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プロフィール
コメント数 433
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 56歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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241.  ブラック・レイン
「ブラックレイン」に対する僕の評価は、松田優作に尽きる。<僕みたいに>昔から松田優作が好きで、遊戯シリーズ等に思い入れがある人間でなくても、その圧倒的存在感にはおそらく痺れるのではないかとは思うが。この作品は、癌を患った彼が自らの病気を伏せて撮影に望み、病魔と闘いながらも魂魄の演技をし続けたことがエピソードとして伝えられる。結果的に彼の映画としての遺作となるこの作品で、日本人の役者がハリウッド映画で通用すること、それを自身の命を賭けた最後の仕事としたと言えるわけだ。そんな彼の想いを抜きにしてこの映画を観ることはできない。作品というのは、純粋な客体として絶対的に存在することは不可能だ、と僕は思っている。作品は、個人が観るという行為を通して初めて作品として個人に認識されるのであって、個人が観るという行為には、当然個人的な視点や歴史、或いは偏見が主観的に加わる。つまり作品とは常に鑑賞者と1対1の関係としてあり、評価というのはその関係性から立ちのぼる自身の思いとしてしか現われざるを得ないのである。「ブラックレイン」という作品には、松田優作という役者馬鹿の生き様がオーバーラップしており、そんな彼に対する感情を抜きにして作品を評価しなければならないということは原理的に不可能なのだ。僕はこの映画をストーリーや設定、演出や映像など、映画のあらゆる評価軸を越えて、松田優作の歴史そのものとして評価するのである。
9点(2004-07-04 21:59:31)
242.  A2
「A」と比べて「A2」がそのテーマを明確にしたことによって、出色のドキュメンタリーとなっているということに全く異論はない。そして、そのテーマとは、「オウムと世間との共存の可能性」である。オウムが日本各地に移転するたびに地域住民から排斥運動を受けて、結局追い出されてしまう、こういった構図は僕らも新聞報道等でよく見かける。しかし、映画の中では、オウムを監視していた地域住民ボランティアが監視を続けるうちにオウム信者達と仲良くなり、逆に地域内での一般住民たちの軋轢こそが浮き彫りになる、というケースを克明に描いてみせる。確かにそこで描かれるオウム信者はあまりにも普通の好青年であり、オウムでありながら地域社会に見事に溶け込んでいるように見える。彼らがその地域から引っ越す際には多くの地域住民たちに涙をもって見送られるのである。もちろん、このような例は数少ないに違いない。多くはオウムと地域住民たちとの滑稽なすれ違いの繰り返しなのだろうと思う。しかし、一部ではありながらこういった例が存在し、そんな現実をひとつの可能性として提示し得たことにこの作品の重要なテーマをみるのである。基本的に未だオウムというのが麻原への信仰を捨て切れない、世間から閉鎖した危険な思想団体であることに間違いはないだろう。それは彼らが世間から閉鎖された出家団体であり、世間とは根本的に対立する考えを持った人々の集団であることから既に自明なことである。一見するとそこに出口はないように思えるが、彼らが共存を求めており、僕らが社会としてそれを受け入れることを選択した以上、それが全く不可能ではないことをこの映画が指し示していることは重要である。人には信仰の自由があり、各人が別々の信仰を有しながらも共存共栄していくというのが正しい社会のあり方である。そんな当たり前の社会を不可能にしているとすれば、それは人と人との関係を強烈に捻じ曲げる偏見という名の人格無視だろうと僕は思う。お互いが分かり合える足場を失った状態でも人が人を理解する希望を失わないこと、そのためのシステムを作り上げること、それがこれからの社会の中で重要になっていくに違いない。無条件な憎しみの連鎖にだけは陥ってはいけないのだと僕は思う。
10点(2004-06-27 23:23:14)
243.  
「A」と「A2」を連続して鑑賞した為に「A」の印象というのは若干薄い。これは「A2」の方がより考えさせられる内容だったことにもよるかもしれないが、かといって「A」に見るべきものがなかったかというとそれも全く間違いである。「A」があくまで荒木広報副部長を中心とした物語であるとすれば、オウムという日本を震撼させた犯罪者集団、狂信的宗教団体の中で、あまりにも普通に苦闘し煩悶する彼の姿を浮き彫りにしていることにこの映画の重要な意義を感じるからである。僕は、ある意味で同世代の彼に安堵と共感の念を禁じえなかった。僕らが忘れかけていた青春的な葛藤劇をこんなところで見せられるとは思ってもみなかったけれど。<これを青春映画と呼ぶことに全く異論なしです> もちろんオウムの犯罪は今でも許しがたいものであり、僕らは安易に彼らの信教を犯罪から切り離して認めることはできない。矛盾を抱えた世の中と自分自身との関係に苦しみ、人生に対する絶対的な回答を得たいという彼らの真摯な願望は分からないでもないが、その終着が今でも麻原に行き着くところに捩れた純粋さを感じる。しかし、この映画はその辺りのところは脇に置いておいて、オウムという鬼っ子を完全に排除したいという公安機構や犯罪者集団というレッテルでとにかく押し通したいマスコミや世間の醜悪さを見事に描いており、どちらかというと僕らの側にあり、僕らが意識することなく認めている体制というものに様々な理不尽さが存在することを見せ付けるのである。とにかく偏見というのは恐ろしいものだ。オウムは信者をマインドコントロールするために多くのビデオやマンガを用いたそうだが、今、思考停止状態にある世間をメディアが煽動することほど簡単なことはない。中立であるはずの報道が偏見の為に誤った情報を流し続ける、そういう恐ろしさを感じざるを得ないのである。この映画は誠実な人、荒木氏の廻りの不誠実な公安権力やメディアをかなり決定的に映像化しえたことでドキュメンタリーとして成功したとも言えるのではないだろうか。
10点(2004-06-27 23:09:53)(良:1票)
244.  情婦
アガサ・クリスティは、愛憎を絡めたミステリーに優れている。デビュー作「スタイルズ荘」や本作などはそういう意味で傑作の一つだろう。この作品の展開自体は、そんなアガサのミステリーをうまく再現しているように思える。しかし、この映画の本当の驚きはマレーネ・ディートリヒ、その人に尽きるのではないかな。彼女の演技には感銘以外の言葉が見つからない。
8点(2004-06-27 02:01:17)
245.  シティ・オブ・ゴッド
ブラジル版の「仁義なき戦い」というのは当たっているかな。でも、確かに深作やタランティーノのテイストを十分に感じるけど、登場人物の大半が子供だということはかなり異様である。「バトルロワイヤル」のような完全なる虚構性が前提であれば、純粋に娯楽として楽しめるが、この作品のもつリアルな歴史性は、そのスタイリッシュな娯楽的展開から乖離して、僕らの胸をストレートに突き刺すのである。子供たちが殺し合うということの捩れた純粋さがとても心重く、とても恐ろしいのだ。しかし、僕はこうも考える。この作品が捩れた純粋さと殺人に対する原初的な麻痺の恐怖を描いているとすれば、一体全体、「バトルロワイヤル」的な虚構性とは何なのだろうか、それを描くことのリアリティとは何なのだろうか、と。それはゲーム的虚構性であり、ゲーム的リアリティであるとしか僕には思えない。本来、作品とはそういうものを超えたところで創られるものだろう。歴史性がなければ、人の心は掴めない。というか、人々の心の有り様こそが今描くべき歴史性だ。今、この瞬間にも歴史は創られているということを僕らは認識すべきなのではないか。話はそれてしまったが、この作品が傑作であることに全く異存はない。
9点(2004-06-27 01:44:29)
246.  青春の殺人者
冒頭から中盤にかけてはとても神話的である。「青春の殺人者」というわりには現代<近代>的な自己疎外感からくる青年の孤独や苦悩が感じられず、父子、母子のオイディプス的三角関係を軸とした普遍的な物語でありながら、妙に噛み合わない心理劇にただ座りの悪さだけが残った。しかし、中盤以降、物語は見事にひっくり返る。「青春の殺人者」とは、青春が殺人者ではなく、青春を殺人する、つまり青春こそが殺戮され終焉したことを描いた物語だったのだ。主人公は青年たる資格を十分に備えた人格でありながら、あまりにも無邪気に両親を殺害してしまう。その動機の弱さはまず確信的である。そして、両親を殺した主人公のその後の苦悩と行動のアンバランスさ、その薄っぺらさは、そのまま自己の希薄さに繋がっている。主人公の行動の破綻性は、作品そのものの破綻を綱渡りしながら、その破綻性こそがこの物語のモチーフだと思わざるを得ないのである。ヒロイン原田美枝子は、まさにその補助装置たる存在だ。彼女がどういう役割なのか、実は僕にもうまく捉えられなかったのだが、その訳の分からなさこそが彼女の重要な役割なのかもしれない。<原田美枝子はとても魅力的でしたね。あのイチジクを食べるシーンなどはかなりドキドキしました。> この作品は、もう30年近く前のものだし、感覚的にはもう古典的作品であることは否めない。しかし、この作品が意識的に描いた「青春の殺人」という水脈は、今もずっと繋がっている。もっとドライに、もっと軽やかにではあるが。そして、今や「青春」は全くの死語と化している。
9点(2004-06-27 01:43:21)(良:3票)
247.  世界の中心で、愛をさけぶ
主人公と同じ年の僕は、学生の頃、世界の中心で愛がないことを叫んでいた。もちろん世界の中心は僕で、それは僕に向かって叫ばれていた。当時、100%の恋愛小説というキャッチフレーズで刊行された村上春樹の「ノルウェイの森」が流行っており、この物語に心奪われた僕は、彼の作品を旧作に遡って何度も読み返したものだ。恋愛小説というのは愛に溢れたお話ではなく、恋という自己の病に囚われるお話で、僕はそのやりきれなさと不確かさを現実に持ち込んでは、廻りの人達を傷つけていたように思う。未来すらも既に終わってしまった物語のように強烈なメランコリーに只々取付かれていた。何もかも納得できなかったし、納得したくなかっただけなのに。先日、話題の小説「世界の中心~」を読み、そして映画を観た。何故、今、この物語がこんなにも流行るのか、それはよく分かるような気がする。「君と世界の戦いでは世界を支援せよ」これはカフカの言葉であるが、加藤典洋がこの言葉を自著の表題とした80年代中頃、僕らは、毒虫<自己の喪失>の姿に犯され始めていたとはいえ、まだ内面の名残をもつ「君」<自己>としてキリキリと存在していた。だから加藤典洋は、カフカの言葉を引きながら、失われつつある「君」の存在、その敗北をもう誰も止められない時代に来たことを敢えて宣言しえたのである。今や世界は「君」や「僕」を呑み込んで、僕らは相対化した世界の差異の中にしか自身の存在感を得ることができない。世界の中心なんてないし、それは僕の中心でもない。そんな自明性すら既に失われて、ある種のノスタルジーに覆われた甘美な物語に、漠然とした世界で確かなものとしてあるべき「愛」を叫びたくなるのである。そういう時代を敢えて否定はしない。けど、物語は作り物であっても、本来それは自分の物語を喚起させるべきものだ。特に映画版は僕にとってまるで遠い国の神話のように自身との接点を確認することができなかった。そこから自分の物語にどうつながるんだ~? と叫びたくなる気持ちを僕は捨てがたい。
[映画館(字幕)] 6点(2004-06-26 01:26:40)
248.  エルビス オン ステージ
エルビスが偉大なる復活を果たし、日本でも大ヒットした1970年のライブ記録映画。最近、僕の叔父さんが車で<オンステージ>のサントラ盤をかけながら、運転&熱唱していたのを横で見ていて、「なるほど、団塊の世代の叔父さんにとってもエルビスの歌が響くというのは、この<オンステージ>のせいなのだなぁ」と納得した。僕自身も、高校生の頃、テレビで<オンステージ>を観たときには、さすがに「エルビスすごいぞ!」と感銘し、さっそく図書館へエルビスのベスト盤テープを借りに行った記憶がある。ど派手なステージングも印象的ながら、あの甘い歌声から繰り出される極上のバラードソングには、男の僕でもかなり痺れるものがあった。単純にかっこいいのである。50年代中期から60年代にかけての若々しいロックンロールアイドルたるエルビスも印象的だが、やはり彼がスターとしてステージ上で最も輝き、その虚勢と苦悩をも全身全霊で見せ付けた孤高の<オンステージ>があってこそ、エルビスはエルビス足りえるのではないだろうか。(思い出してみれば、最近の映画で現れるエルビスの亡霊たちも皆この頃のエルビスではないか!日本のスターにしきのあきらも何かって言うとエルビス風の衣装を着ているしね。)彼の<オンステージ>はDVDで発売されている。もうこれは一家に一枚の世界だね。
10点(2004-06-25 02:03:48)
249.  TOMORROW 明日
この映画は、長崎へ原爆が落ちる前日からその瞬間までの人々のありふれた日常を描いている。凡庸な人々の凡庸な日常が説得力を持って僕らの心に響いてくるのは、その背後で着々と進む原爆投下という非日常性との対比においてであろう。悪夢の瞬間によって、彼らの確固たる日常は脆くも破壊されることが暗示されているが、その救われなさこそが、僕にとって、胸が奮えるほどの救いだと感じられたのは何故だろう。この物語は、僕らにとって全く失われた物語として、決して語り継がれない物語としてある。彼らは、原爆の何たるか<破滅という不安>を全く知らずにそれを受け入れる立場になってしまったが、だからこそ、逆に彼らの日常が確固たる足場の上に成り立ちえたという幸福をみるのである。彼らは原爆という意味を知らずに死んでいったが、僕らはその意味を既に知っている。そのことがもたらす無意味な生という観念は、僕らを終末感というメランコリーの淵へ誘う。しかし、この映画が描く日常という確固たるリアリティは、そういう観念をフィクションとして無化し、浄化しているように思えた。この作品は単に戦争という、原爆という悲惨を描く物語としても読めるが、僕にはそれ以上に現代の僕らに向けた逆説的な「救い」の物語であると感じられたのである。
9点(2004-06-25 02:00:36)
250.  ビッグ・フィッシュ
映画っていうのは所詮がホラ話なんですね。そりゃもう巧妙なホラ話。それをリアルに見せれば見せるほど人は満足したりするんです。不思議なことに。そうすると、「この映画は真実に迫っている!」なんて杓子定規な評価が出たりしまして、これは映画っちゅうものの成り立ちからしてそういう傾向があるから、仕方のないことなのかもしれませんけど。映画のジャンルを問わず、ドキュメンタリーであろうが何であろうが凡そ人が撮るものには必ず演出ってものが付いてまわるもんだし、言ってみりゃあ、それは思い込みとヤラセの世界ですよ。映画ってものはそもそもそういう了解のもとに観るべきものなんじゃないのかって僕は思うんですけどね。ホラ話だって、そこに夢や希望が感じられれば十分に幸せを与えられるんです。ということで、ティムバートンの「ビッグフィッシュ」っちゅう映画なんですけど、これが実に大らかでいい作品ですね。クソ面白くもないエピソードを延々と見せられてつまらんという評価もあるみたいですけど、あのつまらん(?)ディテールがラストに大団円となるところが「蒲田行進曲」的な映画愛だとしたら、僕がほんとに評価したいのは、そっちのつまらんディテールの方でして、あれこそがティムバートンなりのささやかな日常への賛歌なのだと思いますよ。映画もホラ話も、大風呂敷な夢や希望があるのはいいけど、それが日常に繋がる「誠実さ」もなくっちゃね。その観せ方には十分なリアリティがあったような気がしますよ、この映画は。実は親父も自分と同じ弱さを抱えたひとりの人間なんだって、この「自分が存在することの原理」みたいなものを認めなければ、本当の意味で自分が親父を赦し、自分を自分として認めることはできないんです。映画の中の息子と同様に、観ている僕たちが知らず知らずのうちにそのことを了解してしまう、そういう父子にとっての現実的な物語でもあるんです。
9点(2004-06-19 11:36:35)(良:1票)
251.  楢山節考(1983)
深沢七郎の原作小説は、おりんという土俗的人生に絶対的従順さをもつ女性の原日本的な奥深さを描いており、その奥深さを信とすることによって現代的な自堕落さの象徴であるけさ吉が救われるという物語である。つまり、おりんがけさ吉という壊れを抱え込むという現代的な問題をテーマとした小説でもあるのだ。今村昌平の「楢山節考」は知られているように深沢七郎の同名小説と「東北の神武たち」をミックスした作品である。「東北の神武たち」とは、奴隷的な境遇である東北地方の農家の次男三男坊たちを総称したもので、この物語の主人公は利助である。利助をこの映画で辰平の弟として闖入させ、倍賞美津子演じるおえいや女性たちとのエピソード、あの残酷な村八分の場面などに「東北の神武たち」の物語を見え隠れさせている。その昔、ある評論家は「東北の神武たち」を「楢山節考」に比べて数段落ちる駄作と称し、「生死の問題と性欲の問題との人生に占める位置づけを計算まちがいした作品」と酷評した。確かにこの映画にみられるちぐはぐさはそういった2つの作品を一緒にしているところからくるのかもしれない。しかし、本当は、この2作品が同根の物語であり、利助こそが「楢山節考」のおりんであり、けさ吉でもある人物像なのである。その辺りで、利助の描き方は中途半端であり、せっかくシチュエーション的に融合可能な2つの物語を単なる日本的な土俗性に回収させて終わらせているのが残念だ。冒頭に記したテーマこそ、この小説を「美しい」ものとしているのにも関わらず、やはり土俗的エピソードの積み重ねがこの作品のもつ現代的意味合いを著しく損ねていると感じる。確かに映像的にはそれなりに人間の原初的な力強さを描いているが、その作品の本質的なテーマはその影にすっかりと隠れてしまっているのである。
7点(2004-06-19 11:21:59)
252.  リボルバー(1988)
佐藤正午の同名小説の映画化作品。これは映画を先に観た(のが良かったかな)。わりと雰囲気のある作品だったと思う。柄本明と尾美としのりのコンビはなかなか味があって、スリリングな展開中にも妙に間の抜けた空間を創り出し、事件に知らず知らずに関わっていく過程においても彼らの日常性には全く変化がないことによって、事件そのものを相対化してしまう。それは突然やってきて、すぐに去っていくのである。事件を柄本・尾美コンビの横において見てみると、事件そのものすら間の抜けた喜劇のように思えてくる。この辺りは原作と同様の展開だが、ある意味で確信的な物語のずらしであり、事件と傍観者の関係を実に正確に捉えた作品であると思う。ただ、如何せん、全体的に力が抜けすぎたきらいが無きにしもあらず、それは原作の味なのか、藤田監督が永遠に捉えられた「やりきれなさ」の終着なのか。確かに藤田敏八氏の最後の監督映画作品でもあるか。<あ~ん、先にレビューされてしまったw。哀しい。。。←冗談ですw>
8点(2004-06-19 11:14:31)
253.  ショート・カッツ
傑作である。レイモンド・カーヴァーの小説作品といえば、日本では、村上春樹訳としてよく知られている。その村上春樹がカーヴァー作品について、「人間存在の有する本質的な孤独と、それが他者と関わりあおうとする際(あるいは他者とかかわりあうまいとする際)に生じる暴力性が重要なモチーフ」と解説しているように、カーヴァーは、その原初的な孤独と暴力性に常に囚われる下層労働者たちの荒涼とした悲哀を描く作家である。しかし、村上訳でカーヴァーに接する僕たちにその辺りのニュアンスを掴むのはなかなか難しい。村上訳から漂う軽妙な風がまさに都市的な悲哀を僕らに吹き込んでくるからである。個人的には、その悲哀の本質<弱さ>は変わらないと思うが、カーヴァー作品で描かれる下層労働者たちの絶対的な「どうしようもなさ」が圧倒的な存在感をもって僕らに伝わっているかと言えば、なかなかそうは捉えられないところがあるだろう。それに比べればアルトマンの描く「ショートカッツ」は実にカーヴァー的<原カーヴァー的>であると僕には感じられた。画面に漂うあまりにも明瞭な寒々しさ、絶対的な孤独を自明とした人々の生活とその荒涼感。映画としては、カーヴァーのいくつかの短編を繋ぎ合わせた構成となっていながら、そのエッセンスをうまく統合することにより、カーヴァー的世界を忠実に表現していたように思える。著名な役者たちも各々の無意識的な「ボロボロさ」加減をうまく演じていた。上空を旋回するヘリコプターが煽る硬質な不安感の中、最後の地震のシーンは人間の根源的な衝動、漠とした悪夢を見事に映し出す。僕は映画を観終わったあと、しばらく間、悪夢の続きの中をくらくらしたものだ。
10点(2004-06-10 00:47:32)
254.  コン・エアー
ダイ・ハード級の面白さ<アクション映画としては最大級の賛辞!>ですね。とにかく役者が揃いました。愚直な正義派マッチョマン、ニコラス・ケイジ。危険な香りをプンプンと撒き散らすインテリ系のボーン・トゥ・犯罪者、ジョン・マルコビッチ。最後まで訳が分からない変質者、ブシェーミ。とことんやさ男キャラ、ジョン・キューザック。このメンバーを見ただけでもうお腹いっぱいってところだけど、それぞれのキャラクターが妙に噛みあわずに空回りしている<誰もがみんな浮いている!>ところが、実に最高ですw。これはそういうキャラクター映画で、それを楽しめるかどうかがポイントではないかな。
8点(2004-06-10 00:46:28)
255.  ミッドナイトクロス
どこを取ってもデ・パルマ丸出しのデ・パルマ映画の中堅どころ。独特のカメラワークに、多用される画面分割、そして美しい音楽と奇妙に捩れたサスペンス・ストーリー。主演のトラボルタとナンシー・アレン<「キャリー」を引き継ぐアーパーカップル>も最高だけど、相変わらずの変質的殺人者ジョン・リスゴーもいい味を出しています。ラストはとても哀しい。美しきヒロインの死も、暴走する殺人者のあっけない死に様も共に哀しい。濃密な夢が終わるかのごとく、世の中は何事もなかったかのように日常を流れていく、ただ主人公の大きな喪失感と実録された悲鳴だけを残して。これはデ・パルマ版の「世界の中心で、愛をさけぶ」だ。かなり捻くれてはいるけど、やっぱりテーマは純愛物語なのだから。。。
9点(2004-06-05 00:52:00)(良:1票)
256.  ゆきゆきて、神軍
高校3年生の頃、当時の国語の先生が「戦争」を知ることのできる幾つかの文芸作品を紹介した。その中で僕が覚えているのがヴェルコール『海の沈黙』、遠藤周作『海と毒薬』、大岡昇平『野火』。そして、それら小説群と共に、先生は、映画『ゆきゆきて、神軍』の衝撃について僕らに語って聞かせた。それからすぐに映画を見に行ったか、それとも暫くしてからビデオで観たのか、実はあまり覚えていないが、当然のことながら、この映画から受けたある種の衝撃は、いまだに深く僕の心に刻まれている。何せまだ純真な高校生だったのだから。。。 戦争従軍体験者の方々の多くが戦後、黙して語らないこと、これは何を意味しているのだろうか。彼らにとって戦争というのは、目の前の現実としてあったはずであるが、山本七平が戦場というものを「何が起こったのかなんて全く分からないまま、気がつくと周りが死体だらけだった」という現実として捉えていたように、体験していながら語りえないもの、事実としてそういうこともあったのだろう。しかし、別の意味で語りえない、語りたくない現実というものもあったはずである。戦場を生きるということは日常の倫理を超えて、人間を残虐にする。それは強さへの過信と共に誰もが持っている弱さから膿出るものであり、戦争という不条理下での否応ない現実なのだ。戦場帰還者に対して、僕らがそのことを論うことはできない。逆にそういう弱さを認識すること、そしてお互いをそういう弱さを持った人間として赦し合うことこそが人間という関係性にとって最も大事な認識<優しさ>ではないか、と僕は思っている。そんな認識に対する強烈でいて確信犯的なアンチテーゼが奥崎謙三という存在であることはもはや言うまでもない。正直いって彼を見ているとある種の嫌悪を感じずにはいられない。しかし、彼こそは純粋でイノセントな人間であることもまた確かなのだ。今やイノセントは行き場を無くし、それは狂気へと容易に転化する。この映画は、そんな人間の弱さを認めず、敢えて時代錯誤的なイデーを身に纏うことによって強さを仮装する男、奥崎謙三の確信犯的な自作自演劇であり、また、それは彼が表現しえたギリギリの人間的な喜悲劇とみなすことができるのではないか。
[映画館(邦画)] 9点(2004-05-29 22:21:08)
257.  太陽を盗んだ男
この映画が僕らを惹きつけて止まないのは、その能天気な破綻性のせいだろう。シリアスなストーリーの中にサブカル的な要素を唐突に盛り込むことによって、映画の文体を大胆にずらしていく。そこで明らかにされるのは、主体性の欠如という当時新たに現れた文学的ラディカリズムの変容なのだろう。この映画では、原爆というテーマの上でプロ野球中継の延長やローリングストーンズの来日について語られる。原爆製作シーンやその奪還劇は、シリアスなシチュエーションでありながら、あまりにも無邪気なコントと言ってよく<これは現代ではもう珍しくないが>、マンガ的破綻性、そういった話法展開のハシリともいえる。菅原文太演じる実直な刑事は、最後にはゾンビにさせられ、そのイメージを変成したまま回復することなく終幕する。この映画が創られた1979年というのは、こういった新しい感性によって作品が生まれつつあった年なのだ。様々なイメージは、変成したり、縮合したり、解体したりしながら、差異化され、メタファー化され、価値を創出していく。「先進的な資本主義が何か未知の段階に入りつつあるぞという、そういう感じ方の中では、それは、だから素人であろうと、玄人であろうと、みんな同じじゃないか、大して違わないじゃないか、ボタン一つ押せるか押せないかという違いで、素人がいつだって玄人に回るとか、そういうことっていうのが出来るようになったということじゃないか。」これは吉本隆明、1982年の言説である。素人の時代。そういう時代の入口だったのだ。
9点(2004-05-29 22:15:22)
258.  バッファロー'66
ヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。心底共感したと言うと僕もダメ人間ということになるのかな? まぁそれはいいけどね。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。
9点(2004-05-19 01:25:36)(良:3票)
259.  CUBE
CUBE=システム社会というメタファーだろうか?それは違うと思う。システム社会というのは、人間の欲望を消費動力とする自己増殖的な自動機械というイメージで語られるものであるから、この映画のCUBEとは本質的に全く別物だろう。では、CUBEとは何か?実は僕にもよく分からないw これまでのホラー映画に見られたジェイソンだのなんだのの何か得体の知れない不条理な存在とも全く違う。単に幾何学的な法則に従って構成されたパズルそのもののように思える。センサーによる幾多の殺人デバイスを持ち、単純な循環プログラムを施された自動機械。そんな単純かつ完全さ故にCUBEの謎は幾何学的に回答可能だ。実際、内部の人間は数学的解法によって謎をスイスイと解いていくではないか。そんでもって、皆が一致協力して脱出、めでたし、めでたし、ではなく、そこに現れるあまりにも人間くさい闘争、チープな愛憎は、一体何なのか?はっきり言って僕にはテーマがよく呑み込めなかった。メタファーとは何かしら切実さをもって語られてこそ僕らに共鳴するものである。この映画で描かれる「CUBEという完全性に立ち向かう愚かな人間」という図式は、モチーフとしてかなり古くさいが、実はそのあからさまな捩れと薄っぺらさこそが今は新しいものなのかもしれない。その白々しさが妙にいじらしい映画ではあった。そういえば、整数というのは神的完全性を備えており、その美しさはまだまだ人知の及ばない世界だ、というようなことを最近読んだけど、そういう美しさをもっと表現できればまた違った見方ができたかもしれない。まぁぐたぐた言ったけど、面白いか、面白くないかと言ったら、まぁそこそこ面白い映画だったということだ。
7点(2004-05-19 00:20:42)(良:2票)
260.  フランスの思い出
都会の少年が片田舎で過ごす夏休み。少年は迷える大人の世界を垣間見、そして初めての喪失を経験する。子供の通過儀礼的な物語はわりとありふれている。この手のストーリーって結構あるからね。子供を主人公とした素朴すぎる展開も今では古めかしい手だという感じもする。ただ、この作品の見所は案外、大人たちの世界の方にあるのかもしれない。  見た目はイカツいが実は心優しい男、リシャール・ボーランジェ。<彼の得意な役どころである> 心に傷を持ちながらも田舎の日常を必死で生きる女、アネモーヌ。彼女の「はすっぱなねーちゃん」って感じも悪くない。  これは、ある事件をきっかけにして心を通わすことができなくなった夫婦が、一時的に預かることになった少年の無邪気さに触れて、お互いを思いやる素直な気持ちを取り戻す、という物語でもある。しかし、これもまた十分に素朴すぎる展開だ。あからさまな素朴さが僕らに無邪気なノスタルジーを感じさせる、それだけの映画。昔だったらそう思って終わりだったかもしれない。でも、今では違った感じ方もできるようになった。ささやかだけど確かな日常という、その手触りが感じられる、そういう映画として素直に観ることができたのだ。今の世の中で「ささやかな日常」ほど僕たちの拠り所となるものはないだろうから。
[DVD(字幕)] 7点(2004-05-15 22:08:08)
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