2201. 口裂け女
なんで今さら口裂け女かと思ったが、以前流行した親の世代と子の世代との30年の差を置くことで、親の子への虐待というモチーフを潜ませる深い企みがあったのだった。母の子である男教師と子の母である女教師との冒険を通し、ローレンツの動物行動学が、愛と攻撃とは同じ根を持つと指摘しているような、そういう母性の根源的な衝動の両面を探ろうとした意欲作なのである…って感じなのかな、とうっかり最初のうち思ってしまった私を笑ってくれ。だってこいつらへんなんだもん。男教師は己れの幻聴に導かれて車走り回ってるし、女教師は女を刺殺してその子を憐れんで、でも一緒に車で走り回ってる。こいつらの行動に確からしさの裏打ちが出来てないので、観客は置いてきぼりを食い、その間もドラマはただただ陰惨に進行する。もう途中で製作者が観客にどういう反応を期待しているのかすら分からなくなっちゃった。呆然とするにもけっこう体力がいるらしく、ラストでは疲れきってすっかりウツロ、サトエリに向かい「そうですか、ハイ、分かりました、どうもご苦労様でした」と弱々しく呟いて電源を切った。 [DVD(邦画)] 4点(2008-02-25 12:21:50)(良:1票) |
2202. 血を吸うカメラ
《ネタバレ》 精神科医との場で何かがプツンと切れてから後が怖い。覚悟が決まった、っていうか。自分のドキュメントの完成に邁進していく。これから犯行に及ぶ店と時刻(時計)を映し、二階から見張っている刑事を映し、ついに自分に迫る警官を映し、記録していく。フィルムってのは詰まるところ、やっぱり記録装置なんだな。記録するということの受動性と、映像作家としての能動性、この葛藤が映画には常にあって、この主人公はその裂け目を不必要に意識し過ぎてしまったのかもしれない。冒頭、目のアップで始まるように、見てしまうことの病いがずっと底でうずいている。ヒロインが犯行を知ってしまう映写のシーン、好奇心・笑み・不思議・不安・戦慄・恐怖と変化していくワンカット! [映画館(字幕)] 7点(2008-02-24 12:26:37) |
2203. チャタレイ夫人の恋人(1995)
ケン・ラッセルのチャタレイ夫人というので期待して見たら、ぜんぜんケバケバしくなくて地味。中世風の仮装してチャールストンを踊るあたりにちょっと「らしさ」が感じられたくらいで、まあ普通の文芸映画だった(なんでもテレビ向けに作ったのを編集したとか)。石炭坑のモチーフが、地下深くに埋められていた労働者階級やら無意識やらが陽の当たる場所に運び出されてくる時代になった、ってこと言ってるみたい。かくして20世紀のテーマは“自由”ということになる。イギリス映画って、嫁き遅れた長女や女中頭などをやらせると、いい女優が多いような気がする。 [映画館(字幕)] 5点(2008-02-23 12:00:13) |
2204. バベル
バベルの塔の話は、砕いて言えば「兄弟は他人の始まり」ってことでしょ。悲観的な世界観だなあ、と思ってたが、でも逆に考えれば「すべての他人は元兄弟」ってすごく楽観的な世界観でもあったんだ。たしかに一本のライフルから広がる波紋は暗い事態を引き起こしていく。3つの国の警察が動き、3つの国の子どもたちが救助を求める悲鳴をあげる、声にならないものも含めて。でもこの悲鳴は、もしかするとそれぞれが孤立しないでこだまし合っているのかもしれない。だとしたら、かつて兄弟だった先祖たちのつながりを回復する手立てが、まだあるってことでもあるんじゃないか。日本のディスコのざわめきをどうかしてメキシコの結婚式のざわめきにつなげられないか、ヘリコプターが行くモロッコの夜を(崩壊する前のバベルの塔を思わせる)日本の高層マンションの夜につなげられないか。楽観的すぎるだろうか。でもいま世界は、無理にでも楽観的にならなければならないところまで、追い詰められているような気がするんだ。 [DVD(字幕)] 6点(2008-02-22 12:19:32) |
2205. たそがれの維納
辛辣さに優しさが隣り合っていて、人の弱点をとがめだてしない。ヒロインだって積極的に社交界を告発するわけではなく、憧れたりもする。色男も純情を持つ。すべて批評的ではあっても批判的ではない。そこらへんの程度のわきまえが心地よい。もちろん20世紀前半のヨーロッパを描く以上、かすかな腐臭は漂う。でもたとえば「地獄に堕ちた勇者ども」のように、程度をわきまえずその腐臭漂うなかをごろごろ転げ回るほど不健全にはなってなくて(あれはあれで大傑作ですが)、いたって健全におさえている。冒頭のテープが投げ散される中を後退していく移動の華やかさ、夜会で色男とダンスする田舎娘のときめきを伝える横移動など、その上品さが身上。そして最後はかすかな腐臭も消し去るように雪で清らかに締めている。この年、ヒットラーが首相に就任した。 [映画館(字幕)] 7点(2008-02-21 12:26:05) |
2206. 大理石の男
映画はある程度ナマものだから、この時代のポーランドの熱気と無関係に本作を見ることは出来ない。映画自体、別に映画史の古典になりたいとも思っていないだろう。時代へ向けて発言する熱気とそれを支える決意こそが、この映画の感動の核だ。かつて50年代に犯したポーランド映画人の過ちをもう繰り返したくない、という反省と責任が感じられる。レンガ積みの場面、主人公のみじめさと、個人が個人としての誇りを持つなどと思ってもいない党の残酷な視線を描いていて素晴らしい。見てはいけないものを見てしまうと下を向いてしまったカメラと、ヒロインのしつこく食いついていくカメラとが対比される。反省の映画っていうと、なんか後ろ向きに思われそうだが、でもそれは次代への期待の映画ってことなんだ。 [映画館(字幕)] 7点(2008-02-20 12:21:21) |
2207. 幽閉者 テロリスト
わあー、60年代のATG低予算映画的気合いプンプンの作品。ノスタルジーと一番離れたような作風だが、なんかとても懐かしかったのは確か。こういったとんがった「ひとりよがり」が日本映画から消えてしまって久しい。でも、映画史って「ひとりよがり」が普遍を獲得していく歴史でもあったわけで。あの政治の時代を内側から体験した監督がどう総括するのか、と思って見ていたが、総括なんかしない。地下の革命家まで呼び出して、さらなる討論と試行錯誤(思考錯誤と表記したいところ)を繰り広げる。もうトリックはいらない、と叫ぶ主人公。現在の眼からはあの政治の季節は、ついに思考が地に足をつけられなかった観念の時代と見えるが、あの時代の眼でこっちを眺めれば、その無思想ぶりは、誰かがわざと仮装させているなんらかのトリックにしか見えないのだろう。 [DVD(邦画)] 6点(2008-02-19 12:23:35) |
2208. 大閲兵
《ネタバレ》 軍隊の訓練を群像ドラマで描く。閲兵式の96歩のために一万歩歩き通す訓練、でもその馬鹿馬鹿しさで軍隊を告発したわけでもない。それが無益であればあるほど、成し遂げたときに、奉仕する「忠」の心はより純化されていくという考えもあるからだ。3時間直立する訓練なんてのもそうで、馬鹿げているほどある種の陶酔も湧いてくる。人間が集団でいるだけで魔力が備わってくる。ナチにはまったく共感を覚えないにもかかわらず、リーフェンシュタールの「意志の勝利」で人々の行進を繰り返し見せられると、なんかしらん湧きあがる高揚を意識した記憶がある。この映画、作成段階で当局の干渉もあったそうで、作者の意図をあれこれ忖度しながら見なければならなかった。しかし逃げた新兵が麦刈りする農民たちに出会うところでは、文句なしに感動した。生産する労働と生きることと幸福とが、イデオロギーに染まる以前の段階で合致している世界、その世界が逆に、軍隊というものの異様さを鮮やかに照らし出した。当局はここをこそカットさせなければならなかったのだ。 [映画館(字幕)] 8点(2008-02-18 12:29:34) |
2209. にっぽん戦後史・マダムおんぼろの生活
横須賀のバーのマダムへのインタビューで綴った映画なんだけど、印象に残る二つの証言。60年安保のデモで樺美智子さんも1000円で雇われたんだと信じ込んでいるところ。もう一つはベトナムのソンミ虐殺事件について、アメリカ人は紳士的だからそんなことするわけがない、報道写真は病死した子どもを集めてきて写したんだろう、と思っているところ。想像力が欠如しているのではなく、自分の信念に合わせて想像力をフル回転させている。ここらへん今村さんがカメラのこっち側で、いいぞいいぞと面白がってるのはよく分かるんですが、う~ん、これからの打算的な人生設計の証言といい、今村のフィクション映画に向いたアクの強すぎる人で、もっと別の素材として生かしたほうがよかったのではないか、という気も少々。 [映画館(邦画)] 6点(2008-02-17 12:26:23) |
2210. 気球クラブ、その後
《ネタバレ》 ケータイだけでつながっていた緩やかなグループが解散し、青春は終わったなあ、って思う話。社会人となったそれぞれが、都会の上空に浮かぶ気球を見上げるシーンがあって、もしかすると最初のシナリオではあそこをラストシーンに予定していたのではないかと疑っている。でも永作博美の泣き笑いが圧倒的に素晴らしかったので、編集の段階で順序を入れ替えたということはないか。実際この映画の印象は、平凡な青春もので終わるところを、あのラストの永作で一段濃く刻みこまれる。ついに地上での生活に降りてこようとしなかった「うわの空」のムラカミさんへの、切々としたもどかしい想いが堰を越えて溢れだし、その童顔の眼にはいつ狂気に振れてもおかしくない光すらアンバランスにきらめき、演出ではなく演技であれだけぞくぞくさせられたことは、最近めったにない。 [DVD(邦画)] 7点(2008-02-16 12:27:29)(良:2票) |
2211. 女衒 ZEGEN
この主人公伊平治、お国から大義を示されると、すぐそのとおりだ、と納得してしまう。女郎のほうが、何やこのおっさん、って感じで醒めて見てるのに、本人は自分の正義に酔っている。ああ、これぞ近代日本人の素顔です。国立娼館という究極の夢、天皇の立派な赤子として認められたいという希望が一方にあり、明治天皇の写真をいただきながら子孫づくりに励むあたりの滑稽と哀切は、もう本人が天皇になっちゃって小日本を作ってしまっている。作者は、馬鹿なことやってんの、という醒めた目を採りつつ、そのエネルギーには敬服してしまう。愚行の狂熱への批判と感嘆。今村昌平の基本姿勢ってこれだと思う。本作の場合、それが近代日本史そのものに重なった。 [映画館(邦画)] 6点(2008-02-15 12:19:19) |
2212. ぼんち
訃報を目にし、つい市川崑のベストは何か、なんて不毛なことを考えてしまった。おそらく何本もの作品が気分に応じて入れ替わり立ち現われてくることだろう。今の気分だと「ぼんち」だな。崑の女性映画のエッセンスが詰まっている。今なら誰もが船場吉兆の女将を思い出すであろう毛利菊枝、おとなしい役が珍しい山田五十鈴、ただただ「お嬢さん」な中村玉緒、しっかりしている指輪コレクターの若尾文子、ひたすら尽くす草笛光子(彼女のシーンで芥川也寸志はのちのNHK大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマを使用)、モガの越路吹雪、色気なら京マチ子、女中の倉田マユミも大映時代の崑作品の貴重な配役だ。これら最強キャスティングに、男は雷蔵と船越英二で対抗。強い女に対する弱い男の抵抗のドラマは、当然のように男の敗北で終わり、女性への畏れと賛仰が後に残る。演出スタイルはもう完成しており、崑の一つの頂点だと思う。 [映画館(邦画)] 9点(2008-02-14 12:24:30)(良:1票) |
2213. 世界最速のインディアン
暴走老人の話にしては、演出が慎重な安全運転で、ちったあこのじいさんの爪の垢でも煎じて飲め、とカツを入れたくなる。近所のものが「結果なんかどうだっていいから」とにこやかに送り出したり、現地でも「まあ走らせてやれよ」とにこやかに励ましてくれる。その「にこやかさ」にくるまれた安心して見下ろしてくる弱者扱いの視線に、じいさんは反発したりはせず、ただただ自分の行動で答えを出す。せっかくいいモチーフを含んでいるんだから、ソツなくまとめることに腐心せず、おもいっきり弾けて暴走してこそ、このじいさんにふさわしい映画になったのじゃないか。スポーツとして楽しみたいのに、感動の障害者ドキュメンタリーにしてしまうパラリンピックのテレビ報道をふと思い浮かべた。 [DVD(字幕)] 5点(2008-02-13 12:14:20)(良:1票) |
2214. 人生のお荷物
斎藤達雄に吉川満子という「生れてはみたけれど」のゴールデン・コンビ。そう思えばあれのアンサーみたいな映画でもある。子どももつらいが、親であることも大変、って話を別サイドから照らして。失敗で出来ちゃった末のせがれ、なんとなく父親としては鬱陶しい。別にそれで子どもがいじけてるわけではなく、すすきを帽子に挿して乃木さんになって遊んだりしてる。松竹の小市民映画だから、深刻にはならない。娘をすべて嫁がせ、やれやれと思う父親の視線になったカメラが、のんきに眠ってる息子に寄っていき、ああまだあいつがいる、というガックリ感になるところがおかしい。で、小僧にでも出してしまえ、となって別居騒動になるのが本筋だが、斎藤達雄は、なにかクサってる風情が実に似合いますな。ブツブツぼやきながら、でもけっきょくそんな程度の不満で日々を送れている新しい階級として、斎藤達雄に代表される小市民が発見されたのが、この昭和最初の10年なのでしょうか。 [映画館(邦画)] 7点(2008-02-12 12:26:32) |
2215. ザ・ミッション 非情の掟
《ネタバレ》 アクション映画の最大の見せ場は、アクションを封じられる場面にあった。ショッピングモールでの狙撃のあと、5人のボディガードがそれぞれの方向を向いたまま彫像のように凍りつく。動けないこと・動かないことの緊張が凄まじい。映画は動きを描けたと同時に、動けない時間も描くことが出来たのだ。ラストにもレザボア・ドッグス調の凍りつきが用意されている。ハリウッド映画で車をやたらひっくり返されるより、こういった沈黙の凍りつきのほうがよっぽど御馳走だ。男どもが丸めた紙くずを黙って蹴りあってるシーン、べつにどうってことない場面なんだけれど、あれがあることで、彼らの間に裏切りは起こらないと確信できてしまう。いいねえ、寡黙な男の世界は。 [DVD(字幕)] 7点(2008-02-11 12:17:33) |
2216. 親鸞 白い道
面白い映画かと問われたら、そうではないと答える。なら芸術性が高い映画か、と問われると、そうでもないんじゃないかなあ、と濁す。分かりやすい映画か、と聞かれたら、きっぱり、NO、と答える。すると最後に、じゃあしょうもない映画ではないか、と来るだろうが、そしてらなんかすごく弁護したくなる。言いたいことがいっぱいあるみたいな映画なんです。70年代以降かなあ、日本の映画は、何を語るかよりも、いかに語るかのほうに重点が置かれてきて、それは大事なことなんですが、でもたまには言いたいことが詰まってる映画も見たい。これはもう不器用なぐらい詰めちゃってて、登場人物の関係もよくわかんなくなっちゃって、不親切きわまりないんですが、でもこの渾沌に身をひたすのは、ああ、まだ言いたいことがいっぱいあって映画作ってる人がいるんだ、って分かって、けっこう気持ちよかったんです。 [映画館(邦画)] 6点(2008-02-10 12:21:26)(良:1票) |
2217. 少年義勇兵
《ネタバレ》 1941年12月8日って聞くと、もう真珠湾しか出てこなくなってるけど、マレー半島上陸ってのもあるんだよな(マレー沖海戦は10日)。歴史の記憶って、どうしても太字で記されることしか残っていかなくなっちゃう。でも細字の歴史もやっぱり歴史なんだ。タイはすんなり日本軍に道をあけてくれたわけでなく、半日の戦闘があった。他国の軍隊が通過するにはそれなりの屈辱があったわけだ。別に反戦映画ではないので、そこにのみ焦点が当たってるわけではないが、このけっきょく無意味だった戦闘の徒労感が重く残る映画。弟の学資のために日本人と結婚している姉という設定など、微妙に現在にまで通じているモチーフなのかもしれない。中盤にあるのどかな軍事演習シーンが、後半の手持ちカメラ多用のドキュメンタリー的な戦闘シーンに向けて、対比の効果を挙げていた。 [DVD(字幕)] 6点(2008-02-09 12:21:58) |
2218. 少年期
ニワトリがいなくなった朝、探しに畑に出ると兵隊たちがシルエットで暁の行軍をするところ、少年が純粋に感動の涙にむせんで悲壮なタッチのテーマ曲がかぶさってくる。ここだけとればもう完全に戦時下の国策映画だ。「陸軍」のラストを思い出す。「陸軍」は、軍からお叱りがきたので、今では反戦映画ということになってるが、あの行軍は、母を振り切ってまでお国のために出征していくのだ、という雄々しさとして当時は捉えられていたはず。図式としては、戦後作られた本作のこの場面も似てる。こちらの母は、ちょっとうるさい。スケート場に迎えに来たり教師にお願いに行ったりして、子どもにすれば、たまんねえなあ、という感じがある。その子どもが、母のいない朝、軍の行進を憧れて見ている。この図式、遠くへ出発する息子・遠くへ出発したがる息子と置いていかれる母、という図式が持つ感覚のレベルでの痛みのようなものを、とにかくこの監督は描きたかったのではないか。それは肯定するとか否定するとかいうイデオロギーのレベルよりも深い地盤に根を下ろしているので、戦時下の作品でも戦後の作品でもかまわなく現われてくる。本物の映画作家とはこういうものだろう。 [映画館(邦画)] 6点(2008-02-08 12:22:13) |
2219. 地獄の英雄(1951)
《ネタバレ》 他人の事故で盛り上がる大衆の物語。生き埋め事故に遭遇したジャーナリストが、その救出をドラマチックに演出していくの。それに乗ってくる大衆の興奮のエスカレーションぶりが、さりげなくもすさまじい。現場に集まってくる野次馬たち。そのうち入場料を取るようになり、人混みの向こうでは風船売りが仕事を始める。列車で次々と「人の不幸を黙って見ていられない心優しいアメリカ人」たちが訪れ、一番乗りした人はそれを強調する。救出現場のそばに遊園地ができて人は遊び、助からなかったと知ってはさめざめと泣く。これはまだ新聞がメディアの中心だった時代の話で、現在のテレビ時代はもっと過激にカーニバルが展開している。これだいぶ昔に見たんだけど、この辛辣さが強烈だったんで、その後ワイルダーの喜劇を見ても、どこかひんやりしたものを常に感じてしまうのだった。原題が「THE BIG CARNIVAL」で、ひどい邦題付けたなあと思ってたら、ワイルダーの付けた題「ACE IN THE HOLE」を、不入りで会社が変えたのだそう。邦題はけっこう忠実に訳していたわけだ。ワイルダーは対談本で「ノータリンめが」と題の改変を憤慨してたが、凡人の私には「ビッグ・カーニバル」のほうがいいように思うけど。 [地上波(吹替)] 8点(2008-02-07 12:24:46) |
2220. 香華
木下恵介における母は、親としての母よりも、家族の軸としての母としてより重要だった。「二十四の瞳」の生徒と女先生もそのヴァリエーションだったわけ。でも本作では、あくまで娘と母との関係が中心。家なしでやっていこうとした娘(岡田茉莉子)と母(乙羽信子)との葛藤の話。家族の軸になろうなんてこれっぽっちも思っていない母をめぐって、家という枠から脱した一代記ものドラマがドロドロと展開するところが、木下としてはかなり異色作である。家から浮いてしまった女性だから、あれまで墓に固執したということで、家のモチーフは底に潜んではいるのだけれど。 [映画館(邦画)] 6点(2008-02-06 12:16:44) |