1521. 浪華悲歌
考えてみればこれ完全に「傾向映画」というジャンルに含まれる作品なんだなあ。題名「何が彼女をさうさせたか」だっていいんだ。ただヒロインが一方的に受難するのではなく、彼女なりに企て、対決しようとする。そこらへんで「傾向映画」というジャンルから抜け出たか。ヒロインが決断するところを飛ばすのがいい。会社からも家からもいなくなって、モダンなアパートに移る。昔の恋人がアパートを訪れるシーン、カーテンの外から山田を捉えていたカメラが下がり入り口の男、そのまま階段を上がっていくのを追い、もとの窓までワンカット。『祇園の姉妹』では、ちょっとラストが取って付けた気分になるんだけど、こっちのラストはしっくりくる。署に引っ張られ、情けない男は逃げ、家に帰れば、自分が金を工面してやった兄、妹にうとまれ、実情を知っている父も黙ったまま。社会も家庭も大きく壁として立ち塞がってきて、それと拮抗するぐらいにヒロインは不貞腐れる。それまでヒロインの“闘争”を観てきた者にとって、戦いに敗れた後に彼女ができることは「不貞腐れること」しかないと納得できる。ぜんぜん「いじけ」た気分のない不貞腐れ。こうならねばならない、という道を突き進む迫力。転落することのエネルギーが満ちている。これって面白いことに、がむしゃらに成り上がる話とどこか気分が似ているんだ。 [映画館(邦画)] 8点(2010-01-10 12:11:09) |
1522. EAST MEETS WEST
《ネタバレ》 どうも焦点がボケているためにハズんでくれない。真田とそれを追う竹中いう設定が、あまり活きなかったんじゃないか。いっそラストの悪の街に乗り込むとこだけに焦点を絞ったほうが、シャキッとしたと思う。喜八らしさは、忍術で体をクネクネして牢格子を抜けるあたり、老人たちに銃を持たせたとこ、インディアンの歌と木遣りが重なる音響効果、など。刀とピストルで対決するってのは、『用心棒』を初めいろいろ試みられているが、どうもスッキリするアイデアは生み出せていないようだ。二人が対決する距離設定が難しいんだろうな、両者有利不利なしの対等な距離ってのが思い描きづらい。これ、永遠のテーマ。 [映画館(邦画)] 6点(2010-01-09 12:02:05) |
1523. ヨーロッパ
《ネタバレ》 この監督で初めて観たのが『エレメント・オブ・クライム』だった。タルコフスキーを思わせる水への惑溺、水中で馬の死骸がゆらゆら揺れているあたりは陰気なブニュエルといった感じ。次の『エピデミック』ってのは字幕なしのビデオ公開で観られたが、これはドライヤーのトーン。この人独自のタッチがも一つつかめなかったものの、どちらも催眠術シーンがあることで共通していた。そしたら本作も催眠術で始まった。映画全体も催眠術のような夢魔の連続である。室内の鉄道模型を俯瞰していたカメラが引いていってその家から出、本物の列車の中に入ったかと思うとそれが走り出していくまでをワンカット、とか、カメラがバスルームのドアの上にゆっくりとねじれのぼっていくと、ドアの内側の血の洪水が見えてくる、とか、並行して走る列車越しの会話がやがて二つに分かれていくところ、とか、スクリーン・プロセスを使って背景とその前とで同じ人物が出たり入ったりするところ、とか。話は、戦後のドイツの復興の役に立とうとやってきたドイツ系アメリカ人の車掌としての放浪譚。カフカの「アメリカ」を裏返しにした設定ではないのかな。もっともあれ、カフカとしては珍しく爽やかな小説だったが、こっちは深いメランコリーを滲み出している。ヨーロッパの映画でよく感じるのは、こういったメランコリー。アンゲロプロスの登場人物が国境線の手前で遠い目をしているように、アントニオーニの登場人物がここではないどこかへ憧れ続けているように、タルコフスキーのノスタルジーのように。文化の伝統を重く背負い続け、そういう風土への憎悪と愛着とが常に憂鬱という気分を導き、そのメランコリーを文化の一つの型として自分たちの中に公認することで、彼らはなんとか耐えているのかも知れない。アメリカ育ちの主人公が単純に考えていた国家の再建というイメージは、列車の旅とともに複雑にグロテスクに屈折していく。ナチの残党が国家再建という大命題の前でうまく生き残っていく状況も、政治的メッセージとしては語られない。ナチズムという明瞭な傷口でさえ、ヒリヒリとしみわたる感覚ではなく、鈍痛のうずきに変わってしまう底なし沼のようなヨーロッパの風土、それをこの映画は捉えていたと思う。このタッチで先もやっていってみてほしかったんだけど、また次から変えてっちゃうんだな。 [映画館(字幕)] 8点(2010-01-08 12:10:41) |
1524. 土
戦前の日本のリアリズムは、ちっとも戦後のイタリアに負けてなかった。演技、顔の表情も素晴らしい。背景に土地を含む構図も見事。いくつかの場面を思い返してみよう。風見章子が友だちを見送る場面、川原で木を拾っているその荒涼とした風景、遠くの舟との呼びかけあい。表情を抑えているところがいい。夏の水運び、つまずいて転んだりは決してしない、そういうときは桶を置いて休むのだ、それだけ水は大事に扱う、リアリズムの精神はこういうところで発揮される。雨乞いの太鼓をずっとバックで鳴らし続ける。収穫、苦しい場面を続けざまに押しつけるのではなく、仕事の喜びもちゃんと伝えてくれる。年貢(?)を運んで、その家で恐縮してご馳走になりながら帯の値段を尋ねる場面とか、火事のエピソード(長いショットで丹念に撮った迫力、知らせるのに田圃まで遠いいの)、人の家に飛び火してしまったことの疚しさのほうが先に来る、こんなところに村社会が見えてくる。セリフがよく聞き取れないのだが、父と婿の確執も重要そう。不完全なフィルム状態のままでも、傑作と言っていいだろう。 [映画館(邦画)] 8点(2010-01-07 12:01:09)(良:1票) |
1525. オブローモフの生涯より
室内も多くは自然光での撮影、時には顔も見えないような暗さが停滞感につながっている。ナレーションに頼らざるを得ないところに、この原作を映画化する無理がちょっとあった。オルガの心の動きなんかもう少し丁寧にやってもらいたかったような。ま題名が『~の生涯より』となっているところに逃げが用意されてるんだけど。いい場面は、岩風呂みたいなところで述懐するあたり。またオルガの裁き、「あなたは自分の役割りを楽しんでらっしゃるんだわ」、しかもそれをすぐに認めて自責するところが哀れ。いつも「俺なんか」と考えてしまう性癖なの。何事にも自分は「ふさわしくない」と思ってしまう(あ、今思ったんだけど、これって股旅ものの主人公のタイプじゃない?)。それだけにラストのほうで自転車に手を貸していく姿が、妙に胸に迫ってしまうのだ。 [映画館(字幕)] 7点(2010-01-06 11:57:55) |
1526. 怒りの葡萄
《ネタバレ》 ラストの決意がちょっと抽象的に跳びすぎていたように思うんだけど、でもパン買うシーンが(実に具体的で)大好きなので、忘れられない映画です。主人公の一家が旅の途中15セントのパンを10セント分だけ売ってくれって言うと、いいよ全部持っていきな、と店主が言う。老人は乞食じゃないんだと反撥するわけ。そこで店主は古いパンだからと「譲歩」するの。と子どもが飴ほしそうにしていて、これ1本1セントかね、って聞くと、パン売るときはしぶしぶそうだった女店員が、2本1セントです、って答えるの。一家が去ったあと別の客が、1本5セントじゃねえかよ、と笑って、釣りはいらねえぜ、と勘定をすませる。店員が金額を見て、まああの人ったら、というように微笑む。人情ドラマの一景として完璧でしょ。山田洋次が『家族』で笠智衆に似たようなエピソードやらせたのは、これへのオマージュなんじゃないかと思ってる。アメリカ映画って、けっこうウエットなところあるんだよね。ペキンパーなんかにも感じるし。そこらへん太平洋をはさんで日本と共通する感性があるみたい。 [映画館(字幕)] 7点(2010-01-05 12:06:18)(良:1票) |
1527. 鶴八鶴次郎(1938)
しっくりいかない・どこか食い違いつつ腐れ縁が続く男女の物語ってとこは、『浮雲』にもつながる成瀬の定番だ。意地っ張りの純情、喧嘩友だち。うじうじ嫉妬に悩みながら、長谷川一夫が路地から路地へボーッと歩いていくロングの場など、成瀬のサインを見ているよう。その先に旅回りの日々のわびしさが、これまた成瀬の好きな世界。似合わない芸道ものの話でありながら、隅から隅まで成瀬の世界になっている。それと明治から大正にかけての寄席芸が見られるのも楽しい。コマから水が飛び散るのや、火のついた棒を投げるのや。山田のドタドタと体が左右に振れる歩き方が印象的だが、あれは着物着たときの自然な歩き方なのだろうか。山田五十鈴って大スターでありながら、それほど主演作を持っていない不思議な人だ。といって「名脇役」とは呼ばれないし。名脇役藤原釜足は、このころからフケをやってたんだなあ。 [映画館(邦画)] 7点(2010-01-04 12:04:03) |
1528. 人類創世
ネアンデルタール時代と原始文明時代の間のどこか、その猿と人との間での信仰・家屋・道具・化粧などを描いていく。芯に火を求めての冒険の旅を置いてあるのもストーリーとしての安定感、ユーモアも適度に散らばっている。しかし言葉がないことが、映画として枠に感じられてしまうんだなあ。言葉のない自由さよりも、不自由さを感じてしまう場面のほうが多い。せっかくのユニークな目の付けどころがあんまり生きてこない。つまり隠された言葉の台本がまずあって、それにジェスチャーを振り付けていったというような。まあこれは難しいことかも知れないけど、もっとまったく新しいものを期待してしまっていたので、ちょっとがっかりした。悪役が悪役らしい表情をしていることなんかにも、言葉の下地が透けて見えている気がする。音楽がやたら荘重な後に滑稽シーンが続いたりして、映画としてのリズムへの気配りも足りない。進化の進んでいる村は、どことなくパゾリーニの世界を思い出させて懐かしかった。 [映画館(字幕)] 6点(2010-01-03 11:54:04) |
1529. パリのランデブー
《ネタバレ》 常に二人の人がいて、でラストでは一人になる、という話が3つ。それを街角のシャンソンがつなぐ。第1話は、ヒロインと恋人・ヒロインと告げ口する男友だち・ヒロインと友人・ヒロインの一人での悩みのシーンが挟まって、ヒロインと歯痛男・ヒロインと財布を拾った女・そして過剰な3人の場がヤマになって、その緊張のために3人は散り散りになり、最後は一人の歯痛男で断ち切る。この無駄のなさ、良くできたコントの味。結局ほとんどの登場人物の心に傷がつくんだけど、そのゆえに喜劇になってるんだなあ。人の心が傷つかない喜劇なんてないのかも知れない。第3話の、運命の一目惚れも楽しい。その女性に聞こえるように、どうでもいい連れに美術館で解説するあたりの涙ぐましさ。またこの彼女、アトリエにまで来てお話までしてくれる。罪作りな女。でも別にからかってるって訳じゃなく、そこにこの男も魅かれてるんだろうけど。そう悪くない一日だった、と最後に男は言うんだ。大げさに言えばこういう一日があるから人生も楽しい、って気持ちになる。うまくいってるカップルってのは、この映画一つも登場しない。 [映画館(字幕)] 8点(2010-01-02 10:29:58) |
1530. モスクワは涙を信じない
たしかこれ公開のちょっと前あたりにテレビで山田太一の「想い出づくり」ってのがあって、なんかそれと似た印象を持ったことを覚えている。ソ連映画って言うと、もうタルコフスキーやミハルコフのようなデリケートなタッチか『戦争と平和』みたいな重量級ものかだったので、ああこういう世俗的なテレビドラマのような映画もちゃんとあるんだ、って安心したものだ。画面作りや大筋は粗いけど、細部はけっこう丁寧で、適度なユーモアもある(ラストで男を探すとき、名前をずらっと並べていくとこは笑ってしまった)。昔の男を決然と振り切ってしまうさっそうさ、いつか玉の輿にと思いつつ不幸な人生を送っているはずの友だちがけっこう朗らかで魅力的など、世俗スケッチならではの味わいが出ている。三人目の(「想い出づくり」だったら森昌子に相当か)が、本当に別人のようにフケるのには驚いた。ベサメ・ムーチョが二つの時代をそれぞれに表現している、なんてのも、当時のソ連のイメージからは斬新だった。 [映画館(字幕)] 6点(2010-01-01 11:58:18) |
1531. 歌行燈(1943)
戦時中はなぜか芸道ものはよく作られていて、これが当局にとってどう国威発揚とつながっていたのか分からないが、後世の映画ファンにとってはありがたいことだ。脚色が久保田万太郎である。芸道ものの典型である「慢心によるしくじり」のドラマ、より完璧な境地を目指す者のトラブル。新内流しに落ちて門付けして回るあたりのわびしさ、それほど芸道ものが得意という監督ではないかも知れないが、こういう“わびしさ”を描くとなると一級である。彼と対になるように仕舞いをする芸者を置いて、彼女も芸に関していわば「しくじって」おり、そのしくじり同士が、松林の木洩れ陽の中で稽古をするわけだ。このシーンの美しさ。おっとその前に、そのお袖の消息を初めて喜多八が耳にする舟着き場のシーンがある。なんでもない舟待ちの人々のカットなんだけど、いいんだ。風。ドラマの中では、人と人が芸を媒介にして行動する。あるいは自殺に追いやられ、あるいは再会し、そしてすべてがラストで一部屋に集められるのも“芸”ゆえのこと。父が呼んだ芸者が仕舞いをし、その中に息子の署名を見、この鼓の音を喜多八が聞きつけアンマの幻から逃れてくる。その中心で舞うお袖の仕舞いが無表情ってのが、シマるんだなあ。観つつ、舞台となった明治と製作された昭和18年の双方に思いがいって、胸が詰まった。 [映画館(邦画)] 7点(2009-12-31 12:14:56) |
1532. 愛のむきだし
アクロバット盗撮の馬鹿馬鹿しさなんか好みだったし、「罪作りな神」としてのカトリックとその家庭ってのも日本では珍しい題材で、そうねえ、タイトルが出るくらいまでは興味が湧いた。なんか去年の『実録・連合赤軍』みたいな、作品を洗練させようとしないことでエネルギーを溜め込んだ映画になるのかな、と思って観続けたんだけど、でも、ならなかった。中盤「さそり」のあたりで無駄に長く、そのスカスカ感が最後まで続き、私は気が抜けた。ゼロ教会ってのが自明の理として邪教集団になってるのが話を薄っぺらくしていて(そいつらなら殺しても倫理的にかまわないらしい)、まあこの薄さは作者の狙いのようだけど、そのかわりとなる手応えは用意してくれなかった。ただ、ゼロ教会の「小池さん」やった安藤サクラの、性格悪そうな腫れぼったい顔の気味悪さは強烈で、特別演技をしてない場面でとりわけよく、中盤からは彼女の出番を楽しみに観ていたようなもの。これって変態ですか。 [DVD(邦画)] 5点(2009-12-30 12:12:06) |
1533. 泥の河
一番ジーンとしたシーンは、姉弟が初めてうどん屋を訪れたとこ。大人は子どもたちを・姉は弟を・招いた者は招かれた者を・招かれた者は招いた者を、それぞれ見守っている。いたわっている。弱者同士が肩寄せ合って生きていく、っていうとクサくなってしまうのだが、そういう高揚した感じはなく、実に礼儀正しくいたわり合うのだ、まるで自明の作法があるように。決して水臭いというのではない。「カスのように生きてきた者」にとってのルールなのだろう。こちらからは傷つけないから、そちらも傷つけないでくれ、っていう。この帰り道、送っていくと橋の下を舟が通り抜けていく、ここらへんの正確さがたまらない。少年が初めて加賀まりこの部屋を訪れる場面もいい。ここにあるのも礼儀正しさだ。女の溢れるばかりの感謝の気持ちを、じっと静かに保たせている緊張がいい。「おばさんもおいでよ」「りこうな子やね」。礼儀正しさが頂点を極めるのはラストであり、子どもの呼びかけに絶対人影を見せない舟の姿である。我々はその舟の中でじっと一つの恥を中心に肩を寄せ合っている家族の姿を想像し、その腹立たしいまでの礼儀正しさに感銘を受けるのである。 /(蛇足)田村高広と池部良の俳優歴って似てる。デビューはズレるがどちらも戦後民主主義の時代を体現する若者として登場し、役柄は「まじめ」。が東京オリンピックに向けた経済成長期になると、そのまじめさが俳優としての幅を狭めてしまい、影が薄れた。ところがオリンピック後の1965年に、どちらもプログラムピクチャーの脇役を得る。田村は『兵隊やくざ』、池部は『昭和残侠伝』、勝新太郎と高倉健という戦後民主主義を「体現しない」主役との戦中戦前を背景にした作品で新境地を開き、その後の渋いバイプレイヤーの地位を確定する。なんかこの二人の俳優歴に、戦後史そのものが重なって見えてくるよう。だから田村のデビューごろの時代を描いた本作で、彼は自分の俳優生活の総括をしたようにも思われるんだ。(11年9.29) [映画館(邦画)] 8点(2009-12-29 12:07:26)(良:1票) |
1534. 芝居道
『歌行燈』の翌年だが、同じ芸道ものでもかなり作りの状況が厳しくなっているのが分かる。まずアタマに「撃ちてし止まむ」がドーンと出て、タイトルのあとキャスティングが出ない(あるいは後にカットされたのか)。ロッパが愛国を啓蒙しようとしてもあんまり効き目があったとは思えない、そういうことに最も似合わないキャラクターだろう。長谷川一夫の役者の、傲慢から成長していく経過が話の芯。ラスト近くロッパは「興行師は時代に後れても時代におもねってもあきまへんのや」てなことを言う。昭和19年では、この映画なんかは、まだ「おもねってない」方なのかも知れない。おこそ頭巾をかぶって路地をこちらにやってくる山田五十鈴、その向こうに長谷川一夫を乗せた人力車が停まる、なんてシーンは、実に戦時を忘れさせてくれる。山田は『鶴八鶴次郎』の新内、『歌行燈』の仕舞いに続いて、今回は女義太夫と諸芸万端、のちの舞台での「たぬき」などの下地は戦前からすでにあったのだ。 [映画館(邦画)] 6点(2009-12-28 12:00:14) |
1535. フロスト×ニクソン
《ネタバレ》 こういう実話ものってのは、どこまでが事実でどこからが創作なのかが分からなく、それでかまわないのもあるけど、これなんか気になった。つまり出来すぎて感じられるんだな。最初二三発食らうが、最後にダウンを奪うボクシングみたいなもので、リアルな勝負なら最高に面白いだろうが、段取りが整えられてたとしたらシラけてしまう。まあ、こういうインタビューがあったってのは史実なのだろうが、誇張の度合いの程度が気にかかる。映画の芯は、一寸の虫にも五分の魂、ほとんどショーマンのフロストにも、ジャーナリストの魂がちゃんとあった、って話で、ついつい日本のジャーナリズムの情けなさに思いが行ってしまった。こっちでは、タイコ持ちになるか感情的な罵倒を垂れ流すだけで、基本の“調査”ってのが抜けてるもんなあ。しかも彼フロストは、自分で広告主を探し回るんだ。弱気になって「周囲に止めてほしかった」と愚痴ったりもするが、ジャーナリストとしての栄光をちゃんと夢見ている。マスコミ企業に飼われているわけじゃない。そんなあっちとこっちの違いを、しみじみ感じた。 [DVD(吹替)] 6点(2009-12-27 12:04:33) |
1536. 上海異人娼館/チャイナ・ドール
技法的にはそれまでのおさらいといった感じで、残る影・たたずんだりうずくまったりしている少年像・色付きの画面・ドアの外の海・川の中から浮かび上がるピアノ、など印象深い。テーマとしては、「依存と解放」ってなことを思った。「今のままの中国のほうがいいのではないか」とステファンが革命家たちに言う場面があって、もちろん圧政を肯定するわけじゃないんだけども、そういうレベルとは違ったマゾヒスティックな依存による安逸ってものもこの世には確かに存在する。Oの自立を通して、解放に向かう精神的な心構えのようなものを描きたかったのではないか。その困難さとともに。 [映画館(字幕)] 6点(2009-12-26 11:57:58) |
1537. 遠雷(1981)
農協の場で現われかける問題、農政批判を、「土着の力強さ」というようなことでねじ伏せてしまった感がなくもないのだが、主人公のタイプの新鮮さに希望を託しているのだろう。フワフワしているような、しっかりしているような、その柔軟性。今までの映画の類型だと、「フワフワ」は完全にグレちゃってチンピラになってしまい、「しっかり」のほうは“なんとか青年団”的にコチコチになってしまう。その二つのタイプを止揚してるというか、とにかく一人格のなかに同居させている。そこに希望の可能性を信じようとしている。昔も今も、農が基本だとか何とか言いながら、映画はもっぱら都会を中心に描いてきて、農業を描くとなると社会派的な主張があるものだけに限られてきた感がある。そういった流れの中で、本作はなんらかの主張より前に存在するナマの「農家の青年」というものを見せてくれた。後半が面白かった。選挙及び選挙違反などに、こんなもんだろうなあ、というリアリティがあったし、ビンで鯉を獲る工夫や、七尾伶子と原泉の愚痴の言い合いも楽しい。ただ時々若き永島君が、陰にこもったヤラシー目つきするのはいただけなかった。もっとあっけらかんとしてほしいところ。 [映画館(邦画)] 7点(2009-12-25 12:02:21)(良:1票) |
1538. 昨日消えた男(1941)
《ネタバレ》 本格推理ものの設定が珍しく、一同揃っての解決篇に至る礼儀正しさ。第二の犯行のとき、犯人に影で姿を現わさせるのも正しい。そして間にはさまれるオトボケの数々、「アホウもの、汝の名は女」とか「あなた~と呼べ~ば」とか「助けられたり助けたり」と、きっと当時の場内は沸いたであろう。時局を思わせるものと言えば、まあ悪漢が実は転覆を図る大塩平八郎の一味、ってことぐらいで、それだってそれほど「スパイに注意しよう」ってメッセージと感じられるほどのものではない。つまり至って娯楽主義に徹していて、立派なほど国策に非協力的。長屋の連中のなかには、自分で作った人形にうっとりしている人形師などもいて、ちょっと前のモダニズム時代の猟奇変態ものの空気を残していたりもする。雨の長屋で始まり、雪を経て快晴の長屋で終わる正しさ。目明しが雪の庭を調べていて、カメラが左へ動いていくと、塀の上に文吉がしゃがんでいてやりとりがあり、そのあと文吉と一緒に塀を越えるまでがワンカット。ただ渡辺篤・サトウロクローの「なるほどね」「いやまったく」は、売れない漫才が一生懸命言葉を流行らせようと反復しているようなミジメさが漂った。 [映画館(邦画)] 7点(2009-12-24 12:03:55) |
1539. ミンボーの女
伊丹監督の情報映画というか、手口紹介映画というか、“現場主義”がよく表われた作品。こう複雑になった社会では、背景を分析していってはキリがなくなってしまう。そこで何事かが起こっている現場だけに好奇心を絞り込んでいく。現場のレベルでナマなものだけが、現代では確実な手応えを与えてくれるもので、そこに固執しよう、と割り切った姿勢が感じられる。暴力団と警察と企業、それらの関係を構造として見、解剖していくのではなく、それらが接触する面だけを剥がしてスクリーンに広げていく。暴力団と警察の背後にある政界での癒着などには思いを馳せず、このホテルのロビーだけの限られた中での正義を描く。もちろんこれは大きな弱点で、社会を捉える映画として最も重要である批評性を捨ててしまう訳である。でも、この世の中を大局的に分かったように扱うよりは、まず確実な部分だけでつかんでみたい、という作者の姿勢も尊重してみたいのだ。大局的な論は、突き詰めると抽象性の幕によって時代との間に境が作られてしまっているような感覚が残る。この幕に対するいらだちを監督は強く意識していたのではないか。日本の社会派映画の、とかく大局の論に走りがちな欠点を、もしかすると乗り越える役割りを担うのではないか、とこのころの伊丹監督には期待してたんです。手口の陳列として面白かったし、いつもながらの過剰なサービス精神にはゲンナリさせられるところもあるが、「暴力団は他人に屈辱を与えるから嫌だ」ということはあまり日本の映画ではちゃんと描かれてこなかったことで、そこを買います。仁侠映画好きな私が(フィクションと割り切って楽しんでるんですが)時々思う後ろめたさを贖罪する意も込めて。 [映画館(邦画)] 7点(2009-12-23 12:08:42)(良:1票) |
1540. 祇園の姉妹(1936)
溝口は、他の日本の名監督たちに比べてユーモアが苦手、って印象があるが、でもこれなんか傑作コメディだと思うよ。だいたい映画の本なんかだと、ラストの山田五十鈴を重視して、社会派のリアリズム映画に分類してしまってるんだけど、どっちかっていうとラストを観なかったことにして、コメディと分類したほうがスッキリするんじゃないかな。それぐらい志賀廼家弁慶と新藤英太郎が傑作で、男どもの卑小さを描いて傑出しているだけでなく、そこに上方文化の伝統にのっとった「愚かという徳」をも感じさせるあたりが、実に見応えがある(旦那が義太夫うなりながら乳母車をあやしてるとことか)。このユーモアセンスが監督の作品歴でもっと活かされても良かったんじゃないか、と私なんかは思う。それと上方女のキッパリ感を出した山田五十鈴の凄味、ラストでやや縮こまってしまう印象はあるがこれも見応え十分。どういういきさつがあるんだか知らないけど、戦後に溝口と山田が一緒の仕事をしなかったのは、日本文化における重大な損失だったと思う。 [映画館(邦画)] 8点(2009-12-22 12:04:52) |