の青春論より-
10点(2004-08-24 01:24:28)
213.  ロスト・ハイウェイ
内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の「マルホランド・ドライブ」に譲るが、本作「ロスト・ハイウェイ」は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。「ロスト・ハイウェイ」という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。
9点(2004-08-21 00:00:24)
214.  アマデウス
モーツアルトは<神の子>である。神の子として、その天賦の才をもってしても人間である限りにおいて生きるという現実は単純ではなく、彼が苦悩と怖れを抱えて人生を生き、死んだことはよく知られている。モーツアルトを一人の人間として捉えるドラマというのもひとつの観点として興味深いものであるが、実際、その試みはイエス・キリストを主人公とするのと同じように難しいだろう。とはいえ、この映画を天才モーツアルトに対峙する凡庸の人サリエリの物語と考えるのはちょっと違う。サリエリがモーツアルトの音楽についての真の理解者であり、この映画をサリエリという自意識の鏡を通したひとつのモーツアルト像として捉えるのがやはり一番しっくりくるのである。やはり、主役はモーツアルトであり、モーツアルトの神性、人間性をサリエリという自意識を通して語ることによって、僕らは僕らの中の無限のかけがえのなさを語りえるのではないか、というのが僕の<文学的な>捉え方である。 モーツアルトの音楽を語る時、アポロン的な伝統音楽の高度な模倣の上にディオニュソス的な情熱、官能のエッセンスを見出すことが重要である。さらに生と死を行き交う精霊の如く、まさにデモーニッシュな一面により生み落された名作「レクイエム」に至っては、彼が神の子の苦悩を人間的な深みによって表現し得たことを示している。それをモーツアルトのモノローグによって語ることは不可能である。この映画では、サリエリという媒介を通じて、僕らはモーツアルトの心性を知るのである。 サリエリのモーツアルトに対する歓喜、恍惚、忘我、嫉妬、憎悪、愛情を僕らは理解する。芸術とは、神の言葉、御業かもしれないが、それはあくまで人間によって生み落されるものだ。人間という理性の森を通してしか、それは具現化されない。それがモーツアルトの作品であり、サリエリという自意識を通した時、それは僕らに人間的なドラマ<現代的な神話>を提供するのである。
10点(2004-08-15 23:15:59)(良:1票)
215.  パリ、テキサス
茫漠と広がる砂漠のような虚無感。彼が旅したのは自らの心象風景の中だったか。しかし、失われたものを快復するために彼は目指す。自意識に根ざす心象風景は常に止め処ないが、そこに一筋の光を見出すことは不可能ではない。砂漠にも静かな雨が降ることがあるだろう。優しさという名の愛情が彼に希望をもたらすが、それはもう遅すぎたか? でも終わりは始まりともいう。大切なのは彼の心の在り様であり、快復であろう。柔らかに降り注ぐ雨は静かに地下へと水を湛え、やがて彼の人の水脈にも連なっていくだろう。彼に必要なのはその為の時間だけである。それが自然というものだろう。
9点(2004-08-13 13:30:36)(良:1票)
216.  アメリカン・ヒストリーX
歴史とは個々人の心の在り様の集大成としてある。世界の至るところで人々が憎しみを連鎖させ、負の歴史はつくられていくのだ。そこに出口はないのだろうか? この映画は改めてその可能性を信じることの困難さを見せつける。無邪気な救いは無慈悲に閉ざされ、どうしようもない救われなさだけが残るラストシーン。 お互いが分かり合える足場を失った状態でも、人が人を理解する希望を失わないこと、その為に僕らは如何したらいいのか? そもそもそういった方法論は有り得るものなのか? 僕らは昨今のイラク情勢により、憎しみの連鎖というものが如何に根の深い問題かを知っている。その救われなさは既に自明なのだ。その先の道筋へ、仄かな希望の光を見出すこと、そんな作品としての方法論に現実性があるのかどうか。今こそ確信的なコミットメントへの志向を期待したいものである。 「もしあなたの人生が、それほど筋のとおった理由もないのに、どこかの誰かの人生とからみあってきたら、その人はおそらくあなたのカラースの一員だろう。人はチェス盤をつくり、神はカラースをつくった。」(カラースとは、民族や制度や階級などに全くとらわれない、神の御心を行うためのチームのことである)~カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』 ボコノン教教義より~  Peace!
9点(2004-08-13 01:09:09)
217.  恋愛小説家
ジャック・ニコルソン、変わった男である。極度の神経症とも思える、潔癖症、離人症、他人を平気で傷つける毒舌家、誰もがお近づきになりたくないであろう、正に偏屈オヤジ。でも、よく考えてみたら、これらの症状というのはすべて、青春時代に僕らが囚われる、あの自意識の過剰さに由来する心の在り様そのもの、その極端な症例ではないだろうか。ある意味で永遠に大人になりきれない男。恋愛小説を描くことを生業としながら、恋愛のできない男。恋愛に人一倍の憧れを抱きながら、自分を傷つけたくないばかりになかなか踏み込めない、過剰な自意識のせいで日常的な幸せの価値を見出せない不幸な男。 そんなジャック・ニコルソンが選んだのが、はすっぱな感じではあるけど、生活感に溢れる力強い母親、それでいて自分の可愛らしさを素直に表現できる女性、ヘレン・ハントだというのはすごく分かるような気がする。 この「恋愛小説家」という映画、僕にはこう思える。恋愛への過剰な憧憬を捨て、現実的な愛情生活に目覚めた中年恋愛小説家の転向、その滑稽さと清清しさ。実はものすごく共感してたりなんかして。。。 
9点(2004-08-12 21:52:14)
218.  きょうのできごと a day on the planet
淡々とした展開に潜む日常の危うさ。人々の心のさざめき。そういうものが一切感じられないという、僕にとっては非常に不幸な映画であった。ある種のニュアンス的世界といってもいいか。微妙なニュアンス、ちょっとした感覚のズレ。まさに現代的感性の映画かもしれない。時代的モチーフとしてはよく分かるが、正直いって僕にはついていけないところがある。モチーフの切実さが感じられないのは、僕にとって致命的なのだ。確かに僕にも日常というものへの絶対的帰依の気持ちは十分にあるが、その信頼性に関しては無自覚、無感覚に受け入れることがどうしてもできない。根底にはいつでも日常に対するアンビバレンツな感情があるはずなのだ。なんというか、そんなことを思ってしまう限り、この映画のツボは永遠に理解できないのかもしれない。
6点(2004-08-12 20:37:08)
219.  ラスト サムライ
中途半端な印象は拭えませんね。確かに「ダンス・ウィズ・ウルブス」のサムライ版ってところでしょう。武士道などというものをハリウッドが表現できるとは到底思えなかったけれど、そもそもそれを日本人自身が理解していない限り、その評価も推して知るべしです。まぁいろいろと書かれているようにあまりその辺りのことを意識せずに架空的日本国を舞台にした日本人とアメリカ人との「愛と友情物語」として見れば、なんのことはない、従来のハリウッドスタイルそのものなのですね。「サムライ」や「インディアン」というタームは、反近代的なモチーフ、傍流の歴史を理解する為に選ばれてはいるけど、最終的にはアメリカイズムという個人主義にすっかりと回収されてしまっているように僕には思えました。 僕自身が武士道というものをよく理解している訳じゃないけど、武士道って江戸時代の一部の武士階級にとっての特権的な観念であって、ああいう戦国時代のような戦士や半農民的な足軽たちにとっては、日常的に不要の観念だったのではないかな。平和な時代だったからこそ、自らを律する為の観念が必要とされたのです。それに武士道自体を本当に尊ぶようになったのは明治初期でそれも一部の人々の間でしかないでしょう。あと利用されたという意味では太平洋戦争の頃ですか。「葉隠」なんて江戸時代でも多くの人たちはその存在すら知らないわけで、それを日本人全体の精神性かのように捉えるのはそもそも間違い。実際、日本人のすべてがサムライの息子ではないのだからね。 まぁそれはそれとして、ストーリー的にも僕にはあまりぐっとくるものがなかったなぁ。途中で三島由紀夫の描いた「神風連史話」(「奔馬」)が頭をよぎったけど、あの決起と自死の顛末に描かれたものこそ日本人が武士道的なものとして憧れるperfectな精神性ではないかな。その静謐さをハリウッドで描くことは不可能でしょう。
6点(2004-08-12 20:32:08)
220.  アルマゲドン(1998)
大好きな映画です。奇想天外、荒唐無稽、空前絶後の暴発的ストーリー展開にはかなり興奮しましたし、ブルースウィリスの超人的行動や献身的な最後にも晴やかさと潔さを感じましたよ。この映画に対して多くの言葉は要らないでしょう。最高です。
10点(2004-08-12 20:25:58)
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