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541.  ウィンチェスター銃'73(1950) 《ネタバレ》 
名刀が流転して妖刀になっていく話は日本にもあるけど、こういう名品は単なる武器以上の価値が寄り添い、魔が生まれてしまうんだな。ま、本作の銃は魔ってほどではないが、手にした者は次々と命を落としていく。そしてそれを所有するにふさわしかった最初のリンに帰っていくって話。流転していく連作短編のようでいて、一応全体としての筋も整えて90分ちょっと、という手ごろな仕上がり。それぞれのエピソードに見せ場がある。射撃競争で始まり、その賞品のウィンチェスター銃が奪われ、さらに荒野の中のクセモノの武器商人にポーカーで巻き上げられる。ついでロック・ハドソンのインディアンに渡って(逃げる馬車と追跡するインディアン)騎兵隊との銃撃戦、ここで銃が戻るかと思わせといてはずし、町で家に立て籠もった悪漢に奪われる(この悪漢ウェイコが、ちょっと若いころの三井弘次を思わせるいい味。ダン・デュリエって役者いまここで検索したら『飾窓の女』に出てる。こんなネチネチしたユスリが出てたがあいつか?!)。そしてラストで冒頭のエピソードの人物が回帰して閉じるという趣向。西部劇の見せ場集みたいになっちゃうところをリンの銃回収の旅という芯を仕込み、射撃競争の敵役の再登場でまとまった感じを出せた。この宿命の敵が実は兄弟ってので、神話的な味を狙ったのか。あちらの人にとっては、カインとアベルなんかを連想し、重さが出るんだろう。アンソニー・マン監督とジェームズ・スチュアートという『グレン・ミラー物語』の組み合わせ。まったく異なる世界のようだが「ものすごくアメリカ的」ということで共通しているな。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-09-21 12:24:57)(良:1票)
542.  恋のためらい/フランキー&ジョニー 《ネタバレ》 
あちらの戯曲ものってのは、あんまり失敗がないな。セリフが練れてる。孤独というより、なんとはないモノ寂しさを感じる四十代。ビデオに逃げ込む心の固さ。一人になるのが怖いけど、一人になれないのも怖い、っていう都会の時代に、四十代のロマンスを構築してみせる。アル・パチーノとミシェル・ファイファーってんで、もう少し神経質なタッチかと思ったけど、暖か味がある(舞台ではキャシー・ベイツだったそう)。個性を出すのに、鼻の下を擦ったり、ビンのふたを開ける専門家にしたり、印象的なポイントを作ってある。怖い街ニューヨークが背景にあり、ラスト近くで分かるんだけど、それを別の角度から、路上の死体のマークの頭のところにコインを投げ入れる遊びのスケッチなんかもあるのがいい。店の仲間うちの雰囲気の味なんかいかにも舞台的なんだけど、パチーノが現われるシーンの長回しは映画ならではの楽しみ。花屋の前の二人の会話で声が聞こえなくなり…のシーンは、もし映像だけの仕掛けだったら、ちょっとわざとらしく感じたかもしれないが、声が消されるステップを踏んでるのがいいんだな。
[映画館(字幕)] 8点(2012-09-20 09:59:16)
543.  暖流(1939)
最初、主人公をどの程度肯定的に描いているのかハッキリしないうちは、ちょっとイライラした。己れに疑いを持たぬ「竹を割ったような」行動派を美化していると見ればいいのか。喫茶店で紅茶注文しといて、すぐに食事に誘い出してしまうのが、当時の「男らしい」だったのか、などと。しかし途中から「女同士の義理」みたいなモチーフも浮きだしコクが出、最後には佐分利信の生き方に疑問を与えるようなラストで、これなら満足。なんとなく相思相愛の一組があるのに、思い過ごしや遠慮や義理やで、うまくいかない。決して劇的な障害があるわけでもないのだけど、うまくいかない。女二人のどちらにも肩入れしないで、均等に扱ったのがいいのかも知れない。高峰三枝子に力を入れると「いい気なものだ」式の話になってしまうし、水戸光子に力を入れると「女のガムシャラな愛」ということでちょっとギラギラしたものになってしまう(後年の増村保造はそれを狙う)。美術では当時のモダンぶりが味わい。女たちの対比も織り込んでいるのだろうが、神田の喫茶店、白と黒に染め分けていて、カップまで白と黒になっている。でも上流家庭の描写は、地に脚が着いてないというか、日本人には苦手ね。日本の戦前の上流家庭とは、案外こんなもんだった、という可能性もあるけど。
[映画館(邦画)] 7点(2012-09-19 09:52:55)
544.  リコシェ 《ネタバレ》 
このころのアメリカ映画は「精神の深淵を垣間見る」系のネトネトしたのが多かった。むかしのドイツ映画に通じていきそうな。前半は陰惨さだけが売り物みたいで嫌だったが、脱獄してから、失脚させるための・名誉を奪うための・恥をかかせるための復讐が進んで、そのネトネトが味わいになる。いちいちがハマってくる快感。J・リスゴーの計画性が気色悪く壮大に見えてくるところがいい。ヤクの売人の友人もラストでいいとこ見せるし、一応シナリオにも建設性を感じられる。死んだふりに対抗し、こっちも死んだふりで応酬。リスゴーは誰よりも主人公の死を願わなかった。
[映画館(字幕)] 6点(2012-09-18 09:47:17)
545.  銀座カンカン娘
こういう「素直な笑い」の映画って、今では少ないよね。いつのころからか「うがった笑い」が主流になって、多人数のための笑いは難しくなっている。文化的洗練の結果かもしれないけど、笑いの伝統の柱を一本失ってしまった気がする。昭和24年という時代の輝きもあるわな。一応職業難の背景が描かれ、灰田勝彦の純粋芸術派が大衆芸術派へ「改心」していくという話もあるが、さして重要ではない。世相を見れば下山事件など暗いんだけど、それだけ戦争が終わった喜びを歌い続けていたいという心理も強くあったんだろう。この年のほかの映画を見ても『お嬢さん乾杯』『青い山脈』『小原庄助さん』と明るい。「前向きに明るく」というモットーをなんのてらいもなく掲げることの出来た時代。「カンカン娘」はけっこうスローテンポだったんだ。これは歌のヒットが先行して映画化になったんだろうな。同年の笠置シヅ子主演の『脱線情熱娘』ってのも見たんだけど、それ用の主題歌が別に作られているのに、ラストでは「カンカン娘」を歌って終わっていた。これを歌わなくちゃ客が納得しないというぐらいのヒットだったんだろう。さて本作、志ん生に独演させて終わらせるという憎い演出(あるいは手抜きのシナリオ)。
[映画館(邦画)] 6点(2012-09-17 09:37:34)(良:1票)
546.  チャップリンの黄金狂時代 《ネタバレ》 
前半で社会批評、後半でメロドラマ的要素と、二段構えになっているのが多いね、この人。争っている猟銃の銃口が常に逃げ回るチャップリンを追っているとこ、ズボンをステッキで引っ掛けながらのダンス、相手を倒したと思い込み意気揚々と引き上げるとこ、傾く家から飛び出すタイミング、などなどで笑ったが、極限状況を笑うとはどういうことなのか。単純に食卓と靴という組み合わせのシュールリアリスティックな面白味がある。それも上品なマナーで食べるおかしさ。悲惨と滑稽が隣り合わせなのは、何も極限状況に限らないのかも知れない。相棒の目に鳥に映ってしまうって悲惨の極みの恐怖だが、そう見えてしまう人間の弱さは私たちの日常にもともとあるような気がするし、「極限状況」ってのはそれを拡大するレンズなんだろう。自分の弱さを笑えるのは、人間の貴重な利点だ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-09-16 09:26:16)(良:1票)
547.  お嬢さん乾杯
原節子の役柄が微妙なんだ。「コメディ」と割り切った造形なのか、それとも「微笑ましい話」としてリアルに出来ているのか。こういう話は当時そこらにあって、観客の受けとめはけっこうリアルだったんじゃないか。でも「お話」っぽさも強く感じられる。令嬢を誇張した振る舞いにそれをはずす言葉を挟んだりして、笑いを狙ってるのは分かるんだけど、お嬢さんが一生懸命庶民たろうとしているのか、深窓育ちゆえの天然ボケなのか、判断が難しい演出。けっきょく木下作品での原の起用はこれ一本となった。木下の好む庶民の肌合いとは遠い俳優だったってことなんだろう(成瀬や小津の庶民と木下の庶民との違いを考えるいいポイントになる)。没落一族の描写がよく、とりわけ祖母の藤間房子の愚痴っぽさが笑わせてくれた。ピアノのプレゼントをめぐる斜陽族と勃興成金の意識のズレなんかよく出ていて、いい場面だった。ピアノのまわりでバレー踊ってる人はちょっとアレなんだけど。朴訥な人物として描かれた勃興成金ってのが、本作の着眼点。松竹の三羽烏と呼ばれた上原謙・佐野周二・佐分利信は、それぞれ智・情・意に当てはめられるんじゃないかと思っているが、本作なんか情の人としての佐野周二がうまく使われていた。よさこい節をまじめに独唱する場、下の階に掛かった電話がゆっくりと上昇するカメラとともに上に住む佐野に切り替えられ、はしゃいでドアから出てくる場など、上原・佐分利では「違う」だろう。佐野周二もこれが木下との初仕事だったが、彼は原と違い『カルメン故郷に帰る』『春の夢』とコメディで以後も顔を合わせる。オートバイで走り回る当時の東京の街頭風景に記録的価値。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-09-15 09:26:58)
548.  アパッチ砦
男たちの世界への朗々とした讃歌であり、また挽歌でもある。仲間うちの世界に、H・フォンダが闖入してくるわけだ。楽園の終わり。彼も悪役なのではなく、格下げされたことにコンプレックスを感じていて、それが裏返されて厳格さを強調することになる。繰り返される「ノークエスチョン?」。階級差と士官学校出か否かのズレ、も男の世界の味わいを出す。営倉の男の歌も味。整列のだらしなさの指摘と、全員が一歩出て振り返る態度。こういった男の世界のドラマが話の芯で、それと比べるとアパッチはさほど重要でない。騎兵隊にとってフォンダが闖入者であったように、インディアンにとっては騎兵隊が闖入者だったわけで、その疚しさがあるとドラマが膨らむけど、この時代の西部劇はそういう複雑さで邪魔してはいけなく、常に画面に雲が大きく占めるあの晴れ晴れとした気分を白人男性の気持ちで味わうべきなんでしょう。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-14 10:09:52)(良:1票)
549.  うみ・そら・さんごのいいつたえ
もっと祝歌(ほぎうた)として徹底すべきところを、へんにドラマが入って失敗してしまった、って感じ。水中撮影での蛸採りなんか、さして目新しくはないのになにやら神々しさがあったし、浜辺でオバアが踊っているところなどもいい。だからかえって「うた」になっていない部分の野暮が際立ってしまう。ヤマトの不動産屋(開発業者だったっけ?)とか、都会の女の子と地方の子の絡みとか。めずらし屋に子どもらがテレビゲームを売るの、あれつまり「沖縄の子は自然がいっぱいあるからテレビゲームなんか面白いと思いません」って型に当てはめすぎてる。子どもの好奇心ってのは、そう単純に割り切れるもんじゃないだろう。映画全体を「祝歌」に徹していれば、そう気にならなかったと思うんだけど。島に流れ着いた朝、太鼓の音が近づいてくるだけで、救出を描くところなんか正しいんだから。
[映画館(邦画)] 5点(2012-09-13 10:17:22)
550.  プロスペローの本
ハイビジョンを駆使した、ってのが宣伝文句になってたが、その入れ子になってる画面にとうとう最後まで慣れなかった。本のイメージ、あるいは本の挿し絵のイメージなのか。それが横移動と拮抗するのかと思ってるとそうでもなく、けっきょく中の小さな画面を中心に見ることになって、あとはうるさく感じられた。技術がかえって世界を狭くしてしまう例。この人は本の映画よりも、絵巻物の映画を作るべき人だよね。横に長~いセットを作って。偉大なるシェイクスピアを扱っても、悪趣味志向が残っているのは嬉しい。小便の雨、本の上にドロッと落ちてくる何やら汚らしいもの、内臓好み。ミランダの結婚式のとこのミュージカルシーンは楽しめた。アフリカの結婚式から横移動で島になっちゃうとこなんかも嫌いじゃない。
[映画館(字幕)] 6点(2012-09-12 09:47:39)
551.  バートン・フィンク 《ネタバレ》 
ハリウッドにも庶民にも受け入れられなかったよそ者の話。彼本人は庶民の理解者のつもりだった。でも彼のイメージする純粋な庶民ってのにはついに出会えない。あるいはレスリング映画の観客としてイメージするきっかけはあったものの、彼はラッシュ見ただけでウンザリしてしまう。そういった庶民の反対側に、酒びたりのハリウッドがあるんだろう。唯一の庶民と思っていた隣人は、最後に「俺の場所に踏み込んできてうるさいだと!」と怒る。庶民というより「他人」と広げてもいいかもしれない。でもこのホテルではチャーリー以外他人は姿を見せない。気配は靴音以外にもたくさんあるんだけど。このホテルの雰囲気を味わうのが本作の中心で、廊下にはブィーンという低音が響いているし、暑さで壁紙は剥がれていくし、唯一外界のイメージは海岸の女性の絵で、屋内に立ち込めていた暑さは、ラストで火に凝集していく。社長の部屋は『シャイニング』を思い出させ、そういえば廊下もそうだな。あちらが「恐怖の寒さ」だったのに対し、こちらは「不安の暑さ」か。そういう映画。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-11 10:37:37)
552.  拝啓天皇陛下様
日本の戦争映画では学徒兵などインテリを主人公にしているのが多く、いかに彼らが古参兵にいじめられたかを繰り返し描いてきた。そもそも兵隊の記録がインテリによって綴られてきたせいで、軍隊の大半を占めていた農民あがりの兵の視点が弱く、もっぱら悪役として扱われるパターンが出来てしまっていた。本作はその偏向を是正する作品。元学生にとってはキツかった軍隊生活も、食うや食わずの元農民にとっては極楽だったという視点、イデオロギーではなく極楽の采配者としての天皇への帰依。そういう視点の新鮮さはいいのだが、それが十分に生かされていたかどうか。エピソードに分解されたあれこれはあまり新鮮でなく、インテリの記録とさして違わなかった気もする。けっきょく記録を採ったのはインテリの作家の語り手によるわけで、そこらへん仕方なかったのか。こういう視点からもっと戦争を深くえぐれる映画が生まれた可能性もあっただろう(極楽の軍隊に馴染みすぎたせいで、戦後の日常に不適応になってしまうあたり、もっと突っ込めなかったかな)。渥美清と藤山寛美という東西の天才喜劇役者を揃えたのに、なんかもったいない使い方をしている(あの授業のエピソードはいいんだけど、この顔合わせで期待させるものとは違うんじゃないか、という気分)。嬉しいのは当時の映画を回顧するシークエンス、水中撮影でやっているのが『与太者と海水浴』。これは高峰秀子が男の子を演じたうち残っている数少ない一本。豚を追いかけているのが『子宝騒動』。斎藤寅次郎のサイレントコメディの水準の高さを現在に伝える貴重な作品。二本ともフィルムは揃って残っているので、機会があれば御覧になれます。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-09-10 09:52:28)
553.  ローマの休日 《ネタバレ》 
「公人」としての王女と「私人」としてのアンの葛藤を底に秘めつつ、初デートのういういしさを描いたロマンスや、逆シンデレラ(最初の謁見シーンで靴を脱いだ)としてのおとぎ話の要素も織り込んだ豊かな映画。ラストの記者会見で泣けてしまうのは、やはり公人と私人のテーマが生きてるからだろう。王女は公人の窮屈さから逃亡し、休日を得る。でも彼女は責任は捨てられず、自分の義務に戻っていく。ここに彼女の人としての成長がある。それは痛ましくもあるが、人として大きくなったことを描く記者会見が付く。あくまで公の会見でありながら、そのなかに恋人同士の「対話」を織り込んだシナリオが秀逸で、一番思い出深い都市はローマときっぱり宣言する晴れ晴れしさ、公人に戻っても私人は消えていないことを告げる輝かしさがいい。会見の始まりで、二人の視線が合った瞬間にあたりのざわめきが消え完全な静寂が訪れ、「公」の場に「私」の回路が生まれたことを知らせる優れた音響演出も忘れてはならない。それにしてもオードリーはモノクロからカラーに変わる絶妙のタイミングでスクリーンにやってきた。本作や『麗しのサブリナ』や『昼下りの情事』がもしカラーだったら、彼女は妖精とは呼ばれなかったのではないか。カラーのオードリーも美しいが、あくまで地上の美女であり、色でなく光で描かれた彼女こそ妖精と呼ばれるにふさわしい。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-09-09 09:15:07)(良:4票)
554.  ビルマの竪琴(1956)
リアリズムで観ちゃいけない映画でしょう。「埴生の宿」が国を越えた合唱となるシーンは大変感動的なんだけど、反戦メッセージよりも、寓話としての純度の高さでグッと来るんだ。ハープの音色ってのが、よく夢に入るシーンでポロロロロンと使われるように、そもそも現実離れしているし、インコなどの小道具も童話的雰囲気をかもしている。そもそもビルマの風土ってのが、片足を涅槃に突っ込んでいるようなところ。だからこの映画の感動は、祈りの発生に立ち会っている宗教的なものなのだろう。立て籠もってた部隊を説得できずに、しかし自分は生き残ってしまったという疚しさが、祈りに、宗教にと傾いていく。しかしあくまで日本兵のためだけの祈りであるところが、当時の、あるいは原作者の限界なのか。水島を追いかける日本兵がビルマの人たちの祈りの場を踏み荒らすところは、だから鋭い。逃亡のための衣装が次第に体にしみ込んでいってしまったという、なんか鬼面伝説みたいなところもあり、やっぱり寓話だな。
[映画館(邦画)] 7点(2012-09-08 09:40:33)
555.  ミッシング(1982)
戒厳令下の街を撮らせると、この監督の右に出るものはない。兵士のいる風景の凶々しさ。あの臨場感だけでまいってしまう。移動した末に兵士たちが見えてくるという図がいいんだ。「人民のための軍隊」など決してあり得ないことを知っている者の視線。戒厳令下の夜、白い馬がジープに追われて走っているシーンの美しさといったらない。字で書くといかにも象徴という感じだけど、白い馬=自由という図式を経て頭に来るのではなく、即、胸にジーンと来る。それまでの息苦しさや重圧感が、観ている者にしみ込んでいるから、あの馬の跳躍に憧れを感じ、ガンバレヨと声援を送りたくなるのだろう。理想肌だがお坊ちゃんの息子と、保守だが自信のある父に、アメリカの二面を代表させ、こちらはちょっと図式的だったか。『Z』以下の三部作に比べると集中力はやや劣るも、社会派でも面白い映画は面白いんだ、ということを周知させた監督だった。
[映画館(字幕)] 7点(2012-09-07 09:49:02)
556.  帝銀事件 死刑囚
事件や裁判を再現した部分はおおむね面白いんだけど、おまけの部分がつまらない。イライラした新聞記者同士が殴り合ったあとで、笑ったり。731から占領軍にという部分で告発があるんだけど、弱いんだな。漠とさせたまま、「俺は怒ってるんだ」という姿勢を見せただけで満足してしまっている。本気で詰めようとしてない。ま、警察の捜査方針が変えられていったとこなどを具体的に見せただけ、社会派映画ではいいほうかもしれない。元731の手紙を途中で中断し、これは書けない、と額にしわを寄せるような思わせぶりの新聞記者の正義感はヤだった。もちろんドキュメンタリー映画ではなく、原作があるものをドラマ化してるだけなんだから、そういうことに文句を言うのは筋違いかもしれないが、映画人としてそういう広報係に自分を固定しきってしまっているのが、なんかもどかしい。
[映画館(邦画)] 6点(2012-09-06 10:30:18)
557.  フィツカラルド
異文化との接触のテーマ。互いになんだか分からないまま、一緒に仕事しているおかしさ。こちらを神と思っているインディのいちいちの変化に、こちらはビクビクしいろいろ考えたりするわけだけど、よく分からない不気味さ。こちらが向こうを利用して船を山越えさせたようでいて、向こうは神の怒りを静める目的でこちらを役立てている。使役しているのかされているのか、最後にはどっちがどうだか分からない面白さ。文化の対比としては、こちらにカルーソーのオペラ、あちらに太鼓。最終的に彼は満足したのかどうか。自分の労苦が染みついた船に歌劇団を乗せ、赤い椅子に座り葉巻をくゆらせて観賞する。これは夢の成就のようでもあり、自分の夢を一段下げ矮小化させて納得したようでもある。映画の幕引きとしては、バッチリ決まった。あと一つのテーマは、夢ゆめと騒ぐ男と、それを見守る女の構図、これはもう古今東西普遍のもの。
[映画館(字幕)] 8点(2012-09-05 10:09:42)
558.  西部戦線異状なし(1930) 《ネタバレ》 
ドイツの話だから自由に軍隊批判を出来た、ってことより、やっぱりこれ当時の世界的ベストセラーの映画化ってことで描けたんでしょう(日本ではこの映画より先に斎藤寅次郎が『全部精神異状あり』なんてパロディを作ってる)。ペンタゴンから文句言われても、原作があるんだから仕方ない、って言える。エピソード集の形をとって、反軍のメッセージが込められたシークエンスが展開し、群像ものとしても見られる。長靴が兵士の死を渡っていくエピソードなんかいい。塹壕の中で初めて敵を殺した兵士のヒステリックに赦しを請う態度から、翌朝「戦争とはこういうものなのさ」と“正しい兵士”へ“成長”していってしまう怖さ。そして突撃シーンの壮絶、無駄に死んでいくことがただただ強調され、勇敢さは微塵も感じられない。煽り立てている教師のところに戻って訴えるシーンなぞいいのだが、この映画が作られた後にも、原作の国と映画化の国とで第二次世界大戦が起こり、さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、その他その他が繰り返し起こっていることの脱力のほうが、重い。戦争は嫌だなあ、という不快感は万国民共通のはずなのに、それがちょっと「国のメンツ」を突つかれると、たちまち「戦争やむなし」の大合唱になってしまうんだ。/確認のため年を調べたら、原作の発表が1929年で、斎藤の映画と同年だ。原作発表すぐに翻訳が行なわれ、すぐにパロディが作られたのか。それとも話題作ということで題名がまず伝わり、それだけで一本のパロディ映画を作ってしまったと考えたほうが、当時の活力あった邦画界にふさわしいな。
[映画館(字幕)] 9点(2012-09-04 12:35:06)
559.  三悪人
姫を守る三人の騎士の話をアメリカ西部に持ち込んだよう。三人は最初から姫と結ばれる資格がないことは了承ずみで、ただ「尽くす」ことに男意気を見せるわけ。一番の見せ場は正午を期してみながワゴンで走り出すやつ。のちにトム・クルーズの『遥かなる大地へ』でもやったランドレースっての。行けたところまでの土地が自分のものになる、って豪快な競走。カメラ自身も走ることの躍動感が凄い。そういう持続する動きの迫力と、もう一つ、妹との再会の場に現われた悪役の顔のアップの、白目がギラギラしている瞬発の迫力もある。ピストルの発射の突発性なんかもね。ぶら下がっているカメ(?)を撃つところや、ラストの対決でも瞬発の魅力がある。テントの中でタマが跳ね返ったりもするんだ。これ、アメリカのフィルムセンターから借りたものも含めた「大フォード回顧」ってんで見て日本語字幕なしだったが、スクリーンで見る迫力でモトは取った。
[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2012-09-03 09:43:51)
560.  唄の世の中
むかしの邦画で多いのが、主人公がレコードデビューしてハッピーエンドになるストーリー。『愛染かつら』を初め、高峰三枝子では戦後までその手の話があった。のちの木下恵介の『歌え若人達』(1963年)はその変形でゴールがテレビスターになっている。レコード業界からテレビ界へと「花形」が移ったわけだ。で本作は、小心者の岸井明が友人藤原釜足の後押しを得てレコードデビューする話。遊園地に、客の歌をレコーディングして売る商売があったのが分かる。楽しいのが新人発掘オーディションで、歌だけではなく漫才なんかもやってる(当時エンタツ・アチャコなどレコード化されていた)。ここでは永田キング(和製グルーチョ・マルクス。面白い)とミスエロ子が登場。強烈な名前とそぐわない、和服を着て、学校の先生でも似合いそうな人で、その落差で笑いを取るってようでもなく、つまり当時の「エロ」という言葉には現在感じられる湿っぽさはなかったんだろう。広くユーモラスな方面の言葉として受け取られていたよう(小津の『エロ神の怨霊』が6年前。前作『その夜の妻』を城戸四郎にほめられ褒美に温泉での休暇を与えられたが、ついでに一本撮ってきてくれ、と注文がついて生まれた作品。残ってないが資料ではコメディ)。おかしいのはところ狭しと飛んだり跳ねたりアクロバット芸をするトリオで、こういうのはレコードにいかがでしょう、とオチがつく。ラジオの時代になって、視覚に訴える「イロモノ芸」の手品師や紙切り芸人は、ちょっと悔しい思いをしてたんだろうな。サイレント映画が始まったころに、その反対のことが起こっていたように。オーディションシーン以外では、若き渡辺はま子の「とんがらがっちゃ駄目よ」が準テーマ曲扱いで聞けます。テーマは岸井の「Music goes round and round」。朝鮮の女性舞踊もあり、当時人気で川端康成もひいきにしたという崔承喜ってのはこんな感じだったのか、などと思ったり、全体、当時の芸能興行界の雰囲気が味わえた。終盤にはけっこう迫力あるカーチェイスがあり、それが行き着いたところは、二年前に完成したばかりの狭山湖ではないか? 伏水修監督。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-09-02 09:34:06)
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