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 > 鉄腕麗人 さん
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プロフィール
コメント数 2644
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 44歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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61.  かがみの孤城 《ネタバレ》 
今年の4月から中学生に上がる長女が、学校の図書館で借りてきた原作小説を読んでいた。その翌週、たまたま地上波放送で放映されていたので、子どもたちと共に鑑賞。  “居場所”を見失った中学生たちが集い、各々の存在の意義を見出す物語。 映画の作品上では、その物語の発端や、事の真相が、少々ご都合主義に感じてしまったことは否めないけれど、登場する少年少女たちの悲痛な現実は、そのファンタジーを許容させていた。 ネタバレになるが、想像の世界を生み出すことしか叶わなかった一人の少女の願いが、6人の未来を救ったのだと捉えると、とても切なくもあるが、心を揺さぶられるには充分だった。  原作を読んだばかりの娘が、「小説のほうが面白かった」とぽつりと言った通り、辻村深月の小説は、当然ながら更に深い深い物語世界を構築していたのだろうと想像するに難くない。機会があれば是非小説も読んでみたいと思う。  その一方で、確実に残念だったポイントとしては、アニメ映画としてアニメーションのクオリティや創造性において、あまりに魅力が乏しかったことだ。 アニメーションそのものがもっと独創的で魅力的であれば、小説に対するストーリーテリング的な不備はもっと補えていただろうと思う。 全体的にキャラクターの作図のバランスが悪かったり、動きや、構図が稚拙に見えてしまったことは、これがアニメ映画である以上、致命的な欠陥だった言わざるを得ない。 多数の制作実績を誇る原恵一監督作品だけに、ことさらに残念なことだと思う。 監督の力量不足というよりは、アニメーターのリソース不足のようにも思える。  根本的なアニメづくりがもっとアメージングなものだったならば、それに付随してこの映画作品の価値は、飛躍的に増幅していただろうと思う。 (まあかと言って、宮崎駿が映画化していたならば、まったく原型を止めない作品世界になっていただろうけれど)  ただ、558ページの長編小説をしっかり読んで、同じ年頃の主人公たちの物語に感動することができるようになった娘の成長は嬉しい。 中学生になって、これまで感じることはなかった辛さも、苦しさも、いろいろ渦巻くだろうけれど、一つ一つ踏みしめていってほしいものだ。
[地上波(邦画)] 6点(2024-02-12 17:22:30)
62.  インクレディブル・ファミリー
先日、20年ぶりに「Mr.インクレディブル」を鑑賞したので、スルーしていたこの続編もようやく鑑賞。2004年に公開された一作目は大ヒットだったはずだが、なぜ続編の製作が14年(2018年公開)もかかってしまったのだろう。 かなり間をおいた続編にもかかわらず、作中の時間軸上では前作のラストシーンとほぼ地続きでストーリーが展開するので、より一層作品世界外の時間の経過に違和感を覚えた。 そしてその違和感は、この続編が描こうとするテーマにも、少なからず影響を及ぼしていたように感じた。  本作では、“ファミリー”の中の母親であるイラスティガールの活躍がストーリーの中軸として描き出される。 男性中心の社会の中で、女性のスーパーヒーローの立ち位置を際立たせ、その葛藤を描くストーリーテリングは、“MeToo運動”も活性化していた2018年当時のアメリカ社会において、取り扱いが必然とも言えるテーマ性だったのだろうとは思う。  インクレディブルファミリーのキャラクター造形の中で、家族の根幹を支える存在であるイラスティガールが中心に活躍すること自体には、何も違和感は無い。 ただそれをポリコレを意識した女性活躍問題や性差別問題と唐突に関連付けたストーリー展開は、強引で、あまり真っ当ではないと感じてしまった。  そしてその一番のしわ寄せは、主人公であるMr.インクレディブルに押し付けられていた。 スーパーヒーローとして第一線で活躍する妻の一方で、子育てや家事に奔走するMr.インクレディブルの姿はユニークだったけれど、それと同時にあからさまに妻の活躍を妬み、不遜で時代錯誤なキャラ設定を半ば強引に被せられいたように感じた。そして、最終的にそれほど大きな活躍や挽回もさせてもらえず、不遇なポジションを強いられていたと思う。  作品世界の中でもそれ相応の年月が経過した上で、精神的にも、肉体的にも、時代的にも、“変化”を余儀なくされたキャラクターたちが、新たな価値観や葛藤を越えて活躍するのであれば納得できただろう。 が、前作直後から始まるストーリーでこのような展開を見せられても前述の通り違和感は禁じ得ないし、ポリコレを安直に意識したストーリー性も的外れであり、その不誠実さはそれこそ時代錯誤に思えた。 ヴィランにおけるキャラクター設定も、前作の二番煎じであることは否めない。  3人の子どもたちを含めスーパーヒーローファミリーのキャラクター性自体は、前作から通じて娯楽性に満ち溢れているので、彼ら自身の人生に対して真摯なストーリーテリングで、新たな続編を観たいと思う。
[インターネット(吹替)] 5点(2024-02-12 17:21:55)
63.  テレフォン 《ネタバレ》 
チャールズ・ブロンソンが、ソ連のスパイを演じるというキャスティングが的確だったかはさておき、単身アメリカに乗り込んで、自国が生み出してしまったテロリストを阻止するために暗躍するというストーリーはユニークでエキサイティングだった。 何十年も前に深層心理に植え付けられた「命令」が、催眠術によって“発動”されるという設定に対して既視感があったが、「シビルウォー/キャプテン・アメリカ」でも同様のアイデアで、ウィンター・ソルジャーを操っていたな。多分本作が元ネタなんだろう。  米ソ冷戦下において、ソ連のテロリストを米国の諜報員が核戦争勃発を防ごうと奮闘する映画は多々あるけれど、ソ連側が自国のスパイを米国に潜り込ませて、秘密裏に危機を防ごうとする展開が新鮮だった。 ソ連側のスパイらしく、任務遂行のために時に冷徹に不安因子を消し去っていく様も印象的で、その部分においてはチャールズ・ブロンソンの無骨な存在感が合っていたと思える。  リー・レミックが演じる在米KGB局員との絡みも良い。アメリカ文化に馴染むおしゃべりな彼女のことを主人公が疎ましくぶっきらぼうにあしらったり、彼女自身も主人公を暗殺する密命を受けていたりと、表裏の感情が入り交じるやり取りが興味深く、また別の緊張感を生んでいた。  ストーリーテリングとしては、下手すればもっと煩雑で分かりにくくなりそうな展開をコンパクトにまとめられていて良かった。そのあたりは、ドン・シーゲル監督による娯楽映画職人としての技量が存分に活かされていると思う。 ソ連側(KGB)独特の冷酷さや非人道的な雰囲気も、それが正しいかどうかは別にして、うまく表現できていたとも思う。  その一方で、米国側(CIA)の描写はややおざなりで物足りなさを覚えた。 CIA側はコトの情報を掴みつつも、結局何も影響力を及ぼすことなく解決してしまうので、コトの重大性のわりにとてもミニマムな範囲で収束してしまったことは否めない。 この時代としてはとても先進的に、コンピューターを“相棒”のように駆使して分析をするCIAの女性局員など、ユニークなキャラクターは存在していたので、彼女たちがもう少し直接的に主人公やメインストーリーに絡む展開が欲しかった。 あと、時代的に致し方ないとはいえ、ソ連本国の描写においても人物たちがすべて英語を話すのには、いささか興が冷めたことも否定できない。  とはいえ、70年代の娯楽映画としては、今観ても十分に見応えのあるエンターテイメントだったので、現代の社会や世界情勢の設定でリメイクしても面白いのではないかと感じた。 本作では催眠術による命令発令の手段が「電話」しかない限定性が面白味でもあったが、ありとあらゆる通信手段が存在する現代においてもまた新たな展開が考えられると思う。まあその場合タイトル変更は必至となるが。  任務終了後、米ソ両国から命を狙われる自らの状況を悟って、どちらの体制にもなびかずに、女とモーテルに向かうラストシーンも良い。ダンディズム!
[インターネット(字幕)] 7点(2024-02-04 00:46:44)
64.  悪い奴ほどよく眠る 《ネタバレ》 
いやあ、久しぶりに黒澤映画を観て、根幹的な映画づくりの巧さに冒頭から感嘆した。 オープニング、本作の登場人物が一堂に会する結婚披露宴のシーンが先ず白眉だ。 贈収賄が疑われる土地開発公団組織内の人間関係やパワーバランス、主要登場人物一人ひとりのキャラクター性が、披露宴が進行する中で実に分かりやすく映し出される。それと同時に、過去の事件のあらましや、渦中の人間たちの不安や焦燥感も如実に表されており、実にすんなりと映画世界内の“状況”を理解できる。 そこには当然ながら、世界の巨匠・黒澤明の卓越した映画術が張り巡らされていて、俳優一人ひとりへの演出、ドラマチックかつ効率よく映し出される画面構図など、素人目にも「ああ、上手い」と感じ取れる映画表現が見事だった。  1960年公開の作品であることをあまり意識せず観始めたので、キャスティングされている錚々たる名優たちが、これまでの鑑賞作のイメージと比べて随分若かったことも新鮮だった。 西村晃、志村喬、笠智衆ら、“老優”の印象が強い俳優たちが、まだそれぞれ若々しくエネルギッシュな演技を見せてくれる。  中でも印象的だったのはやはり西村晃の怪演だろう。晩年こそ水戸黄門役などで好好爺のイメージも強いが、若い頃の西村晃はクセの強い悪役が多く、本作でも次第に精神を病んでいく気の弱い中間管理職の男をあの独特な顔つきで演じきっていた。 また志村喬が悪役を演じている映画も初めて観たのでとてもフレッシュだった。  そしてもちろん、主演の三船敏郎のスター俳優としての存在感も言わずもがな。 恨みを秘め、復讐劇を果たそうとする主人公を熱演している。冷徹な復讐者の仮面を被りつつも、元来の人間性が顔を出し苦悩するさまが印象的だった。  60年以上前の古い映画でありながら、150分間興味をそぐことなく観客を引き込むサスペンスフルな娯楽性が凄い。 ストーリーの顛末に対する情報をまったく知らなかったので、ラストの展開には驚いたし、釈然としない思いも一寸生じたけれど、この映画においてあれ以上に相応しいラストも無いと思える。  森雅之演じる公団副総裁は、物語の佳境で自分の娘すらも騙して保身のための悪意と悪行を貫く。そしてその自分自身の様が映る鏡を見て、思わず目を伏せ、脂汗を拭う。 本作は勧善懲悪の分かりやすいカタルシスを与えてくれずに、痛烈なバッドエンドをもたらす。 現実社会の陰謀や巨悪がそうであるように、本当の悪人に対しては裁きも無ければ、贖罪や処罰の機会すら与えられない。 只々、罪を抱えて孤独に生き続け、そして一人眠るのだ。  まさに、“悪い奴ほどよく眠る”を雄弁に物語るラストシーンの皮肉が痛烈。 60年の歳月を経ても、その社会の仕組みに大差はない。 どの時代も、悪意は、よく眠り、よく育つ。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-02-03 00:41:15)
65.  哀れなるものたち
嗚呼、とんでもない映画だった。  ひと月ほど前に、映画館内に貼られた特大ポスターを目にした瞬間から「予感」はあった。 何か得体のしれないものが見られそうな予感。何か特別な映画体験が生まれそうな予感。 大写しにされた主演女優の、怒りとも、悲しみとも、憂いとも、感情が掴みきれないその眼差しが、そういう予感を生んでいた。  チラホラとアカデミー賞関連のノミネート情報は見聞きしつつも、本作の作品世界についてはほとんど情報を入れずに、公開日翌日の鑑賞に至った。 朝から原因不明の頭痛が続いていて、その日の鑑賞をぎりぎりまで逡巡したけれど、体調が万全でないことで、逆に映画世界に没入できるとも思い、赴いた。  正直、もっと楽観的にファンタジックな映画世界を想像していたものだから、モノクロームで映し出された序盤の展開から面食らってしまった。 ゴシックホラーを彷彿とさせる怪奇とグロテスクは、想定していた“ライン”を嘲笑うかのように超えていき、油断をすると一気に置いてけぼりを食らうところだった。  今思えば、この序盤のモノクローム展開の中で、惜しげもなくトップレスを披露する主演女優エマ・ストーンに対して、「さすがアカデミー賞女優、体を張っているな」などと上から目線の称賛を送っていた自分は、あまりも幼稚で愚かだったと思う……。  死んだ母親の体に脳を埋め込まれて「生」を得た主人公ベラは、狭く、色の無い世界を抜け出して、人生という冒険に踏み出す。そして、「性」の目覚めとともに、その世界は過剰なまでの彩色と造形で彩られていく。 世界は綺羅びやかではあるけれど、その本質は決して美しくない。それは、「良識ある社会」のルールやあり方が、まったくもって美しくないからに他ならない。  綺羅びやかに彩られた醜い世界、そしてそこに巣食う“哀れなるものたち”  それはまさしく、呪いたくなるくらいにおぞましくて、哀しいこの現実世界と人間たちの本質だろう。 けれども、何よりも自分自身の“成長”に対して純真無垢で迷いのないベラは、それらすべてを受け入れ、自分の価値観に昇華していく。 タブーとされる行為も発言も、性別や職業、生まれた環境に対するレッテルも、希望も絶望も、薄っぺらな「良識」を盾にして拒否することなく、先ず全身で受け入れ、自分自身の「言葉」を紡いでいく。  主人公ベラのキャラクター造形は、すべてにおいて奇々怪々だけれど、その生き様は極めて“フェア”であり、昨今の耳ざわりの良さだけで乱用されているものとは一線を画す真の意味での“ジェンダーレス”を象徴する存在だった。 怪奇とグロ、ありとあらゆる禁忌が入り交じる本作の混沌とした映画世界が、ベラの達観した眼差しと共に、極めてフラットで高尚な地点へ着地していることが、そのことを雄弁に物語っていると思えた。   すべてを曝け出して、人間の本質をその身一つで体現してみせたエマ・ストーンは、授賞式を前にして二度目のオスカーに相応しいと確信した。 久しぶりに“緑色の超人”以外のキャラクターで卓越した演技を見せたマーク・ラファロも流石。プレイボーイの放蕩者を、その凋落ぶりも含めて見事に演じきっていたと思う。 古き父性の象徴であり、“怪物”の生みの親として、作中もっとも破滅的な人生観を披露するマッド・ドクターを演じたウィレム・デフォーの存在感も素晴らしかった。  時に「4mm」という超超広角レンズで写し取られた映像世界は、非現実的でありながら、この世界のすべてを文字通り広い視野で余すことなく映し出しているようでもあり、類まれな没入感を得られる。 その映画世界のすべてをクリエイトしたヨルゴス・ランティモス監督の圧倒的な世界観には、終始驚愕だった。   ふと“ジャケ買い”したアルバムが、想定外に強烈なパンクで、問答無用に脳味噌をかき混ぜられ、ほじくり返された感じ。(いや、本当に文字通りの映画なのだが) 奇想天外で、際限なくおぞましい映画世界ではあったが、不思議なくらいに拒絶感はなく、愛さずにはいられない。そして、これがこの世界の「理」だと言われてしまえば、確かにそうだと納得せざる得ない。  エンドロールを見送りながら、様々な感情と感覚が入り混じり、とてもじゃないが脳と心の整理がつかなかったけれど、朝から続いていたはずの頭痛は、きれいさっぱり消え去っていた。
[映画館(字幕)] 10点(2024-01-27 23:36:23)
66.  ファイナル・カウントダウン
歴史的な“混迷”をリアルタイムに感じずにはいられない昨今、日本国内はもとより世界的規模で“時代”は進むべき方法を惑っているように思わずにはいられない。 そんな折に触手を伸ばした古いポリティカルSF映画が、殊の外面白かった。 前々から某動画配信サービスのマイリストには入れていて、キャスティングの豪華さとあらすじの壮大さに反して、作品としての知名度の低さに懸念を覚えて鑑賞するタイミングを推し量っていたのだが、想像以上にしっかりとしたスペクタクル映画だったと思う。  ハワイ沖を航行していた最新鋭(1980年当時)の原子力空母が、時空乱流に巻き込まれて1941年12月6日にタイムスリップしてしまう。奇しくも時は日本軍による真珠湾攻撃前夜、空母に搭乗していた現代のアメリカ海軍の面々は、日本軍の奇襲を阻止(=歴史介入)して祖国を守るべきか否かを迫られる。  個人単位のタイムスリップにより、歴史の改変に対して葛藤したり、奔走したりする映画は多々あるけれど、数千人の乗組員を有する巨大な原子力空母ごと時間移動してしまうという設定が大胆で嫌いじゃなかった。(似たプロットだと、半村良原作の「戦国自衛隊」や、かわぐちかいじの漫画「ジパング」が思い起こされる) 40年の時を遡って現れた原子力空母は、太平洋戦争当時であれば強大な国が新たに出現したことに等しく、180度歴史を転換してしまう力を有していることへの説得力も大きかったと思う。 様々な立場や歴史観を持つ人物が入り交じる空母艦内だからこそ、歴史を改変してしまうことの是非や、軍人・米国人としての倫理観も多角的に対立し、ストーリー性にも幅があった。 カーク・ダグラス、マーティン・シーンをはじめとして、当時のスター俳優たちの競演にも見応えがあったし、実際に大西洋上に配備中だった空母ニミッツでの撮影や、トムキャット等実機を贅沢に映し出した戦闘機の描写にも迫力があり申し分なかったと思う。  上映時間が104分とこの規模の娯楽大作としてはコンパクトだったこともスマートで好印象だったけれど、一方では、映画としての骨格がしっかりしていた分、もっと掘り下げたストーリー展開があっても良かったかなとも思える。 ストーリー展開がテンポよく進むので鑑賞中はあまり気にならなかったけれど、主要キャラクターたちの人格描写やバックグラウンドは、もう少し丁寧に描き出した方が、彼らの葛藤や対立を軸にしたストーリーに厚みが出たろうと思う。 特にマーティン・シーン演じる重工業会社の社員や、実務の傍らで歴史学を研究している航空隊長(演 ジェームズ・ファレンティノ)の両者においては、言動の理由がやや不明確だったように感じてしまう。 実質的な主人公でもある彼らのキャラクター描写と人間ドラマにもっと深みがあれば、ラストのタイムパラドックス的“オチ”も更にエモーショナルなものになっていただろう。  ともあれ、期待を大きく越えた娯楽映画であったことは間違いない。 世界的な混迷を迎えている現代においても、「ああ、あの時代に戻ってやり直せなたら」と、世界中のあらゆる人間たちが悔恨や憤りを感じていることだろう。 でも、本作で歴史学を愛する航空隊長の台詞にもあるように、「すべての物事は一度しか起きない」ということが真理であり、決してやり直しは効かないのである。 ことの大小に関わらず、どんな物事であっても常に「今」が勝負時であり、もし失敗しなたらば次の機会にその反省を活かして巻き返すしかないのだろう。  現代を舞台にしても十分成立するストーリーだと思われるので、リメイクしてほしいものだ。原子力空母という存在感の大きさを活かして、ドラマシリーズ化して多様なストーリー展開を見せても面白いかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-01-21 00:39:24)
67.  アクアマン/失われた王国
前作「アクアマン」は、アメコミヒーロー映画史上においても屈指の傑作であり、最高の娯楽映画だった。MCU隆盛の最中にあって、DCEU(DCエクステンデット・ユニバース)の“反撃”として、「ワンダーウーマン」に続く強烈な一撃だった。 が、残念ながらDCEUは結果的には方向性が定まらず、実質的には本作が同ユニバースとしては最終作となってしまうようだ。 確かに、MCUもとい“アベンジャーズ”の強固な結束力と比較すると、“ジャスティス・リーグ”の面々をはじめとするDCEUのヒーローたちは、個性的過ぎてまとまりに欠けていたことは否めない。ただ、超個性派集団であったことが、時に独創的で娯楽性が溢れ出る作品を生み出していたことも事実であり、彼らの活躍がもう観られないのは、やはり悲しい。  そして、当の本作も、DCEUという沈みゆく船の最終作からなのか、一作目と比べると様々な要素でレベルが低下してしまっていることは否定できなかった。  個人的に最も期待外れだったのは、海中シーンが前作よりも大幅に減っているように感じたこと。前作において白眉だったのは、やはり何と言ってもイマジネーション溢れる海底世界のビジュアルと、そこで繰り広げられる文字通り縦横無尽のアクションシーンだった。ジェームズ・ワン監督が描き出した豪胆かつ繊細な海中アクションは、IMAX3Dとの相性も極めて高く、極上の映画鑑賞体験をもたらせてくれた。 なのに本作では、その肝心の海中シーンが少なく、主要なアクションシーンの殆どが“陸上”で繰り広げられる。前作ではヴィランだった弟オームとのバディシーンを描くに当たっても、同じ海底人同士として海中アクションの妙をもっと追求すべきだったろうと思うし、“血”を受け継いだ赤ん坊の息子にも海中で何かしらの力を発揮させる様を見せるべきだったろう(クジラの大群を呼び寄せるのは息子でも良かったのでは?)  勿論、ストーリー的にも、完全に「マイティー・ソー」の二番煎じだとか、「ブラック・パンサー」の流用と感じる展開は随所に見受けられるし、「失われた王国」というサブタイトルや設定自体が、数多のヒーロー映画やファンタジー映画で使い古された要素だとは思う。 でもそれらは、相互に“真似”をしあいながらヒーローキャラクターや世界観の創造を競ってきたDCコミックとマーベルコミックの歴史を振り返れば、ある意味必然的なことだとも思うし、ストーリーがありきたりであっても面白いヒーロー映画は沢山ある。ことヒーロー映画においては、「王道」と「ベタ」は紙一重だろう。  本作においても、ジェイソン・モモア演じるアクアマンのキャラクター性や魅力は健在だったと思う。パトリック・ウィルソン演じる弟オームとの絡みも、まんま“ソーとロキ”ではあったけれど楽しかったので良いと思う。 結局は、前作と比較してケレン味のあるアクションシーンを再構築しきれなかったことが致命的な敗因だった。実情はよくわからないけれど、製作費不足、リソース不足は明らかだろう。   兎にも角にも、これでDCEUは終焉し、ジェームズ・ガン主導による新たなユニバースへとリブートされる。その中に、ジェイソン・モモアのアクアマンや、ガル・ガドットのワンダーウーマンが、再登場しないのはあまりにも残念すぎる。どうにかジェームズ・ガンによる「救済」を期待したい。
[映画館(字幕)] 5点(2024-01-17 20:51:05)
68.  くまのプーさん 完全保存版
小学3年生の息子は、太っているという程ではないけれど、お腹がぷっくりと膨れている。さらに小さい頃からの服を気に入って長く着るので、段々とお腹が見えそうになってくる。 「何かに似てるなあ」と、常々感じていたが、彼を小脇に抱えながら観た映画で、「ああ、なんだコレか」と思い至った。「くまのプーさん」だ。  念願のDisney+を契約して、とりあえず何を観ようと、息子と選んで何気なく観始めた。 2011年に製作された「くまのプーさん」は観ていたが、どうやら1977年に製作(実際は1960年代〜70年代に製作された短編映画の総集編的構成)された本作がオリジナルのようだ。自分の記憶の限りでは、描かれるストーリーとエピソードの大筋はほぼ同じだったように思う。 ただ、さすがにクラシカルなアニメーションの風合いが本作には溢れ出ていて、40年前からディズニー映画を観続けて育ってきた世代としては、やはりこちらの方が馴染みやすく、物語の世界観にも没入できたように思える。  ほぼ中毒者のようにはちみつを追い求めるプーの姿は、可愛らしさを少し越えてシュールで愉快だし、彼を取り巻く様々なキャラクターたちも、みんな少しずつズレていて可笑しい。 そして、そのキャラクターたちの世界が、クリストファー・ロビンという一人の少年の“イマジナリー”が生み出したものであるという俯瞰的な視点も、作品上にちゃんと表現されていて、それがこのゆる〜いファンタジー世界に「芯」を持たせているようにも感じる。 ラスト、クリストファー・ロビンが、成長していく自分自身の変化を感じつつ、プーに語りかけるシーンは、とても愛しくもあり、とても切なくもあった。  と、「くまのプーさん」を観て、くどくどと綴ってしまう自分は、いよいよ子どもの無垢な心とは離れてしまったなあと思う。 一方、傍らで観ていた小3の息子は、キャラクターたちの言動に合わせて足をバタつかせたり、フンフンとリズムに乗ったり、挙げ句は途中で「はちみつ食べたい」と言ってキッチンに行ってマヌカハニーを舐めていた。 「ああ、これこそが正しいプーさんの観方だな」と、まるでプーさんそのものの息子に教えられた気分だった。
[インターネット(吹替)] 7点(2024-01-08 12:01:22)
69.  女神の見えざる手 《ネタバレ》 
“ロビー活動”という政治活動自体に対する認識が、僕自身はもちろん、日本の一般社会においてはまだまだ薄いことは明らかで、その活動を専門的に請け負う“ロイビスト”と称される職業があることもよく知らなかったことは否定できない。 ただだからこそ、そのロイビスト業界と、その中で辣腕をふるう天才ロイビストを主人公にした本作は、とても興味深く、エキサイティングだった。  「勝利」に対して努めて冷徹で、職務に対して極めてソリッドな主人公をジェシカ・チャステインが抜群の存在感で演じている。 冷ややかな美貌を携え、最小限の感情表現しか見せないその佇まいは、この主人公のキャラクター性にまさしく合致しており、見事に役柄に憑依していたと思える。 完全無欠の主人公像ではあったが、彼女が時折垣間見せる僅かな感情や、確実に存在する人間的な脆さや一寸の隙が、とても丁寧に描写されており、ジェシカ・チャステインはその感情の機微も含めて素晴らしい塩梅で演じきっていた。  銃規制法案を巡るキャンペーン活動をストーリーの軸として、現在のアメリカ社会における様々な立場の人間たちの思惑が入り交じるストーリーテリングも、深刻な社会的課題と、個々の人間の本質を浮き彫りにしていく巧い脚本だった。 個人的な見解として銃規制そのものは「正義」だと思うけれど、劇中でも描き出されるように、銃によって“結果的”に守られた安心や命があることも事実として存在している。 アメリカという良くも悪くも多様性が極まる社会環境においては、一つ一つの環境や個人の人生観によって、物事の価値観が180度食い違うことも必然だろう。  そんな難しい社会環境において、では何を「正義」とし、何を「悪」と断ずるべきかということを、本作の主人公は最後の最後、変わらない冷徹な眼差しで真っ直ぐに伝える。  勝利という唯一無二の目的を達成するために、敵も味方も含めて周囲の人間総てに対して「真意」を隠し通す主人公は、多くの疑念や困惑、そして憎しみを生み出していく。 でも、そんな彼女もシーンの端々で、一瞬の人間臭さを見せる。終始冷徹で自信と確信に満ちた目線で周囲の人間と社会そのものを睨みつける主人公だけれど、その一瞬に垣間見せる目線は一転して酷く弱々しく、また優しく見える。 そんな彼女の根幹的な部分に見え隠れする人間らしさこそが、最終的には彼女自身を救った要因だったようにも思えた。   ラスト10分、積み重ねたキャリアを放棄してしまうことよりも、必要な“休暇”のために、自らの“偽証”を本当の奥の手として秘め続けたロイビストの矜持に震える。 そしてストーリー上では何も明示されていないけれど、彼女自身にもこの仕事に人生を捧げる理由や過去が存在していたようにも感じられ、その敢えて描き切らないストーリーテリングの在り方も素晴らしいと思った。  おそらくは1年余の“休暇”を終え、外に出た主人公が目にした相手は誰だったのか。 本作に登場したすべての人物に加えて、描き出されていない人物すらも、その対象として想像できる。 ジェシカ・チャステインの読み取りきれない眼差しによる何とも巧いラストカットにまた震える。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-01-07 01:18:40)
70.  男はつらいよ 望郷篇
2024年も映画初めは“寅さん”でスタート。今年も50年以上前の人情喜劇に心が安らぐ。  「望郷篇」とういタイトルに相応しく、寅次郎の故郷東京柴又をはじめ、この国のかつての風景や風俗描写が何気なく映しとられている。 撮影当時とすれば、それは至極当たり前のロケーションだったのだろうけれど、それから50年あまりの月日が流れた現在では、一つ一つのありふれていたのであろう描写がことさらに印象的だった。 江戸川の河川敷、発展途上の札幌や小樽の街並み、小沢駅前の旅館、北海道の広い大地を縦横する蒸気機関車、浦安の豆腐屋、河口を行き交う船……。無論私自身はその光景を実際に目にしていたわけではないけれど、郷愁を覚えるのはなぜだろう。  前2作では監督から離れていた山田洋次が監督に戻り、作品としての安定感が増しているように感じた。 キャラクター設定やストーリー展開等やっていることはほぼほぼ同じなのに、何とも言語化しづらい絶妙な間合いによる可笑しみや人間ドラマ、それに伴う情感が、山田監督の演出力と、彼に絶対的な信頼を置くキャスト陣の安心感によって増幅されているのだと思えた。 前2作では今ひとつ出番が少なかった妹さくらの登場シーンが多いことも嬉しかった。映画内の季節が真夏なこともあり、さくら役の倍賞千恵子のミニスカート姿も眩しい。  随所で、脚本通りなのか、アドリブなのか、NGスレスレなのか、その境界がアバウトなシーンも見受けられ、それらも含めて「作品」として成立させてしまう“ライブ感”みたいなものが、本シリーズの核心である人間模様の豊潤さを生み出しているのだとも思う。 前述の各地のシーンにおいても、当たり前の光景を当たり前のように映し出しているように見えて、そのロケーションの素晴らしさや、画作り、カメラワークの巧みさが、印象的なシーンとして仕上がっている要因なのだろう。 流石は山田洋次である。この日本映画史に残る巨匠監督が、2024年現在においてもバリバリの“現役”であることの価値と意義を改めて認識すべきだと痛感した。  さて5年に渡って毎年正月に「男はつらいよ」を観ることを恒例にしているが、全50作を観終わるにはあまりにも年数がかかりすぎてしまうことに今更気づいた。 よくよく考えれば、撮影当時の製作ペース自体が当初は2〜3作ペースなので、今年からはこちらも2〜3作ペースで鑑賞していこうと思う。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-01-06 00:04:37)
71.  クレイジークルーズ
坂元裕二脚本によるNetflix作品ということで、軽妙なロマンス&ミステリーのインフォメーションを見せつつも、きっと一筋縄ではいかないストーリーテリングを見せてくれるのだろうと大いに期待した。 けれど、ちょっと呆気にとられるくらいに、想像を大いに下回る“浅い”作品だったことは否めない。きっぱりと言ってしまうと、愚にもつかない作品だったと思う。  今年は、是枝裕和監督の「怪物」の記憶も新しく、個人的には恋愛映画「花束みたいな恋をした」もようやく鑑賞して、坂元裕二という脚本家の懐の深さと、人間の営みの本質に迫る巧みなストーリーテリングに感服したところだった。 が、しかし、本作は本当に同一人物による脚本なのかとスタッフロールを訝しく見てしまうくらいに、内容が悪い意味で軽薄で、展開も適当でまったくもって深みが無かった。  冒頭から終盤至るまで、まさに取ってつけたようなロマンスとミステリが乱雑に並び立てられ、それが一発逆転のストーリー的な“浮上”を見せぬまま“沈没”してしまった印象。 主演の二人をはじめ、豪華なキャスト陣がそれぞれ面白みがありそうなキャラクターを演じているのだが、その登場人物たちの造形が総じて上手くなく、特別な愛着も湧かなければ、嫌悪感も生まれず、中途半端な言動に終止してしまっていることが、本作の魅力の無さに直結していると思う。 加えてストーリー展開としても、目新しいユニークさや発想があるわけでもなく、極めてベタな展開がただ冗長に繰り広げられるだけに思え、楽しむことができなかった。  売れっ子脚本家として多忙なのだろうけれど、こんないい加減な仕事をしていては、先は危ういなと感じてしまう。脚本家としての地位が高まれば高まるほど、客観的な意見やダメ出しを得られにくくなることは明白なので、今一度自身の創作の本質を見つめ直してほしいもの。   愚にもつかない作品だったことは明らかだけれど、ただ一点、宮崎あおいだけはひたすらに可愛かった。 この女優が10代の頃から出演作品を観続けているが、アラフォーに突入して、その風貌の愛らしさは変わらず、明暗が入り交じる人間的な芯の強さを表す表現力がより豊かになっている。 近年あまり出演作品は多くないので、2000年代のようにもっと映画の中の宮崎あおいを観たい。
[インターネット(邦画)] 4点(2023-12-28 22:00:23)
72.  ウィッシュ
「普通」に面白いファンタジー映画だが、ディズニー映画における「普通」は、やはりどうしても“不満足”に寄ってしまうことは否めない。 「100周年記念作品」ということで、新たな時代の節目を迎えた巨大帝国ディズニーの新しい挑戦を感じたかったけれど、ベクトルはむしろ逆方向に向けられており、時にあからさま過ぎるほどに懐古主義的な作品だったなと思う。  特別な才能を持っているわけではないヒロインが、魔法を操る国王の悪政に反旗を翻すというプロット自体は、極めてオーソドックスではあるが、100年という歴史を踏まえたディズニーの最新作として相応しかったと思う。 人々の“願い”を取り戻すという物語のテーマや、歌い踊る動物たちの描写、ヴィランとして立ち回る国王の存在感など、ディズニー映画の王道を踏まえたストーリーテリングそのものは、過去の名作のあらゆる要素を彷彿とさせ、ディズニーという文脈の豊潤さを醸し出していたと言える。 しかし、そこから紡ぎ出されるストーリー上の“発見”や、物語の“終着点”までもが、あまりにもこの100年の間に使い古されたものであり、新作映画としてエキサイティングだとは到底言い難かった。  ヒロインの言動の起因となる要素や、彼女に与えられた力の意味、その結果としてもたらされる人々への影響が、なんだかとても曖昧で都合よく見えてしまったことが、本作全体の希薄さに繋がっているのだと思う。 なぜ彼女の願いが“星”に届いたのか、どうして魔法を使えない彼女の歌声が人々の力を引き出せたのか、そしてこの国の人々が得た功罪の本質は何だったのか。  無論それらのことを物語上で引き出すことは極めて難しいことだけれど、これが100年という長き歴史を重ねたディズニー映画の最新作というのであれば、そういう困難なテーマこそをさらりと描き出してほしかった。 ヒロインの父親の生き様や死の真相だったり、祖父が“願い”を取り戻すことでもたらせる影響や、ヒロインとの友人たちがそれぞれ何かしらの“ハンデ”を負っていることに対するストーリー的な意図など、もっと物語を深掘りし得る要素はいくらでも存在していたと思う。  また、本作の魔法使いの国王は、闇落ちした悪役として描かれているが、彼には彼なりの信念とその発端となるトラウマが確実に存在していたわけで、それらをどこかないがしろにしたまま、ヒロインの歌声で倒して、閉じ込めて終わりというのは、少々乱暴すぎると思えた。 信念ということのみを捉えれば、ヒロインよりも国王のそれの方がよっぽど強く確固たるものだったと思えるし、ここぞとばかりに手のひら返しで夫を裏切る王妃の言動にも腑に落ちない思いが募った。 吹替版で観たのだが、福山雅治が演じる歌ウマ国王が最終的には少し不憫に思えてしまった。本作と同じ制作チームが生み出した「アナと雪の女王」も一作目で表現しきれていなかった要素を、PART2で深く描きこんだ経緯があるので、もし続編が作られたりするのであれば、ぜひ諸々の不満要素を解消してほしいものだ。  「100周年」という記念行事的なプロジェクトの意向が強く出過ぎており、単体作品としてのクオリティを追求しきれていないという印象を終始感じた。 ……であるにも関わらず、100年間のスターたちが勢ぞろいする本編前のショートムービーを見せるだけで、「あ、やっぱり“Disney+”契約したい!」とアラフォー男に強く思わせるこの大帝国の絶対的圧力はやはり恐ろしい。
[映画館(吹替)] 6点(2023-12-23 16:33:19)
73.  首(2023)
“可っ笑しい”映画だった。 豪華キャストと巨額を投じて、とことんまで「戦国時代」という時代性と概念をシニカルに馬鹿にし、下世話に表現しつくした北野武らしい映画だったと思う。 鑑賞前までは正直なところ失敗作なのではという危惧が無くはなかったけれど、北野武監督が描くに相応しい意義のある娯楽作品だった。  冒頭、川のせせらぎに放置された無数の武者の死屍累々。その中の一つの“首なし”死体の中から蟹がもぞもぞと出てくる。何とも悍ましいそのファーストカットが、本作のテーマである人間たちの権力争いの無情さと愚かさ、そして残酷さを如実に表していた。 そこから先は、まさに「首」というタイトルを踏襲するように、“打首”のオンパレード。織田信長を筆頭とする戦国の世の支配者層から、農民上がりの底辺の歩兵に至るまで、ありとあらゆる立場の人間が、互いの“首”を巡り謀略と残虐の限りを尽くしていく。  描き出される浮世には、もはや正義だとか、良識などという言葉は存在すらしない。 武将に限らず、市中の平民、山間の農民に至るまで、ほとんどすべての人間は悪意と強欲に埋め尽くされている。 その様を傍らで見つつ、自分自身も戦乱の中で野望を抱えて暗躍する抜け忍(芸人志望)の、曽呂利(演 木村祐一)という役どころこそが、北野武本人の代弁者だったのだろう。 彼が映画の終盤で思わず呟く「阿呆ばっかりか」という一言は、劇中の戦国時代のみならず、あらゆる欲望が渦巻き続ける人の世に対する諦観だった。  映画全体の絶対的な暴力性、人間の本質に対する虚無感と脱力感、そしてそこに挟み込まれるオフビートな乾いたコメディ描写は、やはり“北野武映画”らしく、興味深い世界観を構築していた。 織田信長、羽柴秀吉、徳川家康らが揃い踏む戦国時代を描いた映画ではあるが、いわゆる「史劇」として描き出すのではなく、まくまでも戦乱の世とそこに巣食った人間たちをモチーフにした狂騒劇として、想像性をふんだんに織り交ぜて構築されたエンターテインメントだったとも思う。  最後“2つの首”を並べて、泥と血に塗れて汚らしい首の方を忌々しく蹴り飛ばす羽柴秀吉(演 ビートたけし)の身も蓋もない言動は、本作が描き出す皮肉の到達点であり、ラストカットとしてあまりに相応しい。
[映画館(邦画)] 8点(2023-12-02 12:20:02)(良:1票)
74.  ザ・キラー 《ネタバレ》 
何やら高尚な“殺し屋哲学”を主人公は自己暗示のように終始唱え続ける。が、やることなすことちっとも予定通りにいかない一流(?)アサシンの憂鬱と激昂が、上質な映画世界の中で描かれる。  デヴィッド・フィンチャーによる秀麗な映像美と緊迫感に満ちた映画世界の空気感、そして、マイケル・ファスベンダーの氷のようにひりついた殺し屋造形によって、ストーリーは冒頭から極めてスリリングに展開していく。 ソリッドでバイオレントな殺し屋映画であることを予告編の段階では大いに期待させ、鑑賞中もその期待に即した感覚は終始持続される。 けれど、そんな作品の雰囲気そのものが、明確な“ミスリード”だったことに段々と気付かされていく。 本作の本当の“狙い”と“正体”は、実は「完璧」とは程遠い人間の本質的な滑稽さであり、それを終始ドライで大真面目なファスベンダーの殺し屋像を通じてあぶり出した“コメディ”だったのだと思う。 想像していたタイプの映画ではなかったけれど、異質でユニークな新しい殺し屋映画であり、想定外の感情も含めて満足度は高い。  冒頭の暗殺シーンが、実はこの映画の行く末と、主人公の殺し屋の本質を物語っていた。 何日も前から陣取り、寒さや居心地の悪さに耐え、効率よくタンパク質が取れるとかなんとか自身に言い訳しながら安いハンバーガー(バンズ抜き)を頬張り、音楽を聞いて集中力を切らさないように努め、睡眠時間を削りながらも緊張感を高め、平常心を保つように常に自分の心拍数を確認し、念入りに慎重に待機し続け、ようやく現れたターゲットを見事に撃ち損じることから始まる衝撃的な低落ぶり。 その風貌や意味深なモノローグから、我々観客はこの男が完全無欠な一流の殺し屋であることを信じて疑わなかったけれど、冒頭いきなりの「任務失敗」に端を発し、文字通り滑り落ちるように、この男をイメージ崩壊へと押し流していく。 「一流」だと信じて疑わなかった彼へのイメージが、徐々に確実に崩れていく様が、この手の殺し屋映画としてはとてもユニークで独創的だった。  一つの大失敗と共に一気に窮地に立たされ、ほぼ“逆ギレ”のような復讐劇に展開していくストーリーテリングも、常軌を逸していて面白い。 冒頭こそ慎重に丁寧に事を進めていた主人公が、段々と雑にヘロヘロになりながら、半ばヤケクソのように“殺し”を遂行していく様に、人間の脆さや不完全さが表れていたと思う。  もっと分かりやすくコメディ要素を膨らませ、名もなき殺し屋のドタバタ劇を繰り広げることもできたであろう。 でもそうはせずに、あくまでも表面的にはルックは、デヴィッド・フィンチャー監督のクリエイティビティと、マイケル・ファスベンダーの不穏な存在感と演技力によって、ハイクオリティなハードボイルドとハードなバイオレンスアクションを貫き通すことで、逆に隠された可笑しみがじわじわと滲み出てくるようだった。  近年、殺し屋業界の内幕モノはトレンドのように量産し続けられているけれど、本作のこの独特な味わいは、それらのどれとも異なり、クセが強く、ちょっと忘れ難い。 マイケル・ファスベンダー演じる名もなき殺し屋には、まだまだ秘められた過去と、噛みごたえがありそうなので、続編も期待したい。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-11-26 00:43:25)(良:1票)
75.  ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー
ものすごく“真正直”な「スーパーマリオブラザーズ」の映画化だった。 子供から大人まで誰が観ても楽しめるだろうし、ゲーム世界を映画として具現化したそのクオリティそのものは極めて高く、隙がないと言える。 休日の昼下がり、小学3年生の息子と二人観るには、とてもちょうどいい映画だろう。  ただし、全くと言っていいほど“驚き”は無かった。 私自身、子供時代からプレイし続けてきて、先日も最新作「ワンダー」を子どもたちのために買ったばかりだが、詰まるところ、良い意味でも悪い意味でも、ゲーム世界そのままの映画であり、何かそれ以上の付加価値があるものではないと感じた。 勿論、マリオやピーチ姫、キノピオやクッパたちに登場キャラクターとしての人格は備わっているのだけれど、決してゲーム世界で想像した以上の「言動」を起こすわけではなかった。 稀代のアクションゲームの映画化において、特筆すべき“驚き”が無いということは、やはり致命的な欠落だと思う。   「スーパーマリオブラザーズ」というゲームの魅力は、そのアクション性の豊富さや、そのイマジネーション溢れるユニークな世界観もさることながら、何よりも主人公である「マリオ」や敵役である「クッパ」に対する愛着の深さにこそあると思う。 配管工のヒゲおやじが、カメが巨大化した化け物に繰り返し挑み続けるこのゲームが、世界中から愛されているのは、一重にそのキャラクターたちが魅力的だからだろう。  ではなぜキャラクターが魅力的なのだろうか? どのシリーズ作においても、マリオがピーチ姫を助けに行くに当たっての具体的な経緯や、クッパがキノコ王国を支配しようとするに至ったバックグラウンドが詳しく説明されているわけではない。 マリオはいつだって、オープニングでさらわれたピーチ姫を取り戻すために問答無用に冒険をスタートさせる。 でも面白い。それは、プレイヤー一人ひとりが彼らのキャラクター性を「想像」するからだと思う。 プレイヤーは、「1-1」がスタートした時点で、マリオがどういう人間なのかということを無意識レベルで想像し、彼に憑依する。そしてゲームを進めていくにつれて、ピーチ姫やクッパのキャラクター性に対してもより一層想像を深めていく。 その想像の深まりと共に、プレイヤーはゲーム世界に没頭し、コースをクリアしていくことに快感を覚えていく。それが、「スーパーマリオブラザーズ」のゲームの魅力、そこに登場するキャラクターたちの魅力だと思う。  つまり何がいいたいかと言うと、この映画作品で描き出されたマリオをはじめとするキャラクターには、世界中のゲームプレイヤーたちが延々と繰り広げてきた「想像」を超えるものが存在しなかったということ。 言い換えれば、極めてベタで平均的な「想像」に終止したキャラクターが、ゲーム世界そのままの映画の中で活躍する様を見ているようだった。 それはすなわち、他人がプレイしている「スーパーマリオブラザーズ」を見ているようでもあり、楽しくはあるけれど、当然ながら自分自身でプレイしている時のような、驚きや快感を伴う面白さは無かった。  「スーパーマリオブラザーズ」の映画化においてもっと追求すべきだったのは、世界中のプレイヤーたちが想像し得なかったキャラクター像の「創造」、もしくは実際にゲームをプレイしているとき以上の「体験」だったのではないかと思う。
[インターネット(吹替)] 6点(2023-11-19 22:24:37)
76.  スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース
アニメーション作品であることの必然性と可能性を、文字通り「無限」に広げて、多元宇宙のありとあらゆるスパイディたちが織りなすマルチバースの世界を自由闊達に表現してみせた“スパイダーバース”シリーズの第二弾。 他のスパイダーマン映画と同じく、“続編”であることの優位性を活かしたアバンタイトルのシークエンスは、情報量が極めて多く、42歳の中年男性の脳内は早々にメモリ切れを起こしそうになり、情報処理能力が鈍化していたことは否めない。  前作が生み出した「革新」を更に突き詰め、その映画的な力量がパワーアップしていたことは間違いない。 めくるめくアイデアとイマジネーションの“渦”は、エンターテインメントを超えて、もはや芸術的ですらあった。  スパイダーマンとなり、大いなる力と大いなる責任を与えられ、同時に多大な喪失を経た10代の主人公マイルズ・モラレスは、多元宇宙のスパイディたちと共闘し、「一人ではない」という勇気を得る一方で、孤独を深めている。 そのキャラクター描写は、極めて特異な境遇でありつつも、多くのハイティーンの若者が抱える普遍的で“青臭い”心象を表現しており、とても興味深く、自分自身もそういう時期を経てきたことを思うと感慨深くもある。  マルチバースの更に深淵に引き込まれた主人公は、そこですべてのスパイダーマンに課された“宿命”を突きつけられる。 だがしかし、若きスパイダーマンは、“青臭い”からこそ、それに対して全力で抗い、多元宇宙を股にかけて逃走する。 それは、この現実世界の“大人”たちが知らず知らずのうちに手放し、許容し、諦観してしまっている「可能性」に対するアンチテーゼのようでもあった。   普遍的でありながらもとても深いテーマを物語の核心に孕んだエキサイティングな続編だったと感じる一方で、やはり作劇においてありとあらゆるものを詰め込みすぎている印象は強く残った。 それが自分自身の情報処理能力の低さ故と言われれば反論できないけれど、もう少しスマートにストーリー展開の“交通整理”をすることは可能だったのではないかとは思う。 思いついたアイデアやイマジネーションのすべてをビジュアル表現せずとも、観客である人間は空白を想像力で補えるわけで、その想像の余地を残すことが、もっと広い世界を創造する要素だとも思う。  そういう意味で、やはり本作は溢れ出るクリエイティビティが、ストーリー展開にそのまま呼応するように氾濫気味で、うまく収拾できていない。 でも、本作が次作最終章へのブリッジであるということを踏まえると、その氾濫に伴う混沌こそが布石なのかもなとも思える。 つまるところ、本作の正当な評価は、次作での物語の結実次第なのだろう。   果たして主人公マイルズ・モラレスは、逃走先の“世界”で、別の“可能性”の自分自身と衝撃的な対面を迎え、本作は終幕する。 とても宙ぶらりんな結末だけれど、別次元ではスパイダーグウェンが、“バンド仲間”を集結させて、我々の高揚感を煽る。 「可能性」の大渦に自分自身の思考がフリーズしないように、せっせとメモリ増設して次作を待つとしよう。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-19 01:20:18)
77.  ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー
それなりに長く映画を観続けていると、現実世界の俳優の死に伴う喪失感が、映画世界の内外を巻き込んで渦巻くことはままある。 2020年、43歳の若さでこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンの死は、近年においてその最も顕著な出来事だったろう。 MCUでブラックパンサーことティ・チャラ役にキャスティングされたことで、一躍世界のトップ俳優の一人となった彼の死は、MCUファンに限らず、世界の映画ファンにとってあまりにも大きな損失だった。  無論、この「ブラックパンサー」の続編も、チャドウィック・ボーズマン続投が大前提のプロジェクト進行が、突然の悲報に伴い、継続そのものを問う岐路に立たされたことは言うまでもない。 普通に考えて、絶対的な主人公を演じていた俳優を失ったヒーロー映画の続編が、そのまま成立するなんてことはあり得ないだろう。 それでもなお、映画の製作を進め、161分の大長編として日の目を見た本作からは、監督のライアン・クーグラを筆頭に、スタッフ、キャストからの、亡き“ティ・チャラ王”に対する尊敬と哀悼が満ち溢れていた。  死に伴う喪失感は、時に残された人間を惑わし、自暴自棄に貶める。 その心情が本作に登場するキャラクターたちに投影され、彼らも大いに惑い、進むべき道を見失いそうになる様が印象的だった。 それをどう乗り越え、その先の時間をどう生きるのか。それはきっと最愛の人間の死に出会うべくしてこの世に生きるすべての人間に課せられた宿命なのだと思う。  最愛の兄と王とヒーローをまさしく“同時”に失った妹のシュリは、映画のラストで光に照らされた美しい浜辺で一人佇む。 その表情からはやはり寂しさと心細さが垣間見える。その一方で、大切な記憶や、兄や母に対する愛情は決して色褪せないことも噛み締めているようだった。  生きろ、そして戦い続けろ。 「エンドゲーム」のクライマックス、ポータルの中から現れたティ・チャラが、満身創痍のキャプテン・アメリカに対して力強く視線を向けた後、援軍を鼓舞するシーンが思い浮かぶ。 偉大なヒーローは死してもなお、映画世界の内外の“アベンジャーズ”を鼓舞し続ける。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-12 01:30:22)
78.  キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
200分を超えた物語の終着点で、主人公のアーネスト・バークハートは、劇中最も情けなく、そして力ない表情で、傍らにいたFBI捜査官の方を振り向く。気丈な捜査官も、思わず目を背けてしまうくらいに、主人公のその様とそれに至った妻に対する「回答」は、愚かすぎて目も当てられない。 この映画は、米国史上における確固たる「闇」と、その中で蠢いた人間たちの悍ましさ、そして罪を犯し続けた一人の男のひたすらな愚かさを容赦なく描きつけている。  主演のレオナルド・ディカプリオが本作で演じたアーネスト・バークハートという男は、おそらく彼のフィルモグラフィーの中で最も愚かで救いのない人間だったに違いない。 それ故に、本作の製作に当たって当初は事件を究明するFBI捜査官の方を演じる予定だったところを、自らの判断でこの愚男に配役を変え、演じきったディカプリオは、すっかり骨太な映画人だなと思う。  マーティン・スコセッシ監督の最新作に、彼が長年に渡ってタッグを組み続けたロバート・デ・ニーロとレオナルド・ディカプリオが揃い踏みするという事実は、世界中の映画ファンにとってやはりスペシャルなことであり、むしろそれこそが「事件」と言えよう。 それが206分という異様な上映時間であったとしても映画館に足を運ばずにはいられなかった。  1920年代のオクラホマ州で起きた先住民族“オーセージ族”を対象にした連続殺人事件の真相と顛末を描いた実録犯罪映画。 206分という上映時間には流石に構えてしまったが、実際に鑑賞が始まると、そこはやはり大巨匠の独壇場、プロローグシーンから一気に映画世界に引き込まれる。 オクラホマの荒野に追いやられた先住民族が、油田の発掘により一転して莫大な富を得て、そのオイルマネーに群がる白人たちの操作と支配、陰謀によって運命を狂わされていく様が、努めて淡々と描き出される。 実話ベースのストーリーテリング故に、そこには大仰な映画的な派手さや、劇的な顛末は存在しない。ただだからこそ、一人ひとりの人間の本質が、丁寧に、生々しくあぶり出されていくようだった。  前述の愚男を演じたレオナルド・ディカプリオ、そして、人間の悪意をそのものを演じきるロバート・デ・ニーロの競演からは、人間が孕む闇と腐臭が匂い立ってくるようだった。終盤、それに群がるかのように飛び回る蝿の羽音が不快感を助長していた。  また、両者の間で身も心も侵食されるオーセージ族の一人であり、主人公の妻を演じたリリー・グラッドストーンの存在感も抜群だった。 只々、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶように、沈黙を守り、最後の最後まで愚かな夫への“赦し”を与えようとするその姿は、とても美しく、神々しい。 劇中、白人は神の存在を都合よく語り、オーセージ族も自分たちの信仰を貫く、がしかし、本当の「神」とは、一人ひとりの人間の中にこそ生まれ存在するものなのではないか。というようなことを、主人公の妻モリーの生き様から感じた。  時代や場所、価値観や常識を超えて、迫害や侵害を念頭に置いた理不尽な暴力は、この世界のあちらこちらで今なお繰り広げられ続けている。 本作で綴られたことは、決して「物語」ではなく、無情で端的な事実であるということを、映画の最後、自ら登場したマーティン・スコセッシは、強く強く伝える。
[映画館(字幕)] 8点(2023-11-11 00:47:33)
79.  search #サーチ2
インターネット配信による新作映画の視聴がどれだけ普及しようとも、映画は劇場のスクリーンで観るべきで、それが幸福な映画体験をもたらす信じていることに変わりはない。けれど、前作「search サーチ」に続き本シリーズだけは、映画館ではなく自宅で、しかも自室のPCのモニターで鑑賞することが、特異な映画体験をもたらすと思う。  前作に続き、主人公が駆使するラップトップPCやスマートフォンやスマートウォッチの画面を、ほぼ全編に渡って映し出し、ストーリー展開が繰り広げられることでサスペンスが加速していく。 自分のPCでこの映画を観ていると、あたかも主人公のPCモニターをそのままハッキングして観ているような感覚に陥り、この映画特有の“臨場感”が増していく。  更に本作では、ある人物が実際に主人公のモニターをハッキングしているくだりがあったり、前作や本作の顛末がドラマ化されたらしいNetflix作品を主人公が観ていたりして、まるで二重三重に映し出される合わせ鏡のように、現実と映画世界、更にその先のドラマ世界が果てしなく繋がっているような感覚を覚える。  各種インターネットデバイスや、SNS、様々なインターネットサービスを駆使して、18歳の主人公は、母親の失踪と、その裏に隠された真実を追求していく。 前述の特異な映画的手法が功を奏して、主人公と同じ目線で、我々観客も不安を掻き立てられ、たどり着く真相に驚くことができる。  序盤から中盤の展開的には、成功した前作の二番煎じのようにも見えがちだけれど、用意されていた顛末には、前作とは異なるテーマ性がしっかりと備わっており、“パート2”として相応しい出来栄えだったと思う。  まあよくよく考えてみたならば、主人公の母親は、もう18歳になる娘に対して事前にしっかりと“自分たちのこと”を説明しておくべきだと思うし、それが新しい恋人との再婚間近というタイミングであれば尚更だろう。 (そもそもこの母親は男を見る目が無さ過ぎるというのは野暮なので言わないが……)  この手のシチュエーションスリラー特有の強引なストーリーテリングは否定できないが、日常的にGoogleアカウントで様々なサービスを利用している現代人としては、危機管理の必要性を感じずにはいられない映画だった。 定期的なパスワード変更は大事だけれど、いざという時に近親者にも見当がつかないのも危ういな。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-04 23:41:59)(良:1票)
80.  ゴジラ-1.0
「恐怖」が、戦後直後の復興途中の東京を蹂躙し、街を“再び”焼き尽くす。 たった一発の絶望的な熱線により、「生活」のすべてが吹き飛び、巨大なきのこ雲が立ち上る様を呆然の見上げるしか無いその“無慈悲”は、まさしく本作の映画世界でこの国が経てきたばかりの悲劇の再演であった。 突如現れた畏怖の象徴を目の当たりにして、立ち尽くす“日本人”の視線は、恐怖感や絶望感を超えて、諦観しているようにも見え、その様が事程左様に無慈悲への拍車をかけていた。 “恐怖の化身”という言葉がそのまま当てはまる大怪獣に対する畏怖の念は、1954年の第1作「ゴジラ」、そして2016年の「シン・ゴジラ」に勝るとも劣らないシリーズ随一のものだったと、まず断言したい。  1954年の「ゴジラ」第1作目から70年、国内製作の実写版としてちょうど30作目となる本作。過去のシリーズ作全作、ハリウッド版やアニメ版も含めてすべて鑑賞してきた“ゴジラ映画ファン”である自分にとっても、確実に五指に入る傑作だった。 正直なところ、7年前の「シン・ゴジラ」があまりにも大傑作だった故に、もうこれ以上ゴジラ映画を製作することは難しいんじゃないかと思っていた。 今年、新作が公開されるという情報を見聞きしても、期待感はそれほど膨らまず、ギリギリまで高揚感も高まらなかった。 山崎貴監督は、その懸念と軽視をものの見事に吹き飛ばし、蹴散らしてみせたと思う。  自らの得意分野であるVFXによる圧倒的ビジュアルを駆使して、観客を映画体験を超えた“ゴジラ体験”に引き込んでみせたことが、成功の最たる要因だろう。 これまでのシリーズ作においても、伝統的な特撮技術や、先進的な撮影手法による魅力的なゴジラ造形や映像世界の構築は多々あるけれど、そのどれよりもゴジラを巨大に、そして“間近”に見せていると思えた。 ゴジラの巨躯と対峙する登場人物及び、我々観客との圧倒的に短い距離感こそが、この体験のエキサイティング性を際立たせているのだと思う。  そしてゴジラが登場する映画世界の舞台を1947年にしたことも的確だった。 過去作でいくつも昭和の日本描写をクリエイトしてきたこともあり、その精度も最大級に高まっていた。精巧な映像世界の“創造”ができるからこそ、それを“破壊”することにおいても極めて高いクリエイティビティを発揮できているのだと思う。  昭和時代の人間模様を描いたドラマとストーリーテリングには、この監督らしい懐古主義をいい意味でも悪い意味でも感じ、台詞回しや演出プランには、ある種のベタさやオーバーアクト的な雰囲気も感じたけれど、その点も“昭和のゴジラ映画”へオマージュを含めたリブートと捉えれば的確だったし、印象深い演技シーンも多かった。 神木隆之介の華奢な主人公感、浜辺美波の圧倒的に美しい昭和女優感、吉岡秀隆の一瞬イカれた目つきを見せるマッドサイエンティスト感、佐々木蔵之介の分かりやすくべらんめえ口調な江戸っ子感等々、愛すべきキャストのパフォーマンスが、本作への愛着を高める要因となっている。   一つ一つの台詞に対する丁寧な伏線回収や、クライマックスの作戦終盤において熱線放射寸前で発光しているゴジラを海中に沈めることで状況をビジュアル的に認識できるようにした工夫など、本作は努めて“分かりやすく”製作することを心がけている。 ストーリー展開や登場人物の心情の少々過度な“分かりやすさ”は、世界のマーケットも見据えた本作の明確な製作意図であることは間違いない。  私自身、ハリウッド版ゴジラの各作品や、国内で制作された“アニゴジ”の3部作、Netflix配信のアニメシリーズ「ゴジラ S.P」の鑑賞を経て感じたことは、世界的なカルチャーアイコンとなった「ゴジラ」に対しては、ファン一人ひとりにおいて「観たいゴジラ映画」があって良いということ。 そして、“ゴジラファン”を経て、クリエイターとなった一人ひとりにおいても、「ゴジラ」をテーマにしたストーリーテリングは、自由闊達にその可能性を広げて良いということだ。 そのためにも、日本国内のみならず、より広い世界のターゲットに向けて、改めて「ゴジラ映画」の魅力を提示し、新たな展開に繋げていくことは、ともて意義深いことだと思う。  「映画作品」としての質や価値を主眼にするならば、本作は1954年「ゴジラ」や、「シン・ゴジラ」には及ばないかもしれない。 ただし、世界中の人々が愛することができる「ゴジラ映画」として、この作品の立ち位置はまさしく一つの「最適解」だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-11-04 23:39:30)(良:5票)
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