1501. シリアの花嫁
《ネタバレ》 遠く極東に暮らすものにとっては、イスラエル占領地域からは出てシリアには入っていけない花嫁の歩むラストを、寓意ととっていいのかリアリズムととっていいのか、そこらへんからして曖昧で、ただ、占領地の住人は「無国籍」ってことになるのか、ってことは分かった。ニュースではパレスチナとの摩擦はよく出るが、北でもこすれてるんだよな、この国は。映画そのものより、この作品がどういう環境で製作されたのか、イスラエル内でどういう反応を得たのか、ってほうに興味がいった。なんか最近この国の映画はちょっと元気がいいようなのだ。軍のガザ侵攻に90%の国民が賛同している、なんてニュースを聞くと溜め息が出ていたものだが、一方でこういう映画も作られている。「我々」を歌うのではなく、「我々」によって疎外されているものに目を向け出している。かつてラビン首相を暗殺したような極右によって、「売国映画」と騒がれたりスクリーンを切られたりはしなかったのか。こういうフィルムが存在していること自体が、希望である。あの「修正液」に、まず正すべきはイスラエルの占領政策だ、とまで読み込んでいいのか。あちらの花婿をコメディアンに設定したのは、テレビでしか会えないということ以上の意味はあるのか。といろいろ湧き起こる疑問に遠い地の観客は戸惑いっぱなしだが、そういう疑点を得たことが私にとっては収穫である。 [DVD(字幕)] 6点(2010-01-30 11:56:51) |
1502. 不滅の恋/ベートーヴェン
《ネタバレ》 楽聖映画ってジャンルが昔はあったが、これはそれよりも、どちらかというとミステリー映画だった。「彼の不滅の恋人とは、音楽の女神のことだった」なんてなるんじゃないかと心配してたら、ちゃんと答えがあるのがいい。誤解のポイントに説明があって、一応推理ものとしてずるくない。16番の弦楽四重奏曲の楽譜に書き込まれていた言葉も使われていたりする(ただしそのときバックに流れていたのは13番)。馬車のぬかるみって伏線もあって(クロイツェル)、それらの解答が第九を背景に出てくる仕掛け。「月光」をピアノの蓋に共鳴させて耳当てて弾いているとこ、作曲家が聴覚を失っていく痛ましさが、彼の孤独とともに出ていた。甥への溺愛に自分の少年時代が重なる、この溺愛もまあ、伏線ってことになるんだけど。 [映画館(字幕)] 6点(2010-01-29 11:58:27) |
1503. 満員電車
《ネタバレ》 乾いたユーモア、人工的なセリフ回し、と特徴は備えているけど、けっこう暗い作品。音楽のせいもあるか。冒頭の傘の卒業式からして「混み合っている」イメージで統一されていく。バスがすれ違うところ、電車、通勤風景、街頭。つらい人生をこれでもかこれでもかと強調する。タッチはユーモアなのに、暗い。気づいた構図として、部外者のこっち向きの顔を隅に置いておくというのがある。時計屋でメガネをのぞいている男とか、船越英二の部屋での川口浩とか、ちょっと不気味な神経症的雰囲気。それと室内の照明、独身寮の空漠さを出すために過度にしたり、影を強調するために低くから当てたり(川崎敬三が訪ねていったときの小田原の実家、そしてこういう低い照明は晩年に至るまでずっと彼の好みになる)、デフォルメの効果。もっとハメを外してもいいんじゃないかと思うところもあるけど、その時代における貴重な一歩を踏み出している映画であったことはよく分かる。ラスト、小さな掘っ立て小屋を主人公は母と一緒に悲壮になって守り抜こうとしているのである。 [映画館(邦画)] 7点(2010-01-28 11:59:18) |
1504. 誰も守ってくれない
《ネタバレ》 こういうのはリアリティが大事で、といってこちらも実際の捜査の手順なんて知らないから、いかにもありそうだな、と思わせてほしいわけ。15歳の一般人乗せて警察の車がマスコミ振り切るために乱暴な運転するのは、なさそうだなあ、とつまずく。容疑者宅の表札にガムテープを貼るなんてのは、ありそうだなあ、とうなずく。検挙してすぐその日に家族の姓を変えるってのは、半信半疑、微妙なところ。少し時間をはしょってるんじゃないか、と疑うが、あるかも知れないとも思う。つまりそのようにリアリティがデコボコしてるので、せっかく「ありそうだなあ」の部分も薄れてしまう。後半のボーイフレンドが来ての警察の対応も、ないだろうなあ圏内。おそらく一番リアリティがあったのは、ネット社会の眼だろう。「もっとさらしてあげましょう」。バーチャルな世界を飛び交う情報が、現代では一番リアリティを持っている。ああいう連中は、「現実」をネットの空間に導き入れたいという欲求に突き動かされているわけだ。そのことで「現実」を手懐けたい・タカをくくりたい、という隠れた欲求があるのかも知れない。そこらへんが面白かったんだけど、盗撮機器の回収という目的はあっても実際現実社会に出てきて刑事に暴力ふるうとなると、途端に「なさそうだなあ」になってしまう。佐々木蔵之介の記者が尻すぼみ。 [DVD(邦画)] 6点(2010-01-27 12:03:18) |
1505. 愛の地獄(1994)
《ネタバレ》 いわゆるオセロ症候群てヤツか。それでいて実際に妻が不貞をはたらいている余地を残しておき、曖昧に断ち切る。いかにもフランスらしい、キレよりもコクの世界。結局中心にあるのは「深まる疑い」という一本のベクトルだけなんだけど、それこそサスペンスだ、ってんでしょうね。尾行をする場面で、映画は生き生きする、個人的な視点だからか。嫉妬というのは、すべての材料を悪いほうへ悪いほうへととめどなく勘繰っていく装置で、ひとたび作動すると、そのとめどのなさがスリラーになっていくんだ。ラストで冒頭の風景が繰り返されるが、もう自転車はやってこない。水上スキーのシーンって、おそらくボートのおしりで撮影するんだろうけど、撮影シーンを想像するとおかしい。 [映画館(字幕)] 7点(2010-01-26 11:57:59) |
1506. パンと裏通り
《ネタバレ》 なんかこれ、最も純粋なキアロスタミの世界なんじゃないか。ほとんどサイレント映画の精神。でももちろんトーキーで、オブラディオブラダに乗って、少年がカンを蹴りながら歩んでいく。犬の登場。陽気な音楽はゆるゆると消え、犬の目つき。その距離。無関係な自転車の通行人。老人(イヤホン)が登場。リズムに乗って一緒にいくと、犬の寸前で老人は左折してしまう。犬にパンを少しやると懐いてついてくる。一緒に並んでいく。門での別れ。犬はそこにうずくまる。犬はこうやって少しずつ歩んでいるのかも知れない。続いてミルクを持った少年がやってくる。…とこう書いていっても仕方がないんだけど、なんか書きたい気分にさせる映画なんだ。処女作でその作家の立脚点みたいのが分かるっていうけど、ほんとにそう。影の輪郭のはっきりした裏通りの気分を背景に、少年の心の変化をていねいに綴っている。おつかい帰りの浮き浮きした気分から緊張、そして友だちの発見、後ろ髪引かれる気分、と来て、しかしここで不意に犬の心に移るとこがすごい。等価なんだね。ここでワッと世界が広がる。映画における純度の高さってこういうのを言うんだろうなあ。 [映画館(字幕)] 7点(2010-01-25 12:04:07) |
1507. スラムドッグ$ミリオネア
《ネタバレ》 クイズの質問が、彼の半生の場面を次々に導いていくという趣向。その意外なつながり具合の楽しさで見せていく。最後は、前もって提示しておいた「三銃士」がクエスチョンに出てくるというヒネリがあって、これもいい。でも、そういったやや寓話性のある話に合った演出だったかなあ。なんか目まぐるしく、まさにテレビのショーを見ている感じ。テレビショーをテレビ的な演出で描いたら、映画の余地がなくなってしまう。カットが多くても落ち着いている映画はあるもので、展開の落ち着きのなさ、だ。語っていくことにばかり夢中で、その語り口を豊かにしようという工夫があまり感じられなかった。シンプルなラブストーリーでもあるのだから、もう少しじっくりした部分もほしい。結局、もう語るものがなくなったエンディングのダンスが一番落ち着いて見られたことになる。全体、音楽が調子いい。 [DVD(字幕)] 6点(2010-01-24 11:57:12) |
1508. 三里塚・五月の空 里のかよい路
前作『辺田部落』で、農民の暮らしそのものの記録にたどり着き、生活と労働とが互いを削りあっている不幸な近代(その象徴としての飛行場)を発見した小川は、その後「技術としての農業」を追って山形県に移り住む。彼が知ろうとしたのは手触りとして感じ取ることのできる「農業の楽しさ」であり、それが日本の「農業の衰滅」と同時進行で記録されていったところに、小川の後期作品群の凄味がある。『牧野物語・養蚕編』は、静かに養蚕の技術を追った記録で、何のイデオロギーも叫ばれていず、どう手間を掛けるとどういう効果があってそれが作り手にはどう楽しいか、ということを丹念に描いていくだけなのだが、かつて国の柱ともてはやされ、やがて見捨てられていった産業としての養蚕の歴史に思いを馳せないわけには行かない。で、これ、三里塚シリーズ7作目にして最終作。夏と冬の印象が強かったシリーズの最後は初夏である。描かれている内容は爽やかでもないのだけれど、気分として、ここには同じ農業をしているもの同士が久しぶりに再会した爽やかさのようなものを感じてしまう。あの鉄塔が倒される。田植えを中断して眺める農民たち。無念な気持ちはあるだろうけど、どこか超然とした気持ちもあるのではないか。すごく不謹慎な連想だとは思うが、なんとなくこの初夏の空気にふさわしいピクニックの気分すら感じられるのだ。機動隊によるガス弾の水平撃ちによって犠牲者が出る事件も起こる。しかし小川が一番心配するのは、そのガスが農作物にどのような害を及ぼしているか、ということだ。あるいは低空飛行する報道のヘリコプターの風圧がいかにスイカを傷めているかだ(思えばこのシリーズの一番最初のシーンは、機動隊によって踏み割られたスイカだった)。彼の関心は農業者としての興味に絞られていく。農業者ほど季節に敏感でなければならない者もないだろう。シリーズの最後に、さわやかな新緑の季節が置かれたのは悪くない。農業のスタートの季節。次の発芽に向けられた希望を、厳しい状況のなかからもかすかに感じたいという願いが、観客の中にも生まれてきてしまっているからだ。 [映画館(邦画)] 7点(2010-01-23 12:06:56) |
1509. 三里塚・岩山に鉄塔が出来た
この第5作は、シリーズの要をなす二本の大作にはさまれた地味な作品だが、小川の作品群を並べてみたとき、一つの曲がり角になる貴重な映画になっていると思う。この映画は一種のネガだ。滑走路を使えなくさせるための鉄塔を建てる、その技能を感嘆しながら記録したドキュメントで、だから本作で意識されるのは、ポッカリと中心に空洞ができたかのように感じられる農業技術の不在なのだ。今まで土地に根差し下へ下へと向いていた反対闘争のエネルギーが、ここで上を向く。大地の上で戦えなくなった農民たちが空中に鉄塔を目指すとき、今まで蓄積してきた技術はほとんど役に立たない。支援の若い棟梁に任せるしかない。農民はワイヤーを固定する作業でしか土と接することができないのだ。最初のほうに集会の場面がある。航空法に違反する鉄塔建てるとかえって当局に手を出しやすくさせてしまうのではないか、という考えが出ての論議。そのなかで青年行動隊の一人が、そんなことになるんだったら俺は何で今まで危ない思いして鉄塔作り手伝ってたんだよ、と泣き出しながら怒り出す。さかんに、バカヤロー、と繰り返しながら、しかし憤懣をうまく表現し切れずに苛立つ。このシーンは印象深い。この鬱屈を包む仲間の農民たちも、重い沈黙でどこか彼の気分に共鳴しているところがあるのだ。鉄塔が最後の抵抗であることは分かるが、そういう手段に漠然と感じる違和感、自分たちの生活と異なる場に移ってしまった反対運動の手応えの不確かさ。しかしそれに替わるものが何も見当たらない…。この農民と対照的にカメラが生き生きと追うのは、鉄塔を建てているトビの若者たちだ。自分たちの技能をフルに生かして何かを作り上げることの充足感。小川はこの対比を的確に捉えた。小川の労働観が明確に見えた最初の作品として、本作は位置づけられよう。やがて、そのように働く喜びを奪われてしまった人々のルポとして『どっこい!人間節』(編集)が作られ、そのように働く喜びを理想的に生み出している記録として『クリーンセンター訪問記』が撮影されていく。それにしても本作、鉄塔からの撮影は大変だったのではないか。観ていて足がすくむ。こんなにも高く、こんなにも農地から離れたところまで来てしまったのか、という感慨があるからだろう。 [映画館(邦画)] 8点(2010-01-22 12:18:22) |
1510. 三里塚・第二砦の人々
シリーズ4作目。前々作のラストは、農民が要塞を掘るその穴掘りシーンだった。彼らが土に帰っていく・土に沈んでいくといったちょっと現実を離れた寓話的イメージがあり、その掘り進めている土の壁に延びていた植物の根のアップが印象深い。で本作に至って根のモチーフは大きく膨らみ、農民が掘り進めていく抵抗の根としての地下壕のイメージにつながっていく。あくまで散文的な記録性を保持しながらイメージが豊かに広がっていく。おそらくスペクタクルとしての迫力はシリーズ屈指だろう。野外戦の興奮。権力の横暴といった理屈以前の、その場の高揚がフィルムを覆ってしまっている。農婦二人が自分たちを鎖で縛り合わせているところをじっくり写していたカメラがぐるりと振り返ると、タイヤを燃やす黒煙がもうもうと立ち込め、坂を下ってくる機動隊や、回り込んでいく学生たちが激しくうねっている。そこにかぶさってくるヘリコプターの騒音、拡声器の割れ声、耳をつんざく笛の響き、とにかく映画はその場を実感させ、体験させる。バリケードの隙間から火炎瓶を投げるタイミングをうかがっている学生など、へんに生々しい。またユーモラスなシーンも活きている。シリーズ常連の柳川のオバチャンが、自分の作戦を語るところ。「ベターッともうダメになったふりしててよ、あのジジイ(公団職員)が来たらよ、縛ったふりしてたこん鎖でもって殴ってやんだ」。緊張したところでふっと息を抜かせ、少し画面に近づき過ぎてしまっていた観客の気持ちを、微調整する働きがこういうシーンにはある。しかし本作の重要さは、農民が自分たちの手応えの分かる形で抵抗しようとしているところにあると思う。火炎瓶などといった今までの暮らしと無縁なものは学生にまかせ、自分を木に縛り付けたり、土に穴を掘ったり、彼らが一番手応えの分かっているもののそばに戻っていく。そのときに彼らが浮かべるちょっと晴れがましい表情。換気口つきの地下壕を作り上げた農民の照れくさそうな自慢げな笑顔。自分の技術を生かして何かを作り上げる楽しさ。三里塚で起こっていることは、単に土地を巡る争いなのではなく、農民から農業技術を生かして働く楽しみを奪うことなのだ。それはここ三里塚で密度濃く現われてはいるが、日本全国で緩慢に進行している農業の死という問題にほかならず、小川は以後に続く重要なテーマにたどり着いたわけである。 [映画館(邦画)] 10点(2010-01-21 12:16:52) |
1511. 三里塚・第三次強制測量阻止斗争
シリーズ3作目。闘争の現場に徹した1時間に満たないニュースフィルムに近い作品だが、気を張っている顔が画面に溢れている点では、シリーズ中、一二を争うだろう。その気を張っているのも、自信でそうなっているのではなく、不安に追い立てられてなのだ。自分たちが農民でいられなくなるかも知れないという不安。そのとき彼らは、土のほうへ土のほうへと体を投げ出していく。地面に座り込み、測量のために打たれる杭に身を投じる。糞尿の入ったビニール袋を手にして。戸村委員長が機動隊が行なった横暴について演説するときの「おまんこ」と言う発音の滑らかさ、ごく自然に座り込みに加わる妊婦、そしてこの糞尿弾。この短い映画に次々と現われてくる素材が、「百姓」の生活がいかに生命の「第一義」的なものと密着しているかを示していく。彼らの不安は、その密着から引き剥がされるという生理的な次元にまで至っているのではないか。そういう生命の「第一義」的な面を隠蔽していくのが清潔な近代社会だった。それはそのまま第三次産業が第一次産業を埋め隠していく戦後史とパラレルである。この三里塚で反乱を見せたのは、その隠されていたものたちだったと言えるだろう。無理を重ねた近代がいつか剥き出しにしなければならなかった不安である。人がそのように不意に歴史と向かい合わされたとき、どのように気を張った顔を見せるのか、このフィルムはその記録であるとも言えるようだ。 [映画館(邦画)] 7点(2010-01-20 12:07:58) |
1512. 日本解放戦線・三里塚
シリーズ2作目。小川の主要なモチーフの一つが見えてくる。三里塚で起こっていることで最も痛ましいのは、国家権力が直接農民に振るう暴力ではなく、農民同士の間で起こっている人間関係の崩壊だ、という視点。実際本作で印象に残るのは、ドラマチックな対決のシーンよりも、農民たちが“裏切り者”へのののしりを浴びせる場面の、その容赦のなさだろう。かつての農民仲間が公団職員となって測量にやってくる、反対派農民たちは彼を取り囲み「人間じゃない」などと罵声を浴びせ、カメラから顔を隠し地に伏せているその男に土を掛ける。これは観ていてなんともやり切れなくなるシーンなのだが、小川はそのやり切れなさこそを手応えのある怒りの対象としてつかまえる。“裏切り者”を農民と一緒になって糾弾するのではなく、同じ土地で働いていた者同士の関係を、修復することが不可能になってしまうまで壊してしまったものをこそ糾弾しようとする。小川の67年の作品『圧殺の森』で印象に残るのも、人々が分かれていくこと・別れていくことの酷薄さだった。学生闘争をしていた仲間が当局の切り崩しにあってしだいに脱落し、主要な残ったメンバーが、非協力的な態度をとる新聞部の学生を追いつめていくところなど、この三里塚のシーンと似た痛みのようなものが画面から感じられた。一緒に働いていたもの、一緒に戦っていたものが離れ、互いに非難し糾弾しあう残酷さ、小川はそれにことのほか敏感に反応する。そういう残酷を仕組み操作するものとしての権力を憎悪するのである。 [映画館(邦画)] 8点(2010-01-19 12:24:22) |
1513. 支那事変後方記録 上海
戦争の日常とはこのようなものであろうか。兵士の顔の表情など実に新鮮である。つまりごく普通の表情をしている(ドラマの戦争の役者の気合いが入り過ぎている表情との違い)。だからその普通の顔との対比で、いくつかの場面がさらにショッキングになる。川下りで延々と廃墟を見せる場面、市街戦のあと。無神経に万歳を叫びつつ行軍する日本兵士を見つめる無言の顔の列。なるほど、これが戦争なんだな、と納得がいく。これ、亀井文夫は編集だけのようで、そこで彼のモンタージュの代表作ってことになってるらしいんだけど、撮影・三木茂の視点も素晴らしいんじゃないか。抗日運動に対する態度も非常にクールで、よく軍が許したなと時に思うほど公平な立場だった。 [映画館(邦画)] 7点(2010-01-18 09:30:40) |
1514. 日本解放戦線・三里塚の夏
シリーズ第1作。測量を急ぐ公団側と農民・学生との攻防が描かれる。この映画で強く印象されるのは、人々の顔であり手であり、TVのニュースだと共感的であれ批判的であれ無個性の集団となってしまう反対派農民たちが、それぞれ一人の人間として存在していることへの、作者の賛美・驚嘆である。始まってすぐの両者の衝突のエピソード、この映画はその激しくぶつかっている場面ではなく、農民たちの作戦本部をまず捉える。無線機によっていちいち報告される現場の状況、それを私たちは拡げられた手書きの地図を頼りに聞かされ、現場を遠くから想像しなければならない。そしてカメラがしばしば注目するのは農民たちの「手」、膝をいじったりタバコを揉みほぐしたり、落ちつかなげに動いている手である。現場に出て石を投げている手でもなく、もちろん農機具を動かしている手でもない。そういった明確な役割にたどり着けないで所在なげに行き場を失っている手の印象がまずある。そういう手を持った人間がその人ただ一人だけ存在している、という当たり前の事実が驚きのように伝わってくる。映画は「顔」にも執着する。農民たちがしばしば繰り広げる仲間同士の会話、内容は正直言って硬直しすぎて非個性的なアジテーションまがいのことが多い。しかしカメラは顔をアップで捉える。同時録音でないので口と声は合わないのだけれど、そのことがかえって時間が蓄積しているような不思議な効果をあげ、いやおうなく言葉より顔への注意を高めていく。しゃべっている言葉よりしゃべっている人間が強く意識される。農業とは集団主義の世界で、私はついそういう閉じた村社会に否定的な気持ちを持ちがちなのだが、しかしそういう人間関係の中でしか農業という大仕掛けな作業は成り立ち得ないのかも知れず、だとすると都市の人間よりも個人が個人である場面には敏感なのかも知れない。手と顔のこの映画は、それの輝きだけを捉えているわけではなく、手錠が掛けられる手のアップもフィルムに収められているし、機動隊員たちがカメラからそらし続ける顔のアップも、ねちっこく写している。個人が個人であり続けることの危うさも意識しているからこそ、人間の集団の中から立ち現われてくる個人の大きさに作者は心から感嘆できるのではないか。 [映画館(邦画)] 8点(2010-01-17 12:14:25)(良:1票) |
1515. 黙秘
《ネタバレ》 日蝕で一日だけにぎわう田舎町ってのがいい。死んだような島の一日だけの祝祭。ハレの日、夫が古井戸に落ちたとき、天にダイヤモンドが輝く。あたりに満ちるドロリとした光に、何か「四谷怪談」的なたそがれ感があって実に不気味。女の友情物語だ。「不幸な女には事故という親友がいるのよ」。現在と過去が自由に往還するのって、目新しくもないけど好きで、映画ならではの楽しみだ。現在のドアに過去の人物が帰ってきたり、現在の電話が鳴りだし昔のいやがらせ電話が聞こえてくる。フェリーの横に父が現われてコーヒーとココアを買い少女時代に導いていく。ただしこれなら100分以内に抑える内容だろう。 [映画館(字幕)] 6点(2010-01-16 11:59:20) |
1516. 新仁義なき戦い(1974)
正編に比べてラストへ向けての集中感にやや弱みがあった。若山に盃を返すところで互いにビビッてしまうあたりのユーモア、あるいは田中邦衛のフトンや手旗信号のあたりなんかはいいんだけれども、たぶん一本気の若者がいないのが寂しかったんだと思う。このシリーズでは、菅原文太とは別に、死んでいく副主人公格の若者がいて、その一本気ゆえの悲痛さが、成田三樹夫や金子信雄と対比され、映画の核になっていた。その悲痛さを立派であると賞揚するのでもなく、馬鹿だねと嘲笑するのでもなく、決して一本気ではないボス連中と互いに照射しあっているところに面白味があった。それがこれではなく、そこんとこ薄味。それと少しカメラを振り回しすぎたか。 [映画館(邦画)] 6点(2010-01-15 11:56:44) |
1517. 男はつらいよ 寅次郎紙風船
これけっこう好きなの。シリーズ中期の安定した語り口で、『あじさいの恋』や『口笛を吹く寅次郎』あたりと比べると地味だけど、同じくらい好き。岸本加世子がらみの部分でやや物足りないとこもあるが、部分的にキラッと光る。たとえば東八郎とのケンカ。「おまえの店の一軒や二軒なくったって、世間様は何ともないんだぞ」。こんなところに裏打ちされている庶民の必死さ、それと寅との乖離、さらにそこから寅の人生の自由と孤独も見通せる。そしてもう何度も見ているはずなのに、寅がフッてしまう場面てのはいつもいい。コミュニケーションて本当に難しいんですよね。デリケートになっちゃってて、互いに臆病になってしまっている。一歩さがって相手の出方・様子をうかがっているうちに、二人の距離が開いていってしまい、しかもそのことに当事者がなぜかホッとしてしまったりするんだな。そこが丁寧。自分を卑下し過ぎるってことなんだけど、これ股旅ものにあるある種の疚しさにも通じていて、日本人にとっては普遍的な礼儀正しさにも感じられる。作者はこれを肯定しているわけじゃなく滑稽と捉えるんだけど、肯定はしないが微笑を持って、だから人間いいじゃないか、と見ている感じ。このシリーズではいつも女優がうまく見え、テレビなどではさして印象に残ってなかった今回の音無美紀子もよかった。重層的な人生を見せてくれる、とりわけ舞台が東京に移ってから。夢の手術シーンがシュール。 [映画館(邦画)] 8点(2010-01-14 12:02:45) |
1518. 裸の大将放浪記 山下清物語
こういう人物を演じた上での笑いというのは難しいと思う。下手すると山下清を見下した笑いになってしまう。たしかに観客は幾多の山下の失敗を笑うわけだけれども、笑いのポイントはその失敗に対する彼のヒョウヒョウとした応対に対しての場合が多く、見下してはいなかった。また失敗を笑うこと自体が即差別かと言うとこれまた難しい問題で、そういう笑いの中にも小さな驚きを秘めた感動が同居している場合もあるのだ。そんなことをあれこれ考えさせられただけでも、貴重な映画だった(つい“障害者の映画”というジャンルでくくって構えてしまうこと自体、差別につながるかもしれないんだけど、でもどうもすんなり観られず意識してしまう困った性格)。監督の設計もあるだろうが、役柄をすっかり手に入れている芦屋雁之助のうまさに安定感。高松宮をスリとダブらせるなんて反骨精神も見事である。ラストの歌、そのものはまあダサいのだけど、山田典吾監督による詞の「天国は空にあるのではなくて地の中にある」というのが力強い。 [映画館(邦画)] 6点(2010-01-13 12:04:32) |
1519. トラベラー
《ネタバレ》 サッカー少年、すでに落第していて、不良とまでは言えないが“困った児童”。彼がどうしてもテヘランで行なわれるサッカーの試合を見たいという情熱の塊となり、ほとんど求道者となる話。あんがい中世の宗教家なんてこんな面構えをしてたんではないかなあ。野卑にして高貴。“道”のためならなんでも行なう。一心不乱。まず金集めを始める。家のものを盗んで母親に学校に言いつけられると、被害者づらして「母さんが嘘をつくんだよう」と泣く。偽の写真屋になって友だちを撮り、5円ずつもうける。カメラの向こうですまし顔をする子どもたちの顔顔顔。ついに自分たちのサッカーボールやゴールまでも売ってしまう執念。ここらへん、主人公に崇高さまで漂って見えてきた。友人てのがよくて、友の狂乱につきあいつつも戸惑っていて、いい対比。夜の出立のとき何度も呼びかける場が圧巻。ガッセム君は、友のことなど全然頭にないんだけどね。でテヘラン、切符は手前で売り切れ、迷わずに帰りの運賃をダフ屋に出してしまう。以下、建て前としての教訓映画的な展開になっていくんだけど、映画観ている我々はこの少年のエネルギーに感嘆するほうが先になるわけ。彼はどうやって帰るんだろう、もしかするとこのままテヘランに居続けるのかも知れない、そのときあの故郷の友人の懐かしさがひときわ立ち上がってくるのではないか、などその後をいろいろ想像する楽しみもあるラスト。 [映画館(字幕)] 8点(2010-01-12 12:06:09)(良:1票) |
1520. 信濃風土記より 小林一茶
イランでは、児童映画というジャンルを使って自由な表現の場所が開拓されていってたが、そういうことは、いつの時代どこでも起こっていたことで、たとえば昭和16年日本のこれ。長野県の観光文化映画というジャンルだが、小林一茶を触媒にして、厳しい農民の世界のルポにじわじわと近づいていく。月、仏、そば、といった穏やかな観光的題材から順繰りに、農村の荒廃に導いていくあたりがスリリング。そばから土地の利用法の話へ、さらには桑畑を襲う霜害へと本腰が入っていく。なにも最初から一茶をダシに使ってやろうと思ったのでもないだろう。亀井は戦後には企業のPR映画でも誠実に作っていった人だ。長野県の注文に添って誠実に製作しながら、彼の中の別の誠実さがジャンルを超えた表現を求め出したのではないか。そこらへんの微妙さが、今観ると、あの時代の表現者の記録としてとても面白い。いや、面白いなんて言ってはいけないな、彼はこの直後治安維持法違反で検挙されるのだった。 [映画館(邦画)] 7点(2010-01-11 12:05:20) |