1541. グラン・トリノ
《ネタバレ》 最初はただ人物像を出すため程度の設定と思っていた朝鮮戦争の戦歴が、東洋人への複雑な思いの源と分かってくるあたりの厚み。この結末は彼にとっての東洋人に対する決着だったんだな。元ダーティ・ハリーにしては考えた結末かも知れないが、ちょっとかっこよすぎないか。服を新調し、懺悔を済ませ、まるで唐獅子牡丹が流れ出すような気分。仁侠映画ならそれでもいいが、現実的な市井の映画と思って観ていたので、このかっこよさは素直には味わい損ねた。かっこいいってのは、ちょっと間違うと、あのチンピラ連中と同列になってしまうもので、もっとみっともなくていいから、ニコニコ笑って終わらせられる手立てを講じてほしかった。でも考えてみればイーストウッドの映画なのだから、悲劇に傾斜するのは予想していてもよかったんだ、ガンコ老人ぶりのユーモアにうっかり忘れてしまっていたのだった。ただそのユーモアも、“男の訓練”を床屋でさせるとこなんか、私はそれほど笑えなかった。たぶんああいう男同士を過剰に誇示した付き合いってのが、こっちが苦手という個人的な理由によるのだろう。その彼らの古風さをも笑ってるシーンであるのは分かるんですけどね。 [DVD(字幕)] 6点(2009-12-21 12:01:33) |
1542. 人でなしの恋
《ネタバレ》 時間も手ごろ、テンポもよし、だけどなんか稀薄な感じが全編にあるんだな。映画としてドキリとする瞬間を待ち続けて、ついに訪れなかった、というか。日本美にばかり寄りかからない姿勢はよく、出だしもスマート。料理もイキている。つやつや輝いているカユと、冷たくなっているカユの質感の違い。別に女性監督だからということでなく、感性の問題だろう。“道具”がなおざりにされてなかったのもいい。絵の道具、料理の器具など。青い世界と赤い世界の対比があり、赤は愛の色。蔵の中はもう少し暗いほうがいいんじゃないかと思ったが、あとで翳った場面との対比を見せたかったのだろう。男の「人でなしの恋」が、ラストで女によって反復される。 [映画館(邦画)] 6点(2009-12-20 11:56:57) |
1543. ホームワーク(1989)
《ネタバレ》 最初のうちはシンプルなインタビュードキュメントだ。子どものアップ、それを捉えるカメラ、そしてたまにキアロスタミ本人、の三つのカット。このカメラのカットは、自分たちが子どもに与えている威圧感を意識して見せているのかもしれない、ほとんど尋問というイメージがある。子どもをインタビューしつつ、子どもの視点も入れているわけ。インタビューで繰り返されるのは罰についての質問、そこからイラン社会の状況へ滑り込んでいく。戦争と喧嘩は違うのかなあ、といった呟き声。海外教育をつぶさに見てきたというオッサンも割り込んでくる、日本の子どもの自殺にまで言及して。でも見どころは泣き虫小僧の登場からだ。少しずつ醸し出されていた「罰」のモチーフが前面に出てくる。定規が折れるほど叩かれて、怯え切ってしまっている少年、友人が一緒にいないと不安になる、パニックになる。その親へのインタビューがあって、外での儀式。音が絞られていく。監督は、子どものざわつきで儀式が非礼になるからとタテマエを言っていたが、もちろん生き生きとして子どもたちを見せるためであろう。そしてもう一度泣き虫君の登場、もう怖くないと言いながらだんだん危なくなってくる、そして奇跡の瞬間、後ろの友人に支えられた心で朗々と宗教詩を朗読するんだ。こっちが泣けた。世界に対してハリネズミのようになっていた子どもの心の中にも、やはり詩があったってことか。このストップモーションの的確さ。イランではNoのとき「チッ」っと音を立てるんだね。 [映画館(字幕)] 8点(2009-12-19 11:56:23)(良:1票) |
1544. 9か月
この監督は絶対共和党だな。子どもはうるさいけど宝、ファミリー至上主義。でも映画というものが大衆へ向けられた商品である以上、この保守性・予定調和性は仕方のないこと、前提として受け入れなければならないのか。喜劇映画としてなら、ラスト近く病院へ駆けつける主人公の車に次々と怪我人が増えていくあたりから出産までのドタバタに、やや気が入っていた。途中おもちゃ屋でぬいぐるみの怪獣がしつこく絡んでくるところに、不気味な過剰さがあって、心騒いだ。しかし監督が意図したのではないかも知れない。この監督は3分の2ぐらいのところで歌を流し、細かなコントシーンを繋ぐのが、観客へのサービスだと思い込んでいるフシがある。あの怪我したほかの連中には一応オチをつけておくべきだったのではないか。 [映画館(字幕)] 6点(2009-12-18 11:54:54) |
1545. 待って居た男
《ネタバレ》 山田五十鈴がはしゃいで探偵気取り、旦那の長谷川一夫がこっそり解決、って形。全然戦争中の気配がないシャレたタッチ。単純にまだノンキだったのか、意識的に娯楽に徹したのか(翌年の『ハナ子さん』となると、娯楽ではあるが戦時色濃厚)。なかなか主人公たちを登場させず、若奥さんの周囲に起こる不安な出来事で雰囲気を作っていく、材木が倒れたりとか。前作の犯人役の使い方もにくい。前作の駕篭かきにあたるお笑い担当は岡っ引二名、これが山田の手下となって走り回る。一方がもう一方をまね、犯人を捕まえたぞー、って一階と二階の廊下を走り回る場面はワクワクする。さらに金太のエノケンも登場、いろいろ教えてくれてありがとう、を繰り返すが、そう破天荒なトリックスターではなく、おとなしい役どころ。どちらも超主役級でありながらトーンのかなり違う長谷川一夫とエノケンが同一画面内にいると奇妙な感じである。あと言いたいことはいくつかあるが、犯人あてのものなので勘のいい人には分かっちゃうことを言っちゃいそうなので黙ってる。ちゃんと人妻役はお歯黒をつけていた。 [映画館(邦画)] 7点(2009-12-17 12:01:34) |
1546. ダウト ~あるカトリック学校で~
最初の説教で神父が「疑惑によって人は連帯できる」ってなことを言う。カトリックの大統領が暗殺された翌年という設定。なんかベルイマン的な神の沈黙ってテーマに降っていくのか、と思っているとそうでもなく、マイノリティ差別と戦う神父の社会派ものなのかな、と思ったらそうでもなく、「人は何によって確信に至るのか」ってなあたりに向かった。たしかに興味深い問題ではある。人は信念を持ったり確信を得たりするが、それを分析していってみると、好き嫌いが根元にあって、単にそいつの爪が長すぎる、ってことだったりする。神父の弁明で若いシスターはすぐに納得するが、校長は「それは楽したいからでしょ」ってなことを言い、ある意味では真理で、人が確信に至るのは、疑惑の宙ぶらりん状態に耐え切れないからかも知れない。宗教学校を舞台にしたのは、宗教というものが無条件の信頼を前提としている世界だからだろう。歴史の悲惨の多くは信念と信念の対立から来るもので、最初の神父の説教のように「疑惑による連帯」っていう打開策は有意義だ。でもそういうところを言ってる映画と決めつけるにはもひとつ全体がモコとしており、「確信」に至れないところがもどかしかった。そのモコぶりが多義的に読み取れる豊かさ、っていうより焦点を絞らないズルさに受け取れて。 [DVD(字幕)] 6点(2009-12-16 12:06:47) |
1547. ベリッシマ
イタリア語が氾濫すると、もう恍惚となってしまう。喧騒がカタルシスを呼ぶ言語なんてほかにあんまりないんじゃないか。内臓まで陽を浴びているような健康的な雰囲気。母親が娘にはいい暮らしをさせたい、という熱情に動かされているところがやはりネオ・リアリズムなんだろう。ただ母の娘への溺愛という一般化されるドラマの前に、社会というものが絡んでくる。映画会社の男(蟻を数えてらっしゃい)が母の期待の重荷を語るところ、あるいはスターだったのが今は編集にまわっているところ、などで広がりを感じさせる。このネオ・リアリズム監督だったころからもうバート・ランカスターに興味を持っていたことが分かって、それも興味深い、上流階級を扱うようになってから見いだしたわけではなかったのだ。でもともかく本作は、イタリアのお母さんを凝縮したようなアンナ・マニャーニの張きりぶりを眺めているだけで、もう十分に満足。 [映画館(字幕)] 8点(2009-12-15 11:58:51) |
1548. クイック&デッド
《ネタバレ》 早撃ち大会トーナメントという趣向。つまり決闘シーンが繰り返されるわけだが、そこにいろいろ趣向を凝らすのが見どころ。最初は「立っていられなくなったら負け」だったのが「死ぬまで」にエスカレートしていく。タマが一発しかなくて相手が生き返っちゃったりとか、親子かも知れぬ、とか、その次々の趣向でけっこう見せちゃう。時計台のある広場で、死を刻み続けていた時計台がラストで爆発するのも正しい。そうそう、馬車につないでおいた悪漢が、車を引きずって生きているのもおかしい。ジーン・ハックマンが自分の影を見ると胸のところに光が丸く開いている、といった昔話やホラ話を語っているような調子の演出で、なかでシャロン・ストーンひとりが大マジメに演じていた。 [映画館(字幕)] 7点(2009-12-14 09:07:14) |
1549. レニー・ブルース
《ネタバレ》 編集の妙味、かなり楽しんでやってるんじゃないかな、舞台と実人生を絡ませ、合い間に観客の反応が挟まる。裁判の場の滑稽さ。レニーも最初は別に言論弾圧がどうのこうのといった使命感を持っていたわけじゃない(あるいは最後までなかったかも知れない)。晴れがましい席で、しかしどうしてもそのダーティな言葉を使いたくなった、その言葉以外にはその場に当てはまるものがないと判断した瞬間、彼のコースが決まったのだろう。それはなんらかの反感であり、いらだち、不快感だったのだろう。人生の方向が決まるのなんてこんな感じなんだ。ただし現在からみると彼の芸というのが他愛ないものに見え(本物は違うのかもしれないし、日本人には分かりづらいニュアンスもあるのだろうが)そこんとこがピンとこなかった。裸の写真は死体ばかりだ、というのがラストにつながる伏線だったわけね。 [映画館(字幕)] 7点(2009-12-13 11:58:39) |
1550. 転校生(1982)
全編のトーンを音楽が決めている。トロイメライ、アンダンテカンタービレ、G線上のアリア、と、つまり下校の音楽なんだ。学校の終わりの音楽。男女未分の子どもが学校生活を終えて、それぞれ完結した男や女になっていくんだけれども、そのとき押し込められてしまう男の中の女性性、女の中の男性性、それを確認できる最後の時間を描いた作品なんだな。一夫に比べて一美のほうがやや連続性に欠けるのは(転化するとより女々しくなってしまう)、女性の男性化は進んでいるのでより極端にしなければならなかったってことか。だから逆に、城跡へ向かう列車の中で女になった一夫(小林聡美のほう)がわざと女の口調をまねる、などというヤヤコシイことも出来やすいわけ。この映画のみずみずしさ・サラッとした感じは、どろどろ情念があふれていた邦画で本当に嬉しかったものだが、さて、オカマタレントがやたらテレビにあふれている現在見直すと、また感想も違ってくるんだろうな。 [映画館(邦画)] 9点(2009-12-12 11:53:14)(良:1票) |
1551. 喜劇 駅前開運
芸達者を集めて当時のプログラムピクチャーの贅沢さがうかがえ(うち二人がのちの文化勲章受章者だ)、しかも監督が豊田四郎、それなのにぜんぜん楽しめない。芸達者が芸惜しみをしてると言うか、テキトーなくすぐりで終始してしまうので、観てて歯がゆい。まあ24作続いたシリーズの22作目ということで、かなり疲労が来てはいたのだろう。設定は悪くないんだ。東口にスーパーが出来、西口にマンモス団地が出来、しかし間をつなぐのが開かずの踏切で、それによって東口商店街と西口商店街の思惑が交錯する、って現実の赤羽駅界隈を生かしている。さらに公害問題も絡め、68年の世相の記録としては上等。なのに大枠の設定が個々の笑いを生む段になるとあんまり生きてなく、どこかにあったような恐妻コントと戯画化された悪徳政治家風刺をつなげていくだけなの。人情喜劇という手法が社会との落差をを埋め切れなくなったということか、とも思ったが、この翌年(つまり駅前シリーズが終わった年)から『男はつらいよ』が始まっているわけで、要するに制度疲労による世代交替の時期だったと思ったほうがいい。映像の記録としては、団地の脇に広がっていた連隊跡地の広漠とした風景が収められているのが貴重。 [DVD(邦画)] 5点(2009-12-11 12:12:44) |
1552. ハワーズ・エンド
大雑把に言うと英国の上・中・下の階級が繰り広げていくドラマ。「下」というとちょっと極端な表現になってしまい、銀行に勤めている普通の勤労者階級だが、一応このドラマの中では「下」の位置に置かせてもらう。そこで面白いのは、普通だとこの「上」と「下」が対立するでしょ、滅びゆく上流階級と勃興する労働者階級って感じで。ところがここでは対立しない。「下」が、「上」を引っ繰り返すような力をまるで持っていないデリケートな弱々しい青年で現われてくる。労働歌を歌うより、花畑の中を散策しながら詩を口ずさむ手合いなの。この世ならぬものへの憧れに生きている彼は、上流階級のヴァネッサ・レッドグレイヴと対になっているような存在。本来なら対立すべき「上」と「下」が現実に背を向ける地点で寄り添い出してしまい、ドラマの軸を統制するのは「中」の役割りになる。夢見る「上」と「下」に挟まれて、「中」は現実を生きていく。しかしこれが「生きざま」などという語感からは程遠い「いい感じ」のもので、この映画はそのいい感じの味わいに尽きると言ってもいい。「上」と「下」との仕切り役に自分の役割りを定め、控え目にも過ぎず出しゃばりもせず、天真爛漫でありながら周囲に気配りも十分という、おそらくイギリスの長い社交の伝統が培ってきた中流階級の美点が、エマ・トンプソンに結実している。上流階級の洗練も英国の自慢だろうが、こういう愛すべき人物を育てた中流階級も自慢させてほしい、という感じ。ここには対立のドラマのダイナミズムはないが、そのかわり一点から緩く渦を巻き、そしてそれぞれの居どころへ静かに落ち着いていく上品な舞踏のような味わいがある。 [映画館(字幕)] 8点(2009-12-10 12:09:48)(良:2票) |
1553. チョコレート・ファイター
《ネタバレ》 組んで揉み合う柔道が草書体の格闘技だとすると、カンフーは楷書体。カドカドがきっちり決まってるキビキビ感がいい。この映画、女の子が一生懸命楷書で手本通りに習ってるようなところにジーンとさせられた。彼女のエイッエイッという声もかわいい。前半の起動は遅く、今回はダメかなと思い始めたあたりでヒロインの「ママのお金返して」の集金修行が始まり、ノッてくる。氷屋の青、倉庫のオレンジ、肉屋の赤とトーンを変えていくが、倉庫が上下の動きが生きる分、とりわけ楽しめた。積み上げた段ボールの天辺から向かいへ開脚で飛び移るのが気に入った。一番ワクワクしたのは、『キル・ビル』を思わせる日本料理店の場でトレーナー姿のメガネ男が登場したとき。手をクイックイッと痙攣させたり首をピクピクさせたりして出てくる、するとヒロインもその動きに同期させて向かい合う。アクション映画とミュージカル映画はけっこう脳の近い部位で鑑賞してるんじゃないかと常々思っているのだが、ここなんか、アステアロジャースの動作がシンクロしてきて踊り出す瞬間の興奮に近いものを感じた。限りなくダンスに接近した格闘。両者が空中で互いを巻き込むように旋回し最後の蹴りがはいる。そして飲み屋街(ガードとネオン付き)での壁面の戦い、ここでも上下がたっぷり生かされた。立ち上がりの物足りなさをおぎなう満腹感。 [DVD(吹替)] 7点(2009-12-09 12:07:11) |
1554. メランコリー
《ネタバレ》 原題「モルモット」のほうがいい。クリスマスイブから新年へのバカンスで、悪天候からラストで青空がのぞく仕組み。こういう“社交”を舞台にしたドラマってのがあちらは好きね。ロープウェイの中で、それぞれの独白が呟やかれたりする。惨憺たる私生活を抱えながらも「これは楽しいバカンスでなければならぬ」という社交の精神が優先される。立派なものだ。ジャクリーン・ビセットの女の直感が怖い。些細な発見からピンと亭主の浮気に感づき、亭主が言い訳しても「そう言われればそうだわ、思い過ごしかもしれない」なんてふうには全然考えないで、パッとその直感が確信に移行している、それまでの絶対的な信頼と同じように。これが怖い。そのあとでの“社交”、みんながエロ話をしているとこで、ジャクリーンが三角関係の話を淡々と語り、場が緊張してくるところがヤマか。女は怖いけど、またすぐ自殺しようとしたりもするんで、まことに厄介な存在である、というフランス人らしい微苦笑の映画。 [映画館(字幕)] 6点(2009-12-08 11:57:52) |
1555. 現代人
《ネタバレ》 これ山田五十鈴の特集で観たせいか、『浪花悲歌』との類似に思いがいった。転落することによる告発。社会派映画の得意とした型だ。どこかで主人公は割り切って、世の中へタカを括ったはずなのに、ラスト近くで「俺は甘かった」とモノローグしなければならなくなる。この「甘い」ってとこ、その弱さに、渋谷はずっとこだわっていると思う。人間の、徹底できないとこが好きなんだな。純粋な悪も描かないかわりに、健全な庶民も描かない。池部の実家、寿司を買ってくるとみながもそもそと起きてきて、ガード下で電灯は揺れ、寿司の取り合いがあり、ほっぽり出された赤ん坊は泣いている。これだけの描写で主人公の悪への転換を納得させてしまうんだけど、この実家アカホンを売ってるわけで、マットウな庶民と胸を張れるほどのものではない。ここらへんの弱点の配置がうまいし面白い。動きとしての面白さは、この実家の場をはじめ、酔って五十鈴のバーに入り込んでいき、しゃがんで椅子がわりになり五十鈴が酒を取り出すあたり、手切れ金の小切手を池部の顔にペタンと突き返すとこ、池部と多々良が屋上へ出て喧嘩しかけてやめるとこ、などなど。とにかく昭和20年代末の東京、おもに銀座がたっぷりと出てくるのが嬉しい。屋上で食事してたのはどこなんだろう。 [映画館(邦画)] 7点(2009-12-07 12:04:04) |
1556. スクープ・悪意の不在
“みんなが自分の任務を一生懸命に務めた”結果としてのドラマなら確かに面白いし、問題提起にもなるんだろうけど、どうもサリー・フィールドの役どころが単純すぎるんだよなあ。といって、“マスコミとはこうも単純な世界なのだ”という警告のドラマでもなかった。もう少し推理したり裏を考えたりするんじゃないか。自殺しちゃうことになる女が朝、新聞を拾い集めるシーンなどはかなり良かったんだけど。…といった感想を観た当時ノートに記しているが、いやいやマスコミなんてのはこんなもんらしいぞ、と昨今のテレビや週刊誌報道を眺めていると、改めたくなってくる。「新聞の文面作る機械が面白かった」とも記されていて、コンピューターで新聞作るようになり始めた頃だったのだろう。 [映画館(字幕)] 6点(2009-12-06 11:58:19) |
1557. 崖の上のポニョ
《ネタバレ》 この人の映画ではしばしば水没願望みたいのが感じられてたが、とうとうたっぷり水没した。後半のおもちゃの船での航海部分が素晴らしい。太古の海に浸された静けさ、道路の上を古代魚が遊泳し、繋留されていた漁船がアドバルーンのように上がっている。過去の海ではあるが、未来の人類が消えた世界の予想図(理想図?)のようにも見えてくる。人々もパニックになってるわけではなく、水没を嬉々として受け入れているようで、祝祭的気分さえうかがえる。ここはホント、うっとりと観た。おもちゃの船の出航のところも、ロウソクに点火しようとし、つかなかったかともう一度マッチを擦ろうとすると小さな火が育っていく、なんて丁寧な演出。水に対抗するその火のかそけさが伝わってくる。あと粘度の高い水のヌルヌル感というかドロドロ感も、この人の繰り返されるモチーフで、それが凝って水の魚になってるあの感触もいい。とにかくたっぷり水を描ききった作品で、その点に関して満足した。噛み砕きづらい話の大枠についてはおいおい考えるとし、波の上を走るポニョに「信貴山縁起絵巻」の護法童子をちょっと思ったことを、取っ掛かりとして記憶しておこう。 [DVD(邦画)] 7点(2009-12-05 11:53:40)(良:1票) |
1558. カッコーの巣の上で
病院内のディスカッションが優れている。演技による興奮で演劇的な場面のようだが、ほかの人が発言しているときにマクマーフィーの表情を捉えておくなんてことは舞台では出来ないのだから、やっぱり映画的なんだ。野球のテレビ中継、再投票、タバコに固執する男。一方船のエピソードやお別れパーティの騒ぎのあたりはやや弱くなってしまったが、ここらへんは個人個人を捉えきれないシーンだからだ。個人個人の細部、どんな個人もが持っている個性の輝きが素晴らしいのだ。これ一種の聖人伝なんだろうな。変化をもたらすために遣われてきた男。パーティのあと逃げられるのに窓を眺めたままじっとしていて、やがてかすかに微笑むシーン。あの瞬間から彼は聖人になったのかも知れない。使命感が生まれた瞬間。そしてラストの感動、伏線がピタリと決まる。ゆったりとした三拍子の音楽も効果的。 [映画館(字幕)] 8点(2009-12-04 11:59:59)(良:1票) |
1559. リトル・オデッサ
あちらでは新人監督でも、豪華な配役陣を敷けるのがうらやましい。製作者への信頼なのか。アメリカにおけるユダヤ系ロシア人という目新しさを除けば、移民ファミリーものとしての定番的な展開。ヤクザな兄と、それに憧れるマジメな弟。マジメなやつが銃を手にすると、必ず彼は死ぬ、というルールが映画にはある。音楽にアルヴォ・ペルトが使われていて、あの人の曲が流れりゃ大抵の画面は締まってしまうのだ。ラストよりも、父親を雪の原でひざまずかせる場面に緊張があった。母と弟と一緒にベッドに腰掛けるラストは、永遠に失われたもの、として描かれる。放蕩息子の帰還というモチーフでもあるか。 [映画館(字幕)] 6点(2009-12-03 11:58:50) |
1560. オーストラリア(2008)
《ネタバレ》 この監督の独特のタッチ、たとえば水中の少年に死体が被さってくるようなところ、あるいは車から見えるカンガルーの観光的情景とその始末、人物のアップのコミックのような感じ、などのキッチュ感に出だしはかなり期待したんだけど、自国名を題にして気合いが入りすぎたせいか、後半ちょっとマジメになってしまい失速気味。全体としても散らかった印象になった。まあこれがオーストラリア史の特徴なのかもしれない。アボリジニとカウボーイと日本軍が詰まって登場してくる。東洋やヨーロッパの歴史から見ると圧縮されて感じられるアメリカ史を、さらにギュッとつぶしたみたい。その古代と現代が平気で一緒にある感じは面白かった。散らかった印象を修復しようと、同じ街なかを前半では牛を走らせ、後半では子どもを走らせ対にしたり、「オーバー・ザ・レインボウ」を「ケセラセラ」のように使って全体を綴じ合わせようとしたりしてるけど、いまひとつ効果が薄かったような。 [DVD(字幕)] 6点(2009-12-02 11:59:12) |