1. ヴェンジェンス
《ネタバレ》 集団レイプの被害に遭った女性がバリバリと復讐をこなし、それでもダメなら凶暴な男性刑事が敵をギタギタに叩きのめす、という『ダーティハリー4』。つくづくマッチョな作品だと思います。まあ、あくまで映画作品なんだからそれもアリなんですが、そういう作品があるからこそ、一方でこの『ヴェンジェンス』のような小品とも言える作品の、優しさ、みたいなものが光ったりもします。 娘と二人で暮らす女性がある日、娘の目の前で街のチンピラどもにレイプされてしまう。いったんは犯人たちが逮捕されるものの、閉鎖的な田舎町ということもあって母娘に対する周囲の視線も冷たく、さらには裁判を通じて二人の生活はボロボロにされていく。誰しもがソンドラ・ロックのように強くなれるんじゃ、ないんですね。これが、厳しい現実。 で、それをそっと見守る孤独な刑事。誰もが改造マグナムを手に敵を蹴散らすイーストウッドになれる訳じゃないんです。 とても残念なことに、これがどういう訳か、「ニコラスケイジ映画」の一本、だったりするのですが、いや、そんなに残念がることでも無い気もしてきます。いいじゃないですか。孤独が似合う男、ケイジ刑事(←単にこれが言いたかっただけなのか?)。 タイトルは原題通りVengeance、要は「復讐」な訳ですが、正直、この「復讐」の部分に関して、作中の描写にいろいろと不足があるようには思います。あくまでケイジ刑事が「陰で支えている存在」であるとは言え、もう少し踏み込んだ描写が無いと、いささか唐突でもあるし、「孤独に見えて、実は彼には協力者がいるのか?」と中途半端に思わせるシーンがあったりもします(あの女性の声は?)。でも、孤独な男には、これくらいの省略が、似合うかも知れませぬ。 それよりも、原題にはもう一つ「A Love Story」というサブタイトルがついていて、これは確かに、まさにラブストーリーであると思います。どこがって? 最後に「別れ」があるから。逆説的だけど、作品のラストにおいて、ああ、これは間違いなくラブストーリーだと思いました。密やかな愛と、別れ。恋愛であると同時に、一種の家族愛でもある。金網越しの別れが、切ないのです。 母と娘にはこの先もどんな試練が待っているか知れないけれども、ひとまずは新しい土地で新たな生活を歩みはじめ、孤独な刑事はまた孤独な生活へと舞い戻る。たぶん彼らは二度と会うことは無いんだろう、いや、「二度と会うことは無かったんだろう」と過去の記憶のように、思えてきます。 金網で別れた後、刑事は自動車のルームミラー越しに、二人へ視線を送るのですが、この場面はたぶん、実際にミラーに映った二人の姿ではなく、刑事の記憶する二人の姿が、描かれています。二人の並びが、鏡像になっておらず、彼が肉眼で見たそのままだから。そして、彼がハンドルを切ると、二人の姿もミラーからふいと消える。まるで夢のように。 この余韻がたまらない。本当にいいラストだと思います。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-06-01 07:20:37) |
2. 囚われた国家
《ネタバレ》 地球はすでに異星人の植民地となり、人類は表向き平穏な生活を送っているものの、実際は支配され搾取され続けている・・・という、もはや現実世界の暗喩というよりは直喩に近い辛辣な設定。 こういう時、ジョン・カーペンターであれば、プロレスラーを一人、暴れ回らせるだけで済ませるのだけど、もはや『ゼイリブ』の80年代と現在とでは、この現実世界における「支配」の深刻さも比較にならないということなのか、今作ははるかに悲観的な立場に立っています。最初からどこか徒労感のみが漂うレジスタンス活動と、まさに「やはり」というべき挫折、そしてその裏にある、この上もない苦さ。 この作品、成功作か失敗作かと言えば、一見とっつきにくいという点で(要するに興行的な意味で)、成功作とは言い難い、とは思います。まず、描かれるレジスタンス活動が、どうにも求心力を欠いていて、映画としては盛り上がりにくい部分でもあります。でもレジスタンスってのは、そんなもんなのでは。希望という希望もなく、映画の場面はどんどん変わり、状況に流され、それでもテロを実現させようと何とかクライマックスに辿り着く。 もうちょっと希望らしきものを明確に示せば、物語にももっと起伏が生まれるかもしれないけれど、それは逆に言うと、結末が「明」であれ「暗」であれ、一つの物語として完結させてしまうことにもなる。この作品は、悲観的であると同時に、完結してしまうことも拒否しているような。だから、見終わっても、気になる「何か」が心に残される。 ジョン・グッドマンの存在感がやはり大きいですね。まあ、何を考えているかわからない役どころなんですが、そうか、こういうキャスティングの手があったのか、と。彼と、そして出番は多く無いけどヴェラ・ファーミガ、この二人の関係が、このおよそ愛想の乏しい作品の中で、隠れた求心力となっており、忘れ難いものともなっています。 SF映画なのに異星人の姿を全く出さないのもさすがに愛想が無さすぎ、ということか、一応、ちょっとだけ異星人の姿も登場します。これがまた、リアル・サボさんとでも言いますか・・・。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-05-31 07:49:21) |
3. トランス・ワールド
金は無くてもアイデアさえあれば、面白い映画は撮れるんだ・・・と言えればいいんだけど、それがなかなか難しいんですね。いくら面白いアイデアを思い付いたところで、面白くなるように撮らなきゃ、やっぱり映画は面白くならないもの。 小説だって、いくら面白そうなプロットでも、文章がイマイチだったら気分が乗らず、それなりにシラケちゃいますしね。 この映画も、基本的にセリフで説明するばかりで、映像に惹かれるような要素が、どうにも乏しいもんで。金が無いとこうなっちゃうの? まさかとは思うけど、必要以上に金が無いように見せかけたりしてないか? 何だか雰囲気が『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』っぽいもんで、その時点で「お金がありません」オーラを感じてしまったりもするのですが。 とにかく、セリフでの説明ばかりで、印象に残るシーンが何もない。登場人物の魅力も無い。ただただ、素材だけ、という感じ。 いつか、誰かがお金出してくれてリメイクできる日を待っているのだとしたら、確かにこれなら、いくらでも改変の余地がありそうな。そういう無色透明の作品でした。 [インターネット(字幕)] 3点(2025-05-24 15:59:03)(良:1票) |
4. オープン・グレイヴ-感染-
《ネタバレ》 作品の背景にある基本設定の部分だけを見ると、別に目新しいものではなくって、『バイオ・インフェルノ』あたりを嚆矢と言ってよいかどうか、とにかく、「感染したらゾンビになっちゃう病」のオハナシ。もはやこのネタ自体がゾンビ病のごとく、映画界に蔓延しております。 しかし、そういうアリガチな基本設定であっても、見せ方ひとつで新鮮になり、面白くなる、という好例ですね。 主人公が何かを失っている状態、というのは、映画の物語を動かしていく魅力的なテーマの一つですが、特にその失ったものが「記憶」である時、テーマはまた一段と魅力的なものになります。 記憶がない、頼るものが無い中で、主人公の前に次々に繰り広げられる意外な光景、意外なシチュエーション。さらには断片的に蘇る記憶もそこに重なって、ついつい、作品に引きこまれてしまいます。 冒頭、目が覚めたら大きな竪穴の底で死体に囲まれている。そこにロープが下りてきて穴から這い出すことはできたものの、助けてくれたのは何者なのか、そもそも何のために助けてくれたのか。穴を脱出したとて、閉塞感に包まれたままであることは、相変わらず。記憶がない、自分が誰かわからない、という時点ですでに孤独なのに、さらに何だか妙に自分が「受け入れてもらえない」ようなところがあって。 イヌに吼えられる。倒木が行く手をふさぐ。とにかくイヤな感じの閉塞感。その外側には真相があるはず、しかしそれを手探りで掴もうとするものの、なかなか掴めない。 そのモヤモヤ感に引きずられていく面白さが、ちょっと新鮮でした。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-05-24 07:07:32) |
5. 名探偵コナン 紺青の拳(フィスト)
これは、面白かったです。 だいぶ無理やり感はあるんですけどね。なんで舞台をシンガポールにしたのやら、字幕のセリフがたびたび登場して、あまり子供には優しくない構成になっているし、常連のキャラを物語に登場させるのも一苦労、殆ど登場しない、あるいは全く登場しないキャラもいる(目暮さん・・・)。それどころか肝心のコナンすらあわや登場し損ねるところを無理やりカルロスゴーン方式(?)で出国させることに。 という、無理やり感がある上に、さらに、怪盗キッドによる宝石強奪と、殺人事件にまつわるフーダニットとが並行して描かれ、ゴチャついた感じはあります。もしかしたら、「コナン映画」には向いていない題材なのかも??? しかし、それを変にまとめようとせず、無理やり感のまま突っ走っていけば、結構、作品は面白くなったりするもんです。どこか無造作に思われるように(実際はちゃんと考えて脚本を書いているだろうけど)エピソードを配置していって、そのままバタバタとクライマックスのスペクタクルへとなだれ込んでいく。いよいよここに無理やり感も極まれり、ですが、作品の持つこの勢い、悪くないです。 夕方から夜への時間の推移とかも描かれていて、こういうのも、変化を感じさせ、いいなあ、と。 [地上波(邦画)] 7点(2025-05-06 08:46:36) |
6. 劇場版「進撃の巨人」Season2 覚醒の咆哮
停滞感、甚だしく・・・。 別に、巨人の正体が誰だとか、作品が描く世界にどんな秘密があるとか、そんなことを知りたいがために見てるわけじゃないし。 例えばミステリを読んでいる時って、早く真相を知りたいと思いつつも、「最後まで真相を知りたくない」という思いも持っていて、「ページをめくればそこに真相があるのに、マヌケにもまだページをめくっていない自分の今の状態」ってのが、実は一番楽しい点なのかも知れませぬ。そして、そう思わせてくれるだけの魅力を備えた謎がそこにあればありがたいけれど、重要なのは、謎の見せ方、語り方。手品だって、トリックが高度かどうかは関係なく、見た目の不思議さを楽しむのです。 なーんか、Season2になって、いやもっと前からか、新たな巨人を登場させては謎がどうの正体がどうのと、ひたすらマッチポンプ。正直、あまり興味も湧いてこない。同じことの繰り返し。なんだか、キャラを登場させては浪費していってるような、物語運び。 アクションシーンも変わりばえせず、既視感あり。静止画を交えてくるのも何だかベタな印象。森を登場させたのだから、森ならではの「何か」をやって欲しかった。 とは言っても、さすがに実写版より悪い点つけたらあかんかなー、しかし実写版に何を書いたかまるで記憶なし、、、と思ったら、現時点でまだ何も書いてなかった(書けなかったらしい。ははは)。ので、そこはあまり気にせず。 [CS・衛星(邦画)] 3点(2025-04-20 07:36:35) |
7. 名探偵コナン 純黒の悪夢(ナイトメア)
↓いやホント、私もアムロとシャアが会話しているようにしか聞こえませんでした。これ、絶対わざとやってますよね。シャアの喋り方そのもの。 ちょいとコナン映画の興行収入ランキングみたいなのを調べて見ると、前年の『業火の向日葵』に大きく水を開ける大ヒット、このあたりから毎年春の興行の話題をかっさらっていくオバケシリーズになったような。 冒頭のカーチェイスからして、完全にアクション路線に振り切っており、ミステリらしい不可能興味だの意外な犯人だのといった要素は皆無。コナンに「オレの推理が正しければ・・・」なんていうセリフをあえてしゃべらせているのは、曲がりなりにも「名探偵」をタイトルに背負った矜持かもしれないけれど、いやそれ、推理じゃなくって単なる想像でしょう、と。 CG多用でアクションやスペクタクルが緻密に描きこまれ、別に悪い意味ではなく「ウケる」作品になっております。ただ、こうなってくるとだんだん、これがコナン映画でなきゃいけない理由がよくわからなくなってくる。いくら手の込んだ作品にしようと、テレビ版のイメージを崩すところまでは改変できないだろうから、自ずとアニメーション描写の制約にもなるし、結局ストーリーの方も、これまでの経緯に寄りかかったようなものになって新味が無く。まあ、ハリウッドの超大作SFシリーズにありがちな「毎回、誰なんだかサッパリわからん新たな敵が登場しては、今度こそ地球の危機だと騒ぐ」ってのもどうかとは思いますけれども。 肝心のスペクタクルシーンで、観覧車が貸し切り状態として描かれるのも、パニック感を削いで今ひとつ・・・とか思っちゃうのですが、これも、あくまでコナン映画なんだからこんなもんでしょ、ということなんですかね。 舞台としてわざわざ水族館を設定しているのに、魚を描かないのも、なんか、もったいない気がしちゃうんですけど、そんなことコナン映画に誰も期待していない??? [地上波(邦画)] 4点(2025-04-20 06:40:36) |
8. 打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?(2017)
『打ち上げ花火、~』、アニメから見るか? 実写から見るか? 実写の方が先行作品であることは言わずもがな、ですが、もしかしたらアニメを先に見た方が、ストレスがナンボか少ないかも―――どうしても両方見ないといけない、ということであるならば。 実写版における、奥菜恵の「掃き溜めに鶴」感も、なかなかにエキセントリックなものがある一方で、アニメの方はというと、こちらは逆にだいぶ丸め込まれた感じ。登場人物の年齢層が上げられ、それと同時に登場人物たちの個性も薄まってしまって。いかにも「今どきのアニメです」という描き方が、だいぶ裏目に出ている印象。かえって違和感が。 一応、設定は中学生ということらしいけれど、正直、この描き方では高校生にしか見えない。主人公の身長を低めに描いているのが「中学生です」というアピールなのか、でも見えないものは見えないんだから仕方がない。大人びた格好をすれば「16歳くらいに見える」というセリフも、まるでピンと来ず。 男子どもはどうかと言うと、会話の内容のレベルが、小学生という設定だったからこそ成立していた訳で、これも何だかチグハグ。 どうしてこんな中途半端な改変をしてしまったのか? と言ったあたりは、ひとまず置いとくとしても。 アニメーションのクオリティは、そりゃまあ間違いなく(かつてのテレビアニメなんかよりは)上がっているんですが、どうしても、ところどころで薄味に感じてしまう部分があります。もっと細かい描写が必要なんでは。例えば自転車で二人乗りする場面とか、この程度の表面的な描写でいいんだろうか? むやみにCGを取り入れ、メカニックな動きをしつこいくらい見せるのも、何だか味気ない。あえて強調しているんでしょうが、違和感ばかりが残ります。 実写ドラマをわざわざそのまんま再現したかのようなシーンもあったりして。これもまた愛嬌・・・というのを超えて、なんだかわざとらしい。 別に実写版に特に思い入れがある訳でも何でもないんですが(あれはテレビドラマでしょ、と思っちゃうし、テレビドラマは正直、苦手)、何がやりたくてのアニメ化なのか、どうもよくわからないのでした。 [地上波(邦画)] 3点(2025-04-12 14:10:27) |
9. マキシマム・ソルジャー
監督:ピーター・ハイアムズに、主演:ジャン=クロード・ヴァン・ダム、という組み合わせ、しかし製作が2013年ですから、その20年くらい前ならテンション上がっただろうけれど(過去に手を組んだのもその頃だけど)、さすがに今さら感も色濃く、これじゃあまるで・・・とまたけしからぬ喩えを書こうとして、気が引けてきたので、やめておきます。他人の事を言える立場でも年齢でもないしなあ、という自覚からの、自主規制。。。 邦題がもう、ヴァン・ダム映画2本組み合わせただけの、「誰か、レンタル屋で間違って借りて下さい」的なタイトルで、自己主張は皆無。しかし、ヴァン・ダムのメジャーな活動はユニバーサル・ソルジャーに始まりマキシマム・リスクに終わったのだ、という隠れ総括がもしもこの邦題に込められているのであれば、実は悪くない邦題なのかも知れませぬ。 という毒にも薬にもならない邦題の話はさておき、映画の中身はというと、いやこれも、実は悪くない、と思いましたよ。さすがハイアムズ、さすがヴァン・ダム、と持ち上げてみたとて、遅いか。まずもって、ヴァン・ダムの変な髪型に意表を突かれ、今回は悪役に回っているということにまた意表を突かれます。舞台は、のどかな森林が広がる、とある島。そこを住み込みで警備しているお兄さんがこの映画の主人公で、他に島に住んでいるのは、気難しい爺さんくらい。そして警備と言っても、仕事と言えば、たまにやってくる若者を注意するくらい。そんな島に、ヴァン・ダム率いる極悪一味がやってくる。冒頭の小型機墜落シーンで、あっと思わせ、一味の狙いがそのシーンに繋がることで、おっと思わせる、上手さ。 かつ、もう一人の登場人物が、この島にやってきます。主人公に逆恨みのような感情を持つ男。この男と主人公との間に緊張感を孕ませつつ、悪党一味との対決が描かれていき、映画の尺はたったの85分で、その攻防の一夜が、物語のメインとなります。 夜を描く、となると、撮影監督ハイアムズの腕の見せ所。と言っても辺鄙な森林が舞台ということもあり、夜が舞台だとおしなべて同じようなシーンになりがちですが、救援を求めるためにあげた炎の照り返しの赤い光などで、画面にアクセントを加えたりして。 ヴァン・ダムの怪人物ぶりもまた、この作品の楽しさ。これぞ、ハイアムズ&ヴァン・ダムのコンビの真骨頂。というより、変に大作を期待せず、こういう小品こそ彼らに任せるべきなのでは、と思えてきます。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-03-30 07:46:39) |
10. ボヘミアン・ラプソディ
やっぱりこの作品のヒットには、映画のタイトルの上手さが少なからず貢献しているような気がします。バンド名でもなければ個人名でもなく、楽曲の一つが映画のタイトルに選ばれている。楽曲って云ったって、「フラッシュのテーマ」が映画のタイトルではさすがに弱いですしね(と言うかそもそも劇中でも触れられず、もしかして黒歴史扱いなのか?)。 一種の伝記映画ということもあって、まとまったストーリーが語られるというよりは、バンド結成からの彼らの歩みが飛び飛びの時間軸のエピソードで綴られていく構成。劇中ではいくつかの楽曲が登場し、「ボヘミアン・ラプソディ」は彼らにとって大きな契機になった曲ではあるんだろうけれど、あくまで登場する楽曲の一つに過ぎない。だけど、この曲が映画のタイトルである以上、映画はきっとこの曲へ回帰するんだろう、という期待が持続し、そしてクライマックスとなるライヴエイドのシーンで、それは結実します。 映画に挿入される楽曲シーンそれぞれがスリリングで、まとまった物語など無くても充分に映画に惹きつけられますが、このライヴエイドにおいて、それは最高潮に。 そしてまた、まとまった物語は無くとも、エピソードが積み重ねれていく中、主人公の抱える孤独というものが、しっかりと浮かびあがってきます。功成り名を遂げ、富を得たとて、埋められない周囲とのズレは、容赦なく主人公を孤独に追いやります。一見、彼の同性愛的な部分がその孤独をもたらしているようではありますが、それだけではなく、エキセントリックなスターの持つ宿命、でもあるかのような。 フレディ・マーキュリーの家の壁に金閣寺の護符が貼ってあって、いやこれ、ウチの壁にも貼ってるよなあ、と思いながら見てたんですけどね(笑)。よくこんなのわざわざ撮影のために準備したよなあ、と。 [レーザーディスク(字幕)] 7点(2025-02-02 08:58:25) |
11. LOOPER/ルーパー
《ネタバレ》 そうそう、そうなのよね。ターミネーター1作目のT-800の部品がこの世から消滅したら、未来は書き換えられたのだから、その消滅の瞬間をもってターミネーター2のT-800の姿もかき消えちゃうべきなのかどうか、という問題。 それはともかくとして。 この作品、いかにも「小説を映画化しました」っぽい雰囲気があるんですが、実際はオリジナル脚本らしく、「まず小説にしたら面白くなりそうな題材を、映画のためだけに準備してくるなんて、すばらしい! やればできるじゃないか!」 ってことで、いいんだろうか。なんかちょっと、ダメな気が。 映画用に脚本を書くのはそれを「映画」にしたいからであって、あるいは原作小説を映画用に改変するのもまたそれを「映画」にしたいからであって。しかるに、原作も無いのに「原作小説の映画化」っぽく感じてしまうというのは、言葉を変えると、アイデア先行でそれを必ずしも「映画」に昇華しきれていない印象。アイデアと、出来上がった作品との、分離感。まあ、実際に原作のある映画だって、うまくやればこんなことは感じずに済むのですが。 いや、この作品、いい雰囲気は、あるんですけどね。のどかな景色、音楽も抑え気味にして、静かな雰囲気での統一感。 ただ、登場人物の描き方までが静的というか淡泊、彼らの抱えるバックグラウンドなども、もう一つ心に響いてこない。ストーリーの都合で配置されただけのキャラ・・・少なくともブルース・ウィリスは、そんな感じ。 今の自分と未来の自分が対立する。両者の間には(それなりに「取返しのつかない」)時間と経験の差分があるはず。その差分の描写が、この程度でいいんだろうか。というより、どちらも「自分」なんだし、相手にもうちょっと関心を持たないものなのかしらん。 そういう要素が作品に不要なら、別に省いてもいいと思うけど、この作品には必要だったんじゃないかなあ。 古典的なSFの発想だと、「過去の自分が消えれば未来の自分も消滅する」となるけど、それを逆順にしてみせた(未来の自分が消えることで今の自分が消える)のが、この作品の最大の功績ですかね。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-11-23 05:50:18) |
12. スプライス
《ネタバレ》 観ているとどうしても、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督と同じくカナダ出身の先輩監督の名前が浮かんでくる。ああ、これって、デヴィッド・クローネンバーグだなあ、と。 例えばあの『ザ・フライ』なんてのは妙な作品で、映画が始まったら殆ど前置きも何もなく、いきなりジェフ・ゴールドブラムが「オレって凄い研究してるんだぜ」みたいなことをジーナ・デイヴィスに吹聴している。そんでもって物語はとっとと禁断の実験へとなだれ込み、あとはひたすら、主人公の体に生じた異常が描かれていきます。登場人物がごく限られた、割と「内輪」のお話でして、これらの人物はそれぞれ、どこかイヤな部分があり倫理的な問題を抱えているにせよ、誰も悪人という程の人はおらず、なのにメチャクチャ悲惨なお話が、その特異な映像でもってこれでもか綴られていって。 ただただそこにあるのは、決して引き返すことのできない、残酷な変化。 この『スプライス』でもまるでこの『ザ・フライ』を踏襲するかのように、エイドリアン・ブロディとサラ・ポーリーはあれよあれよという間に異常な実験へと突き進んでいって、あとは、その実験がもたらした奇妙な日々が描かれます。人間に似ているけれども、人間に非ざるもの。それが、社会とどう関わるか、どう排斥されるか、などといったことはまるで描かれず、そこにあるのはただ、この3人による「内輪」のお話。ただしその中で展開される変化というものは、我々の予想を超える速度で、我々の予想ができないような方向に進んでいく。いや、マジでついていけん。と言いつつ、心のどこかに「ああ、やっぱりそうなるのか・・・」という思いもあって。こういう不条理感がまた、クローネンバーグ作品を思い起こさせます。 この「ドレン」なる生命体の描き方、幼少時の姿が登場した際は違和感ありまくりでギョッとさせられ、何だか映画が間違った方向に向かっているんじゃないか、と心配になりますが、成長すれば違和感も無くなり・・・ということは勿論無くって、違和感はずっと消えないし「間違った方向」感も消えないんですけれども、一方で、別の危うさも、何となく感じさせる・・・つまりそれが、「ああ、やっぱりそうなるのか・・・」に繋がる訳で、結局のところ映画が向かうのは、我々が予想できない方向というよりも、我々が予想したくなかった方向。 という訳で、ヒジョーに残念ではあるのだけど、「ドレン」の描写は結果的に、上手かった、ということになります。 全体的には、クローネンバーグ作品を思い起こさせること自体は悪くないとしても、その亜流止まりであるように感じさせるのは、少し残念でした。ラストもぶった切るように終わってしまう『ザ・フライ』と比べると、こちらの方がナンボがオチをつけようとはしてますが、言tっていることは同じという(笑)。変な続編が作られちゃっても知らないよ。いや、もうそれは無さそうか? それにしても、やはりというか何と言うか、エイドリアン・ブロディは役に立たんヤツを演じるとピカイチですな。演技かどうか知らんけど。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-11-17 06:10:15) |
13. CURED キュアード
《ネタバレ》 感染したらゾンビみたいになっちゃう病気。という設定は、『バイオ・インフェルノ』あたりが元祖なのかどうなのか、ゾンビ映画界で脈々と受け継がれる定番のようになっていて、これ自体が一種の病気、のような。 しかしこの作品の一風変わっている点は、その病気が完治する場合がある、という点。しかし完治したとて、周囲からの冷たい視線に晒され続ける。そういう、ゾンビ・パニックその後、みたいな世界を描いています。おそらくはこの作品では、「社会の分断」という問題を描く一般的な象徴として、この病気が設定されたのでしょうけれど、この作品が制作された後の実世界において、新型コロナのパンデミック騒動が巻き起こり、実際に差別や分断が発生・・・という訳で、象徴(隠喩)ではなく予言(直喩)であるかのような作品となっています。 いや、それだけではなく、病気が完治しても本人には、ゾンビ化して他人を襲った際の記憶が残り続けている、という設定。前世の因縁、あるいは人間の原罪。といったものも感じさせます。 だもんで作品自体も、かなり鬱屈したような、閉塞感に満ちた雰囲気で作られています。登場人物たちは、ある程度立場を同じくしてもいるのだけど、緊密な連携というには程遠く、それぞれの立場でそれぞれの接点を持ちつつも、全体としてはどこか、空虚。 そんな中でやがて、分断が分断を呼び、カタストロフへと向かうことになるクライマックス。静から動への移行、しかしそこには常に虚無感に裏打ちがあり、結局は居場所を失い「ここではない、どこか」に向かわざるを得ないラスト。これは基本的には「死」と読み替えてもいいと思いますが、これを、ただただ絶望と受け止めるか、それとも将来へのかすかな希望もそこに見出すか。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-11-10 08:06:03) |
14. バンブルビー
これは、子供向けの映画・・・という言い方をすると、映画のことも子供のこともバカにしているように聞こえるので、「子供の目線を持った映画」とでも言えばいいのかな。 主人公の女の子には、「父親を亡くした」という設定が与えられ、鬱屈したような日々を送っているのだけど、メチャメチャ不幸っていう描かれ方でもなくって。母親が付き合い始めたのはヘラヘラしたイヤな男、だけどヘラヘラしているだけで別に悪い人という訳でもなさそう。主人公の弟もなんだかイケ好かないけれど、まあ、きょうだいなんて多かれ少なかれそんなもんでしょう。誰が悪いってこともなく、再婚に向けて動き始めた家族の中で、何となく溶け込めない、居心地の悪さ。 はたまた、バイト先でも失敗をやらかし、自分をバカにしたような周囲の視線。イヤなヤツばかり。 不幸は不幸なんだけど、あくまで日常感に裏打ちされていて、そういった辺りが、「子供の目線」を感じるところ。誕生日だからとボロ車くれる知り合いのオッサンがいたり、声かけてくれる男の子がいたり、実は結構恵まれてるんじゃないの、とも思えるけれど、それらを主人公から取り上げるほど残酷な設定は、この映画では採用しません。あくまで日常レベルの、誰もが多かれ少なかれ感じているような、鬱屈の日々。しかしオッサン、車一台タダであげるのは気前良すぎで、せめて便所掃除くらいさせりゃいいのに。 便所掃除は免除とは言え、ボロ車ゆえメンテは大仕事、その一生懸命さが分身の術(?)でコミカルに表現されますが、このボロ車が実は宇宙からきたロボット生命体(という表現で良いのか?)バンブルビーであって、少女との交流が描かれる、、、というのが物語のメイン。 映画を見ていくと、母親の彼氏も主人公の弟も結構いいところがあったりして、基本的に「悪い人間」は登場しません。そりゃまあ、ヤな奴ってのはいますけど、極悪なのはあくまで人間ではなく敵のロボット。バンブルビーを捕まえようとする軍人も、悪人ではなくひたすら杓子定規な人。杓子定規であるがゆえに主人公たちを圧迫する、子供から見た学校の先生のイメージですかね。 この映画の魅力はやっぱり、バンブルビーの細かい仕草。これも子供っぽさがあって、愛嬌を感じさせます。最初に地球で姿を現した際の、木漏れ日の中のその姿、存在感にはちょいとドキリとさせられますが、軍に追われ、追い詰められた坑道前でさらに敵のロボットの襲撃を受け、目まぐるしく舞台を変えての戦いの中で発声装置を破壊されてしまう。そのおかげと言うべきか、以降話せなくなったバンブルビーはその愛嬌ある仕草でもって、我々を魅了してくれます。一部、ラジオ放送で流れる歌の歌詞で意思表示するギャグのおまけつき。 この冒頭の戦闘でも、舞い上がり、転げ落ち、結局元の坑道前で決着がつくのですが、一連の成り行きを軍人(ジョン・シナ)は目撃しているはずなのに、その後もバンブルビーを追い続けるのが、やっぱり大人の融通の利かなさ。ただし、その想いは別のところにあるのかも知れない、という含みも持たせています。 「子供の目線」ということで言うと、主人公の女の子と、彼女を支える男の子との関係。いや、さすがにそこまで子供というような年齢でもないとは思うんですけど、あくまで「ほっぺにチュー」くらいまで。このウブな感じ、むずがゆさ。これで、いいんだと思う。美男美女とはちょっと違うけれどそれでも二人、イイ顔してるなあ、と。 この二人がベタベタしてない一方で、機械であるバンブルビーとのスキンシップみたいなものは描かれていて、頭を撫でられたり、ラストでは顔に手をあてる、抱擁しあう。 壁にレーガン大統領の写真が掲げられている?と思ったら、どうも舞台は80年代らしく、でもそれが押しつけがましい表現にはなっていない(懐古趣味に陥っていない)のが、基本的には好感持てます。でももうあと少しだけ、80年代らしさが織り込まれていてもよかったかも? 思わんでもないけど、「子供の目線」からは、そんなことはどうでもいいのかも知れませぬ。ところどころ、実物は見たこと無いけど知ってるよ、という80年代らしいアイテム(ビデオテープとか)が登場。『遊星からの物体X』のポスターは、果たして80年代を代表するアイテムなのか否か? クライマックスのロボット対決も、派手に繰り広げてはいるけれどあくまで少数同士の戦いに留め、インフレを起こすことなく丁寧に描いているのが、これも好感持てます。インフレでも別にいいんですけど、真のクライマックスをエモーショナルなラストシーンへ持ってこようと思えば、これは賢明な描き方と言えるのでは。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-11-04 10:24:29) |
15. ペンギン・ハイウェイ
作品中に生駒市北部の景色が登場するらしい。というのを、作品を見てもいない自分がなぜ知っているのかがよくわからず。最近こういうコト多いんですよね、困ったもんです。たぶん、だいぶ以前にDVD借りて見た家族から聞いたのと(私が見る間もなく返却されてしまった…)、ちょうどその頃に原作者のインタビュー記事を新聞で見かけたのと、その辺が記憶に残ってたらしく。 このアニメ作品、実際見てみると、あまり奈良っぽくない光景も多いし、むしろ架空の地域が舞台に設定されているようですが、それでも、駅の自動改札はいかにも近鉄だし、走っているのはどう見ても近鉄けいはんな線、行先表示もコスモスクエア行。気になって後で調べてみたら、バスターミナルのあるあの駅は、学研北生駒駅なんだそうな。 「あまり奈良っぽくない」のは、意識的にそう描かれている部分もあるのでしょうが、そもそもここは、西から北にかけて生駒山地、南は矢田丘陵があり、奈良盆地とはまた異なる光景が広がっています。神武東征にナガスネヒコが立ち向かった、「古都・奈良」よりもさらに古い神話の舞台でもあって。 しかしいずれにしても、ペンギンだけはこんな場所におらんでしょう。という場所には違いなく、それでもそこにペンギンを登場させ、歩かせる。かなりぶっとんだ発想の作品です。作中でなんやかんや仮説が披露されるけど、実際のところはこんな場所にペンギンがなぜ現れたかなんて、ほぼ不明。ほぼ無意味。って言っちゃダメですね、「謎」です。あくまで「謎」。 作品終盤にむけ、ますまず訳のわからなさは加速し、でもそれを敢えてわからせようとはせずに、ナンセンスの極みのような映像をアニメとして展開し続ける。この野心というか我慢強さというか。頭が下がります。 一体この一連の現象は何なのか。その原因と思しきお姉さんは一体何者なのか。ほぼ謎のままなんですが、いやだって、少年の目から見りゃそもそも、「キレイなお姉さん」ってモノ自体が、謎なんです。永遠の謎。いや少年の目どころか、男性一般にとって、謎なんです。謎なんだから男性は皆、女性をわかった気になっては、いけないんです。 謎なんだから、映画は謎のまま終わる。んだけど、少年は成長するし、成長すれば、出会いもあれば別れもある。思春期の混沌、別れの切なさをそのまんま描けば、例えばこういう作品になるんじゃないか。という気もいたします。少年は成長し、新たな謎に立ち向かう。だけど「おっぱい」を研究するのはやめた方がいいと思う。趣味と仕事は、できれば分けた方が。 最近、アニメの技術が上がるとともに、尋常じゃないほど手の込んだ作品も作られるようになり、そういう作品に比べてしまうとこの作品などは、ちょっと動きが乏しいかな、と思えてしまう部分もあったりするのですが、あくまでそれは比較であって、決して物足りないという程ではありません。CGでうまく補っている部分もあり、また、一つ一つの動作についてはちょっとした反動みたいなものも描きこむ芸の細かさがあったりして、「絵が動く贅沢さ」というものを充分に堪能できます。 [CS・衛星(邦画)] 8点(2024-11-02 10:00:03) |
16. ペイ・ザ・ゴースト ハロウィンの生贄
何がハッピーハロウィンやねん、ハロウィンなんて興味無いわい。 とか言ってたら、もうジジイの証拠なんですかね。すみません。つい言ってしまいます。 ハロウィンの夜に、雑踏の中で息子が行方不明になる。これ、コワいですよ、本当に。子育て経験のある人なら誰しも、外出先で子供の姿を見失って震え上がった経験があるのでは。そうでもない? で、行方不明から一年、この事件をきっかけに夫婦の仲も冷め切っていたけれど、また訪れるパロウィンの夜が近づくにつれ、行方不明の息子の「気配」をたびたび感じるようになる。なぜかハロウィンの夜に子供の行方不明が多発する謎。我らがニコラス・ケイジは、無事に息子を見つけ出すことができるのか? そうでした。これもニコラスケイジ映画の一本。もちろん大作ではございません。日の当たらない作品に、ニコラス・ケイジが出演することで、良くも悪くも、少しだけ日が当たる。それでいいではないですか。できればこの世の低予算映画の全てに、彼は出演して欲しい。彼ならできる。 この作品、ハロウィンがテーマということで、仮装中に事件が発生。だもんで一見、ユーモラスに見えたりもするのですが、なにせ子供が行方不明、事件は深刻。映画の基調もシリアスです。ハロウィンの夜が終われば、翌日には街から仮装姿も消える訳ですが、それとともに「仮装姿の息子」もどこかに搔き消えて、行方は杳として知れない。もう、どうしてよいのやら。 一年経って、息子の姿を求め続ける主人公とその妻の周りで、さまざまな怪異が発生するようになる。この辺りが、「ホラー」というよりは「オカルト映画」と呼びたくなるテイスト。ちょっと懐かしい感じがあります。 クライマックスで息子を救いに異世界へと足を踏み入れる主人公、その入り口が吊り橋みたいになっているのが、お伽噺っぽい感覚で、こういうのもどこか、懐かしい雰囲気があります。セットも安上がり、だとすれば一石二鳥。 映画のところどころで、凶兆を示すようにハゲワシみたいなのが登場して、別に何をする訳でもないけれど、こういうのも同じく、雰囲気出してます。 正直、そんなに盛り上がる映画ではないんですが、意外に正攻法で、作品としてもまとまっているのではないかと。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-10-27 08:42:57) |
17. 亜人
邦画の娯楽作品も、ここまでできるようになったんだなあ、と感じさせる一本。とは言っても、そもそも邦画人気が高い昨今からすると、おそらく私の基準、というか感覚の方が特殊なのかもしれなくって、たまたま自分が若かった頃の邦画の印象に引きずられている部分が多々あると思います。中高生の頃、すなわち80年代後半あたり、当時のハリウッドの大作(これも今思えば大した事ないのだけど)に遠く及ばず、ゴマカシばかりやってるようにしか感じられなかった当時の邦画娯楽作品を、見たくない、いや、ほとんど憎んでいたと言っても過言では無く。 で、時は流れ、例えばこの『亜人』という作品。邦画もここまでやるんだ、ここまでスケール感を出せるんだなあ、と。 原作コミックについては全然知りませんけれども、映画始まって早々、これ間違いなく、2時間弱の尺には収まらない内容なんだろうなあ、と。で。おそらくそうなんでしょう、映画はひたすら、突っ走っていくのですが、どこまでがセットでの撮影で、どこまでが既存の場所を借りての撮影なのか。大がかりな撮影をこれでもかと盛り込んでいて、圧倒されます。最初のラボのシーンでは、セットの中をカメラが移動していく長回しでもって、その規模感をアピール。さらにはその後も、果てしなく続くバトルシーン。CGキャラ同士の目まぐるしい戦いは、『デビルマン』などを思うと隔世の感がありますね。とにかく映画は突っ走る。内容が尺に収まらない云々以前に、内容なんて無いんじゃないの、と気づかせる前に走っていく。 いや、始終ドタバタしてるだけでは、ないんですけどね。ただ、もうちょっとエモーショナルな要素が多くてもよかったかな、とは思います。吉行和子のことを最後にもう一度、映画の中で思い出してあげてもよかったのでは、とか。 「亜人」という存在は、死んでも生き返る設定だけど、痛みも感じるし、死ぬ際はやっぱり苦しいらしい。だけど実際は、その設定は劇中ではそっちのけに近くって。だからある意味、ゲーム的な世界。設定はあくまで物語上のルールに過ぎず、登場人物たちもまた、どうやってそのルールの裏をかくか、に腐心してて、少し本格ミステリに接近したテイストもあったりします。 死んだ人間が易々と生き返る「可逆性」は映画とあまり相性がよくない、みたいなことを以前どこかで書いた気がしますが、この作品は「生き返る」というより、「不死身」の変形バージョン。敵がやたら強くって不死身なのは、大歓迎です。ターミネーターに接近したテイスト。 で、そのやたら強い敵というのが、綾野剛。何を考えているかわからない不気味さと、アクションシーンの見事な動き。脱いだら実はムキムキ、というのがまたポイント高いではないですか。そりゃま、女優さんが脱いだ方が話題性はありますけど、どうしてもそこには痛々しさも感じてしまう訳で。ムキムキが脱ぐのは、インパクトの割に害が無い(笑)。しかし佐藤健ともども、たぶんこのわずかなシーンのために、これだけの肉体に仕上げてきたのか、と思うと、うん、やっぱりハリウッドには負けてないですよ。 [インターネット(邦画)] 7点(2024-09-29 10:45:29) |
18. 劇場版 夏目友人帳 うつせみに結ぶ
いきなり映画版だけを見ても意味わからんと思う、などと、この「夏目友人帳」のファンでコミック本も買い集めているウチの娘は言うのだけど、そうなるとこちらも意地になって、「これ誰?」みたいな場面が出てきても娘には質問せず、素知らぬ顔で見続ける。 ただ、見ていると、舞台になっている古い町並みの景色がいいなあ、と思えてきて、「どうせ、作品の“聖地”みたいな場所があるんやろ?」みたいなことは、娘に聞いてしまう。「確か、あったはず」という頼りない返事しか返ってこないけど(あとで調べてみたら、人吉市付近なんだとか)。 別に、作品のストーリーなり設定なりをいちいち理解するために見ている訳ではないのであって、だから、突然出てきた「これ誰?」という登場人物について、横から説明してもらったとて、それで腑に落ちるでも無し。たぶんそんな説明は、聞いてもマイナスにこそなれ、プラスにはならない気がするし、見てりゃなんとなく見当はつくもの。と思ってるのですが、どうでしょうか。 そんな事よりは背景の景色の方が、よほど気になるし、目を引きます。そもそもストーリー展開の方にさほど作品のウェイトが置かれている訳ではなく、一応、ニャンコ先生とやらが3体に分裂する大(?)事件が起きたり、ラストで意外な(?)真相が明かされたりもしますが、全体の印象としては、ゆったりした流れ。このボンヤリとした物語が、農村や古い町並みの景色と新しい市街地の景色とが入れ代わりながら語られていき、なるほど確かに引き込まれるものがあります。 ただ、アニメーションの動きの緻密さ、という点ではそれなりに物足りなくって、最近の劇場アニメのレベルの高さを思うと、ちょっと苦笑してしまいます。とは言え、私などが子どもの頃にテレビで見ていた「リミテッド過ぎるアニメーション」などとは比較にならないくらい細かい動きが描写されている訳で、あまり贅沢を言うのも、どうなのか。と思いつつ、やっぱりこの作品のこの雰囲気を支えるためには、より高いレベルのアニメーションで見たかった、と思ってしまいます。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2024-09-08 06:50:05) |
19. ランボー/ラスト・ブラッド
映画の最後に、この「ランボー」シリーズの様々な場面が回想されて、ああシリーズもこれで終わりか、としみじみするべき場面なんでしょうが、いやいやいやいや。この突拍子もないシーンの数々、どう考えたって、一人の人間が一度の人生で経験するワケがないでしょ、と。こうやって一遍に並べちゃうと、もはやギャグですねえ。「ランボー」というキャラはこうやって、スタローンのオモチャにされてきた、という・・・。 2作目あたりからかなり雲行きが怪しくなり、3作目などは完全に黒歴史になってて、そうなるといっそ「無かったこと」にして回想シーンから省きたくなるのも山々、だとは思うのですが、それでも、そういう作品も作っちゃったという暗い過去に目を背けることなく、ギャグみたいであれ何であれ、ちゃんと回想シーンに入れてくる。スタローン、偉いじゃないか。 「ランボー」というキャラをオモチャにしてしまったことへの贖罪の気持ちの表れが、この作品なのか(それとも単にもう一発だけ、ランボーネタで稼いでおこうということなのか)。ランボーとしてのスタローン、最後の挨拶。 なんとなく、結局は「若き日のランボー」みたいな作品がまだまだ作られそうな気もしつつ。それは言わない約束か。 さてこの作品。かのランボーがいまや普通のアメリカ市民の一人として普通の生活を送っている、という、ほぼあり得ない設定で開始され、この時点で、「ツッコミはいくらでも甘んじてお受けいたします」という製作サイドの覚悟が垣間見えるような。ツッコんであげるのも親切、かもしれないけれど、厳しい私はあえてこれ以上ツッコミませぬ。 庭の地下にはわざとらしく、ナゾの坑道みたいなのが作られていて、クライマックスに向けた準備も早々に整えられています。こういうところも、ツッコミが好きな方はどうか、盛大にツッコんであげて欲しい。最後の介錯だと思って。私はツッコミません、悪しからず。本当これで最後かどうか、わからんしなあ。 で、とにかく、この平和な生活がおびやかされ、破壊された時、今やジジイとなった歴戦の強者ランボーが老骨に鞭打ち敵に立ち向かっていく、復讐譚。ゲリラ戦もどき、いや、ゲリラ戦ごっこ、みたいなものが繰り広げられるのですが、そこはそれ、前作から顕著になった残酷描写を容赦なくブチまけて、単なる「ごっこ」とは言わせない「イッちゃった感」が横溢しております。思えば一作目こそ、過去のトラウマと現実とが入り混じった混乱の中で暴走するランボーの危うさ、というものがあったけど、その後のランボーは正常な意識の中、様々な形で暴走を繰り広げてきた訳で、今回も復讐に燃える彼の、残虐行為自体は狂気を感じさせるものながら、意識はいたって冷静に見受けられるのが、また別の危うさを感じさせます。 ここには「赦し」といったものはありません。戦うことを宿命づけられた男が、戦い続ける。それ、あるのみ。 できれば最後に、あの実にウサン臭かったリチャード・クレンナをタコ殴りにし(残念ながらすでに他界しているが)、ブライアン・デネヒーと電撃和解してシリーズを終わってくれれば、キレイに収まったと思うんですが、スタローンの贖罪は、そこには無く、ランボーはあくまで、戦うランボーとして、年老いた自分の肉体でもってその姿を描き切る。なんなら、タコ殴りにされるのはランボーの方であって、その腫れあがった顔には、ロッキーの姿も重なったりしつつ。 それにしても、今回の敵も、メキシコ人ギャングという、「外国人」。アメリカ人以外だったらナンボでも殺してよい、というのがまた、いかにもランボーらしい作品ではありました。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-07-28 07:18:20) |
20. セトウツミ
どうも世の中、ストーリー信仰みたいなのがあって、ストーリーがつまらないと作品もつまらない、一般性もない、みたいに捉える向きがあるんですけれど、実はそんな事は無くって。もしそうなら、なぜ、あのストーリーがほぼ無く、オジサンがメシを食うだけの「孤独のグルメ」なるテレビ番組が、シーズンを重ね、何度も再放送されるのか? ストーリーが面白けりゃそれに越したことはないけれど、それ「だけ」だったら、一回見てスジが頭に入ればそれで終わりな訳で、でも実際はそうではなく、だから実際は、作品の魅力は他のところにある。その魅力を支えるスパイスとして、「ストーリー」というものがあったり、「美味しそうな料理」があったり、例えばこの『セトウツミ』では主人公ふたりのアホらしい会話があったり、するんですね。 そういう直截的な魅力以外に、午後の川べりの気だるくも何だか可笑しい雰囲気やら、二人の関係に微妙に入り込んでくる周囲の人々(謎のオジサン、イヤな先輩、バルーンアートの人、家族、といった人たちから、背景の通行人まで。あ、中条あやみを忘れてた。笑)やら、といった要素が加わって。 「おや」と思わせる瞬間があったり、そういった瞬間が積み重ねられることによる前後の連関があったり、作品を通じての大きな流れ、あるいは世界観があったりして、広義の「物語」が作られていく、結局はその広義の「物語」こそが作品の魅力なんだと思います。でなかったら、私がどうしてこの一見会話ばかりの映画を楽しめたのか、どうして見終わった後に充実感を覚えたのか、よくわからなくなっちゃう。 ここで語られている「物語」は、高校生としての「今」。誰だって、自分の高校生時代を「青春」のただ一言で括れる訳じゃない。漠然とした不安もあっただろうけど、だからと言って「不安」の一言で括れる訳でもなし。ただそこには、今しかない「今」がある。 ところで、メイン3人のうち池松壮亮だけが、関西ネイティブではないだけにイントネーションに微妙なズレがあります。が、違和感というほどではなく、作中で小さからぬウェイトを占める会話劇を、よく支えています。・・・しかしこの映画、関西弁じゃなかったらどんな作品になっていたんだろうか? このアホらしいオフビートの会話を成立させるには関西弁がマストのように思えるだけに、逆に、関西が舞台でなければ作品がどう化けるのか、ちょっと気になりました。 [インターネット(邦画)] 7点(2024-06-23 07:38:06) |