3341. 赤い殺意(1964)
主演は春川ますみ。 かなりのグラマラスなボディ、というかやや肥満気味。 劇中でも、「おまえ程太った奴はそうはいないだろ」みたいな形で、公然とデブ呼ばわりされている。 裸のシーンが何度も出てくるが、まったく興奮せず。 だけどそれがかえって良いのだ。 春川ますみ演じる主人公の女性は、“たくましき女性”もしくは“母性の象徴”として描かれている。 そういった意味では適役といえよう。 150分という長い尺ながら、それ程の長さを感じさせないところは、さすがキネ旬日本映画部門の7位といったところ。 しかし、最初から最後まで重苦しいモノクロ画像。 シャープなモノクロ画像とは対極に位置する重苦しい感じのモノクロ画像なのだ。 これはこれで本作の独特の世界観をうまく創り出しているといえなくもないのだが、さすがに陰鬱な気分になってくる。 しかも激中、何度となく“方言混じりのおばあちゃんのささやき声”が流れ、これがまた不気味。 というか、耳障り。 そして濡れ場シーンの多さもかえってマイナス。 全然色気を感じない、見ていてもさして興奮しない濡れ場シーンの連続に飽食気味になってしまった。 この辺りが、今村昌平を好きになりきれない理由の一つだ。 最後はうまくまとめてくれるので、鑑賞後はそれなりの満足感を得られるが、不快感も多少残るので、いま一歩といったところ。 [ビデオ(邦画)] 6点(2007-09-02 11:41:08) |
3342. フィツカラルド
《ネタバレ》 “奇人コンビ”ヴェルナー・ヘルツォークとクラウス・キンスキーによる、ズッコける程に壮大稀有なとんでもないスペクタクル作品。 私も上記レビューに対抗して一言で言ってしまえば、“320トンの船に山越えをさせる○チガイ作品”といったところか。 結果として、山越えを果たしたはいいけれど、向こう側の河で下流までアッサリ流されてゲーム・オーバー。 なんたるオハナシ。 そんなアホな。 巨大な船を山越えさせる話をドキュメンタリー・タッチで時系列的に淡々と描くもんだから、途中ダレまくり。 冗長もいいところだった。 しかししかし・・・ ラストで下流まで流された後を受けての、ラストシーンにおける主人公を演じたキンスキーの言葉が良い。 「結果はこうなってしまったけど、実際に目にできたこと、感じられたこと、得られたことがあればそれでいい。」 そんなニュアンスな言葉。 話としては上に書いたように退屈な面はあったけど、最後の、このキンスキーの一言でジーンときてしまった。 “結果重視ではなく、その最中に感じ取れたこと、得られたこと、それが大切。” この価値観は、自分にとっての人生観にリンクするところがあって、妙にジーンときてしまったのだ。 死ぬ間際に何も残っていなくとも、その生きてきた過程の中で、沢山の貴重な経験、素敵な出会いがあればそれでいいと自分は思っているし、そういう生き方をしていきたいと思っている。 だけどそれはリスクも高いし、時にはストレスもたまる。 社会的地位を失えば、周りから見くびられるもする。 そういう苦労の中、こうした映画を観れたわけで、妙に感銘を受けてしまったわけである。 私の様な人生観を持っている人、サラリーマンをやりながらも自分の守りの人生に疑問を持ち続けながら毎日を過ごしている人、そんな人達に是非オススメしたい一本。 [ビデオ(字幕)] 7点(2007-09-02 11:31:12) |
3343. 愛怨峡
《ネタバレ》 原作は川口松太郎。 昨日、父親と話していて偶然知ったことだが、あの探検家“かわぐちひろし”の父親らしい。 いけ~いけ~♪かわぐちひろし~♪いけ~いけ~♪ のテーマ曲で有名な、あの川口浩である。 それと、この映画の一個前に、自宅で『現代やくざ 血桜三兄弟』という作品を観たのだが、この作品の中で、ヤクザのボス役として河津清三郎という役者さんが出ていた。 なんと、その河津清三郎が、この『愛怨峡』の中で準主演を演じているではないか。 途中で気付いたのだが、まったくの偶然に感動さえおぼえた。 『愛怨峡』ではまだ若い河津清三郎だったが、『現代やくざ 血桜三兄弟』の方では、貫禄ある堂の入ったヤクザのボス役を演じている。 こういう偶然って、皆さん経験ありませんか?? さて、“幻の作品”と呼ばれるだけあって、劣化はかなりひどい。 だけど、十分に理解できるだけの状態で複製されていたので、特別問題はなし。 話の筋としてはかなり単純で、その後の溝口作品群と比べると、やや物足りなさを感じたが、後半はやっぱり後年の溝口を彷彿とさせる盛り上がりで、尻上がりに楽しめた作品だった。 金持ちのぼっちゃんと別れた主人公の女性は、東京で知り合った少々ヤクザな感じだが情に厚い男性と懇意になる。 しかし、二人の関係は決して深いものではなく、漫才のコンビを組んだり、飲んだりする程度の仲である。 男の方も、「その気なし」という感じで女と接しており、女の方もその男を「男として」見る感じではない。 そんな中、一度自分を捨てた金持ちのぼっちゃんからお呼びがかかり、子供のためを思って女は田舎に戻ることになる。 しかしながら、女はいつの間にか東京で知り合ったヤクザな男を好きなっていた。 そして結局、女は再度田舎を出て、東京のヤクザな男の処に戻るのであった。 つまり、友達同士という体裁で仲良くしていただけのつもりが、いつの間にか「情」から「愛」が生まれ、女はそれに気付き、その男と一緒になったという次第なのである。 アッサリとした終り方ではあるが、妙に感銘を受けてしまった。 [映画館(邦画)] 4点(2007-09-02 11:30:04) |
3344. 鞄を持った女
イタリアのこの時代の作品は大好きなので、一つでも多く観ておきたいところだが、中でもこのヴァレリオ・ズルリーニの代表作の一つともいえる『鞄を持った女』は絶対に観てみたかった作品の一つだった。 主演は、“C・C”ことクラウディア・カルディナーレ。 ヴィスコンティ作品で一度観たことのある大女優さんだけど、彼女の代表作といわれるものを観るのは、これが初めて。 そして、監督のヴァレリオ・ズルリーニだが、彼の作品を観るのは『家族日誌』に次いで2作品目。 『家族日誌』はイマイチだっただけに、本作には大きな期待をしていなかったけど、その期待をいい意味で裏切って、十二分に楽しむことができた。 これをきっかけにして、ズルリーニにハマりそうな予感。 なんともいえない、文学的でもの悲しい雰囲気の作品を創る素晴らしい監督だなぁ、と今回見直したわけだ。 ジャック・ペラン演じる16歳の青い青年と、カルディナーレ演じる豊満な大人の女性との、淡くも切ないラブ・ストーリー。 ラブ・ストーリーとはいっても、少年の片想い的な状況なのだが、これが内気な少年の立場から丁寧に描かれており、なかなか引き込まれる。 どうみても不釣合いな二人。 不釣合いどころか、恋が成就する状態になり得ないくらいのギャップがある。 自分も過去に背伸びして、「じゃあ仮に付き合ったとしてどうなるの?」的な女性にゾッコン(笑)だった時代があるだけに、観ていてどうしようもなく辛かった。 逆に、口がうまくて社交的な男や、女性の立場から観たら、どれだけ少年に感情移入できるだろうか。 そういう意味では、観る人を選ぶ作品。 そして、口ベタなクセに何故か、快活で大人な女性に恋をしてしまいがちな男性諸氏には、必ずやハマれる作品ではないだろうか。 ハマり過ぎて、過去の辛い想い出に涙しないように要注意。 [ビデオ(字幕)] 7点(2007-09-02 11:28:08) |
3345. ある殺し屋
《ネタバレ》 さて、オープニングのシーン。 暗いトーンの映像の中で、市川雷蔵の無言の演技が続く。 ここで既に釘付け。 最初の5分で見事、この作品にハマることができた! これほど幸せなことはない。 その後、大ハズレが無いことを確信できる感じがしたからだ。 映画の最初の5分で、自分との相性が分かると、どこかで耳にしたことがあるが、まさにそうだと私も思う。 この独特の暗いトーンの映像は、溝口作品でお馴染みの国宝級カメラマン、宮川一夫が撮ったモノ。 さすがという感じ。 そしてオープニングの舞台となっているのが、劇中「晴海町」となっている埋立地。 晴海だから、あの晴海か。 空には轟音と共に飛行機が飛んでいるし。 市川雷蔵は、埋立地の中にポツンと位置する汚いアパートに入っていく。 なんと周りには、お墓が! ま、埋立地でこのシチュエーションは、当時でもあり得ないが。 あり得ないけど、こんなシチュエーションがあったら最高だと思える程の、サビシ~い場所。 フィルム・ノワールに“黒い華”を添える、素晴らしいロケーションである。 そして程なくして、野川由美子や成田三樹夫が登場。 野川由美子と言えば、そう、あなたでもきっと知っている、あの野川由美子です。 テレビで数年前に放映された『白い巨塔』。 あの中で、鵜飼教授の夫人を演じていた、あの醜いおばさんです。 ま、本作では当然若い頃の野川由美子なんだけど、「別に。」って感じ。 個人的には、若い頃もあんま好きじゃないっす。 この後の展開は、観てからのお楽しみ。 ところで、肝心の成田三樹夫だが。 本作では、凄まじいまでのカッコよさ。 さすが成田三樹夫の代表作の一つと言われるだけのことはあった。 特にラストシーンでの、市川雷蔵のセリフをパクって野川由美子にそのまま吐き捨てるシーン。 コミカルさも相まって、ゾクゾクするほどのカッコよさ。 やっぱり成田三樹夫は最高にかっこよい! [DVD(邦画)] 9点(2007-09-02 11:26:17) |
3346. となりのトトロ
ご存知、宮崎駿の代表作の一つ。 そして、それを今まで観たことがなかった私。 それもある意味すごい。 今までずっと宮崎駿アニメがどうも好きになれずにいた。 だからずっと観ないでいたのだが、最近は沢山の映画を観るようになり、その余勢を借りてようやく観ることに成功したという感じ。 さて、本作の舞台になっているのは、東京都東村山市(志村けんの故郷)と埼玉県所沢市(所ジョージの故郷)の県境にある里山「八国山」である。 劇中においては「七国山」と名前が変えられいる。 音楽担当は、私の大好きな久石譲。 他の宮崎作品や北野武作品でも数々の音楽を提供している。 その中でも最高傑作だと思っているのが、北野監督作品『キッズ・リターン』におけるメインテーマ曲であり、その次が同じく北野作品である『菊次郎の夏』におけるメインテーマ曲なのだが、本作におけるその曲の数々は、それらに匹敵するくらい素晴らしいと感じた。 作品自体も、私が観た宮崎作品の中で最も気に入ったのだが、音楽も最高だった。 [DVD(邦画)] 8点(2007-09-02 11:24:02) |
3347. 秋刀魚の味(1962)
“名匠”小津安二郎の遺作。 1962年の作品だが、小津の完成された力量が冴え渡る“見事なまでに美しいカラー作品”であった。 小津の代表作『東京物語』については、ラストの笠智衆が一人佇むシーンには圧倒されたものの、それ以外は、“まぁ、こんなもんか”といった感想だった。 そんなわけで、特別に期待して観たわけではなかった本作。 ところがところが、開始早々10分程で、完全にこの作品の持つ魅力に引き込まれてしまった。 冒頭にも書いた様に、本作は初期のカラー作品でありながら、質感を含めその美しさは圧倒的なもの。 機械的にただキレイなだけの現代映画と比べても、その質の違いからか、全くひけをとらない美しさ。 その端整な映像の数々を観ているだけでも飽きさせないものがあった。 登場人物について。 主演は小津作品でお馴染みの笠智衆。 “背中で感情を語る”彼にしか出来ない演技には脱帽。 そして、笠智衆に続いて本作で中心的な役回りを演じた当時21歳の岩下志麻がとにかく美しかった! 和服姿の似合うこと似合うこと。 また、彼女の兄役を演じた“中井貴一”の父である佐田啓二も、このたんたんとしていて渇いた感じの小津作品に完全に同化していて面白い。 そして、石井輝男作品でお馴染みの吉田輝雄。 本作でも好青年的イメージは健在。 石井作品では、ドロドロとした世界の中の唯一まともな人間というのをよく演じていたが、本作では、作品の一登場人物としてすんなり納まっているところに面白味を感じた。 『秋刀魚の味』を観たおかげで、今日は思いもがけず久しぶりに、ほのぼのとしていい日曜日を過ごすことができた。 やっぱり、“OZU”は凄かった。 [DVD(邦画)] 8点(2007-09-02 11:22:42) |
3348. マルホランド・ドライブ
リンチ作品を鑑賞するのは、『砂の惑星』『ブルーベルベット』『イレイザーヘッド』に続き4作品目。 彼のつむぎ出すストーリー展開と映像世界には独特なものがあり、それは観る人を選ぶ個性が強いものである。 私にはどちらかというと“肌に合わない”。 しかしこの作品は、“リンチ作品史上、最高傑作”であると推す声も多く、是非観たくなった次第だ。 主演はナオミ・ワッツ。 この作品で初めて知った女優さんだ。 この作品では対照的な二人を演じている。 いわば“一人二役”だ。 前半に出てくる“ベティ”の方は、ハリウッド女優を目指す清涼感溢れる爽やかなキャラクター。 それに対し、後半で演ずる“ダイアン”の方は、病的で荒んだ陰鬱なキャラクターだ。 前知識が無く観たので、同一人物が演じていることに気付くまで結構な時間がかかってしまった。 それだけ対照的な二人を、ナオミ・ワッツが卓越した演技力で演じ分けしている。 それと同時に、リンチの演出の上手さに舌を巻くほかない。 ナオミ・ワッツであるが、キュートでありながら、そのイメージを見事に打ち壊す魂のこもった熱い演技。 素晴らしいの一言。 そして何よりスレンダーなのがいい。 さて、この作品だが、巷ではもっぱら“超難解作品”と言われている。 かくいう私も鑑賞終了直後は全くの理解不能状態。 しかし、私がその手の難解映画を観た直後に必ず感じる“不快感”が無かったのが不思議だった。 何故だか分からないが、そのままにしておけない気持ちになり、ネット上であらゆるレビューや解説を調べまくった。 この作品に限ってはネタバレしている状態で観たくらいの方が丁度よい気がする。 DVDに付いているインタビュー映像の中で、リンチは、 「この作品は理屈で解釈するものではなく、音楽の様に直感で感ずべきものだ。」 の様なことを言っている。 この発言を聞いていると、さも“ストーリーはあって無い様なもの”と感じてしまう。 実際に、観た直後はチンプンカンプンでもあるし。 しかし、上の解読を読んでいるとそうではないということに気付く。 リンチは詳細にストーリーを積み上げてこの作品を創り上げたのだ。 ある黒髪の女性に恋をした金髪女性の「愛憎」「嫉妬」「絶望」「後悔」等を、切なくミステリアスに、そして緻密に描いた作品なのである。 [DVD(字幕)] 7点(2007-09-02 11:18:44) |
3349. おかあさん(1952)
『浮雲』では、高峰秀子と森雅之が繰り広げる皮肉の応酬に多少なりともゲンナリしてしまったが、本作は全くの正反対な作品だった。 観た後は何とも言えない、ほのぼのとした気分に浸ることができた。 ラストシーンの、香川京子が魅せる“ウィンク”に脱帽。 岡田英次の演ずる劇中の青年が羨ましい。 そして観ている私も、まるで自分が“ウィンク”されたかの様にポッとなってしまった。 自分も男として生まれた以上は、本作における香川京子の様な可憐で可愛らしい女性から、一度は“ウィンク”されたいものである。 他にも舌をペロっと出すシーンがあったりと、噂に違わず本作は“香川京子を最も可愛く映し出した作品”であった。 香川京子目的で観た本作であったが、肝心の内容の方も素晴らしかった。 『浮雲』でもそうであったが、成瀬巳喜男の映画に出てくる東京の風景はとてもリアルだ。 どこかの花町を描いているわけでもなく、どこかの豪邸を描いているわけでもない。 むしろその様なものは他の古き日本映画で観ることが可能である。 しかし、成瀬巳喜男の映画に出てくる古き良き東京は、いわば『サザエさん』の実写的様相を呈していて、庶民の生活をそのままリアルに伝えている。 街の風景もそうだし、家の中の景色もそうだ。 自分はこんな昔の東京を見たことがある訳でもないのに、何故だか懐かしい気持ちでいっぱいになってしまった。 香川京子の存在といい、こういった懐かしすぎる東京の風景といい、茶の間の景色といい、全てが感動的なまでに懐かしきベールに包まれていた。 そしてそれを観ているこっちの方も、心洗われるのだ。 『浮雲』で成瀬巳喜男に対してゲンナリしてしまった諸氏に、是非ともオススメしたい作品である。 『浮雲』も日本映画史に残る傑作だが、こちらも対極に位置する形で、成瀬巳喜男の誇る傑作中の傑作だと言って間違いないであろう。 [ビデオ(邦画)] 8点(2007-09-02 11:16:17)(良:1票) |
3350. 雪夫人絵図
《ネタバレ》 木暮実千代出演作を観るのは、自身二作品目。 この作品においても彼女は艶やかで美しかった。 仕草や話し方が素敵である。 特に、畳に座るときの姿勢が大好き。 ちょっとはかなげに斜めに座るあの感じ。 それに対してその旦那の醜さときたら・・・ この美と醜の対比が、否応なく観る者を興奮させる。(いや、自分だけかな?) 印象に残ったシーンをいくつか挙げてみる。 まずは冒頭の、雪夫人(木暮実千代)を慕う久我美子演ずる少女が、お屋敷のお風呂場に案内されるシーン。 だだっ広いタイルの間に、ポツンポツンと浴槽が地面に埋め込まれている独特なお風呂場。 別に入りたくなるような、いい雰囲気のお風呂場ではないのだが、それを映し出した映像は輝かしく、息をのむ程に美しかった。 久我美子演ずる少女が、ここで同性愛的な発言や仕草を見せる。 「ここで毎日、雪夫人がお風呂に入られているんですね・・・」 水面に目を遣りながら、こうつぶやくのだ。 眩しくて美しいこの映像の中でのこのセリフ。 やっぱり溝口健二の描く世界は美しい。 それともう一つの印象に残ったシーン。 それはラスト近くの、雪夫人が湖に姿を消してしまうまでのクライマックス・シーンである。 雪夫人は湖近くのホテルに姿を現し、屋外の椅子に腰掛ける。 そこにボーイが近寄り、声をかける。 ボーイはその後、建物の中に何かを取りに行き、それと共にカメラも建物の方へ動いていく。 ボーイ、そしてそれを追うカメラが再び屋外に戻った時には、雪夫人の姿は見えなくなっていた・・・ このシーンが雪夫人の最期を演出するシーンなのだが、とあるお方のお言葉を頂戴するならば、 “霧深い芦ノ湖の山のホテルに現れた雪がまたすぐに消えてしまうラストはぞっとするほど幻想的で美しい。” といった感じで、まさしくその通りのラストであった。 戦後の華族制度廃止によって没落していく旧華族を描いている点についても、非常に興味を持って観ることができた。 [映画館(邦画)] 9点(2007-09-02 11:14:57)(良:2票) |
3351. 祇園囃子
「恵比寿ガーデンシネマ」の『溝口健二 没後五〇年特別企画』において鑑賞。 主演は木暮実千代。 木暮実千代の出演作品を観るのは初めてで、“初”木暮実千代であったのだが、そのお色気に見事打ちのめされてしまった。 若い若尾文子より大人の色気漂う木暮実千代が本作では気に入った。 自分も大人になったということかな? 本作は溝口健二作品の中で一番のお気に入り作品となった。 やはりその要因は京都・祇園の風景や文化を見事に描ききっていることに尽きる。 “うなぎの寝床”と呼ばれる京都独特の長屋が建ち並ぶ街風景には特に目を奪われた。 その他の街風景にもため息が出るばかり。 こういった風景を見られるだけでも十二分に価値のある作品であった。 他の溝口作品で私の好きな『残菊物語』や『山椒大夫』に比べるとライトな仕上がりで、上映時間も短い。 それが逆に私にとっては功を奏し、全体として締まりのある切れ味鋭い作品と感じることができた。 最後は溝口作品に特徴的な“怒涛な展開”。 本作では恥ずかしながら劇場で涙してしまった。 最後の主演二人のやり取りは、まさに圧巻。 涙無しには観られようはずもありゃしない。 他の溝口作品でもそうだったが、最後に急展開し、感動的なラストにもっていく運びは、観ていてゾクゾクする。 本作は特にそれが強かった。 今日は風邪気味で体調が悪かったが、本作を観てカタルシスを得ることにより、ストレスと疲れが吹っ飛び、風邪が治ってしまった程だ。 これでますます溝口健二にハマってしまった。 それと同時に、一人でも多くの日本人に、溝口健二作品を観てもらいたいという思いも強くなるばかりである。 [映画館(邦画)] 9点(2007-09-02 11:13:19)(良:1票) |
3352. モンパルナスの灯
《ネタバレ》 やっと観れたジャック・ベッケル監督の代表作。 画家“モジリアニ”の人生をドラマティックに描いた伝記映画である。 やっぱり何度観ても1950年代末から60年代初頭にかけてのモノクロ映像は鮮烈で鋭利で素晴らしい! カラーでは絶対に感じることのできない映像的魅力を強く感じる。 36歳で夭折したフランスの美形俳優ジェラール・フィリップに、私の大好きな女優であるアヌーク・エーメが共演した本作。 このキャスティングだけでも十分に鑑賞に値する。 上に書いた様に若き日のアヌーク・エーメが出演しているのだが、これが参ってしまうほどに美しい。 劇中のモジリアニが惚れこんでしまうのも納得の、心を奪われる様な美しさを存分に発揮している。 エーメを抱き寄せ腕を執拗なまでに撫で撫でしているフィリップに、観ているこっちは羨ましくて仕方ない。 そしてジェラール・フィリップ。 彼の出演作を初めて観たのだが、これがまた魅力的。 本作ではとにかくモテる。 彼の周りには美しい女性ばかり。 そしてその女性のほとんどが彼に好意を持っている。 またしても羨ましい。 魅力ある男に美しすぎる女。 観ていてひたすら羨ましくなる映画だ。 だけど嫌味は感じない。 憧れの対象として目を奪われるばかりだ。 ストーリー的にも申し分なく、最後まで気持ちよく魅せてくれる。 そして本作における三人目のキーマン、リノ・ヴァンチュラ。 彼が演じるのは、モジリアニの死を何ら手を差し伸べることなく待ち続け、彼の死後、彼の作品を非情にも買い漁っていく画商の役。 モジアリニの才能を生前、誰よりも買っていたのは彼であったような気がする。 その彼が誰よりも彼の死を待ち望む。 皮肉で味のある話だ。 [DVD(字幕)] 8点(2007-09-02 11:12:01) |
3353. 山椒大夫
本作はヴェネチア国際映画祭で賞もとった国際的にも評価の高い作品である。 個人的には『残菊物語』と並んで溝口作品の中では最もお気に入りな作品となった。 オープニングのキャスト表示からして胸躍る。 重厚な音楽と共に、これから溝口作品が始まることを教えてくれる。 これからも溝口作品を観るにつけ、まるで『男はつらいよ』のオープニングを観るかの様に、条件反射的に胸躍ってしまうに違いない。 そして宮川一夫撮影による芸術的な映像美は言うまでもなく美しい。 単に美しいだけでなく、その映像を通してその世界に引き込まれていくような感覚を覚える。 この感覚がクセになってしまったので、もはやそう簡単には溝口映画から抜け出せそうにない。 そして出演陣では、香川京子に目を奪われた。 美しいというか、かわいいというか。 他の作品で何度か香川京子を観たことがあるが、この作品の香川京子が一番魅力的だった。 足の先まで可愛らしかった。 『ワンダフルライフ』での“おばあちゃん”香川京子を観てしまっているだけに、少々気分は複雑だが(笑)、今だ存命でいらっしゃるのは嬉しい限りだ。 『残菊物語』でもそうであったが、正直、中盤でダレル部分があるにはある。 しかし、これも『残菊物語』と同じく、“ラストの怒涛な展開”がそんな不満を木っ端微塵に吹き飛ばしてくれる。 本作のラスト15分はそれだけ凄まじい印象を残し、涙無しでは観ることができなかった。 こういったラストの怒涛な盛り上がりが、更に溝口作品へのハマりを助長する。 ますます溝口から抜け出せない。 困ったもんだ。 むちゃくちゃ忙しい毎日なのに、困ったもんだ。 あー、困った。 溝口健二には困った。 これから一つでも多くの、美しすぎる溝口作品を観ていきたいと思う。 [ビデオ(邦画)] 8点(2007-09-02 11:10:09)(良:1票) |
3354. 家庭
《ネタバレ》 監督であるフランソワ・トリュフォーの自伝的作品シリーズ“アントワーヌ・ドワネルもの”の第四弾。 トリュフォー作品は何本も観たが、全体的には好みに合わない作品が多かった。 しかし、“トリュフォー=レオ”コンビによる自伝シリーズは別格だ。 『大人は判ってくれない』をはじめとして、『二十歳の恋』や『夜霧の恋人たち』と秀作ぞろいである。 本作の主人公ドワネルを演じるのは、あのジャン=ピエール・レオ。 元々かなり好きな俳優さんではあるが、このトリュフォー自伝シリーズ(ドワネルもの)においては、特に彼の魅力が発揮されているように感じる。 彼に男の“ダメダメぶり”を演じさせたら、右に出るものはいないからだ。 シリーズ前作『夜霧の恋人たち』で無事結婚したドワネルは、実に幸せそうな新婚生活を送っている。 この何気ない新婚生活を観ているだけでも、十分に楽しむことができる本作。 そして、撮影のネストール・アルメンドロスによる美しい映像も、花を添えている。 そんな中、日本人女性“キョーコ”さんというのが登場する・・・ この登場人物が実におそろしい。 どう恐ろしいかって? いやー、何とも表現しにくいが、トリュフォーによる日本人女性への偏見にみちたキャラなのだ。 まあこれはこれでジョークと割切れば、楽しく観れなくもないが・・・ (トリュフォー自身も、これに関連して、“失敗作”と本作を評価しているらしい。) この日本人女性に関するエピソードがあるせいで、日本においては他の“ドワネルもの”に比べて極端に知名度の落ちる本作。 このゲテモノとも言える日本人女性に関するシーン以外は、なかなか魅力がある本作だけに、実にもったいないはなしだ。 (追加) ちなみに、本作は思わずニンマリしてしまうシーンが盛り沢山。 例えば、主人公が電話をするシーン。 「ジャン・ユスターシュさんですか?」 そして、“キョーコ”さんがドワネルに残した置き手紙の内容。 「勝手にしやがれ!」 などなど。 なかなかやってくれます。 [ビデオ(字幕)] 5点(2007-09-02 10:54:33) |
3355. 東京画
《ネタバレ》 ヴィム・ヴェンダースが1983年に東京を訪れ、その際に彼自身が撮影した映像を元に、ドキュメンタリータッチで当時の東京を描いた作品。 ヴェンダース作品群の中にあっても、とりわけマニアック度の高い作品である。 ヴェンダースは小津安二郎を心底、敬愛しているらしい。 それはこの作品を通して強く感じることができる。 又、小津作品の常連であった俳優・笠智衆へのインタビューがこの作品の見所の一つでもある。 ヴェンダースが本作で訴えたかったことと言えば・・・ 敗戦後、アメリカによって文化を支配され国民性を奪われただけでなく、国民一人一人のアイデンティティまでも見失ってしまった日本。 流行の遊び、映画への価値観、人々の服装等、それら全てがアメリカ的価値観によって侵略され、日本人はアメリカ文化を世界へ広める為の道具となっている。 といった様な感じであろう。 ヴェンダースが小津の『東京物語』で観た東京の風景は、全てどこかに消え去ってしまっていたのだ。 又、パチンコや野球放送の垂れ流し等もかなり痛烈に皮肉を込めて映し出されている。 下らないテレビの放送内容を指摘した上で、“強制的に流れる暴力的ですらある映像”と評し、タモリ倶楽部のオープニング映像を流していたのには笑えた。 他にもパチンコという遊戯に対し、“人々はパチンコをして束の間の現実逃避を行っている。しかし、このパチンコというものから得られるものはほとんどない。”という痛烈な批評を行っていた。 多少ドイツ人から観た偏りのある“東京画”であることは否めない。 しかし、ヴェンダースが嘆き主張したかったことについては、非常に共感できた。 特に、アイデンティティの欠落した現代日本人の典型的な遊び(パチンコ、ゴルフ等)を指摘するくだりは、観ていて愉快痛快であった。 そうだ、肝心なことを書き忘れていた。 本作には唐突にヴェルナー・ヘルツォークが登場する。 これが“偶然にも出会った”的に登場するのだが、いかにも嘘クサイ。 それはそれとして、ヘルツォークだが・・・ 彼の創り出す作品も恐ろしいが、彼自身が何と言っても一番コワイ!! 「素材を求める為なら、私は宇宙にでも行く」 とか言ってる時の、彼の気合いに圧倒された。 やっぱりヘルツォークは奇人だった。 ドイツ人は変人が多いのか?! という様な偏見に陥るくらい強烈な人物であった。 [ビデオ(字幕)] 7点(2007-09-02 10:52:49) |
3356. 昼顔(1967)
《ネタバレ》 フランスの“色物的芸術映画の名匠”ルイス・ブニュエルの代表作。 同時にカトリーヌ・ドヌーヴの代表作と言っても、言い過ぎではあるまい。 それだけフランス映画としては比較的、知名度の高い本作。 その知名度の高さの理由としてヴェネチア映画祭で3冠に輝いたということも挙げられるだろうが、もう一つの理由は、やはりその内容の凄さであろう。 官能的で倒錯したそのシュールな世界は、観るものを淫靡でいて罪悪感たっぷりな世界へと誘う。 フランス映画と言うと「退屈」とか「理屈っぽい」とかのイメージがつきまとうかもしれない。 残念ながら、本作もその範疇を出る内容ではない。 でもそこら辺のフランス映画とは何かが違う。 個人的には、監督ブニュエルの持つ“変態性癖”の表現の巧さにその理由を見出してみた。 そしてまた、監督ブニュエルの笑ってしまう程の“脚”への執着。 ドヌーブは、そのお顔がどことなくガイコツじみていて、好みは分かれそうな外見だが、その脚の美しさに異論を唱える方は少ないであろう。 それだけ突出した脚線美を持つドヌーブが、惜しげもなく本作ではその美しすぎる脚をさらしまくるのだ。 ドヌーブは医者の妻役を演じており、金銭的には何一つ不自由はしていない。 しかし、“汚らわしい男に汚されたい”という性癖を持っているのだ。 その性癖により、ドヌーブは度々、変態じみた“夢”をみる。 屋外で木に縛りつけられてムチで叩かれたり、粗野な男に辱めを受けたりする夢だ。 もちろんこれは貞淑な妻であるドヌーブの“願望的な夢”である。 その性癖に基づく淫らな願望を実際に満たすべく、「娼館」に出入りし始める。 そこで乱暴な客に手荒に扱われながらも、感じてしまうドヌーブ。 いや、乱暴に扱われたからこそ感じたのだ。 ドヌーブには立派な夫がいたが、結婚してからというものの、一度も夫との情事はない。 というのも、「日常生活(夜)」では“不感症”であるからだ。 しかし「娼館(昼)」では、乱暴な客や変態嗜好の客に感じてしまうのであった。 そういった変態じみた性的倒錯エピソードが満載な本作。 多少は古臭さはあるが、イマジネーションを想起させるという意味では興奮度は高い。 それは過激な映像がみちあふれた現代においても、色褪せることはない。 いや、直接的過激映像が飽和した現代においてこそ、本作はその価値を発揮するのではなかろうか。 [DVD(字幕)] 6点(2007-09-01 23:59:45) |
3357. 他人の顔
《ネタバレ》 こちらの作品、久しぶりに観ていて思わずニヤリとしてしまう程の面白さ。 サスペンス的な展開とも相まって、終始画面に釘付けの状態となった。 何といっても最も素晴らしかったのは、入江美樹という女優さん。 とにかく美しい!! メインストーリーとは直接関係ないサイドストーリーの中で、精神病院で働く女性を演じているのだが、何故だか顔はまるでお岩さん状態なのだ。 左半分から見るととても美しいのだが、顔の右半分は見るも無惨な状態。 道でナンパされるのだが、そのシーンが印象的だった。 また、勤務している精神病院内では、痴呆らしき老人に後ろから抱きつかれるなど、散々な目に遭う。 最終的には兄と肉体関係を持ち、お兄さんへは「ごめんなさい。」の一言。 その直後、白装束で海へと入り、自殺してしまう。 こういったサイドストーリーまでもが全て印象的。 そして淫靡で残酷で怪しい雰囲気を醸しだしているのだ。 話をメインストーリーに戻すと・・・ 主人公の男性は精神科医にくってかかり、その挑発に精神科医も見事“応える”。 どういった形で“応えた”かというと、精巧なマスクを造り上げ、それを主人公に被らせ、別人として生活させていくというものだった。 これはいわば医者としての研究的な好奇心によるものであったのだ。 最初は抵抗していたものの、マスクのあまりの出来のよさに、心躍る主人公。 全くの別人になれる素晴らしき“他人の顔”を手に入れた主人公は、そこであることを思いつく。 それは、マスクを被り全くの別人になりすまして、妻を口説くというおそろしいものだった・・・ この作品を観ようと思われる人はそうはいないと思うが、一応これから先の部分は伏せておくことにする。 いずれにしても本作品は、私にとって久しぶりの超お気に入り作品となった。 [ビデオ(邦画)] 9点(2007-09-01 21:52:12) |
3358. イントレランス
「“映画の父”D・W・グリフィスの代表作という枠にとどまらず、サイレント映画、いや全映画の中でも避けて通るわけにはいかない歴史的傑作。」ということで、鑑賞することに決めた。 180分(実際は160分ちょいだった)ということと、4つの時代が平行して描かれる難解なプロットであることと、古い時代のサイレント映画という点から、かなりの決心が要った。 しかしながら、予想していたよりもすんなり作品に入っていくことができた。 そして何より、普通に楽しめたのが意外だった。 4つの時代が平行して描かれているとのことだったが、そのうち<バビロン篇>と<現代篇>しか、しっかりとは把握することができなかった。 その他の2篇は、最後の最後でやっと話を理解できた感じ。 逆に言えば、それだけ<バビロン篇>と<現代篇>に時間が割かれているわけである。 ちなみに、この作品の最大の見所は<バビロン篇>の“超巨大セットによる空中庭園”である。 正直、この巨大セットを観たくて、この作品を借りたようなもんだ。 映画通の批評を調べてみると、“現代のCGをもってしても、この巨大セットの大迫力に勝るものは創れないであろう”という意見が多かった。 そういうわけでドキドキしながら、観ていたのだが・・・ あまりにも凄すぎた・・・ というのが、率直な感想。 荘厳な音楽(この作品に付けられた音楽は、総じてかっこよかった)と共に、悠然と空中庭園が登場。 “俯瞰ショット”により、遠目から丁寧にその全貌を捉えていく。 わけのわからない、やたらに巨大な“像”が何個も庭園の中に建てられている。 そして、ことわるごとに、“この庭園は1辺が1.6KMある”とかいう、その巨大さを過剰なまでにアピールする字幕が挿入される。 この巨大さをアピールする字幕のしつこさも、なかなか笑えるポイントであり、この作品の肝でもある。 CGと違って、そこに実際あるものを撮っているという事実に基づく迫力は凄いの一言。 まさしく圧巻である。 私の様な好奇心旺盛な人間にとっては、大満足できる作品であった。 このセットを観れるだけでも、この“歴史的大作”を観る価値は十分あると思われる。 好奇心旺盛な方は、是非、ご覧になって下さい。 ただし、90年前の作品ですので、多少は体力を使いますが・・・ [DVD(字幕)] 6点(2007-09-01 21:48:02)(良:1票) |
3359. 砂の女
安部公房が原作・脚本を担当、そこに武満徹が効果的な音楽を提供している。 岡田英次はアラン・レネ監督の『二十四時間の情事(ヒロシマモナムール)(1959)』を観た時に初めて知った俳優だが、アラン・レネの作品自体が趣味に合わなかったということも手伝って、あまり良い印象は持っていなかった。 しかし、本作『砂の女』においてはかなりの個性を発揮しており、その印象は“なかなか味のある俳優だなぁ”というものへと変わった。 そこに対するのは、私の年代の人達にとっても比較的著名な岸田今日子である。 もちろん、私が知っている彼女は“おばあちゃん”な岸田今日子。 こんなに若くて妖艶な彼女に出会ったのは、今回が初めてである。 まずオープニングロールからしてインパクト大。 この時点で、本作に対しただならぬものを感じてしまった。 “オープニングでキャスティング等が表示される度に、ハンコ(印鑑)がガツンガツンと表示され、そこに独特の効果音が重なる・・・” というものなのだが、なかなか言葉では伝えにくい類いの演出なので、興味を持たれた方は一見して頂きたい。 かなりサスペンス的要素が強い作品であり、その点だけでも十分楽しめるのだが、最終的には人生哲学的なテーマにまで話が及んでいくという、広範な守備範囲を持つバランスのとれた逸品である。 [ビデオ(邦画)] 7点(2007-09-01 21:45:42) |
3360. ロベレ将軍
本作は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)を獲っているにも関わらず、他のロッセリーニ作品と比べると知名度としては多少落ちるものがある。 しかも獲られた年代も1959年ということで、かなり後に獲られた作品だ。 全盛期的なイメージのある1940年代ですらあんまり楽しめなかったのだから、そんなに晩年の作品じゃあ大したことはないだろう・・・と踏んでいた。 しかし、映画好きの方々の評判をチェックすると、ロッセリーニ作品の中でも本作は、一際評価が高いのだ。 歴史的背景を熟知していないと、完全にはそのストーリーを理解することはできないであろう内容であり、私もそんなに世界史には精通していないので、ところどころ理解できない部分があった。 しかし、その様なレベルの鑑賞者さえも十二分に楽しませるだけのパワーがこの作品にはあった。 特に主演のヴィットリオ・デ・シーカの演技が素晴らしい。 デ・シーカと言えば名作『自転車泥棒』の監督というイメージが強く、まさかこんなに演技がうまいだなんて思ってもいなかった。 しかしそれは単に私が無知であっただけで、デ・シーカは元々、プロの俳優として映画界に入ってきたとのこと。 そして本作は、そのデ・シーカとロッセリーニが初めてタッグを組んだ作品でもあるのだ。 どこかのサイトで誰かがこう評していた。 「イタリアン・ネオ・リアリズモのニ大巨匠、ロッセリーニとデ・シーカが、イタリアとイタリア映画の意地を大いに見せ付けてくれた名作」 であると。 まさしくその通りに感じた。 又、デ・シーカ役の軍人と敵対する国の大佐を演じた、ハンネス・メッセマーの名演も光っていた。 これがとてつもなくかっこよい。 一発で彼のファンになってしまった。 132分という長尺である為、さすがに途中で多少だれるが、後半はまた息を吹き返し、展開も一気に変わってくる。 前半と後半とで、主人公の雰囲気が全く変わってくるのも観ていて楽しかった。 最後はあっと言わせる展開があり、底知れぬ余韻を残す。 それはあの『無防備都市』をも上回る素晴らしいラストだった。 [ビデオ(字幕)] 8点(2007-09-01 21:42:56) |