1. 艦隊を追って
見どころとしては水兵を整列させてアステアがタップで号令をかけるあたり。水兵らの足踏みをバックにタップで乱舞。ラストはいつものようにステージになる、燕尾服になる。軍律をコケにしてもダンスを謳歌する。あっちの人は整列している軍隊を見ると、まずそこにそれを乱すタップダンスを投げ込みたいと発想し、こっちは群衆を見るとまずキチンと整列させたく発想する。根本的に日本では作れなかった種類の映画だろうな。ロジャースの衣装も含め。と思い製作年を見ると、226の年だ。けっきょくああまなじり決して悲憤慷慨したりしてた軍隊が、踊ってる軍隊に勝てなかった歴史があったことは覚えておいていいだろう。 [DVD(字幕)] 7点(2013-11-19 09:29:09)(良:1票) |
2. 吸血鬼(1931)
サイレントじゃなかったんだ。サウンド版的だが、声もときどき入る。字幕なしでつらかったのはセリフよりも文章だった。夢魔にどっぷり漬かる体験。影が動いてきて人間の影と重なる。天井。噛まれた女の表情、苦しい表情から邪悪な表情へ。愛するものへ災いをなすかもしれないという不安の中から、悪がヌッと顔を出す。幽体離脱、縛られている女。自分の死体、その棺からの視線。蓋をネジ釘で止めていく回転作業。顔を覆っているガラスの上に立てられるロウソク、そして運ばれていく空の光景。圧巻ですなあ。これと同時上映でやはりドライヤーの『彼らはフェリーに間に合った』という短編も見たんだけど(火事を出す前のフィルムセンターで、デンマークから借りてのなんかの映画祭だった記憶)、交通安全キャンペーン用の映画。疾走する現代性と死神の古典性が対比されているのではなく、疾走感そのものの中にまがまがしさが感じられるあたりがミソ。たぶんこれが初めてのドライヤー体験。全編疾走している映画で、後に彼の他の作品を見るようになり、その地味さにびっくりすることになる。あの疾走の記憶は正しかったのか今では不確か。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2013-11-13 10:14:30) |
3. 自由を我等に
社長が友情に負けて、ワルガキのように晩餐会をコケにしていくあたり。あの晴れ晴れとした感じは、この時代のフランス映画で特に見られるものではないか。ラストの式典での風も素晴らしい。まだサイレントのココロが残っているのだろう。リアルである必要のなさ。リアルであらねばならないという強迫観念がなかった時代。蓄音機工場ってのが、いかにもトーキーに入った時代を示している。つい後世の我々が思ってしまうように、トーキーになったことにそう戸惑っていた訳ではなく、その時代に作れる映画をただ作ってみたらこうなった、という汽水域ならではの豊かさと見たほうが当たってそうだ。 [地上波(字幕)] 8点(2013-10-16 09:33:54) |
4. 新学期 操行ゼロ
俯瞰で撮るとドキュメント的になる。対象と同一平面だとドラマとして共感できる点を探しながら見ているが、上からの視線だと観察的になる。だからこそ非ドキュメントのスローモーションで羽毛が舞う場になると、その効果が絶大になるのだろう。いかにも「普段」ではない。そもそも映画という表現の軸にある対立は「記録」と「幻想」だと思っているもので、本作の俯瞰とスローモーションの対立には「まったくそうだ」と思わずうなずいた。それとフランス映画にある「自由万歳」の精神、それが硬直した・スローガン的なものでなく、「だらしなさ万歳」や「のんき万歳」にもしばしば通じているのが、いいと思う。 [映画館(字幕)] 8点(2013-10-08 09:37:51) |
5. 雪之丞変化(1935)
東海林太郎の「むらさき小唄」が流れて始まるが(トーキーになり映画主題歌でレコード業界とつながった最初のころだろう)、私が見たのは総集篇で、ハラハラの設定までナレーションで準備してしまうのは参った。でも舞台がらみのシーンはなかなか見せます。悪女伏見直江に閉じ込められたはずの雪之丞が、ちゃんと町娘姿で舞台に立つとこ。もちろん映画の観客は闇太郎に助けられたことを知ってるし、間にあうだろうかどうだろうか、なんて心配してないが、嬉しいね。毒婦の鼻をあかしてやって痛快、っていうのとも違う。女形というものの非現実性から来る不思議を目の当たりにした、という感じだろうか。あるいはやはり舞台シーン、雪之丞を狙う男二人、毒婦の差し金で野次ろうと待ち構えているゴロツキども、御簾の中で目を配る伏見のカットなど、純粋な悪意が描かれるあたり。どうして映画のなかの劇場ってのは、こうドキドキさせるんだろう。とりわけ歌舞伎という芝居は客席に花道を一本通しただけで、小屋全体が舞台になってしまった演劇であり、小宇宙になっている。奈落では仇の二人が取っ組み合って地獄を現出しているし、外の廊下では男が殺されているし、もう小屋全体がドラマの興奮に詰まって、それでいて客席以外は不気味に静まっている。何か良くないことが起こらずにはいられない、と納得させられてしまう。白い雪之丞と黒い闇太郎を同一人が演じる、ってのも大事なんだろう。悪役が『七人の侍』の村の長老、高堂国典だった。 [映画館(邦画)] 8点(2013-06-22 09:57:52) |
6. 婚約三羽烏(1937)
脚本も島津だから、会話がいい。上原と妹の雰囲気なんか、この監督は「妹的なるもの」の監督だな、と思う。語り口のうまさが、後味を良くしている。上原がホルン吹くのは『オペラ・ハット』の影響?(前年の映画だが、どれくらいの時間差で日本公開だったのか)笑わせるとこは、佐野の入社試験の際の河村黎吉のオヤマ。佐分利のずうずうしさ(送ってきた佐野の下宿に蒲団敷いて寝てしまい、そのまま住み込む)。上原が客寄せのために空を見上げて中へ連れ込んでくる。こういったあれこれに、当時の三人のキャラクターがどういう方向で受け入れられてたのかが確認でき、楽しい。 [映画館(邦画)] 6点(2013-03-27 09:56:35) |
7. 黄金時代(1930)
苛酷で本質的なものと、柔らかいが欺瞞的なもの、の対比が軸になっているか。島の岩肌、サソリの生態、など苛酷。ブルジョワの家具調度の柔らかさや、彼の好きな羽毛が対比される。いや、こうやって整理して見てしまうのは、きっとシュールリアリストにとっては、馴れ合ったイメージの連想ということで、いけないんだろうが、もうそう見ちゃうのが習性になってるマトモな世界の住人なんで、勘弁してもらう。一番濃密なのは島に人が来たところ。だいたい人が並んで歩いてるとリアリズムを突き抜けちゃう気分が出てくるんだ。骸骨になった法皇なんて、すごく「意味」っぽいんだけど、帽子をとって挨拶すると、何か意味を超えたイメージになっていく。固いコンクリートの上にヌルヌルした粘土状のものを載せるの。なんかの起工式みたいな普通の儀式なのかもしれないが、ヌルヌルの触感だけが突出して迫ってくる。男は羽毛を散らし、窓から燃える木やキリンを落とす(脚本にダリが協力)。虫を潰し、犬を蹴り、盲人を倒し(盲人を痛めつけるのは『忘れられた人々』などがあり、彼の作品での盲人は特別な存在のよう)、しかし己れの所有欲からは逃げられない。あ、また意味で解釈しようとしてる。小太鼓の連打が異様な高揚を生む。ベッドに牛が寝てたり、ロビーを荷車が通ったりするのも心地よい。水中撮影で美しいシーンがあった覚えがあるのだが、ノートには記されてないな。ほかの映画の記憶が混ざってるのか。そういった曖昧な記憶として存在しているのが、一番ふさわしい映画なのかもしれない。 [映画館(字幕)] 8点(2013-03-23 10:01:07) |
8. 浅草の灯(1937)
人間模様もの。昭和初期が大正を回顧しているのを現在の私(昭和末期でしたが)が見るんだから、ちょっとややこしい。映画製作時の彼らが抱いた懐かしさと、映画製作時への私の興味が複合して。娯楽の中心が銀座へ移ってしまった時代に、大正の娯楽の中心だった浅草を描いてるの。もっと風俗が織り込まれてるかと思ったが、大震災で壊れた十二階の内部がセットで見られたぐらい。ちょっと乱歩っぽい。肺病男が、伝染るといけないからとひげをあたってもらうのを断わって皆に歌を歌ってくれと言うあたり、浅草の滅びそのものが重なっているのか。杉村春子が歌って踊ります。島津監督としてはほかの代表作より若干劣るかと見えたのは、単純に高峰三枝子がヒロインだったせいかもなあ。 [映画館(邦画)] 6点(2013-03-16 10:08:33) |
9. スミス都へ行く
《ネタバレ》 アメリカ映画で優れている部門は、スラプスティックやミュージカルやいろいろあるが「民主主義とは何ぞや映画」というジャンルもある。あの国は絶えず民主主義を問い返し、そういう映画の伝統がずっとあって、それには素直に頭が下がる。私が知ってる範囲では本作が一番好き。日本でも「社会派映画」というのがあり、同じように政治の腐敗を描くのだが、それはただ野党的に「けしからん」と言ってるだけなのが多く、差は歴然(日本における「野党的なもの」ってのには、文句垂れるだけで善しとしてしまう無責任体質があるのが問題なんだけど)。そこいくとアメリカはリアリズムの地平から少し離れて分析し、ペイン上院議員なんてキャラクターも生み出す。若いうちは理想に燃えていただろうがやがて「それが現実さ」という諦念に呑み込まれ、今や理想に燃える主人公をハメていく。スミスのまぶしさへの嫉妬も感じられ、厚く造形された人物。そして何より議長が素晴らしい。特別な意見を言うわけでなく、議長としての限られた発言をするだけ。喋り続けるスミスの対照のように。しかし若者の熱意を大きく包み込む擁護者として、彼は議長席から見守っている。本作はこの二人のセットで健全な民主主義というものを考えている。理想家を賞揚し過ぎず、また青臭いと冷笑せず、二つの芯を持った運動体として見ている。これがアメリカの民主主義の理想なんだと思う。この映画、政治の暗部を御用マスコミやそれに簡単に動かされる大衆、つまり今この映画を見ている我々にまで広げて見せ、ただ「けしからん」と言って済ますわけにはいかなくしてある。喋りすぎる映画はだいたい駄目なものだが、本作は別。だってこれは「言いたいことを言うことの重要さ」がテーマなんだから。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2013-03-06 10:03:10)(良:3票) |
10. 御誂治郎吉格子
《ネタバレ》 娘がお百度参りしているあたりから後半に、映画に濃密な空気を感じだす。特別構図が凝っているわけでもなく、ろうそくなどもっと装飾的に使う監督もいるだろうが、一つ一つの図柄の的確さが濃密な空気を醸している。理屈をつければ、治郎吉が彼女への同情を決定的にした瞬間で、つまりこの場にいないお仙のラストの悲劇がカチリと始動した瞬間だった、という運命的な見方をすることも出来る(もちろん観客はまだ知らないんだけど)。このあと彼女の不幸が自分のせいだと知る治郎吉、だから自分で自分の始末を付けるということでもあるんだが、そも「輪」からはみ出されていくお仙の意地っていうのが絡んできて、重厚。「あたしを忘れさせないからね」っていうのは、怖い。 [映画館(邦画)] 7点(2013-02-22 09:55:13) |
11. 番場の忠太郎 瞼の母
母と抱き合うので驚かされる。もともと長谷川伸も二通りの結末を考えてたらしいんだけど、いろいろ手を加えても本筋の“身内に対して構えてしまう世の中の酷薄さ”が残っていれば、「瞼の母」である。実際、大衆演劇で演じられやすいように著作権も自由にしていたらしく、そうやって大衆に揉まれて伝説のように変貌していくのを許していたんだろう。加藤版でもホロッとさせる、違う母の手に重ねて筆をとるところなんか、リアリズムじゃない。もう様式であって、わざとらしいなんて感じちゃいけない。様式ってのは、一つの感情を大袈裟に・意識的に誇張して高い次元に持っていくことだ。吹雪の中で刀を構える千恵蔵のかっこよさなど、様式が練り上げた姿。 [映画館(邦画)] 6点(2013-02-21 09:54:01) |
12. モダン・タイムス
工場でチャップリンはその歯車の一つになろうと懸命に格闘するが、ノイローゼとなった結果意図せずサボタージュ扇動者となってしまう。さらに路上で赤旗振ってると思われ、逮捕される。この時代を政治的にハッキリ描いたメジャーなアメリカ映画は、30年代半ばの段階では少ないのではないか。富の偏りがあり、昼のデパートは金持ちに開放され、夜のデパートはやっと職を得た失業者と泥棒の世界となる。この夜のデパートの解放感がいい。ローラースケートで移動する滑らかさ、それは危険と隣り合わせだが、束の間の開放を味わわせてくれる。昼の工場と夜のデパート、近代が作り上げた二つの場所が対比されていたと思う。デパートのエスカレーターは、工場で主任を運び上げてしまったベルトコンベアーを思わせもするのだけど。本作からチャップリン作品は芸を見せる映画より、時代と戦う「言いたいこと」を言う映画になる。後世の私はそれをちょっと残念だとは思うが、その時代での勇気をこそ称えるべきだろう。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2013-01-26 09:39:56) |
13. 母と子(1938)
後半になって俄然イキイキしてきた。積極的な悪役がいるわけではないのに、男の振舞いのなかに悪が出てきてしまう世界。不人情を、男社会に原因を求めているようで、溝口を初め、こういう視点は当時ずいぶんモダンだったんじゃないか。そういうモダンな視点にさらされるのが、吉川満子のおっとり妾。この描かれ方がうまいんだ。そろそろ邪魔になってきたので追い出されるのを、わざわざ別荘買ってもらってと喜んでいる。それに苛つくのが娘の田中絹代なわけ。女二人が新旧二つのタイプを演じるのは、二年前に『祇園の姉妹』あり、翌年に『暖流』ありで、このころの流行りだったよう。とりわけ『暖流』とは役者がだいぶ重なっている。佐分利信、水戸光子、徳大寺伸。本作のほうが視線が冷たいと感じるのは、監督が渋谷実と思って見ているからか。佐分利はただ野心家というだけでなく、母的なものに憧れてるってしたので、厚みが出た。「オールドブラックジョー」のメロディは二年前の『一人息子』でも使われてたが、昭和初期には何か特殊な意味があったのかな。人物が外に出たのは田中絹代が海岸を散歩しただけという実に内に籠もった作品でした。 [映画館(邦画)] 7点(2013-01-14 10:36:19) |
14. 大人の見る絵本 生れてはみたけれど
還暦の誕生日に亡くなった小津は、人生の見取り図を眺めやすい。『出来ごころ』までが前半生の30年、『母を恋はずや』からが後半生で4作目からトーキーになる。赤ん坊時代も含めた前半生だけで傑作を次々と発表しており、それだけでも映画史にゴシックで名を残したことだろう。とりわけ本作。前半のギャグの連発には、ただただ恐れ入るしかない。それも客観的に外部にある笑いではなく、自分たちの子ども時代を思い出させつつ生まれてくる笑いだ。だから後半の苦みが「取ってつけたよう」にはなってない。前半の笑いの当然の帰結として、苦くなってくる。そこに子どもであることの苦さ、子どもを持つことの苦さが浮き上がっている。笑わせたあとでペーソスも加える、ではなく、笑いがそのままペーソスに移行している。これが20代の男によって作られたことに驚かされるが、その若さだから・そしてついに家庭を持たなかった監督だから、と考えたほうがいいかもしれない。こんな映画を撮ってしまう男が、家庭を持てるわけがない。 [映画館(邦画)] 10点(2013-01-12 09:50:07) |
15. 君と別れて
心が内に籠もってくるとロングショットになる魅力。母が、自分の職業を息子が嫌っているのでは、と述懐する橋のシーン。登場人物が周りの風景が目に入らなくなってきたところで、逆に観客にその周囲の風景をぱっと広げて見せてくれる。その人物の心細さや、満たされない辛さが、ふわっと浮き上がり品のいい湿り気を帯びて見えてくる。あるいは田舎の海岸で、若い二人の会話をカットバックで切り返し、微妙に互いの心を探り合っている緊張を高めていって、ついに水久保澄子が「どこか一緒に行ってしまいたい」と言ったところでロングショットになる。この効果は絶大で、変に役者に表情を作らせるよりももっと自然に、次の「嘘よ、嘘よ」につなげることが出来る。相手との緊張が高まった果て、ハッと内に籠もる瞬間をロングショットで描いたわけ。後年になると道が奥に続いているシーンでのロングショットが絶品なんだけど、これでは先に挙げた橋のシーンに至る部分で一回あった。吉川満子と水久保澄子が長い影を道に横たえながら奥へ歩んでいくカットの美しさに陶然。これは成瀬自身のストーリーなのね。母と息子、父と娘とが対になっているけど、どちらも男がだらしないんだ。突貫小僧が相変わらず笑わせる。『生れてはみたけれど』の翌年か。 [映画館(邦画)] 8点(2013-01-11 10:18:43) |
16. 街の灯(1931)
これって長谷川伸の股旅ものとつながってるよね。しがない渡世人=浮浪者のささやかな善意と、それが報われるドラマ。「日本人にしか分からない」とか言われる人情の機微って、思いっきり世界普遍のものだ。眼が見えない=正体が分からない、という仕掛けを十分に使ってドラマを展開し、ラストの控え目な対話だけでサラリと終わらせる鮮やかさは西欧のものだけど。娘に対しては慈善紳士と浮浪者がチャップリンに重なり、金持ち紳士に対しては、絶望から救った親友と見知らぬ浮浪者が重なる。はっきり見えているのはどちらにも浮浪者としてのチャップリンのみ、しかし二人の心の世界に存在していたのは慈善紳士と親友だったわけだ。食べられないものを食べるギャグは、ここでも紙テープや石鹸が登場した。ボクシングシーンでさっとレフェリーに重なる動きの見事さ。動きと言えば、大したギャグではないのに、歩道の背後で上がり下がりするエレベーターの縁でハラハラさせるのなんか、彼の体技で魅せてくれた。落ちそうで落ちないってギャグ、チャップリンの好きなモチーフだ。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2013-01-08 09:54:10)(良:3票) |
17. 有りがたうさん
おそらくこれを初めて見たときは誰も、登場人物の喋りにびっくりすると思う。ゆっくりした棒読み。なんだこれは! そういう喋り方をする土地なのか、とオロオロしていると、上原謙や桑野通子もそう喋る。トーキー初期の録音技術では普通に喋ると言葉が聞き取れなくなるのか、と気を回す。いや、これより古い『隣の八重ちゃん』は普通に会話してた。呆然としながら考えた末に結論はただ一つ、監督の指示としか考えられない。そしてそう判断したころは、このリズムにこちらが合ってしまって、大変心地よい境地になっている。お年寄りが昔話を語っているような、宮沢賢治の世界のような。トーキー初期はこんな思い切った演出冒険も出来たのだ。子どもらはバスの後ろに飛びつき、女歌舞伎のお披露目と遭遇したり、桃源郷を思わせる。ところが描かれる内容は厳しい不況下の世情なのだ。226の年で、青年将校らを決起させた地方の娘の身売りが、上原謙に「葬儀運転手の方がよっぽどいい」とぼやかせるまでに、車内を重くしている。映画の結末は飛躍のある展開で作品の傷かとも思えたが、あのゆっくりとした喋りで世界が変容されていると、峠を越えることで善意が勝つんだ、と素直に受け入れてしまえた。この前々年に満州国が誕生し、五族協和と「仲良し」が強制的に偽装される時代になったが、本作では朝鮮人の苦衷がキチンと語られていた。まだ厳しい検閲はなかったのか、もし検閲官が見逃していたのなら「ありがとー」だ。車窓風景の映像史料としての価値は計り知れない。 [CS・衛星(邦画)] 9点(2013-01-04 09:53:22) |
18. 丹下左膳餘話 百萬兩の壺
城の殿様でいかにも時代物で始まり、お家騒動にでも左膳が絡むのかと思わせといて、世話物の世界になだれ込んでいく。しかもこの左膳、家庭持ちだ。この落差を実感としてストレートに楽しめないのが現代人のつらいところ。ニヒルなヒーローと頭では分かっていても、それが空気のように・当然のようにあった当時、子どもの用心棒として駆けつけるおかしさは、現代よりも弾けたことだろう。いまの言葉で言えばパロディになるのだろうが、武張った「時代物」世界と人情の「世話物」の世界の硬軟が対になって存在するのは日本文化の基本で、なにも浄瑠璃に始まったものでなく、平安時代なら漢詩と和歌、いや、もともと日本語が漢字とひらがなで綴られること以来の両輪ではないかと思っている。だからこれ、単にパロディと言うより、もっと日本文化に根ざした、硬いものをすぐ軟らかく読み換えたがる性向がノンキな笑いとして結実した幸福な映画なのではないか。現存山中作品を見て思うのは、さぞかしサイレント映画は凄かったろうと思わせるリズム感だ。もう新たに完全なフィルムが発見される可能性は低いだろうが、そのときが来るまで10点9点は留保しておく。 [CS・衛星(邦画)] 8点(2012-12-27 10:23:25) |
19. アタラント号
《ネタバレ》 花嫁が船上を歩くシーンが美しい。見送りの人々の姿とか。棒みたいの使って飛び乗るの。皮膚に心地よい風が当たっているような感覚があります。芸人の誘いのシーンのまがまがしさ。いろいろ渡り歩くその乱れが、花嫁の心の乱れと重なってくる。すごいローアングルで船繋ぐとことか。レコードのギャグは、若者が合わせてアコーディオンを弾いていたという落ちが付く。結論としては、もひとつピンと来なかったんだけど、随所のみずみずしさは素晴らしい。みずみずしさを味わえればこの映画はいいのかもしれない。そう納得させてしまうのも監督の腕か。 [映画館(字幕)] 7点(2012-12-07 10:10:40) |
20. 戦ふ兵隊
作戦室の場、軍人さんたちアガッてるようで、ああ本物だ、とすごく生々しく“ドキュメンタリー”を感じた。弾のピュンピュンいう音も生々しかったが、あれ本物なのか? 同時録音? これ上映不許可になったため、反戦映画という眼で見られるようになってしまったが、一応製作者は国策映画として完成させようと努力している。妥協しても上映される映画を作り、戦場を国民に伝えたいというドキュメンタリストとしての執念が感じられ、それが名作にしている。なにせ時代はノンキではなかった。陸軍のフィルムを使う以上、無駄には出来ない。冒頭の流浪する中国人を描いたのも、ラストの復興へつなげて「こうやって皇軍は同じアジアの人を助けているんです」というメッセージになるし、夕陽の中で病馬が倒れる美しいシーンも「戦地の兵隊さんも馬も大変なんだ、内地の人は辛抱辛抱」ってメッセージになる。一応国策映画としての体面は繕っていたと思うんだけど、でも許可してくれなかった(この残っている版もすでに改訂命令で15分削られたもので、それでも最終許可は下りなかった)。あれかな。夜中のロバの鳴き声の哀切さ、あれはただただ意気阻喪させ、なんか戦場というものの正体を告げていた。私が役人だったら、あの鳴き声で不許可の断を下したかもしれない。 [映画館(邦画)] 8点(2012-11-08 09:13:49) |