1481. 次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊
《ネタバレ》 豚松の母親の嘆きなど、「カタギ」と「馬鹿」が対比される。やくざというのは、つまり「馬鹿」の開き直りってことなのか。馬鹿の石松は吃らなくなり、死ぬときには左目が開く。死んで治る馬鹿もあるのだ。嵐の祭りの夜、お面が乱れ走るあたりが映画として美しいところ。今まで命を粗末にしてきた馬鹿が、恋をして、俺は今死ねねえんだよう、と言いながら死んでいくところが哀切のポイントで、こういうのは後の仁侠映画の脇筋でもしばしば使われることになるわけだ。ラストは、石松の死、身請けされて晴れ晴れと道中の夕顔、青空、そして怒りに燃えて海辺を走っていく次郎長一家の面々、というシーンをバッバッと並べただけでバタンと終える切迫。シリーズ全部を通して言えるんだけど、仇役に対して映画はほとんど興味を見せない。仇が現われたとき、この身内がどんな反応をするかってことのほうが眼目になる。視点は一家の外でなく、内にある。唐突だけど、これはかつての日本の国策戦争映画の特徴とも重なっている。そういう余分なことを考えちゃうと、石松の死を、ただ哀切として味わっていいんだろうか、という気分にもなるんだ。 [映画館(邦画)] 7点(2010-02-19 11:59:30) |
1482. 次郎長三国志 第七部 初祝い清水港
《ネタバレ》 正月映画らしい道具立てで、忠臣蔵の七段目をベースにしたような一編。もっとも大石はリコウがバカの振りをして浮かれていたのに対し、俺たちゃバカがバカやって、とぼやいたりはする。お蝶の百ヶ日までは我慢して、その後で千葉信男との対決という寸法。「バカ」というのは「企てる」のが下手、ってことだろう。だとするとフグ中毒を偽装するのはあんまり合ってないことになるのだが、バカがバカなりに企てて、という面白さと思えばいいのか。バカは間が持たない、とも言う。佐太郎が小料理屋を開く、大政の妻がやってくる(武家言葉とのちぐはぐさで笑わせる落語的要素)、など「周囲のその後」で話の隙間を埋める。千葉信男の手下たちが夜の街を巡礼の鈴を鳴らして走り回る妖しさ。やはり久慈・越路の姐さんたちが決まっていて良い。最後、尻もちをついている久六に対してイットーサンたちが割りゼリフで決めるのも、歌舞伎的で正月映画らしい。 [映画館(邦画)] 7点(2010-02-18 12:00:42) |
1483. 次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家
《ネタバレ》 御詠歌を流す巡礼で始まり、一転渋い一編となる。逃げ回り野に伏す日々。石松が思わず吃らずに嘆いてしまったりする。男泣きの場が多い。「こらえる」ってところがポイントのようで、これにさらに磨きを掛けたのが後の仁侠映画になるのだろう。流れ流れて貧しい小松の七五郎のところに身を寄せる。雰囲気としては二作目の佐太郎の場に似通っているが、意外と女房役の越路吹雪のきっぷの良さがいい。考えてみれば久慈あさみも結構そうだが、非時代劇的なバタくさい顔は、人情濃い女に仕立てやすいのかも知れない。金の工面のために身を売ろうとする話を、彼女のキャラクターが救っている。鬼吉がカタギの両親を泣かせて金を融通する、大政がもとの女房と会う、など過去との接触もあるのが本編の特徴。ヤクザはカタギに迷惑かけちゃあいけねえんだ。若山セツ子のお蝶の死が訪れる。いかにも「幸薄い」キャラクターで、これを観たのが彼女の自殺の後だったためか、より薄幸さが迫ったものだった。次郎長も、しかたなくいやいや人を斬ったことを、おびえてうなされたりする。やはり暗い。 [映画館(邦画)] 7点(2010-02-17 11:08:47) |
1484. 次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路
《ネタバレ》 まず祭り。陽気な爆発。路地の中にゆっくりと踊りながら入り込んでくるおせんちゃんのカット。お囃子が聞こえ続ける中の、お蝶の馴れ初めを語るおのろけ、ぼんやりと手を踊らせながら語る。こういうおのろけは不吉な予感でもあるわけだ。で、そのはしゃぎの中に悪い知らせが来て緊張になる。お仲を救うために殴り込みにいく。三度笠に合羽の男どもが道を行く風景はそれだけで美しく、しかも罠と知っても行く「男いき」の心情によって増幅される。振り分けの荷を捨てる。目潰しの粉は、木洩れ日をより美しく見せるためだろう。なんら複雑なものはない。ここでは仇すらあってなきが如きもので、ただただ次郎長親分とそれを信じてついていく子分の関係のみが重要らしい。豚松は死に際に「親分が好きだ」と繰り返す。この「馬鹿」ぶりは現実世界では批判されなければならないと思うんだけど、それを美しいと見る文化が厳として存在し、それに洗練も加わっているので、私なども「嫌だなあ」と思う気持ちと、ホロッとしてしまう心情とが、入り混じった状態になる。カラッと陽気な世界は本作までで、以降しだいに湿り気を帯びていく。 [映画館(邦画)] 7点(2010-02-16 12:10:04) |
1485. 次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港
豚松(加東大介)とカタギとの関係が今回のポイント。豚松(個人)は次郎長の子分(集団)に入りたいが許されない。立派な魚獲りとヤクザもんという身分の高低のタテマエがあり、しかし個人の集団への憧れが逆方向にある。このカッコつけは仁侠映画でも常にあるもので、彼らの屈折した美意識かも知れない。豚松の対極にいるのが三五郎で、はっきりと所属しない一匹狼的傾向、ここに「ニヒル」が生まれる。さらに「裏切り」ってことがポイントになってくるんだけど、これがこれまでワッショイワッショイやる陽気な連中からは排除されていたものだった。でもこのシリーズではあくまでワッショイ派が主で一匹狼派は従。ラストで初めて本格的なチャンチャンバラバラが訪れる。人情的味わいとしては、やや劣る一篇か。 [映画館(邦画)] 6点(2010-02-15 12:07:01) |
1486. 次郎長三国志 第三部 次郎長と石松
追分三五郎の小泉博と石松の森繁とのロードムービー的要素あり。こういうコンビは「さぶ」とか「ハツカネズミと人間」とか、「計画するリコーと純情のバカ」といった普遍的な安定したコンビであって、しかも女が絡む。女はバカを肯定するが、しかし好きにはなれない。で、男同士はやっぱりいいなあ、となるわけ。次郎長のほうも男だらけで、牢屋の中でもワッショイワッショイで勢いつけて牢名主に対する。このワッショイの陽気さ志向こそ、このシリーズの眼目で、好き嫌いは別にして男の集団の一つの原型ではある。彼らがそれぞれに黒駒の勝蔵と向かい合っていくことになる展開。壷ふり女の美しさってのがとりわけ映画で際立つのは、壷を置くまでの素早い「動」から「静」の緊張に至り、上目づかいで見据える顔が実にキマるところにあるんだろう。田舎の湯治場の狭い道を、お仲が歩いていくシーンなんかなぜか懐かしい。 [映画館(邦画)] 7点(2010-02-14 10:45:56)(良:1票) |
1487. 次郎長三国志 第二部 次郎長初旅
《ネタバレ》 小堀明男の笑いって、いわゆる親分的な不敵な笑いのなかにちょっと「はにかみ」のようなものも感じられ、未来の裕次郎を予告していないか。つまり日本における理想的な「不良」の型。権威に対する軽蔑、イキがっても興奮を抑える。堺左千夫の一家の歓待が主。少しの酒で酔った振りをし、佐太郎のほうもそれを了解している、そういう一見まわりくどい「分かり合い」の儀礼。とても日本的。博打で大勝ちを続けているところだけを見せて、それだけでスッちゃうとこを暗示させ、あとは身ぐるみ剥がされて寒い朝ヒョコヒョコ帰ってくるロングカットになる。河原のケンカも囲まれるところで、チャンチャンバラバラは見せないで、ちゃっきり節唄いながらの陽気な道中になってしまうのだ。この省略の味わい。ラストで森繁の石松が顔を出す。吃音を十分溜めたあとで立て板に水の口上を述べ、最後にまた吃って締める。実に鮮やかな登場ぶり。つまりこの一家、江戸言葉、尾張言葉、大阪弁などの地方言葉にさらに吃音まで加わって、多言語世界を構築するんだ。 [映画館(邦画)] 7点(2010-02-13 12:10:24) |
1488. 次郎長三国志 第一部 次郎長売出す
「馬鹿」な男たち、ってのも“男”の一つの原型で、のちの任侠もののストイックとは違い、無邪気にジャレあっているような連中。侍の大政が、武士社会の窮屈さから逃げ出して飛び込んでいきたくなるようなところ。大変だ大変だ、と両手をブンブン振り回して走っていき、ワッショイワッショイと川を往復し、なんて言うのかなあ、とにかくなんにも「企てていない」人間たち。冒頭の親分が尻ッパショリしながら後ろ向きに家を抜け出していくような、ああいう姿勢のイキさ。いろんな個性を持った連中が次々に集まってくる楽しさ(『七人の侍』の二年前か)。でも、棺桶を担いでケンカの口上に走る田崎潤のように、どこか死が近くにあるんだな。次郎長とまだ侍の大政が真剣で稽古を始めてみたり。陽気さやはしゃぎの背景に死が控えている。とりあえず仲裁という死を回避させる行為で名を挙げるまでなのだが。ラストで田中春男が予告編的に登場。 [映画館(邦画)] 7点(2010-02-12 12:04:54) |
1489. びっくり五十三次
このタイトル見ると道中ものだと思うじゃないか。最初はそうなんだけど、映画の大半は金谷の宿にいて、全然「五十三次」じゃないの。森の石松やお染久松を絡めて賑やかにはしている(お染はまだ林玉緒時代の中村玉緒、誕生日前なら14歳か)が、タイトルから期待した道中ものの晴れ晴れとした気分は味わえなかった。高田浩吉が二枚目半の役どころでこっちが主役、ひばりは画面に出てはいるんだけど、あんまりドラマの進行に積極的な意味を持ってなく、脇にいるだけで手持ち無沙汰という印象だった。とにかく出ていて歌えばファンは納得したのだろう。のちのこの監督の才気はうかがえなかった。バックの音楽が童謡・唱歌をはじめいろいろ何でも流れてくるのが楽しくはあった。夫婦が別れの場では「花も嵐も~」、妹探しの道中では「上海帰りのリル」、お祭りのシーンでは当然「お祭りマンボ」、飯田蝶子と左卜全の場では「オールド・ブラック・ジョー」。これはおそらく年寄りということで使われたので、飯田蝶子の名作、小津の『一人息子』でも使われてたこととは無関係であろう。 [DVD(邦画)] 5点(2010-02-11 12:02:47) |
1490. 紀子の食卓
《ネタバレ》 『自殺サークル』を観てないせいか、集団自殺とレンタル家族の、テーマとしてのつながり具合がよく分からず、判断留保の部分が多くなってしまうのだけど、レンタル家族のテーマに限れば、ラストの実家のセットを組んでいくあたりへ向けての緊張は楽しめた。未知の他人の家族を演じることで得た解放感と喪失感、解放したつもりで引きずっていたもの、喪失したつもりでまだ残っていたもの、などなどが、ゴチャゴチャと未整理のまま提示され堆積していく手応え。ただあくまで「提示」であって、結論はない。もちろん結論などなくていいのだが、結論に少しでも接近しようとする試行錯誤があったのかどうか、そこがちょっと疑わしく、既製の「結論」的なものをパッチワークしただけじゃないか、という気分も残る。徹底したモノローグ進行という手法も面白く、弁士つきサイレント映画のような世界、いや弁士は第三者として存在しているわけで、これは本人が脇で説明しているホームビデオって感じか。「お父さんは寂しい」という新聞のスクープがおかしい。 [DVD(邦画)] 6点(2010-02-10 12:06:00) |
1491. ポカホンタス
《ネタバレ》 実写映画がSFXの進化によってどんどんアニメ化していたころ、アニメはどう迎え撃つのかってのが課題だったんだけど、どんどん実写化の方向に行ってて(もともとディズニーアニメは実際の俳優に動かせて型にしたそうだし)、なんか負けてるな、という印象だった。アニメでなければ表現できない動作なり表情なりを生み出せず、しかも本作なんか、欧米化した表情で先住民が動く。言葉が「素直な心になると通じ合う」ってのも象徴として分からなくはないんだけど、やっぱ安易な印象のほうが強い。野蛮人野蛮人と互いにののしり合っていた二組・二文明が、愛の力で和解するの。植民地主義に対する疑問は当然前面には押し出されない。アニメとしての冒険は皆無だったが、滝の前で二人が出会う静けさなんかは印象的だった。 [映画館(字幕)] 6点(2010-02-09 11:59:38) |
1492. リスボン物語
この監督は、どうも映画の中で「批評」してしまう。この人がしなければならないのは、手回しカメラで一本撮ることなのであって、そういう人物について語ることではないのではないか。自意識過剰の映画。すぐれた映画ってのは、自分が映画だということを忘れ去って生まれてくるものだろう。音を拾う場、街の音が次々に鮮明に立ち現われてくるあたりが面白かった。蚊とは、姿が見えず音だけでいらいらさせる存在だ。サイレントでは捉えられなかったものたち。そして音楽の豊かさ。人の声。これはロードムービーとは違うね。冒頭の各言語を突っ切ってリスボンの青空に至るところまではロードムービーと呼べるかも知れないが、あとは「人待ちムービー」、旅しているものを待つ映画だ。 [映画館(字幕)] 6点(2010-02-08 12:03:44) |
1493. ジュラシック・パーク
この映画の怖さのポイントは「舞台がテーマパーク」という設定だと思う。かつてのモンスターものは、怪獣たちが日常生活に闖入し蹂躙していくのが定番だった。私たちは、日常生活が破壊される恐怖と、日常生活が破壊される快感を同時に味わえた。私たちが私たちの世界に怪獣を迎え入れていた。しかし本作では、私たちが恐竜の世界に入っていく。もちろんこれは初めてのことではなく『ロストワールド』も『キングコング』もあったわけだが、それは「探検」の物語だった。だがこれは「探検ごっこ」である。この「ごっこ」の部分にとても現代性が感じられる。完全に制御されたスリルの場としての遊園地、日常と冒険とが奇妙にねじくれながら絡み合っている場としての遊園地、どんな危険も「ごっこ」の中で牙を抜かれてしまっていたはずのところで、不意に危険と私たちの境の網が破られてしまう。最初の襲撃のシークエンスが白眉だろう。テーマパークに入っていくときの浮き浮きした気分をたっぷり描き、おとなしい草食恐竜だけを見せて、肉食の方は気配だけに抑える。そして素早く「ごっこ」の部分を抜き去ってしまう。ヤギが消えていたり、コップの水が振動で揺れたりのスピルバーグお手のものの演出。しかし何よりも主人公たちが剥き出しにされている感覚、心理的に恐怖にじかに晒されている感覚が怖い。人類はひ弱だが知恵がある、という我々最大の自信が、つまるところ金網一枚だけで支えられていた程度のものだった、という発見が怖いのだ。 [映画館(字幕)] 8点(2010-02-07 12:07:14)(良:1票) |
1494. チェイサー (2008)
《ネタバレ》 前半は夜のドラマ、夜の街よりも夜の住宅地のほうが怖いのだった。街はとりあえず公共の顔をして門を開いているが、住宅地にあるのは閉じたドアと壁、中には家族の笑顔もあるだろうが、おぞましい世界も潜んでいる。そのおぞましいものがときおり路地に抜け出し、追跡が始まる。閉じた家から開いた都市へつなげている路地が、迷路のように延びている。追うのが走るのに似合わない太り気味の中年男、ってところに迫力があり、それがこの映画のすべて。配下のちらし配り男(リアリティあり)も走る。主人公は女を危地に至らしめた贖罪で執念を燃やすのだが、さらに子どもに母親を取戻すという要件も加わる。それで説得力は膨らんだかも知れないが、ドラマの輪郭はやや緩くなってしまったような。この手の犯人の気味悪さもちょっと型が出来つつあって、新鮮味を出すのが難しくなってきている(という社会も困ったものですが)。警察の対応が無能すぎないか。 [DVD(字幕)] 6点(2010-02-06 12:01:45)(良:1票) |
1495. GONIN
《ネタバレ》 バッティングセンターで始まるからというわけでもないだろうが、すぐ殴る。暴力が溜められない。暴力が瀰漫している。単純に言えば殺伐としている。撮りたかったいくつかのシーンはあったのだろう。竹中直人が帰宅した家、子どもがピアノへゆっくりと歩き、閉じられたドアの向こうに一瞬倒れている姿がうつる。かすかに見える風呂場の血。あるいはレストランでふと客がいなくなっている根津甚八のシーン。ただそれらがストーリーのツボにはまってるかというとそうでもない。アクション映画の話は単純なほうがいいとは思うんだけど、それはこういうこととは違うんだなあ。片目の殺し屋ってのは、ピストルだと難しいんじゃないか。鶴見辰吾にちょっと凄味。五人組が結びつくところに説得力が感じられなかった。 [映画館(邦画)] 5点(2010-02-05 11:58:17) |
1496. ガキ帝国
《ネタバレ》 ワルの階層というのがよく出ている。また、こういうふうにワルくなっていくんだなあ、というところも納得いく。ヒョイと死んでしまうとこなんかリアリティ。朝鮮人の友だちの改造拳銃や、リフトで車に突っ込んだところなど。「俺、歌手になりたかった」なんてのは、いらぬ技巧でしたな。つくりには粗いとこもあるけど、この三人組の仲間仲間してる感じがいい。とくに三人目のが「しっかりしてる」んだな。いろいろ寄り道しているようでいて、自分をしっかり捉えている。だからといってクールなのではなく、友の死ではホットになれる。実に好青年であった。言葉の凄味にも期待したんだけど、それほどでもなかった。 [映画館(邦画)] 6点(2010-02-04 12:02:37) |
1497. フィッシュストーリー
《ネタバレ》 ポイントがラストに詰まっているので、途中ずっと楽しめるわけではない。ラストの全員がつながっていく場はたしかに楽しいが、それで十分借りを返してもらったかというと、微妙なところ。でもこれらの登場人物たちが、みなちゃんと「立ち向かった人たち」の系譜にもなっていて、それが終末願望の人との対比になってるのが、いたって健全だった。終末願望者のセリフ「あきらめちゃダメだ、世界の終わりは必ずやってくる」って、現代人にはけっこう身近にある気分で、そもそもこういう「正義の味方」のホラ話を求める気持ちがあるってところに、自分のやってることに無力感を持ちがちな現代のつらさがうかがえる。社会が複雑になりすぎていることによる埋没感、あとは未来に価値が出るかもしれないという希望しかないわけだ。うっかりすると無差別大量殺人で存在感を確認したくなったりする者も出てくるわけで。そのなかで嫌みなく「立ち向かう人たち」を描いたところに意味がある。車でカセットの無音部分を聴くところ、あそこはワンカットで長回しで緊張させたいな、だってあとの録音一発どりのところはけっこう長く回してたじゃない、あそこで出来るんならこっちでも出来たろうに。 [DVD(邦画)] 6点(2010-02-03 12:05:01) |
1498. 鉄の男
《ネタバレ》 まさに現場という異様な興奮がある。どうしても撮っておきたいという切実さが感じられる。作品の構成は驚くほど『大理石の男』を踏襲していて、部外者の人間が一人物を取材してしだいに引き込まれていく、といったもの。このTVマン、裏切り者はこうなるのだ、という見せしめとして描かれていたとするならば、あんまり面白くないのだが、それにしては当局に引きずり込まれていくところを丁寧に描いていた。“連帯”の高揚に対する、なにか醒めた暗部をここに設定したことで、作品は深みを得たと思われる。興奮しているヒーローたちよりも、この男にこそ「自分だったらこうなるのではないか」というものを観ながら感じてしまうし、少なくとも批難する気にはなれない。ラストは何を言おうとしているのだろう。記者は最後、個人として連帯に加わろうとして拒絶される。自分から当局に免職を申し渡したのに、連帯はその勇気を認めてくれない。そして勝利の興奮に酔っている。ここにある苦み、真の連帯への道の険しさを感じたのは深読みのし過ぎだろうか。 [映画館(字幕)] 7点(2010-02-02 11:58:46) |
1499. 網走番外地 北海篇
《ネタバレ》 東映のヤクザ映画はだいたい新宿昭和館という名画座で観てて、ここは本物のヤーサンと並んでヤクザ映画を鑑賞できるという貴重な体験ができるとこだった。トイレで二人きりになったりすると緊張したものだ。ほかにも「一般市民」とはとうてい言えないいろんな異形の観客が平然とあたりにいて(ヘルメットかぶって頭との隙間にぐるりとチラシをたくさん差し込んでいるおじいさんとか)、思い出すと懐かしい。休憩時間には川中美幸の演歌が流れたりしてた。でこれ、アクション映画という前に、トラックに乗り合わせた人々の人間模様ドラマいう面がある。経営者の娘、ワケアリッぽい杉浦直樹、骨折した娘とその母、自殺未遂の女、それに若造と安部徹とくる。こういった面子なら安部徹がどうしたって目立つ。彼以外は善の方向を向く結末になるわけ。重厚な健さんの新作が次々作られていたころ観たので、チンピラ役は若干痛々しかった。男がムショに入っている間、嫁はしっかり姑に仕えてうんぬん、というのはちょっと無茶だな。 [映画館(邦画)] 6点(2010-02-01 12:06:42) |
1500. ラヴィ・ド・ボエーム
《ネタバレ》 この人の映画では、ついてない人がやたら出てくる。その自分の「ついてなさ」にうんざりしているのに、「ついてなさ」を過剰にどんどん受け入れていってしまう。その勢いに奇妙な爽快感すら感じられる。少なくとも彼らは、同情してほしいような素振りを見せない。まるでそれらの不幸が、自分が自由であることの証拠とでも思っているのか、人出に渡るのを惜しむかのように手あたりしだい受け入れていく。で本作、「若くて貧しい」芸術家のメロドラマが、カウリスマキの手にかかると、「もう若くなくてしかも貧しい」に変換されてしまうのだ。芸術家として名を成せるかどうかもう自信も挫けてきたころの、ふっと華やいだ一場面を掬い上げたよう。ピクニックのシーンがいい。これを若い連中がやってたらハナモチならない気分になったかも知れない。それをもっさりした中年男たちと、反メロドラマ的としか言えないミミというキャスティングでやられると、なんとも切なくていいのである。繰り返し現われる「花」のモチーフも彼らが冴えないからこそ生きてくる。まっとうな連中なら仕事をしているような時間に、中年の男女が花を摘んだりしていることが、ユーモラスであると同時に、どうしようもない切実さも伴って観客の前に展開するのだ。これを観ていると「貧乏なんて若者には贅沢すぎる」とつい思ってしまうのだ。 [映画館(字幕)] 7点(2010-01-31 12:12:08) |