41. 膨らみ
《ネタバレ》 画面いっぱいに模様が映るのは古風な風呂敷のイメージで悪くない。ブーという音も意味不明で悪くない。 体育座りと姿見にいたのが正体だろうが白い手は出なくてもよかった。個人的な好みとしては正体不明の「布団の怪」だった方が妖怪っぽくてよかったと思うが、制作上の意図としては一人の人間の内面的な出来事という想定かも知れない。毎日部屋に置き去りにしていた本当の自分の一部が反逆してきたなど。 [インターネット(邦画)] 5点(2024-09-07 20:01:34) |
42. 私の夢
《ネタバレ》 テンポよくまとまっていてコメディのようでもある。 第一志望かと聞かれれば第一志望と言うだろうし、また特定の会社に落とされたのが致命的というよりも、何十社受けても駄目だった痛手の蓄積が限界を超えたと思うべきではないか。集団で押しかけて来るほど何人も死んだわけもなく、要は面接官の方が病んでいたということだ。こういう災難が世間の人事担当者に広がりそうで嫌な世の中だ。 [インターネット(邦画)] 4点(2024-09-07 20:01:31) |
43. 友達の家
《ネタバレ》 冒頭のアサガオと民家が静止画らしいのは残念感があった。続いて出た屋内の年代感とも合っていない。 冒頭民家の印象からすると、子ども時代の怖い記憶が残っているが今となっては事実だったかわからない、といったノスタルジックな回想談のようなものを想像したが実際そうでもない。映像そのままの出来事が起きたとすれば主人公がこのまま失踪してしまったかのようで、幼い子どもに体験させるには悲惨すぎる。あからさまなバケモノなど出さずに雰囲気だけで感じさせてもらいたかった。 [付記]何が起きたかはっきりしないのが不快なので自分で適当に考える。 まず「おまじない」を友達の両親は本気にしていなかったようなので、この家のしきたりというより友達個人のマイルールと思われる。友達は前から家の中にいる心霊の存在を察知していて、その活動を制約するには「おまじない」が効果的だと経験的に知っていたかも知れない。主人公も自分で心霊の存在に気付いていたので、ちゃんと「おまじない」をやっていれば難を逃れた可能性もある。 しかし友達の両親は心霊がいるとまでは認識していなかったようでもあり、またそもそも大人なので「おまじない」をやってもやらなくても影響なかったかも知れない(例:やらないと心霊が二階まで上がって来て、家鳴りさせるとか金縛りに遭わせたりするが大人は心霊現象と思わないなど)。家族の中で友達しかしていなかった「おまじない」は、大人に見えないものを見てしまう子どもらの間でだけ通用するものだったとも思われる。 この出来事で主人公が失踪したなどというとかなり大変なことになってしまうが、結果的には大事に至らず、夢オチのように終わったのが映像では省略されていたと思っておく(例:階下で寝ていて起こされたなど)。かつて友達にも同じ体験があったのかも知れないが、それでも大したことなく今に至っているということは、逆に主人公も結果的に無事だったということだ。本来はその程度の怪奇現象だったにも関わらず、よくある月並みなホラー表現をそのまま使ったために大げさになって破綻が生じているのではないかと思った。 たった5分の短編であるのに面倒くさいことを考えさせられたのが腹立たしいので思い切り点数を下げておく。 [インターネット(邦画)] 2点(2024-09-07 20:01:30)(良:1票) |
44. 迷霊怪談集
《ネタバレ》 ベトナムのホラー映画である。原題の「Chuyện ma gần nhà」とは近所の怪談というような意味らしい。場所はほとんどホーチミン市(サイゴン)、終盤の農村部は近郊のロンアン省とのことで、現地の雰囲気が映像に出ていなくもない。 内容としては、一部屋に集まった若手男女が都市伝説3話を語る趣向である。人が集まると怪談会を始める民族性なのか(日本だけでないのか)と思わせるものがあり、それで終了後に怪異が起こるというなら百物語の風情だが、この映画では語り出す前から怪異が起きていて、最後はむしろ新たな都市伝説(現代風ゾンビ伝説)が生まれたという意味かも知れない。 物語としては、第1話は比較的わかりやすいが設定上の突っ込みどころが大きい。また第2・3話は意味不明であって、Wikipediaベトナム語版のネタバレを読んだら(Google翻訳)かろうじて大体わかった。おれはおまえだ的な展開が2回もあり、登場人物の人格が無にされたかのように見えるのは物語としてつらいものがある。 出演者としては第1話の主人公が可愛い感じで、また第3話の主人公も眉がきりっとして嫌いでない。難点はなくもないが、奇抜な映像や現地の情景など全体的な印象は悪くなかった。 以下雑記 ・時代設定に関しては、最後のTVニュースは2020年代として、都市伝説の方は劇中の事物からして1990年代(末頃?)の話かも知れない。また都市伝説の原因になった事件はさらに遡った南ベトナム時代のことだったようで、主な観客層にとっての昔と、古いサイゴンやその周辺への懐古が表現されていたのかと思った。 ・テーマ曲は、南ベトナム時代に発表された「私を独りにしないで」(Đừng bỏ em một mình)という死者の心情を歌った歌で、昔のホラー映画でも使われたりしたものらしい。エンディングのほか3話それぞれで曲名や歌やピアノのアレンジ曲が出ていた。 ・第1話の絵は、現地で本当にこういう人物画を屋台に描く習慣があるようで、今は「コ・ミア」(Cô Mía/ミアさん)という呼び名が付けられている。その由来に関する都市伝説も実際なくはないらしいが、この映画の話とは違う。 ・第2話の「賞金300万ドン」は南ベトナム時代の通貨価値によるものかも知れない。 ・第3話の「人の魂は死ぬ時、3つに分かれる」は突拍子もない発想のようだが、19世紀末の朝鮮国に関する記録でも「人間には霊魂が三つあると考えられている。死後三つの霊魂はそれぞれ位牌、墓、《黄泉の国》に行く。」とされている(イザベラ・バード「朝鮮紀行」講談社学術文庫P374)。この朝鮮国での考え方は、故人の居場所が仏壇(の位牌)・墓・冥土(→来世)の3か所だということなら日本人にも納得しやすいが、この映画でも同じ考え方かどうかは不明瞭だった。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-08-31 09:06:57) |
45. 地縛霊 5階の女
《ネタバレ》 ベトナムのホラー映画である。原題の「Thang Máy」とは普通にエレベーターの意味らしい。監督はサイゴン生まれのアメリカ人で、1975年4月の「サイゴン陥落」時に逃れてロサンゼルス周辺で育ったが、現在はホーチミン市に戻って活動しているとのことだった。 撮影場所もホーチミン市とのことだが、舞台は主にマンションと廃病院なのでご当地感はほとんどない。また登場人物は富裕層なのかと思わせる人々で一般庶民の生活感も出ていない。かろうじて現地らしいのは、主人公の従姉妹の甲高い声が東南アジア風に聞こえることくらいだった。 有名な都市伝説を題材にしたとのことで、映画冒頭では「韓国の都市伝説に基づく物語」だと説明が出る。その一方で、今回見た映像配信サービスの解説では「日本にも「異世界エレベーター」と呼ばれる同系統の都市伝説が存在している」と注釈がつけてあるが、これは日本で公開した場合、日本にもあるだろうがという突っ込みが入ると予想されたからと思われる。 日本の「異世界エレベーター」では4→2→6→2→10→5と階を移動することになっているが、この映画では二度目の2階が省略されているだけなので共通性はある。邦画では「きさらぎ駅」(2022)でこの「異世界エレベーター」のアイデアを使っているが、アメリカ映画にも「エレベーター・ゲーム」(2023)というのがあって世界的にも有名ではあるようだった。 ホラー要素としては、エレベーターや廃病院自体の不気味さのほか、特殊メイクの人物数名と若干の異世界描写があるが特に独創的なものは感じない。また特に問題だと思ったのは、邦画にもある独りよがりの面倒くさい難解ホラーだということである。主人公の心の傷や義父への憎しみがドラマの中心だったようだが、少女の関係などわからない点が多く解明する気にならない。最後は単純な夢オチではないと思われるが、それがまた全体的にわけのわからない印象を出している。 結果としては困った映画だったというしかないが、しかし主演の人がかなりいい印象だったので悪い点はつけにくい。個人的には主人公が精神不安定という点で、邦画「アイズ」(2015)と似た雰囲気も感じた。ちなみにエンディングの曲は洋風の軽快な曲で最後に和まされた。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-08-31 09:06:55) |
46. 女戦士クトゥルン モンゴル帝国の美しき末裔
《ネタバレ》 モンゴルの時代劇である。他国と並んで製作国に名を連ねるのでなく単独のモンゴル映画らしい。風景として青空・草原・湿地・丘陵・砂漠などが映る。 主人公のクトゥルンは、13世紀モンゴル帝国の有力者だった「ハイドゥ」(カイドゥ)の娘とされている。本人に関わる逸話として、力業(字幕ではモンゴル相撲)で自分に勝った者の妻になると宣言し、応募者をことごとく打ち負かした話が東方見聞録に紹介されていて、これが英題のWrestling Princessの由来になっている。 時代背景としては、2代目ハーンのオゴタイの家系に属する主人公の家と、当時の5代目ハーンのフビライの勢力が対立している状況で、大まかには史実を踏まえているがかなり簡略化して改変している。帝国自体はまだ健在なので、邦題にある「末裔」という言葉のイメージほど後代の話ではない。 なお言語は基本的にモンゴル語のようで、口の奥で出す音が耳につく印象だった。また主人公が元のフビライに対抗する立場だったこともあり、漢人や漢語への微妙な反感が見えるようだった。 戦いの映画としては、騎馬軍団の戦いというより人と人が戦うアクション映画のイメージである。なぜか忍者部隊のようなのも出て土遁の術など使っていた。 主人公の物語としては「かぐや姫」のように、言い寄る男を次々排除する場面を大きく扱うのかと思ったらそうでもない。Wrestling Princessは題名だけかと思っていると、最後に少し時間を取ってその関係のエピソードが入れてある。確かに前半で、主人公が賊に負けてしまって意外に弱いと思わせる場面があったが、それがラストにつながる伏線だったらしい。 原作小説の著者は女性の地位向上に関わっている人物のようで、この映画でも自由を得るためには強くあれ、というメッセージが感じられる。見ていてそれほど面白いとは思わなかったが、最終的になるほどそういうことだったかと納得した。 登場人物として、主人公の仲間たちは人間性が深堀りされないが、うち小太りで小汚く見える「アバタイ」が実はイケメン枠だったらしいのは意外だった。主人公は、日本でいえば浅野温子(の若い頃)のような外見で、乗馬ができる役者のようだがモンゴル人なら普通かも知れない。敵方に「かわいい顔」と言われていたが本当に可愛い人で、終盤でにっこり笑った顔が、序盤の子役の笑顔を思い出させたのは少し感動的だった。この人の強い+可愛い姫様像が映画全体の価値をかなり高めている。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-08-24 09:46:54) |
47. モンゴル
《ネタバレ》 チンギス・ハーンの少年期から青年期くらいまでを扱っている。最後に出る1196年の戦いが実際どれだけ決定的なものだったか知らないが、この映画ではとりあえず、これでこの周辺での主人公の優勢が確定した程度には見える。 現実にはそれまで多くの集団や人物が複雑にからんでいたのだろうが、この映画では思い切って主人公家族とライバル1人に集約して単純化している。出来事の経過をまともに説明する気もないようで、例えば幽閉先から救出→家族でピクニック→神頼み→いきなりライバルとの決戦、というように場面が飛んで、主人公の気持ち本位で物語が進む。 それでも映画だからまあいいかといえなくはないが、結局全体として何が言いたいのかわからない。家族として出ていた息子(ジョチ)と娘(目が大きい)は両方とも主人公の実子でなかった感じだが、妻の子でありさえすれば構わない、という純愛を表現した映画だったということか。それでもいいがそれだけで終わりか。 歴史上の人物を扱う場合、その事績の実現に至った動機や熱意の源が何だったかを若年期に求めようとするなら話はわかる。しかしこの映画では、愛する妻の願いをかなえるためにモンゴルを統一した、というくらいはいえるかも知れないが、その先にある空前の世界帝国の形成(さらにユーラシアの東西交流の拡大など)にまでつながっていく気はしない。そこまで意図するのでなければ、そもそも何でチンギス・ハーンを題材にしたのかということになる。 歴史物語として半端な一方でドラマ的にも受け取りづらく、残念ながら褒めたい点が発見できない映画だった。 以下その他雑記 ・浅野忠信は目が細いから選ばれたのかと思った。 ・主人公が幽閉されていた場所にあった「国家滅亡を企むモンゴル人」の看板は西夏文字のようだが3字で間に合うのか。「表語文字」だそうで、漢字でいうと例えば国・滅・蒙の組み合わせ(語順不明)かと勝手に想像した。 ・主人公はモンゴル語が世界言語になるかのような夢を語っていた。今となってはそうなるとも思えないが、とりあえず肉=мах(makh)は憶えることにした。 ・突然の悪天候で勝ったのは、モンゴルでも神風のようなものを期待する風習があるということらしい。 ・どうでもいいことだがエンディングの曲は「ジンギスカン」(1979西独)ではなかったので、映画が終わってからYouTubeで勝手に聞いた。 [DVD(字幕)] 4点(2024-08-24 09:46:51) |
48. 新感染半島 ファイナル・ステージ
《ネタバレ》 原題を漢字で書くと「半島」だけなので簡単だ。新幹線の続編だが、前作と同じ劇中世界で時間が4年後というだけで登場人物は全く違っている。 序盤では現状説明として、半島南部がもう人の住む場所でなくなったために国家としては消滅し、単に「半島」と呼ばれていることが説明される。香港の怪しい男が言った「悲しい過去があるからな」という言葉が、「日本沈没」(小説・映画)を連想させる物悲しさを出していて、ここからどういう話になるのかと期待させられる。 しかし現地に行ってからは単なる世紀末バイオレンスの世界になり、また後半はカーアクションが延々と続いて正直辟易する。最後は天から救いが来るといった極めて都合のいい展開であり、自然体で前向きな姉妹の活躍が特徴的という以外は、娯楽映画として前作に及ばないというのが率直な感想だった。 物語面では、まず助けるか見捨てるかの問題は前回につながるように見える。これについてはマレーシア人が言ったように、皆にとってベストになるよう常識的な選択をする、という考え方は当然ありうるが、しかし軍隊のような無機的な判断ではなく努力したかが問題であって、特に家族を見捨てることなどできないはずだということかも知れない。 また微妙に自国向けのメッセージかと思ったのは、半島が地獄だ(※参考事項「ヘル朝鮮」헬조선)といって簡単に逃げ出せばいいのでなく、家族が一緒ならどこでも地獄ではないはずだ、と取れる台詞だった。とぼけた爺さんが本当に元師団長だとして母子と本当の家族なのかは不明瞭だったが、少なくとも母子の方では4人が家族として暮らしたこと自体を大事に思っていて、場所がどうかは問題にしていなかったらしい。もしかすると原題の「半島」というのも国家の枠を取り払った上で、自分らの住みかの本来価値を見直そうというような意味だったかも知れない。 他国のことなので理解に困るところはあるが、最後の「私がいた世界も悪くなかったです」という言葉に少し心を打たれたのは間違いなく、結果的にあまり悪くはいえない気分で終わった。「日本沈没」の韓国版(沈没しないが)のようなものと思っていいか。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-08-17 09:36:11) |
49. 新感染 ファイナル・エクスプレス
《ネタバレ》 原題を漢字で書くと「釜山行」だが邦題が「新感染」とは、新幹線というものに長年親しんできた日本らしい発想である。邦題を褒めたくなるのは珍しい。 レールムービー風ゾンビ映画ということで、基本は列車内で追いつめられる展開になるが、大田駅での途中下車や東大邱駅での乗換えで変化を出している。釜山に行きつかないで終わりになるのではと心配したがそうでもなく、終幕のアロハオエは少し感動的だった。ドラマ性も盛り込んだ出来のいい映画に思われる。 なお列車内の惨事ということからは「大邱地下鉄放火事件」(2003.2.18)を思い出すが、この映画では運転士がまともな人物でよかった。また序盤の動画で、ヘリコプターがゾンビを攻撃するのでなく、逆にゾンビが降って来たのは爆撃のようで新鮮味があった。 ドラマ的には、特に自他の優先順位が問題にされていたのかと思った。運転士が職業上の使命感から、乗客第一を実践していたのは普通に適切な行動である。またホームレス風の男は、例えばこれまで自分だけが損を押し付けられてきたとの思いがあったかも知れないが、さすがに妊婦と子どもが自分より優先ということはわかっていたらしい。人としての基本が何かを押さえた映画になっていて、それが世界共通かは別にしても、少なくとも日本と共通認識があるらしいことはわかる。 またしぶとい悪役は、極端な自分本位で人としての基本がわかっていないようだったが、これはもしかするとわかっていないというよりも、倫理を度外視するほど極端な怖がりだったのかと思った。外見は普通に見えても地がそういう人物というのはいなくもない。 ほか個人的に印象深かったのは大邱に行く予定の老姉妹で、日本でいえば倍賞千恵子・美津子姉妹のイメージだったが、妹は外見的には佐々木すみ江氏に見える。その妹が「昔なら全員とっ捕まえて」と言ったのは、戦後の荒っぽい時代を生きた強気さを思わせる。また姉がポケットからアメちゃんを出したのは、日本でいえば大阪のおばちゃんのような行動様式だった。この姉が「いつも周りの人のことばかり心配してた」というのがちょっと泣かせる言葉で、こういう日本の感覚からみても古風な人物がいるのかと思わされた。 また女子高生の「ここの方が怖い」という台詞も少し印象的だった。社会が殺伐としているとの感覚は向こうにもあるかも知れないが、悪徳商売人の娘については母親がちゃんとした人だったらしい。母親は釜山で心配しながら待っていたと思いたい。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-08-17 09:36:09)(良:1票) |
50. ミッション
《ネタバレ》 南米パラグアイの映画を前に見たので、その流れでこれも見た。公開の頃は有名だったのかも知れないが、別に映画ファンでもないので知らなかった。 この映画に出る先住民はグアラニー人だが、パラグアイ国民は今も大部分がグアラニー系のメスティーソである。グアラニー語がスペイン語と並んで国の公用語であり、通貨単位もグアラニーであって先住民色の濃い国らしい。劇中で先住民の台詞は字幕がなかったが、これがグアラニー語ならパラグアイ国民のほとんどは意味がわかると思われる。 映画の内容としては派手なアクションとか大スペクタクルというより主にドラマで見せている。映像に出た町は現パラグアイ首都のアスンシオンとのことだったが、そこに最初からいたオヤジはスペイン人の総督、また枢機卿が来た時から一緒にいた男はポルトガル人だったらしい。いろいろ説明不足で面倒くさいところがある。 題名は一般的には使命だろうが、キリスト教的には伝道のことかと思われる。またこの映画に出たように、南米でイエズス会が作った伝道所の意味もあるらしい。この映画に出ていた伝道所は、パラグアイに近い現在のブラジル領内にあったものと思われる。 南米のイエズス会は先住民の奴隷化を拒否し、伝道所(保護統治地)に先住民を集めてキリスト教化や生活・文化の向上を図っていたとのことで、当時の植民地支配の中では比較的まともな存在だったらしい。経済面でも生産物の販売などで割とうまくいっていたようだが、スペイン・ポルトガルの政治支配からは独立性が高く、奴隷商売の邪魔にもなることから植民地当局には嫌われていたとのことである。なおイエズス会の活動で本当に先住民が幸せになったのかという問いは、枢機卿の言葉として劇中にも出ていた。 物語については宗教がらみなのでよくわからない。枢機卿は、現世的な事情としてローマ教会から課された使命と、本来自分の属していたイエズス会を守ろうとする使命感を両立させる必要があり、その上で最低限、人命の被害を避けるため現地の説得に当たったのかと思った。一応心ある人物だったようだが、ただし本来の神からの使命は度外視した形に思われる。 また現地の聖職者二人は、神からの使命をどう果たすかについて考えに違いが生じていたらしい。終盤では、どちらが神の意思に沿っているか生死をかけて競った結果、どちらも神の意思に沿わなかったようにも見えたが、しかしこれは逆に両人とも神の意志によって死んだのではないか。それこそが宣教師としての使命であり、ここで死んだ二人の心を現地の人々(最後の少年少女)の記憶に残すのが神の意思だったと取れる。終幕時の枢機卿の言葉でもそんな感じのことを言っていた。 一応そのように思ったが、別にキリスト教徒ではなく感動もしなかったのでそれなりの点数にしておく。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-08-10 09:12:24) |
51. エスコバル 楽園の掟
《ネタバレ》 南米コロンビアで麻薬王といわれたパブロ・エスコバルに関する映画である。さすがに現地では撮れなかったのか撮影場所は隣国パナマだった。税制優遇のインセンティブがあったとエンドクレジットに書いてあったが風俗や景観も似ているかと思われる。 映画の内容としては面白くなくもない。前半では平穏な導入部から徐々に不安が増していき、全体の半分に当たる転換点から危機感が一挙に高まって、後半のスリリングな展開を経て終幕に至る流れを作っている。娯楽映画としてはそれなりだった。 娯楽以外の面では、特に何かにいいたいことがあったかわからない。物語としてはカナダ人が主人公だろうが、その範囲内で麻薬王の人物像を描写しようとした感じもあって重点がはっきりしない。 麻薬王に関しては、いわばファミリーのような身内とそれ以外の境界をはっきりさせて内部の結束を高めていたようだが、状況によってその境界が大きく変わって来るので安心できないらしい。民衆の味方のように見せていてもその民衆を簡単に犠牲にしていたのは、要は自分本位で守る範囲を決めていただけということか。 また、麻薬王が神の存在を信じていたからにはキリスト教世界の住人なのは間違いないとしても、神からの見返りが少ないことに不満を感じて決別を宣言したらしい。いわば神さえも取引相手や抗争相手の扱いなのが不遜だという意味かも知れないが、それが実際の麻薬王に即した描写なのかはわからず、そうですかで終わりである。 カナダ人のドラマに関しては、最後にオチがついているが特に面白くない。最初に来た時の思いがちゃんと説明されていないようで、最後だけ適当に格好つけたようでもある。そもそも行く先々で若い女性に手を出す性癖が禍を招くのではないかということもあるわけだが、麻薬王の姪が可愛い人だったということは認める。 その他雑記として、カナダ人が派遣されたイトゥアンゴItuangoは山岳地域の標高千六百メートル程度の尾根上にある町で、市街地人口としては七千人くらいのようである。映画では、お宝の隠し場所へ向かう途中で町を遠望する場面があったが実際こういうイメージらしい。本物の町の様子をGoogleストリートビューで見ると(2013年10月)、小銃で武装した兵隊(国家警察?)が街角で警戒しているのが写っていてヤバさを感じさせる。コカの栽培が増えているとか車に爆弾がしかけられたとかで危険視されていた場所とのことだった。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-08-03 09:12:44) |
52. チャンス! メイドの逆襲
《ネタバレ》 中米パナマのブラック・コメディである。汚い虫関係が嫌いな人や犬好きの人は見ない方がいい。 物語としては富裕層に虐げられた家政婦2人が反乱を起こす話になっている。復讐劇として期待するとすっきりしない終わり方だが、とりあえずの現状打破により、反乱を起こした側にも起こされた側にもそれなりの解放感があったということか(よくわからない)。 現地の実情として富裕層と貧困層の格差は大きいだろうが、それぞれにいいことも悪いことも起きるので、貧困層でもいいことが全くないわけではない。ただし一攫千金というより好機をつかんで生かすことが大事であって、そのために政治的自由や教育面での機会平等が確保された社会であってもらいたい、ということならわからなくはなかった。 以下その他雑記 ・撮影場所は主に首都パナマ市らしい。DVDと携帯電話があるので劇中年代は製作時点そのままと思われる。今どき白黒テレビかと思ったのは家政婦用(厨房に設置)であって、他は貧民街も含めて全部カラーのようだった。 ・原語ポスターでは「LOS TRAPOS SUCIOS SE LAVAN EN CASA」と副題のように書いてあるが、これは「汚いぼろは家で洗う=内輪の恥は人目にさらすな」という意味であり、日本でいう「家政婦は見た」的な性質もあったらしい。 ・夫の実父は貧困層から軍人として成りあがったが、米軍のパナマ侵攻(1989~90)の結果として軍隊が解散させられて失職したらしい。現在のパナマは隣国コスタリカと並んで軍隊のない国ということになっているが、政治面では軍事独裁から民政に移行したので夫も選挙に出られたということだ。 ・パキータという人物は隣国コロンビアからの出稼ぎらしい(演者もコロンビア人)。息子がゲリラ兵にされるというのが、当時まだ活動中だった「コロンビア革命軍」のせいだったとすれば、給料をもらうために大げさな話を作ったわけでもない。なお終盤に出ていたダリエンDARIENという地名は、現在はコロンビア方面から来る不法移民が通過していく国境地域として有名である。 ・「キャンディ」の末路はダニと同じだったという皮肉のようで、個人的には失笑させられた(うわーやりやがったーという感じ)。ちゃんとみんなで埋葬もしていたので心ない映画でもない。エンディングの最後には「この映画の製作中、動物は一切傷つけられませんでした。ダニを除いて。」(Ningún animal fue lastimado durante la realización de esta Pelicula, excepto las garrapatas.)と書いてあったので一応良心的だ。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-08-03 09:12:42) |
53. バビ・ヤール
《ネタバレ》 「バビ・ヤール」とは第二次世界大戦中にユダヤ人の虐殺があったウクライナの地名であり、1941年9月の2日間だけで37,771人が殺されたとされている。 内容としてはアーカイブ映像によるドキュメンタリーで、編集技術もあってか結構な臨場感がある。バビ・ヤールの事件そのものは写真(静止画)だけで、事件前の部分は恐らく主にドイツが宣伝用に撮った映像、事件後の部分はソビエト政権下での戦犯裁判が中心になる。絞首刑で人が死ぬところまでをしっかり撮っていたのはどうかと思うが、そこで大群衆が喝采したのは前近代の遺風かとも思わせる。 なお2022年以降にウクライナの地名からロシア語を排除する風潮が生じる前の映画のため、字幕ではリヴォフ、キエフ、ハリコフなど昔の名前を平気で書いている。そもそも題名からして「バブィン・ヤール」(Бабин Яр)とか書くのが政治的に正しい表記だろうが、英題がBabi Yarなのでそうするしかないともいえる。 原題のContextは意味がよくわからないが、映画はバビ・ヤールの前に起きていたユダヤ人迫害のところから始まるので、バビ・ヤールを単独の事件として捉えずに、当時の現地事情を背景にして理解すべきという意味か。また戦後に現地の地形が改変されるところまで扱っていることから、そのことも含めた文脈を読み取るべきだということかも知れない。 最後に工場の廃液を谷間に流し込んでいたのは、後の1961年に「クレニフカ土砂崩れ」(Kurenivka mudslide)という別の惨事を引き起こしたわけだがそこまで映画には出ていない。しかしこれがユダヤ人迫害に対するソビエト政権の冷淡さを表現したと考えれば、1962年に作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチが交響曲第13番「バビ・ヤール」を発表した動機にも通じることになる。 ところで序盤にリヴォフで起きたユダヤ人迫害の場面は細かい説明がなかったが、これは「リヴィウポグロム」(Lviv pogroms (1941))というものであって、当時ナチスに親和的だった「ウクライナ民族主義者組織」や一般市民も迫害に加わって千人単位の死者を出したとされる事件である。バビ・ヤールの方ではキエフの一般市民が関与したとの話は特になかったが、あえて先行してリヴォフの件に触れたというのは、後のバビ・ヤールにつながるcontextを捉える上で重要と捉えていたからだと思われる。 侵攻して来たドイツ軍が解放者として歓迎されたこと自体は、ソビエトとナチスのどっちがましか、という比較の問題ともいえなくはない。しかしそこで名前の出ていたステパン・バンデラは、2022年以降ロシアがウクライナをナチス呼ばわりする根拠に使われている民族主義者のようなので、この名前をあえてユダヤ人迫害に絡めて出したのは、現在のウクライナにとっては腹立たしいことかも知れない。監督は自国の不評を買っても動じない気骨のある人物らしいが、映画人ならそのくらいで普通か。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-07-20 10:30:07) |
54. ウクライナ・クライシス
《ネタバレ》 原題の「Іловайськ 2014. Батальйон Донбас」は「イロヴァイスク2014:ドンバス大隊」である。2014年に起きたドンバス戦争中の「イロヴァイスクの戦い」を映画化したもので、登場するのは主に義勇軍のドンバス大隊だが、ほかに正規軍や有名なアゾフ大隊、また「極右セクター」も参加していたらしい。戦う相手は分離主義者の「ドネツク人民共和国」(自称)の軍隊で、一部にロシア軍も出ている。 英題Beshootはドンバス大隊の指揮官だった主人公のコールサインである。この指揮官は実在の人物であり、映画ではなんと本人が本人役を演じている。その他、実際の戦いに参加した人々が多く出ているとのことだが誰がそうなのかわからない。 なお日本語字幕は2022年以降の政治的に正しい地名表記には必ずしもなっていない。ドネツクはともかく首都の名前がキエフと書いてあったりするが、そもそもイロヴァイスクからして「イロヴァイシク」が正しいのではないか。 映画全体としては2014年の戦いの悲劇を記憶するとともに、そこで戦った人々を顕彰しようという体裁になっている。2022年以前の時点では、まだこの辺の問題が世界に注目されていないとの問題意識が背景にあったかも知れない。またドンバス大隊が「死の部隊」扱いされていたことに関する汚名返上の意図も見える。 しかし話としては全く面白くない。極悪ロシアの非道の証拠とされる「人道回廊」への攻撃がクライマックスかと思えばそうでもなく、その場にいなかった主人公の動きを追って消え入るように終わる。主人公が負傷して匿われてから脱出したという流れ自体は本当のことらしいが、それと直接関係のないサイドストーリーが派生するのは結果的に意味不明だった。とりとめなく続くTVドラマを短縮した感じだが、あっちの方ではこういうのを映画と称する例がけっこうある気がする。 政治的な面では、まず当然ロシアに対して肯定的ではないが、遠方のキエフにいる「お偉方」にも反感を示していたらしい。過去20年間何も変わらないことが本当の問題だ(=中央政府が無為無策?)と劇中アメリカ人が言ったのは、この映画自体の主張を代弁していたかも知れない。その他全編を通じて必ずしも祖国=政府ということはなく、またロシア系住民にとっても分離主義者が必ずしも味方でないことが表現されている。 登場人物は親ウ・親ロその他が入り混じり、また地域住民としての感覚と政治的立場の食い違いもあったりして敵味方が曖昧な状態になっている。ただし元教員のエピソードは住民間の分断が進みつつあることの表現だったかも知れない。また個人的な憎しみはなかったにもかかわらず、身内を失ったことで復讐心が嵩じていく様子も見せていた。なお主人公を匿ったのはロ系の一般庶民だったようだが、一方で個別の悲劇を引き起こしたのは全てロ側の国家権力につながる者(ロ軍・分離主義者・プ支持者)だったという形で整理をつけていた。 見るのに忍耐を要する映画だが、2022年以降にウ=正義、ロ=悪で単純に分ける意識が定着する前の状況を、ウ側の立場から表現したことに価値がありそうなので悪い点にはしない。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-07-13 10:00:19) |
55. バルカン・クライシス
《ネタバレ》 1999年のコソボ紛争に関わる戦争アクション映画である。迫力のある戦闘場面は冒頭のほか後半にまとまっていて、その間は戦いの原因になった現地情勢が紹介される。また全編を通じて、現地の紛争に関するこの映画としての姿勢も表現されている。 副次的要素としてはロシア人とセルビア人のロマンスも入れてある。2人の様子を狙撃手が上から見ていて感想を述べたのと、ラストに出たタクシー運転手の雰囲気はよかった。また人物としてはコソボにいた警察署長が立派だった。 けっこう政治色の濃い映画だが、娯楽映画として単純に見れば悪くなかった。 政治的な面に関しては、冒頭でロシア連邦文化省とセルビア共和国文化情報省のロゴが出るので両政府の支援があったと思われる。IMDbのユーザーレビューを見た限り、英語のわかる人々の間ではプロパガンダ映画と思われているらしい。 この映画での直接の敵は「コソボ解放軍」という実在した武装集団だが、さらにその背後にはなぜかセルビアを目の敵にするNATOがいたことになっている。西側自由世界では常にセルビアやロシアを悪として扱うが、反対側の視野からはこう見えるということだ。一方で味方にもアルバニア人やイスラム教徒を入れることで、そういった人々全部を敵視しているわけではないことも示している。単なるバカ映画ではない。 なおスイスから来た医師がコソボ解放軍に内通していたというのは、この当時からあったとされる臓器売買に加担していた設定と思われる。2008年以降、この臓器売買への疑念が西側世界でも広がったことが製作の背景にあったかも知れない。 ところで味方の8人は、国籍はロシアとセルビアだろうが民族は全員違っていて、ロシア人は主人公だけ、ほかはタタール人・イングーシ人・ベラルーシ人・セルビア人・アルバニア人・ウズベク人とのことだった。あとの1人は不明だったが、これは両親の出身民族が違うなどの理由で特定できず、ソビエト連邦時代ならソビエト人と言えばよかったが、その言い方ができなくなったので不明というしかなかったと思われる。 旧ユーゴスラビアでも民族が特定されない人々をユーゴスラビア人と称したわけだが、それ以外にもさまざまな民族が一つの政治体制のもとで融和して暮らしていたにも関わらず、その体制が崩れて各民族が争い始めたことへの嘆きが物語の背景にあったと思われる。民族不明のソビエト人が昔は平和だったと言っていたのは、旧ユーゴと同様に旧ソ連諸国でも争いが生じているからと思われる。 旧ユーゴでも政治・行政上の区域分けはあったにせよ、実際はその内外で混在していた人々が今は民族単位で線引きされ、結果として人と人の間にも線が引かれて分断されてしまったことが原題で表現されていたと思っておく。娯楽性とメッセージ性を備えた出来のいい映画だと思ったが、劇中武装集団がTOYOTA車を使っていたのが気に障ったので報復として点数は低くする。 [インターネット(字幕)] 3点(2024-07-13 10:00:17) |
56. セルビア・クライシス
《ネタバレ》 第一次世界大戦の開戦から「大撤退」(The Great Retreat)に至るセルビア王国の戦いの映画である。序盤は迫力のある戦闘場面だが、後は退却ばかりで最後は八甲田山のようになり、戦争映画としての価値は何ともいえない。しかしやたら多数の国が参戦した第一次大戦が、もともとオーストリア対セルビアの戦いだったことを思い知らされるとはいえる。 原作付きの映画であり、公開後にはTVドラマ(11回)も放映されたそうで、映画はその総集編というか予告編のようでもある。最初は勝っていたのに何で敗走しているのか、台詞に説明は入っていたが急展開すぎて感覚的につながらず、また登場人物のドラマも断片的でわけがわからなくなっている。なお軍隊に同行した少年が実在の人物(1906-1993)というのは少し驚かされる。 物語としては、国王が戴冠式で誓った通りにできているかを元首として常に内省する姿を映している。またそれとは別に人として「私も何か役に立ちたい」と言っていたのは共感できる。「この本が役に立ってよかった」というのもいい台詞だった。 映像的にはプリズレンの城塞(現コソボ共和国)と、最後の軍艦4隻の端正な姿が目を引いた。防護巡洋艦のようだが実在したものかは不明だった。 ところで娯楽以外で何か政治的な意味がこの映画にあるかに関して、まず物語中に愛国心は感じられるが特に拡張主義的な主張があるようには見えない。この大戦では国王が味方につけた連合国側が勝ったことで、戦後はセルビアを中心にして周辺地域や国を統合した南スラブ人の王国ができ(1929以降はユーゴスラビア王国)、王国としては領土拡大を果たしたことになる。これはそもそも大戦のきっかけを作った大セルビア主義の立場からも歓迎されたとのことだが、しかしこの映画ではそこまで範囲を広げておらず、あくまでセルビアの枠内にとどめた形で作っている(ただしコソボはセルビアに含めている)。 それよりは当時の国王が元首として、また人としていかにまともだったかをアピールしていたように見える。このことに関しては現在、主人公の曾孫に当たる人物がセルビア国内に住んでいて、セルビアでの立憲君主制復活を提案しているとのことである。地元週刊誌Libertateaのインタビュー(2022.3.5)では「ノルウェー・スウェーデン・イギリス・日本・カナダといった高いレベルの民主主義、人権と自由、社会正義を備えた国でも立憲議会君主制が採用されていて、セルビアでも役立つ可能性がある」と語り、その上で、立憲君主というのは民主主義・継続性・安定性・統一の保証人であり、政治・宗教その他に関係なく全ての国民のためにいる、といった、この映画のテーマにつながりそうな記事にまとめてあった。 現地の世論調査(2013と2021)でも議会制君主主義は評判が悪くないようで、そういった世相を背景に、いわば立憲君主制の意義を訴えた映画のようにも取れる。日本も褒められる側に入っていたようだ(笑)。ちなみに第一次大戦で日本はセルビアの味方だった。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-07-13 10:00:13) |
57. セルビアン・フィルム
《ネタバレ》 意外にまともな映画だった。場所はセルビア共和国の首都ベオグラードで、船が通っていたのはドナウ川と思われる。 過激な映像表現で有名な映画だが、今回見たものは各所にボカシが入っているため見ていられないほどの場面はない。そもそも映画であるからには本当に残酷なことをやってはいないわけで(多分)、例えば人の首を切断する場面でも、本当に人の首を切るわけはない(多分)のでボカシ自体に意味がないともいえる。 また例えばローティーンの少女(ローティーンに見える演者)に手を出す場面は作らないなど、映画製作上の通常の倫理規範は遵守していたように見える。少年の尻はちょっと微妙だが。 ところで以前から疑問に思っていたこととして、セルビアは1990年代の旧ユーゴスラビアの紛争を通じて極悪非道の国という印象づけがされてきたが(※図書紹介「戦争広告代理店」)、その上さらにイメージを落とす極悪非道の映画をわざわざ作るのは何でかということだった。しかし今回見たところではいわば開き直りの態度なのかと思った。 劇中の極悪監督のご高説によると犠牲者が苦しむ姿は売り物になるとのことだったが、これは過去セルビアが関わった紛争における西側メディアの報道姿勢への皮肉ではないか。その時期にダークサイドに落ちた?極悪監督は、開き直って犠牲者を売り物にしたフィルムを売りまくって国の経済を支えるとまで言っていたが、しかし結局は国内他者を犠牲にして自分がのし上がろうとしただけで、金で極悪映像を消費する悪魔のような連中の手先になっていたと取れる。 そもそもこの映画自体がそういう悪魔の手先でないのかと疑うことも可能だが、どちらかといえば「幸せなセルビア人家族」を守ろうとした主人公に寄った立場ではなかったか。Web上の記事など見ているとかえってわからなくなるところもあるが、とりあえず自分としてはそのように思っておく。 その他、ポルノ男優というのはセルビアでも褒められない職業のようだったが、主人公は業務上で自由意思の成人女性だけを相手にし、新生児ポルノを嫌悪していたのでまともな人間だったと思われる。ただし2020年代の西側自由世界の多様性志向が強まっていくと、どんな性的嗜好(※性的指向でなく)もノーマルで正当な存在意義を持つなどという話になりそうで、劇中スタッフを異常者と罵ることもできなくなるかと思うと恐ろしい。とりあえず死体を見るといきなりパンツを下ろす連中は何とかしてもらいたい。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-07-13 10:00:11) |
58. ザ・ミソジニー
《ネタバレ》 ホラーだが別に怖くない(映像効果も安っぽい)のはいいとして、前作よりさらにわけのわからない映画だったのが腹立たしい。舞台挨拶で監督が、人生かけて考え続ける映画になることもなくはない、という意味のことを言っていたようだがそこまでの気力も熱意もない。映画の台詞でも、全部わかったら生かしておかないというのがあったのでわからなくていいことにする。 わからないなりに見たと思ったことを書くと、全体的には劇中現実の中に劇作家の仮想現実を入れ込んで、またその内部で劇中劇と、劇中人物が幻想で体験する物語が展開する複雑な構成のようだった。各物語の境界が判然とせず重なる箇所もあったりして、実際に何が起こっていたのかはわからない。出演者は重層的な物語の中で何役も務めていたようで、役としての関連性はあるのだろうが混乱させられる。服装による区別は比較的わかりやすいとして、ほかに劇中人物の年齢の違いを演技で表現したところもあった。 物語の流れを作る要素としては、劇作家の創作活動/一人をめぐる二人の争い/母と娘の関係/ヨーロッパ中世の魔女と現代の魔女/アメリカ帝国主義と戦う超ファシズムの団体(笑)といったものかと思った。また女性が背負う宿命の観念が根底にあったようで、こういったものによって題名の内容を表現しているのだろうが理解不能で何ともいえない。 なお天国はないとしても地獄はあるといった感覚は前作とも共通のようだったが、今回は性別による違いがあるという設定だったらしい。穴が不気味だとかあまり突っ込むと障りがありそうで触れたくない。 ところで劇作家がやっていたのは脚本の制作だったようで、できた台本で稽古するというより主役が参加して実演しながら作っていく形かと思った。役者の感覚を取り入れようとしたところもあり、また役者の実体験に基づく述懐をそのまま書こうという発想は実話怪談本的でもある。出演者はそれぞれに個性的で演技も印象的だった。 ちなみに個人的にはアメリカと戦う話が面白かった。思想としては前作のボリシェヴィズムに対するファシズムかも知れないが内容不明なのでいいとして、戦時中にアメリカに対抗できる「呪いの兵器」を日本が開発しようとしたというのは実現しなかったのが残念だ。ただし「巫蠱の毒」などというと本来は大陸系だろうから、もっと強力なものが日本以外で開発されると恐ろしい。 [インターネット(邦画)] 5点(2024-06-22 10:35:08) |
59. コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~
《ネタバレ》 平和国家として大人気の中米コスタリカを扱ったドキュメンタリーである。外国映画なので最初から最後まで空想的平和主義で通すわけでもなく、平和を目指した努力を現実的な面からも説明している。なお90分版と57分版があるうち90分版を見たが、反戦平和を語りたいだけなら57分の短縮版で間に合うと思われる。 実態として「コスタリカの非武装は米軍の庇護のおかげ」という見解もあるようだが(ナレーションで言っていた)、確かに中米の小国がそれぞれ強力な軍隊を持つ必要などない気もしなくはない。特に中南米など軍隊が内政の不安定要因でしかないとすれば、廃止した方がいいという発想自体は理解できる。その上で周辺地域の国際環境が許すと思えば、強い決意をもって採用しうる方法かも知れない。 現実問題としては集団安全保障や国際社会への働きかけで自国の立場を保全してきたとのことだが、特にアメリカのせいで平和主義が脅かされたことは何度かあったようで、その都度自らの才覚で切り抜けてきた実績があるらしい。また自国の安全保障のあり方をモデルとして他国に提案するとか、中米の平和に貢献する具体的な活動も行ったと紹介されていた(1987ノーベル平和賞)。 映画の最後に安全保障上の根本的な脅威として、コスタリカの対極にある「永久戦争国家」たるアメリカの存在を、アイゼンハワーの退任演説を引き合いに出して指摘していた。確かに危ない国だ。 軍隊の廃止のほか、「中産階級」の重要性についても車の両輪的に強調していた印象がある。1948年の内戦後の社会改革に関して、当時の指導者が「中産階級革命」と表現したというのは少し感動的だった。 中間層が厚ければ社会が安定して民主主義も良好に機能するはずであり、そのために軍隊を廃止する一方で、社会保障や教育に力を入れた福祉国家を作ってきたところが、90年代からの「いわゆる新自由主義」や「グローバリゼーション」による格差拡大で中産階級の存在が脅かされ、社会の根幹までが危うくなっているとの指摘がなされていた。これは多くの国にとって他人事でない、まさにグローバルな問題提起と思われる。 その他の事項として、(アメリカばかりに依存せず)欧州やアジアから開発援助を受けたという場面で日章旗とTOYOTAの看板が映ったので、こんなのをいちいち見せなくていいという気分だった。またその直後に東洋の某大国がサッカースタジアムを寄贈したと説明が出て、このために台湾と断交したわけだなと言いたくなった。 ほか無名の語り手の中で「コスタリカ人も先の見通しは立てる」と言った人物がいたのは、本人の見た目の雰囲気もあって少し笑った。地元民のようでも英語で話していたのはグローバル化に対応できている人と思われる。また終盤では、家族や友人だけでなく近所の知らない人々なども含めて身内同然であって、みながこの国をつくって助け合う仲間だ、と言う人物が出ていたが、こういう人がいるのはまともな社会かも知れないと思った。 [DVD(字幕)] 5点(2024-06-15 10:39:53) |
60. パラノーマル・ショッキング
《ネタバレ》 中米コスタリカのホラー映画である。日本国内向け予告編では「パラノーマル・アクティビティ・シリーズに次ぐPOVホラーの最新・最恐作!!」と書いてあり、その方向性で邦題も付けてあるが原題は単純に「療養所」である。 内容的には、廃病院で噂される心霊現象のドキュメンタリーを撮ろうとした人々が、体験者・心霊研究者・霊能者などから取材の上で現地に行ったら大変なことが起きた、という映画である。ありがちな構成とアイデアで特に怖くはなく、また不明点が多い上に褒めるところも特にないが、最後に修道女が出て来たタイミングは悪くなかった。 なお微妙にコメディ調のところがあるのが特徴ではある。監督インタビューの記事によれば本人のスタイルとしてコメディ+ホラーの形にしたとのことで、確かに笑いの仕掛けに見えるところはあるが笑えない(当惑する)のは残念だ。ほかコスタリカの冗談話で超常現象をコメディ口調で語るとか、恐怖やプレッシャーで怒り出す者の反応がよく表現されているとの評もあり、それがどのくらい現地固有のものかはわからないが、最初の体験者の語り口などは確かに独特だったかも知れない。 その他のことについて、撮影場所はイラス火山(3,432m)裾野の標高2,335m程度の場所にある。ここは冒頭で紹介されていた通り20世紀に実在した結核療養所であって、大統領を務めた(1889-90)こともあるカルロス・デュランという医師が設立し、1963年頃まで使われていたとされている。現在は全国農業者団体の管理下にあるとのことだが、歴史的・建築的に貴重なものとして観光客も実際に来るようで、2014年には国の歴史的建築遺産に指定されて修復と活用も進められているらしい。 しかし廃病院であり建物も荒れているため心霊スポット的にも扱われてきたようで、そこで実際に語られる都市伝説を使ったのがこの映画ということになる。場所としては国内人口が集中する中央高地に近接し、首都サンホセからだと日本なら福岡市から犬鳴トンネルに行くくらいのイメージである。修道女が出るという話は本当にあるらしいが、ただし実際の都市伝説に出る修道女は病人を看護している姿とのことで、この映画のように邪悪な存在とも限らない。ほかにも誇張がなかったかどうかは不明である。 ホラーとしては特に面白くもなかったが、現地事情を一応反映した映画のようなので悪い点数にはしない。 [DVD(字幕)] 5点(2024-06-15 10:39:51) |