761. インドシナ
《ネタバレ》 長い連続ドラマの総集編って感じ。気分がつながらないところ、早回しされてしまったような感じがしばしばあった。ヒロインの気持ちの変化なんかゆっくり見せていくような気配を漂わせといて、あっさりナレーションで跳んだりする。ナレーションはうまく流れを作ってくれれば無駄を省くからやってはダメとは思ってないが、この映画の場合リズムを崩してるんだなあ。見せ場がつながっていってくれない。長編小説の醍醐味のひとつは、忘れていた登場人物が再登場するとこで、ドミニク・ブランは後半の思わぬとこで出てきて大活躍するだろう、と期待してたらただの情婦になっただけでガックリ。インドシナと言っても、「インド」はカンボジアまででベトナムは完全に「シナ」ですな。風景、村芝居のシーンなんか驚くほど日本情緒に近い。というわけで歴史を背景にした大メロドラマですが、興味深い人物に欠けてた。この全体ドローンとしたとこが植民地的なのかも知れない。欧米で植民地ものドラマとなると、近代に疲れた人の逃げ場所として描かれることが多かったが、そうでもなかった。退屈はしませんでしたが。 [映画館(字幕)] 6点(2012-02-13 10:24:56) |
762. いとこのビニー
《ネタバレ》 前半はあんまり乗れなかったけど、裁判が進んでくるとやはり法廷ものの伝統のあるお国柄、けっこう楽しめた。一番のギャグは官選弁護士のアレでしょうな。ネタとしては別にどうってことはないものだけど。いかにも頼りがいのありそうな冷徹なポーズだったのが、いざ本番になるとアガってしどろもどろになるの。で弁護士席に戻って「しぶとい奴だ」とか言うの。南部ってのはコケにされるのね。早朝起こされる繰り返しのあと、留置場のがやがやの中でぐっすり眠っているジョー・ペシ。彼の衣装がだんだん真っ当になるにつれ、弁護の腕も冴えてくる。裁判長ってのはすべてを分かってて見逃すもんじゃないのか。 [映画館(字幕)] 6点(2012-02-12 10:01:15) |
763. 道(1954)
ジェルソミナのテーマが有名だが、中の音楽はすべていい。フェリーニ映画はロータの音楽とコミで評価したい。中盤のカトリック祭の音楽が、私は好き。ザンパノのもとを逃げたジェルソミナが出会う三人の音楽隊、楽隊と言うほどではなく、祭へ向かう音楽愛好家仲間なのか、管楽合奏で、ミーミー、ミードラファーラド、ミーーファソファ、ミー、と短調だけど陽気に行進していく。ついつられてゆくジェルソミナ。やがて祭の場へ至るとその音楽が、ひなびた味わいを残しながらも重々しく響き渡る。ジェルソミナが綱渡りの男に出会う場だ。この男は背中に天使の羽根のような飾りをつけており、ザンパノの獣性と対照される神がらみのキャラクターのようだが、どちらかと言うとトリックスター的で、ザンパノを裁く役割りでなく同列の扱い。フェリーニにとってはカトリックの神も単純に救いをもたらさないってことだろうか。カトリックってものが、あの音楽によって表わされてた気もするのだ。庶民的にひなびながらもやはり重苦しい面もある、ってところ(フェリーニとカトリックでは『ローマ』の教会ファッションショーの場でも音楽が雄弁だった。ミーレシーレ、ミードラード、ミーシソーシ、ミー、ってやつ。あのシークエンスは映像と音楽のコラボの傑作だった)。フェリーニは『甘い生活』の前と後で世界が変わったようにも見えるけど、たとえばこれのラスト、「一人でたくさんだ」と叫ぶザンパノの孤独は『カサノバ』のラストの孤独で反復されたようにも見え、ちゃんとつながっているんだな。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2012-02-11 10:15:52) |
764. きらきらひかる
《ネタバレ》 『今度は愛妻家』の薬師丸とトヨエツは、これでもう共演してたんだった。きずもの同士の共感ってことなのかなあ。弱い立場の店員にあたるのは、よくないですよ。不機嫌をはらす対象がつかめない時代ってことなのか、あるいは故意にズラしているのか。なんか感覚が実感として分からない作品が出てきた最初のころだったなあ。紺君が、先にお風呂使わせてもらいました、って出てきて三人でそばを食べるあたり、面白かったってんじゃないけど、なんかここらへんの感覚は分かるんだ。でもこれ80年代の感覚かもしれない。夜の道にシマウマを見るあたり、もっと劇的の演出しても良かったんじゃないかと思うけど、それだと70年代のフェリーニか。しみじみ良かったのは土屋久美子で、「人生ってのは、いいもんよ、(間)お客さん」の、この(間)がなかなか良かった。あと「大きな古時計」も懐かしかったが、それ知ってるのは平井堅でじゃなくて、60年代の「みんなのうた」でだった。 [映画館(邦画)] 5点(2012-02-10 09:59:00) |
765. 今度は愛妻家
《ネタバレ》 この手の趣向は珍しくなくなったが、けっこう好きなんだ。たぶん映画で一番イキる趣向なんじゃないか。フィルムはもともと「現実の記録」の手段として誕生した来歴があって、そこを突かれるとグッと来る。作るほうも趣向だけに頼らなくなって、シナリオを練ってくる。セリフもいろいろ良かった。「俺が想像もつかないようなこと言ってくれよ」とか。本作の味わいの一つは、軽いトヨエツ。最近は「眉間にシワ」な役に定着しかかっていたところ、違う役が来て楽しそうに演じているのが心地よい(昔は軽い役も好んでやってた。床屋の髪形写真のモデルになってたのは何だったっけ…)。とりわけ前半、ランコに妻の死を嘘泣きっぽく告げるとこなんかの喜劇タッチ。ここらへんに喜劇タッチがあるので、後半が生きてくる。演技も設定に合わせて舞台劇っぽく線のハッキリしたものにし、そのクサみも作品のトーンと合っていたと思う。沖縄旅行から帰って、現像もしてないほどカメラから離れていたことが分かってくる後半、「眉間にシワ」的にはなるものの、それは前半のハシャギのいわば解説だ。石橋蓮司は、まあこれぐらいはやるだろうという役者なので、さして驚かぬ。「差別されなかったらオカマやってるカイがないじゃない」ってセリフは、いいとこ突いてた。浜田岳が出てくると仕掛けがある気配が漂ってしまうのは、彼の責任ではないな。 [DVD(邦画)] 7点(2012-02-09 12:22:25)(良:1票) |
766. 映写技師は見ていた
《ネタバレ》 もうちょっと短く出来るかと思ったが、でも悪くなかった。単に終わった体制の悪口を安全な時代になってから言ってるってだけじゃなくて、ある種の普遍的な独裁者願望のパターンがちゃんと出てた。これの同時代で言えばホメイニ下のイランに置き換えることも可能。純真さ・ナイーブさが独裁を支える構造そのものを見ようとしている。怖いのは主人公がこの体制を恐怖しつつも肯定しているとこで、ここに権力というものの不可思議さがあるんだろう。会話が聞かれることに怯えながらも、スターリンへの敬愛は変わらない。エライさんたちに出会うあたりの緊張する雰囲気、リアリティあった。やさしいスターリン。感激の極みであります。これと妻カーチャへの愛とが並行するの。このカーチャがラストでやっぱりスターリン一途になって登場するあたりに凄味。妻を愛するのかスターリンを愛するのか。カーチャへのカーディガンが取り出される。妻を演じたロリータ・ダヴィドヴィッチ、『ブレイズ』のときも、プロレタリア色のある女優さんでハリウッドでは貴重だなと思ったが、やっぱあの資本主義国で主役級を生き抜くのは難しかったか。 [映画館(字幕)] 7点(2012-02-08 10:28:46) |
767. 阿賀に生きる
遠藤さんの感覚麻痺による火傷、おそらくこんなにも「水俣病的」映像から離れた地点で水俣病を生々しく感じられる映像はないだろう。怒りも叫びもない、淡々とした描写。暮らしや技術を破壊した近代がパッと眼前に大きく感じられる。映画のテーマの一つは技術の伝承でしょう。舟作りとカギ漁という川の生活の基本が軸になっている。生活とは技術なんだ、という小川紳介の流れが感じられる(小川が死んだ年の映画)。その技術の伝承を破壊した水銀中毒としての新潟水俣病。その伝承の断絶と対比されるように、老夫婦のいる光景ってのは安定している。同じ暮らしが未来へ延びていきそうもないことと、同じ暮らしが繰り返されていること。餅つきの加藤さんのとこ、囲炉裏端から席を譲らぬお婆さん。長谷川さんのとこで、喋りながらトロトロと寝入っていくとこ。風に敏感でないと舟が危ない、という自然と暮らしの関係。若干ナレーションが語りすぎるような気がしたが、そのぶんカギ漁のシーンは対岸からのロングで慎ましい。加藤さん夫婦が冗談で、首を絞めようか、というあたりに厳しさがにじむ。遠藤さんが舟作りを断念した絶望の深さもある。でも新しい舟を一つこしらえたことの希望の大きさ、この振幅の中に阿賀で暮らすということがスッポリ納まっているのだろう。監督佐藤真。 [映画館(邦画)] 7点(2012-02-07 10:08:41) |
768. ハウスシッター/結婚願望
《ネタバレ》 「日本ではコケる二大コメディアンの初共演」といった宣伝コピーを見た記憶があるのだが、しかしそこまで自虐的な宣伝するだろうか、夢だったのかもしれん。観たら面白かった。詐欺師もののバリエーション。失恋したての男S・マーチンの家に、勝手に妻としてG・ホーンが上がりこんでしまう。女が周囲に振りまいていく嘘がどんどん二人の関係を固めていってしまうあたりが見どころ。男はその場しのぎで嘘に付き合ったり、あるいは計略を立てて嘘を利用しようとしたりもするんだけど、けっきょくその嘘をより真実めかしていってしまう。嘘に嘘を重ねていくスリルと爽快さが一人歩きしてしまう。話の都合で生み出した架空の恋仇ブーマー氏が次第にリアルな存在感を持ってきたり、社長の戦友まで捏造していくことになる。二人で編み出す架空の来歴が、次第に細部まで生き生きしてくるあたりの勢いが見事。意味深な「暗い秘密」が誕生したり、急遽マウイに旅行したことになったりと、どんどん過去がドラマチックに華やいでくるおかしみ。一番笑ったのは男デービスが彼自身の知らない感動のエピソードの再現を要請されて、何らかの感涙的なストーリーを背景にした気分で「アイルランドの子守歌」を万感込めて歌うシーン。このおかしさはかなりのものだった。こういう話の場合女はどこかかわいくなければならない。彼女本質的な詐欺師だったわけではなく、よく解釈すれば退屈な日常をよりドラマチックに盛り立ててやろうと思いやってしまう性質の女なわけ。本来の男の恋人となんとか取り持ってやろうとするんだけど、彼女自身男に魅かれてしまっており、ここらへんからは彼女のいじらしさの見せ場。ささいなことだけど、中華料理を買ってくるシーンがある。中華料理は二人で捏造した「恋愛時代」のエピソードに登場した小道具で、二人の嘘が真実になっていくところをさりげなく見せている丁寧な場面。こういった丁寧さが、後味の良さにつながっている。だが映画はコケた。 [映画館(字幕)] 8点(2012-02-06 10:24:32) |
769. 夢を生きた男/ザ・ベーブ
日本が野口英世なら、向こうはベーブ・ルースか。おそらく伝記の定番なんだろう。もう段取り通りの展開になってて、アメリカでは型破りの人物が好まれるんだろうが、そういう人物を描くときの型ってのがあって、その型通りなんだから。田舎の女から都会の女に、田園生活から都市生活へ変わっていくところに、アメリカ史を重ねて見るのも一興。スランプのあたりは迫るものがある。「もう終わりだよ、デブ」って言われて荒れるあたり。やっぱ人間は下り坂のほうが面白い。試合のシーンが見せ場だけなので、盛り上がらない。 [映画館(字幕)] 5点(2012-02-05 11:59:04) |
770. キャタピラー
《ネタバレ》 若松監督作品に、普通の意味での映画的陶酔は期待していない。「永遠のシロート」と言うか、シロートっぽい表現のくどさがときに、洗練の対極の異様な力を感じさせることがある。その一瞬を待ち受けるように観ている。もっぱらそれは暴力がらみの場面で起こるのだが、今回は違った。いや、妻が旦那の軍神を殴るところもかなり「異様な力」なのだが、本作で一番キたのは、旦那をリアカーに積んで村を回るシーンだ。精神的な暴行。闇の中でうごめいていた夫を、軍神として陽光の中にさらけ出す。世間に対しては貞節な軍神の妻としてまっとうしながら、同時に夫を辱める(「五体不満足」の乙武さんの覚悟を逆に思った)。辱めているのは夫だけではなく、村の人々もだ。「これがあなたたちの軍神です」と巡る。軍神というフィクションを一度迎えてしまった人々は(夫も含め)、その辱めを辱めと感じなくとも受け入れていかなければならない。敬礼して佇立する。農家の嫁はけっきょく、おしっこの処理と性欲の処理と、もっぱら下半身の処理のための存在だったことを如実に示したあとでの復讐。もちろんそこには強姦された中国女性たちの亡霊もかぶさってきているだろう。いくさは日本と中国の間で起こるより前に、男と女の間で起こっていたのだ。それを踏まえた上で「歴史の被害者」としての夫が、もっとクッキリ出ても良かったのではないか。 [DVD(邦画)] 5点(2012-02-04 10:18:39)(良:1票) |
771. 恋の掟
《ネタバレ》 社交術ってのは、ゲームの教育ってことか。無垢で純粋な小娘への教育、彼女を駒として使うゲームでもあり、そのルールを更新していく残酷さもある。ゲームを終えたふりをして次の手に進むあたりのタノシミ。生きることそのものがゲームであった時代、頽廃なのか洗練の果てなのか、ゲームは戦争となり、同じゲームをしている者同士の共感が、騙し合いのゲームの果ての孤独に追い詰めていく。田舎でのディナーのそれぞれの表情を、話者と話者以外の者とのカットの積み重ねで描いていくあたりなんか好き。せっかく若い恋人たちのために妖しい雰囲気を作ってやるのに、ハープの練習をして「AじゃないBフラットだ」なんてやってるお笑い。A・ベニングは好きなんだけど、ちょっと線が細すぎたか。ゲームの相手も失う極北で、カンラカラカラと豪快に笑ってほしい気もする。 [映画館(字幕)] 7点(2012-02-03 10:05:11) |
772. ランブリング・ローズ
《ネタバレ》 前半は裏返された『テオレマ』って感じ。“ゲスト”が家族全員を愛してしまうの。それが奔放なわけで、人の目には率直というより軽率、さらには淫乱と映る。社会はどこまで個性を許せるか、という話。デュヴァルが「一人の人間であると同時に、私はこの家の父(家長)だ」というようなことを言ったのはある程度正しいのであって、人は個人の世界と世間とをうまく調整して「世慣れ」ていかなくてはならない。しかしあくまで基本は個人でなければならないという原則がアメリカにはあり、その原点の確認をするのが母のダイアン・ラッドなわけ。原則主義の潔さ。ただしそれはタテマエの薄っぺらさとウラハラであり、子宮摘出手術うんぬんのあたりは、ちょっと演説倒れだった。これ監督は女性だけどシナリオは男性で、フェミニズムへの受け狙いを感じたのはヒネクレ過ぎか。後半ローズが保護されるぶん、ややしぼむ。あの母が膨らむからいいじゃないかと思われるかもしれないが、やはりローズ本人で勝負してほしかった。どうしても世間と折り合えないギリギリのところでのつばぜり合いを見せてほしい。単なる偏見の問題のレベルではなく、個人が人間の集団といかに戦っていくかという意気込みを見たかった。南部を舞台にすると生々しさが消え寓話っぽくなるのが利点だなあ。妹がときどきかわいい。リサ・ジャクブってのかな。 [映画館(字幕)] 6点(2012-02-02 10:17:37) |
773. リーサル・ウェポン3
このちょっと前にロス暴動があったんだったか。「ビデオに撮られるな」いうことが話題になってた。黒人少年を射殺して悩んで家族の絆に回帰していく図は、この頃のアメリカ映画の基調。女刑事と今までの傷を見せっこするあたりはおかしい。でも見せ場がブツブツとつながってるだけで、シナリオとしての盛り上がりはない。ビルの爆破なんか、うまく盛り上げていった頂点で仕掛ければ「やるーっ」って気にもなるのだがなあ。悪役の在りようがよく分からなくて、闇の帝王なのかと思っていると、不動産業を続けていて(追っかけられてることが分かった後でも)、変な人。白人と黒人、若いモンと定年間際、の対比される二人の掛け合いが味わいか。 [映画館(字幕)] 5点(2012-02-01 10:13:11) |
774. 彼方へ
《ネタバレ》 ライバル同士が女を取り合うなんて陳腐、と思ってたが、ラストで納得。マチルダ・メイ/現実の女は、メイ・ウェスト/夢の女の対比物だったのね。観終わってから構図の広がりを感じ出す作品。見てる間はちょい図式が割り切れ過ぎてる感じがあった。一方はアクロバット的マスコミの寵児、一方は神秘的な精神主義者で、精神主義の訓話っぽい映画じゃやだな、とちょっと引き気味だった。絶壁をただの征服の対象としていた者と、その絶壁の向こうに何かを見て畏れを抱いてしまった者との対比。ここにさらに「指のない男」/絶壁の向こう側に行ってしまった者を置いて、世界がグッと広がった。室内の偽の岩肌のテレビ中継から始まって、本物の山の頂の映画女優で終わる。監督にとってテレビと映画は対極なのだろう。映画の中で写真を燃やすときって、必ず表を上にするな、と思ったが、普通そうするか。 [映画館(字幕)] 7点(2012-01-31 10:14:46) |
775. ラジオ・フライヤー
一応ファンタジーなんだけど、でもファンタジーとしての枠組みがちゃんと作れてなかったから、ラストはヘンテコリンな気分になる。どちらかと言うと、児童虐待をめぐる社会派的な部分のほうに見どころがあったんではないか。眼を見せない義父。サングラスしてたり、子どもに目隠しされてたり、逆光だったり、それがラスト車で追いかけていくときに眼だけのアップになる。一つの表情としての顔はついに見せない。カントリーのBGMも不気味。近所の子どもたちもいじめてくるし、けっきょく母と子の兄弟だけ、血のつながった者だけしか心を許せない、という閉塞感が暗い。ベン・ジョンソンと約束したから、母親に心配をかけてはならぬという気持ち、あれが「父」的なものの象徴だったんだな。 [映画館(字幕)] 5点(2012-01-30 10:05:00) |
776. ソーシャル・ネットワーク
D・フィンチャーの新作を観てみる、というより、「フェイスブック」ってものが分かるか、という興味のほうで観た。“アラブの春”のとき、ニュースや新聞でさかんにフェイスブックについての解説はあったが、も一つよく分からなかった。プライバシーにうるさい社会で、自分をサラケ出すような仕組みがヒットするのか、という点が疑問だった。映画はそれの成立の話で、中身はやっぱよく分からない。ネットのバーチャルな世界という安心感からサラケ出せるのか、あるいはそれほどまでに現代人はつながりたがっているのか、そこらへんのほうが面白そうだったが、なんせ旧世代の人間なので、とんでもない勘違いをしているのかもしれない(でも考えてみればこのサイトだって、映画をダシにして自分をサラケ出したがってる面があるようでもあり…)。この映画をちゃんと味わうには、私は基本知識が欠如してたよう。21世紀の『市民ケーン』と観たが、それでいいんでしょうか。ラストの味わい(エリカ)まで含めて。今までの映画だったら単純に対比されるものが、微妙にズレて向き合わないところが面白かった。主人公のネットかじりつきオタクとボート部の上流階級。きれいに対比されそうなものが、現代では単純な対立物になれず、適度に噛み合ってはズレていく。そして主人公はどんどん裏のほうへ・虚のほうへ掘り進んでいく感じ。何も創造しない虚業と言えば虚業だけど、でもそれが“アラブの春”という現実の変革の立役者になったところに、世界の在りようの「単純でなさ」をしみじみ感じた。私にはもう実感として理解できない世界だが、たぶん21世紀初頭の記録として残る作品となるんだろう。ビートルズの“ベイビーユアラリッチマン”が流れたところで旧世代の人間は、これなら俺の守備範囲内だ、と嬉しかった。 [DVD(字幕)] 6点(2012-01-29 10:28:20) |
777. 水俣 患者さんとその世界
胎児性の患者さんがこちらを振り向くところからラストまでは、とりわけ凄い。私たちはいままで水俣病を知っているつもりになっていたけど、それはたとえば支援団体の膜越しだったりした。その膜を破って、じかに水俣病に触れ得たという実感がある。このドキュメンタリーだって「支援団体」とさして違わないはずなのに、距離感が違うのだろうか。患者にこちらの眼=カメラをいじるに任せているカット、やっと患者と触れ得たという感動がたしかにあった。漁民の生活を丹念に描いたことも大きい。味噌とバターでの餌づくり、蛸採りの美しい水中撮影。自然と一体となった生活があったのだ。それをずっと続けていけたと言うのは理想論すぎるけど、そういった生活への懐かしさや憧れは、やはり暮らしの方向を考える上で大事なのではないか。あるいは患者のためにオルガンやステレオなど家に似合わないハイカラな物が置かれている光景もジーンとさせる。親の贖罪の気持ちがそこに凝縮している。水銀を食べさせたのは親の責任ではないのに、その申し訳なさはこういう形でしか表せないのだ。スピーカーの振動を手で感じている耳の聞こえない弟。けっきょく優れたドキュメンタリーとは、当事者との距離を正確に知っているということだろう。患者とその家族との苦痛に触れられないということで、観客もチッソと同じ側についている。その認識が安易な同情や哀れみを禁じていて、知らず知らず観客はより積極的に患者の側に身を乗り出さざるを得なくなる。限りなく近づこうと想像力を使役させなければならなくなる。だからたとえば総会で支援団体の人が壇上に上がってきた行為などは浮わついて見えてきてしまうのだ。患者たちの御詠歌の迫力には、薄っぺらな行為は吹き飛んでしまう。伝染病かもしれないと思われて子どもを引き離されたエピソードや、町の発展を妨げるものとして排斥された動きなど、これまでに描かれてきた細かい棘の数々がここで裏返され、あの御詠歌になってごうごうと唸り立てているのだ。 [映画館(邦画)] 9点(2012-01-28 12:40:09)(良:1票) |
778. キスへのプレリュード
《ネタバレ》 魂が男女の間で移動するってのは、日本でも『転校生』があったが、これは性別よりも歳の問題(でも相手がお婆さんだった場合を考えると、やはり違いはあるわな)。冒頭は壁を伝わって伸びていく蔦を追ってボールドウィン君へ、その眼鏡に映る時計台、と御伽噺的な雰囲気を与え、また時がテーマであることも確認する。ストーリーが動き出すまでの、結婚式の部分までのほうが演出は生き生きしてた。パッと老人のほうに話が変わって結婚式場へあわててくるあたりはワクワク。結婚式の誓いの言葉も「時」を含んでいる。「どんなに年取って、歯が黄色くなっても愛してくれる?」ってモチーフ。で魂が入れ替わる。新婚旅行で妻に何か未知のものを感じること。この場合、「相手」を未知のものを持っている妻に見るのか、未知の姿に変えられた魂に見るのか、ここらへんの不安定感。細かいところでは「アゲイン」を口ずさむとか。日記によって、妻になりきったふりをするとこで、見抜いてしまうボールドウィン君。泣き濡れていたバーでの魂のリタとの再会。ここらへんグッとくる。ボールドウィン君は、こういうヤサ男やると悪くない。老人が若さを憧れたっていうだけじゃなく、リタも一瞬、もう選択する不安のない老いの安定を望んだってとこが面白い。ヒロインはニヒリズムに、老人はガンに冒されていたわけで。 [映画館(字幕)] 6点(2012-01-27 10:20:01) |
779. 川の底からこんにちは
《ネタバレ》 ずいぶん笑ったけど、「しょうがない」と無気力だったサワコさんが「あたし頑張る」になる話の展開に対してではなかったな。「え」とか「あ」とか、ささいな「言いよどみ」を含む場の笑いに反応してたみたい。「え」と言うときは、相手の言ってることに同意はしていない、と言うかかなり反発を感じているのに、でも反発しても「しょうがない」から、「え」と言って「同意はしてないよ」ということだけ控え目に表明し、あとはビール飲むだけで、なし崩しに受け入れていってしまう。そこらへんが、分かる分かるって感じで、笑ってしまうんだろう。そうやって生きてきたサワコさん。旦那が出てって一寸の虫の五分の魂が爆発したのか大演説をし(「あ、青春の勢いで駆け落ちした女です!」)、でもそのあとですぐ「偉そうに言ってすいません」と謝るところでまた笑う。そのヤル気のアイデアが社歌の変更ってのが、また馬鹿にしててよろしい。社歌が「中の下」たちの革命歌に変わっただけで、ヤル気が満ち、しじみパックが売れてしまう。サワコさんを挟むように、おばちゃん連中と子どものカヨコちゃんが登場する。どちらも批判者のように登場し理解者に変わっていく。カヨコちゃんが椅子に後ろ向きに座って、背もたれの隙間から脚を出してるスケッチがいい。ラスト、帰ってきた旦那に親父の骨を投げつけると、後ろに控えていた「新しいお母さん」の喪服姿のおばちゃんたちが、「ああ社長の骨…」とソワソワするとこも笑った。撒いた糞尿は大きなスイカを実らせたが、撒いた骨はお母さんたちを呼び寄せたのだ。 [DVD(邦画)] 8点(2012-01-26 10:28:17)(良:1票) |
780. プリティ・リーグ
《ネタバレ》 姉妹で急ぎ足になる帰り道のとことか、スカウトが妹の肩の筋肉に触って「いけるかも」と思う変化とか、走りながら列車にカバンをホイホイ投げ入れていくとことか、至って職人的な腕を持った監督で、もう「女性監督」という肩書きで売りにする時代じゃないな、と思わせた映画。当時のニュースで彼女らを紹介していったシーン、マーラのとこでロングになるのが傑作。クソガキを登場させるつなぎ方とかね。テーマは「戦争と女性の社会進出」のお話で、男がいない時代のつなぎとしての・二流の・副次的な・キワモノとしての女性野球。ミニスカートをはかされ、屈辱的とまではいかないまでも、オアソビ的な設定。これに対してヒロインたちはマッスグに反発するんじゃなく、「よーし、それならその中でやってやろうじゃないか」となる女性ならではのしたたかさが見どころ。適度に男の顔も立てながら(ライフの写真)、自分たちのほうへ引きずり込んでいってしまう。酔いどれ監督も次第に生き生きしてくる、というわけ。ワンシーンだけど、実力はあってもどうにもならない黒人女性への目配りも欠かさないところに膨らみがある。後半旦那の帰還あたりから、ちょっと甘くなったか。今の日本なら女子サッカーを念頭に置いて観ることが出来そうだ。 [映画館(字幕)] 7点(2012-01-25 10:09:46) |