81. 江分利満氏の優雅な生活
エッセイ映画とでも呼びましょうか。時代観察であります。恥ずかしさを軸にして。カルピスは恥ずかしいと言う。濃いとベトベトするし、薄いと山手線が池袋を過ぎ大塚巣鴨あたりを走っているときの索漠とした感じになって恥ずかしい。この手のうがった笑いは70年以降かと思ってたが、江戸時代からの笑いでもあったんだな。あるいは、ファックスが出来ない・口笛が吹けない、と自分が出来ないことを列挙していくあたり。出勤時の下着から順に点検していくあたりなんか喜八さんならでは。新婚時代を靴だけで見せたり、アニメの使用、舞台風のセットと楽しんでやってます。だらしのないサラリーマンの自画像だけど、この小市民の暮らしを断固守るという気概だけはしっかりある。徴兵制がなくていい時代だ、と思い、戦争中の張りつめた気持ちも悪くはなかった、などとは断固思わない。ふやけた小市民ではあるが、かえって「そこだけは頑固」ってしっかりと根が感じられる(平成の現代よりも)。母への想いがさらにそれを膨らませている。遺書を書いたときの気持ちを思うと泣けてくる、って。このあと作家山口瞳は傑作「血族」で母への想いを書き尽くすことになる。 [映画館(邦画)] 8点(2013-12-25 09:44:52) |
82. ウェンディの見る夢は
《ネタバレ》 夢の中に知らず知らず入ってしまってた、っていう仕掛けはあって、ラスト近くの運転手も含めた舞踏シーンなんかはある種の豊かな混乱が出てはいるんだけど、全体として「そつはないけど、それ以上でもない」っていうのの典型のよう。仕事仲間の連中のシーンが面白かった。仕事とられてちょっと嫌味なオールドミス。インチキで賭けをしては勝っていくの。庶民は自分にふさわしいささやかな夢で我慢しろ、ってな話にも思えてしまう。ロザンナ・アークエットさんは鼻がとんがりすぎてて、この人の顔見てると尖端恐怖症的不安を感じてしまう。 [映画館(字幕)] 5点(2013-12-24 09:41:00) |
83. 忠臣蔵(1958)
子どものころは師走になるとだいたいどこかのテレビ局で忠臣蔵をやっていた。ぼんやりとこの話の元は歌舞伎なんだろうとか思って親と一緒に見ていた。そののち長じて歌舞伎の仮名手本忠臣蔵を見ると、かなり違うのに驚いた。刃傷や城明け渡し、京での遊楽などの場はあるものの、映画で繰り返し見た細かなエピソードは全然なく(一晩での畳替えやら、赤垣源蔵徳利の別れやら)、忠臣蔵物語のネタはどこから来たものなんだろうと気になった。当時一番近いと思えたのは三波春夫の浪曲歌謡曲の世界で、映画はこういうのの寄せ集めなんだろう、と思い直した。ちゃんと調べたことはないが、それが近いのではないかと今では思っている。けっこう好きなエピソードは内蔵助が別の武士の名をかたって江戸へ向かう途中、本物と遭遇してしまうやつ。映画では大物をいつも起用していて、本作では鴈治郎だった。これ「勧進帳」をヒントにしてるんではないか。偽装がばれそうなトラブルと、それを「察してくれる」人情の世界、のヴァリエーションになっている。庶民の勧進帳人気で、ああいうのを一つ語ってみたいと講談師なり浪花節語りなりが思い、忠臣蔵を背景にこしらえた一幕が、スタンダードになっていったのだろう、そしてこういう忠臣蔵サーガが次第に結晶していった…、そんなふうに考えている。一本の映画として面白いとは言えないが、知り尽くしている物語に載せて、オールスターを見渡せる楽しさ(たとえば紅白歌合戦のような)が当時はあったと思われる。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2013-12-23 09:39:35) |
84. 埋もれ木
ユートピア的な町を描くって『眠る男』もそうだった。きっとこの人の原イメージなんだろうが、この人は原作が別にあってオリジナルシナリオでないほうがいいみたい。別の物語とぶつけたほうが、彼の中で展開があって、本人の原イメージもそれとぶつかり塩気を含んで膨らむようで。それがないとノッペリしたユートピア讃歌まがいのものになってしまう危険性がある。一つ一つのカットの確かさ、安定感はさすが。みな静かにしゃべる。雲がいちいち美しかったが、あれはニセモノね。移動する家。その影。音楽はアルヴォ・ペルト。この人は中世音楽のような響きの曲を作るエストニアの作曲家で、現代のクラシック作曲家ではかなり耳にするほう(ゴダールのなんかでも耳にした)。 [映画館(邦画)] 6点(2013-12-22 09:48:15) |
85. 哥(うた)
《ネタバレ》 旧家の重さ。家を守らんとする右翼気質の篠田三郎と、食い尽くさんとするニヒリストの兄弟。家に殉じ主人の命令には絶対服従の篠田が死んでしまっては面白くならないんじゃないか。あの気味悪さは生き残り続けなければならないと思う。もしかすると彼を肯定的に捉えてたのかな。脚本の石堂淑朗って左翼かと思うと右翼的だったりしてよく分からない人だった。「世間の噂にならなければ、いくらくずれていてもいい」って(ここの私のメモ、汚い字で「くずれ」じゃないかもしれないんだけど)。音楽「四季」が全然合わないのは『無常』のバッハからこの人のいつもの世界で、ウルトラセブン最終回でのシューマンのピアノ協奏曲なんてのもあった。あと女優の起用の趣味の悪さもあるか。今回は八並映子さん。 [DVD(邦画)] 6点(2013-12-21 09:38:55) |
86. ニキータ
フランス映画で「リアリティがない」って悪口はあんまり意味ないのかもしれない。どうもあの国のリアリティは、たとえばアメリカとは閾値に違いがあるようで、自由に出来る部分が広いみたい。ニキータ自身が大使になって大使館に入っちゃえるぐらい警備が手薄でもアリになるらしい。ベニスでの狙撃なんかも、ちょっと無理が感じられるんだけど、あの国ではかなりの程度まで嘘っぽさが許されるのね。そう頭ではフランスの伝統を入れていても、私がノレたのは最初の料理店の銃のプレゼントのあたり。ふんわかした気分が一転して三分以内の仕事の緊張にすりかわり、トイレの窓はふさがってて厨房での銃撃戦になっていく。あの程度のリアリティと嘘の配分が私にはいい。で恋人が絡んでくるのがまたフランス映画で、もたれるの。 [映画館(字幕)] 6点(2013-12-20 09:42:13) |
87. あさき夢みし
これは本当に美しい映画だった。スクリーンでなければ味わえないぎりぎりの暗さの美で、のちにDVDで再見したら全然違う映画のようになってたので、ここでは映画館で観たときの記録で書く。今様伝授の場。花ノ本寿と東野孝彦の烏帽子のシルエットのゆがみとか、ピン送りによる枝の撮影、膨らんだり縮んだりする感じ。外の宴の画面の上半分のにじみ。湖面のさざなみ。それを断ち切る舟の漕ぎ渡ったあと。こう書いていくと神経質っぽい映画と思われるかもしれないが、そういった神経質っぽい画像を塗り重ねることで、中世の宮廷の脱力感が出たように思う。勃興しつつある民衆の圧力への憧れもあるが、いまさら宮廷を飛び出す意志もない公家たち。その淀み切った気分が見事に美としてスクリーンに満ちた。志ん朝は定家のせがれをやっていた。偉大な父の跡取りの役。 [映画館(邦画)] 8点(2013-12-19 09:17:45) |
88. ドイツ零年
廃墟のベルリンをそのままセットで使うって、考えてみればずいぶん贅沢な映画です。露出の不安定さが変にリアル。ニュースみたいだからだろうか。突然カッと光があふれるショック。狭い室内ではカメラが人物を追いまわし、目まぐるしく往復する。父殺し以降の充実感がすごい。社会派ドキュメンタリーだったものに、不意に神話的な風が吹き込んできて、罪と救済のテーマが躍り出てくる。さらに子どもの孤独の描写、これは敗戦国に限らないかもしれない。いままでの登場人物たちに少年を拒絶させていくの。突如鳴り響くオルガン、ヘンデルのラルゴ。町並みにたたずむ人々。前半のヒットラーの演説と対照させる。しかし教会も救済してくれない。このラストの少年への密着がすごくて、淡々と戦後風景のルポやってたのが、グッと奔流に飲み込まれる。社会が悪いんだ、とは言えるが、なぜその報いがこの少年に集中するのか? そのシステムの由来は? なんてことを考えてると、神の問題に近づいてしまうのだった。 [映画館(字幕)] 8点(2013-12-18 12:33:14) |
89. いつも2人で
「ああここ来たことある」と不意に思い当たり、つられて当時の自分の周辺までまざまざと思い出されることがある。このシナリオはその感じからヒントを得て膨らませてみたのでは。ヨーロッパを車で移動中の現在の夫婦と並んで過去の彼ら、出会いのとき・アツアツのとき・危機のときの彼らも、ときに追い越したり追い越されたりしながら駅伝のように走っている。その楽しさ。これって広い意味での「意識の流れ」の話に分類されるんじゃないか。A・レネが小難しく『去年マリエンバートで』を作ったのとは違い、S・ドーネンはミュージカル監督の才を生かして洒脱にこしらえた。あちらは小説家ロブ・グリエによる脚本だったが、こちらは間違いなく映画の台本だ(フレデリック・ラファエルって人)。意識の流れって映画向きなんだ。記憶とか妄想の具体化って映画の得意分野。カットが代わると違う世界・違う時代に飛び込んでいるスリルを存分に生かし、過去の記憶に引きずられがちの夫婦の意識の流れを描いた。黒澤明は「映画はカットとカットの間にある」と言ったが、本作なんかその例証。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2013-12-17 09:52:24) |
90. 新・座頭市物語
一作目は平手造酒がいて天保水滸伝の時代。これでは天狗党が絡んできてずっと幕末も押し詰まったころの印象があって、時代的に見てどうなんだろう、そう不自然でもないのかな。よくわかんない。市が周囲にロウソクを立てて居合いをし、順番に斬れ落ちていき、居合いのわざよりもそれで暗くなるのがいい。師の娘坪内ミキ子は18歳ということになっている。カタギになります、地道な暮らしを立てます。とカタギに戻ろうとするアウトローが、でも戻れないというお話の設定。いいのは仇と狙う須賀不二男。やられる覚悟で市に向かう男気、カタギになろうとしている市を見てサイコロ勝負、半だった目をそっと四六の長に変えて「運のいい野郎だ」とか言って去っていくの。それだけじゃないんだけどね。 [DVD(邦画)] 7点(2013-12-16 09:55:53) |
91. ミュンヘン
殺す対象が、命令で示された人物であって、本当に「敵」なのか「悪」なのかどうか確信がもてない。殺された選手の記憶は激しく怒りを掻き立てるが、それとこれとを繋ぐ確証をモサドから与えられていない。一人一人は善い人に見える。千一夜をイタリア語に訳している知識人、よき家庭の父、殺しに無感覚になっていくってことより、やってることの確かさについにたどり着けない苛立ちのようなもの。それがテーマだったのかな。家に帰るための旅であったものが、祖国から逃げるための旅になっていく。ミルクの上に広がっていく血。後始末の男の秘密工作員っぽくないのが良かった。 [DVD(字幕)] 6点(2013-12-15 09:23:39) |
92. アタメ
オレンジとブルーのへんてこりんな色の組み合わされる世界。そのようにへんてこりんに進んでハッピーエンドになるってのがすごい。『コレクター』のように主人公の不気味さを見せ付けるのではなく、作者は主人公の夢を完成させてやるの。ヒロインの恐怖には関心がなく、主人公の愛の情熱に加担していく。彼の夢は「家庭を作りたい」が第一で、「女がほしい」じゃないんだよね。良き父親になりたいの。処方箋を書いてもらうとこで、子どもをあやしたりする。彼、孤独なんだけど「おれは孤独なんだっ」ってたぐいの自己憐憫がまったく感じられない。「おれは今一人だ、だから家庭を作ろう、そうだ、あの女優がいい」と論理的に・しかしあくまで一次方程式の単純さでつながっていく。縛らなくたっていいとおもうんだけど、情熱を表現したいのかな。歩く人の中をツーッと滑っていく人がいる、あの奇妙な感じ、けっこうこの監督のタッチと合っている。姉の歌とバックコーラスもいい。「この主人公、愛することに不器用で」ってんじゃなく、「愛ってこういうもんでしょ」と作者は確信しているみたい。困ったものである。 [映画館(字幕)] 7点(2013-12-14 09:59:24) |
93. 神の道化師、フランチェスコ
説教もあってセリフの多い映画なんだけど、サイレント映画見てるような気になる。画面の感じがそうなのか。水の音や、ライ病患者(ハンセン氏病ってよぶと歴史的な厚みが感じられず、ここではこっちを使わせて)のカランカランとたてる音など、トーキーならではの効果が随所にあるんだけど、サイレンとタッチなんだな。画面の組み立てのせいなのか。対象だけを素直に捉えて、凝ったことをしないと決めているよう。単純者ジョバンニ老人が出てくるとさらにいい。彼とジネプロとの、純朴を画に描いたような中世コンビ。宗教が権威を持ってくると、原点へ・単純へ戻りたがる傾向を持つんだけど、フランチェスコってそうなんでしょう。その体現がこの二人。単純はまた独善に傾きたがり、種が乱れ飛ぶ中で完全なる喜びについて実験する話も他人に迷惑を掛けるわけで、単純と独善は紙一重なの。その延長には魔女狩りもあるわけだが、この映画は単純が単純として輝くギリギリのところを捕まえている。修道女が訪れるシーンの野の晴れ具合・広さの感じなんかいいですな。迎えに行くほうをずっと見せてて、切り替えして向こうに木が一本立ってる緩やかな斜面をやってくる四人の修道女になるの。一番張りつめるのは、ライ病患者に会うシーン。カランカランという音がなにやら幽玄と言うか。疎外者であり異端者であり、しかしキリスト教をキリスト教たらしめている核になっている素材、と納得させられるシークエンスであったが、能の世界と通じ合ってもいるような。でラストぐるぐる回って倒れた方角へ、布教にそれぞれ歩いていく。この教団について何か説明しようという感じではなく、いい連中だ、と作者が思っているその気持ちが、観客として見ててやはりいい気持ちになる。すがすがしさ。この複雑になった世界で単純さを求めることは、ある意味必死であり、かつそれを成せればすがすがしい。青空の中の雲、雲、雲。 [映画館(字幕)] 9点(2013-12-13 10:14:24) |
94. シン・シティ
本作見てて木下恵介『笛吹川』でモノクロ画面の部分だけ色がつくのをちょっと思い出した。これでは血のみ赤だったり白だったり黄色だったりする。とても目覚ましいが、それだけで一本の映画の収穫とするのは、ちとつらい。映画は幻覚の一種なんだから、暴力衝動にゆだねきってもいいはずなのに、登場人物の幻覚という枠がないと、どうも気分が悪い、という発見も収穫であった。見た日の記録に「ほとんど彼と識別できなかったが、ミッキー・ロークは満足したであろうか」などと記していたが、こののち『レスラー』を見て、あんがい素顔がはっきり見受けられていたかも、と思い直した。 [DVD(字幕)] 6点(2013-12-12 09:18:49) |
95. 尼僧物語
カトリックの国の監督たちはかえって否定的な宗教観を持っており、フェリーニやブニュエルを見てくると辛辣な目でカトリックを捉えがちになる。本作もカトリック批判の映画ではあろうが、非カトリック国のせいか冷静に眺められ、貴重な映画体験になった。とくに前半の修道院の部分が素晴らしく、じわじわと周りを取り囲む重苦しさの描き方が圧巻。これはたまらんとすぐ逃げ出したくなるのではなく、こういう世界もアリかなあ、としばらくは様子を見ていられて、でもやっぱりこれはたまらんとなる感じ。この主人公の心のなかであれこれ計りに掛けてる気配が映画としての充実になっている。仕事上の工夫や成果への自足が「高慢の罪」になってしまう。わざと落第することを迫られ、それに疑問を持つと「神への疑い」。これは自伝小説か何かが原作になってるのか。だとしたら沈黙の戒律でたまっていた気分が一気に反動で噴出したのであろう。後半はいささか駆け足になってしまった。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2013-12-11 10:06:02) |
96. キング・コング(2005)
ふと思ったのだが、これポーの某代表作の拡大でもあるわけだ。開拓民であったアメリカ人にとって、いつか大猿(自然の象徴)に殺されるという根源的な不安があったのでは。「白鯨」の話も、つまり外部の自然への畏れだよね。アメリカ文学の始まりには、いつもそういう不安があった。「良い人だけど犠牲になる有色人種」ってのがアメリカ映画にはよく出てくるが、キングコングだってその線だったんだ。そして白人のみが生き残る。異界を安心して安全地帯から見ていた白人に、その異界が襲い掛かる。常に外で行なわれていた戦争のあとで、9・11が来た不安みたいなものか。記録し続けようとする監督の業が、ちょっと面白く、あれ拡大してみてもよかった。合成があんまり合ってなかったような。映画のリズムとしては、島の部分が長すぎた。 [DVD(字幕)] 6点(2013-12-10 09:47:22) |
97. 座頭市兇状旅
ライバル役棚倉の北城寿太郎って昔の大映映画でしばしばお目にかかるが、とくにこのころか、なんか三船の雰囲気をそっくり真似していてオリジナリティが出せなかった気の毒な役者さん、という印象。本人の狙いなのか、会社にそうしろと言われていたのか。階段のすれ違いでの殺気。初めて剣を合わせ、市の手に傷がつく、刀を収めた棚倉さんの同じところにも血がついている。せっかく市の弱点である鉄砲が出てきたのに中途半端な扱いになってしまったのが惜しい。村瀬幸子のお婆さんが手堅く、必ず凶行を導く祭りの夜ってのも間違ってない。 [DVD(邦画)] 6点(2013-12-09 09:37:00) |
98. 殺人カメラ
《ネタバレ》 ロッセリーニもコメディを撮る。悪魔が悪い奴を殺す方法を教える。宗教的に見れば「人に人を罰する権限はあるのか」となって、ロッセリーニのテーマとしてつながってはいる。高利貸しの老婆も遺言の中では善行を見せ、あんなに愛し合ったロミオとジュリエットも、跡継ぎとなればいさかいをする。この世、善人と悪人に分けてレッテル貼れるものじゃなく、みんなすまして写真撮ってるときのような滑稽な生きものではないか、いう話。階段の多い土地、いつもそこを歩かされるアメリカ人。偽の聖アンドレアの片足のコツコツいう音や、水の流れる音。ラストで生き返ったってのが、声で分かる仕掛け。ロバもね。なかなかユーモアのセンスのある人だったんだ。挙手のままの棺とか。主人公、世の中はこうあるべきだという考えを漠然と持っている庶民なの。いい顔してる。 [映画館(字幕)] 7点(2013-12-08 09:26:40) |
99. 昼下りの情事
これは父一人娘一人の西洋版『晩春』でしょう。娘の「恋を恋する描写」や、背伸びした微妙な揺れ具合などにかなり割いてはいるけど、ずっと底に流れているのは父離れが出来ない一人娘を持った一人親の父の気持ち。「もちろん娘の幸せを第一に考えている、娘がこれと決めた男と一緒にしてやりたい」と思っているだろう父に、こんな相手でもか、と最悪のケースをあてがってみた話だ。娘の弾く楽器がチェロで、これはまさに父親的な楽器、それを抱きかかえるように練習する。ファーザーコンプレックスそのもの。だから現われる男は父親世代のゲーリー・クーパーでなければならず、哀れなボーイフレンド・ミシェル君は、女性的なフルートを吹いている。勝てっこない。娘が片付いたあと、駅からチェロを運び帰るのは父親の役割りになる。映画としての楽しみは、ジプシー楽団が傑作で、ホテルの部屋の隅で演奏してるだけでなく、湖上ではボートに乗り、そしてラストの雨のホームで決まる。酒が部屋のなかを行ったり来たりする場面もいい。リアルなラヴストーリーではなく、薄汚い仕事をしながらも娘を大事に養う「父」というものの覚悟を描いた映画と思いたい。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2013-12-07 09:30:42) |
100. わが心のボルチモア
移民の家族史もの。ファミリーの団結が次第に衰えていく哀感。難しい名前クリチンスキーがケイになってしまう。七面鳥を切るのを待てない兄弟は喧嘩になり、そして次第に訛りのないアメリカ国民になっていく。少年が火事のときの告白をするあたりが一番いい。その勇気を祖父が促し、父が褒める。しかし実は…、って話。時代風俗を出すのは大変だったろうが、いちいちパパが息子に古い車を指さすのは、なくもがな。もっとさりげなくていいんじゃないか。昔の話をするときは8ミリふう。みんなでテストパターンを凝視するテレビ事始めも面白い。市電の事故が笑える。いい映画だがもうちょっと冒険もしてほしかった。目新しさがあまりない。傷つかない場所から眺めたアメリカ史。正しいアメリカ人へのなり方。 [映画館(字幕)] 7点(2013-12-06 09:57:51) |