1. 国宝(2025)
《ネタバレ》 歌舞伎の世界は、一般の社会とは違う。女遊びも芸の肥やし。吉沢亮演じる立花喜久雄(花井東一郎、三代目花井半二郎)は家庭に依存せず、女性たちを利用するだけで、彼女たちの顔を見ない。襲名の足枷となる自分の娘の存在すら認めない。周りの人々を犠牲にして芸道を追求し、日本一の歌舞伎役者となる。人間国宝となる。虚空を見つめる視線の先にある芸とは一体何ぞや? 芸の極みとしてある人間国宝の価値とは何ぞや? 映画は、結局のところ、立花喜久雄の一般人からすればゲスの極みたる人間、その人間が生み出す芸を国宝として認める。犠牲にされた娘によって、ゲスな人間である喜久雄は役者として賞賛され、父親として許されるのだから。大衆はただ芸の美しさのみに感嘆し、全てを忘れるのだから。 芸とは人間である。人間から生まれる。喜久雄は、父親の惨殺を目撃し、復讐を企て失敗し、家族愛を失う。歌舞伎の世界に身を投じ、ただひたすら芸を磨く。曽根崎心中のお初を演じ、自己愛に根差す恋感情の表現に囚われる。そこに他者への献身、家族愛や善はない。あるのは個としての「悪人」、その悲しみと「怒り」、ゲスの極みたる人間そのものである。人間の本質を見つめる目は虚空とならざるを得ない。 『国宝』は「芸とは何か」を描き切っている。一般には共感し難いが、私はそこに一番共感した。映画はそこに人間の光を見ている。そして、欲望の源泉とその先の風景を映像として描いた。その先の風景。それは一握りの資格を持つ者が見ることのできる幻想であるとも。 ちなみに私は歌舞伎を生で観たことはなく、映像で坂東玉三郎の『鷺娘』や尾上菊之助との『二人道成寺』を観たことがある程度。(もちろんどちらも凄く感動した)それよりも、どちらかと言えば、歌舞伎の歴史が好きで、名跡の系譜や松竹・東宝の確執のストーリーに興味があった。歌舞伎の歴史をみれば、それは血の系譜である。五代目、六代目尾上菊五郎、九代目市川團十郎、五代目、六代目中村歌右衛門(ここが『国宝』のモデルのように思える)、初代中村鴈治郎、十代目、十一代目、十二代目片岡仁左衛門、十五代目市村羽左衛門、初代中村吉右衛門。名跡の継承、ライバル争い、妾腹、実子への固執、養子との確執、自死、殺人事件も少なくない。結局のところ多くの血は継承されていない。見渡せば、松本幸四郎の血筋だらけではないか。だからかもしれない、歌舞伎は本来、芸であり、人間なのだと切に感じた。吉沢亮。彼の目が良かった。そして、高畑充希、森七菜、瀧内公美。彼を取り巻く女性たちの彼を見つめる目も確かに「それ」を物語っていた。 [映画館(邦画)] 9点(2025-07-21 14:52:40)(良:1票) 《新規》 |
2. 人情紙風船
《ネタバレ》 1937年のトーキー映画。監督山中貞雄、前進座の四代目河原崎長十郎と三代目中村翫右衛門が主演。今やこういった貴重な歴史的作品もU-NEXTで容易に観られる。良い時代です。 河原崎といえば、現在、空席の歌舞伎の名跡、河原崎権之助。屋号は山崎屋。河原崎座の当代座元と言える立場にあるのは、十七代目市村羽左衛門の三男、四代目河原崎権十郎。そして、その価値を上げた初代河原崎権十郎といえば、明治に一時代を築いた「劇聖」九代目市川團十郎である。彼は生後すぐ、河原崎座の座元・六代目河原崎権之助の養子となり三代目河原崎長十郎を襲名。初代河原崎権十郎、七代目河原崎権之助を経て、九代目市川團十郎となる。(九代目は、元々七代目市川團十郎の実子で宗家の血を引いており、その襲名は正統であった)劇聖から引き継いだ河原崎座の座元・八代目河原崎権之助の実子が四代目河原崎長十郎である。ちなみに彼の息子が俳優の河原崎長一郎、次郎、建三の兄弟。 中村翫右衛門も歌舞伎の名跡で屋号は駒村屋。三代目中村翫右衛門の父親、二代目中村翫右衛門は浅草の小芝居小屋の出身。中村梅雀を名乗り人気役者となったが、明治末頃には活動写真に客を奪われるようになり、小芝居に見切りをつけて、大芝居の歌舞伎俳優「東西随一の女形」五代目中村歌右衛門一門に弟子入りする。その際に二代目中村翫右衛門の名跡を継ぐ。その実子が三代目中村翫右衛門である。 四代目河原崎長十郎と三代目中村翫右衛門は歌舞伎界の正統ではない為、その世界での出世や稼ぎは望めない。よって、彼らは歌舞伎の門閥制度から独立し、座元から破門されて、松竹と袂を分かった上で、前進座を結成することになる。それが1931年のこと。歌舞伎をベースとした新しい演劇を目指す一方、映画に出演。山中貞雄監督との縁があり、前進座の役者が大挙出演する『人情紙風船』が生まれる。ちなみに山中貞雄は、高校の1年先輩マキノ正博(日本映画の父、マキノ省三の息子)を頼って映画の世界に入る。それも縁。 『人情紙風船』の重要人物である(四代目河原崎長十郎演じる)海野又十郎の妻おたきを演じるのが四代目河原崎長十郎の妻でもある河原崎しづ江。その妹の娘が岩下志麻となる。 そして、加東大介。この頃は、市川莚司と名乗っている。彼の兄が四代目沢村国太郎で、その息子である長門裕之・津川雅彦は甥っ子ということになる。四代目沢村国太郎の妻はマキノ智子。彼女はマキノ省三の娘である。 非テキスト論的な見方で恐縮だが、この映画の出演者の背景を知るだけでもかなり面白い。内容については、いろいろなところで言及されている通り、戦前の、今から90年前の映画とは思えないほどに見応えがある。分かりやすく、聞きやすく、見やすい。江戸時代と共に戦前の庶民の生活観、粋と恥の文化、価値観の一端をよく理解できる。物語の中に、彼らの生き様と死に様を貫く男伊達たるルールが浮かんでくると同時に、作り手の手触り、演者の背景も透けて見える。それもこの時代の映画の趣であり、鑑賞の醍醐味なのだと私は思う。 [インターネット(邦画)] 9点(2025-07-21 14:51:19)《新規》 |
3. ランブルフィッシュ
《ネタバレ》 『ランブルフィッシュ』は中学生の頃に『フットルース』の併映で観た。当時、モノクロームの淡々とした映像がスタイリッシュで、何となく尖っているという感じがしたけど、結局、謂わんとすることがよく理解できなかった。けれど、バイクボーイ、ミッキー・ロークは確かに格好良かったし、マット・ディロンとダイアン・レインも憧れるビジュアルだった。その後にジャームッシュ映画がもてはやされたように、あの感じが当時の米映画の流れだったのだろう。 今思えば、父親役のデニス・ホッパー に、ヴィンセント・スパーノ(『グッド・モーニング・バビロン』)、ニコラス・ケイジ、クリス・ペン(『フットルース』にも出てた)、ローレンス・フィッシュバーン、それにトム・ウェイツまで出演していて、なかなか豪華な面子だった。当時は殆ど判らなかったけど。 [映画館(字幕)] 8点(2025-07-21 14:49:46)《新規》 |
4. 私の少女
《ネタバレ》 ペ・ドゥナの姿。確かにずっと観ていられる。冒頭、道端の少女をじっと見つめる。夜、テーブルで一人酒を飲む。私たちはペ・ドゥナの姿、その表情を追いながら、彼女の中の何かを観ている。 彼女はソウルのエリート警視であったが、普通とは違う性的嗜好を問題視され、未来を閉ざされるように、田舎の警察署に左遷される。自らの嗜好を悪と見なされ、それを抑圧するしかない鬱屈した感情の中で生きている。毎晩、眠りにつく為に酒を飲む。 そこに現れた少女ドヒ(キム・セロン)。少女は家族や同級生から虐待され、現実逃避から妄想的な振る舞いを見せる。彼女は少女を保護する。少女に対する母性に似た感情に身を任せることで、自らの傷を癒す。それは優しさに餓えていた少女との共依存の関係となる。 その関係も途中で破綻しバラバラとなりかけるが、最後には収まる。但し、その場所は、既成の物語と明らかに違うのである。 「私の少女」とはどういうことだろうか?(この映画の原題は「도희야」(ドヒ)、英語題"A Girl at My Door"、邦題「私の少女」。珍しく邦題が最も作品の意図を象徴していると感じる) 現代人は、自らの人生を回収し安心できるような既成の物語を失っており、伝統的な精神分析で解釈し癒すことができない、つまり物語によって内面化され得ない「新しい傷」を負っている。 ペ・ドゥナ演じる警視も「新しい傷」を負って田舎の地に赴任してきた人物である。「新しい傷」を克服するのは「新しい物語」しかない。それが「私の少女という物語」であり、物語の可能性という、この映画の真の主題なのだと私は思っている。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-06-08 21:23:12) |
5. チェイサー (2008)
《ネタバレ》 韓国ノワール気鋭の監督にして、今や韓国映画の巨匠の一人。ナ・ホンジン。彼はこの17年間に3本しか長編映画を撮っていない。『チェイサー』『哀しき獣』『哭声/コクソン』。どれも韓国ノワールの歴史的な作品と言える。 そして『チェイサー』。キム・ユンソク、ハ・ジョンウ。救いがたい残虐さ。どうしようもない悪。確かにそうだろう。それでも私は彼らの人間を観る。一人は他人を徹底的に毀損し、もう一人はそれを防ごうとする。まだ若い彼らの疾走、無意味であることの拒否、その生への必死さを感じた。それが映画になる。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-06-08 21:22:22) |
6. 悪魔を見た
《ネタバレ》 韓国ノワールの中でも最悪の胸クソ映画と言われる。そう言われると観たくなる。で、観て少し後悔する。 チェ・ミンシクに尽きる。『親切なクムジャさん』もそうだったけど、こういう見境なく人を殺し、人体を切り刻む、猟奇的殺人者を演じさせたら右に出るもの無し。以前、『ノーカントリー』の連続殺人鬼ハビエル・バルデムを「絶対的な悪」と書いた。本作のチェ・ミンシクはある意味で「純粋な悪」と捉えることが出来る。 絶対的な悪はその出自が人間(の罪)ながら、その人間に罰を与える為に共時的に現れる。その概念は神学的といえる。 純粋な悪は人間そのもの。人間が人間を毀損する、その根源的な欲求が肥大して表出する。個的故に世の中に不規則に現れる。 そういうモノとして映画を観れば、自分にはこんな残虐な欲求はないぞ、しぶといチェ・ミンシクをはやくどうにかしてくれ、と思いつつ、チェ・ミンシクを徹底的に痛めつけるイ・ビョンホンも大した悪なのだ。そう煩悶しながら、最後まで観た。そこに悪魔を見る。 これも韓国ノワールの「抗しがたい魅惑」と言える。悪に飲み込まれていくような、ただ悪が悪により救われていくかのような、そういう抗しがたい快感、、、なのかもしれない。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-06-08 21:21:32) |
7. ハント(2022)
《ネタバレ》 イ・ジョンジェとチョン・ウソンの直接対決。1980年代の韓国、チョン・ドゥファン(全斗煥)政権下の国家安全企画部における海外部と国内部の争いを描く。そこに組織内の北のスパイ探しと大統領暗殺計画が絡む。韓国の現代史を紐解くというよりは、アクション・ミステリーがメインの純然たるエンターテイメント作品と言っていいだろう。 この映画は、イ・ジョンジェが脚本・監督・主演であり、実質的に彼の映画である。イ・ジョンジェは最近、Netflixで大ヒットしたイカゲームで少しだらしない中年男の役が意外としっくりきたように割りと演技の幅が広く、色んな役をこなせる。殺陣も巧く、アクションも切れる。ふざけた役も落ち着いた役も出来る。それに対して、チョン・ウソンは何をやってもチョン・ウソン。日本で言えば、東映時代の中村錦之助と高倉健に比するという感じか。 この映画の最後で、チョン・ウソンが最大の敵を追い詰めるが、『ソウルの春』と同じく、あと一歩のところで取り逃がす。チョン・ウソンはいつもそういう役回りなのかな。映画の中でよく死んじゃうし。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-06-08 21:20:25) |
8. 新しき世界
《ネタバレ》 本作は韓国ノワールの金字塔と言われる。チェ・ミンシク、イ・ジョンジェ、ファン・ジョンミン。役者が揃う。この3ショット、格好良すぎないか。監督は『悪魔を見た』の脚本家、パク・フンジョン。 マフィアへの潜入捜査ということでは、韓国版『インファナル・アフェア』或いは『ディパーテッド』なのだけど、その展開は全く違ってくる。それが韓国ノワールの世界、人間の悪=ダークサイドをめぐる物語となる。 警察とマフィアに出自を持ちながら、イ・ジョンジェ=イ・ジャソンとファン・ジョンミン=チョン・チョンは、血を分けた兄弟とも言うべき間柄。その微妙な関係性が後半に崩れていくことで、イ・ジョンジェの悪が表出してくる。人間が自らの悪に引き込まれる瞬間を描くことこそがこの映画の主題だろう。よって、主役はイ・ジョンジェなのであるが、ファン・ジョンミン演じる明るい悪のキャラクターの魅力が作品をさらに引き上げている。陰と陽。『新しき世界』は、韓国を代表する役者に二人を押し上げたアイコン的な作品とも言える。 [DVD(字幕)] 10点(2025-06-08 21:19:29) |
9. ただ悪より救いたまえ
《ネタバレ》 韓国ノワールの中でも、暴力描写が多いにも関わらず、とてもスタリッシュな印象を残す。それは主演の二人がとにかく格好良いからだろう。 ファン・ジョンミンとイ・ジョンジェ。『新しき世界』の義兄弟チョン・チョンとイ・ジャソンが因縁の殺し屋同士として対峙する。今回は性格も逆転。殺し屋ながら実直なファン・ジョンミンに対して、狂気と怪しさ全開のイ・ジョンジェ。 バンコクを舞台にした二人の肉弾戦。その迫力に戦慄する。肌が粟立ち、その恐怖にゾクゾクすると同時に対峙し決闘する二人の立ち姿に美しさを感じてしまう。戦慄、且つ美しい。 ここ数年、韓国ノワールを見続けているが、この作品には何とも言い難い「抗しがたい魅惑」がある。それは自分を縛っていたものがふわっと解け、悪に飲み込まれていくような、ただ悪が悪により救われていくかのような、そういう抗しがたい快感に似ている。但し、実際には、ドラァグクイーン、パク・ジョンミンの献身的な愛情によって引き戻され、救われる。商業映画としてはそれが正しい。 [インターネット(字幕)] 10点(2025-06-08 21:18:24) |
10. アシュラ(2016)
《ネタバレ》 登場人物全て悪。韓国版アウトレイジと言えば『アシュラ』。悪徳市長ファン・ジョンミンと汚職刑事チョン・ウソンの対決。そこに嫌らしさ満載の検事クァク・ドウォンと後輩刑事チュ・ジフン。ノワール常連チョン・マンシクも絡みますよ。 とにかくヒリヒリとした展開。人間の根源的な暴力への欲求を感じさせる映画。痛みすら超えて、一気に発散される暴力衝動、そのスピード感がすごい。ラストの壮絶さ、その地獄のような光景には唖然とするしかない。ここが韓国ノワール、バイオレンス描写のピーク。ちょっとやり過ぎかも。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-06-08 21:16:17) |
11. スティール・レイン
《ネタバレ》 『鋼鉄の雨』に続くシリーズ第2弾。『鋼鉄の雨2:首脳会談(スティール・レイン)』は、ヤン・ウソクが前作同様に脚本・監督。主演も同じく、チョン・ウソン。そして、クァク・ドウォン。クァク・ドウォン、今回は得意の敵役をいつものように憎々しく演じている。 前回は北朝鮮の超人的元工作員だったチョン・ウソンは今回、韓国大統領役。よってアクションは無しだけど、政治家役もハマっている。韓国の良心とも言うべき良い人ぶりがその出で立ちと振る舞いに溢れている。こんな大統領がいたらいいだろうなと。現実味がないところもいい。 『鋼鉄の雨2:首脳会談(スティール・レイン)』は、2020年に韓国で公開され、470万人の観客動員を記録して、それなりにヒットした。日本でも公開したものの、当時も今もあまり知られていない。『鋼鉄の雨』の方は、2017年に韓国での公開後、すぐにNetflixで世界配信されていて、こちらの方は日本でもよく知られている。 北朝鮮の軍事クーデターに端を発するプロットの『鋼鉄の雨』1と2、チョン・ウソンの役柄は正反対ながら、どちらも同じように面白かった。そして、この映画が日本で流行らないのはよく分かる。それは日本が完全に敵役だから。竹島(独島)が舞台ともなっていて、その位置付けは当然ながら韓国寄り。日本人からすれば反日映画とも言える。そのプロットだけで映画を観ることが出来ない人達も多くいるだろう。私は全く気にならないが。 そもそも、不倫疑惑のある役者が出ていると、もう映画の内容が入ってこないとか、勉強が出来ない小学生の言い訳のようなことを言う人達がいるけど、それってあまりに勿体無い話なのではないか? この映画を反日だから観ないと言うのも同じく、映画を観るスタンスとしてあまりにも視野狭窄に私には思える。本来、映画芸術は、共感ではなく、違和感にこそ、その意義がある。世界と私の違和の気付き。そういう気付きのあるドラマこそ見応えがある。私=世界の共感頼みの既成の物語は、何も心に刺さらず、ただ通り過ぎていくだけでしかない。 本作のストーリーは前作同様にウェブ漫画原作の「何でもあり」故に、想像を超えて、そのトンデモ展開を結構楽しめた。米、韓国、北朝鮮のトップが北朝鮮内の軍事クーデターによって、原子力潜水艦の一つの部屋の中に監禁されるという。殆んどコントのような展開なのだけど、これがなかなか面白かった。トランプを模した米大統領のハチャメチャぶり。ユ・ヨンソク演じる格好良くて、英語ペラペラの通訳を兼ねる北朝鮮最高指導者。あり得ない展開と夢のようなラストシーン。映画はユートピアの表現でもあり、こういうのも悪くないと思える。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-06-08 21:14:59) |
12. 鋼鉄の雨
《ネタバレ》 『ソウルの春』『アシュラ』のチョン・ウソン主演。『鋼鉄の雨』(韓国公開2017年)は2018年にNetflixで配給されている。彼は私のお気に入りの俳優の一人なので出演している映画は観たくなる。 北朝鮮での軍事クーデター、総書記への銃撃、重体、韓国への逃亡、核戦争危機。その背景の現実味は薄いが、それがどのように起こり、どのように終結するか、ウェブ漫画原作の「何でもあり」故に、想像を超えて、そのトンデモ展開を結構楽しめた。本作は、監督・脚本のヤン・ウソクが原作漫画の著者で、殆んど彼の作品といってもいいのかも。(次の『鋼鉄の雨2』も同じく) チョン・ウソンは北朝鮮の元工作員で、イーサン・ハントばりの高い戦闘能力と状況判断力で、超人的な活躍をする。エージェントとしての精悍な出で立ちと振る舞いには全く違和感がなく、ひたすら格好良い。韓国側の行政官でバディとなるクァク・ドウォンも今回は珍しい正義漢の役柄を巧く演じている。 国家規模の展開ながら、政治的というより、善悪のハッキリとしたエンターテイメントに徹したサスペンス・アクション映画といえる。今や韓国の良心とも言うべきチョン・ウソンをじっくりと堪能できる良作。それに尽きるかな。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-06-08 21:14:06) |
13. KCIA 南山の部長たち
《ネタバレ》 パク・チョンヒは、16年間の長きに渡り、韓国の大統領として軍事政権を掌握し、政敵を排除し続けてきた。信頼できる人間だけを側近として採用しながら、彼らを常に競わせ、緊張感を強いる。他人を信用せず、常に孤独と共にある。そんな冷徹且つ熱情的な振る舞い、孤独ゆえに疲弊した独裁者の様子をイ・ソンミンが見事に演じている。 暗殺者となるKCIA部長のキム・ギュピョンをイ・ビョンホンが演じる。キム・ギュピョンは、国内外の政治的ギャップに苛まれながら、大統領の側近として献身的に工作活動を指揮してきたが、警護室長との権力争いで水を開けられ、大統領の信頼を徐々に失っていくことになる。知りすぎた人間は排除されなければならない。因果応報というべきか、自分が消されるのではないかという思いに囚われることで、最後には大統領暗殺を計画するまで至る。 キム部長は、ある意味で追い詰められた人間の疑心暗鬼による極端な行動、その滑稽さを体現した役柄となっている。スタリッシュな外見で格好つけているけど、実は人間味があって少し格好悪い。その様は、他の作品でも観られる、イ・ビョンホンの特長であり、魅力のようにも思える。 イ・ソンミンとイ・ビョンホンの対決。私たちは結末を知っている。しかし、結末を想像できるがゆえに、その経緯、そのシーンに対して最大級の緊張感を味わうことが出来る。 そして、この物語は『ソウルの春』にそのまま繋がることになる。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-06-08 21:12:34) |
14. サン・セバスチャンへ、ようこそ
《ネタバレ》 ウディ・アレンの2020年製作(2024年1月日本公開)の作品をU-NEXTでようやく観る。なんというか、ウディ流に言えば、「人生は無意味だと分かること、それが味わい深く、美しくもある」。その言葉の切実さをひとつのドラマとして感じた。 映画の最後に主人公のリフキンが死神と対話する。リフキンも死神も当然ながらウディ・アレンその人で、その対話がとても印象深い。 リフキン:今までの人生を振り返ってみて気づいた。間違った決断ばかり。 死神:例えば? リフキン:たぶん僕は俗物だった。皆を不快にさせてきた。いわゆる"高尚な趣味"をひけらかして。妻と別れて人生が空っぽになったよ。 死神:空っぽ(empty)ではない。"無意味"(meaningless)だ。混同するな。無意味だが空っぽとは違う。人間は人生を満たせる。 リフキン:どうやって? 死神:いろいろある。仕事、家族、愛。くだらんが効果的だ。(usually bullshit、but it's reasonably effective.)失敗しても挑戦する価値はある。「シーシュポスの神話」を? リフキン:読んだよ。そして悪夢にうなされた。何度も大きな岩を山に押し上げて、この度に転がり落ちる。ようやく頂上に着いたら何があったと思う?山の頂には一個の大きな岩。 死神:気が滅入ってくる。 『ハンナとその姉妹』の終盤に、主人公がマルクス兄弟の『我輩はカモである』を見て「なぜ自殺を考えたのか。愚かなことだ。あの画面の連中を見ろ。ほんとにこっけいで、何の悩みもない」と生きる希望を見出すシーンがある。私の大好きなエピソードなのだけど、改めてウディ・アレンは40年前から変わっていないなぁと感じる。一貫している。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-06-08 21:09:55) |
15. ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング
《ネタバレ》 最高に面白かった。 私、80年代のジャッキー・チェン映画が大好きなのです。本作のトム・クルーズ、イーサン・ハントは、私にはジャッキー・チェンの再来にしか見えなかった。深海130mで一人奮闘、緊縛感溢れるシリアスな場面から、ジャック・マイヨールもびっくりのパンイチというまさかのギャグ展開。 イーサンの飛行機ぶら下がりと言えば、またか、という感じだけど、今回は複葉機乗り移り、操縦士ぶん殴りの操縦席奪取、翼の間を行ったり来たりで、お約束のブラブラ鉄棒状態を挟みつつ、最後にまたしても翼正面激突のギャグ展開。 このコントのようなアクションは、もはやジャッキーか、イーサンか、他の誰も真似出来ない。ポリス・ストーリーか、五福星か。はたまた、無言でのドタバタアクションということでは、サイレント時代のチャップリンか、キートンか。それとも実写版のルパン三世 カリオストロの城と言うべきか。(そういえば、飛行機に乗ったガブリエルが途中から伯爵に見えてしようがなかった) 私の中では、本作によって、トム・クルーズは、ジャッキー・チェン以来のアクションの神、人間国宝認定となりました。だから、文句なしの10点満点。人間国宝認定なので、当然です。 ちなみに、今回の敵は世界滅亡を目論むAI。それが最後に0.1秒でドラゴンボールのギニューの最期みたいになっちゃう。それも最高に可笑しくて。兎に角、世界が滅亡するかどうかの瀬戸際なのに、イーサンのシリアスな表情(これも名人芸)からのギャグ展開が突き抜けていて、その殆んどがツボにハマって、観ている間、私はニヤニヤが止まらなかった。もうトンデモを超えていて、最上級のブラボーを送りたい、私の愛すべき映画になりました。 [映画館(字幕)] 10点(2025-05-19 22:28:09)(良:1票) |
16. 片思い世界
《ネタバレ》 坂元裕二、またパラレルワールド! とは言え、私は大好きなワールド。『怪物』や『ファーストキス 1ST KISS』と同じく、そのワールドが現実に起こり得るかもしれないという量子力学的な理論が少しだけ加えられるところのさりげなさも好き。 映画を観る前に、どこかの記事で「そういうプロット」であることを知り、それを「片思い世界」という少し甘酸っぱい言葉で表現したことにとても感心した。そして、勝手に、川上弘美の或る連作小説を思い出した。その短編の語り手は既に死んだ人間である。死んだ人間が生きている人間の記憶の総体として存在し、彼らと自らを私語る物語。 映画を観たら、川上弘美のそれとは全く違うストーリーだった(当たり前だが)。但し、主人公たちは、違うレイヤで世界と共存しているけど、彼女たちはそこから出ることも世界に触れることもない、常に世界に対して「片思い」でいることに充足しているという世界観は同じだと感じた。「片思い」は世界を否定しない。「片思い」は、孤独であり、自由である。昔、それを死に至る絶望と表した哲学者もいたが、私から世界を見つめるという文学的視点において、それにより世界を肯定し、未来を生きる可能性を得られると考えることもできる。さらに、彼女たちの存在は私たちから見えないが、彼女たちの思いは私たちに由来するが故に、本当は世界にも影響を及ぼすような気配を「片思い世界」に感じる。 やっぱりあたしは、あたしです。(中略)死んでからも、ずっとあたしは生き続けていて、そうだ、あの時あたしはああいうふうに考えていたのだったと、今までわからなかったことが、今になって突然わかったりする。 平蔵さんが死んでも、源二さんが死んでも、あたしのかけらは、ずっと生きる。そういうかけらが、いくつもいくつも、百万も千万もかさなって、あたしたちは、ある。 川上弘美『どこから行っても遠い町』より (「気配」にも、感情はあるの?) (あるよ。だって、ぼくはかつて人間だったんだもの) (え、「気配」は、人間だったの?) 川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』より 死んでいながら生きる「片思い」とは、そういうことなのかなと。本当は、生きている側に残る思いがあってこそ、それがかけらであっても、それがあることによって死者はその思いと共に生かされる。そして、実際に死者がパラレルに存在して語る可能性を得る。 しかし、これは『怪物』の最後のシーンから始まる物語なのかなと思うと、彼らはビッククランチの世界にワープし、2人だけで本当に生きていけたのか。その続きが『片思い世界』なのかもしれない。そう考えれば、川上弘美のユートピア小説のように、私でありながら世界である、本来的な精神の自由を得る可能性を感じさせる、死者も生者も超越した孤独で壮大な物語を坂元裕二も描いていくのだと想像しても、、、それはそれで有りなのかなと思える。そこに人間の可笑しみであり、哀しみの「ドラマ」があるわけだし。 [映画館(邦画)] 9点(2025-04-22 22:41:42) |
17. 名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN
《ネタバレ》 ティモシー・シャラメは、ボブ・ディランによく似ている。彼の顔、声、眼差し。昔、ドキュメンタリー映画で観た若き日のボブ・ディラン、その雰囲気がよく出ている。そして、ギター、ハープの演奏も素晴らしい。ジョーン・バエズと寝起きのベッドに座りながら歌う『風に吹かれて』は爽やかで且つ生々しかった。 私がこの映画を観て改めて認識したのは、ディランという存在の凄さである。全編通して流れる初期ディランの曲。映画はディランの歌を主旋律として描かれている。主役は彼の歌だと言っていい。そこにドラマが重ねられていく。 ディランの2ndアルバム"The Freewheelin'"は初期の代表作で、私の愛聴盤でもある。そこには、世界の在り方(『風に吹かれて』)があり、政治(『戦争の親玉』)があり、戦場(『はげしい雨が降る』)があり、ロマンス(『北国の少女』)があり、別離(『くよくよするなよ』)がある。彼の人間ドラマが歌詞となっており、映画はそれを辿るように描かれる。 彼は自分が何者かよく分からない(Complete Unknown)と言う。分からないことが自明であるが故に、そのことを常に(風の中に)放置し自由に転がり続けるだけだ(Like a Rolling Stone)と言う。こう表現すれば単純だが、映画の最初の方のシルヴィとの会話でも、彼女の考え方と決定的な違いが分かる場面があった。社会的であろうとする彼女に対して、ディランは常に自分の気持ち、信念を優先する、文学的なのである。 彼が歌詞の中で操る自己と社会を表現する言葉は観念的で利己的であったが、且つその言葉は美しく世界に響いた。それは世界がまだ自己に傾いていた時代だったから。彼は社会と2人の女性の間を自由に行き来し、時に強く、時に弱かった。そして、彼は常にダークサイドに居て、そこから見ていたのだ。 明かりで照らしても無駄なことさ たとえ今まで見たこともない明るさでも 僕は道の暗がり(ダークサイド)に居るから ボブ・ディラン『くよくよするなよ』 映画のティモシー・シャラメ演じるディランにそういった人間的複雑さ、暗さを感じることは難しい。時代の違いもある。自己が世界に沈んでしまった現代。そこでディランを演じること。弱みを見せない仮装、それがディランのパブリックイメージであるように彼を演じてみせる。そうであるが故に、ティモシー・シャラメ演じるディランは、彼の歌を歌いながらも、彼の歌を作った人物のようには見えない。でも、それは仕方がないこと。ディランを演じることは出来ても、ディランそのものにはなれないのだから。その文学性を身に纏うことは、現代において至難の技だろう。 しかし、ディランを演じる、ディランの物真似として、ティモシー・シャラメは素晴らしく適任だったと思う。映画後半のあの髪型でサングラスを掛けたティモシー・シャラメは、ボブ・ディランにしか見えなかったし、演奏する姿も彼そのものだった。 ニューポートでエレキギターを携えてロックを歌ったディランは、観客の罵声を浴びてステージを降りる。彼は涙を浮かべて“It's All Over Now, Baby Blue”を歌ったとされている。今や、YouTubeでそれらの映像を簡単に観ることが出来る。ディランにはそういう弱さがあり、それが彼の文学性を生んだ。映画の中で弱さを表現することも出来たはずだが、その方向には行かなかった。映画の中の彼は決して涙を見せず、その代わりに「歌」で全てを表現した。それはそれで映画の在り方として有意だし、ディランの歌ならそれが出来る。様々な人々(ディランのファン達や彼の曲を全く知らない人達)に映画が受け入れられる方法論として。 これまで、私はティモシー・シャラメが好きではなかった。ティモシー・シャラメはウディ・アレン監督作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』に主演した後、アレンのスキャンダルの件で記者にアレンとの絶縁を迫られて信念なくそれに従ってしまったり、風見鶏のポピュラリストなのだと思っていた。だから、それとは真逆の信念の人であるディランを演じるのは違うと思った。単なる器用さ、物真似だけでなく、人間として滲み出るものがなければ、ディランを演じられないと思った。 アレン好きな私にとって、当初、本作品は批判の対象でしかなかったが、その考えは観賞後にすっかり変わった。『名もなき者』は傑作映画であり、ボブ・ディランの歌の素晴らしさ、その歌が紡ぐドラマ、彼の文学を堪能できる。彼がノーベル文学賞を獲得したことが至極真っ当であることを理解できる。そういう映画としての新しさを感じたし、とにかく観て良かった。 [映画館(字幕)] 8点(2025-03-10 19:01:52) |
18. ファーストキス 1ST KISS(2025)
《ネタバレ》 タイムトラベルSF好きの身としては、なかなか興味深い内容だった。 タイムトラベル設定としては、『バタフライ・エフェクト』の男女逆バージョンとも言える。それとも『ソンジェ背負って走れ』の大人バージョンか。タイムスリップの仕方は『知ってるワイフ』とも。展開の速いところは、1日を繰り返す『恋はデジャ・ブ』や8分間を繰り返す『ミッション:8ミニッツ』も思い出す。他にもいろいろと。まぁ、設定はありきたりといえばそうだけど、坂元裕二脚本なので、人間ドラマ、会話劇としてかなり面白かった。 タイムトラベル物として興味深い点は以下の2つ。 1. パラレルワールドを作り出す=デジャブを紡ぎ出す。 2. 硯駈が未来から来た将来の配偶者カンナの情報により、自分の未来の愚行を反省し、その行動を先取して改める。しかし、運命は変わらない。 まず、1つ目。私が思い出すのは、同じくタイムトラベルを扱った映画『バタフライ・エフェクト』である。以前、『バタフライ・エフェクト』のレビューで、私は「失われた記憶」こそが「運命」の由来だと書いた。彼と彼女が出会った時、二人の記憶をよぎる微かな瞬き、第一印象で「ビビビっ」とくるアレ。相手を運命的だと感じるアレ。それは、実は量子論的多世界解釈(いわゆるマルチバース)のパラレルワールドによって何度も繰り返し出会い、共時的に重ね合わされ、生成しつつ失われた記憶によって紡ぎ出される。駈がカンナに感じた第一印象の「ビビビっ」、それが「デジャブ」。(デンゼル・ワシントンの『デジャヴ』って映画もあり。あれもパラレルワールドを描いていたと記憶。) かき氷屋さんで駈とカンナが並ぶ、その後ろにいた女性達が最後に2人を応援するシーンは、それこそ実は何度も重ね合わされ紡がれた「デジャブ」が生み出した感情から来ているのではないか。 「パラレルワールドを作り出す=テジャブを紡ぎ出す」とは、そういうことなのです。 2つ目。駈が時空のミルフィーユとデジャブによって瞬時にカンナとの関係性を理解するが、それは未来の姿の経験的先取りでもあった。しかし、それは『ブラッシュアップ・ライフ』や『時をかける愛』のような生まれ変わりやタイムトラベルによる人生何周目かの学びというのとは違う。実際に駈は何も経験していないわけだから、経験的であって経験ではない。想像し悟ったのである。 私たちは、人間関係、夫婦関係の中で、相手の気持ちを理解しながら、咄嗟にそれとは反対の行動を取ってしまうことがある。それによって相手の気持ちを毀損してしまい、時に取り返しがつかないことにもなる。事後に反省しても、時既に遅し。時間は元に戻らない。 駈は、その失敗をタイムトラベル者の情報で事前に知ることにより手を打つことが出来たとも言える。しかし、本当はそんなことがなくても、想像力を働かせることで、相手の思いを先取りして行動し、関係をより良く生きることが出来る(出来た)のではないか。この映画はタイムトラベルという特殊性というよりも、共時性という概念(重ね合わせ、想像し、悟ること)によって、それが可能になるということを良く教えてくれる。とても教条的、道徳的なドラマなのだと感じた。 確かにそれでも運命は変わらない。それは共時的に決められていることだから。しかし、同時にその共時性を意識することで関係をより良く生きることができる。豊かに生きることができる。その点が私にはとても興味深かった。 [映画館(邦画)] 8点(2025-02-17 22:42:41)(良:2票) |
19. 惑星ソラリス
《ネタバレ》 ソラリスの海が生み出す人間の物理的コピー。彼女は人間と同じ感情を持ち、人間同様に主人公を愛する。人間は感情を持つ。その物理的コピーが持つ感情とは疑似的なものか?そもそも感情とは何か? 分子生物学によれば、意識及びそれを生み出す脳内の働きは、全てシナプスを起点とした電気信号(イオン化)により説明される。しかし、単純な電気信号の連なりがどのように瞬時で膨大な広がりを持つ意識を生み出すのか、或いは先行する意識がどのように電気信号と結びつくのか、その辺りは全く分かっていない。 ノーベル賞学者のペンローズ博士は、意識の発現を量子重力理論(量子論と相対論の融合)により解明できると言う。ペンローズ博士によれば、意識は神経細胞内のチューブ状の器官の中における量子力学的作用によって発現するという。その領域の物理学的作用は、シュレディンガーの波動方程式による量子の振る舞い(量子作用)によって説明される。最近の研究によれば、量子作用は、神経細胞内だけでなく、消化器官における酵素反応や動物の帰巣本能というべき地磁気の検知、植物の光合成にも関わっていると言われる。よって、人間特有の機能というわけではなく、宇宙全体、そのミクロの領域は量子作用によって構成されているという事実において、意識や感情はいつ何処にでも現れると言える。人間のように死んで終わりではなく、ソラリスのコピー人間のように不老不死の上で永遠に感情を生み出すこともできる。人為的に消滅させることもできる。 死んだ人間は帰ってこない。しかし、人間には愛する人間が必要なのだという事実。それがソラリスの真実であり、人間の真実なのだと理解した。しかし、我々の「世界」は真実と違う。人間の感情は世界に優先されない。人間は常に世界に勝てない。「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」なのである。 昔、SF小説を読み漁っていた頃、レムの『ソラリスの陽のもとに』を読んだが、その内容をすっかり忘れていた。レムの原作にタルコフスキーの思想(人生に苦しみを求めることこそ知性)が合致したことで、この映画は世紀の傑作になった。 「我々はなぜ苦しむのだろう」 「宇宙的感性を失ったからだろう」 「古代人はもっと純粋でそれゆえに悩みがなかった」 [DVD(字幕)] 10点(2025-01-18 19:35:04) |
20. 華の乱
《ネタバレ》 『華の乱』では、松田優作が有島武郎、池上季実子が羽多野秋子を演じていて、有島と秋子の心中がドラマのクライマックスだったと記憶する。当時の文学や演劇界の人々の多くは若死にし、映画の登場人物、松井須磨子や和田久太郎は自殺、大杉栄と伊藤野枝は虐殺されている。大正のデモクラティックな時代が終わり、関東大震災の大量死を経て、暗黒の昭和初期を迎える。そういった時代背景における与謝野晶子を主人公とした物語。彼女は一人、昭和という時代にとり残される。 劇中には、有島が「死に至る病」(キルケゴール)である絶望に取り憑かれる様が描かれる。実存的な生と死は、上記の時代背景の中、多くのインテリゲンチャを襲った時代的な流行だった。死は常に彼らの傍らにあった。当時のインテリに「子供や家族のことを最優先」といった価値観はない。常に個と実存に囚われた人々を今の家族愛の視線で語っても論点はすれ違うだけ。 映画『華の乱』の私の印象は、前半の大正デモクラシーの雰囲気からくる明るさと後半の暗さ、有島と秋子の心中のシーンに尽きる。有島と言えば『一房の葡萄』と『小さき者へ』の著者。教条的な短編を著す作家としてのイメージもあったが、確かに妻の死に際して自分の息子たちに残すメッセージとして、以下の文章はやはり実存的すぎる。 「私は嘗て一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。事実に於てお前たちの母上は私の為めに犠牲になってくれた。私のように持ち合わした力の使いようを知らなかった人間はない。私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍な、仕事の出来ない、憐れむべき男と見る外を知らなかった。私の小心と魯鈍と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった」 有島武郎『小さき者へ』より [映画館(邦画)] 8点(2025-01-16 21:23:54) |