1341. 夢(1990)
《ネタバレ》 1話の「狐の嫁入り」と4話の「トンネル」が好き。傑作だと思う。しずしずとした行列とキッと振り向く顔の動きのコントラストは、ほとんどすぐれたミュージカルの気合いになっている。あるいは黒澤の能の趣味と関係があるのか。能と言えば「トンネル」の構造はまったく能そのもので、主人公が迷いを残した亡者に出会う形式を取っている。主人公がとうとうと語る弁明と、無表情な兵士たちの沈黙の切り返し。この無表情の沈黙が重い。主人公の弁明をそのまま受け取ったとも思えず、それならいっそ激して言い募ってくれればいいのに、彼らは無表情の帝国陸軍兵士のままトンネルの奥に消えていく。しかし代わって犬が牙を剥いて吠えついてくる。兵士たちの無念さの塊りが、この犬に凝縮されているよう。この映画は異界のものたち=自然界との接触が一つのテーマだ(だからほとんどが屋外の話。ついでに言っとくと、ここのところ三作品『影武者』『乱』とこれは、すべて大きな門から外へ追放される場面が共通する)。その異界の威嚇と異界への謝罪と。狐であり桃の木であり、そして死者の代理をする犬。かつて三船敏郎が演じ続けたような強い意志を持つ人物の登場しないこの映画では、ひ弱な主人公が異界の自然界に恐れを抱きながら遍歴し、ひそやかな嫁入り行列からにぎやかな葬列に至る。たしかに後半は意見表明が剥き出しになっていて映画としては弱いのだが、根っからの映画人であった黒澤さんをここまで切迫させたものに思いを馳せたい。 [映画館(邦画)] 8点(2010-07-09 12:04:08)(良:1票) |
1342. シリアル・ママ
《ネタバレ》 模範的家庭をパロディにする、ってのもアメリカ映画の重要なジャンルか。しかもだいたい朝食シーンから始まるんだ。模範的にパチリとハマリすぎていることの気味悪さに敏感ってことか。中流アメリカは市民社会として安定してるがゆえに、その「市民」が成り立っている「きわどさ」にも敏感。市民であることの面倒くささ、シートベルトを締め、ゴミを分別し、借りたビデオはちゃんと巻き戻し、そういうあれこれの些細な厄介さの上に、市民社会は存立している。殺人が徹底してないのが不満、やはりこれは「公共的正義」のみにおいて狂うべきで、個人的なもの(学校の先生とか)が入ってくるのは不純。もっと分別をしっかりしてほしい。シートベルトを締めない男を追いかけるときには、ちゃんとシートベルトを締める。「あなたはリサイクルしてましたか?」ってのが裁判の決め手になるのが、当時のアメリカ社会の皮肉になってるよう。「正義」という保証を与えられた狂人が一番怖いという話。火掻き棒で刺すと肝臓がついてくる。 [映画館(字幕)] 7点(2010-07-08 11:54:47) |
1343. アイ・ラブ・トラブル
《ネタバレ》 20世紀末、アメリカ映画は一本の作品を一つのジャンルだけで統一できないようになってきつつあり、ブン屋の取材合戦もの、というアメリカ得意のジャンルが、後半ドンパチに移る。そこにどうしても断層を感じてしまう。前半はいいのよ、だまし合いの楽しみ、リフレッシュとフレッシュと。でも観客ももうこういうのだけでは物足りなく思うようになっているんだろうなあ。サービス精神と思って納得しよう。この手の映画は後から考えると犯人の側の行動にヘンなところ・つまりもっと簡単にやれそうなのに大袈裟にしてしまってる、ってのがいっぱい見えてくるもんで、なにもわざわざ列車を転覆するまでも、とか、わざわざエレベーターを停めたり面倒なことしなくても、とか思ってしまうもんだけど、これもみんな親切なサービス精神と思って感謝しつつ観よう。 [映画館(字幕)] 6点(2010-07-07 11:55:43)(笑:1票) |
1344. 風の丘を越えて~西便制
《ネタバレ》 典型的な芸道ものなんだけど、新鮮に感じた。神話的な旅芸人を、素直に現実の中にはめ込んでいる。一族だけの至福感は、もう田舎道をやってくる長回しのシーンで満ちている。ここは本当に神話から抜け出してきたような雰囲気がある。一族の宴。けっきょくこれが彼らが一緒にいられた最後の時になるわけだけれども。このあとは、歌ってるとベサメムーチョの楽隊に音は消されていく。没落感覚。薬のPRしたり、お酌させられたり、兄弟弟子は麻薬に溺れていく。美しい文字絵も流行らなくなる。映画はただただ滅びる側に寄り添って、現実の中に埋没していく神話を記録していく。で失明。彼女が盲目になってからの風景描写は一段と凄味を増し、「蕭条」と言うんですか、芸の奥の世界へ分け入っていく感じ。現実の中から神話が蘇ってくる。そして更なる伝承を思わせる旅立ちのラスト。いつもは「湿っぽい」というのは、映画の感想としては否定的に使っていたものだが、これなんか実に「上品に湿っぽい」。どんな方向にも洗練されれば感動があるのだ。 [映画館(字幕)] 8点(2010-07-06 12:10:24)(良:1票) |
1345. トゥルーライズ
《ネタバレ》 シュワルツェネッガーは、やはり生身の人間でないほうがよろしいようで。妻の浮気か、というあたりの「人間」としての演技はやっぱダメ。オートバイと馬のあたりが生き生きする。街中を馬が走り、ホテルの中をバイクが、という徹底した日常の蹂躙が楽しい。祭りのハレ。だからアクションのときの衣装もビシッと決めてる。妻も日常を離脱した売春婦の格好になるし。ぼんやりに見えても、オトーサンは頑張ってるんだ、って言いたいらしいが、ああまでハズカシメられた妻が夫を許すだろうか。ションベンもらす男への公私混同権力乱用のハズカシメを加えるのはあまり愉快でない。戦闘機の浮遊感がちょっと面白かった。 [映画館(字幕)] 6点(2010-07-05 11:56:52)(良:1票) |
1346. 菊五郎の鏡獅子
これの英語版ってやつもスクリーンで観ているが、「ライオンダンス」なんだな。舞台の長唄連中は「バンドマン」さ。彼ら自分がバンドマンだったとは気がつくまい。太鼓は「ドラム」だったか。これはあくまで六代目菊五郎(今の勘三郎の母方のおじいさん)の記録ということに重心が置かれてしまうフィルムで、さして小津めいたものを探しても意味はあるまい(このちょっと後に撮った『淑女は何を忘れたか』に歌舞伎座のシーンがあるけど)。六代目はこの記録を気に入らなかったらしく、「俺はこんなに下手かい」と人に言っていたそうだ。もっぱら正面と上手より斜めからのと二つの視点に、ときに上からのカメラも加わる。花道はまた別。空襲にやられる前の、戦前の歌舞伎座の内装が記録されてもいる、と思ってるんだけど、これ本当にあそこなんだろうな。借り切って深夜に撮影したって話はよく聞いた。でも獅子頭に引きずられて花道を引くところなど、花道より下手側の客席がなかったように記憶してて、というか花道が壁ぎわにあって、…あれ? 桟敷席ってのは戦前もあったんだろ? 映ってたかな? などと混乱している。冒頭のバンドマンたちが、説明的な画面もなく消えてしまうのも不親切。 [映画館(邦画)] 6点(2010-07-04 12:04:38) |
1347. ナチュラル・ボーン・キラーズ
70年代ふうニューシネマのパロディとも見られる。あの新しさとテレビの退屈さとが同じものであった、っていうか。二人の出会いの場が「ルーシー・ショー」ふうのコメディにされて出てくるあたりは実にワクワクした。あとアニメあり、ニュースふう事件再現あり、とごちゃまぜの文体で「テレビの国のユリシーズ」といった面白さ。二人は社会に対して特別に恨みつらみがあったわけじゃない、あったのは家族に対してだけ。この世はゲームの場となり、イノセントに殺人を続けていく。そこにリアルな感じがあった。マスコミ批判は戯画的になりすぎて、それほど印象に残らず。インディアンの場は、これだけ「裁き手」になってしまうのでつまらない。ナチの悪もアニメの悪も、ブラウン管の中では同質になってしまうって視点が大事なんだ。 [映画館(字幕)] 8点(2010-07-03 11:45:03)(良:1票) |
1348. 平成無責任一家 東京デラックス
家族がぞろぞろと道を歩く場面になると、なにやら味わいがあるが、会話が始まるとそうでもない。話者でない者たちの手持ちぶさたの気配、間を外す笑いみたいのを取ろうとしてるのだろうが、あまり生きてない。一種の「旅芸人の記録」、「巡業」にうんざりしてるんだけど、なんかくっついてやってる、っていうような。導入は市長選のトトカルチョで、いかにも「日本」の風景なんだけど、そのあとのサギがあんまり「日本の断面」って感じでもない。対象は「浮薄な現代東京」してるんだけど、そこを「サギる」手口が鮮やかでない、なにかどこも中途半端。新興宗教めいたのだけ、おかしかった。後ろの連中も一緒に唱え始めるあたり。神社の曲がり角や、桜井センリの床屋などの風景はよし。 [映画館(邦画)] 6点(2010-07-02 11:56:18) |
1349. こうのとり、たちずさんで
《ネタバレ》 硬質な、ドキュメンタリー的な画面の中で、登場人物が不意に詩を語り出す。国境に立つ兵士が点呼の中で川の流れについて語り、議会で政治家が雨音の背後から聞こえる音楽について語り出す。政治に追いつめられた人々が魂の中から語り出す言葉は、詩にならざるを得ないのか。ところがこの映画の重要な場面になってくると、その詩さえ消え失せてしまう。レポーターが娘に出会うバーでは、視線だけが交わされる。川越しの結婚式の場面では、向かい合う視線と伸ばされる手だけ。この作者はもう会話を信じていないのだ。詩の言葉はあっても会話は失われている。言葉の代わりにコミュニケーションの役割を担わされた視線と手は、しかし両者の距離を強調していく。マストロヤンニとモローが市場の橋の上で向かい合うとき、二人の間には見えない国境線が引かれているようだ。人々はなぜ引き離されたのか。一方が逃げ、一方がとどまったからだ。マストロヤンニは逃げ、モローはとどまった。花嫁は逃げ、花婿はとどまった。しかし逃げた者が自由になったわけではない。逃げ出した場所にはまた別の牢獄が待っている。永遠に繰り返されるだろう脱出の後に、無数の国境線が引き直され、出会えなくなる人々の沈黙だけが堆積していく。そして詩となった言葉はさらに沈黙へ傾斜し、映画はリアリズムから伝説に入っていく。「アレクサンダー大王」は群衆の中に消滅し、「シテール島」の老夫婦は漂い消え、本作の政治家も、幾人もの目撃者たちの中に分裂しながら、伝説の人物になっていく。ならばこの映画は敗北主義に浸されたフィルムなのだろうか。いや、タコの話を聞かされた少年に託されたかすかな希望がある。そして「黄色い人」がいる。アンゲロプロスの沈んだ世界に登場する原色の黄色は、前作でも目を引いたが、この作品でとうとう重要な役を割り振られた。危険な仕事に従事する移民労働者、戸籍も国籍もなく、アイデンティティからも追放されたような人々、顔さえ定かでない究極の自由へ漂い出した人々。言葉だけでなく視線も手も封じられ、しかしそういう彼らがどこかとどこかの間に電線を繫げようとしている。ぎりぎりのメランコリーの果てに監督がたどり着いた希望。国家というものが無効になった先へ張られていく電線。その背後の空には、おそらくこの映画で初めてだろう、厚い雲を割ってかすかではあるが青空が見えかけている。 [映画館(字幕)] 8点(2010-07-01 12:14:46)(良:1票) |
1350. 哀戀花火
ちょっとの火も危険と靴を履き替えさせられる花火工場、なるほど、ここぐらいメロドラマの舞台にふさわしいスリリングなところはあるまい。女主人は視線をそらして絵描きに話しかける。愛の火花が散っては危険だからだ。でも番頭との間には摩擦熱も生まれつつ、あぶないあぶない。恋愛映画はスリリングなのである。恋の発生の危険が現実の発火の危険と重ねられる舞台設定が秀逸。しばしばメロドラマが戦争を舞台にするのも、危険が満ちているからだろう。でも無粋な爆弾工場より花火工場のほうがロマンチックである。ちょっと役者(とりわけ男のほう)が物足りなかったか。黄河の両岸からの花火合戦よりも、そのあとの煙のたゆたいが美しかった。 [映画館(字幕)] 7点(2010-06-30 11:57:25) |
1351. 愛しのタチアナ
少年や青年にもっともふさわしかるべき心情を、あえて中年に移して楽しむのが、この監督の趣味。そこから生まれる「照れ」とか、それを隠そうとする「ブッキラボー」が味わいになる。人と視線を合わせられない照れくさがりの純愛を、中年が演じる。侘しいことは侘しいんだけど(だって中年だもん)、でもそういう人生を肯定している。ミシンを踏む中年男の、こうでありたかった自分の妄想かもしれないけど。ホテルやカフェの入口・受付のあたりになると、この監督らしい雰囲気が立ち込めてくるのは何なのか。ブッキラボーだからか。客との応対のように人々のドラマが進行して、そのなかで不意にタチアナが寄り添うからいいのか。やや俯きながら画面に入ってくるとことか。フィンランドの「フィン」て、ハンガリーの「ハン」と同じく、フン族の「フン」から来てるそうで、こちら東洋の流れを汲んでるらしい。こういう「侘しさ」にこだわるとこなんか、同根を感じる。原題は「タチアナ、スカーフに気をつけて」か、そっちのほうがいいじゃないか。 [映画館(字幕)] 7点(2010-06-29 11:57:26) |
1352. フォレスト・ガンプ/一期一会
この主人公は単に無垢なアメリカってだけじゃなく、意志を持たない、というか、何者にもなろうとしない、ってところがポイント。アメリカ映画の主人公って、無垢な人物が何かに向かって突き進むのが好きだったのだが、彼の場合はどちらかというと逃げるために走っている。無垢かもしれないが、その名前にはアメリカの原罪が刻印されている。なにかアメリカの変化を感じた作品だった。目的に向かって突っ走らない生き方に憧れを感じ出しているのか(でもその後のアメリカを見ると、変わらなかったんだけどね)。映画としては前半の密度の高さが圧倒的。逃げることによって、アメリカ現代史に立ち会い続けてしまう主人公。プレスリーからウォーターゲイトまで。逃げの走りを、周囲が思想にしてしまう。後ろにぞろぞろ、「あ、とまったぞ、何か言うぞ」って。SFXの使い方も、この頃はだいぶ幅が出てきて内実を得た。そういう意味でも記念碑的な作品。 [映画館(字幕)] 8点(2010-06-28 11:58:08) |
1353. ピクニックatハンギング・ロック
《ネタバレ》 前半が特にいい。ピクニックのまどろみの感じ、いつもと違う朝の空気。バレンタインデーは南半球では夏なわけ。バッハの平均率に乗って馬車が走り、町を抜けると手袋を外し、虫のさえずり、羽ばたく音。食べ残しのパンにたかる蟻。12時に止まる時計。このしだいに山の神秘に呑み込まれていく感じ、「美しい良い子」の少女たちは消えていかねばならないことを、映像で納得させてしまったのはすごい。消えていった少女たちにはほとんど個性が与えられていないのも正しく、少女の「普遍」なんだろう。これ少女期の終わりだけでなく、19世紀の終わりも重なっている。19世紀的な少女は消えていき、淘汰され、20世紀的な少女の時代になっていく。しばしば流れるベートーベンの「皇帝」の美しい第2楽章、これの初演が19世紀初頭、たぶんこれからはがさつな不協和音の時代になっていくのだろう。 [映画館(字幕)] 7点(2010-06-27 11:57:29)(良:2票) |
1354. ひとりで生きる
《ネタバレ》 むごい目にあう動物たちが遍在している。前作でも子猫が殺されてたが、本作では豚、犬、ネズミ、鳩など。少年は、人間ではなく動物の側の存在なんだろう。少女が顔をジーッと見つめてくればキスするかとロマンチックな気分が満ちてくるが、つばをかける。そういう恋人のような友だちのような微妙なお年ごろ。船の上での縄跳び、水たまりに倒れている男。やがて鳩が飛ぶ船室、赤ん坊を抱く裸の女、と幻想味が増してくる。火だるまのネズミ。棺の中のワルカ。陸橋の火花。裸の男女がレーニン像を這い回る。前作でもそうだったな、気が狂うということよりも、裸になるということのほうが重要なのかも知れない。裸のみじめさが聖なる裸に転化していく。時間の定かでない夕刻のような薄明かりが印象深い。汽車の荷物から女が出てくるときのや、ラスト近くのネズミのとこみたいな。いかにもロシアの光。そういえば少年の顔もたとえばタルコフスキーの『ストーカー』の系譜で、いかにもロシアの表情なんだ。かってにこちらがそう思ってるだけかもしれないけど。 [映画館(字幕)] 7点(2010-06-26 11:57:02) |
1355. 動くな、死ね、甦れ!
地にはぬかるみ、空には曇天。そのなかの上下から圧迫されているような世界、あるいは廊下の左右から圧迫されている気分。ソ連映画でよく味わう気分、これはロシア人の心象に深く刻まれている気分なのか、単にあちらの気候のリアリズム的反映なのか。近くに収容所があり、やがて主人公も、拘束から何度も逃れていく。よっぱらいの歌・よさこい節・スターリン賛歌・ダンスパーティと歌が多い。この天候と歌とが互いを嘲笑しているようで、そこから滲み出した狂気もあちこちに潜んでいる。みんなここ以外の場所へ行きたい。生活する楽しみが何一つ見いだせない町。しかし外には悪の世界がある。この少年と少女、弟的なものと姉的なものに、男女の原型が感じられた。後半、ガリーヤが「姉」のなかから「女」の気配をのぞかせる。ストーリーとして・あるいは道徳的教訓として要約される前に、このようにしてあった少年と少女の存在感のほうがグーッときて、それに圧倒される。こういう世界がたしかに地球上のある時期に存在した、って。長回し・手持ちカメラのドキュメントタッチの力。 [映画館(字幕)] 8点(2010-06-25 11:56:16) |
1356. 勇気あるもの
これ観ると、軍隊はけっきょく人間を鍛え直すいいところらしいんだ。戦死者の名前も記憶せずにプラカード持ってたオチョーシモノ反戦男が、軍隊の中で希望の目つきになる。さらに多くの兵を、肉体的・精神的に廃人にしている軍隊への批評の目がまったくない。女性監督ということで、かえって男性社会に過度に迎合してしまったのか。戦場でマイノリティの部隊が地位向上を目指して一番危険なところへ飛び込みたがる傾向を、ちょっと思い出させた。初めての夜明けの演習のところなんか、不気味さが出ていて良かったけど、教室のシーンはどうしてもダルになる。欧米でやはりシェイクスピアが基本なんだなあ。でも出てくるのが、悲劇と史劇のみで、喜劇には触れない。原題は「ルネッサンスマン」か。「文芸復興男」と訳しちゃいけないんだ。 [映画館(字幕)] 5点(2010-06-24 11:55:36) |
1357. ミッション
《ネタバレ》 音楽がエンニオ・モリコーネ。『1900年』的なオーボエの歌から始まって、スタッカートのコーラスで盛り上げていく。歴史や政治など硬めの題材を背景にした映画ではとりわけこの人の曲が似合う。『死刑台のメロディ』の歌も好き。『ソドムの市』の、あたかも上品なサロンで流れているような音楽も大好きなんだけど、これは硬めの歴史ものってのとはちょっと違うか。またこの映画では音楽ってのが、そもそも一つのモチーフになっている。宣教師の布教の手段としての音楽が、けっきょく歴史を見ると、布教が音楽文化を伝播するための手段になってしまった、っていう皮肉のようなこと。「慈しみあふれる愛」がどうのこうのと言われると反発を持ってしまうが、異文化の接触という点に重点をおけば、歴史の普遍を描いている。異文化がぶつかりあうことによって、たしかに一方では今までサーベルなど持ったことのなかった楽園に悲惨がもたらされたが、また一方ではヴァイオリンが伝わった(なにもインディオの音楽と西洋音楽との間に優劣をつけてるわけじゃなく、あくまでこうして文化は多様化していくってことで)。もっともその後にはキリスト教文化由来の和声が世界を覆い尽くしていったわけだが、ともかく宗教より芸術が上位、って考えは嬉しい。 [映画館(字幕)] 7点(2010-06-23 12:02:22) |
1358. 出来ごころ
《ネタバレ》 昔の労働者はいかに始業時間を知ったのか、ってのが気になってた。工場でサイレンを鳴らしただろうが、しだいに居住区が広がっていくと、この映画のように労働者が各自時計を持つようになったのだろう。富坊の部屋に時計があるのは子どもは早起きってことなのか、それとも喜八は文字盤を読めないってことなのか。昔の映画って、細部までいろいろ考えさせてくれるから嬉しい。で喜八と次郎と春江の三人の心模様が進行していく。恩の義理と心情と。「隣の大将をコケにさせるような真似はよしてくれ」なんてあたりに、かえって次郎の心情を暗示させている。ヤマ場は盆栽をめぐる場。喜八がぶつたびに富坊はそこを掻く。別に痛くもないやあ、という不貞腐れの表現。そして逆襲、「新聞も読めないで」。喜八ぶつ、富坊掻く、ののち、富坊が喜八をぶつ。やがてされるままになる喜八。子どもにぶたれるにまかせる親、ってのはしばしば小津作品に現われるモチーフだが、ここらへんの侘しさは一級品ですなあ。自分は字が読めない、この子は勉強できる、春江に惚れるのがカアヤンに笑われるほどの歳になっている、自分が惨めに見えてきて、でもその自分を父とする子どもが目の前にいて…。そういったあれこれが凝り固まった場。で「贖罪」で与えた五十銭玉で、富坊の病気を導く。病院代の工面、「こんなときでもなきゃ、あたしなんか御恩返しができませんもの」と春江。喜八は「そう言ってくれるだけでも、ガキぐれえ殺したって」、でも春江が一番言いたかったのは次郎に対する「どうせあたしなんか構わないんじゃないの」。こんなシーンは映画史上いっぱいあったと思うんだけど、段取りよく次郎と春江の愛の確認につなげていくうまさゆえか、泣けちゃう。盆栽からここまでの流れの自然さ、昔のシナリオ術ってのはこういうところが眼目だったんだろう。で北海道行き、かつて子どもに殴られるにまかせていた喜八は、次郎を殴る。しかし喜八をかっこよくし過ぎないようにと、ズボンをシワシワにして脱いでいた描写を、反復させる場を用意する。小津の喜劇の才と、侘しさを描く才とが、不可分に絡み合っている傑作。 [映画館(邦画)] 9点(2010-06-22 09:58:38) |
1359. 写楽
写楽の話というよりは、寛政期が主役の群像ドラマ。いつも人殺しの時代を扱うNHKの大河ドラマは、たまにはここらへんの文化を中心にやってみればいいのにと思っているのだが、日本文化史上の一つの頂点。時代が主役ならストーリーとして初めと終わりがキチッとしてなくてもいいのかも知れない。「地獄の上の花見」を見せればそれでいい。でも、一通りの有名人を交錯させるのだけど解説の域を出てなく、なんかこの監督、情報知識を集めすぎて盛りだくさんになってしまう弊が、のちの『スパイ・ゾルゲ』などにも見られる。この人は様式的な場が好きで、おいらん道中と大道芸人の道中とが直角に交差するとことか、歌麿のモデルがじっとしている部屋の光景などに、「らしさ」が出ている。合成技術の当時の限界? 全体の色調がドローンとよどむ。 [映画館(邦画)] 6点(2010-06-21 11:59:30) |
1360. エイリアン2
《ネタバレ》 エイリアンを先住民インディアンなり共産主義者なりに見立てると、ハナモチならないアメリカ映画の伝統につながるんだけど、己れの悪夢を克服するために再び現実と戦う勇気の物語と見ると、アメリカ映画の最良の伝統を受け継いでいることになる。だからいいのはヒロイン像。重火器の構えがいい。今までだと武器を持つ人物は、もっぱら前屈みになったもんだけど、重さで後ろに身を反らす感じになる。前屈みのほうが戦闘的な気分は出るが、身を反らすと堂々として頼もしい。それが女性ってことで、新しい味わいが出た(2012年再見。ここらへん記憶の中でリプリーと海兵隊のオネエチャンとが混ざってたな。あのオネエチャンの構えが本作で一番印象に残っている)。活劇としては、天井からエイリアンが近づいてくるあたりドキドキさせたが、考えてみればちょっと対策が不備すぎる気もする。エレベーターで追いかけてくるってのも、なんだかなあ。細かいところはけっこう気をつかってるんだよね、冬眠から覚めたあとの床の冷たさとか。 [映画館(字幕)] 7点(2010-06-20 12:12:59) |