741. ベルリンファイル
《ネタバレ》 洗練されたアバンタイトル、迫力と説得力に満ちたアクションシーン、俳優たちの優れた実在感。「スパイ映画」としての娯楽性を十二分に備え、しっかりと面白い映画世界に対して、“いつものように”羨望の眼差しを向けざるを得ない。 決して実績を積んでいるわけではない殆ど「新人」とカテゴライズされる若手監督が、これほどまでに“確かな”エンターテイメント作品を撮り上げてしまうのだから、相も変わらない韓国映画界の充実ぶりには、羨ましくて、よだれが出そうだ。 北朝鮮の諜報員である主人公が緊張感を携えて自宅へ戻る様をスタイリッシュに描いた冒頭のアバンタイトルを観た時点で、この映画が一定レベルのクオリティーを備えていることは明らかだった。 また一人、韓国映画界に世界レベルの「才能」持った映画監督が登場したことを認めざるを得ず、リュ・スンワン監督は、すぐにでもハリウッドで通用する映画が撮れるとすら思える。 卓越した映画世界に息づく俳優たちも、揃いも揃って良い。 主演のハ・ジョンウは、独特の素朴な風貌と内に秘めた危うさが、いい塩梅の雰囲気を醸し出し、得体の知れない「北側」のスパイを抜群の説得力もって演じていた。 もはや韓国を代表するベテラン俳優であるハン・ソッキュは、「南側」の諜報員として主人公と対峙し、やはり抜群の存在感を見せていた。彼の出世作でもある「シュリ」で演じたキャラクターの延長線上に今作のキャラクターを被せてみると、また違うドラマ性が見えてきて興味深かった。 主人公の妻を演じるのは、みんな大好きチョン・ジヒョン。ご多分に漏れず、「猟奇的な彼女」以来の彼女のファンだが、これまでの出演作とはまた違う表情を見せ、薄幸ではあるが芯の強い美女を好演していたと思う。 個人的に最も印象的だったのは、悪役のリュ・スンボムとうい俳優。登場時は軽薄なチンピラ風情で、完全にやられ役だと思えたが、ストーリーが進むにつれて、まあイヤな感じの悪役に進化していった。クライマックスのある展開など、彼がこの映画に一つのインパクトを与えていることは間違いないと思う。 韓国映画らしく、血なまぐさく、シリアスな展開も踏まえて、ラストはしっかり高揚させてくれる。 こういう映画的なセンスの高さは、やっぱり羨ましい。 なお、“ウラジオストク”の位置が曖昧な人は、鑑賞前にGoogleマップを確認しておくことをお勧めする。 [ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-11-27 00:15:43) |
742. エルム街の悪夢(1984)
もし、ある程度大きなバジェッドで、再度リメイク化が決定したとして、もし、ティム・バートンなんかが監督に決まった日にゃ、絶ッッッ対にジョニー・デップが“フレディ・クルーガー”を演じるに決まっている!と、勝手な妄想が途中突っ走った。 そんなジョニー・デップの映画デビュー作としてもよく知られている、この超有名なホラー映画を初めて観た。 昔、実家に今作のタイトルがラベリングされていたVHSがラックに並んでいたような記憶もあるが、今なおホラー映画が苦手な僕が観れる筈もなく、現在に至るまでスルーし続けてきた。 三十路を越えて、いい加減誰でもタイトルを知っているような有名なホラー映画は観ておかなければなるまいと思い、先日の「キャリー」に続き、本作を鑑賞。 さすがに描かれるホラー描写は、“お決まり”のもので、ストーリー展開もベタ中のベタなので、恐怖心が煽られてたまらないなんてことは当然なかったが、それでも充分びくついてしまうのは、この映画がその後のあらゆるホラー映画のベースとなった「定番」を生み出しているからに他ならないと思う。 決してストーリーが面白いということはなく、所々において支離滅裂ですらあるこの映画を人気作たらしめたのは、何を置いても、夢とうつつの狭間を行き交うモンスター“フレディ・クルーガー”という稀代のホラー映画スターの誕生に尽きるだろう。 この第一作を観ただけでは、結局のところ何故このモンスターが出現し、若者たちを次々に襲うのかよく分からないが、その存在性と目的の曖昧さが、殊更にこのキャラクターの不気味さと禍々しさを増幅させているようにも思える。 焼けただれたグロテスクな面構えに対して、赤と緑の横縞セーターのダサさが、絶妙なビジュアルセンスを醸し出している。(この造形を考え出した人も、結構キレていると思ってしまう……) ともかく、ようやく映画史を代表するホラー映画スターの初登場作を観られて良かった。 さて次は「エクソシスト」か「13日の金曜日」か……いずれにしても気が重い。 [インターネット(字幕)] 7点(2013-11-16 14:34:40) |
743. ドライブ・アングリー3D
この映画をクソ真面目に「否定」することしか出来ない人は、映画ファンとして勉強不足だと言わざるを得ない。 なぜならば、これこそが、もはや一つのジャンル映画として確立しつつある、“ニコラス・ケイジ映画”なのだから。 勿論、端から「期待」なんて言葉は持たずに某動画配信サービスで鑑賞を始めた。 すると、序盤から想定外の“おかしな”テンションの高さに、ニヤリとしてしまった。 「あれ?これはもしかしたら中々の馬鹿映画かもしれない」と、別の意味の「期待」が膨らんできた。 ニコラス・ケイジ演じる主人公が、ショットガン片手に問答無用に暴れまくる。 その凶暴さは、明らかに常軌を逸していて、この主人公が“フツーの人”ではないことは容易に理解できる。 どうやらその凶暴さの動機は、愛する娘を謎のカルト教団に殺され、残された孫娘を救い出すため……ということらしいが、はっきり言ってそれに見合った悲愴感など全く漂わせずに、襲来する悪漢を蹴散らし、行きずりの女とのセックスに興じる様は、ニコレス・ケイジ史上に残る無頼漢ぶりかもしれない。 その主人公の無頼漢ぶりに“悪ノリ”するかのように、映画の核心となると或る「設定」が明らかになり、「暴走」は益々激しさを増し、それと同時にストーリーは益々どうでもよくなってくる。 主人公のキャラクター性も良いが、それを上回るくらいに脇のキャラクター達も立っている。 アンバー・ハード演じるヒロインは、絶妙なビッチ感を漂わせつつ、ダイナーのウェイトレスを好演していた。 そして何と言っても、ウィリアム・フィクトナー演じる「監査役」が最高だった。得体の知れない独特のキャラクター性が、映画の重要なアクセントになっていたことは間違いなく、娯楽性を高める要因となっていたと思う。 物理的におかしな激しさを見せる銃撃戦とカーアクションに眉を潜めてしまったら負けだ。 映画全体の馬鹿馬鹿しさに対して、ストレートに「馬鹿だ!」と大笑いできた者の勝ち。 それが、“ニコラス・ケイジ映画”を楽しむための鉄則だろう。 [インターネット(字幕)] 6点(2013-11-13 22:41:32)(良:1票) |
744. 人類資金
「青臭い」 映画のラストで、“悪役”のヴィンセント・ギャロが、悔しさと憎しみを滲ませながら言うのだが、映画の脈絡に反して、正直、彼の台詞は正しくて、その一言に尽きる。 現実社会に即した経済サスペンスとして描かれてはいるが、映画としては、青臭い表現と青臭い帰着を見せる稚拙な映画だと言わざるを得ない。 原作は未読。元々の物語はもう少し骨格がしっかりしているのかもしれないが、映画化の脚本にも監督の阪本順治と共に、原作者の福井晴敏が名を連ねていたので、概ねこういう話なのだろう。 世界を股にかけて陰謀と真実を追究する大規模なサスペンスが描きたかったのだろうけれど、娯楽としての表現力の部分で、圧倒的に力の無さを感じた。 画的な迫力の無さにおいては、製作費の限界も勿論あるのだろうけれど、それよりもそもそもの技量が足りていないように思えた。 登場するキャラクターの人物描写も根本的に希薄なため、物語に深みが出てこない。 佐藤浩市演じる主人公の詐欺師は、行動論理がいちいち曖昧で軽薄で、最終的に「こいつ何か主人公らしいことしたか?」と思ってしまう。 謎のフィクサーとして登場する香取慎吾は、ビジュアル的にそれなりの雰囲気を出してはいたけれど、行動の真意が早々に露になるので、重要人物になり得てない。 観月ありさの“回し蹴り”は意外と良かったが、やはり彼女にこの手の役を演じさせるのは無理がある。 森山未來は、キーパーソンとなる“外国人”を持ち前のパフォーマンス能力でしっかりと演じており、頑張っていたと思う。 しかし、映画の「青臭さ」は最終的に彼が演じるキャラクターに集約していってしまうので、結果的には頑張りが空回りしている印象を受けてしまった。 映画としてやりたいこと、伝えたいことは分かる。どういう類いのエンターテイメントに仕上げたいのかも想像はできる。 が、あまりに巧くなく、故にどうしようもなくダサい。 ヴィンセント・ギャロは何で出たのか?役柄的にも完全にミスキャストだったと思うが……。 [映画館(邦画)] 2点(2013-11-10 23:02:27)(良:1票) |
745. ふがいない僕は空を見た
見るともなく空を見ながら、川沿いを自転車で行く主人公の高校生を見て、自分自身の高校生の頃を思い出した。同じように、何となく空を見上げて、自転車で川沿いの家路を辿った。 勿論、僕は、コスプレ好きの人妻と不倫をしていたわけでもないし、文字通りの飢えを感じるほど貧困に窮したわけでもなく、ただただ普通の男子高校生だった。 それでも、悩みやそれに伴う鬱積は確実にあって、それらに対して何の解決策も持たない自分自身に、悲観しつつ、呆れつつ、日々を過ごした。 俯瞰して見れば、この映画の主人公の高校生は、結局のところ、何一つ自分で解決したわけではない。 すべては彼に関わる“大人”が、決断し、導き、見守り、彼を生かしたのだ。 当の本人は、傷心と攻撃にただただ打ちひしがれ、閉じこもり、幸福にもまわりの人間に助けられて、再び立ち上がることが出来たに過ぎない。 そして、ふと空を見上げて、なんだか成長したような気分になっているに過ぎないのだ。 ……でもね。それでいいのだと、強く思う。 この映画で描かれるようなちょっとヘビーな境遇であろうとなかろうと、16~17歳の高校生に出来得ることなどたかが知れている。 むしろ、「何も出来ない」と言ってしまっていい。 唯一出来ることがあるとすれば、それは、主人公の母親が言う通りにただ「生きる」ということだけだ。 ささやかでどうでもいいことの方が多いのだろうけれど、絶え間ない悩みと鬱積に対して、ただひたらすらにうじうじともがき苦しみ、時間の経過とまわりの人間の助力によってそれらが自然に雲散霧消するのを待つ。 そして、空でも見つつ、自分で自分を慰めて、その先を生きていく。それでいいのだ。 この映画の作り手は、「現実」に対してドライな観点を終始保ちつつ、同時に普遍的な慈愛をもって、決して劇的ではない人間模様を落ち着いて描いていると思った。 すべての人間が生きていいく上で必ず意識する「生」と「性」。 それらは常に対のものとして、人生に喜びと苦しみを平等に与える。 その美しさとおぞましさを、何の変哲も無い普通の人々の群像の中で繊細に描き出してみせたこの映画の在り方は、とても正しい。 [DVD(邦画)] 8点(2013-11-05 23:59:20)(良:1票) |
746. アウトロー(2012)
ライフルの乾いた銃声。カマロの唸るようなエンジン音。観ている者の骨にも響く殴打音。 BGMを極力廃し、数々の無骨な音が、“アウトロー”が行き着いた映画世界に響き渡る。 派手なアクションシーンがひたすらに羅列されがちな昨今のアクション映画に対して、この映画の骨格は、とてもオーソドックスで一見地味なシーンが連なる。 それに対して古臭さと退屈を感じる人もいるだろうけれど、じっくりと見れば見る程、深い味わいが染み渡ってくる現代においては少々異質なアクション映画に仕上がっている。 このところのトム・クルーズの最新作を観て、毎度感じていることだが、このハリウッドスターの日々の「鍛錬」と俳優として、映画人としての飽くなき「意欲」は尊敬に値する。 50歳を越えて、また自ら新しいヒーロー像に挑戦し、シリーズ化を目論むなんてことは、並の神経では出来ない。 長年彼の映画を観てきた映画ファンとしては、当然「老けたな」という印象は拭えないけれど、それはそれとして主人公としてしっかりと“様”になっているのだから、文句は無い。 ヒロインがやけに熟女だなと思ったけれど、冷静に考えれば50歳のトム・クルーズの相手役としては相応しいバランスだよな……と思いきや、ヒロイン役のロザムンド・パイクはなんと34歳……。 彼女も含め、過去にトム・クルーズと共演してきた女優たちは時間の流れの“不平等さ”を恨んでいることだろうと関係ないことを思ったり。 一方で、脚本家出身の監督の作品のわりには、ストーリーそのものの面白味は薄かった。 話自体は、思ったよりもミステリー仕立てだったので、もっと二転三転のストーリーテリングがあっても良かったと思う。 が、“ニューヒーロー”のシリーズ第一作目だとするならば、新たなキャラクター性を際立たせることを優先したことも納得はできる。 ともかく、衰え知らずのハリウッドスターが新たに生み出した“ジャック・リーチャー”というヒーロー像は、充分に魅力的で、今後のシリーズ化も彼の目論見通りに期待したくなる。 [ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-11-03 01:26:33)(良:1票) |
747. 悪の教典
《ネタバレ》 生まれながらのサイコパスである英語教師が、ふとしたきっかけで本性を解放させ、担任するクラスの高校生たちを片っ端からショットガンで撃ち殺していくという、不謹慎極まりない映画である。 某トップアイドルのようにこの映画を観て激怒する人も多いのだろうけれど、それと同等以上に、この映画の「娯楽性」を堪能してしまう人も多いだろうと思う。 はじめのうちは、聖人君子の仮面を被った殺人鬼の教師が、生徒たちを何のためらいもなく、あたかも出席を取るように殺していく様に当然激しいおぞましさと嫌悪感を覚える。 しかし、彼の“鼻歌”に乗せられるように、次第にそのおぞましさがクセになり、一方的な殺戮をどこか楽しんでしまっている自分に気付く。 瞬間、自己嫌悪に陥り、「不謹慎」という言葉を持ち出してその感情を抑えようとするけれど、そんな言葉など意味がないという結論に行き着く。 非常にショッキングな映画であることは間違いないけれど、この映画のスタンスは見紛うことなくエンターテイメントであり、何の問題提起があるわけでもなく、ただただ主人公“ハスミン”の「狂気」を楽しむしかない映画なのだと思う。 主人公の人間性を疑うなんてことは完全にナンセンスなことで、ジェイソンやフレディ・クルーガーら名だたるホラー映画スターと同様に、“ハスミン”という新しい“モンスター”のキャラクターと恐怖を楽しむほかない。 というわけで、これまでの日本映画にはありそうでなかった、高い娯楽性を備えたバイオレンスホラー映画に仕上がっている。 この手の映画を作り出すにあたっては、国内には三池崇史以上の人材がいないことは明らかで、題材に相応しいバイオレンス描写を的確に導き出していると思う。 そして、何と言ってもこの映画の質を一段も二段も上積みしている要因は、伊藤英明の存在に他ならない。 キャラクター性の強い殺人鬼を嬉々として演じ上げた様は見事だったと言うしかない。 表裏のない真っすぐなキャラクターを演じることが多いこの俳優に、完全なる「裏」を演じさせてみて、凄まじい存在感を引き出したことは、監督にとっても俳優にとっても幸福なことだったと思う。 ラストは壮絶な死に様が見られるのかと思いきや……そうですかそうですか。 それじゃあ、更に暴走に拍車がかかった“ハスミン”の「二時限目」を期待しております。 [ブルーレイ(邦画)] 8点(2013-11-03 01:17:54)(良:1票) |
748. グランド・イリュージョン
《ネタバレ》 ジェシー・アイゼンバーグが、冒頭から「ソーシャル・ネットワーク」よろしく早台詞をまくしたてる。 その時点で自分自身を含め健全な観客は、この映画の“ミスリード”に引っ掛かっていたのかもしれない。 “マジック”を描いた映画になかなか良作はない。 マジックというエンターテイメントは、鑑賞者の目の前で見せるからこそ驚きがあるわけで、映画というそもそもが“つくりもの”の世界の中でいくらびっくり仰天の奇術を見せたとて、驚ける筈がないからだ。 今作においても、主眼を“マジック”に置いている以上、その障壁は免れない。 実際、繰り広げられる数々のイリュージョンに対しても、「まあこれが実際に目の前で行われた凄いだろうね」と一歩引いた立ち位置で観ざるを得なかったことは確かだ。 ただ単に、映画世界の中で壮大なイリュージョンを繰り広げて「スゴイでしょ?」という作品であったならば、極めて駄作と言わざるを得なかったろうけれど、この映画の場合は、全編に渡るテンポの良さと、キャスティングの巧さで、そういったマイナス要素をカバーし、映画としての質を高められていると思う。 この映画の中では当然ながら数々のマジックシーンが描かれるが、マジックショーそのものの魅力は、冒頭の4人の路上マジシャンたちの登場シーンに集約されている。 彼らの鮮やかなマジックの手腕をいきなり見せつけられて、観客は「ああ、これからこいつらがとんでもないイリュージョンを見せるのだな」と強く認識させられる。 先に記した主演俳優の早い台詞回しも含めて、この“見せ方”が映画全体に効いている。 もちろん端からマジックの「タネ」もとい、映画の「オチ」を先取りしようと“ステージ”に対して斜めから映画を観たならば、わりとすぐにネタバレしてしまうかもしれない。 ただそういう観方は、マジックを観るにしても、映画を観るにしても、「無粋」というものだ。 勘ぐること自体は結構だと思うけど、娯楽として真っ当に楽しみたいのであれば、きちんと真っ正面から観て、気持ちよく騙されることも大切だと思う。 [映画館(字幕)] 7点(2013-11-02 00:09:34)(良:2票) |
749. 大奥~永遠~[右衛門佐・綱吉篇]
よしながふみの原作漫画は全巻愛読している。 大ファンの立場としてまず断言しておきたいことは、この映画化作品は、充分な「満足」を伴う映像化として成功しているということだ。 数多の漫画の映像化作品が目を覆いたくなるような失敗を見せていることに対して、この成功事例は極めて稀なことだと思う。 原作は、決して映像化しやすいタイプの画風ではなく、ビジュアル的な乖離はそりゃあある。しかし、映像化において製作サイドは、原作の世界観、特にテーマ的な部分の再構築においてとても真摯に臨んでいると思う。それが、この漫画の映像化を破綻させなかった最大の要因だと思える。 今作の題材となっている「右衛門佐・綱吉編」は、原作の中でも最も深い愛を描いた物語だ。そして同時に、人間の野望や欲望が登場する総てのキャラクターにおいて渦巻くストーリーでもあり、故に非常に映画として描き出すには難しい題材だったとも言える。 何せ主人公である“男”と“女”が、最初の出会いから数十年後の今際の際に至るまで”逢瀬”を見せないのだから、深く込入った人間の心理をどう紡ぎ出すか、非常に困難を極めた筈だ。 前述の通り、その難しい原作の世界観を極力崩さず真摯に映像化して見せていると思う。 後の主演夫婦をはじめとして、配役された俳優たちはみな見事にそれぞれのキャラクターを体現している。終始決して白けることなく鑑賞し終えることが出来たことは、漫画の映画化として充分な及第点を得ていることを証明している。 一定の満足を得ているからこそ敢えて苦言を呈するとすれば、菅野美穂という女優を起用したことによる「見せ場」をもっとしっかりと用意すべきだった。はっきり言えば、もっと激しい「濡れ場」を映し出すべきだったと思う。 この映画で彼女が演じた徳川綱吉は、色情に溺れることでより一層に哀しさが際立つキャラクターである。 せっかく菅野美穂という“濡れられる”女優を配しているわけだから、もっと思い切った哀しい色情魔ぶりを演じさせてほしかった。 あと、原作とは異なるラストの締め方については、原作ファンとしては違和感を覚えはしたけれど、一つの映画としては納得も出来る。 柳沢吉保を演じる尾野真千子と、御台所を演じた宮藤官九郎がとてもハマっていただけに、彼らが抱え続けた悲しみとそれに伴う衝撃的な顛末を映像で観たかったというのが正直なところだけれど。 [ブルーレイ(邦画)] 6点(2013-11-01 16:18:19) |
750. ダイ・ハード/ラスト・デイ
劇場公開時、足を運ぶか否か迷った。“当たり屋”覚悟で劇場鑑賞しても良かったかもしれないが、やっぱり行かない方が良かったろうと思う。劇場でこの映画を観たなら、より一層の「憤慨」は避けられなかっただろう。 “ロートル”役が板について久しいブルース・ウィリスの“ただの”最新作なのであれば、苦言は大いにあろうが、憤慨するまでには至らないだろう。 馬鹿みたいに派手なアクションシーン自体はそれなりに見応えはあるし、昔腕を鳴らした老主人公が、スパイの息子をフォローしてアクションを繰り広げる展開は、目新しさこそないが基本的な娯楽性は備わっていたと思う。 ただしだ。それはこれが「ダイ・ハード」でなければという話だ。 第一作目の公開から25年の長き月日が経っていようが、端からおっさんだった主人公が完全な老人になっていようが、禿げ上げていようが、この映画に「ダイ・ハード」という冠を付け、客を集めている以上、ただの酷評では留まらない憤慨は避けられないというもの。 まあ何が悪いと聞かれても、「全部悪い」としか言いようがないのだけれど、敢えて一つ絞るならば、アクション映画の大傑作である一作目「ダイ・ハード」に対しての敬愛がまるで無いということだろうか。 一作目程の完成度など求められるわけもなく、それを越えることなど端から望んではない。 ただせめて、シリーズの主人公であるジョン・マクレーンという男の基本的なキャラクター性とか、過去作を踏まえたストーリーテリングとか、この映画がシリーズ作の一つであるということの最低限の「認識」くらいは持たせてほしかったと思う。 ま、この映画の場合、そういうシリーズへの愛着に伴う非難以前に、チェルノブイリでの安直なクライマックスシーンと、見識を疑う“中和ガス”が登場した時点で、完全アウトだけれど……。 [ブルーレイ(字幕)] 1点(2013-10-30 23:31:15)(良:3票) |
751. キャリー(1976)
無類の“ホラー映画嫌い”なので、映画史上に残る超有名作品でありながら、ずうっと敬遠してきた作品の一つだった。 ただ、三十路を越えていい大人の映画ファンが、「怖い」からといって問答無用に毛嫌いするのもいかがなものかと思い始めていた。 そんな折、劇場で間もなく公開されるリメイク版の予告を観て、ちょっと気になったので、今作のジャケットを“初めて”手に取った。 「あー主演はシシー・スペイセクなんだ」とか「え、デ・パルマ監督作なの!?」と、おおよそ映画ファンらしくない無知ぶりを露呈しつつ、初鑑賞に至った。 率直な感想としてまず感じたことは、「これはホラー映画なのか?」という疑問。 恐ろしい部分は確かに恐ろしいけれど、それよりも哀しい少女の哀しい青春映画ということに対してのインパクトの方がずっと大きかった。 ただ普通でいたかった少女が、あらゆる不遇の中でもがき苦しみ、ほんの一瞬垣間見た光の眩い美しさと、即座に閉ざされる果てしない悲劇。 「恐怖」によるインパクトはあくまで装飾的なものであり、主人公の少女のめくるめく悲哀に胸が締め付けられたことは、本当に想定外のことだった。 その映画世界にはやはり巨匠ブライアン・デ・パルマ監督の多彩なカメラワークによる映画術が光る。 おぞましい場面はどこまでもおぞましく、一転して美しい場面はどこまでも美しい。 その映像的なギャップは、少女の心象風景そのものをまさに映し出していて、「流石」の一言に尽きる。 そして何と言っても主人公“キャリー”を演じたシシー・スペイセクが素晴らしい。 不遇の鬱積にまみれた序盤の姿では、大衆から拒絶されるにある意味相応しい“歪さ”をこの上なく体現し、一転、光を追い求め彼女の人生における最高の「舞台」に駆け上がる姿は、目を疑う美しさに溢れている。 そしてクライマックスにおける“悲劇的大解放”に伴う怒りと憎しみと豚の血にまみれたあの姿! 映画としては、展開的に唐突で説明不足な部分は多々あるのだけれど、この主演女優の奇跡的な表現力が、そのすべてを打ち消しているとさえ思えた。 どの映画も突き詰めればそうなのだろうけれど、この映画は特にどういう「解釈」をするかどうかで賛否は大いに分かれる作品だと思う。 また数多の知識を踏まえて繰り返し観る程に、その解釈に深みが生まれ、味わい深くなる作品だとも思う。 [DVD(字幕)] 8点(2013-10-27 01:17:15) |
752. 凶悪
恐ろしい映画だったと思う。 自分はこの映画に登場する“彼ら”ではなく、“彼ら”に関わった人間でもないという無意識の立ち位置による屈折した「愉悦」を知らぬ間に敷き詰め、この映画に「娯楽」を感じている自分の意識に気付いたとき、この映画の「凶悪」というタイトルの真意を垣間見た気がし、ゾッとした。 描かれる事件と犯罪が「真実」であることを念頭において観ているわけだから、映し出される凄惨な描写に対して「痛み」や「悲しみ」を感じなければならないという“建前”を意識しているにも関わらず、ピエール瀧(=須藤)の爆発的な残虐性に何故か高揚し、リリー・フランキー(=先生)のおぞましいまでの狂気に引き込まれてしまう。 実在の被害者に対して後ろめたい気持ちを多分に感じつつも、描きつけられる「凶悪」が次に何を見せるのか、どこか期待をしてしまい、その都度「不謹慎」という言葉をぬぐい去ることに苦労した。 「あなた こんな狂った事件追っかけて 楽しかったんでしょう?」 終盤、主人公の妻のこの台詞により自分の中で見え隠れしていた感情が突如丸裸にされる。 見て見ぬ振りをしていた自分自身の深層心理がふいに明るみに放り出されたような気がして、主人公と同様に「やめろ!」と叫びたくなった。 「映画」である以上、いくらノンフィクションが原作だとはいえ、脚色されている部分は大いにあるだろう。 ピエール瀧が度々発する「ぶっこんじゃお」というあまりに印象的な台詞や、リリー・フランキーの脱帽するしかない「怪演」など、映画的な面白さが加味されている要素は多く、それはまさにこの作品が映画として優れている点でもあると思う。 俳優たちの表現はことごとく素晴らしい。一つ一つのシーンも綿密な計算と明確な意思をもって構築されており、見事だったと思う。 ただ敢えて苦言を呈するならば、もう少し「編集」の巧さがあれば、同様の深いテーマを孕んだまま、もっと“面白い”映画に仕上がっていたようにも思う。 もし同じ題材で、というかこの監督と俳優が撮った同じ映像素材を、世界的な映画巧者が編集したならば、例えばアカデミー賞をも席巻するような名実ともに質の高い映画になりそうな気さえする。 ま、そんなのは一映画ファンの身勝手な妄想であり、実際どうでもいいことだ。 こういう本当の意味で骨太な映画が、もっと沢山国内で製作されることを願いたい。 [映画館(邦画)] 8点(2013-10-26 17:12:34) |
753. L.A. ギャング ストーリー
冒頭に表示される「実際の出来事に着想を得た」という但し書きは、逆に「大部分において脚色をしている」ということだと思う。 これは「映画」なのだから、勿論それで問題ないし、想像したよりもずっと「娯楽」に振り切った作りになっているこの映画の方向性は圧倒的に正しいと思えた。 実在したギャングと彼を撲滅した警察官たちの戦いを描いたというイントロダクションが先行していたので、数多のギャング映画と同様にハードボイルドで骨太な映画なのだろうと期待していた。 ところが、実在の人物たちを描いているという割には、警察官側もギャング側も揃いも揃ってキャラクター描写に漫画的で、実在感がないことに序盤違和感を覚えた。 ジョシュ・ブローリン演じる主人公は、正義感が強いというよりも、殆ど危機感が欠如したイカレ野郎だし、対峙するギャングのボスを演じるショーン・ペンも、過剰な演技プランが際立ち殆どアメコミ映画の悪役と化していた。 「なんだこのリアリティの無さは……」と呆れかけるが、次第にこの映画は「そういう映画」なのだと納得し始めることができる。 曖昧だったリアリティラインを適切なポイントで確定させた最大の要因は、何を置いても主人公の愛妻のキャラクター造形だったと思う。 実在した人物というイメージが先行してしまい、まるで説得力を感じなかった破天荒な主人公のキャラクター性を更に超越した破天荒さで包み込んでしまった彼の妻のキャラクターがあったからこそ、この映画の娯楽性は良い意味で振り切れたと思う。 危険を顧みない任務に就く夫に対して激昂した翌朝、途端に彼のブレーンとして立ち回る様や、夫の留守中にギャングによる銃撃を唯一人で受けた最中に、考えられない生命力の強さを発揮する姿には、主人公以上のヒーロー性を感じてしまった。 「アンタッチャブル」、「スカーフェイス」など名だたる傑作ギャング映画の名シーンを彷彿とさせる場面は多々あり、オリジナリティーが高いとはとても言えないけれど、“パクリ”ではなく“オマージュ”と好意的に捉えることが出来れば、映画ファンが観たいシーンが連続しているとも言える。 主人公チームはもちろん、悪役や脇役に至るまで、下手な深みなんて削ぎ落とした漫画的なキャラクターたちに次第に愛着を持ってしまう。 思っていたのとは違うタイプの映画だったが、だからこそ面白い映画だったと思える。 [ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-10-26 17:10:17) |
754. ゼロ・ダーク・サーティ
すべてを終えて、帰国の途につくヒロインが、飛行機の操縦士に「どこに行く?」と聞かれる。 他愛もない問いかけの筈だが、彼女は茫然としたまま何も答えられず、一筋の涙を流し、映画は終焉する。 私は何をしたかったのだろう?私は何故こんなところまで来てしまったのだろう? 彼女が抱えたその「虚無感」こそが、この映画が辿り着いた真理だろうと思う。 アメリカによる「ビン・ラディン殺害」を実録的に描き出した今作において最も重要なことは、この映画が、実際に報じられた「ビン・ラディン殺害」から一年余りの極めて短かい期間の中で製作され公開に至っているという事実だ。 それは、この映画で映し出されるものが、リアルタイムの「世界」の姿であることに他ならない。 勿論、この映画の内容が、そのまま総て真実だと認識すべきではないだろうとは思う。 が、あの「9.11」から現在に至るまでの10年余りの時間の中で、アメリカが辿った「混迷」と、それに伴う世界の「混沌」の様は、ありのままに表現されていたと思う。 主演したジェシカ・チャスティンの演技は素晴らしかった。 恐らく意図的であることは間違いないと思うが、彼女が演じたキャラクターは、主人公であるにも関わらずバックグラウンドが殆ど描かれない。 どうして彼女がこの任務にアサインされたのか、どうして彼女はこれほどまで任務に固執したのか。当然生じる疑問に対して敢えて真意を描かず、時に淡々と時に妄信的に職務を遂行する主人公の姿のみが描かれる。 そういった明確なキャラクター性が見え辛い主人公を、この主演女優は絶大な説得力を持って演じていた。 ラストシーン、茫然自失としたヒロインの姿には、世界中を渦巻く「憎しみの螺旋」の中心に、自分が知らないうちに引きずりこまれていたことに初めて気づいた「絶望」が滲み出ていたように見えた。 そして、その「絶望」は決して彼女だけに与えられたものではないと思う。 この世界においてその愚かな“螺旋”が続く以上、世界中のすべての人々が、渦の中心にじわりじわりと引き込まれているということを、この映画は静かに重く訴えかけてくる。 主人公のバックグラウンドが描かれなかった理由は、彼女が「特別」な存在なのではなく、この世界に生きる人々を象徴する存在として描き出すためだったのだと思えた。 [ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-10-25 00:21:42) |
755. G.I.ジョー バック2リベンジ
もしこれが単体のB級アクション映画であるのならば、決して一方的な否定はしない。 ドウェイン・ジョンソンがお決まりの極太男を演じ、ひたすらに肉弾戦と銃撃戦を繰り広げるという、良い意味で工夫の無いアクション映画としてテキトーに楽しめば良いだけの話だ。 正しい意味で「役不足」と言えるブルース・ウィリスのゲスト出演を見られて「ラッキー」てなもんだ。 が、しかし、この映画が「G.I.ジョー(2009)」の続編である以上、「それじゃあ済まないよ」というのが、映画ファンとして、特に馬鹿アクション映画ファンとしては避けられぬ否定的感情だ。 前作は国際色豊かな秘密組織の“チーム感”が娯楽性を高めていたのに、その前作キャラクターが殆ど総入れ替えになっていることなど、“酷い点”はイロイロある。(無闇矢鱈なイ・ビョンホン推し…、ロンドン市民むご過ぎ…などなど) が、最も問題なのは、“G.I.ジョー”という「玩具」が原作であることによる無限のイマジネーションが、この続編には全く無くなっているということだ。 前作の最大の見どころは、漫画でもアニメでもなく、「玩具」の映画化であることに相応しいギミックの格好良さだった。 世界中の子どもたちが片手に持った兵隊の人形を縦横無尽に動き回す様をそのまま映像化したような豪快さが、この映画シリーズの最大の“売り”となるべきなのに、それが完全に欠如し、ただただ鈍重なアクションシーンが羅列されてはどうしようもない。 そういったあるべき“娯楽感覚”の欠如に、監督の交代が大いに影響していることは間違いない。 前作を監督したスティーヴン・ソマーズは、「ハムナプトラ」シリーズや「ザ・グリード」などの過去作からも明らかなように、分かりやすい娯楽性を導き出すことに優れている。 エンターテイメント大作の監督における「作家性」を軽視しがちだけれど、大バジェットのブロックバスター映画にこそ、適切な娯楽性を導き出すことが出来る「作家性」が不可欠だと思う。 今作では半ば意味不明にボスキャラが途中退席していったけれど、更なる続編を作るつもりなのならば、スティーヴン・ソマーズの監督復帰は絶対不可欠だろう。 「実はアイツは生きてました~!」なんて強引さは全然オッケーなので、今作の“色々”は無かったことにして、前作チームの復帰を監督共々願わずにはいられない。 [ブルーレイ(字幕)] 3点(2013-10-22 22:38:15)(良:2票) |
756. トランス(2013)
冒頭、ヴァンサン・カッセル率いる強盗団がオークション会場を急襲する。主人公のジェームズ・マカヴォイも含めて、その面々の面構えが絶妙で惹き付けられた。 俳優の表情というものは、勿論映画づくりにおいて最重要なポイントで、それがきちんと押さえられている映画は、ある程度信頼していいと思う。 そういう映画なので、終始面白く見れたことは間違いない。入り組んだストーリーテリングに絡む人間描写に引き込まれ、観客として最後まで謎を追い求められたのだから、この手の映画として“悪くはない”と断言出来る。 しかし、映画が終わり立ち返ってみれば、大いに腑に落ちない要素が目白押しの映画であることも間違いない。 こういう人間の「記憶」をサスペンスの中核に据えた映画は、観る者を幾重にも重なる謎へ一気に引き込むけれど、許容範囲をしっかりと設けておかないと、際限がなくなり一気にリアリティに欠けるものになってしまう。 ダニー・ボイルらしい繊細且つ大胆な映画世界の中で濃厚なサスペンスが繰り広げられていたけれど、残念ながら少々行き過ぎてしまっている。 決して納得が出来ない話ではないのだけれど、こういう顛末なのであれば、主人公をはじめとする中盤までの人物描写が、導き出される「真相」に対してあまりにアンフェアだったと思う。 結果、クライマックスにかけてこれほど主人公の人格が“急降下”していく映画も珍しく、最終的に誰にも感情移入が出来ないまま、映画自体が突っ走ってしまった印象を覚えた。 なんだかんだ言って、結局、ヒロインが最も悪魔的な行為をしているんじゃないかと思えるし、そうなるとあのエピローグは極めて無責任で、嫌悪感を覚えてしまった。 まあしかし、脳味噌を吹き飛ばされたヴァンサン・カッセルが喋り出したり、昨今の娯楽映画には珍しくヒロインの強烈なフルヌードが唐突に映し出されるなど、想像以上に個性的な映画であることは確かだ。 故に、ルックの秀麗さに反して完成度が高いとは言えないが、無下に否定も出来ない。 タイトルに相応しく、良い意味でも悪い意味でもとても「倒錯的」な映画と言えると思う。 [映画館(字幕)] 6点(2013-10-20 23:07:32)(良:1票) |
757. アデル/ファラオと復活の秘薬
「一体いつの時代の映画なんだ!?」と、2010年製作の映画に対して何度も突っ込まざるを得なかった。いちいちノリが古臭いというか、諸々の描写が気恥ずかしいというか、失笑と苦笑がひっきりなしに訪れる作品だ。 どうやら“おフランス”の古いコミックが原作のようなので、全編通して漫画的な展開が繰り広げられること自体は致し方ないとしても、コメディらしい表現が尽くピンと来ず、「愉快」に感じることが出来なかったことが最大の致命傷だと思う。 “面白げ”なキャラクターは続々と登場するが、その全員が完全にスベッている映画も珍しい。 まあ「お国柄の違い」ということなのかもしれないけれど、もし現代においてこれが大ウケするようであれば、僕はフランス人の感性を疑わずにはいられない。(フランス映画のコメディって酷いのが多いので、あながち外れてはいないかも……。) ともかく、何よりも残念なのは、この映画の監督がリュック・ベッソンであるということ。 近年、携わった作品群を見れば、特別に驚くことではないのかもしれないけれど、こういう映画を真剣に監督しちゃっている姿を見ると、ファンとして「勘弁してよ…」と思わずにはいられない。 相変わらずの女好きが高じて、ヒロインに抜擢された無名女優ルイーズ・ブルゴワンのルックは独特な妖婉さを持ち魅力的だったけれど、彼女が演じる主人公のキャラクターそのものには特筆すべき魅力は皆無と言える。 一応、女インディー・ジョーンズ的な主人公を描いた娯楽映画である以上、彼女に魅力が無けりゃ面白い映画になりようがないと思う。 なんか意味不明な続編への布石もあったけど、ぜひとも頓挫して頂きたい。 [インターネット(字幕)] 2点(2013-10-17 12:30:49) |
758. エリジウム
ニール・プロカンプ監督の前作「第9地区」は、彼の出身国である南アフリカ共和国でかつて行われた人種隔離政策(アパルトヘイト)が社会にもたらした影響を如実に反映した特異なSF映画だった。 個人的に、映画としての面白味は認めつつも、その年のアカデミー作品賞にノミネートされるなど、過剰な評価の高さに違和感を覚えた。 作品の性質上、もっとカルト的な人気を得るべきタイプの映画であると思えたし、この監督自身も限定的な製作環境の中で無限の可能性を示すタイプのクリエイターに思えた。 そういう思いがあったので、前作の思いもよらない大成功を経て、ハリウッドの潤沢な製作資金を与えられた作り手が、果たして“持ち味”を維持出来るものかどうかという危惧が期待を大きく上回っていたことは確かだ。 そうして、映し出された映画世界は、はっきり言って「凡庸」の一言に尽きる。 それほど悪くもないが、特筆すべきハイライトや目新しさも殆ど無かった。 SF大作として、映画全体のクオリティーはぎりぎり及第点に達しているとは思えるけれど、主人公にマット・デイモン、敵役にジョディ・フォスターを引っ張り出しておいて、「この程度」ではやはり低評価は免れないと思う。 莫大な資金を使って、近未来のロサンゼルスを自分のホームグラウンドである“ヨハネスブルグ化”して描き出した映像世界は見事なクオリティーだったとは思う。 しかし、理想郷である“エリジウム”との対比により、世界各地で見られる富裕層と貧困層との各社社会を反映する意図は充分に理解出来るが、描き出された世界観は明らかに前作やその多くのディストピア映画の二番煎じと言わざるを得ず、新しい映画としての高揚感がまるで無かった。 製作環境が一変しようとも、己の趣向を貫き通すだけの“エゴイズム”が、この新鋭監督に備わっていなかったことがもっとも残念に思えることだろう。 次回作は「第9地区」の続編かな?成功によるしがらみをかなぐり捨てて、原点に回帰出来るかどうか。この映画監督にとって、結構大きな分岐点になるような気がする。 監督の“お友達”のシャールト・コプリーは、良い味を出している。「第9地区」、「特攻野郎Aチーム THE MOVIE」に続いて、演じるキャラクターの“イカレ具合”が安定している。勿論褒めている。 [映画館(字幕)] 5点(2013-10-14 23:27:52)(良:1票) |
759. クロニクル
《ネタバレ》 「童貞をこじらせる」なんて表現がしばしば使われるけれど、この映画ほど“童貞をこじらせた”主人公を描いた作品は他に無い。 この映画の主人公は確かに不幸な境遇にあるけれど、彼の暴走と発狂の発端は、決して特殊なことではなく、世界中の「男子」の誰にでも起き得ることであり、普遍的であるが故に、同時に彼に対する同情の余地はあまりない。 しかし、だからこそこの映画が“描くこと”は極めてリアルで、身につまされ、ちょっと笑えない。 登場するキャラクター自身が撮影している体で映し出される「POV方式」で、ふいに超能力を得た3人の男子高校生の顛末を描いた今作。 「アイデア一発」の映画に捉えられがちだろうが、決してそんなことはない。 多くのPOV映画が、「リアル」というものをビジュアル的に安直に追い求めて失敗しているのに対して、この映画は必ずしもビジュアル的な要素に「リアル」の焦点を当てていない。 この映画がPOV方式をとった意味は、主人公をはじめとする現代の若者たちの「自己表現」の手段、詰まるところの「自画撮り」をストーリーテリングの「主眼」に据えるために他ならない。 他ならぬ僕自身もまさにそうだが、SNS、スマートフォン……取り巻く環境に伴い、「自分を撮る」ということは、もはや屈折でもなんでもなく、世界中の若者にとって普遍的な自己表現の一つとなってきている。 「他者」との関わりを拒絶し、その距離感が広がれば広がるほど、自身の主眼はより内向きになり、必然的にカメラのレンズも自らを映し出すようになる。 それこそが、この映画がこの撮影方式によって求めた「リアル」だったのだと思う。 映画は、非常にミニマムで内省的な青春映画のように始まり、コメディからアクション、悲愴感が溢れる破壊衝動を経て、ヒーロー映画の秀逸な「前日譚」のような帰着を見せる。 綻びもあるにはあるが、そんなものどうでも良くなる程に、なんという発想の豊かさだろうと思える。 そんな映画世界を殆ど無名の若いスタッフとキャストで作り上げていることに、眩い輝きを感じる。 キャストで印象的だったのは、やはり主人公を演じたデイン・デハーン。 独特な鬱積を秘めた目と、滲み出る危うさは、若い頃のレオナルド・ディカプリオを彷彿とさせる。 既に注目作へのキャスティングも決まっているらしいが、今後の注目株であることは間違いないだろう。 [映画館(字幕)] 9点(2013-10-14 23:05:08)(良:2票) |
760. Wの悲劇
流行の中で生まれては消える“アイドル”という“生き方”の数だけ、アイドル映画というものは存在する。 “演じる”ということにおいては素人に毛が生えた程度の人間が主演を張るわけだから、当然駄作も多い。 しかし、すべてのアイドル映画は、アイドルである彼女たち彼らたちの生き様そのものであり、その存在のみで充分過ぎる価値がある。 そして、中には今作のような紛れもない傑作も確実にあって、その価値は、アイドルファン、映画ファンはもちろん、その時代と大衆にとって計り知れないものになると思う。 或るトップ劇団で「女優」として生きる女たちの間で巻き起こるスキャンダルを、現実と舞台劇の境界を巧みに交えて描く今作。 名だたるキャスト陣がそれぞれにおいて印象的な存在感を見せる。 が、この作品が紛れもない“アイドル映画”である以上、その映画世界を支配するのは唯一人。 「薬師丸ひろ子」という存在に他ならない。 今作で演じた主人公と同様に、この年に二十歳になった稀代のアイドルにとって、この映画は、最後のアイドル映画と言え、アイドルそのものからの「卒業」を意味していると思う。 そのことを如実に表すかのように、この映画は、アイドル薬師丸ひろ子の「処女喪失」から始まる。 そこから初体験の夜を経て、朝もやの帰路につく冒頭のシーンがとても印象的だ。 何気ないオープニングシーンとして描かれてはいるが、そこには幾ばくかの満足感を大いに超える喪失感に溢れていて、薬師丸ひろ子が「アイドル」というレッテルを捨て去り、「女優」として生きていく「覚悟」が満ちている。 それは、主人公自身が女優を目指す道程の「覚悟」と完全にリンクし、明らかなフィクションの世界が、“薬師丸ひろ子”という存在を通じてリアルに結びついてくる。 更には、映画世界内で描かれる現実と舞台劇もがオーバーラップし、二層、三層の世界が陽炎のように重なり合って行く。 僕自身は、薬師丸ひろ子という稀代のアイドルにリアルタイムで熱狂した世代ではなけれど、時代を席巻したアイドルのフィナーレを飾るに相応しい、巧みで情熱に溢れた映画であることは間違いない。 もちろん、「角川」のアイドル映画らしく、時代と剛胆さに伴う“ほころび”は多い。 しかし、その“ほころび”こそが、アイドル映画に絶対不可欠な要素であり、完璧ではないからこそ、完璧な映画だと言えると思う。 [インターネット(字幕)] 8点(2013-10-11 17:43:36) |