1721. 噂の娘
《ネタバレ》 『妻よ薔薇のやうに』の年の暮れの作品で、設定もお妾さん絡みでちょっと似ている。ただし娘は姉妹で、和装の姉は同情的、洋装の妹は反発している。それに家業の酒屋の没落が絡む。婿の頑張りも限界、遊んでいるおやじのほうも元気一杯というわけではなく(釣りはいらねえぜ、と言ったものの釣りを受け取ったり)、全体が衰弱していく気分に包まれている。その気分そのものがこの映画の味わいであって、特別モダンな妹に希望を託すわけでもない。酒がマガイモノでだんだん質を落としていくような衰弱感に、映画もひたされている。見合いのあと橋の上をトボトボとやや俯き加減で歩く千葉早智子のあたりに成瀬のトーン。ラストで家庭内の緊張が高まり、妾が店たたんでやってきて、妹が誕生パーティで父と喧嘩し、カットが細かくなり、カメラの向きが変わって、そこで警察=外部が入ってきて、という展開のリズムの妙。向かいの床屋の「次は何になるかねえ」という冷たい言葉でサッと締める厳しさ。何が噂の娘だかよく分からないけど、一番描きたかったのは“姉”の寂しい笑顔だったのだろう。一家を支えて頑張るぞ、って感じじゃなく、家の滅びに殉じてもいいのよ、という微笑み。 [映画館(邦画)] 7点(2009-06-24 12:08:17) |
1722. ウォンテッド(2008)
《ネタバレ》 イスラム過激派のリクルートを思った。そこらへんを意識してたんじゃないかな。惨めな日常にうんざりしている若者に、君は選ばれた者だという暗示を与え、厳しい訓練を課し、絶対者が悪と認定したのだからと迷わず見ず知らずの人物を暗殺できるまでに、組織に信頼を寄せさせる。この先にあるのは自爆テロリストへの道だろう。でもアメリカ映画のいいところは、組織に歯向かう個人のドラマになるとこで、途中の訓練の描写などの陰惨さ・ドギツさには不健全だなあと閉口させられたが、話の大枠はいたって健全であった。そしてなにより馬鹿馬鹿しさが救っている。最初のビルを飛び越える男が、廊下の奥のエレベーターから助走をつけるあたりで、すでに作品のトーンが決まり、以下馬鹿馬鹿しさが輝いているシーンのベスト3を順に挙げれば、まずアンジェリーナ・ジョリーが車で仰向けになって撃ちまくるとこ。次に、彼女の車が特急に追いつくとこ。特急の車掌も、あそこでは急停車させず、わざわざ崖の上の陸橋に来てブレーキをかけるという、事態を悪化させるのに協力的な態度をとるところが嬉しい。そして最後の二丁拳銃での殴り込み、ほとんど新体操の運動を見ているよう。そもそも気合いを入れれば曲がる弾道ってのが、根性ものの野球マンガに出てくる魔球みたいで、馬鹿馬鹿しくも懐かしかった。みなさんは絶対まねをしないでください、とテロップでも入れたいところ。 [DVD(吹替)] 6点(2009-06-23 12:06:14) |
1723. 涙を、獅子のたて髪に
《ネタバレ》 飼いならされた野良犬が、最後に主人を噛むという話。主人を信じて疑わぬチンピラってのは『酔いどれ天使』にも通じるが、ロカビリー歌手藤木孝の反抗とナイーブさという売りが、こういう役に起用するには合うわけだ。いくつか篠田らしい写真的な構図があったりしたけど、どちらかというと音のほうが面白かった。音楽は武満、後の『燃える秋』にちょっと似ている弦の響きで、彼のメランコリーが溢れている。途中フガートめいたところもあり、実に丁寧。日本の映画音楽は作曲家の道場として、いろいろな実験やら練習やらを自在に試みられる場として役立っていたのだ。木場のシーンでは、音響処理を施した木やり唄のようなものも聞こえてくる。主人公の藤木が上流パーティ(ドボルザークの「アメリカ」が流れている)の席でロカビリーをソロで歌わされるシーン、この歌がまた見事だった。正直ロカビリーなんて、ギターのコードとドラムのリズムがないと、聞けたもんじゃないだろうと思っていたが、藤木の声は堂々と自立していた。ゴダールの『ワン・プラス・ワン』では、ローリング・ストーンズの録音風景からバックの音を抜いてしまうシーンがあり、声だけのロックはなんとも心細いものになったが、そこいくと藤木、あんたは偉い。 [映画館(邦画)] 6点(2009-06-22 12:04:57) |
1724. 左ききの狙撃者 東京湾
《ネタバレ》 『東京湾』というタイトルだが、舞台は荒川沿いが主で、あそこらへん下町好きの人にとっては嬉しい映画だろう。山の手から麻薬犯罪が千住・立石・小岩に広がっていった、という設定。浅草松屋の屋上での金渡しから、押上までの逃走もある。街の喧騒から遠く離れておばけエントツの見える川辺にひっそりと暮らしている戦友。これらの町の捜査シーンを、ドキュメントタッチで見せていく。捜査官がこっそり撮影していた8ミリの映像なども出てきて、今でこそ珍しくないが、こういう映画内映像が緊張感を出すために使われ出した最初のころではないかな、『天国と地獄』よりも早い。仕事熱心で妻に逃げられた刑事がその戦友と繋がれるってのも、穏やかな家庭生活よりもまだ戦争の影のほうが濃かった時代を思わせる。サスペンス映画としてはもひとつ鮮やかなシーンが欲しい気もするが、いい映画でした。一番嬉しかったのはベテラン脇役のオンパレードで、タイトルが出る前に死んでしまう役が浜村純だったりと贅沢。最近の映画は脇役に魅力が乏しく、これは俳優のせいではなくてシナリオが痩せてきているのだろう。主人公とその周辺数人でドラマを閉じてしまう。社会を全体で捉えようという意思がなく、登場する他者とは、カーチェイスのとき逃げ惑うだけの個性のない他人の群れになってしまっている。これってかなりまずい傾向なんじゃないか。 [映画館(邦画)] 7点(2009-06-21 12:03:25) |
1725. 人妻椿[前後篇](1936)
《ネタバレ》 『愛染かつら』より、こっちのほうが先なんだ。これのヒロインが横浜の波止場へ駆けつけていくシーンをまねて、あっちの田中絹代も走ったのだろう。こっちは川崎弘子。もうあらゆる悲劇を背負い込むんだけど、はたからだと魔性の女にも見え、だって彼女の行くとこ行くとこ不幸を招き寄せていくんだもん。お父さんのところに帰れば嵐、デパートに行けば火事、彼女は不幸の女として流転の日々を送る。バーのマダムやら、芸者やら、次々と衣装を替えていくのも、いま言うところのコスプレ的趣向か。そもそもの不幸のきっかけであるギャングが死ぬシーンは笑った。「ほー、撃てるもんなら撃ってみろ」と不敵に笑って撃たれて死んじゃうの。このマヌケな奴のために佐分利信はチベット(!)に逃げねばならず、ヒロインは流転しなければならなくなる。笠智衆が珍しくヒロインに岡惚れするという生臭い役で、吉川満子に諭されたりするが、あれはただの通りすがりのおばさんだったのかな。なんせ、総集編的なフィルムでだいぶカットがあるらしく、いろいろ想像で補いながら見なければならない。忠義な飯田蝶子がずっと付き従うってのは、時代劇のお姫様とお付きの婆やを思わせる。ときどきクラシックが不似合いに流れ、夫婦別れの場のシューベルトのセレナーデは、まあ納得がいくが、シューマンのピアノ五重奏が、墓場で(だったと記憶している)流れたのには驚いた。シューマンは『ウルトラセブン』の最終回にピアノ協奏曲が流れるという使われ方もしたしなあ。メロドラマで使用可能な不幸の索引のような映画で(もちろん子どもも病気になる)、でもメロドラマの代表作と呼ぶには躊躇する。 [映画館(邦画)] 5点(2009-06-20 12:03:28) |
1726. JFK
「…ということを決して声高にではなく描いた秀作」ってのは多いが、声高に言わねばならないと思っていることを声高に叫んだ映画、ってのもあってほしい。これがそうだった。作者に言いたいことが過剰なまでに溢れているってことは、こんなにも気持ちのいいことだったのか。3時間、がなり立て続けるストーンは魅力的だ。証言が現われるごとに何度も繰り返される暗殺シーン、一本の作品としての流れなり盛り上がりなりを計算していく気持ちはまるでなく、手に入った絵の具からどんどんキャンバスに塗り重ねていく。その積み重ね自体を映画の魅力にしてしまっている。「あれはおかしい、これもおかしい」と、スクリーンに証拠を陳列していき、説得というより「これだけ疑問点があっても委員会の言うことを信じられるのか」と大声で脅されている気分。そのパッパと陳列していく手際でこちらも釣り込まれてしまう。この監督、役者の演技というものにも全く興味を見せてなく、ただセリフをしゃべるマシンか何かと思っているのだろう。ドナルド・サザーランドのような癖のある名優も、ただしゃべりまくらされる。監督が興味を見せるのは、証言の散文的な内容だけだ。一個の事件の周囲に、人がしゃべることによっていろいろなものが付着したり剥がれたりしていくその変容に面白味を感じているのであって、役者が本当は一番見せたい表情や仕種やらの微妙さは無視されてしまう。そういう微妙な味わいこそ映画の楽しみである、という“上品”な映画鑑賞法も一緒に無視されてしまう。「私はこれこれこういうことが面白い、こういうことにのみ興味を感じている」という自分の守備範囲をはっきりさせ、その中で好き勝手をやり、そのこと以外には媚を微塵も示さない。ストーンの映画に感じるのはその小気味よさである。自分のやってることに確信を持っているものの明朗さがある。 [映画館(字幕)] 8点(2009-06-19 12:07:19)(良:2票) |
1727. 女人哀愁
《ネタバレ》 あたしは古い女だから、と言ってる主人公、でもレコード売り場で働くってのは、この時代そう古くさいわけでなく、モガの素質はあったわけだ。古い古いって言われてるから、ズルズルと古い見合い結婚してしまったようなところがあり(イトコが好きなんだけど近すぎてうまくいかない)、結婚なんてこういうものなんだ、と自分に言い聞かせ、成るように成ると流して冷たい夫と暮らした日々が、最後に爆発に至るってな話。あたしだってダンスぐらい踊れるわ、とイトコの妹と踊る場なんか、彼女の心の深層を見せハッとさせる。若い世代は平気でジャレあえ、もうそこまで無邪気になれないヒロインとイトコの二人と対照させる。大事に大事にこきつかう(襖のあけたて・弟の算数の宿題)夫と、金はないが愛はある妹の愛人がまた対照される。じっと耐えてきた入江が、ついに妹の愛人に加担することで自己主張する展開、どこか仁侠映画にも似た情動がある。ラストでビルの屋上にイトコと立ち、「ズルズルはいけないわ」ってなことを言う。成瀬映画の基本モチーフって「ズルズル」だと思ってる私としては面白かった。ズルズルはいけないと思いつつ、ズルズルしてしまう人生の味わいを描くことにかけて、天才的な監督だったと思っているもので。三浦光雄の撮影に逆光の美しさあり。 [映画館(邦画)] 6点(2009-06-18 12:03:37) |
1728. ジェリーフィッシュ(2007)
《ネタバレ》 漂う者たちの物語。それを象徴するのが浮き輪の少女で、両生類のような水圧に強そうな目をしている。ヒロイン1は職を失い漂いだす。ヒロイン2は結婚式のトイレで挫いて文字通り「地に脚がつかない」状態、新婚の亭主も上の階の女性に漂いかけている。ヒロイン3は遠くフィリピンから漂い流れてきた、船のおもちゃを子どもに買って帰るために。この三者が交錯するという展開は最近では珍しくなく、なあにラストはチャリティの場か何かで皆が一堂に揃うんだろう、と思ってたら、なんか話が深刻になってしまった。漂わないビンの中の船の模型が不吉だなあとは思ってたんだ。ドラマ作りの作法としては最後に三者が揃って締めるほうが正しいだろうが、きれいに終わらせるよりドラマを開いて終わらせるほうを作者は選び、若い監督ならこっちを選んだことを褒めたい。うまく語るより、まず語りたいことを語ることだ。 [DVD(字幕)] 6点(2009-06-17 11:59:16) |
1729. ニクソン
この人の映画は締まりがいいほうではなく、ブワブワと始まるが、語っていくうちに熱を帯び、ゴチャゴチャしながらもある感動の時を迎える、ってのが多いけど、これもそうだった。『JFK』の時のように、言いたいことがあってそれに集中していくのではなく、なんとかニクソンという魅力的な人物を掴まえたいが掴まえ切れない、という悪戦苦闘ぶりが面白い。まず、ケネディコンプレックスがある。ほとんど『アマデウス』のサリエリのようで、ラスト、ケネディの肖像を見つつ「国民はケネディには理想のみを見、私には現実のみを見る」って言わせるのが一つの結論。理想の最たるものはリンカーンだったが、映画は南北戦争の死者とベトナム戦争の死者とを重ねて、彼にも皮肉な目を向けていた。そしてベトナム戦争は、ハト派のケネディによって始められタカ派のニクソンによって終わったという事実もあるわけだ。あるいは、成り上がって失墜していく『バリー・リンドン』的な悲劇として捉える見方。制御できぬ野獣のごときものとしての権力の不思議さを、遠くから眺めた映画でもある。時間をあちこちするシナリオだったけど、これなんか時代通りに順にやったほうが良かったのではないかな。 [映画館(字幕)] 7点(2009-06-16 12:02:01) |
1730. パキスタン・ゾンビ
《ネタバレ》 これ、ゾンビじゃないみたいだけど、まあいいか(なんか公害問題を絡めてたよう)。興味としてはイスラム圏のホラーってのはなんか違うのか、ってとこだったが、これがまるでおんなじ。月に雲がかかり、軽薄な都会の若者たちが森のなかを逃げ惑い、最後はドラキュラよろしく杭を打ってとどめを刺す。ホラーは文化圏に関わりなく世界を一つにした。キリスト教圏ホラーのあの手この手をそのままコピーできてしまう。十字架が出るべきところが「アラーは偉大なり」のお守りペンダントになるだけが違い。怖い人がブルカ(女性が顔を隠すあれ)をかぶっているのが、あちらならではの趣向だった。それとトゲトゲのついた鉄球を振り回すのが、全然根拠はないけど、古代インダス文明発祥地の伝統の誇りを感じさせた、関係ないか。怖がりたい気持ちや、その怖がる趣向は、どんな文化圏でも共有できるのだ。それは嬉しいことでもあり、しかし画一化という点では寂しくもある。もっととんでもない地獄ってのを人類は想像できないのだろうか。音楽が、ラ、ミッドレミードシラ、ミッドレミー…とタランティーノ好みの70年代風安っぽさが満ちた曲で、気がつくと風呂のなかで口笛吹いてたりした。 [DVD(字幕)] 5点(2009-06-15 12:02:45)(良:1票) |
1731. ティン・カップ
スポーツでは、走るもの(球技を含む)と格闘するものがやはり映画に向いており、歩行して棒振るだけのゴルフは難しい。スポーツとは言えないが、走りも格闘もしないビリヤードがけっこう映画向きなのは、キューを構えるポーズが美しいのと、狭い室内ってのがいいんじゃないか。ゴルフは広くて、そういう緊迫感狙いは無理。でこれ、アルマジロ歩く田舎の濃いめの人情世界と、都会的な紳士のスポーツってのをぶつけたあたりがミソか。克己心の話。己れの才能をフルに発揮しようとしないヤツをアメリカ映画は嫌って、チャレンジする話が好きなの。スピード感のないスポーツを見せる工夫として、木の後ろからトイレにぶつけてグリーンに乗せる、とか、刻んでいくヤツと豪快に池越えするヤツとを対比したりとか、苦労してます。 [映画館(字幕)] 6点(2009-06-14 11:56:47) |
1732. クライマーズ・ハイ(2008)
《ネタバレ》 ブン屋もの、ってのは、ちょっと前までは社会派映画の定番で、輪転機が回って大見出しが斜めに飛び出してくるシーンをよく目にしたものだったが、なんか久しぶりに輪転機を見た気がする。事故だ! さあ大変だ! と沸き立つ感じはやっぱり浮き浮きし、あの場に音楽を入れなかったのも正しく、こっちにまで興奮が伝わってくる。他人の不幸で堂々とイキイキできる職場だ。なのにその後、脇筋がチョコチョコと入り、これがせっかくの興奮を薄めてしまう。脇筋が絡むと主人公も暇そうに見えてしまう。いちおうそれらの脇筋も地方紙の職場をよりよく見せてはくれるんだけど、煩雑になり、そういうのは時間がたっぷりある小説にまかせておけばいい。職場内だけに話を絞る勇気が欲しかった。他社より早くスクープを押さえる、というブン屋のルールがはっきりとあるのだから、そのルール上で映画を勝負してほしかった。記者がノイローゼになるまではルール内の出来事だが、それを車に轢かせるとなると、やはり脇筋への脱線だ。現代編の山登りも、当然話の腰を折る。俳優ではでんでんが好演で、地方紙の職場はこんな人物が支えていそうだ、というリアリティがあった。彼は去年は『母べえ』の町内会長でも良く、ここんとこ大当たり。 [DVD(邦画)] 6点(2009-06-13 12:04:11) |
1733. 若い季節(1962)
《ネタバレ》 テーマ曲に乗って、皆が明朗に笑いながら並んで歩いてくる。いい感じ。空撮の日比谷から赤いスポーツカーを捉え、淡路社長の出社。ますますいいノリ。そして植木等が出ただけで場内が浮きたつのは、東宝映画の常とは言いながら、たいしたものである。バカ踊りの、あのいかにも宴会芸的な安っぽさの魅力を何と言ったらいいのだろう。腹が据わってる、とか、頼りがいがある、とかいった古い美徳をすべてコケにした痛快さ、というか。ホレボレする。この時代の映画は何かというとすぐビルの屋上に上がりたがる。会社の一同を集めての訓辞、そして軍艦マーチに乗って宣伝部員らがヘラヘラと踊る。いいなあ。銀座通りにはまだ都電が走っていく。団令子はおそらく現代の基準で言えば“デブ”だろうが、この時代は“グラマー”の範疇だった。健全な時代だった。人見明がズーズー弁で笑わせる。由利徹といい若水ヤエ子といい、当時はズーズー弁が笑いの重要な要素だった。植木等と坂本九が持ち歌を交換し、九が「サラリーマンとは気楽な稼業と~」とやれば、植木が「上を向ういて~」とやる。まったく見終わって何も残らない映画だが、何か朗らかになってたな、という気分の記憶だけは持続する。 [映画館(邦画)] 6点(2009-06-12 12:06:09) |
1734. 阿部一族(1938)
これは原作の謎でもあるのだけど、何を否定し何を肯定してるのかが、簡単には割り切れない話だ。たしかに侍の世界の馬鹿馬鹿しさは描かれているが、その馬鹿馬鹿しさをより高い目で肯定しているようにもとれる。冒頭の淡々と日常の中で殉死していく者たち、腹の据わった者たちと見つつ、やはり気味悪い。悲壮な討ち死にをあっぱれと思い、また愚かだと思う。女たちの涙を批判とも見られるし、浄化とも見られる。我々日本人には、けっきょく自分たちが肯定したがってるのか否定したがってるのかよく分からない情動があり、どうもそれがせめぎ合うところが好き、という困った趣味があるようなのだ。義理と人情、とか。映画の中の言葉で言えば「情は情、義は義」。そこらへんがボヤけたまま、この国は数年後に阿部一族のように全世界に対して立て籠もったわけだ。監督は戦時中右翼団体を主宰していたくらいの人で、おそらく肯定的に彼らを見ていたのだろう。武家屋敷の美しさの見事さなど、精神性を託されているよう。縁側を渡りに見立てて、先代が自死の場へ飄然と謡いつつゆき、滅びの前に翫右衛門がそれを繰り返す。死のために親類一同が法事か何かのように集まってくる、あの気分の延長に一億玉砕の思想が生まれてくるんだなあ。そういった美しくも危ない気分が正直に表現されている映画です。 [映画館(邦画)] 7点(2009-06-11 12:08:21) |
1735. ファイナル・プロジェクト
《ネタバレ》 クールで泰然自若としたアクションスターの系譜もあるが、ジャッキー・チェンは、オロオロしながらコトを為していくキートンやロイドの喜劇の系譜の人で、水中カンフーなどどうしたってキレがなくなるのを、逆手にとってギャグにしてしまうのが偉い。サメはじっとしていると襲わない、というネタで、闘っていた二人がサメが近寄ってくるとそのままジッと停止するおかしさ。あるいは血の匂いを出さないために、傷を受けた指を口にくわえる、その合い間には酸素ボンベの口を取り合ったりと無駄がない。ほかにも、タケウマをしたままのケリを何度かやって、はずした後も長いつもりでケリを空振りする、とか。このころは年齢的にアクションは厳しくなってきているのに、それをカバーしようという工夫が随所に見られて、けっこう感動的だった。白装束白マントの悪漢どもがスキーで追いかけてくるあたり、ああ悪漢とはやはりこうでなくちゃならない、と懐かしい興奮が胸に満ちたものだった。 [映画館(字幕)] 7点(2009-06-10 12:07:38)(良:2票) |
1736. いのちの食べかた
《ネタバレ》 おそらくワンシーンだけ取り出せば、企業PR映画にも使えそうな映像。「我が社はこのように完全オートメーションで、清潔に食品を提供しています」って感じで。でもそれがこれだけ連なると、ちょっとグロテスクな様相を帯びてくる。ドキュメンタリーの面白さだ。大量消費社会と頭では理解していたつもりでも、その大量ぶりのハンパじゃなさ、それに驚いておくことも無意味ではないだろう。コッココッコやっていた鶏たちが機械に吸い取られ、どんどん処理されて、吊るされたまま“製品”になっていく。ベルトコンベアーのヒヨコなんか、コントのワンシーンみたい。木を揺すって実を落とす機械も、なんか笑えた。そう、専門化した珍しい機械の数々も見どころで、ここらへんはSF映画の世界だった。牛の乳搾り用メリーゴーランド、牛のエサ噴射機、惑星探査機のように両腕を広げていく畑の農機、無駄のない豚や魚の内臓摘出装置、エレベーターでの長い長い降下後、地下深くに広がる岩塩採掘場のシーなんか、あそこだけ見せられたら絶対にSFだ。食卓の向こうにSFが広がっていたとは知らなかった。屠殺機で静かに殺される牛、抵抗する牛、個性のあったどれもが、処理されれば同じ肉塊になっていく。考えてみればこの映画、よくテレビの自然もの番組なんかで目にするチータの狩りのシーン、あれの人間版なんだな。あの必死の迫力、食うか食われるかの緊張から、なんと我々は遠くまで来ているんだろう、という感慨が湧く。シンメトリーで捉えた透視画法の無機的な構図が静かに続き、その中で有機物が食製品へと変えられていく。でもそれはチータの狩りと本質的には全然違っていないはずなのだ。まったく言葉に寄りかからず、目で追跡する92分間は、映画の基本の驚きを改めて体験する新鮮な時間に満ちていた。 [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2009-06-09 12:14:09)(良:2票) |
1737. 裏切りの季節
ベトナムでのアメリカ軍の暴虐と、SMとが対比されているらしい。60年代とは、政治と性を一緒に語るのが好きな時代だった(というより昭和40年代かな)。公の極限と私の極限。ただそれが一つの形式になってしまって、とりあえず政治と性を並べておけばサマになる、ってところもあった。その安直さを許す気分自体もあの時代っぽさ。今見ると、渋谷を初めとした都市のロケに資料的価値がある。室内の場になるとマダラな照明になるのは、『胎児が密猟する時』もたしかこんなだったが、カール・テホ・ドライヤーのタッチを模倣したというような美的効果より、写っちゃまずいところを不自然でなく見えなくする手段だったのではないか。あるいはもっと単純に照明費の節約だったかもしれない。またこの時期のこの種の映画ではSMが多く扱われるのだが、男の時代・暴力の時代であったというより、カラミを描くには制限が多すぎ面倒なので、映画の存在理由である女体を簡単に見せるのはSMが一番やりやすかったという面もあったかもしれない。ジャンルの様式とは、内的な芸術的必然性より、案外そんな外的要素に左右されてるとこがありそうだ。でもそういう職人仕事がかえって時代ならではの気分を反映するもので、全体に漂う息苦しさ・閉塞感はマガイモノではなかった。ラスト、風でズッていく広げた傘なんかに、つい時代を深読みしたくなってしまう。 [映画館(邦画)] 5点(2009-06-08 12:04:17) |
1738. 路傍の石(1938)
《ネタバレ》 おそらく現在見て一番嬉しいのは、明治の風俗の再現であろう。物売りや子どもの遊びや、昭和13年の時点でまだナマな記憶が残っていたであろう頃の再現だ。文献史料を元にした再現じゃなく、そこらにいるスタッフのだれかれに話を聞けた。大昔ではなかった、というか、現在『三丁目の夕日』を回顧しているぐらいの時間的距離だろう、いや、もっと近過去だったかな。勉学による立身ということが、何の疑いも曇りも持たずに輝いていた幸福な明治。旧弊なものはことごとく阻害者としてあり、たとえば父の山本礼三郎、あるいは伊勢屋の主人と丁稚のシステム(かつてひいきにしてくれた伊勢屋のお嬢ちゃんが、吾一が丁稚に来て吾助となったとたん横柄になる)。未来を拓いていく者は、文学青年教師の小林勇であり、絵描きの青年江川宇礼雄でありとモダンで、旧弊な側とはっきり二分されている。これはそのまま田舎と東京という二分でもあり、ラストでランプを割って電気の街に出ていくことになるわけだ。名場面としては、吾一が母の封筒貼りを手伝って間違えてしまうところ、自分に対する悔しさが渦巻くあのエピソードは本当に切ない。あとは母親の死を暗示するシーン、タルコフスキー『惑星ソラリス』の冒頭を先取りしたような、水草のゆらぎの美しいこと。 [映画館(邦画)] 7点(2009-06-07 12:02:41) |
1739. その前夜(1939)
《ネタバレ》 幕末の京都、池田屋の近所、大原屋の物語という設定がアイデアの基本。市中を威張って歩いている新撰組に対し、絵描きら町人が「そういう時代なんですよ」と息を殺している気分は、映画製作時の軍部と重なって見えてくる。原作の山中貞雄は前年に死んでいる。でも、勤王が善で新撰組が悪という単純なものでもないところが、この映画のいいとこで、どちらかというと、政治的なものと政治的でないものとの対比なのじゃないか。絵描きが勤王派の妻をかくまうのも、ある種の親しみの感情からで、「どうも政治向きのことは…」と自分でも言っている。新撰組を狙う河野秋武(当時は山崎進蔵)も、別に長州脱藩でなくイデオロギーとは無縁、個人として辱しめられた怨みによって行動している。新撰組にも加東大介(当時は市川莚司)のような気のいい奴はいるのであり、しかし「イデオロギーなんか関係ないっすよ」というようなことを飲み屋で他藩の人間と語り合ったために切腹させられる者もいる。中村翫右衛門は、とにかく働いて上昇するためなら新撰組にだって取り入る、という町人気質の人物、川原で染めものの水洗いをしているとき、加東大介と話し合うあたりのノンキな気分がいい。別にリアリズム狙いの映画ではないが、とかくピリピリと張りつめて描かれる幕末の京都に、案外こんな気分もあっただろうなと思わせる手応えがあった。 [映画館(邦画)] 7点(2009-06-06 12:03:56) |
1740. バードケージ
オカマコメディってのには、微妙にいらつかされる。これってテレビなんかのオカマタレントにも通じるもので、差別だ偏見だって言われるとそれまでなんだけど、何と言うか、自意識過剰ぶり、チヤホヤされたがり、が引っかかる。男社会が「女性的なもの」として抑圧してきたモロモロを臆面もなく噴き出しているんだから、男社会への批評としては意味があるはずなのだが、他者の視線を意識しすぎた存在となる自分を許してしまっているところが、人の在り方として正しくない気がして仕方がない(同性愛そのものじゃなくて、それの誇示のことだよ)。でもこのいらつきを延長していくと、社会的少数者は自己主張するな、っていう“良識の壁”につながっているのかもしれず、そこはこちらの反省点。それはともかくこの映画、元は舞台劇かなんかなのか、そんな雰囲気。普通にしてくれ、と懇願する息子の向こうで、普通でない男が普通でない格好でモップを動かしてる、なんてあたりはやっぱり笑えた。ジーン・ハックマンの女装より、ダイアン・ウィーストの変身のほうが笑えた。 [映画館(字幕)] 6点(2009-06-05 12:02:12) |