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プロフィール
コメント数 2642
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 44歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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121.  罪の声 《ネタバレ》 
昭和の大事件や未解決事件を題材、モチーフにした社会派サスペンス映画は好きだ。 戦後の高度成長期を経て貧富の格差が大きくなるに連れ浮き彫りになる社会の病理と、それに伴って巻き起こった数々の大事件は、現代社会向けて警鐘を鳴らし続けていて、その歪がふとしたはずみで裂けて顕になっているように感じる。そこには、多様な時代的転換と、人間ドラマを孕んでいる。  本作も、物語の題材になっているのは、1984年から1985年にかけて発生した「グリコ・森永事件」であり、実在する企業名こそ架空のものに差し替えられているが、その他諸々の要素は比較的多く用いられている。 私自身は、事件当時3歳で、当然ながら事件についての記憶はほぼ無いが、青酸ソーダが混入されたというグリコ社のお菓子もよく食べていた年頃だろうから、自身の記憶以上に身近な事件だったのかもしれない。  また本作のキーポイントとなる“声の主”の登場人物らとはほぼ同世代であり、彼らが辿った人生模様や、時代感は想像しやすく、感情移入しやすかったことも間違いない。 特に、妻子を持つ身として、星野源演じる曽根俊也に突きつけられた衝撃の事実と陥った苦悩と葛藤は如実に伝わってきた。  「グリコ・森永事件」という事実に着想を得て、フィクションを肉付け、展開していったストーリーテリングも巧みで引き込まれた。 過ぎ去った時間と真相に翻弄されつつも、現代を生きる当人たちが、かつて「闘争」という名目において掲げられた「正義」の浅はかさと、それが取り返しのつかない不幸を生み出したという事実を突き付ける帰着はとても良かったと思う。 非常に重厚な物語構造であり、ぜひ原作小説も読んでみたいと思った。  ただ、ストーリーの重厚さを認める一方で、映画的はどこかあっさりとした印象も否めない。 一つ一つの演技や演出が稚拙だったとは決して思わないし、それぞれが適切なパフォーマンスを見せていたとは思うのだが、この物語に相応しくない“軽さ”を感じてしまった。  その理由として考えられる要素が二つ。 一つは、土井裕泰監督がどちらかと言うとテレビ畑寄りの作り手なので、良い意味でも悪い意味でもテレビドラマ的なライトさが垣間見えてしまっているのかもしれない。  もう一つは、主演俳優の存在感の軽さ。 主演の小栗旬は、決して悪くなく、役柄に合った役作りで真っ当な演技をしていたと思う。しかしながら、演じた阿久津英士というキャラクターに深みを感じることができなかった。 バックボーンを映し出す描写がないことなど、そもそもキャラクター描写が薄かったこともあるが、いずれにしても主人公としての厚みが足りなかったように感じる。  ラストシーンで、テーラーの曽根俊也が、阿久津の着ていた背広のサイズが合っていないことをずっと気にしていたと言う。確かに、劇中小栗旬の容姿がいつもと比べて何か格好悪いなという違和感は付きまとっていた。 でも、もっと存在感が“重い”俳優であれば、サイズの合わない背広を着ていてそれが不格好に見えたとしても、その不格好さも含めて“役に似合わせる”ことができるのではないかと思う。 そういう実在感が、本作の小栗旬には表現しきれていなかったように思った。  星野源の配役がマッチしていただけに、小栗旬の役に対する適性が余計に際立ってしまっているのかもしれない。 最後に、配役という点で言うと、過去の復讐心を思い出す曽根俊也の母親役に梶芽衣子をキャスティングしているのはナイスだと思った。「修羅雪姫」の主題歌が聴こえてきそうだった。
[インターネット(邦画)] 6点(2022-12-24 17:53:18)(良:1票)
122.  バイオレンスアクション
チープなアクション表現と、安っぽくて素人臭いカット割りに編集。冒頭数分のシーンのみで、絶望的な「これじゃない感」を感じると共に、「駄作」であることを確信した。 既刊の単行本を前作保有しているれっきとした原作ファンとして、このあまりにもお粗末な映像化は噴飯ものだった。  そもそも本作の制作陣は、この原作漫画の魅力を全く理解していない。 ピンク髪のゆるふわカワイコちゃん銃を振りかざしてアクションを繰り広げればいいと思っているようだが、まったくもってお門違いだ。  主人公ケイを実写化するに当たって、最も注力すべきは、そのビジュアル的なキュートさ以上に、溢れんばかりの狂気性とサイコパス性だ。 ケラケラしながら「現場」にデリバリーされ、まるで散歩でもするかのように苛烈な“殺し”を遂行するその異常な様こそが、原作漫画の醍醐味であり、ヒロインの魅力だろう。 タイトルが端的に示している通り、ゆるふわの描写の中で急角度に挟み込まれる“バイオレンス”が、この作品の核心でなければならなかったと思う。  そういった表現が殆ど皆無なまま、アイドル女優による只々ゆるいばかりのアクションを見せられては、原作ファンとしてがっかりせずにはいられなかった。 百歩譲って、上映規模の問題から、バイオレンス描写を抑えてレイティングを広げなければならなかったのだとしたら、せめてアクション描写のクオリティは一定以上のレベルを備えてほしかった。 昨今、「ザ・ファブル」や「ベイビーわるきゅーれ」等、同じく殺し屋が主人公の国産アクションの良作が生まれ続けている中で、本作のレベルの低さは明らかに制作陣の怠慢だろう。  漫画よりもマンガみたいなバカバカしいアクションシーンの羅列、滑りっぱなしのギャグ描写、期待していた映画化が散々な仕上がりであまりにも残念。 この映画化は無かったことにして、Netflixあたりで遠慮なしのバイオレンス映画に再挑戦してくれないかなと、希望を持ちたい。
[インターネット(邦画)] 2点(2022-12-24 17:48:40)
123.  トロール 《ネタバレ》 
北欧の寓話に登場する“トロール”が、現代のノルウェーに出現してパニックを引き起こすというプロットを半笑いで見ながら、一体どんな映画だと懐疑的に鑑賞を始めた。 が、割と早々に本作の立ち位置は判明する。 ああ、なるほど、これは北欧ノルウェー産の“怪獣映画”なんだなと。  想定外に真っ当な怪獣映画であったことは、嬉しい驚きだった。 「ゴジラ」シリーズをはじめとする日本が誇る特撮映画を愛好してきた者のとしても、本作には充分に楽しみがいのある“特撮精神”の心得があり、日本の特撮に対するリスペクトも存分に感じられた。 無論、本作そのもののクリエイティブに特撮技術が用いられているわけではないけれど、きっとこの映画の制作陣は、日本の「ゴジラ」や、ハリウッドの「キングコング」を愛し、憧れているのであろうことはしっかりと伝わってくる。  そういうリスペクト精神を前提として、北欧の寓話や神話ではお馴染みの“トロール”を、未知なる巨大生物として描き出し、ノルウェー産怪獣映画に仕上げてみせたことはユニークだったし、独自性のあるエンターテイメントを生み出していたと思える。  また、個人的には、おそらく初鑑賞だと思われる“ノルウェー映画”に対する新鮮味も感じられることができた。 どこまでリアルなのか分からないが、ノルウェーの国防総司令部的な施設が洞窟を利用した秘密基地みたいな場所だったり、広大な自然環境や、公用語であるノルウェー語の響きの新鮮さだったりと、随所に垣間見える“お国柄”が、なかなか馴染みの薄い国の映画らしくで印象的だった。   ストーリーが収束する最終盤に至るまで、独特の雑多感も含めて楽しい映画だったことは間違いないし、最後の最後まで自分の中での高評価は確信されていた。 が、しかし、最終的な物語の帰着と、登場人物たちの言動の描かれ方が、ラストあまりにも残念だった。  人間のかつての蛮行や、現代の人間社会の自然破壊に起因して、目覚め、怒りの進行を展開するトロールが、太陽の光を浴びて絶命するクライマックスの展開自体は極めて良かった。 それは、「ゴジラ」や「キングコング」など、怪獣映画史の数々の傑作を踏襲するものであり、王道的とも言える描写だったと思う。 だが、それを目の当たりにした人間たちの描写があまりにもお粗末だった。 大怪獣の悲しい最期を見て、人間たちが自分たち自身の過ちを認め、悔い改めてこそ、映画的な余韻が深まるというものだが、本作のノルウェー人たちはそういう感情がほぼ皆無で軽薄に見えて仕方がない。 せめて主人公だけは、浮かれる人々の中で、悲しみに沈むなり、虚無感を感じるなりの描写で終わってほしかった。  そういう人間たちの情感も“お国柄”と言ってしまえばそうなのかもしれないが、もう少しで愛すべき怪獣映画として記憶に残りそうだっただけに、ラストの数カットのせいでそうならなかったことが、ただただ残念だ。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-24 17:45:53)(良:1票)
124.  アダムス・ファミリー(1991)
まさかこの映画を観ていなかったとはな。 Netflixのオリジナルシリーズ「ウェンズデー」が面白そうだったので、元ネタである本作を復習しようと思ったら、なんと続編の「アダムス・ファミリー2」だけ観ていて、本作は未鑑賞だったという事実が発覚。 ちょうどクリスマス時期にも相応しいと思い、まさかの初鑑賞。 キャラクター造形も、テーマ曲も、その世界観も、初鑑賞でありながらももはや「懐かしい」映画世界だった。  もっとチープで子供向けのファミリームービーの印象だったが、冒頭からしっかりと作り込まれた美術やカメラワークが秀逸で、想像よりもずっとレベルの高いクオリティを誇る娯楽映画の世界観に引き込まれた。  本作が娯楽映画として世界的人気を得た最大の要因は、何と言ってもファミリーを演じる個性的な俳優陣によるキャラクターにマッチした表現力だろう。 主演のラウル・ジュリアを筆頭に、個性派俳優たちが嬉々として奇妙なキャラクターを演じきっている。  個人的に最も印象的だったのは、やはり“フェスター伯父さん”に扮するクリストファー・ロイド。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで“ドク”を演じ終えた直後の出演作だけあって、その表情をはじめとするアクトパフォーマンスのそこかしこに“ドク”が垣間見えて、楽しい。  そして何と言っても、クリスティーナ・リッチ演じる“ウェンズデー”の特異なキュートさがたまらない。弟を処刑ごっこの実験台にし続けたり、首がちょん切れた人形を大切にしていたり、学芸会の舞台では大量の血しぶきをぶちまけながら熱演を繰り広げたりと、その言動のすべてが常軌を逸しつつも、ひたすらにブキミでカワイイ。  本作のストーリーそのものは、ベタなコント的なものであり、あってないようなものだけれど、そんなマイナス要因を補って余りある奇怪で愉快な映画世界は、やはり魅力的だ。 30年の時を経て蘇る「ウェンズデー」には、クリスティーナ・リッチも出演するらしい。益々楽しみだ。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-16 23:54:41)
125.  THE FIRST SLAM DUNK 《ネタバレ》 
実際に映画鑑賞に至るまで、正直懐疑的だったことは否めない。 「完成」されている原作漫画を四半世紀以上経過した今(1996年連載終了、え、マジ?)、敢えてアニメーション化することの意義があるのだろうかと思ったし、原作者本人の手によってそれを侵害するようなことになれば、悲劇でしか無いと思った。  が、鑑賞し終えた今となっては、多大な満足感とともにこう断言したい。 紛れもない、完全な、「漫画の映画化」だった、と。  それはかつてのTVアニメシリーズでは遠く到達する余地も無かった領域だった。 桜木花道の跳躍、流川楓の孤高、宮城リョータの疾走、三井寿の撃手、赤木剛憲の迫力……、「SLAM DUNK」という漫画世界の中心で描きぬかれた“バスケットマン”たちの一コマ一コマの“躍動”を、まさしくコマとコマとの間を無数の描写で埋め、繋ぎ合わせ、動かす(Animation)という崇高な試み。 敢えて語弊を恐れずに言うならば、この映画作品に映し出されたものは、いわゆるアニメーションではなく、稀代の“漫画家”が己のエゴイズムを貫き通した先に到達した漫画作品としての極地だったのではないかと思える。  「THE FIRST」と銘打ち、まさかの“切り込み隊長”のバックボーンを描いた本作。 殆どすべての原作ファンにとって、そのストーリーテリングは、是非はともかく驚きであったことは間違いないだろう。 賛否が大きく分かれていることからも明らかなように、その追加要素が雑音として響いてしまったファンも少なくないのだろうと思う。  ただ、個人的には、この加えられた物語こそが、連載終了から四半世紀経った今、井上雄彦が描き出したかった物語であり、「SLAM DUNK」という漫画をもう一度クリエイトする理由に他ならなかったのだと思う。 例えばもっとシンプルに「山王戦」のその激闘のみを精巧に描き出した方が、特に原作ファンのエモーションは更に高まったのかもしれない。 でもそれでは、井上雄彦本人が監督・脚本を担ってまで本作に挑む価値を見い出せなかったのだろうし、そもそもこの企画自体生まれていなかったのだろう。  井上雄彦は、時代と価値観の変化と混迷の中で、「バガボンド」、「リアル」という彼にとってのライフワークとも言える作品を、その終着点を追い求めるかのように描き続けている。 漫画家という立ち位置を崩すことなく、ただひたすらにその表現力を進化させ、思想を発信し続けるクリエイターの矜持が、本作には満ち溢れていた。  そのすべてを井上雄彦自身が生み出している以上、無論これは後付などでは決してなく、原作漫画「SLAM DUNK」の研ぎ澄まされた1ピースであろう。 いや、四半世紀前から知っちゃいたけど、「天才」かよ。
[映画館(邦画)] 9点(2022-12-12 21:37:35)
126.  THE BATMAN-ザ・バットマン-
「バットマン」の映画化において最も重要で、取り扱いが難しい要素は、“リアリティライン”の引き方だと思う。 架空の超犯罪都市の大富豪が、夜な夜な真っ黒なコウモリのコスチュームに身を包み、街の悪党たちを殲滅する。元来アメコミであることを鑑みても、圧倒的にマンガ的であり、どう言い繕っても“馬鹿っぽい”設定である。 それでも、ほとんど絶え間なく映画化されてきたのは、この“馬鹿っぽい”世界観が、多様な創造性を孕んでいるからだろうと思える。 マンガ的な物語世界を実写映像化するにあたって、リアリティラインをどのように引くか。 あくまでも寓話的なダークアクションに振り切るのか、現実社会の鬱積や病理性を盛り込んだ哲学的なストーリー展開を深堀りするのか、はたまた筋肉隆々の“冷凍男”が主人公を押しのけて登場するようなエンタメに突っ切るのか、その「線引き」によって映画作品の印象は大いに変わるし、その分幅広い層に熱狂し得る。  そういった観点からは、新たなリブート作品として製作された本作も、明確な意図によって他のシリーズとは異なるリアリティラインが引かれているとは思う。 ただ、個人的には本作のその線引きは、ややアンバランスだったと感じた。  現実路線で、どこか映画「セブン」を彷彿とさせる猟奇サスペンス要素との融合は面白い試みだった。過去シリーズにおいては異世界の象徴として存在感を出すヴィランたちの風貌やキャラクター性も、極めて現実的な造形に振り切って、リアリティラインをより現実に近い位置に寄せていると思う。 主人公バットマンに“探偵”の役割を与え、他のアメコミヒーロー映画とは一線を画した作風に仕上がっていることは間違いない。  が、しかし、その現実路線のテイストがバランス良く成立しているとはどうしても思えなかった。 その最たる理由は明らかで、舞台である犯罪都市“ゴッサム・シティ”のあり方自体がファンタジーすぎるからだと思う。 あれだけ常軌を逸したレベルで治安が悪く、景観や公共サービスが崩壊しているとしか思えない劣悪な環境下において、今更政治家や警官の汚職がどうとか、薬物が濫用されていたり、マフィアが裏で糸を引いているとか言われても、「そりゃそうだろうよ」と正直鼻白んでしまう。 故に、そんな中で、バットマンや、真っ当な警察や政治家たちが、「正義」や「人生」をかけて苦闘するしている事自体が“非現実的”に感じてしまい、どうにも乗り切れなかった。  主演のロバート・パティンソンのバットマンぶりは悪くはなかったと思うが、徐々に解明されていく事実に対して総じて思慮が浅く、バットマンである以前に人間的に未熟な主人公の姿はやはり魅力的ではなく、必然的に映画的な魅力の欠如に繋がっている。 用意されていたストーリーテリングについても、稚拙で、ただ鈍重であったことを否めない。 リブート作品として、特別なバッググラウンド描写や、新機軸の展開があるわけでもなく、この内容でほぼ3時間の上映時間はさすがに冗長すぎた。  一方で、ビジュアル的なクオリティは過去最高レベルで素晴らしかったと思う。 “重さ”までを表現するバットマンのコスチュームや、臨場感の高い迫力あるカーチェイスシーンなど、印象強いカットやシーンは全編通して散りばめられている。 もっと作り込まれたストーリーさえ備えていれば、もっと素晴らしい「バットマン」に仕上がるであろうことは明白なので、次作に期待したい。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-12 00:51:40)(良:1票)
127.  タイトル、拒絶
東京のど真ん中の、猥雑で、ありとあらゆる欲望に塗れた薄汚れた雑居ビルの風俗店の一室で、切なく蠢く女性たちの感情が、乱暴なまでに生々しくべっとりと描きつけられる。 その様は、果たして阿鼻叫喚の地獄絵図のように進展していくけれど、このような人間模様は、きっとこの街のそこかしこで当たり前のように繰り広げられていることに過ぎないのだろう。  格差是正だとか、ジェンダーレスだとか、サステナビリティだとか、美辞麗句を並び立てることがこの社会は大好きだけれど、実際のこの世界は、女性が一人生きていくにはあまりにも息苦しくて、あまりにも醜い。  出張風俗店の息苦しい待機部屋を燃やしたって、憎い男性店長を刺したって、たとえこの街がドカンと爆発したって、明るい未来なんて見えるはずもない。 モラハラやDVに耐え忍んで、ほんの小さな愛にしがみついてみたところで、その次の曲がり角では理不尽で卑劣な暴力の餌食になるかもしれない。  なんて過酷。なんて醜悪。  それでも、それなのにだ、雑居ビルの屋上から見える狭い空の燃えるような夕焼けを見て、思わずお腹がすいてくる。なんて切ないんだろう。なんて悲しいんだろう。   「伊藤沙莉」目当てで鑑賞して、やっぱり伊藤沙莉が素晴らしかった。 あの絶妙なビジュアル、表情の作り方、そして声質、この女優の演技とそのたたずまいは、文字通りに味わい深く、どんなに他愛もないシーンであっても観ていて飽くことがない。  そして伊藤沙莉演じる主人公を翻弄し続ける風俗嬢の面々を演じた女優たちもみな素晴らしかった。 ベテラン嬢を演じた片岡礼子以外は、本作の撮影時点ではそれほど名の通っていない若手女優ばかりだったと思うが、表情や立ち振る舞いの実在感がことごとくリアルで、殆どデリヘル店の一室で展開されるこの映画の小さな空間を見事に彩っていたと思う。(特に劇中バチバチにやり合う恒松祐里と佐津川愛美は、この一年間の朝ドラ出演で知った女優だっただけに、そのギャップが印象的だった)   自分のしょうもない人生にドラマなんて期待しないし、そんなものにタイトルを付けるなんて反吐が出る。 無記名の大学ノートに、日々の“つらみ”をただ刻みつけるかのように、無理やり笑って、無理やり泣いて、ゴミ溜めのような今日を、彼女たちは生きていく。 そんな決して綺麗事ではない女性たちの生き様が、時にどうしもようなく、美しい。
[インターネット(邦画)] 9点(2022-12-10 00:08:01)
128.  シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション
ふいにレコメンド表示された「シティーハンター」のこのフランス実写版を、半ばザッピング感覚で鑑賞し始めた。 ところが想像以上に原作漫画に対して忠実で、クオリティの高い“実写化”に少々驚いた。 単行本を全巻揃えていて、北条司のイラスト集も保有していたくらいの原作ファンとしても、遠いフランスでの愛ある実写化に多幸感を覚えたと言っていい。  「シティーハンター」の漫画世界が孕む唯一無二のハードボイルド性までが完璧に表現しきれていたとは言えないが、それ以外の多くの要素、コメディ性、アクション性、そしてセクシー描写と“下ネタ”は、きっちりと再現されていたと思う。 一つの映画作品として傑作と言えるような見応えがあったとは言わないけれど、「シティーハンター」の1エピソードの映像化としては充分に及第点のクオリティだったと思えるし、率直に「シティーハンター」らしい世界観だと思えた。  本作オリジナルのストーリー展開の肝となるある要素についても、主人公冴羽獠の特性をよく理解した上で、現代のフランスで描き出されるに相応しい新しいアイデアによる“危機”をユニークに描いていると思った。  一方、せっかくのフランス人キャストなので、冴羽獠と槇村香のビジュアルが、もっとマンガ的にスタイルの良い美男美女だったならば更に高揚感は高まったかもしれないなと、一寸思う……。 と、思いきや、どうやら主演俳優のフィリップ・ラショーなる人物が、監督と脚本も務めているようで、紛れもなく「シティーハンター」及び主人公・冴羽獠に対する愛を持って演じ、この映画世界をクリエイトしてくれたようだ。 映画全体のテイストがコメディに振り切っていたことを考えると、主人公以外も含めてキャスティングされたフランス人俳優たちはよく頑張ってくれていると思い直した。  そして、お決まりのエピローグ描写からのエンドクレジットで流れる「Get Wild」。重ね重ねオリジナルに対する「愛」に感謝。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-11-19 22:50:59)
129.  すずめの戸締まり
「脅威」に対する人間の無力と儚さ。だけれども、一時でも長く生き続け、存在し続けていたいという切望。 廃すてられた場所に眠る思いを汲み取り、悔恨が漏れ開きっぱなしになっていた“戸”を締めるという行為が織りなすファンタジーは、想像以上に「現実的」で「普遍的」だったと思う。 現実社会における災害やそれに伴う悲劇を果敢に題材として取り込み、秀麗なアニメーション表現の中で描いた試みと、ストーリーテリングの方向性自体は、間違っていなかったと思う。 ただし、その結果が、映画としての面白さや、オリジナリティとして結実していたかというと、必ずしもそうではなかったと思う。  我が子二人と連れ立って劇場鑑賞して、決して残念な映画ではなかったし、無論観たことを後悔する類いの作品ではない。 この国のアニメーション監督として紛うことなきトップランナーである新海誠の作品である以上、見逃すべきではない。 ただそれ故に、その新作に対しては、高いハードルが用意されることは避けられない。  社会現象ともなった「君の名は。」、そして個人的にはそれ以上の傑作だと確信した「天気の子」。 本作は、その過去2作とも時代背景を共有しており、「災害」という共通のテーマを扱っている点を踏まえても、三部作の一つとして捉えられる作品だろう。そしてより直接的なファンタジー描写や、アドベンチャー展開など、三作の中でも最もエンターテイメント性の高い作品だったと思う。 ただ、何かが圧倒的に物足りなかった。それが映画的なエネルギー不足に直結しているように思えた。  それは何だったか? 上手く言葉を選べていないかもしれないが、個人的な感覚から浮かんだことは、“エゴイズムの欠如”だった。  僕が新海誠の過去2作品から得たエモーショナルは、主人公たちが発し貫き通す圧倒的な“エゴ”によるところが大きい。 流星が町に降り注ぐその間際であろうとも、ようやく訪れた焦がれた相手との逢瀬に没頭し、過ぎ去った時間すらも覆す。 この世界の理も仕組みも無視して、無責任だろうが、独善的だろうが、世紀の我儘を押し通す青臭さ。 不可逆を覆そうとも、世界が水没しようとも、それでも「大丈夫だ」と言い切る若い生命の猛々しさと瑞々しさ、それをまかり通すアニメーション映画のマジックに僕は感動したのだと思う。  そういった映画的なエゴイズムが、本作からは薄れてしまっているように感じた。 それはもちろん、現実世界の災害や悲劇を取り扱ったことによる真摯な態度とも言えよう。 でも、それによって映画的な面白さが表現しきれないのであれば、本末転倒であろうし、その題材を取り扱う意味が果たしてあったのかとも思う。  自然災害をはじめとする脅威に対して人間は為す術もない。特にこの十年あまりの時代の中で、この国の人々は改めて痛感している。 そういう現実がある以上、安易なハッピーエンドなどは描くべきではないだろう。 しかし、それが現実だからこそ、せめて映画世界の中では強烈なエゴイズムを貫き通す人間たちの姿を見たいという思いも、今この世界の多くの人が秘める思いではないか。  本作の主人公たちが何も成し遂げていないなどというわけではもちろん無い。 けれど、悲劇的な現実を超越するほどのマジックは、この映画から感じることはできなかった。
[映画館(邦画)] 6点(2022-11-15 22:21:24)
130.  アムステルダム
戯曲のように自由闊達で雄弁な語り口。そして、人物たちの強い眼差し。 想像以上に突飛で、時にアバンギャルドな映画世界中で、唖然とするシーンも多かったが、それ故に明確な意思の強さを感じる作品だった。 その彼らの意思の強さは、今この混迷極まる世界、そして時代の最中において相応しく、大きな存在感を放っていたと思えた。  第一次世界大戦の戦場で知り合い親友となった男女が、1930年代のニューヨークで再会し、陰謀渦巻く殺人事件に巻き込まれる。 冒頭から見るからに常軌を逸した“変人”医師として登場する主人公“バート”を演じるクリスチャン・ベールが、特異な存在感を放ち、観る者に対して、本作が良い意味で“マトモな映画ではない”ということを半ば強制的に呑み込ませてくる。 そして矢継ぎ早に展開される解剖シーンと殺害シーンで、観客をドン引きさせると共に、本作が描く時代の混迷へと引きずり込む。 その観客の感情や心の準備なんてお構いなしに、本作が描き出すべきテーマと、それを織りなす時代を表現する冒頭の展開は、極めて強引で暴力的だけれども、同時にシニカルで痛快でもあり、本作が孕む本質的なエンターテイメント性を伝えていたと思う。  タイトル「アムステルダム」は、主人公ら3人が意気投合し、束の間の安寧を謳歌した街として映し出される。 戦禍の悲痛を経て、喜びと多幸感に溢れる青春の様を描いたその短いシークエンスは美しく、3人がその後の人生においてもその日々を心の拠り所として生きてきたことがありありと伝わってくる。 その中で、マーゴット・ロビー演じる“ヴァレリー”は、まさしく太陽のような輝きと強さを併せ持ち、圧倒的な魅力を放っていたと思う。その後時を経て再登場し、一転して月のような儚い輝きと陰影を表現していたことも印象的だった。(マーゴット・ロビーは、今やハリウッドにおいてその出演作にもっともハズレが無い女優の一人だと思う)  次々に登場するオールスターキャストもみな印象的で素晴らしい。 ジョン・デヴィッド・ワシントン、ゾーイ・サルダナ、クリス・ロック、マイク・マイヤーズ、マイケル・シャノン、アニヤ・テイラー=ジョイ、ラミ・マレック、そしてロバート・デ・ニーロ。殆ど事前情報を入れずに鑑賞に至ったこともあり、個性的な豪華キャストが登場するたびに驚き、高揚した。  特異なストーリーテリングとテンションが全面的に繰り広げられる作品なので、必然的に“お手本通り”に“万人受け”するタイプの映画ではないだろう。正直、間延びしていたり、展開的な違和感を感じる場面も少なくはない。 ただその映画的な歪さや、ある意味での居心地の悪さも含めて、本作が試みたブラックユーモアであり、現実の世界にも通ずるシニカルな批評性の表れだったのだと思う。  主人公は、文字通り満身創痍の身体と己の人生を受け入れて、引き続きこのクソみたいな世界で生き続けることを決心する。 その先に本当の愛はあったのだろうか。3人の親友たちはいつか再会して再び歌い合うことができたのだろうか。 アムステルダムの街は、また美しく、彼らを迎えてくれたのだろうか。 この映画の終幕の後に展開する世界の行く末と、彼らの人生模様を想像して、少し胸がキュッとなった。
[映画館(字幕)] 8点(2022-10-29 23:52:36)
131.  さかなのこ
「普通って何?ミー坊はよくわからないよ」  「普通」じゃない人生に嘆く幼馴染に対して、主人公の“ミー坊”は純粋にそう言い放つ。 そこにあったのは、安易な“なぐさめ”でもなければ“やさしさ”でもなかった。 ミー坊自身、普通じゃない生き方をしていることへの自覚があったわけでもないだろうし、好きなものをただ「好き」と言い続けることの価値なんてものを「意識」していたわけでもないだろう。  ただボクは“お魚さん”が好き、だから、“お魚さん”のことばかり考えて生きていきたいし、生きていく。 もし、ただそれだけのことが「普通」じゃないとされるのなら、しかたがない。  彼の根幹にあり続けるものは、雑味のないその「意思」ただぞれのみであり、それ以上でもそれ以下でもない。彼は自ら選択したその生き方に対して、他者からの意味も価値も求めていない。だからこそ、決して揺るがず、ブレない。  それが、この映画の主人公の魅力であり、彼を描いた本作の魅力だろう。 誰しも、自分自身に対して嘘偽りなく、まっすぐに生きていたいと心の中では思っているはずだ。 でも、残念ながらこの世界はそういうことを簡単にまかり通せるほどやさしくできていないし、そういう意思表示をすることさえ難しい。 そんな「意思」を貫き通す主人公が登場しても、「こんなのファンタジーだ」と、普通の大人なら感じてしまうだろう。  そう“普通”なら、こんな馬鹿げたヘンテコリンな映画は、まともに観ていられないはずなのだ。 だがしかし、この映画の中心、この映画を生み出したプロジェクトの中心に存在するモノが、「さかなクン」という“リアル”であることが、この作品を奇跡的に成立させているのだと思える。 どんなに“変”な人間たち、どんなに普通じゃない人間模様を見せられていたとしても、そこにさかなクンという現実に存在する人間の人生が存在する以上、この物語が破綻することはなく、私たちはこの映画世界に没入することができる。  また、いびつで愛おしく多幸感に溢れる映画ではあったけれど、この映画は決して“綺麗事”や“理想論”を都合よく並び立てているわけではない。 あからさまにネガティブなシーンは敢えて一つも見せていないけれど、この映画世界の中では、常に苦悩と孤独、人生における辛酸がぴったりと寄り添っている。  その極みこそが、さかなクン自身が演じる“ギョギョおじさん”の存在だろう。 社会から拒絶され疎まれ、孤独に生きる“ギョギョおじさん”は、まさにさかなクン本人の“ありえたかもしれない姿”であり、主人公ミー坊自身の未来像かもしれなかった。 藤子・F・不二雄の短編漫画「ノスタル爺」のように、子供の頃に出会った孤独な大人は、自分自身の未来の姿だったという悲壮な展開すらも容易に想像できた。   作品のイントロダクションから伝わってくる情報を大きく越えて、全編に渡る“多幸感”とそれと合わせ鏡のように存在する“闇”を孕めた特異な映画だったと思う。 フィルム表現のザラつき、エモーショナルな時代の風景、性別なんて概念を超越したアクトパフォーマンス、そして好きなものを好きと言い続ける崇高さ、映画表現を彩るあらゆる面で、意欲と挑戦に溢れた傑作。
[映画館(邦画)] 10点(2022-09-23 09:51:55)
132.  9人の翻訳家 囚われたベストセラー 《ネタバレ》 
久しぶりに、「良いミステリーサスペンス映画を観た」という充足感に包まれた。 マクガフィンとして物語の中心に存在するベストセラー小説の「デダリュス」というタイトルが最後まで覚えられなかったけれど…。  世界的大ベストセラーの最新作の多言語化に際し、世界各国から9人の翻訳家が秘密裏に集められる。 その翻訳家たちを人里離れた洋館の地下室に隔離して、徹底した情報管理体制のもとで翻訳作業を行わせるというプロットはなるほど映画的だなと思ったが、なんとこれは実際に行われた手法だというから驚く。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズ最新作「インフェルノ」の出版の際に、同様のスタイルで翻訳作業が行われたらしい。  そんな事実に着想を得て練り上げられた脚本が、ずばり見事だったと思う。 慢性的なネタ不足で、世界的に小説や漫画の映画化が溢れる昨今において、この脚本のオリジナル性は価値が高い。 フランスの低予算映画で、それほど有名なキャストも揃っていないので(知っていたのはボンドガールを演じたオルガ・キュリレンコくらい)、最後まで登場人物たちに対する“焦点”が定まりきらなかったことも、サスペンス映画として効果的に機能していたと思う。  プロットの必然性により、国籍の異なる9人が集まり、彼らが織りなす言語と思考が入り混じることで、ストーリーの推進力と、巧妙な“ミスリード”を生み出していた。作中、アガサ・クリスティーの「オリエント急行の殺人」を引き合いに出したことも、巧い誤誘導だった。  もう少し、9人の外国人が群像劇を展開することによる現代的な視点や問題意識を盛り込めていれば、もっと映画作品として深みが出ていたような気もするので、その点はまたリメイク等にも期待したい。 ストーリーの顛末を知ってしまった今となっては、逆に各国出身のハリウッドスターを揃えたオールスターキャスト版も観てみたい。  ともあれ、サスペンス映画を観て純粋に“驚く”という機会も中々少なくなっているので、それを得られた時点で本作の価値は揺るがない。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-09-19 23:34:00)
133.  ブレット・トレイン
“ニッポン”は、世界中の外国人にとって、我々日本人が思っている以上に、唯一無二の「娯楽」の塊なんだと思う。 サムライ、ニンジャ、フジサン、アニメ、コスプレ、そしてシンカンセン。時代を越えて積み重ねられたその累々とした娯楽要素こそが、この国を愛する多くの外国人が求めるモノであり、憧れなのだ。  長年、そういった“ニッポン”を愛する外国人が生み出す映画を観ていると、日本人が見せたい“JAPAN”と、外国人が見たい“ニッポン”とでは、そもそものベクトルが異なるということをつくづく感じる。 昔は、そんな“トンデモ”日本描写に対して鼻白むことも多かったけれど、今は、逆輸入の新しい娯楽性として純粋に楽しめるようになったし、それほどまでこの国を愛してくれている海外クリエイターたちに感謝を覚えるようになった。 そう、そこにあったのは、日本文化に対する「無理解」ではなく、圧倒的な「愛」だったのだ。  結論を言うと、本作「ブレット・トレイン」(a.k.a「弾丸列車」)は、想像を遥かに超えた“トンデモバカ映画”だったが、紛れもなく日本がルーツのこの作品は、日本人にとっても圧倒的娯楽だった。 ずばり、エンターテイメント大作として“ケッサク”である。   私は伊坂幸太郎の小説のファンなので、原作「マリアビートル」も既読。 というよりも、ブラッド・ピット主演で映画化という情報を聞き入れてから、一年ほど前に読んだ。 伊坂幸太郎らしい軽妙さと人生観を孕んだ楽しい娯楽小説で、読了時点から本作を鑑賞するのが楽しみだった。 小説のストーリーラインを忠実に映画化しているというわけでは勿論なく、ハリウッド映画化にあたって文字通り大いに「脱線」していることは間違いない。 でも、その「脱線」こそが、ハリウッド映画化の意義であり、ブラッド・ピットが主人公を演じ、デビッド・リーチ監督がクリエイトすることによる付加価値だろう。  小説の語り口と比較すると、全く別のお話のようにも見えるかもしれないが、原作が描くテーマや精神性は、荒唐無稽の映画世界の中でもしっかりと反映されている。 疾走する高速列車の中で、登場人物たちの「悪運」と「幸運」が、絡み合い、鬩ぎ合い、運命を切り開いていく。 殺し屋たちが織りなすその群像劇そのものは、非現実なファンタジーだけれど、現実世界であってもおびただしい人間たちの悪運と幸運が入り混じっていることには変わりなく、その一つ一つの結果が「人生」であるということ。 理不尽な状況下の中で、悪運を撒き散らしながらも、自身の信念を持って存在し続ける主人公の姿こそが、今この世界で「生きる」ということの本質なのかもしれない。   ともあれ、ちょっと珍しいくらいに嬉々として娯楽映画の主人公に扮するブラッド・ピットを堪能しつつ、“トンデモ”が止まらない本作の暴走ぶりを楽しむのがよろしかろう。 本作の舞台となる“弾丸列車”の名称は「ゆかり」。 そう、ほっかほかの“白飯”に、極彩色豊かな“ふりかけ”をたっぷりかけて味わうつもりで。
[映画館(字幕)] 9点(2022-09-17 22:15:49)(笑:1票) (良:3票)
134.  スパイダーヘッド
イントロダクションと映画世界への導入はとても良かった。 孤島に建設されている近代美術館のような刑務所施設の出で立ち、無機質な室内空間、そしてクリス・ヘムズワースの渇いた笑顔。 敢えて、意識的にポップに仕立てられたオープニングクレジットは、逆説的にこの映画世界の不穏さを雄弁に物語っており、興味をそそられた。  「とても面白そうな映画」 それは、Netflixオリジナル映画の一つの特徴となりつつある。  もちろん、映画の予告編やあらすじを見せて、「面白そう!」と感じさせることは極めて大切なことだ。 特に、映画に限らず、これだけありとあらゆる娯楽コンテンツが溢れ返っている現代社会においては、何を置いても、「再生ボタンをクリックさせる」というユーザーアクションの創出以上に重要なことなどないのかもしれない。 “面白そう”なオリジナル作品が常にラインナップされる以上、映画ファンの一人として、“そこ”から離れることはなかなか難しい。  が、結果的には、面白そうな映画で、実際面白い部分もあったけれど、ガツンと心に残り続ける作品に仕上がっていることが少ない。というのが、Netflixオリジナル映画の実態だ。  本作も、前述の通り、非常に興味をそそる映画世界を構築していたのだけれど、最終的な印象としては、極めて薄っぺらく感じた。 結局は、ストーリーが“ありきたり”の範疇を出ておらず、話が進むにつれて尻つぼみになっていった。 この手のストーリー展開にリアリティなんて求めても仕方ないことだし、近未来を舞台にしたディストピア設定なのだから、もっと振り切った展開を見せるべきだったろうと思う。  “ソー”からの「脳筋」イメージ脱却を図るクリス・ヘムズワースは、大いに屈折した製薬会社の人間を怪演していたと思うし、今年は「トップガン マーヴェリック」の記憶がまだまだ鮮烈なマイルズ・テラーも印象的な雰囲気を醸し出していたとは思う。 ただ、それぞれのキャラクター性も今ひとつ踏み込みきれぬままストーリーが収束していくので、何とも中途半端な人間描写に留まってしまっている。  それこそ、本作の監督は「トップガン マーヴェリック」のジョセフ・コシンスキーなわけで。 同じ監督、同じキャストであっても、何か要素が異なれば、映画的なエネルギーはここまで差が出てしまうということ。 詰まるところ、それが「トップガン」でトム・クルーズがエゴイスティックに拘り抜いたことであり、Netflixに限らず配信作品に何か物足りなさを感じてしまう要因なのではないかと思える。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-09-17 22:15:05)
135.  ムーンフォール 《ネタバレ》 
やっぱり僕は、ローランド・エメリッヒ監督の「馬鹿」がつくほどの超大作が大好物らしい。 中学生の頃に観た「インデペンデンス・デイ」以来のその趣向を改めて思い知った。 Amazon Prime Videoで公開されたこの超大作、ネット上の評価は概ね芳しくないようだけれど、僕は断然「大好き」だった。  タイトルそのままに「月が落ちてくる!」というイントロダクションに嘘偽りは全く無い。 あらゆる科学的考証なんて完全無視するかのごとく、突如として月が地球に迫ってくる。 まさしく読んで字の如しの「天変地異」、映画史上最大クラスの“災害映画”であることは間違いないだろう。  ただし、時代は2022年、今更大仰なディザスタームービーを謳われても、特に日本での劇場集客が難しかったろうことは理解できる。 それこそ同監督の超大作が立て続けに公開された90年代後半ならいざしらず、もはや“地球が崩壊する有様”なんて、特に映画ファンでなくとも見飽きているというもの。 そういう意味では、本作のプロジェクト自体が、安直だったことは否定できないし、日本国内では配信公開となったことは賢明だったとは思う。  が、しかしだ。 前述の通り1996年の「インデペンデンス・デイ(ID4)」に熱狂し、世評の揶揄や嘲笑を感じながらも、「GODZILLA」「デイ・アフター・トゥモロー」「2012」と、一種ジャンル化した超大作ディザスタームービーを楽しんできた世代の映画ファンとして、2022年に観る本作は、ある意味感慨深く、やはり楽しかった。  流石にただの「災害映画」一辺倒のストーリーテリングだとマンネリは避けられないかと思っていたけれど、そこに月にまつわる“都市伝説”と“オカルト的学説”を強引にねじ込み、トンデモSF映画に「昇華」させている。 もちろん、このトンデモ展開を是と捉えるか、否と捉えるかは人それぞれだろうし、きっと多くの人たちは否定するのだろうけれど、SF映画ファンとしてこの強引な展開は非常に好ましかった。  キャスト的にも、長らくファンのハル・ベリーは女優として良い年のとり方をしていると思えるし、パトリック・ウィルソンを主演に配することによる良い意味での“B級映画感”も個人的には好印象。 少ない出演シーンながらドナルド・サザーランド、マイケル・ペーニャと脇役のキャストも意外に豪華だった。(マイケル・ペーニャは最後生きていてほしかったが……)  クライマックスの展開などは、言うまでもなく「ID4」やその他作品の焼き直しだし、既視感は否定できなかったが、それでもド定番な“負け犬たちのワンスアゲイン”展開には胸熱にならざるを得なかった。  もし日本で劇場公開されていたならば“大コケ”は不可避だったのかもしれないけれど、それでも僕はこの馬鹿映画を大スクリーンで観たかった。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-09-04 09:22:47)(良:3票)
136.  モービウス 《ネタバレ》 
夏時期になると自宅の周りにコウモリが多くて困っている。 以前などは、いつの間にか室内に入り込んでいて、恐怖におののいた。 本作で、主人公モービウスがコウモリの化け物に変態してしまって、天井の片隅に張り付いている様は、その時のおぞましさを思い出すとともに、禍々しくて良かったと思う。  作品全体を総じて、ハイセンスなビジュアルは流麗で独創的だったと思えた。 怪物化したモービウスが煙のような形態で、縦横無尽に飛び回り襲いかかる描写も、美しさと禍々しさを併せ持った印象的なビジュアル表現だった。  主演のジャレッド・レトは、“変態前後”で見事な肉体改造を見せ、新たなダークヒーローを熱演している。 主人公の親友でありヴィランとなる“マイロ”を演じたマット・スミスも、独特な風貌と佇まいで好演していたと思う。ヒロイン役のアドリア・アルホナも良かった。  映像表現も、キャストのパフォーマンスも優れていたのだが、いかんせん話運びが稚拙で上手くない。 ストーリー展開が破綻しているということはないし、主人公やその親友の悲痛な人生や、ヒロインとの関係性など、エンターテイメント映画として高揚感や感動を生む要素は確実に孕んでいたと思える。 適切なストーリーテリングで深めるポイントを間違わなければ、もっとストレートに胸に響く味わい深い作品になっていたのではないかと思う。  MCU作品「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」でのマルチバース展開を経て、ソニー・ピクチャーズに舞台を移した新たなユニバース展開を広げていくためのポストクレジットシーンも、少々物足りない。 マイケル・キートン演じるトゥームスの登場自体は良いが、それだけではやはり弱いし、本作における主人公の帰着に対して違和感は拭えなかったなと。  残念ながら満足感の高い作品では無いが、続編と計画されているユニバースの展開には期待したい。 本作のモービウスのケムリ移動に、スパイダーマンやヴェノムのアクションが入り混じった光景は、想像するだけでもアメージングだ。 何よりも、ジャレッド・レトには、アメコミ映画におけるせっかくの熱演・好演が報われなかった過去(無きものにされた元祖“スーサイド”)があるので、今回は何とか報われてほしい。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-08-28 00:05:40)
137.  グレイマン 《ネタバレ》 
「“超人的”はやめろ バカっぽい」  “キャプテン・アメリカ”役を卒業して、ある意味「自由」になったクリス・エヴァンスをサイコパスな悪役に配し、この台詞を放たせたことが、本作のハイライトかもしれない。   「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」から「アベンジャーズ/エンドゲーム」までの各作品の指揮をとり、MCUの“インフィニティ・サーガ”を見事に締めくくってみせたルッソ兄弟による本作におけるアクション描写の手腕は流石だった。 アクション映画としての“見せ方”と“魅せ方”は、作品全編において「工夫」が張り巡らされていて、楽しく、引き込まれる。  前述のクリス・エヴァンス含め、キャスティングも良かった。 主演のライアン・ゴズリングは鍛え上げられた見事な“肉体美”と、この俳優持ち前の“憂い”で、アクション映画の主人公として申し分ない魅力を放っていた。 「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」の記憶もまだ新しいアナ・デ・アルマスは、「007」での少ない出演シーンで世界中の映画ファンを虜にした魅力を存分に見せてくれた。 また個人的には1996年の「スリング・ブレイド」以来のビリー・ボブ・ソーントンという俳優のファンなので、久しぶりの出演作鑑賞が嬉しかった。  と、アクションもキャストも最高だったのだけれど、いかんせんストーリー展開がありふれておりチープ過ぎた。 スパイ・アクションの部類である以上、もう少しストーリーテリングにおけるケレン味や小気味よさがほしかったところ。 キャストのパフォーマンスはそれぞれ安定していたはずだけれど、演じるキャラクターの言動があまりにも予定調和的過ぎるので、結果的に「凡庸」に見えてしまったことは否めない。  続編を狙っているためか、諸々の設定が未回収な箇所も多く、本作単体の結末にカタルシスが得られなかったことも大きなマイナス要素だった。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-08-15 22:25:11)
138.  ONE PIECE FILM RED 《ネタバレ》 
「ONE PIECE」の映画作品の鑑賞は、「STRONG WORLD」、「FILM Z」に続いて3作目。 原作漫画ファンなので、アニメシリーズは殆ど見ておらず、映画作品も公開時に評判の良かった前述の2作品を観たきりだった。 ただ、今年になって小2の息子がアニメに夢中になっており、シーズン1から延々と観続けている。 そんなこともあり、夏休みどこにも行けず暇を持て余していた子どもたちを連れて、4DXで観てきた。   本作のテーマは、「歌」を通じた「自由」という渇望とその危うさ。  「自由」とは何か? 抑圧や支配、苦しみや悲しみを安直に拒否し、それらが皆無の限られた世界に閉じ籠もることは、果たして自由か。 自由の渇望とは実はとても曖昧な概念であり、それを悪意はなくとも浅く捉えてしまったとき、自由の追求そのものが独善的な狂気になり得るということ。 これは決して大仰なテーマではなく、僕たちの普通の生活や人生の中でも、往々にして起こることだと思う。  歌手のAdoを歌唱パフォーマンスにキャスティングし、ほぼアテ書きのと思われる「UTA」というオリジナルキャラクターを造形することで、歌い手のパフォーマンスに振り切り、そういうテーマの浮き彫りに絞ったストーリーテリングは好感が持てた。 そのテーマとストーリーは、Adoを世に出したヒット曲「うっせぇわ」のセルフアンサーのようにも感じ、作品としての立体感につながっていたと思う。  オリジナルストーリーの映画であるがゆえに、キャラクター設定やストーリー展開の強引さはある。 避けられない不運が重なったとはいえ、シャンクスが娘同然の少女を十数年も放置していたことには違和感があるし、それによってウタが辿った運命は悲痛すぎる。(そのあたりについては、せめて連載漫画の扉絵シリーズなどでフォローしてほしい)  とはいえ、25年に渡って「ONE PIECE」を読み続けているファンとしては、ほぼ初披露と思われるシャンクスをはじめとする赤髪海賊団の面々のバトルシーンと、従来の敵味方が入り混じった“ドリームチーム”に、想像以上に興奮した。(まさかブルーノが萌キャラとして登場するとはな)
[映画館(邦画)] 6点(2022-08-12 22:29:04)
139.  ジュラシック・ワールド/新たなる支配者
1993年の「ジュラシック・パーク」から約30年、時間を越えて、時代を越えて、一つの映画シリーズを“体感”するというプロセスは、映画ファンとしての一つの醍醐味だと思う。 かなり破茶滅茶な作品に仕上がっていることは否定しないが、30年間このシリーズを観続けてきた一恐竜映画ファンとして、“胸アツ”だったことも否定できない。  30年前、10歳かそこらだった私は、父親と劇場のスクリーンに蘇った恐竜の闊歩を目の当たりにした。 映画制作におけるCG技術もまだまだ黎明期だった時代、スティーヴン・スピルバーグによってもたらされたその“恐竜世界”は、まさにアメージングであり、エキサイティングな体験だった。 個人的にも、映画を映画館で観るという娯楽体験の本質を、心に植え付けてくれた作品だったと思える。  そんな映画史的にも、個人的にもエポックメイキングな作品の「完結編」と謳われる本作に対して、熱くならないわけがないのだ。 前述の通り、破茶滅茶な映画であり、ストーリーテリング的に破綻している箇所もあるだろう。 ただし、そういう破茶滅茶をまかり通すのが、SF映画であり、娯楽映画であると、私は思う。  SF映画に対して、「科学的ではない」などというクレームをつけるのは、そもそもナンセンスだ。なぜなら、「SF」とは科学的に説明できないことを空想で物語るものであり、そもそも「科学」とは未知なるものを想像し、探求する学問だからだ。 暴論を恐れずに言うならば、「科学的ではないことこそが、科学なのだ」と私は信じている。  “ジュラシック・パーク”の創始者ジョン・ハモンドが、空想し、想像し、巨万の富を駆使して“実現”したのは、まさにそういう世界だった。だからこそ、人々は倫理観を越えて熱狂し、30年間に渡って繰り返し“恐竜世界”を求めたのだと思う。   と、ついつい“空想”と“現実”が入り混じった感情を抱いてしまうが、とにかく私はそれくらいこの映画シリーズが大好きだった。 そして、ついには恐竜たちが世界中に蔓延り、地球上の生命の「種」を混ぜっ返すようなSF世界まで到達してみたこの最新作もとい最終作を私は断然支持したい。  ああ、楽しかった。 映画鑑賞においてその多幸感に勝るものなどない。
[映画館(字幕)] 8点(2022-08-05 23:15:24)(良:1票)
140.  オールド 《ネタバレ》 
詰まるところ、人間にとっての最大の脅威は「時間」であるということ。 「時間」というものの非情さと残酷。それに直接的に脅かされた時、またはそれを独善的に操れると知った時、人間は狂気と慈愛の狭間で混乱し、混沌を生む。  立ち返ってみたならば極めて普遍的なテーマを主軸に据えた話ではあった。 だが、そこからよくもまあこんな狂った“設定”を思いつき、ストーリーを練り上げ、緊張と恐怖を創出できるものだ。あまりにも奇妙な事象を、極めてシンプルな映画世界の中できっちりと表現している。 「さすがはM・ナイト・シャマランだ」と称賛するに相応しい作品だったと思う。  私自身、常に時間の経過には焦り、脅えている。 特に忙しない人生を送っているわけでもなく、呑気な部類の生き方だとは思うが、それでも無情に過ぎ去る時間を無駄にしたくはないと常に思っているし、ふと覗いた鏡の中の自分が徐々に確実に老いていることを感じるたびに、焦燥感は吹き出る。  自分の子供が生まれ、彼らの足早な成長を目の当たりにするようになると、時間の経過とそれに伴う自分自身の“変化”は、事程左様にくっきりと輪郭を帯びるようになってきた。本作において子供のキャラクターを複数設定している意図は、まさにそういう部分にあったに違いない。  この映画の中で、登場人物たちは非人道的な時間による暴力によって、狂気のるつぼに放り込まれる。 ただでさえ非情な時間が、轟々と音をたてるように流れていき、彼らは焦ったり、恐怖に怯える間もなく、異常な現実を突きつけられる。  この映画のストーリーテリングが、とても恐ろしく、同時にとても面白いのは、登場するキャラクターたちが、異常事態による恐怖や狂気によって破滅していくというよりも、あくまでも「時間」の経過に伴う自然の摂理や、人間としてのある種の成長によって、一生を終えていくというところだ。 ある者は老衰で、ある者は持病の進行によって、ある者は老いていく自分の姿に耐えられず、そしてある者は人間的成長に伴って生まれた盲目的な使命感によって……。  つまりそれらは、すべての人間が通常の世界で生きていく中で誰しも迎え得る結末であるということ。 この世界で生きるすべての人間は、「時間」というサバイバル中に身を置き、生死をかけて彷徨い続けているということを、この奇怪な映画世界は雄弁に物語っていたのだと思う。  どんなに異常で暴力的な時間経過の只中であっても、適切な“死の順番”を迎えられたことに対して、主人公家族の両親たちは“束の間の幸福”を得られたのだろう。 私自身、人の親として、また人の子として、せめてそのことは守りたいと切に願う。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-07-10 00:19:50)
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