201. キッズ・アー・オールライト ~ディレクター・カット完全版~
世界3大ロックバンドと言えば、ビートルズ、ストーンズ、そしてフーである。フーズ フー? 残念ながら日本でのフーの知名度は恐ろしく低い。このドキュメンタリーは、フーのデビュー当時からのライブ映像やインタビュー、そして新たに収録した演奏シーン等を追加して作り上げられたフーの歴史であり、ひいてはロックの歴史でもある。78年、時代はパンクである。パンクムーブメントの中では、ビートルズは過去の産物であり、ストーンズは現代の恐竜と呼ばれ、難解を極めたプログレや頭でっかちとなった産業ロックは嫌悪の対象であった。そんな中でも、フーはパンクキッズからリスペクトされる存在であり続けた。何故か?同年、彼らは『さらば青春の光』をプロデュースするが、この作品は彼らの出自であるモッズの青春像を捉えた傑作である。『さらば青春の光』と『キッズ・アー・オールライト』は当時のムーブメントに提示された1セットの作品ともいえる。それはロックの歴史であり、ロックとは何か??という彼らの回答そのものなのである。そう、ロックとは何か? この作品のハイライトである『無法の世界』のステージこそ、当時の彼らにとっての現在形のロックであり、彼らが「オヤジのロック!」と叫ぶありのままの姿であろう。そしてそれは彼らの限界でもあり、ロックの限界でもあったのである。言うまでもなく、フーは世界最強のライブバンドである。彼らのライブ盤を聴き、ライブ映像を観れば、彼らの激しいロックスピリットと高い演奏技術に誰もが感嘆するだろう。その象徴、ピート・タウンゼント。そしてキース・ムーン、最強ドラマー。残念ながら、彼はこの映画の公開を待たずに急逝してしまう。彼の不在によって、フーのメインストーリーは映画と共に一旦幕を閉じる。パンクが終わり、フーが終わり、70年代が終わる。ロックが70年代に突き当たったもの、その壁自体がロックの原点であると僕は思っている。今やロックミュージシャンはロックを真摯に抱えることしかできないし、それを抱えること自体の誠実さこそが貴重なのだといえるのではないか。ロックは何度も死んだと言われたが、それでもロックは残っていくものである、しかし同時にその表現のアビリティには幅としての限界があるのだ。深さや複雑さを無理やり単純化したり拡張したりするような装飾はロックにとっても人間にとってもいいことではない。 [DVD(字幕)] 10点(2005-04-23 01:03:36) |
202. フェスティバル・エクスプレス
僕は以前、『ウッドストック』の退屈さについて書いたことがあるが、この映画は『ウッドストック』に比べ、僕には音楽そのものを純粋に楽しめた作品であったような気がする。一体、『ウッドストック』とこの映画の違いは何だろうか? ウッドストックがロック・ミュージックによる人々の連帯を謳った祭典であったならば、フェスティバル・エクスプレスは、純粋に音楽を楽しむことを目的としており、そこに政治的な匂いは薄い。実際にとても純粋な音楽興行だったのである。興行と言えば、ウッドストックは当初、有料コンサートでありながら、あまりにも多くの若者が集まったために収拾が付かず、なし崩し的にフリーコンサートになってしまった経緯がある。しかし、フェスティバル・エクスプレスは、そういったフリーコンサートを期待してやって来た若者たちを徹底的に排除するのである。そこにはフリーコンサートを求める若者と興行側との対立があり、結局、ミュージシャン達は興行側に付くのである。ウッドストックで見られた「喪失に対する微温な連帯」とでも言うべきものも、連帯意識から個人的感情へと変化し、それは喪失そのものとして人々の心の内に潜行していくのである。60年代から70年代へ、時代は共闘から個闘へと向かう、そういう時代的変化の萌芽が既にここで見られているということだろう。 この映画の終盤で、バディ・ガイが奇しくも言っていたが、今やガルシアもジャニスもこの世にはいない。僕に言わせれば、リチャードもダンコもいないのだ。リック・ダンコ。トレインの中で大はしゃぎしていた彼の姿が僕の目に焼きついている。そして、『ラスト・ワルツ』で一人寂しく過去を懐かしむ彼の姿も同時に思い浮かぶのだ。 『フェスティバル・エクスプレス』は、その名の通り、ミュージシャン達によるトレインでのジャムセッションが大きな見せ場でもある。トレインという観客のいない空間で起きた有名ミュージシャン達の化学反応ともいうべき邂逅は、音楽そのものを楽しむという純粋なお祭りでもあった。ある意味で興業者はその雰囲気の持続をステージでも期待したのだろう。それはロックムーブメントが内向していく瞬間を克明に捉えたドキュメンタリーでもあったのだと今では感じられるのである。(演奏シーンそのものの感想はここでは書ききれないので割愛してます。) 10点(2005-03-25 01:21:54) |
203. ロング・エンゲージメント
『シンデレラの罠』のジャプリゾが描く第一次世界大戦期の歴史ミステリー。これをジュネ&オドレイのアメリコンビで映像化。僕は映画を先に観てから原作を読むという幸福な関係でこの作品に接したので、映画自体もとても楽しめた。ジャプリゾは映画の脚本も書いている人なので、原作自体も映画的なスピード感覚に溢れ、場面展開も小気味よい。相手からの手紙を挿入することによって、周りに状況を語らせ、主人公の語らなさ(レティセンス)を補完する手法も読み手の好奇心を煽り、ついつい読みを走らされる。また、ジャプリゾは、フランスで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した人でもある。サリンジャーが戦争を直接描かないことによって、戦争という心的状況を突き詰めた作家であることを思えば、この小説に戦闘シーンの直接的描写が一切ないのも納得できる。ミステリーは、謎解きによって真相を追い求めていくものであるが、今では、事件の真相とそこに本当の真実がないというアンビバレンツな感覚こそが現代的なリアリティでもあり、そこからどう一歩進めるか、どう結末を付けるのかが今僕らの読む物語に求められているのではないだろうか。さて、映画であるが、この作品は基本的にミステリーだが、主人公が恋人を思い続ける恋愛映画でもあり、そこにアメリ的な「生きることそのものが、希望であり可能性であること」という思想が全面的に押し出されていく。主人公が事件の謎解きをしていく中で、事件に関わった人々の様々な人生と事件に対峙することで自らに問い掛けざるを得なかった生きることに対する戸惑いが次第に露呈されて、それは僕らの中にも沈殿していくのである。しかし、主人公は決して希望の芽を摘むことなく、謎解きこそを自らの生きる希望に変えるのである。偶然に頼る主人公の心情は余りにも乙女チックすぎる気もするが、彼女の楽観的意思の切実さは、逆にこの作品に時代的なリアリティを与えることに成功していると僕は感じた。人は様々な人達の様々の物語に翻弄され、いつでも間違え得る状況にいるが、その中でも適切に綱引きを行いながら、常に真っ当さを信じて生きていくべきなのだろう。この映画は遠い過去を描いていながら、そんな現代的な歴史性をとても素直に描いてみせる。あと、戦闘描写のリアリティについては、あまりここで語るべきものでもないと僕は思う。そこには客観的描写以外の何もないからである。 [映画館(字幕)] 9点(2005-03-21 21:06:36) |
204. ナチュラル
《ネタバレ》 僕にとって涙なしに観ることができない映画です。「人生には2つある。学ぶ人生とその後の人生。」実力がありながら16年間を棒に振ってしまったレッドフォード演じるロイ・ハブスがようやく大リーガーとしての夢に辿りついた時、意に反するその夢の不確かさを語った後に、グレン・クローズ演じるアイリスが呟いた言葉である。 この映画の好きな場面はたくさんあるが、僕はやはり最後のシーンを語りたいと思う。シーズンプレーオフの最終試合。古傷の再発に耐えながら不調に喘ぐロイ。ベンチのロイにアイリスから手紙が届く。その言葉自体は僕らに伝えられない。しかし、そこにはアイリスの子供がロイとの間にできた子供であることが告げられており、その言葉がロイに力を与えたであろうことを僕らに想像させる。手紙を読み、立ち上がるロイ。スタンドを見上げ、ベンチを歩き回り、そして決意を胸にする。ロイは期待通りに逆転のホームランをスタンドの照明灯に打ち込み、チームをプレーオフ勝利に導く。この試合を最後にロイは引退した(であろう)ことが後に続く息子とのキャッチボールのシーンで僕らに伝えられる。確かにクライマックスシーンは派手であるが、僕はこれらのシーンにさざめく静かな感動を覚えた。それは何故だろう。この作品はベースボールを題材とした映画であるが、ベースボールゲームそのものを描いてはいない。なぜなら、ロイが最後にバットに想いを込め、ホームランを捧げたのは自分の息子に対してであるからだ。あの場面でバッターボックスに立ったロイは、既に「その後の人生」に足を踏み入れていたのだと思う。ある意味でこのクライマックスシーンの主役はアイリスとその想いを受け取ったロイであり、彼女の想いがあの結末を導いたのである。最後、親子によるキャッチボールとそれを見つめるアイリス。最後のキャッチボールといえば、名作「フィールド・オブ・ドリームス」が思い浮かぶけど、この映画の最後のキャッチボールは親子の様々な思いを想起させるノスタルジックなそれとは少し違う。何と言っていいか、、、ある確信的な勇気、ささやかながら何か大切であろう心の有り様を僕に思い起こさせるのである。それははっきり言って凡庸たる家族や愛情というタームなのかもしれないが、にもかかわらず、僕は「はっ」と思った時には心が既に溢れ、我知らず涙を流している自分に気付くのだ。。。 [ビデオ(字幕)] 10点(2005-02-14 06:29:03)(良:1票) |
205. ブルース・ブラザース
この映画は最高に面白い。でも敢えて言うと、ミュージカル部分はまあそれなりに。。。ブルース・ブラザースの演奏は、僕にとって、それほどぐっとくるということもなく、一応、サントラと「ブルースは絆」をCDで持っているけど、最近殆んど聴いてない。聴くんだったらやっぱりアレサのオリジナルやオーティス、エルビスのライブを選んでしまう。。。それは仕方がないことかな。<でもスペンサーの「ギム・サム・ラヴィン」は、わりとハマってたね。> ブルース・ブラザースの時代って、70年代後半、いわゆるディスコやニューウェイブ全盛の頃だから、彼らの音楽にもその影響が見受けられる。それは良くも悪くも時代の流行なのだ。それでも、、、そんな時代にR&Bの古典を堂々と聴かせてくれるのだから、まぁそれなりの目新しさはあったのだろう。ある意味で功績も。。。 映画としてみれば、2人のクールな掛け合いやハチャメチャな展開は最高に楽しい。あれだけ車をぶっ潰したり、ショッピングモールをめちゃめちゃにしておきながら、誰一人として死なない。怪我もしない。<あのナチス野郎も死んでない??> それが、素敵じゃないか! 9点(2005-01-29 10:23:54) |
206. キャスト・アウェイ
現代版のロビンソン・クルーソー物語。バレーボールを相手に延々と一人芝居を繰り広げるトム・ハンクス。最高である。彼の演技だけでもなかなか飽きさせない。この物語、それで終わりかと思いきや、帰国後の彼とヘレン・ハントの切ない恋物語もわりと良かったな。そして、最後のシーン、新しい出会いの始まり。主人公にひたすら感情移入しながらも、全くもって展開が予想通りの予定調和である。が、にもかかわらずじっくりと観させるだけの映画としての真摯さを僕は感じた。そして、やっぱりトムハンクス。彼の存在感は素晴らしい。ヘレン・ハントも可愛らしいね。何はともあれ、とても素直に楽しめた作品である。 9点(2005-01-23 19:59:04) |
207. 21グラム
交通事故の被害者と加害者という状況設定は、ショーン・ペン監督作品『クロッシング・ガード』を思わせる。あの映画のテーマこそ、「絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか」というものだったが、そこにはっきりとした答えへの道筋が示されたとは言いがたかった。『21グラム』では、クリスティーナとジャックがそれぞれ被害者と加害者という立場となる。ここで主人公達は交通事故という外圧的な出来事によって、自らの運命を大きく狂わせて行くことになるわけだ。彼らはそれまで意識せずに(或いは意識を忘却させて)過ごしていたことであるが、ある日突然に自らのゼロ地点、道筋の全く見えてこない場所へ暴力的に貶められることになる。(クリスティーナ、ジャックともに事故前の幸福が彼らの負の過去の清算によって成り立っていたことも示唆的である)その地点において、クリスティーナとジャックは自身の関係性が完全に断絶したかの如き思いを抱くのと同時に、お互いが負の関係性によって維持されるという事態に追い込まれている。では、この物語のポールの役割とはいったい何だろうか? ポールはジャックによって死に至らされるクリスティーナの夫の心臓を受け継ぐ者である。ポールはクリスティーナを救い、そして、クリスティーナとジャックの負の関係性を関係そのものに導きながら、最後には自らの身を挺することによって、ジャックをも救うことになる。そして、クリスティーナとジャックが2人して窓辺に佇むシーンでこの物語は終わる。この物語は、言うまでもなく、クリスティーナとジャックの物語である。そして、そこに中間項として付け加えられたポールこそ、ショーン・ペンが『クロッシング・ガード』の最後に躓かざるを得なかった広義な「愛情」というタームを一身に背負った存在ではなかったか。2人の主人公がその関係性を快復する物語に失われた命を受け継いだ者として選ばれ、立ち回った存在ではなかったか。そういう意図を僕は感じたが、もしそうであったならば、これをそのままこの物語の結末と結びつけるにはやはり少し弱い。問題の真摯さを突き詰めるにしては、あまりにも都合がよく、偶発的すぎるからだ。まぁこれを可能性のひとつの道筋と捉えて僕は納得しているが。。最後にこの映画の方法論的な「時間軸のずれ」だが、このことに対するはっきりとした答えを僕は持っていない。悪しからず。 8点(2005-01-23 18:27:32) |
208. 華氏911
ムーア氏の前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカ世界の現代的セキュリティの問題を鋭く解いた秀逸なドキュメンタリーであったと思う。それを認めた上で僕は、セキュリティというタームが必然的に覆い隠す人間の本質的な生の歪んだ物語にこそ目を向けるべきなのではないかと前作のレビューで書いた。 しかし、それはどうやらムーア氏の仕事ではなかったようであるw 『華氏911』は、前作で示した彼の社会構造論的な解釈を踏襲し、アメリカという脅迫観念に縛られた国家が必然的に志向しながら常に隠匿せざるを得ない社会的構図を様々な角度から追求した渾身のドキュメンタリーであるといえる。さらにそこから導き出される国家による作為的なセキュリティに対する本質的な懐疑を素直に表明しており、僕はこの点を大いに評価していいと考えている。 この映画そのものをムーア氏の妄想だとする意見もあるかと思うが、映画の中で取り上げられた事実或いは解釈は、僕にとって特に目新しいものではなかった。つまり、こういった事実或いは解釈は、アメリカだけではなく、日本でも既に指摘されているものである。 大局的に見れば、この作品で取り上げられた事実或いは解釈に僕は大いに納得する。しかし、人間一人一人に目を向けてみれば、やはりこういった国家的セキュリティ批判という考え方が個々人のある種ナイーブな側面/その視点を覆い隠してしまうのではないか、という思いも拭いきれない。 この作品の中には、人間の原理という地平において、もっと捻じ曲がった物語が見え隠れしている。それはセキュリティという次元の問題とは全く別のものと思われて仕方がないが、今のところこれをムーア氏に期待するのはお門違いかもしれない。 それにしても、アメリカという国は懐が深いと思わざるを得ない。この映画の内容も然ることながら、こういう映画が存在すること自体がある意味でアメリカなのだと思う。僕は素直にそう感じた。 9点(2005-01-23 11:40:41) |
209. ブラウン・バニー
《ネタバレ》 映画が現実に起こりえるとか起こりえないとか、そういった基準で観られるべきものではないというのが僕の考え方だ。バイオレット、リリィー、、、なぜ花の名前か?ローズ。美しいものの余韻。名前という幻想。名前にこそ意味がある。取り替えのきかない名前という幻想。それは彼の心を執拗に捉えていく。 なぜリリィーは涙を流しているのか、そんなことは疑問として意味がない。ただ涙を流しているということが答えなのだ。妄想?失われたものへの掛け替えのない想い。それを抱えていかなければ生きる意味なんてない。でもこれ以上の哀しみを背負う必要があるのだろうか。そして思いとどまる。 ロードムーヴィーとは何かを探す旅を映す。彼は?砂漠での疾走。砂漠という茫洋。無意味の意味。彼は何を追い求めているのだろう。 デイジーは死んで、死んだものは現実には帰ってこない。だから彼は夢想する。幻想としてのデイジーを彼は許す。人が生きる原理を掴むにはまず許すことから始めなければならない。彼が欲したのは、彼女を許すということ。その不可能性の可能性。それは幻想であるが、それは彼にとって必要なことだったのである。そして彼は帰還するのだ。 10点(2005-01-23 11:32:23)(良:1票) |
210. 転校生(1982)
『転校生』とは、一夫と一美の「入れ替わり」というファンタジックな状況を設定することにより、思春期特有の男女の様々な心の揺れ、その微妙さをデフォルメした形で鮮やかに、そしてシリアスに取り出した青春物語である。。。と一般的に考えられているが、同時にこれは、当時、役者とも呼べないような普通の男の子と女の子、そう尾美としのりと小林聡美という2人のリアルにさざめく表情と彼らが演ずることを通して仄かに立ちのぼる何がしかの違和を克明に捉えたドキュメントであり、作品というテクストを超えた2人の演者の「実像」を捉えた記録そのものだったのではないか、と僕は思う。もちろん、2人の「実像」というのは、これが真実の姿というわけではなく、あくまで僕が鑑賞中に感じ続けた「実像」である。僕らは作品を超えて、演者としての小林聡美の像を観ており、そこから立ちのぼる違和のさざめきを感じているのである。だからこそ、この作品は、僕らにある感動を届けるのではないだろうか。おそらくこれは大林監督の意図でもあるだろう。ある意味で、アイドル映画のように、アイドルとしての像という作品としての外部の像を軸として映画が成り立つことに僕らが得も言われぬ違和感、作品としての破錠を見るのと同じように、というかそれを全く逆手にとって、最初から確信犯的に、作品の破錠を覚悟で監督はこの映画をそのように撮っていると感じるのである。 久しぶりに『転校生』を観て、僕はこのように感じたが、それは同時に演ずること、装うことに対する最もエッセンシャルな感慨を僕らに届ける。それを簡単に言えば、「恥ずかしさ」と「その乗り越え」「新たな不安」である。当時の全くアマチュアたる彼らの演技から立ちのぼるさざめきの表情と揺れこそは、役柄を超えた彼ら自身のリアルなものとして僕らに共感を伴う感慨をもたらすのである。 9点(2005-01-09 15:38:49)(良:1票) |
211. トレマーズ
現代人は、自らの過剰さに対する幻想に囚われるものである。その顕著な例が青春時代に僕らが経験する様々な鬱屈や疎外感であるが、それらの幻想は大人への成長という物語によって回収されるのがこれまでの常であった。しかし、僕らはもう、そういう物語によって、自らの過剰さを制御できないのではないか。 現代のラディカルな心情というのは無根拠の内に潜んでいるのだ。そこには如何なる物語も届かない。共同性が壊れ、薄っぺらな幻想が崩れた地平に現われた無根拠の過剰さは、まるで映画『トレマーズ』の怪物のように突如として地上に亀裂を走らせ、人を襲うのである。僕らは何だか訳の分からない怪物を相手に戦っているのだろうか。そうであれば、セキュリティがいくら強化されても、僕ら自身で亀裂を抑えることはできない限り、それは自身の無力さを実感するしかないというものだろう。 この映画、怪物という存在の無根拠さに由来する恐怖、それと闘わざるを得ない徒労、壮大なメタファーの上に描かれた実に現代的な物語なのかもしれない。 【後記】これってモンスターと戦うゲームだったんだね。無根拠さに由来する壮大なメタファーって、要はゲーム的リアリティのことだったのか。ゲームだから単純に楽しめるんだね。。 [ビデオ(字幕)] 7点(2004-11-06 21:06:01)(良:1票) |
212. レイジング・ブル
『タクシードライバー』では自らの過剰な感情を正義へと志向させ、『キングオブコメディ』でそれを狂気へと潜行させた。その中間に位置する本作『レイジングブル』では、その過剰さの生々しい姿を実に大らかに、そしてシンプルに描いて見せる。 そういう意味で『レイジングブル』は、主人公の過剰な生の有り様が明瞭であり、幸福な時代の幸福な物語なのかもしれない。主人公にはボクシングがあった。自らの抑えがたい感情や衝動をぶつけるものとしてのボクシングが存在したが、もちろん、彼の過剰さは、ボクシングという競技を軽々と超え、周りの人間、兄弟や恋人達を容易に傷つけることになる。気がつけば、周りの人間には愛想を付かされ、裏切られ、そして独りきりになる。彼はつぶやく、『何故だ?』と。そのとき、彼は一人の人間としてのゼロ地点に立っていることに気がつくのである。そこで自分という人間の生の姿を理解し、直視することができれば、彼は狂気へと向かわないし、社会性を失ったりしない。そういうギリギリの確信とその揺らぎが主人公の生き様に通底しているのである。この映画の美しさは、幻想を剥ぎ取った人間の根源的な過剰さに由来するのと同時に、それがまだ歪んでいない実に健康的な立ち姿によるのではないか。この映画が苛立たしくも晴やかな印象を残すのはその美しさ所以であろう。 10点(2004-11-06 20:07:33)(良:1票) |
213. さらば青春の光
《ネタバレ》 60年代中期、ブライトンでのモッズ・ムーブメント及びロッカーズとの抗争をモチーフとした悩める若者のお話。もちろん、原題の『四重人格』から分かるように、この作品はザ・フーの同名ロックオペラを基に製作されたものだ。 当時のイギリスというのは、ティーンエージャーともいうべき新たな人種による脱階級的な雰囲気があったと言われる。モッズにしても、そんなティーンエージャー達の無邪気な反抗心によって、上流社会のファッションであるスーツをデフォルメし、ストリート風にアレンジしたスタイルである。マッシュルームカットにサイドベンツの三つボタンスーツ、そしてヴェスパの改造スクーターが定番であろうか。<この映画でみるとアーミーコートも必須のようである> さて、この映画がフーの音楽と切っても切り離せない関係にあるというのは言うまでもない。フーのロックは<というか、ロックというのはそもそも>、若者達の反社会的、脱階級的なメッセージを歌ったものであり、ピート・タウンゼントにとって、ロックこそ、そんな矛盾した世の中を生きるための哲学そのものなのである。 この映画は、『さらば青春の光』という邦題から、一人の若者の青春との決別、大人への成長の物語だとイメージされる。本当にそうだろうか? この映画の主人公ジミーは、ロックに心酔した典型的なモッズ青年である。映画の中で描かれる一軒家でのDJパーティや派手なヴェスパなど、彼はファッションを生き方と錯覚しているお坊ちゃん的気質のようである。彼は自堕落であることを執拗に追い求め、何事にも安易で我慢ができない。自分の思う通りに物事が進まないことに対して苛立ちながら、絶対に自分を省みようとしない。つまり自信がないのである。だからこそ、彼は最後に憧れのエースがベルボーイとして働く姿に世の中がひっくり返るようなショックを受けるのである。そこで彼が見つけたものとは何だろうか。ヴェスパを中空へ放り投げた地点、彼が最後に辿りついた場所とは何処だったろうか? 世の中に対する鬱屈とした感情というのは、外部に対して彼を何処にも導きはしない。彼が見詰めるべきは彼自身のゼロ地点であり、それこそが彼の辿りついた場所ではなかったか。エースの生き方という現実が彼をその場所に導いたのである。映画はその場所で終わるが、それ以上のものはこの映画に必要ないだろう。 [DVD(字幕)] 8点(2004-11-06 19:59:16)(良:2票) |
214. 鬼畜
子供に対する母性という幻想が確立したのは、日本では明治以降のことだと言う。親が子供を思いやる気持ちというのは、ある意味で作られていくものなのだ。しかし、子供にとってはそうではないだろう。この映画を昔何度となくテレビで観た。ラストシーンでの少年の赦し、父親の懺悔には、毎度必ず涙したものだ。しかし、少年が本当に父親を赦せるのは、ずっと先の話だろう。いや、実際、そう簡単には赦せるはずがないのだ。社会の中で、子供は親を必要とするものである。ただそれだけのことかもしれないではないか。人が自らのエゴを抱えながら、生きていく原理としての「優しさ」を掴む為には、あなたが私と同じ弱い人間であるということを認めることから始めるしかない。だから人は人を赦せるのである。少年もいつかは大人になる。生き難さを生み出す様々な生の捩れに身を裂かれながら、いろんなことを徐々に赦していくのであろう。そうであれば、少しは救われるのだが。。。ということを今では考える。 8点(2004-10-25 21:42:56) |
215. ブレイクダンス
この映画の続編である「ブレイクダンス2」に比べて、その印象はかなり薄い。殆んどストーリーも覚えてないのが実情だ。本当は「ブレイクダンス2」をレビューするのにいきなり続編だけというのも何なので、ついでに登録したが、あまり書くこともないかなぁ。「ブレイクダンス2」の併映で観たんだけどね。あの当時、「フラッシュダンス」とか「フットルース」とか流行ったけど、僕らにとっては、あのブレイクダンスというダンススタイルがかなり強烈だったんだよね。よく部屋で練習したなぁ。学校の体育館でクルクル回ったりしたよ。このパート1でもターボの踊りが冴えてたような記憶がある、、、まぁそのくらいかな。 6点(2004-10-16 01:37:40) |
216. ブレイクダンス2/ブーガルビートでT.K.O!
私の記憶が確かならば、、、「ブレイクダンス2」は日本でメジャー公開された上、かなり大々的に宣伝された為、ある意味でブレイクダンスというダンススタイルが爆発的に浸透するきっかけとなった映画ともいえる。もちろん、風見慎吾も忘れちゃいないよ。でも彼の「涙のTake A Chance」がヒットしたのはこの映画の後なのだ。僕が初めてブレイクダンスらしき踊りを観たのはライオネル・リッチーの「オールナイト・ロング」(1983)のPVの中である。そこでブレイクダンスという奇妙なダンスを披露していたのが何を隠そうこの映画の主役2人、オゾーンとターボなのだ。(もちろん、マイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」での伝説のムーン・ウォークも忘れちゃいない。)それから、2人は「ブレイクダンス」という映画に出演し(パート1はまだマイナー上映だったと思う)、その余勢を駆ってつくられたのがこの続編なのである。この映画の中で、特に、ターボのブレイクダンスは炸裂しまくっていた。あの部屋が引っくり返る中でブレイクダンスを踊り続けるシーンは今でも印象に残っている。それから主題歌キャロル・リン・タウンズの「ミラクル」も流行りましたね。ちょっとだけ。でもあれは結構いい曲だったと思うよ。実はこの映画を僕は映画館で2回か3回観ている。(そのうちの1回は「ブレイクダンス」パート1と同時上映だった)当時、まだ中学生の頃。何故、この映画を繰り返し観たのか? そう僕はブレイクダンスに目覚め、仲間と一緒に練習していたからなのだ。この映画を観ていろんな技を覚えたものである。今思うとかなりこっぱずかしい記憶だなぁ。。。でも、この映画って、僕らの世代にとってちょっとしたツボなんじゃないかな。たぶん。 8点(2004-10-16 01:23:41) |
217. ミッドナイト・ラン
僕の中では、デニーロの映画で12番目ぐらいかな。「ミッドナイトラン」以降の映画に限定すれば、ベスト3には入るだろう。確かに「デニーロの転機になった映画」というイメージはある。あまりにも普通の映画で普通のデニーロだったからね。当時、僕の中でこの作品は、流行りの刑事アクション&コメディ系映画のワンオブゼムとの印象しかなかった。<デニーロである必然を全く感じなかったのが最大の印象だったのだ。> まぁ今観ればまた違った印象を受けるとは思うが。。。個人的にデニーロの本質とは、自然に滲み出る孤独と狂気の表情、現実への「もどかしさ」を漂わせる語り口にあると感じている。そういったイメージによって支えられた彼の存在感を自ら吹っ切ったのがこの「ミッドナイトラン」だったのだろう。この作品によって、彼の役者としての可能性が広がったのは間違いないが、明らかにアプローチを変えた以降の作品群のあまりの「普通っぽさ」に一抹の寂しさを感じることもまた確かなのである。これは、あくまで個人的にではあるが。。。 7点(2004-10-10 19:45:37)(良:1票) |
218. 仁義の墓場
実在した石川力夫については知らないが、渡哲也演じる主人公は、かなりヘヴィーな人物である。映画も「仁義なき戦い」の流れを汲みながら、そんな主人公を中心として、よりディープな雰囲気を漂わせる。深作の手にかかっては渡哲也もこうなってしまうのか。。。敢えて渡哲也が演じる必要があったのかどうか分からないが、まぁ作品としては、なかなかすごみがあります。というか、凄すぎるよ。 9点(2004-10-09 22:32:40) |
219. シルバラード
ローレンス・カスダンズ・オールキャストによる西部劇。やっぱり「再会の時」の影響か、日本でいう団塊の世代、ベビーブーマー達が若き日の挫折や心の傷を抱えながら、家族や仕事という世間的な安定に対する無意識の不安と常に葛藤し、自らの心の支えとなるべく「精神」を確立しようともがき奮闘しつつ、極悪牧場主に立ち向かう西部劇、という感じが漂う。。。まぁこれは半分冗談ですが、実際、とても若々しく、颯爽としたニューウェイブ西部劇に仕上がっていると思います。ケビン・クラインやスコット・グレンにはまだまだ西部劇の主人公たる圧倒的な存在感がなく、なんとなく弱々しいところもこの世代の西部劇らしいですね。 8点(2004-10-09 22:29:18) |
220. レディホーク
《ネタバレ》 ミシェル・ファイファーとルトガー・ハウアーが素晴らしい。妙にもやけた軽々しいファンタジーアクション映画。確かにその通りですね。80年代特有の陳腐なバックミュージック。確かに。でも、僕は好きだなぁ。ミシェルとルトガーという孤高かつ美的なカップリングの妙。それはまた動物的な御姿を持つ二人の孤高性でもある。そりゃなんてったって鷹と狼なんだからね。間を取りもつ語り部たるマシューの独白も僕は良かったと思いますよ。呪術に捉えられた二人が異形の相手を思いやる姿、人間に戻った二人が抱き合うラストシーン。ラブストーリーとしてもなかなか魅せます。MTV的なスタイリッシュさは「ストリート・オブ・ファイヤー」に通じるものがあるかな。良くも悪くも80年代的センスでしょう。 8点(2004-10-09 22:28:11) |