1301. フォー・ウェディング
《ネタバレ》 原題は「4つの結婚式と1つの葬式」と、せっかく興味を引くようになってるんだけど。とにかく労働の匂いが全然しないのに、リアリティが出るのはイギリスの風土のすごさ。「ハレ」の場の話だけで、一本の映画が成立しちゃう。人間関係の描きかた、とりわけ前半のうまさはじっくり堪能。仲間うちのいい感じに満ちた。だから下手すると退嬰的になってしまう話なんだが、どこか溺れていない・距離を保っているのが、英国映画の紳士ぶりなとこ。ラストの稲妻の一閃は、恋を語るのか、不安を語るのか。面白かったんだけど、ヒロインのアンディ・マクダウェルって、あんまり喜劇向きじゃないのよね。どこか神経症的なところがあって。あるいはイギリス人から見たアメリカ女性って、こういう感じなのだろうか。ずっと黒を着てたフィオナは、オレンジを着、ラストでとんでもない人と結ばれる。こういうギャグ、日本じゃできない(単にやろうとしないだけか)のが悲しい。 [映画館(字幕)] 7点(2010-08-18 09:52:59) |
1302. 野ゆき山ゆき海べゆき
スカッとはいかないのである。お昌ちゃん奪い返しても、最終的には勝てっこない。白塗りの異形の子どもたちが大人どもをコロがしても、最終的には勝てっこない。そこでスカッとはできない。そこのところをこそ訴えたかったのかも知れないけど、どうもやっぱり空しさのほうが先に立ってしまって。悲恋物語の額縁が作品を窮屈にしてしまった、というか、伸びたかも知れないものを断ち切ってしまった、いう感じがした。一つ一つのエピソードが発展しきらないうちにしぼんでしまうことと関係があるのかも。戯画化された人々の動き、おもしろい面が出ているところもあれば(たとえばロクボクの前での歌舞伎ふう立ち回り)、失敗しているところもあり(先生)、実験をしたという評価どまり。いかにも良識人風の三浦友和の父が、コンコンと日本の「進出」を説明するところは、時代の雰囲気が出ていて良かった。文部省唱歌ミュージカル的試みは、かつて『二十四の瞳』もあるが、まだ可能性がありそう。白黒版。 [映画館(邦画)] 6点(2010-08-17 09:53:27) |
1303. 四川のうた
スクリーンで観たら、きっと陰影がすごくきれいなんだろうなあ、という屋内場面が多々あり。とりわけ廃工場のあれこれ、窓ガラスが落ちたりするあたり。ラストの若き女性バイヤーインタビューのかげりゆく屋外、もしかするとカメラのほうで操作してるのかも知れないけど。インタビュー形式で俳優に再現させる、という試みが、こちらは字幕を目で読むせいか、あまり意図が伝わらなかったが、無視して本人と思って読み続けた。皆けっこうドラマチックなストーリーを語っている。でもそれを映像で再現したら、押しつけがましくなったのだろう。語りに徹することで、それが濾過され、過去であることが強まった(小川紳介の『古屋敷村』も、語りに耳を傾ける映画だった)。そこで大きな「右肩下がり」の世界が見えてくる。いま中国はやたら右肩上がりという印象だが、その上昇の下には圧迫され廃墟化していく人々の暮らしもあるわけだ。日本でも60年代にドキュメンタリー映画の隆盛期が訪れるが、上昇部分とそれに踏みつけられる部分がクッキリしてくる時代、今の中国がちょうどそれなのか。時代の歌が随所にはいる。山口百恵のドラマ主題歌も革命歌も、懐メロとして同列に扱われる。 [DVD(字幕)] 6点(2010-08-16 09:53:42) |
1304. 映画女優(1987)
冒頭の『不如帰』の、頭が上がってくるところは美しかった。ゾクゾクさせられた。過去のフィルムの骨董的美しさというよりも、モダンな現代美術として蘇ったような効果。しかし本筋に入ると、もひとつ乗り切れないところがある。いつもながら室内の暗さは美しいし、カットごとに人に移っていくそのリズムの心地よさは申し分ない。一番ドキドキしたのは、溝口の読み合わせのシーンでしたか、なんだなんだという絹代の戸惑い、消されていく黒板のセリフ、ステージ以外の周囲に広がる暗がり、「田中さん、…です」の繰り返し、こういう畳み込んでいく感じは素晴らしい。ただ吉永小百合、短いカットだと映えるんだけど、ちょいと太いとこを見せる場面になると、無理が目立っちゃう。うまいヘタの問題というより、質の問題なんだろう。そこらへんでどうも乗り切れない。この監督はポカーンとしたとこ撮るといいんだよね、セリフのあるドラマ部分よりも。よそ見をしながらビールを飲んでるとことか。上原謙はコントラストの強い場面で、ほんのちょっと出るだけ。清水宏役の渡辺徹は、体格で選ばれたキャスティングでしょう。 [映画館(邦画)] 6点(2010-08-15 09:42:21) |
1305. 119
前作との比較で言うと、前作は山・本作は海、ってことが一番気づくが、前作は都会生活者・今回は地方の人、ってことのほうが大きかったかも知れない。この人は、侘しさからおかしみを取り出すのが趣味みたいで、前作はそれがうまくいった。ただ今回は、もともと侘しい地方を舞台にしているので、その侘しさがユートピア的なイメージで覆われ、ちょっとじかに触れられなくなってしまった感じがある。侘しさが剥き出しになってくれない。そこらへん物足りない。久我美子に小津調で語らせるギャグ。わっと子どもが走り抜けていくと、そっちから赤井英和がかけてくるシーン(ここらへんは寅調)。完全にうつ伏せに倒れているマルセ太郎。本当はラスト、退屈したカットのとき、向こうの窓を消防車が動き出すところを一緒に映したかったのではないか。 [映画館(邦画)] 6点(2010-08-14 10:03:11) |
1306. 野いちご
「お前のベストワン映画は何か?」と尋ねられたら「いろんな方向でのベストワンが十数本はあり、とうてい1本に絞れない」と答える。しかしそこで出刃包丁を突きつけられて「これでも選べない?」と畳み込まれたら、たぶんさして迷わず本作を挙げるだろう(でも決して人生の最後に観たい映画ではない、最後に観るならMGMミュージカルかキートン)。初めて観たのが若い多感なときだったせいか、こころにじっくり沁み込んだ作品。その沁み込み具合は、半端じゃなかった。作品中で主人公イサクが、サラに鏡を突きつけられるシーンがあるが、まるでスクリーンが鏡となってこちらに突きつけてきたような映画であった。人の世のわずらわしさから逃げようとしたものの受ける罰。前半の回想で、サラがイサクへの想いを語っているのを、心地よい回想として眺める階段の場の老イサク、しかし中盤の夢で、彼はサラに裁かれる。サラ夫婦の家庭を窓越しに眺めるイサクの孤独。バッハの平均率の変ホ短調のフーガ。サラたちのように生きたい、しかしそう思う人間はそうは成り得ない、という絶対の壁がこの窓にはある。そして重ねて裁きが続く。イサクの孤独は、彼がそうしか成り得ない人間であったということじゃないか。そういう厳しい認識の果てに、ラストの回想が来る。この釣りの図の見事なこと。これは一人称の映画であり、登場する人々は主人公と照らし合わされるためにのみ存在している。そういう厚みを持てない構造が生かされ、その構造によって深くえぐりこめた作品だろう。 [映画館(字幕)] 10点(2010-08-13 09:56:54)(良:1票) |
1307. スピード(1994)
《ネタバレ》 質より量のサービス精神。『ダイ・ハード』みたいに「シナリオ練った」というより、「詰め込んだ」って感じ。犯人もデニス・ホッパーのキャラクターにおんぶしてるだけで、シナリオ上の魅力に乏しい。でも詰め込んであるのは認める。チンピラが勘違いして運転手を撃っちゃう展開。乳母車、十分にタメて不安を掻き立ててから空き缶を空中にパッと撒く。高速出口を突っ切る爽快感。急カーブで乗客をオモシにする。などなど、次々とアイデアが疾走していって楽しい。映画としての手応えはやや薄いが、このサービス精神はメデてやりたい。アメリカ映画では、自分だけ助かろうとする人は絶対に許さないのね。「自助論」の国でありながら、抜け駆けには厳しい。開拓時代の集団生活の名残なのか。 [映画館(字幕)] 7点(2010-08-12 09:41:25) |
1308. ウホッホ探険隊
乗り物がいっぱい。船、父と家族を結ぶ(隔てる?)大きなのから、夫婦あるいは恋人同士を乗せる小さなのまで。さらに家の中にも波の揺れる置き物つきの模型。飛行機もラジコンのおもちゃに本物がかぶさる。車が走る回りをカメラがまとい付き、ときに後ろから乗り越えて前にさかさまに回り込んだりする。だからどうだっていうものじゃないけど、作品の「家庭」というテーマを小さく固めないように揺さぶってたって感じ。この家の上には不吉な月が始終かかってて、いや、不吉っていうより何か薄い印象か。青空も同じで、手応えの薄い感じ。ただそういう「感じ」ばかりが先行し、作品の手応えも「薄く」なってた。ま、それが現代なんだって言えばそれまでなんだけど。ちょっと凝りすぎてて、でもあんまり効果のないいろいろのシーン、顔洗うとこを水中から撮ったり、冷蔵庫の中にカメラを収めておいたり、そういういろいろ、やらないよりはやったほうがいいのかも知れないけど、どうも単に意表を衝くってこと以上の、映画の興奮には至ってなかったように思う。 [映画館(邦画)] 6点(2010-08-11 09:54:11) |
1309. 空気人形
《ネタバレ》 最初は「人形の家」を人形で描く現代版か、と思っていたが、もっと広がって現代人一般の空虚がテーマらしい。心のうつろさ・常に誰かの代理であるむなしさ、みたいなもの。それは何となく分かるんだけど、広がりすぎて焦点を結べなかった印象も残る。周辺の「いろどりの人々」が、ちょっと作者の「ひとり呑み込み」的で、とっ散らかった感じになった。個々をもう少し明晰に描いてくれてもよかったんじゃないか、こっちの集中力が弱かったのかも知れないけど。他人に息を吹き込むことと、ろうそくの火を消すこと(生まれたことを祝うこと)という二つの息吹が重なるラスト。心の空虚を互いに満たし合おう、といったメッセージを読み取れる。青年が何の迷いもなく空気人形を受け入れるとこは感動した(破れの修理)。しかし、ビデオ店の店長(人形であることにも気がつかない)や、もとの持ち主(心を持ったことに戸惑う)との対応の違いに、ファンタジー内のルールがあることはあるらしいが、そこらへんがもひとつクッキリしてくれない、どうもルールを十分呑み込んでないスポーツを観戦しているようなヨソヨソしさが、最後まで残った。空気を注入されてあえぐ、ってのでは『田園に死す』の春川ますみの空気女のほうが先輩、あれもよかったなあ。 [DVD(邦画)] 6点(2010-08-10 09:56:59) |
1310. 落葉樹
作者が取り乱している。息せき切って取り乱している、それを隠そうとしてない、それが良かった。大の大人が「おかあさん」と口にするときの、もうハニカミも何もないみっともなさを思い切って肯定してしまうところに、この作品の立地点があるようなのだから。小林桂樹はかつてテレビで山口瞳の「血族」をドラマ化したときも、母を思い出す初老の男を演じた。たぶん同じ原作者による映画『江分利満氏の優雅な生活』の小林を引き継ぐイメージでキャスティングしたんだろう。でもこのころの小林はかつてのヒョウヒョウよりも深刻な演技をするようになっていて、「血族」原作のハニカんだニュアンスはゴッソリ失われてしまっていた。しかしこの新藤作品では、その深刻ぶりが、かえって生きたようなのだ。照れながら語ってくれる山口瞳のような人もいてほしいし、こう取り乱して語ってくれる新藤兼人のような人もいてほしい。『江分利満氏』の小林桂樹と『落葉樹』の小林桂樹と、演技の変化に合ってうまく出会えたそれぞれの作品という気がした。前半、ほとんど民俗学の教育映画じゃないかと思われるような静かな家庭の風物のあれこれが描かれ、そこから一人ずつ葉が落ちるように家族が減っていく。コウモリ追い、狐火、夏の海、おもちゃを買ってとねだる…、などの記憶が淡々と綴られていく。その淡々の中に母を思う気持ちが、取り乱さんばかりにうねっている。社会派新藤監督作品としては異色作だが、けっこう好きです。 [映画館(邦画)] 7点(2010-08-09 10:35:51) |
1311. 恋する女たち(1986)
学園もの、初恋もの。こういうのは最初は己れの周辺の話として観ていたものだが、やがてある段階から「最近の若い子たちはこんな感じなのかねえ」という気分で観るようになっているのに気づき、シミジミさせられる。この時代ぐらいになると、もう親の呪縛からは完全に解かれていて、その世代だけの物語となる。そのぶん大人の絡むシーンはだいたい不調。現実の反映なのか、理想としてなのかはよく分からないけど。見つめるだけの禁欲的な憧れの世界。オタカさんは窓から野球少年を見つめ、少年は図書室でオタカさんを見つめ。喋れば思いばかりが先に立ち、口がまわらなくなり、あるいは心が後ろに引っ込んで、字幕となって悪態をつく。学園の青春は不変です。「野球好きなの?」「ヤクルト」「飲み物のこと言ってんじゃないのよ」「!?」で思いがばれちゃうなんてとこ、おかしかった。自分の思いを隠そうとするヒロインてのが、不変の味わいなんだろうなあ。地方都市のなんかシマッテない感じが良い。 [映画館(邦画)] 6点(2010-08-08 10:40:11) |
1312. あなたに降る夢
キャプラタッチかもしれんが、どうも流れが澄み切ってくれない。主人公がチップの約束を守る、いうとこにいかにリアリティを与えられるかが勝負どころだろうが、成功してるとは言いづらい。妻の反応も、すぐ悲鳴を上げるのではなく、最初は笑い飛ばしてて、しだいに、本気なの、と変わっていくべきでは。ウェイトレスのほうにしたって、もっともっとからかわれてると心配すべきで、アイスクリームを振舞うのは早すぎる。その最初の仕掛けの部分の説得力が弱いので、しっかりと話が根付いてくれなかった。後も、もっと善意の行為に絞るべきであって、地下鉄をタダにするのはイヤミでしかない。この手の映画は好きなんだけど、ピタリと決めるのは難しいんだなあ。 [映画館(字幕)] 6点(2010-08-07 09:50:27) |
1313. 男はつらいよ 幸福の青い鳥
《ネタバレ》 ポンシュウがコンピューター運勢ってのをやっていた。思えばこのシリーズでのテキ屋の商売の変遷を見ると、昭和後期の時代相が浮かんでくるかも知れない。で、そこで示された方角に行くと古い小屋。劇場の男とのしみじみした会話、ここらへんのうらぶれた感じを出すのはいつもながらうまい。東京の歌舞伎が来た日にちをソラで覚えている。で座長の娘さん。なんか大河ドラマとしての『男はつらいよ』を感じてしまった。ここらへんまでは味わいがあったが、東京の話になっていくと、やや弱い。トラがラーメンの配達をして店の前を通り過ぎていくあたりは笑った。区役所での「あなたの声を聞かせてください」もおかしかったが、あんまりこの監督の持ち味ではない。ギャグのような風刺のような中途半端さ。笑ったけどね。満男君が微妙な年頃になっていて、家族の者たちを無視したりするようになる。全体としてもとらや離れという感じがあった。若い二人だけのシーンの比重が増していたよう。こういう形式で何か新しい展開を模索していたのかもしれない。でもけっきょく志穂美悦子でなければならないってものがなかったのがイタイ。そういうものをマドンナ役者から引き出すのが、このシリーズの魅力だったのだが。 [映画館(邦画)] 6点(2010-08-06 10:23:06)(良:1票) |
1314. ボーン・アルティメイタム
《ネタバレ》 巨大な組織と個人の対比を見せるためにこのシリーズがしばしば採用するのは、監視網の中で逃げ切る主人公。同じような趣向の繰り返しではあり、CIAがマヌケに見える ギリギリの線なのだが、サスペンスとしては楽しい。本作では、ウォータールー駅のシーン。携帯で指示を出しながら、ボーンと記者が動き回る。へたなアクションよりも、映画の楽しみが満ちていた。そこでしゃがんで靴の紐を結び直せ、とか。周囲に配置されたカメラの目と、個人とのかくれんぼ。敵が潜んでいるかも知れない群衆だが、そこに隠れることもできる群衆の海。終盤、アメリカに帰還してからは、CIAのオフィスががら空きとか無理が目立つが、その「いよいよアメリカに帰ってきた」という舞台設定自体が、「大詰め近し」のワクワク感を盛り上げてくれているので、許そう。シリーズ全体としては、マリー、ニッキー、パメラと、主要女性キャスティングにハリウッド的美人をいっさい排除した姿勢がよろしい(M・デイモンに合わせたのか)。どれも「美人」としてでなく「顔」としてインパクトがある。ラストのニッキーの笑顔なんて、アン・ハサウェイだったらちっとも効果なかったでしょ。 [DVD(吹替)] 7点(2010-08-05 09:42:07)(良:1票) |
1315. 日曜日のピュ
イングマールの息子、ダニエル・ベルイマン監督作品だが、脚本担当の父の匂いが漂う、とりわけ『野いちご』。神の沈黙と湿疹ってのは『冬の光』にもあったモチーフだが、キリスト教に何か象徴があるのかなあ。孤独という罰、周囲に息苦しさを与えてしまう性格、息づまる家庭…、ただそれを少年に観察させたことによって、柔らか味が出た。父と子の不和と和解というテーマより、あくまで父を観察するものとしての子ども、というテーマ。つまりイングマールとその父の物語に、イングマール-ダニエルの親子が重なって、一興。『野いちご』が幼年時代の記憶にひたって幕を閉じたのの裏返しのように、この作品は終わる。そこが救いのような、甘さのような。『野いちご』のイサクに対するほど厳しく裁いてはいない。それでも息子を愛していたのだ、そういう形でしか息子を愛せない父だったのだ、っていう了解があり、それを子どもも知ってやる。せがれに対する贖罪のシナリオなのか、弁明のシナリオなのか。うまくいってない夫婦の会話を書かせると、この人はいくらでも書けるのね、どんな人生を歩んできたのやら。父と子の間にいい感じが出るとバッハが流れ出す。とりわけ朝の湖の場が美しい。あいかわらず、時計への偏執。どうしたってイングマールの映画という印象だ。かつて『冬の光』が公開されたとき、併映で『ダニエル』という短編も公開された。このダニエルの幼年時代を撮ったホーム・ムービー。そこではモーツァルトが流れていた。そして「たえず人と触れ合おう」というようなことが語られた。孤独な父の道を歩むな、といういましめの映画でもあったのか。あの子がこう、お父さんのシナリオで映画を撮るまで大きくなったのか、と時の流れに素直に驚嘆させられる。 [映画館(字幕)] 7点(2010-08-04 10:23:27) |
1316. ボーン・スプレマシー
《ネタバレ》 製作会議では以下のような会話が交わされたのではないか。「今回は一匹狼を前面に出しましょう」「だとマリーが邪魔になるなあ」「開始早々殺しちゃえばいいんですよ、すると復讐のドラマにもなりますから」「でもボーン自身殺し屋みたいなもんだろ、正義の復讐って言ってもなあ」「それなら釣り合いを取って、彼の贖罪の旅を重ねればいいでしょ」「なるほど、深みっぽくなるなあ」「舞台はどうする」「前回が女連れの花のパリでしたから、もっと寒色系の街がいいですな、いかにも女っけに乏しい都市、ベルリンとかモスクワとか」「あ、それ両方いただき」「じゃあ冒頭でマリーに消えてもらうのは、反対に暑い街ですね、インドのゴアあたり行っちゃいますか」「ヤマちゃん、今日冴えてるねえ」、…などといった感じであったろう。アレキサンダー広場のシーンは、もっと面白くできそうだったが、その禁欲的なところがこのシリーズの魅力なのか、とも思わせられてしまう。それなりにドキドキした。カーチェイスっていつもはだいたい退屈するものだが、今回のモスクワはけっこう引き込まれた。こちらの車にパトカーが横からぶつかってくるのを車内から捉えたところの、驚きの効果と迫力。それと望遠で覗きながらのパメラとの電話、ああいうシーンはドキドキさせる、「ニッキーならあんたの隣に立っている」。黒澤の『天国と地獄』で、捜査員一同がパッと窓の視野から隠れて身を伏せる名場面を思い出した。見えない相手と耳元の声とのギャップから来るスリル。 [DVD(吹替)] 7点(2010-08-03 10:07:35)(良:1票) |
1317. 依頼人(1994)
グリシャムものでは、映画に向いていたほう。アメリカ映画の基本である「正義を行なう勇気」の話なんだけど、おそらくこの国ぐらい「法」というものをあれこれ考えているところはあるまい。かつて「無法時代」がそう遠くない過去にあったからだろうか。法というものの光と影について、社会として常に考察してるなあ、ということが、こういう娯楽作品を観てもひしひしと感じられる。そのことが国の成熟を意味するのか、未成熟を意味するのかはわからないけど、法を絶対視する社会よりは健全だろう。依頼人個人を助けることと、しかしそのことが悪人を助けることになってしまってはいかん、いうところに緊張がある。少年を馬鹿にする警官の存在などがいい。たしかに眼目は弁護士と検事のチョーチョーハッシだろうけど、悪人をもう少し魅力的にしても邪魔にはならなかったのではないか。 [映画館(字幕)] 6点(2010-08-02 09:45:17)(良:1票) |
1318. ボーン・アイデンティティー
《ネタバレ》 映画を見始めるときってのは、他人の生活の中に途中から割り込んでいく訳で、周囲とのやりとりや会話から類推し、次第に状況やら主人公の立場なりを理解していくことになる。つまり記憶喪失者と似たようなものなのだ。不意に記憶喪失者として登場する人物こそ、映画の主人公としてもっとも理想的ということになる。観客は一体感を持って主人公に寄り添える。だからCIAの登場はもっと展開した後でも良かったんじゃないか、とも思うが、相手の巨大さを最初から印象づけたい気持ちも分からないではない。また女性観客にとっては、巻き込まれるヒロインが重要人物として手配されるあたり、心地よく感情移入できるのではないか。グダグダした日常から、CIAに謎の女として手配されるまで格上げされる。実際には「問題の女」になることはできなくても、これぐらいなら人生に起こり得るかも、って。セリフも練れていて「忘れっこないだろ、君しか知らないんだ」なんて主人公に言われるのも心地よい。そのお返しのように、逃げよと言う主人公に対して、彼女が黙ってシートベルトを締めるシーンがある。アクションは、階段落下のシーンあたり微妙だが、やたら派手なドンパチが多い昨今のなかでは、そのノワール調に好感が持てた。一匹狼のストイシズムを優先している。 [DVD(吹替)] 6点(2010-08-01 09:55:45)(良:3票) |
1319. 海と毒薬
《ネタバレ》 成田三樹夫や岸田今日子という配役が実はちょっと心配だった。モロ悪人・モロ非人間って感じの造形になってるんじゃないか、と。しかしさすがいい役者はフトコロが深い、ズルズルとああいうことやってしまいかねない環境をじっくり再現する部分としての役割に徹し、個人の問題を越えられた。あたりに瀰漫している死。大きい動きに翻弄されて、責任もその大きなものに寄りかかっていれば消えていってしまう気配。言い訳が準備されていれば・別の責任者がほかに用意されていれば、人は大抵のことは何でも出来ちゃうという怖さ。本来善なる目的を持った集団が、狂気をはぐくむ。そこへ向けて凝集している作品になれた。人を生かすための手術では死なせてしまい、人を死なせるための手術では、その心臓の強靭さに素直に感動する空気がみなぎる。ここらへんの皮肉。そしてラストのキモ。日本人がキモと発音するときの精神主義の厭わしさが重なって、私は単なるブラックユーモアを越えたと思った。 [映画館(邦画)] 8点(2010-07-31 10:09:44) |
1320. 母なる証明
《ネタバレ》 母の周囲は克明に描かれる、それ以外は曖昧渾沌。その曖昧渾沌に対して母は挑戦し、ある種の充実に包まれる。探偵の興奮、忍び込みの冒険、発見と推理、この充実の果てにたどり着いた野が映画の冒頭シーンだ。この映画驚かすところは多々あるが(被害者の奇妙な姿勢、不意の鼻血、話の思わぬ展開…)、この冒頭はかなりびっくりした。普通の実写シーンの背後に音楽が聞こえてきて、それに合わせて踊り出す、ってのは、ミュージカル映画でダンスに入る瞬間のスリルそのもので、日常から非日常へのジャンプするあの興奮がこう使われ得るとは思わなかった。ミュージカルでは平凡な日常から、たとえば恋を歌い上げる非日常へとジャンプするわけだが、ここでは探偵の充実した時間から、非日常へジャンプした空虚を描いていたと後で分かる。母と子と立場が逆転してしまい、あの充実が抜け落ちていく、「しっかりしなきゃ」という心構えが必要なくなってしまう。そして罪の重さだけがのしかかってくる。あのラスト(併走する車から撮影し続けたのか)、本当に達成できるのかどうか定かでない忘却へ向かって、非日常を疾走するダンスで締められると、なんか物語としてはスッキリできなくとも、映画としてはきれいに決まったな、と得心させられてしまった。被害者を街から丸見えの場所に置いたんだよ、と悪友が推理するあたり、そういう方向(社会の悪意)に話が収斂していくのかと思ったのだが、そうでもなかったみたい。あの夜景のカットはかなりゾクゾクしたんだけど。 [DVD(字幕)] 7点(2010-07-30 10:14:41) |