221. ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ
「ハムレット」に登場する二人の端役、ストーリーの展開のためだけに登場して無意味に殺されていく二人。シェイクスピアの時代はそういうものだったが、20世紀は彼らのような人間こそが主人公になる時代だ。投げたコインがいつも表になってしまう世界。限りなく微少にされていく確率の中にのみ存在し得る世界でもある。この二人からハムレットの悲劇を眺め直してみると、エルシノア城はカフカの城になり、悲劇はブラックユーモアの喜劇に姿を変える。この二人コミで“ローゼンクランツとギルデンスターン”で、どっちがどっちでもいい存在だった。G・オールドマンは作品を通して科学発達史を演じており、もうちょっとで歴史上の発明家として名を残したかもしれないが、王の使い走りに潰されていく。そういう理不尽さ。荘重な死を与えられる主役と、馬鹿馬鹿しく死んでいく小物たち。オールドマンとロスを本作で、コミで覚えたような気がする。さて、これを観たころラップに凝っていて、以下のようなものを作っていた。ローゼンクランツ生まれはフランス?/いやいやスイス?それともドイツ?/マインツ?グラーツ?はたまたリンツ?/どこでもかまわぬ架空の人物』怪しい一座の座長はサターン/操られるはギルデンスターン/芝居の幕が上がった途端/どっこい元へはノーリターン』コイン投げてるローゼンクランツ/確率論など所詮へりくつ/「表」「表」と賭けてまた打つ/馬はお城へ一歩ずつ』一人のせりふを二人で分担/ローゼンクランツ・ギルデンスターン/どちらがブオトコ?どちらが美男?/見分けは困難なんでも半々』たそがれてゆく時は暮れ六つ/狂った王子は何やらブツブツ/気分は鬱屈とにかく憂鬱/何すりゃいいのかローゼンクランツ』何を目にするギルデンスターン/無惨凄惨阿鼻叫喚/人の本性所詮は野蛮/悲劇のもとは一つの王冠』前の王様とっくに成仏/幽霊よりも城こそ怪物/迷い込んだるローゼンクランツ/さながら二人は不思議のアリス』ギルデンスターンどうにも不安/波に揺られて処刑の予感/気分は暗澹将来悲観/こんな人生もういや~ん』もうあと一歩で科学の理屈/見いだし損ねるローゼンクランツ/落下の法則飛行のバランス/発見できずに立たない面子』すちゃらかちゃんちゃん、すちゃらかちゃん。 [映画館(字幕)] 7点(2013-08-07 09:39:20) |
222. 密殺集団
疑わしきは罰せず、って言ってもモヤモヤは残り、かつて田中角栄が嘱託尋問の無効を主張したときには、そんな! 逃がすな! とか思ったし、でも再審請求の裁判のときなんかは、そうだ! 慎重にやってもらわねば! とか思うし、こっちもかなりいいかげん。ふらふらしてる。裁くって難しいんです。だからこういう映画、判決に悩んだ判事が秘密の裁判を行なう組織、なんてのも想像される。日本でも似たような時代劇が創造される。「悪い奴を逃がしてるかもしれない」という不快のほうが「無実の人を裁いてるかもしれない」という不安を凌駕してしまってるんだな。ストーリー上は一応「いけないことだよ」と言ってるんだけど、心理上は彼らの言い分のほうに説得力を置いていたようで、あんまりいい後味ではない。ラストの廃倉庫のタルコフスキー的水はちょいとよかった。 [映画館(字幕)] 6点(2013-08-06 09:18:37) |
223. ヒルコ 妖怪ハンター
《ネタバレ》 せっかく「古事記」をベースにしてるのに、オリジナルなものを創出できなかった。宣伝では、世界的レベルで作ったとか言ってたが、どこのことを言ってたのか、自国の文化からしか生まれないオリジナルなものを作り上げることが世界性のはずだ。夏の校舎の静かな感じはそう悪くないのだが。手作りの兵器も悪くなく、あそこらへんのユーモアをもっと生かせなかったか。殺虫剤が最終兵器になるの。自転車に乗って夜の廊下を走るってのもいい。のどかな昼のピクニックの幻想になって、主人公が月島嬢に穏やかに電動ノコギリで首を切られそうになるとことか。理科室、給食室、音楽室、用具室などが舞台になる。給食室が一番力が入ってたか。校舎ってのは、やはりホラーの舞台にふさわしい。 [映画館(邦画)] 5点(2013-08-05 09:08:50) |
224. 沓掛時次郎(1961)
《ネタバレ》 映画は原作から自由でいいとは思っているが、外せないポイントってのはあるはずで、本作では時次郎が三蔵を斬るのは外せないんじゃないか。この映画では一太刀浴びせただけで義理は済ませたと後は刀を納め、三蔵は悪い一家の連中に斬られる。主人公を殺人犯人にしてはいけないと配慮したのか。原作では母子が見ている前で斬っている。映画の作り手は“夫を殺したのは時次郎とおきぬが思い込んでいるようにしといたから、さして不都合はなかろう”と思っているようだが、主人公の「疚しさ」が任侠ものの世界では重要なわけで、カタギになろうとするのも、これがないと説得力が弱い。ただの「正義の味方」になってしまっている。悪玉の須賀不二男がおきぬを狙ってもいるという設定にして、悪辣ぶりを倍加し、主人公が渡世の義理に悩まないですむようになっている(この須賀さん、悪役の常連でありながら小津映画ではとぼけた味を出す常連で、不思議な役者)。雷蔵のいいのは粋なところで、おきぬと門付け唄をして回るあたりの世話に砕けた部分に味わい(カメラが極端な俯瞰の宮川一夫)。最期の呼びかけが「おきぬさん」から「おきぬ」になるのが、ラストの太郎吉の「おじちゃん」が「お父ちゃん」になるのに対応する。忘れたかったのだが、一応書いとくと、橋幸夫の歌が二つもはいります。親子旅の合い間に「沓掛時次郎」の1番2番、傷心で棚田の奥の白い一本道を行く美しいシーンのあたりでおそらく「浮名の渡り鳥」って別の歌がはいり、ラストで3番を歌い上げると、そこに女声コーラスがトキジロートキジローとエコーのようにこだまし、やけにモダンなフォントの「終」が出るのだった。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2013-08-04 08:57:51)(良:1票) |
225. 虚栄のかがり火
冒頭のB・ウィリスの長回しの印象がどうしても強い。酔いどれてホテルに到着してから会場に行き着くまで。カートに乗ったりエレベーターに乗ったりしつつ、わざと失敗を許されないようなアクションばかり織り込んでいる。お盆を引っくり返したり、ケーキを手づかみで壊して壁に投げつけたり、「長回し」というドキュメントを見ている感じで、これでいいのかな、とか思ってるうちにT・ハンクスの物語に入っていき、やがてウィリスも絡む。検事や黒人宗教家をもっと膨らませ、全体をグツグツ煮立ってる「虚栄の都市」として笑い飛ばせればよかったのに、あんまり笑いが弾けてくれない。デモのふりして自宅に帰ったところのパーティシーンなんかけっこう良かった。猟銃撃っても、みんなただ笑うばかり。判事までは笑い飛ばせなかったところが弱点。「裁く人」になっちゃって、説教しちゃう。B・ウィリスは良かった。どこか一途になりきれない雰囲気があり、人物にゆとりが生まれてる。 [映画館(字幕)] 6点(2013-08-03 09:54:19) |
226. ステキな金縛り ONCE IN A BLUE MOON
《ネタバレ》 幽霊が証人になる、というアイデアから始めて、もっと膨らませられると思ってたんだろう。書いてるうちに大きなリングに育って、最初は予想もしてなかったテーマなりコメディのモチーフなりが形作られるはずだったのに、そこに至らず小さなリングのまま結ばれてしまった、という気がする。法廷もの・事件ものは勝手を知ってるし、何とかなろう、と思ってたか。幽霊がテレビを見てて世情に疎くない、ってのが珍しく、現代との落差で笑いをとる安易な手を使えなくしたが、「幽霊なのにけっこう世情に通じてる」という安易な笑いに行った。「中井貴一には見える」はもっとギャグの面で使えそうだったが、もっぱら科学至上主義者の困惑なり、弁護士と検事の友情なりの、ストーリー上での扱いに絞られた。阿部寛があっさりあの世にいっちゃう展開は、うまく持っていけば豪快な笑いを生めそうだったのだが、もったいない(死のベッドの向かいのソファにカット内で移ったのは良く出来ました。不意のタップはもっとアップテンポで出来れば弾けたと思う)。阿部や深津絵里らはうまく西田敏行のトーンに合わせられたが、浅野忠信は困りながら演じていた印象。 [DVD(邦画)] 6点(2013-08-02 11:07:15)(良:1票) |
227. バイオレント・サタデー
ジョン・ハートの気持ち悪さがいい。決して薄ら笑いでなく、ニコニコする微笑で不気味さを出せる人。ウィークエンド・パーティ、離れた部屋の画面に不意に映ってしゃべりだす不気味さ、しかも消えなくなっちゃって天気予報のまねをするギャグつき。プールでのささいな喧嘩、夜のテレビでのスイス風景、など緊迫は高まっていって、それを見ているJ・ハート。怪物だ、とか言うんだけど、そのときゆっさゆっさ体を動かして、おどけて怪物のまねをするんだよね、気持ち悪い。レーザーガンで食堂こなごなのスローモーションのペキンパー印。ビデオ見詰め続ける男の不気味さは、現代の不気味さ一般に通じるものがあります。 [映画館(字幕)] 7点(2013-08-01 09:34:15)(良:1票) |
228. シザーハンズ
まずFOXタイトルのとこに雪が降っている。子どもに昔話を語る老嬢、窓の外に古城。一転してピンクやイエローのカラフルなおもちゃのような非現実的な町。古城だけでなくそれを際立たせる世間の造形がちゃんとある。抜けるような青空。そしてD・ウィースト。うまい人だなあとは思ってたけど、「単純」を的確に演じられるうまさってあんまりないよ。化粧品のセールスに荒れ果てた古城に入っていく人を自然に演じられる。でエディの登場。他人に触れることが出来ない、一種の加害妄想の現実化なわけ。社会適応の訓練。学校で紙切りやるのなんか楽しい。その彼が盗みを手伝わされちゃうとこからフランケンシュタインの怪物的哀しみが出てきます。武器を捨てて出てきなさい、って言われたってね。群衆によって化け物にされていく。芸術家の不幸の話でもあるか。人に触れる手の代わりに、創造するハサミを得てしまった男。寓話の映像化として最良の成果。 [映画館(字幕)] 9点(2013-07-31 09:40:03)(良:2票) |
229. カポネ大いに泣く
トランプ遊びをしている加藤治子、そのつながらないカットの効果など、ワクワクしたのは最初のうち、なかなか本調子に入ってくれないままアメリカに行ってしまう。“部屋の中に真新しい盥”の図なんかいいんだけど、雰囲気の統一がないっていうか、たとえば『陽炎座』はわけ分からないながら「怨み」いうものに集中していたが、そういう軸が感じられない。日本人の意地とか、男を立てようという意気込みとか、さむらい論とかに拡散して、ジュリーのあっけなさ・ショーケンの無様さなんか清順的だとは思うが、今回はシナリオに『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』の田中陽造が加わってなく(田中はもっぱら相米と組み、次に清順とは『夢二』になる)『悲愁物語』の大和屋竺。清順映画ってシナリオなんかどうでもいいかと思いがちだったが、そうでもないんだな。監督に好き勝手させるには、それなりの線路を敷いておかないとダメらしい。 [映画館(邦画)] 5点(2013-07-30 09:46:37) |
230. グレムリン
製作総指揮がスピルバーグで、当時はその名前の牽引力は強く、それが全然スピルバーグの世界と違うところにいろいろ発見もありました。全体ヒステリックな感じ。ネバネバドロドロ志向。とにかく気色悪さのほうを選ぶ。ジュースにしちゃったり、電子レンジでの爆発とか。プールでの大増殖から乱痴気騒ぎになるのはスピルバーグも好きだが、こっちは陰性の活気なんだ。騒いでいるのが小悪魔なんだから仕方ないんだけど、ヒステリー志向と関係あるんじゃないか。ディズニーの「ほのぼの」からはずいぶん遠くまで来たなあと思い、こういうのが悪いと言い切る自信はないけど、ヒステリーの忘我状態を楽しむ・暗いはしゃぎの世界ってのはその後増えましたな。スクリーンを引っ掻いてやってくる一瞬は面白かった。 [映画館(字幕)] 6点(2013-07-29 09:33:42) |
231. スプレンドール
閉館まぎわの映画館、その臨終のときに見る意識の流れのような映画。「すいません、帽子をとってくれませんか」と頼むと長頭で…、なんてエピソードを挟んで、そういう細かいところは悪くないんだけど、どうしてイタリア映画はこう懐古的、愚痴っぽく、内閉的になってしまったんだ、と思っちゃう。不健康。ぐずぐずと滅んでいく己れにどこかうっとりしてしまっている。なぜ映画はすたれてしまったのか、っていうことに反省しないで、テレビのせいにばっかりする。ま、そんな反省をわざわざスクリーンで観たいとは思わないけど。映画が映画を描くときの一番良くないパターンにはまってしまった気がする。人の名作を延々と見せて、チョロチョロとつまみ食いで時間を構成するって、それこそ一番テレビ的じゃないか。ラストは開閉式の天井から雪が降りそそぎ、取り払われようとしている座席に客が座り込み、まさに臨終の床で見る世界のよう(自己陶酔でありつつ至福でもある)。フェリーニ的。イタリア映画はフェリーニとマストロヤンニの影響から抜けられず、どんどん弱っていった。 [映画館(字幕)] 6点(2013-07-28 09:36:43) |
232. 2001年宇宙の旅
光の急流が起こるまでは、ほとんどゆっくりした動きが主流。宇宙船は猛スピードで飛んでるのだろうが、背景がないので画面上はゆっくりとした動きに見える。無重力の宇宙船内では、吸着靴のせいで、たどたどしい歩きになる。宇宙空間ではゆっくりとした遊泳になるし、人が走るのは体力保持のランニングぐらい。一番激しい動きは、非常脱出用の爆発で本船へ戻るシーンだろうが、その激しさを宇宙空間の無音が飲み込んでしまう(全体音への配慮が緻密)。死はドラマチックでなく、生命維持装置の直線や、デイジーの歌のスピード低下で表現される。宇宙ステーションの回転に合わせたヨハン・シュトラウスのテンポが、全編に持続している(全体音楽への配慮が効果をあげている映画で、リヒャルト・シュトラウスやリゲティをそこで鳴らすのは考えつきそうだと分かるんだけど、あそこにウィンナ・ワルツを持ってくるのはすこぶる非凡)。この「ゆっくり」で押していった後に光の急流が来る。効果は絶大で、まして本作を初めて見たのはテアトル東京の大画面だったので、脚が攣るぐらい興奮した(ああいう前方への疾走は大画面でより効果が出るよう、『地獄の黙示録』のワルキューレの騎行シーンもテアトル東京で見た最初のときが一番興奮した)。それまでゆっくり慎重に歩んできた「宇宙の旅」が、ここで疾走する。未知のものに立ち会うときの慎重さが、未知のものに呼び込まれていく急流になる。ここでヨーロッパ近世風の部屋になるのが、分からないながら昔はキズに思えたが、彼のほかの映画でもあそこらへんの時代への偏愛が見られ、なにか人類にとって一番いい時代と思ってるのか、それでそこから新人類の誕生を願ってるのか、などと理屈をこじつけてもみた。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2013-07-27 09:27:41) |
233. イワン雷帝
いわゆる舞台劇調ってやつで、役者は大見得を切るし、全体押し付けがましい。その「押し付けがましさ」を映画としてギリギリまで肯定してみる、と決意したような作品。だからかえって映画的なはずの戦闘シーンや群衆シーンのスペクタクル場面のほうが精彩を欠く。人物が臭い芝居をしている顔のアップのほうが酔える。横目に盗み見たり、にらみ合ったり、ほんと歌舞伎。ヤアヤアヤアという感じ。そういう押し付けがましさが得た力強さを、もう制御できないぐらいに煮え立たせている爽快感がある。娘が毒杯を口にするあたりの緊迫。思わず掛け声をかけたくなります。第二部にはいっては大司教が芝居仕立てでイワンをいさめようとするとこや、ラストの暗殺など、いい。演劇の儀式性を感じた。こういう方向にリアリズム離れをしようとする流れがあったんだな、と知るのは嬉しい。これをズーッと延長していくと、案外パラジャーノフなんかにつながるのかな? 権力とは何ぞや、いうテーマもあるんだけど、何しろ未完成作品なので、触れないでおくのが誠実でしょう。 [映画館(字幕)] 7点(2013-07-26 10:34:52) |
234. 咬みつきたい
このころ緒形拳は出すぎだったんだけど、こういう軽めのもけっこう選んでたな(『グッバイ・ママ』に続いて)。途方に暮れる役どころ。決断を回避して、当惑して、真正面の遠くを見ているような。自分の居場所を失った仕事人間という設定なの。その困惑ぶりが、やっぱりうまい。吸血鬼なのよ。ファザコンの安田成美とのコンビで、当然のように娘と父の関係も重なる。焼き場で喪服の女が謎めいた接近をしてくる、っていいんだよな。人の生き血を飲むなんてそんな非人道的な、と言ってたのが、ちょっと酸っぱい、とか飲み比べをするようになる。こういうホラーコメディを夏に企画していた時期もあったんだっけ、東宝。というか金子監督は日本では貴重なライトコメディの線を歩んでいた。こういう路線が大きな流れになってたら、邦画界ももっとバラエティ豊かになったのに。 [映画館(邦画)] 8点(2013-07-25 09:13:49) |
235. 達磨はなぜ東へ行ったのか
渋い題材を、渋い顔した人たちで、渋く描いている。深く深く沈んでいこうという意志。タルコフスキー的なものを予想してたんだけど、違った。タルコはかなり自分の世界を作っていく方なのに対して、こちらは自然をそのまま切り取ることことをルールとしてるみたい。タルコだと、水の中に壊れた自転車を置いといたりするけど、この人はしない。老師の灰を撒く水面は、枯葉が彩りを添えるだけ。自然物だけの、手を加えない美しさ。与えられただけの美しさ。西洋と東洋の感性の違いでしょうか。鳥は「畏れ」、牛は「平穏」の象徴か、なんて考えちゃうのも西洋的かなあ。老師を荼毘に付すときの鳥の鳴き声の効果が素晴らしい。そして牛に引かれてもとの寺に戻っていく。別に「禅とは何ぞや」という映画ではなく、「禅のある風景」と思えばいいんでしょ。夏から冬への森のたたずまい。夏の夜の虫の声、秋の枯れ枝のシルエット、といった味わい。少年が漂いだす瞬間は息を呑みます。無責任な西洋観光客の気分で、「う~んZENだ」などと禅を齧った気分になるのが一番いい鑑賞法かも。 [映画館(字幕)] 8点(2013-07-24 09:54:11) |
236. ポリー・マグーお前は誰だ
テレビが映画の題材になってくるのはいつごろからなんだろう。これなんか(66年)けっこう初期なんじゃないか。マスコミのイメージのなかだけで漂う現代のシンデレラ、それに実際おとぎ話的展開を付け加えて語っていく。冒頭の金属ファッションショーが、時代ですなあ。金属の時代の荘厳さ。アルミニウムの神。彼女がアメリカ人てとこにヨーロッパ人の屈折があるよう。ディレクターの家での嫌味の数々、アメリカへの蔑視だけではない。現実とイメージの対比というより、イメージの氾濫に任せてしまう手法。ディレクターが実は魔法をかけられていた王子だったと白塗りで出てきたとこはおかしかった。王子様と手に手を取り写真で旅してまわるとこ、ポリーの顔にどんどんいたずら書きを重ねていくとこ、などなど当時はおそらく「ポップだ!」というだけで肯定されていただろう時代の香りがぷんぷん。 [映画館(字幕)] 6点(2013-07-23 09:21:27) |
237. ホーム・アローン
子どもが家に残ってしまう、という設定をこしらえる部分が丁寧。目まぐるしく走り回って、屋根裏に追いやられ、停電があって、あわただしい出発があって、近所のガキがうろうろしてて勘定の中に入っちゃって、飛行機の座席がバラバラで…、とにかく設定をこしらえてしまえばいいんだ、というテキトーさがなく、そういう設定へ持っていくところを楽しんで作っている。これ大事よ。で一人になったケビンがワーイと喜ぶのがイキる。にいちゃんの部屋を探検できる、甘いものを頬張って暴力番組を見られる。荷造りも一人で出来ないと思われてたケビンが洗濯機を回す。チビとノッポの泥棒二人組が登場。昔のディズニー実写映画にでもありそうな懐かしさ。これが執念で、盗むことより少年を追い詰めることに熱中するのも、トムとジェリーみたいで懐かしい。後半は前半ほど丁寧さは感じられなかったが、クリスマスを背景にすればある種のまろやかな雰囲気が生まれる。ポルカってのは映画ではいつもあんなふうに使われるな(『グッドモーニング・ベトナム』) [映画館(字幕)] 7点(2013-07-22 09:17:33) |
238. ホット・スポット
《ネタバレ》 暑いスモールタウンにブラッとやってきたワルの男が、悪女と運命的に出会ってしまう。清らかな娘に惹かれてマットウに生きかけるが、やはりワルはワル同士の腐れ縁。ついに男をキャッチした女が一瞬見せる切実な表情、堕ちるとこまで堕ちてやろうじゃないかと開き直った男の表情、そこらへんに酔いました。「上辺は酷薄だけども…」「一皮剥けばもっと酷薄さ」。盲目の黒人やゆすり男が不意に立ってるとこ。J・コネリーの靴を見て、すべてを悟る瞬間。悪の魅力が透明感・清潔感にまで高まった純度を持ったフィルム・ノワールの醍醐味。 [映画館(字幕)] 8点(2013-07-21 09:25:02) |
239. 男はつらいよ 純情篇
《ネタバレ》 前作『望郷篇』でひと区切りつけたかったシリーズが、さらなる長距離走になっていった第六作。テーマは大袈裟に言えば「故郷からの独立の難しさ」となりましょうか。故郷へ逃げ帰る宮本信子のエピソードで始まって「帰るところがあるから俺はダメなんだ」と寅は自覚し、「でも俺帰るとおいちゃんもおばちゃんも喜ぶからな」と理由を見つけて柴又に帰る(タイトルでは珍しく故郷の空撮もあり)。ところが帰ると邪険そうなおいちゃん・おばちゃん、その理由である下宿人若尾文子と顔を合わせ…、という段取り。あわせてヒロシが独立したがるという重い話題もあり、親(故郷)の金をあてにする。社長への義理と夢との葛藤はもっと突っ込めるモチーフだが、寅の無責任ぶりで笑いをとってあっさり決着。いつもマドンナ役の魅力を引き出すシリーズだが、今回の若尾はあんまりパッとしなかった。夫が迎えに来るとすぐ帰ってしまうのは彼女の役ではないような。「女って弱いわねえ」と呟くだけ(逃げ帰れる故郷のあった宮本信子との対比)。啖呵売(たんかばい)がたっぷり収録されてるのが本作の特徴。小沢昭一が「日本の放浪芸」を完成した年で、そういう民俗学的なものへ世間の興味があったのか、それとも監督の小沢の労作への直接オマージュだったとも考えられる。「消えつつある文化」としての寅の口上を学生(?)が録音してる場面があり、はっきり滅ぶ側の人間として寅が眺められている。本作の締めとして「故郷ってやつはよう」と寅が言いかけると、電車のドアが締まって最後まで言わせない節度。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2013-07-20 09:57:43)(良:1票) |
240. 小間使の日記(1963)
ほとんどが悪党ばかりの中で、あの少女だけが純粋な「被害者」なわけ。ヒロインが徹底的に彼女にこだわる。偽の証拠まで体はってこさえて、捕まえさせるんだけど、ここらへんの異常さが「ブニュエルだなあ」と納得してしまう。でも「ブニュエル」って心構えを外してみると、よく説明できない心理。あのあと隣家の人と結婚するのは堕落ととるのか。そうじゃないわな。彼女だってどちらかというと悪党の側の人間なんだから。その彼女が一瞬、少女の無惨な死に対して(かたつむり)共鳴した、ってところに希望を感じていいんでしょうか。分からない。脚本は以後も続くカリエールと組んだ最初のもの。「ブニュエル的」って言うとなんか分かった気になれるが、ホントはちっとも分かってない。なのに「ブニュエル的」と言うしかない現象が確実にあるんだよな、この世には。変態の変態ぶりだけはよ~く分かった。変にニタニタしてないのがホンモノっぽい。靴のシーンよりも、自分のハンカチで少女に洟をかませるほうが、変態度を強く感じた。日本でも、何かの検査だと言って小学校帰りの少女の唾液をせっせと集めてたのがいて、変態度の高さに「ブニュエル的だ」と感心させられたものだ。日本文化を嫌ってたブニュエルにも、ちゃんとこういう変態が活躍してる風土だと知らせておきたかった。 [映画館(字幕)] 7点(2013-07-19 10:19:02) |