501. 大いなる幻影(1937)
職業軍人たちの誇りと焦りと諦め、というあたりがよく出ている。仏のほうはもう次の世代へ譲り渡そうとしている。独のほうは最後の礼儀正しさで、自分の階級をまっとうしようとしている。そしてその次の世代というのは、より残酷な世界大戦で闘うことになるわけだ(当時のルノワールが予想していたわけではなかったろうが)。各国語をそのまま使っている。ジャン・ギャバンが次の捕虜に地下の穴を伝えようとするが「ワタシフランス語ワカリマセ~ン」となる。あるいは逃走中のロマンス。互いに理解できぬ言葉で語り合う場面の哀切さ。あるいは独房でフランス語を喋りたい、と叫ぶ。戦争を言葉の面から描いたのが貴重。演芸会に至る部分はよかった。女装の男を見てみながシーンと静まり返ってしまう。あるいは窓辺での会話「子どもたちは兵隊ごっこ、兵隊は子どもの遊び」って。当時のヨーロッパの細かな情勢や文化に詳しいと、もっと面白そうな部分はある。国境も幻影だが、最後彼らが撃たれなかったのも、国境に守られたからな訳で、ここらへん皮肉なのか。そういう感じでもなかったな。 [映画館(字幕)] 7点(2012-10-31 09:37:40) |
502. 遺言
主人公が純粋な芸術家なのではなく、役人でもあるところがヒネてる。芸術家の受難物語だけで閉じてしまわない。個人と風土がとうとう触れ合えなかった哀しみなどにテーマは広がり、故郷を失った現代人の普遍性のある物語にまでなった。鳥が鳴き牛がいななく美しい風土、絵画の素材としてそれを愛することは出来るんだけど、受け入れてはもらえない。彼が芸術家だけでなく、森林監督官という役人でもあったからか。そこらへんの曖昧な膨らみが寓話の味。ましてここはマカヴィエフを生んだユーゴスラヴィアだ。交流はあっても本当に触れ合えないのは、なにかユーゴならではの政治的な寓意があるのかも知れない。ドアの周りを原色で囲っているのは、普通の家作に見られるリアリズムなのか、それとも監督の作為なのか。そういったことから悩まされる。室内の天井の低さも気になったが、これもリアリズムなのか作為なのか。ロングショットが生きてる映画ってのはまず失敗がない。原野の中央に立つ牛。野に出ていく絵画。 [映画館(字幕)] 7点(2012-10-30 09:25:44) |
503. 靴みがき
《ネタバレ》 貧者の犯罪、「社会が悪いんだ」という告発が目新しかった戦後という時代。次作の『自転車泥棒』に比べるとまだ切迫さはないが、こちらは友情が大人の思いによって引き離されていく痛々しさがある。よく作られている。ベルトでぶたれていると思い込まされて、友情のために白状してしまうことが、逆に裏切りとされ、密告される。そのときの本当のベルトの痛みを、ラストで与えようとして殺してしまう、というシーソー。最初は何の契約書も交わさずに合同出資するほどの信頼だったのが、裏返されていくにつれ、より強くなる面とより憎む面とに増幅していってしまう。脇が充実しており、ワルの奴、間を取り持とうとする奴、肺病持ちでフィルムの海に感動したあと踏み殺されてしまう奴、などいい。家族愛とそれが他者に対して残酷になるところもしっかり描かれる(長男をかばうためにはみなしごを主犯にしなければならぬ)。馬は何かの象徴と決め付けないほうがいいのかもしれない。 [映画館(字幕)] 7点(2012-10-29 09:58:38) |
504. シコふんじゃった。
学園スポーツものだけど、若大将もやらなかった相撲。学校名が実在のを引っ繰り返してるだけという、堂々の手抜きが潔い。教立大学に本日医科大学。単位と引き換えに一日だけ入部し、しかしホンキになっていくという設定。青春ものの爽やかさを、当時は久しぶりに感じられた映画だった。前半狭いところで話が進んだのち、パッと合宿で緑が広がり、土手と空、ここで「悲しくやりきれない」が流れ出すと(ある限られた世代だけかも知れないが)グッときてしまう。そうなのだ、青春って言ったら、土手で友と語らうものなのだよ。向こうの畦道を本日医科大学の面々がまわし姿でランニングしていると、さらにジーンとしてしまう(考えてみれば変な映画だ)。青春ものでありながら、主人公に恋が絡まないのも珍しい。一応夏子さんがいるんだけど、彼女は冬吉を向いてて、彼女には春雄が向いてて、彼にはでぶの正子さんが向いてる。秋平君は青春の渦の中心の穴的存在のよう。この手のシモネタでくすぐられていいのかと抵抗しつつも、下痢をこらえる竹中直人の深刻な表情には、やはり笑わされた。ラストに流れる「林檎の木の下で」でまたグッときちゃう。 [映画館(邦画)] 8点(2012-10-28 09:38:17) |
505. おつむて・ん・て・ん・クリニック
そうか、私のノートでは「おつむてんてん」となっているが「おつむて・ん・て・ん」が正式名称だったのか。設定はいいんだけど、キャストも合ってるんだけど、もひとつ弾まない。ビル・マーレイのボブがいい人っぽいんだ、あれはもっと凶々しくすべきじゃないか。まして彼なら。ドレイファスの怒りをこらえた微笑なんか、ま、お得意のものだろうが、笑える。趣味からすると、ボブがバスから降りたときに乗客が万歳するような、ああいうとこが好き。恨んでる老夫婦もいいか。子どもが夜、死について語りだすとこなんか、もっとなんか期待したんだけどなあ。と不完全燃焼なコメディでしたが、嫌いじゃない世界。 [映画館(字幕)] 5点(2012-10-27 09:52:00) |
506. どん底(1936)
《ネタバレ》 普通なら理解し合えないはずの者たちが・理解し合えっこないはずと信じ込まされていた者たちが、コロッと意気投合してしまう。会った瞬間に友だちになれてしまう。なんという人生肯定。この作品で一番印象深いのは男爵だろう。「身を落とした」などという意識は微塵もない。草原に寝転がる自由を心の底から満喫し、自分の選択を全然後悔していない。理想主義的すぎるとも思えるけど、でもいい。フランス映画でよく感じる「のんき」の尊重。けっきょく今まで自分は衣装を替えていただけだ、という述懐もあった。自殺してしまう役者とペペルの対比もある。遠い夢の病院と、現実の地道な生活への一歩の違いということか。マドンナが役人に口説かれてしまいそうになるときの陽の光の美しさは、親父譲りだな。というわけで黒澤版の暗~い『どん底』とはずいぶん印象が違うが、本家ロシア人が見るとそれぞれどんな感想を持つのか、ちょっと興味がある。 [映画館(字幕)] 7点(2012-10-26 10:04:26) |
507. 評決
正義を行なうチャンスとしての陪審制。たとえ汚れても正義に至る道は確実に用意されているはずだ、といういい意味での楽天主義。アメリカはどんなに自己否定しても、最後に「民主主義の国だぞ」という誇りだけは残る。気分によっては鼻持ちならないが、おおむね、拍手してやりたいぐらいいいと思う。あくまで植物人間にされてしまった人間の代理として闘い始めるわけ。組織に対して、こちらは手作りの味で勝負していく。でもラストはちょいと無茶だったか。コピーを無視するようにという裁判長の指示のくどさが裏目に出たってことでもあるんだろうが、ちょっと間違うと心証による判断ともなりかねず、詰めの甘さを感じた。この人、女性が絡むと弱くなるんだ。シャーロット・ランプリングは、いらなかったんじゃないか。『ネットワーク』のとき、フェイ・ダナウェイがいなけりゃなあ、と思ったのと同じで。 [映画館(字幕)] 6点(2012-10-25 09:48:40) |
508. 三人の名付親
中心になる話は悲惨なんだけど、それをユーモアでくるんでいる。銀行強盗三人が「ノンキな父さん」ふうの保安官ビー・スイートと出会う冒頭の語り口からして、笑い話・昔話のタッチ。もちろん荒野の追跡はフォード的活劇の世界が見られるが、そのあとの苦難の旅でも悲惨とユーモアが同居する。荒れ果てた土地でならず者らが銃を突きつけ合って喧嘩になると赤ん坊が泣き出し、ガラガラをふって何とかあやそうとする。銀行強盗と荒野の世界に、コンデンスミルクと育児書が同居するおかしさ。赤ん坊や病人など弱者を、しばしば帽子で陽をさえぎる優しさが、この悪党たちの本性が荒野の側より育児書の側の人間であることを伝えてくれていた。西部劇をそれほど見ているわけではないが、ほとんど屋外だけで展開するってのは珍しいのではないか。風景が雄弁で、斜面を巻き上げるような砂嵐が素晴らしい。ただこの話は小さいときから聖書の世界に親しんだ者向けで、細かな見立ての面白さを異教徒の私が味わえたかどうか。おそらく全編のトーンも、日曜学校で紙芝居を見せられているような雰囲気を狙っていたのではないか(あっちに紙芝居はないか)。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-24 10:20:40) |
509. デリカテッセン
《ネタバレ》 音が面白かった。ベッドのきしる音のギャグ、普通同じネタを二度やると駄目なんだけど、これは二度目も笑えた。ハワイアンでしたか、ベッドの修理のリズムとミュージカル的に合わせてた。亭主の奥さんと踊るのはチャチャチャ。この手の話には陽気なラテン音楽が似合う。それに対して水のイメージがある。カタツムリの部屋とか、ラストのタワーリングインフェルノ的洪水まで、そういう世界観。タイトル、ゴミの中から文字を順に拾っていくのがよろしい。裏返しの文字が鏡に映ってたりとか。個々の趣向は凝ってるんだけど、何か物足りないのは、話としてもっと住民とのカラミがあってもよかったんじゃないか。地底人は要らない。この建物のなかだけに絞ってくれてたほうが好みだ。この作者の狙いはカフカ的よりもルイス・キャロル的な、キジルシのお茶の会の世界だったのかな。だとするともっと無意味な具体物がほしかったところ。あのカタツムリのような。カフカとキャロルの間で、どっちつかずの宙ぶらりんに置かれてしまった感じもある。自殺願望マダムはあっさり事故死するかと思ったけど、それはナシ。 [映画館(字幕)] 6点(2012-10-23 10:17:25) |
510. 男はつらいよ 旅と女と寅次郎
今回の夢は大衆演劇風舞台。チンドン屋に「時代遅れ」だよと言われるのが、このシリーズのキーワードの一つ。次に、みんな「重し」を負って生きている、という中を寅がふわふわと飛んでくるところも重要。自由ということの不安定さ。運動会をめぐるシークエンス、「善意の無効」もポイント。「俺に何かできることはないか…ないなあ」という嘆きは、シリーズを通して流れている。「重し」のモチーフはラストの「暇はあるが金がない寅と金はあるが暇がないはるみ」の対比につながっている。そして「時代遅れ」の優しさが、はるみと知りつつ分からぬふりをしたかっこよさによって、肯定されていく。善意は直接の効果としては空振りに終わってしまうが、その気持ちはありがたい、というもので、精神至上主義というよりそういう心の風土をめでているのだろう。旅の部分は麦の穂のそよぎから凧揚げ合戦のあたり、沁みるような味わいが深まって、ますます枯淡の境地。後半、はるみがとらやに来る部分はオマケでしたな。ま、都はるみ使って歌わせなくちゃ失礼になるし。 [映画館(邦画)] 6点(2012-10-22 09:35:10) |
511. カーリー・スー
こましゃくれたガキが、「大人って困ったものね」としかめっ面するたぐいの映画。金持ちと貧乏人をきれいに吊り合わせて、それで「幸せはお金では買えない」とか言って、金持ちはいつも「心」を得るの。金がないために得られない心ってのもあると思うんだけど、それはアメリカ映画には登場しない。そういうのを全部外してコメディに専念すればまだよかったろうに(ピアノに向かって並んで座ってて、女弁護士の背中越しに高音部をポロロンとやるとこなんか、ちょっといい)。中途半端にほのぼのドラマの味も加えようとして失敗した例。学校へいくときに見せる不安に一瞬この少女に深みが出かかったが、もう遅い。 [映画館(字幕)] 5点(2012-10-21 09:44:43) |
512. 超少女REIKO
いろいろ演出の工夫もあり、助監督上がりの初監督作品の気合いが感じられる(やがて彼はゴジラ担当となっていくが、ホラーのほうが向いてたよう)。ヒロインの登場シーン、影で見えなくして、浮き上がった鉛筆立てで顔隠し…と凝った状況下で炎のなかに玲子の文字が浮かぶ仕掛け。窓からの青い光がありさの顔を捉えるとか、図書館に亡霊が現われる唐突さもいい。けどパソコン少年の実家に現われたとこは惜しくも失敗。そもそも欧米ゾンビメイクはあんまり好きじゃなく、あれしないほうが怖かったな。家庭科室の小麦粉に線が引かれていくのもいい。一本が曲がってきて、それが複数になってって。降霊会のときの音、コツコツが盛んになってきて、テーブルが動き出す、そういった段取りが大事だ。ライトが動くと折り畳み椅子が弾けていって、その先にありさが立ってるの。ラストの対決は、文化祭のイベントを巡っていく律儀さ、壁押し潰しなど「童夢」を思い起こす。美術室の浮き上がるありさの脇にトルソが浮き上がってくる。初監督作で、やりたかったことをせっせとやってる感じに気合いが感じられた。「学校って意外とホラーね」なんてせりふもあり、「愛は力かもしれないけど、力は愛じゃないわ」と言うありさ嬢にウンウンとうなずいている私であった。 [映画館(邦画)] 6点(2012-10-20 09:32:39) |
513. 商船テナシチー
なんか山本周五郎の世界よ。人間が描けている、ってこういうのを言うんだろう。お調子者だが現在をいとおしむ男と、いつも自分で決められない男、そしてドキッとするような恋する女の残酷。「彼女笑ってたか」って手紙を託された男に尋ねるんだよなあ。まだ踏ん切りがついてない、っていうか、風景に別れたくないっていうか、つまり後ろ髪を引かれる思い。夢と今いる場所と。人生は厳しい。すべてのエピソードが厳粛な出発につながっていく。それは友情の限界であり、本当の人生の始まりであり、故郷を捨てることであり、記憶の一つの段落であり…。デュヴィヴィエって、情感過剰気味でクレールやルノワールより一段低く見がちなところがあるけど、やはり名を残す人だけのことはありますな。キモのところで日本人の好みとうまく重なっているのか。 [映画館(字幕)] 8点(2012-10-19 09:55:44) |
514. 外科室
なんか安手の印象が残るのは、千円興行という試みのせいか、50分という長さの問題か。いえいえそうではありません、加藤雅也君のせいです。いえね、どっちかっていうと見る前は吉永小百合のほうを危惧してたの。実在感がありすぎて反鏡花的でしょ。その点加藤君はまだイロに染まってないぶん、面白い味が出るかもしれないと思った。でもやっぱ駄目だったなあ、その点吉永女史はちゃんとやってた。つつじの道での出会いのハッと、ト胸をつかれる感じ。おそらく本編のヤマは、池をはさんで向かい合うところだろうが、実にゆっくりと堂々と吉永さんがほとりにまで足を運んでいって、盛り上がる。なのに切り返しで出てくる加藤君の表情が、もうテレビのトレンディドラマの思いつめてる青年の顔であって、ここは魂を抜かれた非緊張的表情であってほしいところじゃないかなあ。玉三郎監督の指示なのか、それとも彼の演技力の限界なのか。違うんだ。 [映画館(邦画)] 5点(2012-10-18 10:03:59) |
515. ワーロック(1959)
《ネタバレ》 最初はいいの。ならず者に蹂躪されてる町ワーロックの人たちが、ちゃんとした保安官を雇えないかといった『七人の侍』的展開で、善悪のクッキリしたドラマが予想される。雇われるのがH・フォンダのクレイにA・クインのモーガンで、男臭が立ちこめる。ならず者がフレンチパレスにやってきて楽しげな音楽を奏でていたピアノ弾きが逃げ、音楽が消えた中をフォンダが階段を下りてくる緊張なんかがよく、ここらへんまでは大いに期待した。人物を立体的にしようと複雑な過去を投影してあるのが、どうだろう、ドラマを濁らせてしまってはいなかったか。R・ウィドマークは、悪漢側からイイモンに変わって物語上の主人公のようだが、その心の変化は彼の言葉だけに頼っていて(アパッチのふりして虐殺を行なったのに愛想が尽きた)、弱い。モーガンが一番屈折してるようなのだけど、これつまりホモ映画なのか。クレイを男にすることに生きがいを持ってる友だちと一応定義できるが(クレイだけが俺を人間扱いしてくれた、とか言ってた)、見る角度で同性愛ギリギリなんだな。クレイが結婚するってので拗ねちゃって撃ち合いに無理に持っていき、わざとのように的を外して自分は友に撃たれて死んでいく、ってなんか「ホモの純情」って話かとも見える。スッキリした活劇を期待してたとこに、そこらへんで余分な濁りが入ってしまう。最後のウィドマークとフォンダの対決(っぽい展開)も、両者の人物像が確定しきってないので盛り上がらず、映画のほうもそれを見越してか盛り上げないで終わっちゃう。でも、馬上の男が去り女が泣いて見送ると、西部劇を観終わったな、という気分はキチンと残った。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-17 09:47:58) |
516. 稲妻(1952)
次女の保険金に当然のようにたかり、下卑た男は出入りし、長男は頼りない。末娘高峰は兄のすね毛にさえ嫌悪を感じる、そういう一家のネットリ感を丹念に丹念に描いていく。どうしてそれが不特定多数の客の鑑賞の対象となる映画作品になるのだろう。次姉の死んだ亭主の妾のところに談判にいくエピソード。川や小さな橋のたたずまいが懐かしいということもあるが、この二人の味も素っ気もない会話もいいんだよ。ねちねち反撥し合いながら一つの共同体を作ってしまっている家族というものの、肯定でも否定でもない描写。これの対比として下宿人だった女性がいた。あまり深く立ち入って描かれてはいなかったけど、一人でやっていく厳しさと爽やかさが置かれる。あと下宿先の兄妹の睦まじさ(夜、光が漏れているさま)も、比較としてある。でも彼らは主人公の家族のネットリのリアリティを高めるために、デッサンされただけなのかもしれない。これらを倫理的判断を下さずにただ並置していく。普通の映画だったらちゃんと次女が見つかるところまで責任持つだろうが、成瀬はそんな分かりきったところにこだわらない。作中の言葉を使えば「ずるずるべったり」の、糸を引いてるネバネバを、なぜか不潔感なく描ききった映画ということだ。大人になった高峰秀子の戦後の成瀬作品はまた車掌さんから再スタートし、日本映画の黄金時代を築いていく。 [映画館(邦画)] 8点(2012-10-16 09:41:21) |
517. 殺人課
音楽おさえめのドキュメントタッチの刑事もの。ザラリとした味わいは刑事という「職業」から来ているのだろう。最も他人とざらついた関係を持つ仕事。ザラリに対してドローンと粘ついた人間関係を思わせる「民族」ってものが次第に浮き上がってくる。ここに思わず吸い込まれかけるところが、本作の評価の分かれ目で、私はやや唐突に思われたが、迫害され煮詰められてきた血の歴史を考えると、こういう感じってあるのかなあ、とも思う。反ユダヤビラの気色悪さは相当なもの。冒頭の「恩返しになぜ悪が生まれたのか教えてやろう」というせりふが全編を貫いている。ちょっとちぐはぐなユーモアは、狙いなのか下手なのか。 [映画館(字幕)] 6点(2012-10-15 09:42:09) |
518. 花咲ける騎士道(1952)
前半は、ヨーロッパの活劇はおっとりしてるなあ、ってな感想で、もっぱらG・フィリップの美男子ぶりを眺めていた。煙突をくぐっても汚れ一つつかない完璧なハンサムぶりで、こういう完璧さをめでるのも映画の重要な要素ではあったな、とは思うものの、ずっと美男を見続けてても何かむなしく、といってロロブリジーダ嬢にはもひとつ身を乗り出すほどの魅力が感じられず(その愛されずとも愛を貫く女伊達のキャラクターはいいのだが)、もっぱら屋根の上での活劇に昔テレビで見ていた「快傑ゾロ」などを思い出し懐かしんでいた。でも後半、絞首刑からの救出あたりからノラされて、やたら馬が疾走する終盤で満足。アドリーヌ救出という個人的な追跡が映画冒頭の戦争に絡んでいくあたりワクワクした。強引な地下通路の設定なんかも、全体の「おっとり」と通じ合って素直に笑え、王のメンツも守る大団円はヨーロッパ式だなあと思わせられ、アメリカの活劇とはまた違う味わいを楽しめた。それにしてもこの邦題はズレてないか。原題にある「チューリップ」って言葉は残してほしかったな。この映画のおっとりとぼけた明朗さをよく象徴している花である。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-14 10:04:28) |
519. 紅夢
普通シンメトリーの構図ってのは、ここぞというところでバンと置くと効くので、あんまり使いすぎちゃいけないものなんだけど、この作品はそれがテーマだからね。シンメトリーの安定した重苦しさ、人を発狂させるほどの、整然とした堅苦しさ。シンメトリーの息苦しさをここまで徹底して追求した映画も珍しい。あとは音の響き。作者によって選択された音しか響かない。それも幽界に響くような雰囲気で、嫉妬によって残響を与えられ心にエコーを掛けられているというか、灯篭を消す竹吹きのブボッという音も腹に響く。遠くから聞こえる第三夫人の歌声、若主人の笛。きっちりした画面に選ばれた音のみがキラッキラッと閃く感じが実にスリリング。昔の中国映画だったら、もっと目覚めたヒロインが反抗する設定になったんだろうが、もうそうはならない、プロレタリアートの部屋にまでレッドランタンは侵入してしまっているのだ。画面に現われているのは「八方ふさがり」の嫉妬渦巻く世界なのだけど、ネチネチという感じはあまりなく、荒涼の風が「八方吹き抜け」ていたのではないか。白・黒・赤の物狂いの世界が魅力的。 [映画館(字幕)] 8点(2012-10-13 09:56:42) |
520. にんじん(1932)
意外とシビアなホームドラマ。不幸な家庭というものは厳として存在し、ある子どもにとっては寄宿舎のほうが助かる場合もある、ってこと。母のにんじんに対する態度、特別原因がないだけに怖い(一応夫との間が冷えてから生まれた子どもってことか)。最も緊密な関係のはずの母と子においても「どうもウマが合わない」ということは生じ得るし、家庭は和気あいあいでという理想をあんまり高く掲げるのも、いかがなものか。原因がないんだから、母も改心のしようがなく、それぞれがそれぞれの不幸を守ったまま、父と子の間に光がほの見えるだけで閉じていく。その父と子が正常に相手を呼び合うラストが感動的。「フランソワ…」「お父さん…」。初めて母に反抗するシーンもいい。それまでの仕打ちにはビクともしなかったのに、盗みの疑いで少年の誇りを傷つけられるとこたえるわけ。全体子どもの捉え方が「けなげ」よりも「したたか」で、翌年の『操行ゼロ』やトリュフォーにつながっていくフランスの伝統なんだろう。牧歌調のシーンの美しさ、偽の結婚式後の行進、長く伸びた影、自殺しようとする池、どれも清澄さがあって素晴らしい。祝宴の中で取り残されていく惨めさが、それがあってクッキリする。にんじんがいざロープに首を突っ込んだときの震えの無惨さも見事。日本ではデュヴィヴィエは『望郷』に代表されるセンチメンタルな監督という評価があるが、それだけでもないんだ。 [映画館(字幕)] 8点(2012-10-12 10:09:15) |