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プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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21.  探偵はBARにいる 《ネタバレ》 
面白かったので、映画を観てから、原作も読んだ。原作との大きな違いは「相棒」高田こと、松田龍平が準主役級の扱いになったこと。高田の恍けた味わいと2人の掛け合いが楽しかった分、主人公「俺」の大泉洋の魅力もかなりアップしたと思う。映画は、原作以上に登場人物たちのキャラが立っていて、キャラクター映画としても楽しめる。 主人公のキャラも若干かぶるけど、ところどころにルパン三世を彷彿とさせるシーンがあったりして、それも結構面白かった。 実は、それほど期待して観始めたわけではなかったので、カルメン・マキの登場、彼女の一言と『時計をとめて』には個人的にいきなり「やられた」って感じだった。そういった映画を印象付ける小道具が効いていて、いくつかの小技(ディテール)がツボを突いた。主人公の行動はわりとコミカルなのだけど、それでも自らの信条(マキシム)に従っているかの如き言い訳がましいモノローグが微笑ましく、ハードボイルドというよりはソフトボイルドって感じで、それはそれでひとつの文体として結構ハマっていたと思う。  但し、主に原作との比較で不満な点もあった。ひとつはバイオレンス描写。高嶋政伸のキャラ故のことだと思うが、あそこまでの(原作にもない)バイオレンス描写を映像化する意味があったのだろうか?正直、やりすぎの感あり。 もうひとつは冒頭シーン。原作は、ハードボイルド小説の常套として、依頼人からの電話で始まる。映画もそれに倣ってほしかった。それはやっぱりお約束でしょう。  最後に、主人公が真相に気付くシーン。これは原作にない感動的なシークエンスだと思う。正直言って、真相そのものは「それしかないだろう」というほどに単純なプロットなのだけど、事件に至る彼の人の動機、探偵が事件に拘る動機、登場人物たちが事件に関わるそれぞれの動機に関しては、すごく説得的で、胸にじーんとくるものがあった。それは「愛」である。たとえその行いが間違っていたとしても。。
[映画館(邦画)] 9点(2011-10-09 22:56:06)(良:2票)
22.  ミッション:8ミニッツ 《ネタバレ》 
主人公は、テロの犠牲になった一般人の記憶に意識を同化させることにより、彼の最期の8分間を何度も「生きる」。彼は、テロの犯人を見つけ出すというミッションを与えられるのであるが、犯人に辿り着くことなく、列車を何度も爆発させてしまう。その中で、列車の中で関わる人々の動きが彼自身の行動の変化によって毎回違うことに彼は気付く。これは記憶の変遷、仮想現実の単なるバリエーション(誤差範囲)にすぎないのか?そして、何度目かの意識同化の中で、彼は逃走した犯人の手掛かりを見つけることに成功し、犯人は現実の中で逮捕される。しかし、ミッションの成否に関わらず、列車の中の人々は、現実にはもう既に死んでいる過去の記憶の断片にすぎないのだ。そして彼も。。。  彼は、2-3度目かの記憶同化の際に、同席していた女性を列車から救い出し命を助ける。彼は、既存記憶の枠を超えて彼女の命を助け得たことに、彼の行動が持つある種の可能性に気付く。繰り返される8分間の中で、彼は彼女と何度も出会い、会話を繰り返し、彼女に恋をした。彼は現実には死んでいる彼女を助けたいと切実に願った。。。  脳内信号が言語データとして扱えること。他人の脳内記憶データを認識することにより、意識が時空間を超えて存在できること。そして、そこから人間原理に基づく量子論的な多世界解釈が生まれること。この映画のラストシーン。時空を超えた意識が確率論的な現実を生み出し、量子論的な多世界解釈と結びつく。彼は彼女を助け、世界を変える。意識のパラレルワールドを現実として生きる。素晴らしい。そうきたか!僕は「やったー!」と叫びたくなった。  あと8分しか生きられなかったら、何をする?  たぶん、今年一番のSF映画だと思う。監督のダンカン・ジョーンズは、デヴィッド・ボウイの息子である。さすが、センスがいいね。※Lufthansa国際線の機内で鑑賞。
[DVD(吹替)] 10点(2011-10-01 23:30:55)(良:5票)
23.  ジュリエットからの手紙 《ネタバレ》 
恋愛映画というよりも、人生讃歌。  そもそも、「ヴァネッサ・レッドグレーヴおばあちゃんの昔の恋人を探せ」的な展開は、その描き方からして彼女の若き日の熱烈な恋愛エピソードから50年後の後日談であり、それだけとってみれば、これは恋愛映画というよりも恋愛ドキュメンタリーのようなものである。彼女の実らなかった恋の話は詳しく語られないが、敢えてイメージすれば、『ローマの休日』や『カサブランカ』の後日談と言ってもいいものだろう。  若き日の恋心。そして挫折。恋愛の時期を過ぎれば、家庭や仕事、生活という些事に忙殺され、僕らの生活はそれらに没頭する毎日となる。(もちろん生活も生き甲斐である) 年を経て、そういった全ての些事から開放される年代となり、ようやく若き日の恋愛に思い至る。恋愛とは何だろう?黙って見つめ合うだけで気持ちを共有できる(と幻想する)関係だろうか。人が人を求め、人に求められる。幻想が確信となれば、それは人生において生きる心の支えになるだろう。  クレアが昔の恋人と再会するシーン。彼女が見つめると彼はだまって見つめ返す。50年の時を経て気持ちが通じ合う2人。ありえないと思いつつ、とても感動的なシーンでもある。クレアが昔の恋人と再会した後、今度はソフィーとチャーリーの恋愛がクローズアップされ、クレアがそれを見守る立場となる。 実はソフィーとチャーリーの存在は、観客たる僕ら自身とも重ねられる。クレアの恋愛ドキュメンタリーを見守る立場として、ソフィーとチャーリーと僕らは同じ視線を共有していたのである。ソフィーとチャーリーはクレアの影響を受けて、お互いを見つめ合い、そのことを確信することで、恋愛に踏み出す決意をする。僕らは知らず知らずのうちに彼らと気持ちを共有しつつ、自らの生活を思い返す。(映画としてそういう構造になっている)その時、僕らは映画を他人の恋愛を非日常的に傍観するのとは違う、より日常に引き寄せた心持ちとして体験し、見つめるべき人の姿を想い、そこに人生に対する新しい希望を見出すのである。(見い出せない人もいるだろうけど。。) だから僕は、この映画を通常の恋愛映画とは違う、寧ろ人生讃歌と言いたいのである。
[DVD(吹替)] 8点(2011-09-04 23:51:32)(良:2票)
24.  ツリー・オブ・ライフ 《ネタバレ》 
生きていくということ。生命の系譜について。その大切なことの全てがこの映画には詰まっている。創世から神の国に至る道筋を個人の意識(記憶)を含めたイメージとして映像化し得たこと。素晴らしいと感じた。これまでに経験したことのない種類の感動が確かにあった。旧約の世界。創世から人類の誕生。生命の樹。楽園からの追放。カインとアベル。ヨブの物語。そしてイエスの愛。それは、キリスト教世界のエッセンス、歴史を辿るイメージであると共に、現実的な主人公の家族を巡る物語に重なる。壮大且つちっぽけな物語。  "There are two ways through life. The way of nature and the way of grace. You have to choose which one you will follow."  映画の冒頭で語られる言葉であり、一見この映画の主題そのものを言い当てているように思える。「世俗に染まるか、神に委ねるか」と訳されていたが、意味合いとして、世俗とnatureは少し違うような気もするけど、natureとgraceがキリスト教世界における対概念であることは確かである。しかし、この映画から僕が受けた印象は、その対立ではなく、融合。対立を含む一体化である。映像によって一体化されるnatureとgrace。それは地球と生命の歴史を含んだ旧約から新約に至るキリスト教的な世界の系譜そのものであり、イエスの愛に至る道筋そのものであり、同時にそれは個人の歴史に重なり合う。その物語、その映像。究極にエッセンシャルな物語。だからこそ、この映画はすごい。  National Geographic的な映像の美しさがこの映画の特徴でもある。その中に恐竜のCGが挿入されていて、最初は??と思ったが、あの映像こそ、この映画の主題そのものに通じていたのだと今にして思う。それは、兄弟や父子の確執が途中決定的な亀裂を垣間見せながら、最終的に和解へと至る道筋を示唆していたと言えないだろうか。そういう伏線も感動的である。  この作品は、確かにこれまでの映画という概念を易々と超えている。映画を評価する客観的な従来型の指標があるとして、それには到底当てはまらないし、自らの知識と理解を超えた内容に対して「これは酷い」と思わずつぶやいてしまう気持ちも分からないではない。しかし、それはすごく勿体ないことだ。この映画が誘う世界、想像力が導く世界は、新しいイコンである。僕は、この作品をもう一度観たいと思った。
[映画館(字幕)] 10点(2011-08-20 07:27:40)(良:1票)
25.  東京公園 《ネタバレ》 
伝わる映画。  日常の中、生活全般に関わる些事の中で泡のように浮かんでは消えていく淡い想い。それでいて胸を締め付ける想い。そんな人を愛しむ想いの大切さを教えてくれる。(映画の中で榮倉奈々ちゃんは『雪のように溶ける想い』って言っていたよ) それは真っ直ぐに見つめるべきもの。そして、見つめ返されることの中に答えがある。(いや、見つめ返されることそのものが答えか) この物語はそう語りかける。海風の漣、暖かい陽だまり、木の葉のさざめき、大樹の陰。公園も語りかける。それが自然なのだと。  主人公はレンズの先の女性(井川遥)に導かれ、東京中の公園を巡る。異母兄弟となる姉(小西真奈美)に導かれ、亡き友人の彼女(榮倉奈々)に導かれ、最後には最も自然なカンケイに収まるのである。男たちは迷う。もちろん、女たちも迷う。想いが泡のように浮かんでも、せわしなさの中で、ともすれば、それを掴み損ねる。そんな時、東京を、そしてその場所を公園だと思えば、そこに佇むのも悪くない。  真っ直ぐに見つめ合い、ただお互いを確認し合う。そういう時間があっていいのだなぁ。公園のような暖かさ。主人公の自然な振る舞いは、確かに小津映画に出てくる人々を思い出す。それが生活というものの本来的な味わいに繋がっていくのだろうなぁ。生活感あふれる現実的なラストシーンは、そんなことを思い起こさせるに十分意図的な演出なのだろう。
[映画館(邦画)] 10点(2011-08-16 09:08:25)
26.  奇跡(2011) 《ネタバレ》 
『奇跡』とは、両親が離婚した為に、鹿児島と福岡に離れて暮らすことになった幼い兄弟が「奇跡」を信じて、ある行動を起こす物語。というと、最近流行りのハリウッド的な一大アドベンチャーのように聞こえるかもしれないけど、実際は全く違う(当たり前か)。これは奇跡を起こす物語ではなく、奇跡を信じること(=子供)と世界を取ること(=大人)を巡る物語なのである。  この映画では、大人たちがとても単純に見えてしまう。それは、登場する子供たちが大人以上にいろんな感情に揺れ動いて、様々な心の機微を働かせており、そんな子供たちの存在によって、大人たちが完全に相対化されているからだろう。  しかし、ここで描かれる子供たちは大人たちの分身である、とも思える。今、大人になった僕ら(登場人物の先生たちや親たちも含めて)がタイムスリップして、フィクションとしての子供を演じている。僕にはそのようにも思えた。だから奇跡は起こらない。最終的にすべては世界の平常の為、ゆるゆると丸く収まっていくのである。僕らは素直に子供たちに感情移入できる。大人っぽい子供たちは、奇跡を信じつつ、最後には目の前にある「世界」の方を取ってしまうから。ささやかなかなしさを感じつつ。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-08 21:20:39)(良:1票)
27.  八日目の蝉 《ネタバレ》 
心に残る映画。僕は「なかなかよかったぞー」と叫びたくなる。  原作小説は、以前、大澤真幸の評論で紹介されていたことをきっかけにして読んだ。現代人は、自らの人生を回収し安心できるような既成の物語を失っており、伝統的な精神分析で解釈し癒すことができない、つまり物語によって内面化され得ない「新しい傷」を負っている。大澤はそう言う。『八日目の蝉』の登場人物達はそのような「新しい傷」を負った人々である。希和子が薫に注ぐ愛情には母性という根拠(物語)が最初から失われている。そして、希和子に育てられた薫は、その無根拠の愛情故に、始めから根拠が失われた世界を生きざるを得なかったのである。  「根拠が失われた社会の中で、人はどのような生きる正しい道筋を辿ることができるのか?」 これは、村上春樹の小説のモチーフにもなっていたように、80年代以降の文学的核心だったのだと僕は思う。(意識的にも無意識的にも僕らはそこにこそ共感したのだ) そんな現状認識を踏まえなければ、『八日目の蝉』の「物語を失った人々の新しい物語」という本来的な意義を理解することはできないだろう。『八日目の蝉』は母性愛を問うた物語ではなく、そういった幻想(母性というのは近代社会の生んだ物語でもある)が剥ぎ取られたところにどのような物語が可能なのかという、物語自身の可能性を問うた物語なのである。(『トウキョウソナタ』と同じモチーフ)  さて、映画は、希和子や薫の淡々としたモノローグで構成される小説世界をうまく映像化していたと思う。そもそもこの題材は、小説よりも映画向きである。解釈の仕方は鑑賞者次第だけど、改めていろいろと感じさせるものが僕にはあった。小説で印象深かったラストシーンの希和子の言葉にまた涙した。そして、新しい関係性を掴む薫の決意にも改めて感動した。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-05 00:03:11)
28.  マイ・バック・ページ 《ネタバレ》 
この映画の良さは、マツケンの語り口とその佇まいにあると思う。 C.C.R.を弾き語る無邪気さや、彼女にささやく甘い言葉、上滑りする論理、仲間が自衛隊駐屯地に潜入している時にしゃーしゃーと漫画を読んで笑っている姿(それを同志の女性に見られても平気な体面)、警察に対する飄々とした虚偽の受け答え。実に多面的かつ、それぞれに表層的すぎるキャラクターを見事に演じていた。何事をもカッコにいれて、ただ運動で名を残すことだけを目的としていた男。その打ち捨てられた構造だけを模倣して、本物になろうとした(なれると錯覚した)男。それはそれで魅力的にも見え、且つ示唆的だとも思った。  とは言え、当時の全共闘の学生達が目指していたことを軽くみてはいけないと僕は思う。ただ訳も分からず彼らは戦っていたわけではない。彼らは何を打倒しようとしていたのか。それは、「世間」と呼ばれていたもの。今でもそれは日本社会に蔓延り、日本人の倫理を決定づけている。というよりも、日本人が本当の意味の倫理感を抱くことを強力に阻害している頽落そのものが「世間」なのである。それは「空気」とも呼ばれる。空気との戦い。(そりゃ勝てんわな)  気が付けば、闘争の論理は空虚なものとなり、敵となるべき対象を射程できずに、全ては内ゲバとなった。それが連合赤軍事件である。  それでも、当時、学生達が大学という特権的な空間にいたが故に「世間」に対峙できたこと、それはとても自覚的なものだったのである。しかし、いまや世間と大学の間には何の境界もなく、それは無自覚であるが故に問題意識の端にもかからない。「思想やジャーナリズムなんて分かりませーん」と臆面もなくつぶやく若者達を作ったのは「あの頃の僕らより、今の方がずっと若いさ」として過去の挫折を総括してしまった団塊の世代の大人達なのは確かだろう。彼らが「世間」を軽く見做すものとして、そこから逃走するものとして、80年代のポップカルチャーを設定したのは60年代から地続きの現象であったが、70年代以降に生まれた者たちにその意味や経緯がまともに伝わることはなかったのである。。。  主人公の部屋の壁にはディランのレコード"Another Side of Bob Dylan"がちゃんと飾ってあった。エンディングの真心ブラザーズの『マイ・バック・ページ』も心に響いた。
[映画館(邦画)] 8点(2011-06-09 21:53:17)(良:1票)
29.  ブラック・スワン 《ネタバレ》 
『ブラック・スワン』は、ナタリー・ポートマン演じるバレリーナの自己自身をめぐる物語である、という解釈はその通りだと思う。さらに言えば、この物語は、彼女の自己分析的な記憶そのものである。彼女が精神科医への告白の中で紡ぎだした彼女自身の経験と妄想の交錯した記憶こそが、『ブラック・スワン』の物語である、と僕は思う。  映画は、いくつかの視点によって物語を追う。ある時、それは彼女自身の視点として、そして、ある時、それは彼女の背後からの視点として彼女自身を含めた風景の中で捉えられる。演出家のトマも、ライバルとなるリリーも、彼女の記憶により、その性格を改変させられている。   映画とは「他者の視線から見られた世界の風景」である。だが、それはいったい「誰の視線」から見た風景なのだろう。(内田樹『映画の構造分析』)  『ブラック・スワン』の場合、それは彼女自身の視覚記憶に基づく視線であり、風景であり、物語である。それが映像の意味を決定している。私は、私の記憶(脳)によって完璧に騙される。彼女は、最後にPerfectと呟くが、ホワイト・スワンたる彼女が最後の最後でブラック・スワンに変身し、彼女の中の善と悪、可憐さと妖艶さ、超自我とエス、エロスとタナトスが融合することで得られた恍惚こそが彼女にとってのPerfectだったのだと思う。  最後のバレエシーン。彼女は、ホワイト・スワンの演技で決定的な失敗を犯し、ここで挫折してしまうのかと思いきや、楽屋でリリー(の幻想)を殺戮することにより、衝動的にブラック・スワンそのものに変身する。リリー(の幻想)を殺戮することで得たものは何か? 解放したものは何か?  彼女が求めたものは「美しさ」である。バレエとは、常に自分自身を鏡で映すことで紡ぎだされる肉体運動の美しさであり、自己規律訓練的、反自然的な「美しさ」への自己希求であり、その希求は、結局のところ、他者の承認を求めざるを得ない飽くなき欲望となる。それが彼女自身の変身願望に繋がる幼少時代からの無意識の抑圧であり、妄想の源泉だった。彼女がホワイト・スワンとして死を迎える時に彼女の視線が捉えるのは彼女の母親の姿である。母親の喜ぶ顔を瞼に浮かべながら、その承認を得て、彼女はPerfectと呟くのである。
[映画館(字幕)] 10点(2011-05-31 22:29:13)(良:4票)
30.  インセプション 《ネタバレ》 
2010年公開の映画の中で私的No.1だった作品。 この映画のコンセプトのひとつが、いわゆる夢の世界の映像化である。そこで描かれる夢は、一見して現実と区別がつかないが、何かのきっかけで破綻し、崩れていく世界。そういう夢を人工的に作り出すというアイディアは特に新しいものではない(『クラインの壺』とかがある)けど、そこで作り出される夢が、夢の中の夢という括りにより何層にも積み重ねられるという構成(これまでは並列的世界が多かったと思うけど、これは階層的)と、それを「設計」するという発想は面白いと思った。  人間の意識について、ホーキング博士はこう言っている。「人間くらいの大きさのエイリアンであれば、1兆の1000兆倍もの粒子を含んでいるので、たとえエイリアンがロボットであったとしても、方程式を解いて、その行動を予言することは不可能でしょう」  これはロボットにも自由意志が持てる可能性があることの言説だが、その前提として、意識は人工的に創出可能で、その拡散度合にはほぼ無限の(人間が推算できる以上の)可能性があることを示している。夢や仮想現実の世界も、宇宙と同じように量子論的探究が可能な世界であり、そこに様々な想像を加えることで実際的なサイエンスフィクションの対象となりえるのである。(夢だからといって何でもアリというわけにはいかないでしょう)  仮想現実を扱った映画といえば『マトリックス』がある。これはシミュラークル的な奇想から発展した荒唐無稽なSF的映画だと僕は思うが、本来、理論的位置づけがそこはかとなくあって、主題が現代思想的にも有意で、なおかつ人間的に必然な要素(恋愛とか利己とか家族愛とか)が絡んでいて、とにかく面白い、というのがSF作品に僕らが求めるところではないだろうか。  そういう意味で、『インセプション』は、SF映画として、想像力を刺激される印象的な作品だと僕は思っている。
[映画館(字幕)] 10点(2011-01-18 02:18:41)
31.  バーレスク 《ネタバレ》 
近年公開された現代風のミュージカル映画といえば、『シカゴ』や『ドリーム・ガールズ』、『ムーラン・ルージュ』などが思い浮ぶ。映画とミュージカルがうまく融合していて、それぞれに良く出来た作品である。特に、歌や踊りで登場人物達の心情を表現することで、通常唐突に思えるようなミュージカルシーンを場面展開の流れによくフィットさせ、ミュージカルだからこその深みや面白さを映画に取り入れることに成功していたと思う。 それに比べてしまえば、『バーレスク』は、とてもミュージカル映画と言えるようなシロモノではないように思える。まぁそういう路線を狙っているのではないのかもしれないけど、唯一、シェールがソロで歌うシーンのみ、前述の作品に比肩するミュージカルっぽさがあったかなと。  僕は、クリスティーナ・アギレラというシンガーをよく知らなかった。『シャイン・ア・ライト』でミック・ジャガーと一緒に歌っていた女の子、と言われれば、ああそうかと思う程度。確かに歌は上手いし、可愛らしいとも思うけど、映画としてみれば、ただそれだけのものとも思える。  凡庸な恋愛映画のフォーマットにクリスティーナ・アギレラとシェールを中心にした歌と踊りのステージを盛り込んだ作品。もし、そのプラス・アルファが作品としてのサムシング・エルスとなっていれば話は別だけど、実際のところ、この映画は、ストーリーの凡庸さに引きずられて、ステージシーンの良さが映画として生かしきれていない。最終的に映画として胸をつくような感動がない。それがこの映画の全てと言ってしまえばそれまでか。。。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-17 22:30:15)
32.  ノルウェイの森 《ネタバレ》 
素直に感動した。一般の評価が低いことを知っていただけに、期待以上に見応えがあった。  久しぶりにその世界に触れ、心が震えた。確かに小説のいくつかのエピソードが省かれていた分、此の物語に親しみがない人にとっては、それぞれの人物に絡みつく悲しみの影がみえず、彼らの行動の必然が理解できないかもしれない。しかし、僕はその欠陥を記憶で埋めながら、自然に観ることができたと思う。だから、それは欠陥にはならなかった。 僕の中で、永沢さんはナメクジを飲んだ永沢さんだったし、レイコさんは少女に翻弄されて自分を見失ったレイコさんだった。(レイコさんはもう少しシワシワの方がよかったかも) 突撃隊は説明がなくとも突撃隊だった。  映画を観るという行為は絶対的に個人的なものだと僕は思う。故に、その評価は、個人の記憶や経験、境遇によって変わってくるのは当然であり、原作を何度か読んでいる僕にとって、この映画の評価は、そういう個人的なもの、様々な記憶の補完とともに立ち上ってくるものとしてある。  基本的に原作に忠実なところがよかった。何も足さず、的確に小説の情景を、そのエッセンスを映像化していたと思う。松山ケンイチのワタナベくんも菊池凜子の直子も、そして水原希子の緑も、此の物語を体現した存在として、自然にそこに在ったと思う。此の物語はセックスと死をめぐる寓話でもある。映画は総じて感傷を排し、テーマそのものにフォーカスした感じだと思うけど、セックスの表現は悪くないし、僕の作品に対するイメージを損なうものではなかった。  草原で髪を風になびかせる直子。その大きな瞳から虚ろに漂う視線。とてもぐっときた。直子を失ったワタナベくんが海辺で慟哭するシーン。バックの映像はすこし演出に走りすぎたかなとも感じたけど、彼の慟哭の表情は、失ったもの、それが如何に切実なものであったかを僕らに突きつける。  「ワタナベくん、今、どこにいるの?」と最後に緑が電話口で問いかける。彼はどこでもない場所にいる。直子が死んで、彼は、彼の生きてきたひとつの根拠を失った。しかし、彼は、それでも生きていくことを決意し、緑に電話する。生の象徴である緑の口元に漂う微笑み。それは映像だからこそ現れたアカルイミライのようにも見え、それはそれで面白いと思った。  此の物語を体現した人物、映像、演出、、、素晴らしい作品だと思った
[映画館(邦画)] 9点(2010-12-29 20:56:52)(良:1票)
33.  告白(2010) 《ネタバレ》 
この話、ひとことで言えば、「ばかばかしい」。 これは、前に原作小説を読んだときに感じたことでもある。映画も基本的には原作をそのまま踏襲しているので、話の展開自体は同じように「ばかばかしい」。 なので、最後の方で再登場した松たか子が吐き捨てるように呟いた「ばかばかしい!」という台詞には正直ドキッとした。ほんと、そうですよね。ばかばかしい話ですよね。このプロット、この展開。松さんの言うとおりです。。  松たか子。前作「ヴィヨンの妻」も良かったけど、本作も堂に入った演じっぷりで、台詞回しや表情、そして、うしろ姿にはとても迫力があった。最後の「どっかーん」も鬼の形相のような笑顔も結構ぐっときた。  映画は、ばかばかしい話を随所に映像的に盛り上げていて、なかなか見所があった。この監督の映像感覚は相変わらず面白い。賑やかさの中に毒が効いていて、はっとさせられる場面もあった。ただ、あの断続的な映像が100分間ぶっ続けなのだから、やっぱり疲れるかな。  この話が観ている時の衝撃以上に全く心に残らないのは、話自体がマンガ的、キャラクター小説的だからだろうか。ノリとしては、よくある少年マンガのキャラ対決と同じかなと。少年が罪を犯す理由が「世間に自分を認めさせるため」であり、特に母親との関係に自我の心理的な動機を求める。100年前からの伝統に基づく実に類型的なお話である。(そこに最初から父親の影すらないのが現代的だけど) ついついそういう所につっこみを入れながら観てしまうのだが、何れにしろ、しっかりとキャラが立っていたので、この手の物語としてはかなり出来がよいのだと思う。マンガとしてみればその破天荒なばかばかしさは痛快だったし、多少の違和感を残しながら、最後はしっかりとオチが付いて、めでたし、めでたし、である。  告白とは? ということを考える。私の告白とは誰の告白なのだろう。私? 告白する私とは誰だろう? 告白すればするほど、いや、告白したつもりが、ただそう言わされているだけで、それが本当の私であるという確証など何処にもない。そうだろうか? 今や告白こそが私そのものであり、それ以外の本当など存在しえない、つまり「本当の私のココロ」などというものこそ、もはやありえないのだ、、、と考えてみる。そういう「告白」に人々が振り回されるという意味において、この映画の「告白」は実に現代的で軽い、なーんてね。 
[映画館(邦画)] 8点(2010-07-02 19:24:47)(良:1票)
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