961. タンポポ
これ伊丹映画の欠点が出てしまった気がする。たとえば原泉と津川雅彦の追っかけを思い出してみる。「設定が重要なのではなく、映像上の人物の動きこそがサスペンスを盛り上げる」という考えでしょ、監督は。だからああいうエピソードも生まれる。でもあれ、面白かったですか? 映像だけではサスペンスを盛り上げるほど自立できないんですよ。観客も映像だけで愉悦を味わえるほど純な存在じゃないんです。すぐ意味に寄りかかりたくなる、で、それを無意味が引き剥がそうとして葛藤するところに映画の面白さがあるのに(たとえばミュージカル映画においてダンスという不意の無意味さが輝く興奮)、最初から「無意味」に身を投じてしまったのでは、けっきょく「意味」に身を投じた演説映画や説教映画と同じ拘束を受けてしまうことになる。「無意味」が目的になることによって「意味」の一種になってしまう。そこにこの映画の窮屈さがあって、ブニュエルの植物が繁茂していくような自由さは、とうてい味わえなかった。比較的面白かったのは井川比佐志のエピソード、ここにはその葛藤らしきものがあった気がする。 [映画館(邦画)] 6点(2011-07-26 12:11:26) |
962. 妻への恋文
話の大枠は「他人の顔」みたいなところもあるんだけど、フランスはあんまりアイデンティティの問題とか自由の問題とかに突っ込まず、倦怠期ものの恋愛喜劇に収めていく。なんかもったいないと思うんだけど、こういう態度がエスプリってんだろう。最初は旦那が妻への関心を失ってるように見せて(テレビのシーン)、オレンジの手紙の効果をあげようとしている。部屋を分けて床のきしみで駆け引きしたり、しかし焦れば焦るほど、幸福な時の流れは早まっていく。男は「大人の愛」という安定を拒否する情熱の信者、幸福な時が過ぎ去っていくことに敏感なの。これ『髪結いの亭主』のすぐあとに来た映画で、邦題もなんか意識してたな、でもそのために印象が弱まってしまった。 [映画館(字幕)] 6点(2011-07-25 10:14:36) |
963. 黄色い大地(1984)
冒頭、八路軍兵士が一人で小さく心細そうに現われてくるだけで、「あれ? これは今までの前向きの共産主義者とは違うぞ」と驚かされ、それと重なってくる荒々しい民俗音楽で、なにか新しい中国映画・というより国籍とは関係ない「映画」を観てるんだ、という気になった。過去の悲惨を扱って現在の矛盾から目をそらしてる、と言う批判も出来るかもしれないが、それよりも一本の映画としての完成度にまず驚くべきだろう。照明はスクリーンで観られるギリギリぐらいにまで落とし、ふいごの音や室外の家畜の声が際立つ。目を凝らし耳を澄まさないと捉えられないような世界を築いていく。この時間が粒だって清水のように流れていく感じは、最良の映画だけが持てる幸福な感覚だ。その自然界と結びついたような時間の中に不意に登場人物の民謡が飛び込んでくる刺激、ここに「大きな自然と小さな人間」という彼らの生活が直接に表現されている(特に弟が歌いだす瞬間)。政治的メッセージよりも、人間が生活していることへの新鮮な驚きとそれへの畏敬がベースになっている。突然中国映画の新展開を見せてくれた忘れ難いフィルム。 [映画館(字幕)] 8点(2011-07-24 10:17:41)(良:1票) |
964. ゾンビランド
かつてアメリカ映画は、心置きなく殺戮できる敵ってのを持っていた。西部劇ならインディアン、戦争映画なら相手国の個性のない兵士たち。しかしそれもベトナム戦争までで、自分たちの正義が疑わしくなってくると、どこからも文句を言われずに安心して殺戮できる敵は、宇宙人とゾンビだけになってしまった。今ゾンビ映画がやたら作られるのは、かつての大量殺戮の爽快感を忘れられないアメリカにとって、最後のテーマパークだからだろう。実際本作には西部劇の余韻が残っていて、登場人物たちは西部に楽土を求めていくわけだ(民芸品店で暴れたのは現実のインディアンを殺せなくなった白人どもの代償行為?)。ちょっと面白くなれそうだったのは、主人公の青年がいわゆる「引きこもり」で、他人をゾンビのように避けて生きてきたため、今回の災厄で生き残れたという設定。箇条書きされたマニュアルに沿い、用心に用心を重ねてきた。その彼が恋のために勇気を奮い立たせヒーロー的行動をとる、ってところでアメリカ映画の常道に戻ってしまうんだが、もっと彼の臆病を臆病として生かせなかったか。ゾンビランドとなったアメリカは、衣食住に関してそれほど困惑しているようでもなく、トゥインキーなるお菓子(?)を熱望するぐらい。ハリウッドの某俳優の豪勢な家で寝泊まりできるし、普段はよく停電していた西部なのにゾンビの国になってから電力事情は良くなったらしく、遊園地まで動かせる。やっぱり日常からちょっと立ち寄るだけの、テーマパークとしてのゾンビランドなんだな。まあ映画ってそういうものなんだけど。 [DVD(字幕)] 6点(2011-07-23 10:10:37) |
965. お引越し
この監督は水が好きで、今回も不意の夕立やら疎水やら出てくるんだけど、それよりも火が圧倒的だった。引越しのゴミ燃し(放火のニュース)、アルコールランプ、大文字焼き、祭り、舟の炎上。少女の成長って民俗学的にもよく火と関わってる(『ミツバチのささやき』でも跳んでた)。それを背景にして、レンコが「おめでとうございます」と叫んだときには感動した。成長することを自分で祝福し、毅然とまなじりを決して受け入れていく。崩れて行く家族にすがろうとする自分を「おめでとう」と叫んで奮い立たせていく。おめでとうとは、ただお赤飯を前にしてるってだけでなく、厳しい言葉なんだね。前半は「けなげ」のパターンに収まってしまうんじゃないかと思ってたが、あの「おめでとう」でそこから一歩進めた。風呂場に立てこもるときの廊下の緊張、そうか立て籠もる話が好きなんだな。鋭く尖った三角形のテーブル。レンコはよく走った。 [映画館(邦画)] 7点(2011-07-22 10:13:25) |
966. 2ペンスの希望
イタリア映画はこうでなくちゃいけない。叫ぶ・どなる・ののしる・手を広げて近所に吹聴してまわる・すぐぶつ・前屈みになって走り回る。オペラの発声は、あれはリアリズムだったのかもしれないと思わせるほど、全編声を張り上げている。この元気のよさが身上。崖の上の百姓女とのののしり合いのところなんか、別に気が利いたセリフだからと言うわけでもなく笑ってしまう。ほれぼれと「アリア」に聞き入ってしまう感じ。爽快。この元気のよさにすべてを託していこう、って。「神さまが人間をお作りになった以上、なんとか食っていけるんだ」ってね。楽天的過ぎるかもしれないけど、そういう気持ちを奮い立たせたかった時期なんだろうということは、同じ敗戦国としてよく分かる。いろいろな職業変遷、坂を三台ぐらい馬車を押し上げていく勢いのよさ。そして馬車は時代遅れだと、新品同様(!)のバスを共同で買い、これが走り抜けていくシーンのなんとも陽気なこと。ここらへんのドタバタはフェリーニを思わせ、家同士が喧嘩したあと両家の母親が懺悔しているあたりはパゾリーニの寓話を思わせ、全体の民話的語り口にはタヴィアーニを連想させ、イタリアの監督ってみなネオレアレズモから生まれた兄弟なんですね。映画館のフィルム配達。「おい、なんで女が殺されたのか分からんと客が騒いでるぞ」。いつも太陽が照りつけているような陽気さに、ずっとひたっていたくなる映画。 [映画館(字幕)] 8点(2011-07-21 10:08:43) |
967. サニーサイド
大正8年か。松井須磨子が自殺してキネ旬が創刊された年だ。コントラストがきつくなっちゃってて、かなり見づらいフィルム状態ではあった。楽譜をヤギに食べられてしまい、キーを叩くとヤギが鳴くというのを視覚で見せるギャグがあった。朝食のシーンで砂糖をいっぱい入れてドローッとしたのを飲む、ってのもあったな。一番好きなのは医者たちが座っているロビー(?)を強引にモップで掃除するというギャグ、無理に脚の間を通したりするの。この人のギャグでは、律儀にテキパキと仕事をしている振りをする、ってのにいいのがある。そこに庶民のズルさと言うか反逆を見てしまうのはヤボか。労働讃歌と素直にとっていいところもある。機械的に動く労働者の自嘲と見るのは、後の作品から振り返って見てしまい過ぎてるかもしれない。 [映画館(字幕)] 6点(2011-07-20 12:10:18) |
968. 僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ
《ネタバレ》 面白いのは主人公が誰からも愛されてしまうこと、何となく助けてしまいたくなる。彼自身が必死に新しい環境に適合しようと努力しなくても、周囲が歓迎してくれちゃう。ドイツからロシアに投降しようとして、逆に英雄になるあたり笑える。投降ってのは本来、味方から敵への質的変化を伴った移動のはずなのに、彼にとっては等価のAからBへの衣装替えにしか過ぎなかったわけだ。「演じる」以前に、国家なんてものも仮に所属しているだけって感覚だったんだろう、ユダヤ人にとっては。これで民族からも自由になれればいいのだけど、ああそうか、割礼ってのは民族を拘束する儀式なんだな。20世紀の二大独裁者の間でピンポンされた青年。どうしようもないピンチになると、悪の根源であったはずの戦争の破壊によって(散乱する書類)救われる皮肉。医学的にユダヤ人とドイツ人の違いを教える授業が怖い、と思いつつ、本当に困ったことなんだが、ナチのマークの存在する画面って、なにか身が引き締まる清潔感を感じてしまうんだな。ユダヤという「病気」を外部に捏造した社会の、幻の清潔感なのは重々分かっていても。 [映画館(字幕)] 7点(2011-07-19 10:07:56) |
969. パーマネント野ばら
《ネタバレ》 いろいろ男女問題を抱えた町の人々をおとなしいヒロインが観察していく、って設定かと思っていたら、彼女が一番問題を抱えてたってことがだんだん分かってくる話。あけすけに感情を披瀝する風土のなかでの、秘めた一途な恋が明らかになってくる。映画観終わってみると、その設定だけに寄りかかってて、あとの描写が少し雑だった気もするが(男を引っ掛けるオバサンや電柱倒すオトーサン)、一応まとまったものを観たという気分にはなる。高知県というと『祭りの準備』を思い出すが、あれでもなんか男たちはぶらぶらしてた(原田芳雄が絶品だったなあ)、そういう風土なんだ。そして女たちはパーマ屋で「教育上問題のある」談話をしている。漁師町の風土。男も女も、大人も子どもも、みんなよく怪我をする。活発な風土というか、暴力的風土。車で突っ込んだり車から飛び降りたり。頭より体が先に動く風土。そういう風土の中で、ヒロインのみ、じっと頭だけで過去の恋に沈澱している。子どもを母親に任せたまま「恋人」とトンネルで会ってたり、ただ一人、風土に反してしっとりとした恋愛に生きている。その痛々しさがしだいに分かってくるあたりが味わい。子どもが走り寄ったラストで、彼女は夢のような恋愛から、母親としての自覚に目覚めるのか。この荒々しい風土のなかで生きていけるかなあ。 [DVD(邦画)] 6点(2011-07-18 13:03:06)(良:1票) |
970. ロープ
《ネタバレ》 むかしスクリーンで観たときは気がつかなかったが、カット割りあるのね。気がついたのは3ヶ所、もっとあったかもしれない。鶏を絞める話題でフィリップが神経質になったところで教授の疑惑顔に移るとこ、犯人らが言い合ってる背後に教授が来たところで部屋に入ってきた家政婦に移るとこ(このあと家政婦が部屋の片づけを始めるのがヒッチらしい名シーン)、カメラが無人の家具を順に眺めながら犯行の再現をし(これは舞台劇では表現できまい)ブランドンがポケットに手を忍ばせたところで教授に移るとこ。この3ヶ所ではっきりカットを替えていた。どこも緊張の場でその効果は生きてるが、どうしてもカット内でつなげられないというとこでもなく、パンやズームアップ使えば似た効果は出せそうだ。でもそれだと品はなくなるな。映画をワンカットに収めるという趣向より、どうしてもカットを割りたいところでは割る、という判断を優先したのか(単に何度撮り直してもトチる俳優がいたってだけだったりして)、気になるところ。それよりも以前には気がつかなかったことのほうに驚いた。人間、朝起きてから寝るまで毎日ワンカットで世界を見ているわけだが、もしその最中にカット割りがあったら相当びっくりするだろう。でも映像世界では「ワンカット映画」と思い込んで観てたら、けっこう気づかない。今回だってアレッと思ったあと何度か繰り返してみて(上映中の時間を左右するのは映画の神を冒涜する気がするもんだがあえて)、やっと速いパンではないと得心できた。映画って普通の視界とは全然心理的に違う心構えで観てるんだなあ、と思った。その趣向を離れたところでは、ラスト、外の正常な世界の音が流れ込んでくる効果がいい。それは犯人が軽蔑してやまなかった世界だが、それが彼らを裁きにこれからやってくるのだ。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2011-07-17 12:13:44)(良:1票) |
971. 巴里の女性
《ネタバレ》 うまくいかない世の中、みなで傷つけ合ってそれで寂しがってる。マンジュー君も寂しい。ヒロインも、友人に婚約発表の雑誌見せられてフフンと強がってみせたりして、哀しい。また父の反対・母の反対が悲劇を進行させていく要因になっている。でラストで寛容を説くわけなんだけど、この時代の潮流なのか、このころの映画は何でもかんでも寛容を説きたがってる。革命やら世界大戦やらの動乱の反動で理想主義の時代だった、ってことだけかもしれないけど、映画というもののそもそもの寛容性・何でも取り込んでしまうフトコロの広さにこじつけてしまいたい気持ちもちょっとある。青年が着飾ったヒロインの絵を描くんだけど、カンヴァスには昔の質素な彼女が描かれていく、なんてとこが憎い。こんな生活いや、と言いながら窓から投げた首飾りを拾いにいくなんてシーンの残酷さ(犬がついて走ってる)などドキッとさせられる。 [映画館(字幕)] 7点(2011-07-16 12:25:11)(良:1票) |
972. カサノヴァ最後の恋
《ネタバレ》 脚本はカリエール。原作は世紀末ウィーンのシュニッツラー、あの『アイズワイドシャット』の原作者にもなる。後半滅びの予感というかその転変が、前半のユーモアとうまく対比される予定だったんだろうね。ラスト、卑しいスパイの条件を呑んで古都ヴェネツィアに戻っていくあたり、腐敗と死の匂いが立ち込めて終わるのが、カサノヴァの時代というより、もう1世紀ほどこっちっぽい。かつての色男をアラン・ドロンがやるってのが売りなんだけど、まだカッコよすぎる。もう少し崩れてもいいと思うが、製作総指揮がアラン・ドロン本人なんで仕方ないか。ドロンは終始一つの表情だけだった。没落する色男と対比されるのは、科学の娘の登場。「戦争もいいもんです、軍隊が減るから」いう自由人でいられたのの終わりでもある。この監督はなんでも『地獄に堕ちた勇者ども』に端役で出てたそうなんだけど、コクの出し方を学ばなかったな。 [映画館(字幕)] 5点(2011-07-15 09:57:52) |
973. キートンのラスト・ラウンド
世間知らずのいいとこのボンボンが、恋のためにその安逸の世界から思わぬ状況に挑まねばならなくなる、ってパターンがキートンでは多いんだけど、そのときの当惑して心細そうに直立してる姿を見るだけで、もう嬉しくなっちゃう。まずお坊ちゃんぶりの山の生活で笑わせるが、ヒロインが登場し二人でテーブルで肘を突いて話しこんでいると、次第にテーブルがめり込んでいって、普通のピクニックのような自然な腹這い状態になる。ヒロインが現われることによって生活が変わっていくであろう予感。嘘からトレーニングをしなければならなくなる。何しろ拳闘選手。練習のシーンだったか、スカンスカンと空振りしながら相手と組んでいるときの動きなんか最高だった。手の動きと目線とが食い違ってて、もちろん相手とも合っていない、悲劇的で滑稽なダンス。で、最後はコケにされていたことが分かると憤然と名誉のために頑張ってしまえるパターンで、他の傑作群と比べると後半がちょっと弱かったけど、でもいいんです、あのお顔とお姿を見られればそれでもう。 [映画館(字幕)] 7点(2011-07-14 09:57:19) |
974. ダメージ
人生至るところに落とし穴あり、ってな話で。「脇道のない人生なんてつまらない、そういう落とし穴こそ人生の楽しささ」なんてこと言う気楽な人もいるが、本当の落とし穴ってのはそんなもんじゃない、ただただぽっかり穴があいててズルズルと破滅へと追い込んでいく、そういうものがあるんだという、お気楽ものを戒める映画。「愛」と言うと気取りすぎ、「性欲」と言ったらミモフタもない、そういうときは「官能」といういい言葉があるんだけど、『ラストタンゴ・イン・パリ』のように官能の孤独に至るわけでも、『近松物語』のように官能の勝利に至るわけでもなく、ただ穴ぼことしてある破滅へのみ至る官能。ほとんど事故のようにそこに巻き込まれていく主人公。政治家としての堅苦しい生活から自由になるという解放としての恋愛ではなく、まったく別の官能の檻につながれてしまう、その閉じていく怖さ。文字通りの意味での、身を焦がす恋ってやつだな。その怖さと男の心理はよーく分かるんですが、正直言ってこの女がよく分からなかった。別に分からなくていい落とし穴への案内人としての役割りなのか。段落ごとの「さて」という感じのフェイドアウトが、フェイドアウトとはこう使うのだ、というテキストのよう。 [映画館(字幕)] 6点(2011-07-13 12:11:50) |
975. おとうと(2009)
《ネタバレ》 鶴瓶と吉永小百合の「合わなさ」ってのは、本当なら『男はつらいよ』における渥美清と前田吟の「合わなさ」みたいな組み合わせとなるはずだったろう。チャランポランと正論の対比で、寅シリーズの場合、その合わなさがお互いの批評になって、いつのまにか絶妙のコンビとなっていた。ヒロシの言う正論はもっともなんだけど、寅を介すると、その遊びのない正論が痩せたものに見えてくることがあり、そこにあのシリーズの広がりがあった。渥美と前田という全然違う個性がうまく対するようになれたのは、間に倍賞千恵子という緩衝材があったからかもしれない。SKD出身で浅草の匂いを残しているが立ち位置としては前田寄りの正論派に属している倍賞さくらの存在で、うまく機能できたのだ。そういう緩衝材抜きで鶴瓶と対さねばならなかった吉永小百合は気の毒であった。彼女が正論を述べると、それをやわらげてくれるフィルターがなく、白けてしまう。鶴瓶にしても、結婚式の場、その場が白けることを演じてるんだけれど、映画を見ているこちらも、そこに参加して白けてしまう。こちらもフィルターがないのだ。あらためて寅シリーズがうまく機能していたことに驚かされた。この映画でハッとさせられたシーンは、鶴瓶の部屋が大きな鳥籠になってるとこ。自由人としての彼の象徴でもあろうが、姉の家にあった鳥籠を思い出させ、姉への想いが言葉でなく状況で伝わってくる仕掛け、こういうところはちゃんとしている。それと崑への追悼が感じられたのは、出戻ってきた蒼井優が部屋へ上がっていくとき脱いだコートが襖の間に挟まるとこ、晩年の崑がサインのようによく描いた着物の裾を襖に挟むシーンの模倣をやってみたのだと思ったが、違うか。 [DVD(邦画)] 6点(2011-07-12 10:44:21)(良:1票) |
976. マルコムX
この監督は最初のころは、ホームドラマ的な部分に冴えを感じていたので、そちらを伸ばしてほしかったんだけど、ま、これはこれで熱気が感じられます。ただマルコムのカリスマ性みたいなものが、D・ワシントンだとあまり感じられないな。スパイク・リーが出ると画面がイキイキするんだけど、後半彼の出番がなくなったぶん生真面目になってしまった。対象化しづらくなったってことか。かえって面白いのは、彼がブラック・モスレムに入ったあたりのところ。現実なら一番人間味のないところがかえって面白く、悪友どもが笑ったり、狂ったかと言ったりする。師からの裏切り後こそ、一番マルコムいう人のポイントになるとこだと思うんだけど、そこがちと物足りない。まだ映画化するにはナマすぎる人物だったんだろうか。白人が『JFK』作ったんなら俺たちゃマルコムだ、って気合いが先行しちゃったって気もする。けっきょく穏当な人だったって結論ぽくなり、これじゃキング牧師と同じになっちゃうな。アメリカ映画の限界か。 [映画館(字幕)] 6点(2011-07-11 12:12:33) |
977. ボブ★ロバーツ/陰謀が生んだ英雄
徹底して頭で作った映画だけど、底には今の社会の「なんとはない嫌な感じ」があるから、アタマ倒れになっていない。架空の青年政治家という焦点を一つ設定することで、その「嫌な感じ」があきらかになってくる仕掛け。「ファシズム」とまでは言えないが「前ファシズム」的雰囲気。漠然とした保守回帰、清潔やプライドの強調、またカントリーソングってのがそういうのに合ってるんだ。ファンの三人兄弟が、ホンモノらしくて怖かったなあ。初めて会って緊張し切っている目つき。考えてみれば「ファン心理」ってのは「絶対希求」であって、もともとファシズムに流れやすい状態になってるんだろう。眼が澄んできてる。病院で立ち尽くす人々。テレビが批評的な役割りを期待されてたのが意外だった。日本だったら一番に流されるメディアだろうし、あちらではよく新聞がこういうときには出てくるんだけど。対話のインタビューワーが怒ったり、アホなテレビショーのキャスターが意外と固く拒んだりと、単純化していない。保守的に見える人物がリベラルだったり、若者が反動だったり(これが怖かった)。 [映画館(字幕)] 8点(2011-07-10 12:10:41) |
978. キートンの大学生
《ネタバレ》 晴れたカリフォルニアの字幕の後に雨の卒業式。青白きインテリの坊ちゃんといった優等生を喜劇の主人公に据えるところがキートンの世界。運動の害についてのスピーチをしていると体が前傾し、後ろの教授たちもそれにならって傾く。まったくどんな深読みも許されぬただ荒唐無稽なだけのギャグ、これが実におかしい。キートンにおける「姿勢」ってのはじっくり考える必要があるかもしれない。で彼がメアリーの心を捉える目的で、「スポーツをするために」苦学生として大学へ行くとこになる設定。野球をやれば一人でスリーアウトになる。陸上競技のいろいろが単発ギャグの連続で面白いけど、もひとつ盛り上がらぬということはあるか。円盤投げで自分の頭上に落ちてくるのではとビクンとする、とか、ハードルを全部倒して走り抜けるとか。ボートのコックス役でどんな出番を作れるのかと思っていると、人間舵になった。で恋敵からメアリーを奪い返すために、すべてのスポーツが繰り返されるという趣向で、走る走る、垣根を越え、物干し竿で二階に飛び込み、投げ、撃ち、撃退。ここらへんの爽快感がやはり醍醐味。結婚で終わるかと思っていると、その後の二人を墓場まで追っていく。一体これは何なんだ。なんという不意打ち、ギャグと言うには難解すぎます。それでいてひどくキートン的だなあ、という感じはするのですが。 [映画館(字幕)] 8点(2011-07-09 10:19:29) |
979. 迷子の大人たち
葬式で始まり結婚式で終わる、ってことでコメディ。豪華キャスティングはどれも狂気を秘めてる役者で、S・マクレーンのヒステリー、M・マストロヤンニの夢遊、K・ベイツは『ミザリー』の記憶、J・タンディは『鳥』の記憶、まっとうそうなM・ゲイ・ハーデンが息子ともども半分狂った役で、いわゆる「ちょっと風変わりな人々」もの。それぞれに見せ場を与えてあるため、それぞれに少しずつ物足りなさを感じる。心の傷を乗り越える勇気、ってのはアメリカが繰り返し描くモチーフで、アメリカ文化を構成している底辺なんだろう、みんな立ち直って人生を生き始める。一人の男の登場が、ドローンと淀んでいた女子どもたちを生き返らせるの。それも強い男ではなく柔らかい男ってのが、この20世紀末の映画なんだな。時代設定は60年代末なんだけど。アポロ月着陸も歴史になったのか、と当時は思ったものでした。メッツ優勝なんてのも向こうではもっとピンと来るんだろう。時代を表すのに歌は使わなかった。「ミセス・ロビンソン」以外。 [映画館(字幕)] 6点(2011-07-08 10:06:24) |
980. シシリーの黒い霧
前半はほとんど顔のない映画で、後半に至ってやっとピショッタが「登場人物」らしく登場する。ピショッタのほうがジュリアーノより印象深い。C級戦犯的悲劇というか。といってもそう善と悪が明確なわけではなく、ジュリアーノにしたって、最初はレジスタンスのようなスタートだったわけでしょ。村人の支持もあったわけ。村に軍隊が入ってくるシーンの緊張がすごい。街に太鼓が轟いて、人が水汲みに出てきて、銃声が聞こえてくるまでのワンカット。人が引っ立てられていって、街角を曲がるとずらっと兵士が向こうの果てまで並んでいる。あきらかに最初は「人民」の支持があったのに、メーデー虐殺事件などから怪しくなってくる。あのシーンの終わりのパンがすごい。死体や馬の影が長く伸びて。とにかくこの映画、影と言うか、黒の印象が強い。細くあけた窓のほかを全部黒が埋めてる感じ。ドアの隙間とか。正義の背後にある黒。信頼の背後にある裏切り。銃のすぐ脇から遠くを走るジープを捉えるなど、ドキュメンタリータッチのカメラが生きてる。 [映画館(字幕)] 7点(2011-07-07 09:55:03) |