1. 拳銃は俺のパスポート
《ネタバレ》 本作は非常にアニメ的な作品である。そのために敷居の高さはあるが、その一方でそのアニメ的なところが本作の大きな魅力にもなっている。まずは魅力について順番に述べていこう。 本作を観ていて最初に奇妙に思ったのは島津組の組長・島津の会社のたたずまいであった。彼は用心棒を連れて仕事に出掛けるのだが、そのオフィスはがらんとしており、他に誰もいなければ彼の机と椅子以外の物も見えないのだ。 そんなのっぺりとした空間でただ机に向かっている島津を見て僕は思った。「(これは)エヴァンゲリオンだ」と。 TV版『新世紀エヴァンゲリオン』の特徴の一つに「書かなくてもいいものはとことん書かない」ことがある。島津のオフィスもリアルに描写した方が作品としての風格は上がるだろう。だが、本筋に直接関係のないオフィスを緻密に表現しなくても物語の進行自体に支障はない。しかも、ハリボテのようなオフィスは、島津と彼を見張っている主人公の殺し屋・上村の、狙う者と狙われる者という特殊な状況を浮かび上がらせて強調する役割を果たしているとも言えるのだ。 上村のキャラクターもかなりアニメ的である。彼には過去もなければ未来もない。別の言い方をすれば、劇中で過去にも未来にも触れられず、なおかつ本作を観ている観客の興味がそれらに向ける必要のない、極めて分かりやすい設定となっている。 一切のしがらみがない状況で殺し屋として生きる上村に、宍戸錠という名優の存在感やパーソナリティーが加味されることで彼はさらに魅力を増す。特に島津を狙撃するためにライフルを構える上村には華があり、不思議な色気と独特のカッコよさにゾクゾクさせられる。余談ながら宍戸に関しては、これまで中年以降のバラエティやワイドショーでの姿しか見たことがなく、彼がスターとしてマスコミで扱われていることについて少々違和感を持っていたが、本作を観てそれが理解できた。彼はまごうことなきスターだったのだ。 アニメ的なのは、島津や彼に敵対していた大田原組に属する組員も同じだ。上村とは逆に、彼らにはキャラクターが与えられていない。上村を追い、彼を捕獲あるいは抹殺しようとする役割のみが与えられている。だから彼らの顔の区別はつかない(これは僕が日活アクション映画を殆ど見ておらず、役者に疎いからかもしれないけれど)。個性的なキャラクターとして描かれないことで、彼らはアニメの(その他大勢の)悪役のようになっているのだ。 本作の敷居の高さとなっているのは、こういった上村と組員の虚構性だ。現実世界を舞台に、現実的かつ本質的な心理を描く物語に虚構の登場人物が存在する。繰り返しになるがこれは多分にアニメ的であり、非現実的な側面がどうしても目につきやすい。そこから本作を受け付けない人も多いだろう。 ただ、本作上映当時に比べ、現在ではアニメ作品はすっかり市民権を得ている。モノクロ映画という点や、時代を感じさせる風俗に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、もしかしたら現代の方が受け入れられやすい作品なのかもしれない。 ここからは、これまでの流れとは違う、映像作品ならではの本作の魅力を書きたい。 まずは、巧みに表現されているサスペンス。たとえば、何らかの車でやって来ると分かっている上村を港で待ち受ける組関係者の前にタクシーが現れる。身構える彼らだったが、実は立小便をしにきた運転手だったシーン。モーテルに潜んでいる上村達に突然乗り物の音が聞こえ、組関係者かと身構えたがそれは新聞配達のオートバイだったシーン。ベタと言えばベタなのだが、文章では伝えられない絶妙さが、観ているこちらもドキッとさせてくれるのだ。 それから、本筋とは直接関係がないのに大胆に挿入されるカットの存在。たとえば、島津を狙撃する直前の上村のライフルのスコープに小鳥が見える。小鳥は数秒映り、しかも小鳥が首をかしげる可愛らしい仕草までとらえられているのだ。 あとは、上村と組関係者の最終決戦の直前。指定した埋立地に約束の時間よりも早めに行き、穴を掘るなどの細工を施す上村だが、傍らの砂の上に一匹のハエが止まる。それを見ている上村。次の瞬間に激しい銃撃戦が始まるのだ。 どちらのカットにも直接的な意味はない。だが、何かを感じさせてくれるのだ。それは観ている人にゆだねられる。緊迫した場面での一瞬の平和かもしれないし、手塚治虫の漫画に多く見られるギャグ的表現かもしれない。観ている人が日常生活で感じたり背負ったりしている何かを連想するかもしれない。いずれにせよ、こちらも間の絶妙さが堪能できる、映像作品でしか表現出来ない魅力であることは間違いない。 [DVD(邦画)] 7点(2020-09-22 19:21:36) |
2. 用心棒
《ネタバレ》 ある宿場町に立ち寄った浪人風の男。そこは絹を主な産業とする町だったが、博打打の跡目争いですっかりすさんでしまっていた。番太も仕事を放棄して彼らにおもねる始末だ。そんな中、その男はふらりと入った居酒屋で町のあらましを聞き「気に入った」。彼らを除するつもりのようだが、その方法とは…。 ここで唐突な話だが、僕が本作にいだく印象は『風の谷のナウシカ』(以後『ナウシカ』)によく似ている。どちらもレイアウトに力があるし、心躍るカットも多い。良く出来た作品と認めることに異存はないのだが、好きな作品とはならず、心にモヤモヤが残るのだ。 今回、この感情を何故かと考えた末に分かったのは、どちらも評判や評価の高さを先に知り、そこで述べられる具体的な表現――たとえば『ナウシカ』は「感動の超大作」、本作は「黒澤監督がのびのび撮った痛快娯楽作品」――と、実際に僕自身が観た後に持った感想が大きく乖離していることだ。 今と比べれば人格形成が未熟だった若い時に、なまじ分かりやすく、ともすれば誇大な宣伝文句や評判を先に聞いてしまったためにそれが刷り込まれてしまい、同じ感想を持てない自分とのギャップに悩んでしまうのだ。 言ってみれば、まるで隣のクラスに転校してきた優等生のようなもので、「あいつはすごい奴」と多くの口から先に評判を聞き、実際に勉強も運動も出来るのも知ったが、その大まかな評判と本人から持った印象に何とも言えないズレがあるため素直にすごいと認められず、自分とは縁のない存在に思えてしまう、そんな印象なのだ。 『ナウシカ』の話題はここまでとしておこう。世間の評価とは違う、僕が本作で評価したい点は、作品の緻密な構造である。具体例は省略するが、これは、娯楽と言う言葉とは相反するものだ。 三船敏郎というどっしりしたキャストが中心にいるため、大きな存在感を持つ主人公が自由自在に大活躍をするという印象を持つ(あるいは持たせようとする)ケースが多い気がするが、実際は正反対と考える方が個人的には腑に落ちるのだ。 ただ、この作品が厄介なのは――こういう言葉を使ってしまうところに僕自身の奇妙なこだわりがあることは承知しているが――三船演ずる桑畑三十郎の人間性や、東野英治郎演ずる居酒屋の権爺や加東大介演ずる亥之吉の人間味、所々に挟み込まれるユーモア、クライマックスの高揚感といった、分かりやすく、抗えない魅力が本作に横溢していることだ。こういった要素が本作を類型的に称賛することに貢献していると思うし、それには同意せざるを得ない。 様式的な称賛がきっかけとなった本作との出会いは、僕にとっては不幸であった。意外にもずいぶんいびつな感想となってしまったが、本投稿を読まれた方のうちのほんのわずかな方が何かを思ってくださるのを祈るばかりである。 [ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-09-06 18:14:11)(良:1票) |
3. 東京おにぎり娘
《ネタバレ》 主人公の直江まり子(若尾文子)は、自宅でテーラー直江を営む父・鶴吉(二代目中村鴈治郎)と弟の三人暮らし。テーラーは新橋の裏口から歩いて2~3分という好立地にあるのだが、鶴吉の頑固さのためか、客はさっぱり来ない。 まり子は新宿で料理屋を営む鶴吉の妹のところへ時々手伝いに行く。妹と直江家族の関係は良好だ。 まり子には、劇場に勤める五郎(川口浩)という幼馴染がおり、今でも二人で食事をするほどの仲だ。鶴吉の妹や五郎の家族も彼らの結婚を望み、まり子には「五郎がアツアツ」、五郎には「まり子がアツアツ」と互いに吹き込む。だが、彼らは「立ち合いが合わない」と結婚に踏み込もうとしない。 新宿を歩いていたまり子は、車に乗る村田幸吉(川崎敬三)に声をかけられる。村田はかつて鶴吉の下で修業していたのだが、鶴吉の機嫌を損ねて追い出されていた。そんな彼が、今は自ら「テーラー村田」を開き、成功していたのだった。 商売を立て直そうと、まり子はテーラー直江を改装、鶴吉の仕事場を二階に残し、「おにぎりの店 直江」を開店する。近所の三平(ジェリー藤尾)に手伝ってもらい、おにぎり屋は大繁盛。久々に店を覗いた、かつての鶴吉の常連客・田代社長(伊藤雄之助)は、成長したまり子の美しさを見てお近づきになろうと、鶴吉に服作りを依頼する。 ある日、鶴吉はみどり(叶順子)という若いダンサーを五郎から紹介される。彼女は鶴吉とその愛人だった芸者との間に出来た子供だった。五郎の仲介でみどりとの再会を果たす鶴吉。始めはギクシャクしながらもお互いに積もる気持ちを伝え、みどりは涙を流す。 五郎との外食中、まり子は「結婚してほしい」とプロポーズをする。だが、五郎はそれを断る。五郎はみどりが好きだったのだ。みどりとの結婚を鶴吉に認めてもらうと五郎は話す。 鶴吉に内緒にしていたが、おにぎり屋の改装費を出してくれたのは村田だった。まり子は村田と食事し、そこで村田に迫られるがまり子は拒絶する。お詫びをする村田。鶴吉と村田は仲直りし、まり子は村田と神社に参拝するのであった。 なぜあらすじを細かく書いたのかというと、本作のプロット及びそこに関連する登場人物の関係性の複雑さが本作の魅力の一つだからだ。脚本段階でプロットが練り込まれた作品なのだろう。 本作が制作された昭和36年当時の東京の風景や風俗がカラーでみずみずしく映し出され、描かれているのも本書の魅力の一つだ。 人の手のぬくもりが感じられる建物や看板、レトロな魅力を持つ自動車(当時はかなり高価で珍しかったはずだ)、着物と洋服が混在した人々の服装などは観ているだけでタイムトラベルをしているようで楽しい。 当時の風俗に関しても同様だ。月賦で買い物をした店の店員が集金にやってくる(そしてそれから逃げたり、難癖をつけて支払いを引き延ばそうとする)ところや、そこでけっこう乱暴な言葉のやり取りがなされているところ。おにぎり屋の営業中にまり子の手を握ってしまう田代社長や、それをあっさりといなすまり子。おにぎり屋に入ってきた乱暴な酔っ払いを暴力で追い出す三平。そして、腹違いの妹の存在を打ち明けられても驚きの少ないまり子から隔世の感と同時に、いつの間にか忘れてしまったかつての日本が見えるのだ。 そこで生き生きと飛び回る若尾文子もすこぶる魅力的だ。古風だがはっきりした顔立ちに、豊かな胸とキュッと締まった腰回りは、ひたすら婀娜っぽく美しい。 では本作が映画として魅力的かというと、残念ながらノーだ。何故かと言うと、観ていてワクワクしないからだ。 具体的に言えば、作品全体があっさりし過ぎている。プロットは複雑なのだが、そこに対立がない。状況がスムーズに運び過ぎるのだ。たとえば鶴吉の頑固さは描かれるが、破天荒には程遠い。結局はまり子の思うままだし、みどりに対する態度も頑固さゆえの深みが感じられないのだ。もしかしたらこれは、頑固親父が荒っぽく立ち振る舞えた時代ではなくなっていたからなのかもしれない。 あとこれは僕の完全な主観なのだが、まり子よりもみどりを選んだ五郎が分からない。叶には悪いが、どうみても若尾の方が魅力的なのだ。 制作陣は、脚本の段階では「意外で面白い」と思ったのかもしれない。だが、撮影を経ると映画には別の側面と言うか、俳優や女優という新たな要素が加わるのだ。今回ほどそれを強く意識したのは初めてで、そこにはもちろん、映像や音声をフィルムに定着させて完成させる監督の力量も大きく影響するだろう。 本作の結論。脚本はなかなか練り上げられているが、撮影以後で作品にさらなる魅力を付加出来なかったようだ(もちろん若尾の魅力は横溢している!)。残念ながら凡作と言ってしまっていいだろう。 [DVD(邦画)] 5点(2020-08-31 03:01:56) |
4. 越前竹人形
《ネタバレ》 昭和初期の越前の山奥。雪がそぼ降る冬のある日、亡くなった父親の跡を継いで竹細工で生計を立てていた喜助の元に、美しい女性が訪ねてきた。芦原から来た女性は玉枝と名乗り、父親の墓参りに来たと言う。敬虔に墓参りをする玉枝に惹かれた喜助は、その後、芦原に玉枝を訪ねる。玉枝は遊女だった。喜助の父親が玉枝の馴染み客だったので墓参りに行ったと言う。玉枝のいる遊郭に何度か訪ねるなか、身請けがあるかもしれないと聞いた喜助は、150円もの大金を玉枝に渡し「結婚してほしい」と言う。喜助の願いは叶い、ある日、嫁入り道具とともに喜助のところに来た玉枝。二人の新婚生活が始まるが、喜助は仕事に打ち込むばかりで、玉枝と同衾しようとしなかった…。 本作の魅力は、二人の繊細な気持ちのすれ違いと、それが生む悲劇を見事に描き出したところだ。 喜助が玉枝と同衾しようとしない理由は、彼の父親がかつて玉枝と同衾したと思うことからの複雑な感情だった。精神的には心から玉枝が好きでも、肉体的に愛することに抵抗があったのだ(劇中で、なぜ一緒に寝ないのかと聞く玉枝に「(玉枝が)母親に似てるから」と答えるところからマザーコンプレックスとする解説もあるが、僕はこの説を採らない)。 結婚後しばらくして、ひとり留守番していた玉枝のもとに、喜助の作った竹人形の取引のため、京都の人形店の番頭・忠平が訪ねる。忠平は玉枝の昔の馴染み客だった。酒をふるまわれていた忠平は、とつぜん玉枝に迫る。かつての馴染み客だったからか、取引先という弱みか、あるいは喜助に抱かれず体がうずいていたのか、玉枝は忠平に抱かれてしまう。 そんなことはつゆ知らず、玉枝への複雑な気持ちから精神的に荒れていく喜助だったが、かつての玉枝の遊郭で同僚だったお光から「父親は玉枝と一度も寝ていない」と聞く。憑き物が落ちたように晴れ晴れとした表情で玉枝に迎えられた喜助。ようやく玉枝を抱こうと思ったが、玉枝が突然吐き気を催す。玉枝は忠平の子を宿していたのだった。 最終的に玉枝が亡くなるところまで、ただただ幸せに生きたかった二人に訪れる運命のいたずらに、観ているこちらの心は痛みながらも、緻密に描かれた本作の構成に感心するのである。 華のあるキャスティングも本作の魅力だ。玉枝を演じる若尾文子の、親しみやすさのなかにある妖艶さはもちろんだが、忠平役の西村晃の、男の嫌らしさを体現した姿、お光役の中村玉緒の人の良い親しみやすさ、さらに、ラスト近くで登場する船頭役の二代目中村鴈治郎の、年配の男が持つぶっきらぼうな優しさとその存在感(ちなみに玉緒と鴈治郎は親子共演だ)。 そして、彼らを映し出す映像の美しさ。特に冒頭の墓参りの雪景色は絶品だ。宮川一夫の撮影の力だろう。 決して超大作ではないが、郷愁を誘う美しい風景のもとで描かれる悲劇。喜助の葛藤に同意出来かねる者もいると思われるが、ドラマを効果的に描くために必要な装置だったと僕は思いたい。 [DVD(邦画)] 8点(2020-06-11 16:57:16) |
5. 切腹
《ネタバレ》 およそ25年ぶりに再観。と言っても内容は全く覚えておらず、当時から知っていた本作の高い評価に半ば引きずられたように「面白かった」「いいものを観た」という感想のみが残った。 いつか再び観たいと思いながら長い時間が経ってしまった。観た当時はまだ大学生で、社会に背を向けて生きる、極めて未熟な人間だった。あの頃と今で、いだく感想は変わるのだろうか、少しは深みのあるものになるのだろうか。そう思いながらじっくりと観た。 武家屋敷を訪ね、生活の苦しさから庭先を借りて切腹したいと申し出る浪人が多数現れた天下泰平の徳川将軍時代、江戸時代。こういった浪人たちは、その覚悟に感心した武家に召し抱えられること、あるいはそこまででなくとも、彼らにわずらわしさを感じた武士から金を与えられて帰されることを狙っていた。要するに一種のたかりをしていたのだった。そんな折、津雲半四郎と名乗る、やや齢を重ねた浪人が井伊家の江戸屋敷を訪ねてきた。庭先で切腹をしたいと言う半四郎に、井伊家の家老である斎藤勘解由は、先日、同じ用件で訪ねてきた千々岩求女という若い浪人の話を始めるのだった…。 ゆっくりしたカメラワークと、やや引き気味の優美なアングルによって、冒頭シーンから緊張感がみなぎる。それは、井伊家の屋敷の広さと豪華さ、そこに流れる厳粛な空気も見事に伝えてくれる。 仲代達矢の堂々とした迫力。三國連太郎の気弱で神経質、時には虚勢も感じられる言動。丹波哲郎の意地の悪さと強さ、若干感じられる狂気。出番は少ないが、小林昭二や井川比佐志なども含めた豪華キャストのもたらす存在感と重厚な演技。彼らの「静」からにじみ出る雰囲気も、画面に緊張感と迫力を生み出す。 持っていた竹光で切腹せざるを得なくなった求女。なかなか腹が切れないその切腹シーンは求女側から見れば哀れそのものだが、勘解由たち井伊家の武士側から、あるいは我々映画を観ている側から見ると、厳粛さの中に残酷さ、そして何とも言えない美学のようなものさえ感じられ、片時も目が離せない。まるで一種のショーを見るがごときシーンに仕上がっており、二重構造で作品を見せられているような、奇妙な気持ちにさせられる。 本作の上映は1962年。戦後からはそれなりの時間が経っているが、今よりも死が身近にあった時代だったのでは、そうも考えた。 岩下志麻も素晴らしい。登場当初の存在感は薄めだったが、求女との結婚後のお歯黒(!)、そして求女の亡骸と対面した時のわずかな戸惑いと激しい涕泣。僕も目頭が熱くなってしまった。 困窮した浪人はひたすらみじめだ。金を失い、物を失い、家族を失った半四郎を見ていると、もしも僕自身が経済的弱者になったらどうなるだろうと考えてしまい、胸が痛む。 剣劇シーンの静かな迫力も印象に残る。特に切り合う前のポーズが美しい。ただ、刀と刀を合わせるシーンは堂々としておらず、むしろ若干の怯えのようなものが見えたが、これはリアル感を狙ったのだろうか。 浪人の困窮を告発した半四郎は勘解由に一矢報いるが、最後は大立ち回りの末、惨めに死んでいくのであった。 脚本はさすがだ。それぞれの登場人物の言動が簡潔に、武士のイメージ通りに描かれていて、心情の吐露が多くないのに、各々の心のありようがうっすらと伝わってくるのだ。この「うっすらと」が人間らしさを表現しているように思える。武家屋敷内に横溢する大人の世界独特の嫌らしさも、脚本の力が見せてくれているのだろう。 ところで、観終えた今は、25年前と比べると作品との向かい方も観方も、人生を重ねただけ深くなったと思う。大げさな言い方を承知で言えば、生きているうちに観て良かった。同時に、この作品は年配者にも観てほしいと思った。もしも時代劇を○○○○のような予定調和的作品ばかりだと思っているとしたら勿体無い。それはそれで悪くないかもしれないが、かつてはこんな時代劇もあったのだと知ってほしい。 最後に一言。冒頭1分ほど観た時点で声が若干聞き取りにくく、難しい言葉があったので、字幕再生に切り換えて全編を観た。「照覧」「赤備え」「骨柄」など、その後も聞き慣れない言葉が頻出、字面を見たことでそれなりに意味がとらえられたはずだ。字幕が表示できるディスクで観て良かったと心から思った。 [ブルーレイ(字幕)] 10点(2020-06-06 04:04:58) |
6. 天国と地獄
数年前に購入したクライテリオンのディスクチェックをするだけのつもりだったのに、作品の迫力に引き込まれて、結局、そのまま全部観てしまった。この映画を観るのは4回目くらいだと思う。初めて観たのは20年以上前の学生時代で、その時もとても面白いと思った。だが、当時はその迫力くらいしか理解できていなかったように思う。あれから20年以上生きてきて、あの頃よりはわずかではあるが、社会や人間、そして映像を理解できるようになった今の方が、この作品の偉大さがよく分かる。主人公の権藤邸をほとんど出ることがない前半の、カメラアングルを含めた舞台劇のような作りは、作り込み感が強くて僕好みではないものの、そのカッチリとした美しい構図は見事だ。中盤の、身代金受け渡しから誘拐された子供を迎えるシーンの臨場感とスピード感には、ここぞとばかりに盛大に使われた音楽の効果も相まって、涙が出そうになるほど心が震えた。犯人の捜索から特定、逮捕に至る後半は、極めて丁寧に作り込まれていて隙がない。最終シーンの、権藤と犯人である竹内の対決も見事で、竹内の虚勢を張りたいという気持ちと、そこからはみ出してしまった弱さは、人間的に未成熟な若者の姿を見事に表現している。さらに言えば、作品全体をシャープにしながら、同時に緊張感を持たせている大きな要素は、説明セリフを舞台や設定のために必要最小限に抑えながら、それぞれのシーンにおける人物の気持ちに関して、セリフではなく、その動きやカメラアングル、そして音で表現しきったというところだろう。使い古された表現だと思うが、こう思わずにはいられない。黒澤映画とは、映画が映像であるということを再認識させてくれる作品群である、と。 [ブルーレイ(邦画)] 10点(2016-05-04 15:32:00)(良:1票) |
7. 座頭市物語
《ネタバレ》 20年ぶりに再観。いやあ、面白い。感心するのは、全編に渡ってプロットやドラマツルギーがとてもしっかりしていること。それが為に、座頭市と平手造酒の対決シーンの盛り上がりとやるせなさという、相反する感情がこみ上げてきて、強く胸を打った。俳優を見れば、まずは勝新太郎の、独特のちょっとした仕草や間からくる存在感が素晴らしく、逆にここぞという時の溢れ出す感情がカタルシスを呼ぶ。さらに言えば、天知茂のやつれの中に持つ人間性、柳永二郎の小悪党ぶりや、万里昌代の芯の強さと情熱もいい。 あとは、今なら決して使えない、あの手の言葉をバンバン使っているのも、登場人物の素性を考えれば極めて妥当でリアルに聞こえる。色々な意味で、今では絶対に作れない映画。一度は観る価値あり。 [ブルーレイ(邦画)] 9点(2013-12-16 00:44:33) |
8. 悪い奴ほどよく眠る
冗長過ぎるきらいがあるし、首をかしげる所も無いでもないが、ラストの衝撃で全て吹き飛んだ。想像ほどのスケールは無かったが、重厚な出演陣の熱演もあり、なかなかいい映画だった。観て損無し、お勧め。 [ブルーレイ(邦画)] 8点(2013-01-06 23:45:29) |
9. 空飛ぶゆうれい船
《ネタバレ》 ボアジュースのCMや宮崎駿が担当したゴーレムのシーンは今観てもインパクト充分なのですが、後に制作スタッフが述懐しているとおり、後半の構成がグダグダ。台詞による状況説明や種明かしにはガッカリさせられます。杜子春さんもコメントされていますが客観的に考えますと、初視聴が小学生の時ならば9点、中学生なら7点、それ以後なら5点といったところです。私は中学生の時に初めて観ましたので、7点献上します。 [ビデオ(邦画)] 7点(2006-08-26 00:00:13) |