1. インフル病みのペトロフ家
《ネタバレ》 時間が長い上にわけがわからない。登場人物の関係性を把握するだけで精一杯だったが、あとで公式サイトを見ると人物相関図があったので自分で考える必要はなかった。 世評の通り奇想天外な展開で、奇抜な映像も多いので面白くなくはないが、こんなのにまともに付き合っていられないという気分にもなる。コメディとして笑いの要素も多かったようで、公式サイトには出演者が原作を読んで大笑いしたと書いてあるが、自分としては何が可笑しいのか全くわからない。 個人的に唯一笑ったのは幼少時の主人公が、カナダ選手との乱闘でヘルメットを失くしたのかと聞かれたところだった。言われてみれば確かにそんな時代もあった気がするわけで、やはり自分で覚えていることには反応が違う。ソビエト連邦がかつて宇宙を得意分野にしていた雰囲気も出ていた。 内容について少し真面目に考えると、次のような構成になっていたらしい。 〇本編(2004年)では物語の各種要素が提示される。ここで出て来る変な映像は、主人公については発熱による幻覚(過去を含む)と、幼少時の記憶(1977年)による単なる夢と思われる。元妻関連では本人の性格特性による妄想と、実際に起きた暴力・殺人場面があったらしい。 〇白黒部分(1977年、10月革命60周年)はいわば種明かしのようなもので、本編で無関係と思われた各種要素を、ネヴィヤンスクの雪娘がつないでいたことを説明する。ここは変な映像はわずかで基本的に真面目な展開だが、登場人物が一瞬全裸になる場面があったのは、よく言われるように男は女性を視姦する、ということを女性側もやっていたという表現かと思った。 〇最後に終結部として、死体消失事件のその後を見せていたらしい。 この中にまともな物語があったかどうか不明瞭だが、個人的に思ったのは主人公の家族関係のことだった。主人公が幼少時の新年パーティの記憶に促され、病を押して被り物も持参で息子をパーティに参加させたら、息子も父親同様の体験(※注)をして戻り、それで父子が心を通じ合わせたということか。一方で息子に愛されない元妻の方は狂乱した、というのがこの年末年始のペトロフ家の出来事だったとすれば、父子にとってはハッピーエンド、元妻にとってはバッドエンドだったかも知れない。とりあえず元妻のような危ない人物に息子を任せておけないということはある。 一応まとめると、ネヴィヤンスクの雪娘のおかげで主人公が息子との結びつきをさらに強めた物語ということになるか? わかりにくい話で好きでない。ほかにペトロフ/ペトロワ、セルゲイ/セリョージャといったネーミングにも突っ込む余地がありそうだが長くなるのでやめる。 ※注:西側諸国のサンタクロースと同じように、ソビエト連邦の行事では「雪娘」(Снегурочка)が本物かどうかを子どもらは気にしていたらしい。幼少時の主人公も今の息子も、たまたま発熱していたため雪娘の手を雪のように冷たく感じ、それで本物と信じることができたということではないか。それほど大した思い出でもないようだが子どもにとってはこういうのが大事なのか。 [インターネット(字幕)] 5点(2025-03-15 16:25:40)★《新規》★ |
2. 狭霧の國
《ネタバレ》 基本は怪獣特撮映画のようだが、ドラマ部分を俳優が演じるのでなく人形劇にしたのが特徴ということらしい。着ぐるみやミニチュア、また人形の顔が極めてリアルに作ってあり、手書きアニメや現地ロケの映像も組み合わせた独特の劇中世界ができている。 怪獣特撮の部分はなかなか圧巻で、盆踊り会場とか古風な伝統家屋を怪獣が襲うのは、個人的には東宝映画「地球防衛軍」(1957)を思い出す。室内や地面に視点を置いた臨場感にこだわっていて、また人のいる高い塔に怪獣が迫るのは「ゴジラ」(1954)以来の趣向と思われる。なお人間側の反撃で自衛隊が来るわけはないとして、代わりに帝國陸軍とかではなく一般人が怪獣を砲撃するのはやりすぎかと思ったが、これは花火の応用ということだったか。 物語としては悪人の悪人ぶりが単純すぎるとか、盲目の人物が失明に至った経過がむごすぎるといった難点はあるが、何より最後は観客が期待したい結末にちゃんと落としたのが好印象だった。全てが終わってエンディングテーマの「守りも嫌がる…」が始まったところは正直感動した。 また登場人物がそれまでの暗く閉ざされた世界からいきなり未来が開ける一方、怪獣はもといたところに帰るだけというのも安心した。工事がどうなるかの心配はあるが、同じく山中の湖にいた「大怪獣バラン」(1958)の頃とは違って、明治時代ならしばらくは棲家に安住していられるかも知れないという気はする。 ほか全体テーマとしては、外見にとらわれずに本質を感じろという考え方も出ていたようだった。 なお映画の舞台は大分県とされていたが、具体的には監督が幼少時に住んでいた竹田市とのことで、話に出ていた「犬飼」という地名も近くに実在する。終盤の石橋は市内に2つある「石拱橋」(せっこうきょう)がモデルのようで、2つあるうち「鏡石拱橋」(かがみせっこうきょう)が完成したのが明治42年だそうだが、劇中年代をこの年にした理由がそれだったかはわからない。 またエンディングテーマの「竹田の子守唄」も竹田市関係に見える名前だが、実は京都府の民謡だそうで誤解を招く選曲ということになる。しかしこの歌本来の由来からすると、劇中で疎外され迫害されていた人物のためにあえて選んだとも考えられなくはないと思った。 [インターネット(邦画)] 7点(2025-03-08 22:33:38)(良:1票) |
3. 暮らしの残像
《ネタバレ》 前に見た「ヤツアシ」(2021)と同じく、芸能プロダクション「テロワール」が主催する「短編映画ワークショップ」で制作された映画だった。監督はこれ以前に「電力が溶けるとき」(2021)などのショートフィルムを撮っていた人物で、この短編の直前から現在までに3本の長編も手掛けている。 基本的な発想としては場所の記憶というようなものかと思った。何が起きていたのか不明だが、例えばこの102号室自体が人格をもって想像力を発揮して、自分の記憶に残る住人をキャラクター化してドールハウス的に遊んでいたというなら面白いかと思った。住人は単身者が多かっただろうから、あえて多数集めて大家族にする趣向だったかも知れない。 あるいはそこまで変な発想でなくても、例えば現在の住人が昼寝していたところに場所の記憶が影響して、過去の自分が出る変な夢を見たということか。それだと単純な夢オチだが、目が覚めてから鍋に参加しないでしまったことを思い出し、仕方なく一人でカップラーメンを食っていたという考え方はできる。独り者上等と強がっていても、大家族の夢を見てしまったあとの寂しさをかみしめていたかも知れない。扇風機がスイッチを入れる前から首振り設定になっていたのは変だが、これで過去の住人にも風を送る形にはなっていた。 しかし一方、終盤でドアが開いた音がしたのが現在の住人=主人公の帰宅を意味するとすれば、やはり夢オチでもなく留守中に何らかの超常現象が展開していたことになる。その場合もカップラーメンは一人の侘しさの象徴ということになるか。ラストのピンポンは住人ではなく来訪者だろうから、今後の人間関係の生成発展を期待させるものかも知れない(不明)。 そのように、まともに考え出すと面倒くさいところもあるが、いろいろ想像が広がらなくもない映画だったとはいえる。とりあえず主人公が面接に落ちて彼女も取られて死んでから地縛霊になっていた、というような悲惨な事態(親が気の毒)ではなかったと思っておく。出て来た11人全員が地縛霊ならとんでもない事故物件だがそういうことはない。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-03-01 21:33:58) |
4. 電力が溶けるとき
《ネタバレ》 題名は意味不明である。現代社会の構築と維持に不可欠な電力を、鋼なみの剛性イメージで捉えたのかも知れないが何ともいえない。物語としては電力による縛りがなくなった空間で、人々が本音や本当の顔を晒した話のようだった。 主な登場人物は同期の若手社員3人で、また会話に出ていた部長もあとで顔を出す。 若手のうちで個人的に好感が持たれたのは「いのうえ」という人物だった。低めの声が飾り気のなさを感じさせ、また若干変人っぽいのを隠さないのが正直で謙虚にも思われる。当日の面会予定は結果的にどうでもよかったようで、それよりたまたま起きた何でもない出来事の方が思いがけない贈り物だったらしい。部長も声をかけてくれていた。 またその部長は笑ったのを初めて見たと言われていたが、それは言った本人が見たことがなかっただけで、そもそも本来がこういう人物だったとしか思われない。悪口といってもそれほど根本的な人格否定のようでもなく(理不尽な中傷で笑ってしまう)、かえって本人は若い連中と接点ができて嬉しかったのではないか。今回の更新で人間関係もアップグレードされたようだった。 なお最後のアラームも意味不明だが、当日中にインストールが完了し、翌日は更新後の再起動というイメージかと思っておく。大感動でもないが少し気分がよくなる短編だった。 [雑記] 最後に「すずらん通り」の話題が出ていたが、それより個人的には大昔に「ぴあmap」か何かを見ていたところ、東京にも××銀座というのが多数あることがわかり、そういうのは田舎だけにあるものと思い込んでいたので意外だった。ただその××銀座も戸越銀座(品川区)が元祖だそうで、さらにその戸越銀座に砂町銀座(江東区)、十条銀座(北区)を加えて東京の「三大銀座」という呼び方もあり、本家の銀座を頂点にしたピラミッド構造ができているかのようである。数としては「すずらん通り」より××銀座の方が多いだろうが、もしかするとそんなことは東京の住人には常識なので、あえて「すずらん通り」の方を出したということか。地方民には計り知れないところがある。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-03-01 21:33:56) |
5. ひとりぼっちの人魚
《ネタバレ》 Amazonプライムビデオで公開されている。10分なので時間的には負担にならないが、見て困惑したくない人は見ない方がいい。 見た目としては昭和の素人ビデオのようだが製作年は2016となっている。関係者は全員素人かと思ったが、出演者に関しては新潟のシンガーソングライターや地元アイドルなのでプロの印象がないのも当然である。ちなみに千葉県のTVで放送されたこともあるらしい。 話の内容は全部適当に作ったものではなく、エンディングのURLに出ている地元の伝説をもとにして人物の性別などを変え、最後にオリジナルのオチを付けた形である。「人魚塚伝説之碑」は新潟県上越市に実在するもので、わざわざ佐渡から通ってきていた設定なのはその伝説がそうなっているからである。なお関係ないが佐渡汽船のフェリーは佐渡と上越市の直江津港の間でも運行しているそうで、映像に出ていた船が多分それだと思われる。 オチの部分はいろいろ意味不明だが、まず人魚側の意図としては、題名からすると普通に主人公を道連れにしたと解される。主人公の「あれっ!?」は素っ頓狂な感じだったが、ここは死んでしまってからやっと不審点に気づいたことの若干コミカルな表現か。 また特に水死者を人魚扱いする意味がわからなかったが、これは水死者というより人を海中に引き込んで死なせるものという、どちらかというと西洋的な人魚観によるものか。もとの「人魚塚伝説」からして登場人物と人魚の関係性が不明瞭だったりするので、そこに少し独自色を加える余地があったかも知れない。ほかにも不明な点があるが長くなるので省略。 なお褒めるところは特になかったが、全体を黄色くした映像の中で、水色のクレヨンが鮮やかに見えたのは特に意図したことかと思われる。 ほか出演者として、「新潟痛車フェス」オフィシャルキャラクターの「越後姉妹Geeks」(2017.6.16解散)のメンバーが人魚役などで出ている。そういえば2014年に新潟市に行ったら古町でそういうイベントをやっていたのを見かけて、これは何をやっているのかと思った覚えがあった。だから何だということもないが個人的思い出ではある。 [付記]その後、ここの「人魚塚伝説」をもとにしたといわれる童話「赤い蝋燭と人魚」をわざわざ読んだ。物悲しく怖い話だった。 [インターネット(邦画)] 1点(2025-02-22 22:38:35)(良:1票) |
6. 地獄:二つの生
《ネタバレ》 有名な「新感染」の監督がかつて作ったアニメだそうである。Netflixのドラマ「地獄が呼んでいる」の原作マンガのさらに原点になるものらしいが、これはNetflixでなくAmazonプライムビデオで見られる。 内容としては「地獄」(지옥)という題名の短編が2つ入った形になっている。うちpartⅠ(10分)は2003年、partⅡ(24分)は2004年の制作で、これをセットで2006年に一般公開したとのことだった。動画としては粗く見えるが描写はリアルでひたすら陰惨な雰囲気を出している。人体模型的な残酷場面や、生々しい性描写(金玉が見える)があったりするのでお子様向けでは当然ない。 劇中世界では、天国・地獄に関する制度が確立していて世間の共通認識になっている。天使が天国または地獄行きを通告するが、逃げる手もあるからには定まった運命の予言でもなく、当局の判断による処分を予告するものらしかった。現実世界でいえば北の抑圧国家を思わせるものがあり、厳しい監視体制があることも描写されている。婚姻にまで関与していたのは人生全体を管理している印象があり、また自殺すれば地獄行きというのは道徳的な判断というよりも、当局による生殺与奪の権を侵す行動は許さないという意味かも知れない。 そういう考え方からすれば、partⅠでの地獄は政治犯の収容所行きのようなものかと思ったが、死んでも逃れられないというのは現実世界よりはるかに過酷な状況ではある。主人公は収容所送りを嫌って逃げ回っている状態だが、天使がそういう選択肢をわざわざ示したのは、意味不明だが現場の取締官が娯楽的にやっていたというだけか。 またpartⅡでは天国というものについて、主人公は苦も楽もない世界と思っていたらしいが、例えば天国に行けば天使など、体制側の役職につく道が開けるとも想像できる。仮借のない非情な体制のようで、主人公が思ったような大衆倫理的な評価で天国行きが決まるものではない気がした。 なおpartⅡの主人公が考えたように、愛する人々と一緒の喜怒哀楽が本当の幸せではないか、というのは実際そのようでもあり、これは後の「新感染半島」を思わせる。しかし結局その愛する人間のために自分も地獄に落ちたのは徹底して皮肉な作りだった。 全体として面白くなくはないが、こういう救いのないものを好む方でもないのでそれなりの点にしておく。ちなみに天使は体型がかなり印象的だった。 [インターネット(字幕)] 5点(2025-02-22 22:38:33)(良:1票) |
7. 豚首村
《ネタバレ》 「風鳴村」(2016)に続き、邦画「恐怖の村シリーズ」と紛らわしい邦題をつけた映画の第2弾で、配給も同じくアメイジングD.C.である。前回は「犬鳴村」(2020)の真似だったが、今回は「牛首村」(2022)に便乗した形になっている。なお豚の首は映像に出ない。 内容的には、山中の怪しい村にたまたま来た男女が殺されていくだけの話である。結果的にどうでもいい会話や無意味なこけ脅しが多かったが、終盤での救いのなさというか呆気なさが一つの特徴かも知れない。笑ったのは砂嵐包帯男が1人目を誤射した後に、すぐまた2人目を誤射した場面だったが、これも呆気なさの例ではある。 そのように少し思うところもなくはないが基本的にはしょうもない映画だった。下品なので良識人が見るものではない。 以下その他雑記: ①舞台はスペインのカタルーニャ州であり、言語はスペイン語でなくカタルーニャ語とされている。スペイン映画というよりカタルーニャ映画ということになるか。 ②現地では実際に「サンマルティ祭」の時期にブタを潰す習慣があったとのことだが、映画紹介ではこれを「現在は禁止されている風習」と書いて、何やら変なことをしていた印象を出している。しかし今はともかく昔ならそれ自体が変とは思われず、また広くスペインやポルトガルで行われていたようでカタルーニャ限定でもない。 これに関して有名なスペインの諺に「全てのブタに聖マルティンの日が来る(A cada cerdo le llega su San Martín)」というのがある。要は悪い奴にも最後の時が来るといった意味のようだが、一応この映画でも外来のクソ連中は処分して当然という雰囲気を出していた。 ③エンドロールの役名に出ている「Home del Sac」とは袋の男という意味で、英語でいうブギーマンに当たる言葉である。これは子どもを袋に入れて誘拐する怪人を意味しており、現地では屋外で子が親から離れないよう脅す時に使う言葉らしい。劇中では目出し袋の男のことかと思うが、袋に入れるというより車で犠牲者を集めていたと思えばいいか。 カタルーニャの中心都市バルセロナでは19世紀に、袋の男がさらった子どもの脂肪が鉄道列車の潤滑油にされているとの噂が立ったことがあるそうだが、それは商売敵の駅馬車業者によるネガキャンだったらしい。そういう地元に根づいた記憶による登場人物だったかも知れない(Wikipediaカタルーニャ語版「Home del sac」、バルセロナのメディアbetevéの2018.11.26記事などによる)。 [インターネット(字幕)] 3点(2025-02-15 19:31:34) |
8. スパニッシュ・ホラー・プロジェクト エル・タロット<TVM>
《ネタバレ》 「眠れなくなる映画」(Películas para no dormir)という6作シリーズの一つで、原題の「Regreso a Moira」は「モイラへの帰還」(モイラのもとに帰る)である。ホラー映画としてどうかは別として、普通に怖めのドラマとして見れば悪くない。 物語としては、主人公が16歳の頃と現在(多分60歳)の場面が交代しながら進み、最後に統合されていく結末になる。東洋的感覚からすれば還暦ということもあり、主人公はここで人生を見返すべき時期が来ていたのではと思わされる。結果的には人生の清算にまで至ってしまったが、本人の因果で落ち着くところに落ち着いたと思えば、これはこれでよかったのではという気もした。 また魔女かと思われていた人物は、確かに薬草や薬瓶で魔女の雰囲気が出ているが、衣服では白の印象が強調されている。魔女に付き物とされるネコにしても、魔女なら黒ネコのはずが白ネコだったので魔性のネコともいえない。仮に魔女としてもいわゆる白魔女かと思ったが、その後の惨劇により黒魔女化してしまったということはあるかも知れない。 一方で売春営業をしていた場面はなかったようで、主人公は嫉妬のあまり裏切ってしまったが、結末を見ればその時点で少年以外の相手はいなかったのだと思われる。最後は黒魔女の怨念で主人公が死んだように見えたが、あるいはまだ白魔女だった頃に少年の一途な思いに応えようとして、死んでも一緒と予言したのが現実化しただけのようでもあった。 なおこの映画の製作時期にはまだ白=正、黒=邪という感覚が一般的だったろうが、その感覚でいえば序盤で魔女が白い衣服だったのに対し、押しかけた教団連中が黒衣だったのは正邪が逆転したかのような印象があった。白ネコも最後は人と同じく黒焦げにされたのが哀れなことで、まるで邪悪な宗教が無辜の人獣を黒く変えたかのようだった。 ところで終盤の出来事はいわゆる魔女狩りのようで、さすがに20世紀に魔女狩りの名目でやったとも思えないが、宗教的権威を背景にしたとすれば魔女狩り同然ともいえる。これを見ていると前近代の魔女狩りも、私怨で訴えられた人物を寄ってたかって魔女に仕立て上げるようなものだったかと想像させられる。なお字幕に「母親の群れ」とあったのは面白い(皮肉な)表現だった。 この魔女狩りの場面で、死体を見ていた連中の中にいたいけな少女が混じっていたのは少し驚かされた。こんな無惨な死体を子どもに見せていいのかと思ったが、これは人間ではなく悪魔の一種であるから見せても差し支えなく、かえって教育的にふさわしい、と大人が考えたとすれば恐ろしいことである。こういうところにこのドラマとしての皮肉が込められていたかも知れない。 [追記] 魔女狩りの後で敷地内から発見されたのが胎児の死体だったとすると、これは本人のものではなく産婆として処置した他人の子だったのではないか。魔女狩りの時代には、薬草による治療や産婆の業務を行う民間医療者が魔女とみなされることがあったとされているようで、そういったことを背景にした映画だったかも知れない。出産ではなく堕胎に協力していたとすればカトリック教徒の憎悪を買うこともあるかと思った。 [DVD(字幕)] 6点(2025-02-15 19:31:31) |
9. 金星
《ネタバレ》 金星に人類が行くとか地球に何か来るという話ではなく視覚障碍者に関わるドラマである。なお制作側は「障碍者」の表記を使っている。 主な登場人物は視覚障碍者2人(少年・少女)と介助者2人(妹・兄)であり、これに途中で出た男2人を加えれば、日本社会の大部分をカバーしている印象がある。 登場人物のうち、介助者2人は普通に良心的な人々の代表と思われる。うち妹は今回の件で少年への向き合い方を変えていたが、兄の方は終始一貫した態度で安定感があった。カメラの記憶媒体?について少年が「そんなのいらない」と言い放った場面では、この兄が脇から手を出して受け取ったのが適切な行動で安心できた。煙草のマナーはひどい男だったが、これは完璧な人間などいないことの表現か。 また途中の男2人は特に良心など期待できない連中だが(少し差はあったが)、それでも自分に支障のない範囲で他人を助け、自分が世話になれば礼を言う、まずいことをやれば謝るというのを常識にしていて、これで日本の平和な市民社会の構成員に一応なっている。少年も今回は謝ることが大事と受け入れたようだった。 ところで終盤のエピソードで、少年と介助者(妹)が同じ星を見た(見ようとした?)ことの意味はよくわからない。そもそも全天の天体のうち、何で制作側が金星を選んだのかが不明だが(夜中は地平線下で見えないわけだが)、これは金星Venus→愛と美の女神→劇中少女とつながるのなら、発想に飛躍はあるが意味はわかる。 映画のキャッチコピーによると「きれいなもの」がテーマの一つだったようだが、具体的に何を表現したかったのかは疑問である。見せたくないものが見えないことを少女が利用したというのは意図として理解できるが、見たいものを心の目で見ればきれいだ、とまでこの映画が言いたいとすれば観念論の綺麗事に思われる。最初から見えないのなら、きれいかどうかも最初から問題にしない話でなければならないのではないか。終幕時に、人の容姿がきれいかどうかをまともに問うような表現があったのは素直に受け取れない。 真摯な制作姿勢とは認めるが、全部が全部納得できる話ともいえなかった。 出演者では、少年役の演者は熱演だったが少し演技(演出?)過剰ではないか。また少女役の岸井ゆきのという人は当時本当に高校生年代と思うが、ラストで少年に「きれい?」と聞いた顔がきれいというか上から目線の冷ややかな感じで(クラムスコイの「見知らぬ女」風)、このガキんちょが、と見下したようだと思うと少し可笑しい。役者としては少年役より年上だが(学年で4つ)、劇中人物としてもお姉さんとして面倒見てやる立場になるか。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-02-08 13:35:44) |
10. 金星ロケット発進す
《ネタバレ》 アメリカ公開版を見た(81分19秒)。本来はドイツ語だったらしいが全部英語に吹き替えてある。 SF宇宙映画としては、映像的には同時期の「宇宙大戦争」(1959東宝)に勝るとも劣らない印象がある。無重力の様子や、流星群で乗員が翻弄される場面はうまく作っていた。また金星の地表では、光る雲や霧のようなものが流れていくとか、大小の黒玉が積んであって金光りするなどファンタジックな風景が楽しい。物語面では短縮版のせいか、医師と宇宙飛行士の関係性や、医師が月面で体験した悲劇が後に生かされないといった不審な点もあるが、全体的にはわりといい感じの映画と思った。 しかし、そもそも何で日本人が主演なのかなど腑に落ちないこともあり、もとの映画(93分)はどうなっていたのか一応調べた(主にWikipedia英語版、ドイツ語版、ポーランド語版より)。 まずロケットは本来ソビエト連邦が提供したもので、アメリカ以外の全世界が協力して金星に送ったことになっていたらしいが、アメリカ公開版では当然そのような話は隠している。また登場人物の国籍をかなり変えて共産色を排除したようで、もとは船長がソ連人だったのをアメリカ人ということにし、製作国であるポーランドのエンジニアはフランス人に変えてしまっている。同じく製作国である東ドイツの宇宙飛行士(東独空軍の複座練習機MiG-15UTIに乗って登場)もアメリカ人に変えていた。 その一方で、もとはアメリカ人だった人物をオルロフという名前にしてソ連人っぽくしていたが、このアメリカ人はかつてマンハッタン計画に携わった過去があり、その贖罪を志していた良心的な人物だったらしい。さらに原爆の関連では、日本人医師は11歳の時に広島で被爆していて、産んだ子には障害があった(死産?)という悲しい設定のようだったが、そういう広島原爆に関する箇所は全部削除されたとのことだった。 このアメリカ人と日本人は劇中それほど活躍しなかったが、それでも映画冒頭で主演扱いだったのは、もとのテーマに関しての重要人物だったからとも取れる。広島原爆を思わせる人影の場面はかろうじて残していたが、これはテーマの表現というよりも、金星人が人型の生物だったことを示すものとしてSF的に重要と思っただけかも知れない。 原作者としては、もとの映画は政治宣伝色が濃すぎて気に入らなかったらしいが、少なくとも日本では、広島原爆のことを前面に出して公開していれば好意的に受け取られたのではないか。たとえていえばこのアメリカ公開版は、本家「ゴジラ」(1954)を都合よく編集した「怪獣王ゴジラ」(1956米)のようなものかという気もしたが、しかしもとの映画のままであれば、広島原爆を共産圏のプロパガンダに都合よく使われたように見えたかと思ったりもする。 そのようなことで迷った結果としてどっちつかずの点数にしておく。 [インターネット(字幕)] 5点(2025-02-08 13:35:36)(良:1票) |
11. みぽりん
《ネタバレ》 前から名前が目についていたので見るかと思っていたが、見ないうちに何となく見づらい雰囲気になってしまった。映画と直接関係ないが、2024.12.6に逝去された中山美穂氏に哀悼の意を表する。 実際見ればそれほど変な映画でもなくアイドル論を語っているのかと思ったが、終盤に至ると物語の全部が崩壊したようになる。しかし全部が崩壊したようでもアイドル論は残ったので、要はアイドル論の映画として筋が通っていたと解される。 自分としては全部が崩壊すること自体を面白がることはできないので、これは全部が崩壊した後に残ったものを際立たせるための趣向だったと思っておく。登場人物もふるいにかけられたようで、最後まで残ったのが本当の重要人物だったと見える。 アイドル論としては、いわゆる「会いに行けるアイドル」より前の古風なアイドル観がボイトレ講師にはあったらしい。変質した現代のアイドルには嫌悪を感じていたようだが、その元凶になったものを象徴するのが劇中の秋○プロデューサーかも知れない。物語の崩壊というよりアイドル観の崩壊の話だったか。 ボイトレ講師は昔からの夢だったアイドルを最後に演じて本望だったろうが、実はそれは自分の信じたアイドル観の崩壊が前提だったのではないか。例えば声優アイドルは配偶者がいてもなおアイドルだったが、ボイトレ講師の場合は年齢の上限なくアイドルたりうることの表現になってしまっている。本人のアイドル観に反してまで(多分)人生の望みを果たしたわけで、それで最後は自分の信念に殉じる形で自決したと思っておく。 全体として、何で今どきアイドルの話かとは思うが意外にそれほどバカ映画でもなかった。 その他個別事項 ・公式サイトによれば、劇中のアイドルグループは声優アイドルユニット「Oh!それミーオ!」だそうである。主な出演者は大阪の「澪(みお)クリエーション」という声優・俳優プロダクションの所属だが、ここは声優寄りの事務所のようで、この映画にもボイストレーナーや声優アイドルが出るのはその関係かと思った。 ・低予算の自主制作だが役者はちゃんとして見える。登場人物では、個人的にはこずえちゃん推しだ(演・合田温子)。関西のオバちゃんも笑った。 ・ボイトレ講師の台詞で2023年末の紅白の放送事故を思い出したが浜辺美波さんを悪くいうつもりはない。 ・市民税の話がやたらに出ていたのは、芦屋は市民税が高いという噂?冗談?がこの周辺地域で語られているからではないか。本当かどうかは芦屋市公式サイトのFAQに書いてある(最終更新2024年11月15日)。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-01-25 20:39:09) |
12. てぃだ いつか太陽の下を歩きたい
《ネタバレ》 石垣島を舞台にした映画である。同じ監督が撮った「サンゴレンジャー」(2013)に続く石垣島映画第2弾とのことで、この映画にも出ていた架橋計画(石垣島~竹富島、架空)はその映画の要素を持ち込んだらしい。 石垣島の風景や事物も大きく扱われているが、場所のイメージに反して陽性の映画では全くないので予想が覆される。現実問題として南の島(南ぬ島)ではいいことばかりということも当然ないわけで、そういう一般常識に基づいた南の島映画の試みとはいえる。 物語は東京(と埼玉)の場面から始まるが、どうせ島では自然と人に癒されるのだろうし、暴力の場面など見たくないのでさっさと石垣島へ行けと最初は思っていた。 しかし意外だったのは、主人公が着いていきなり犯罪被害に遭い、その後に友好的な人々に助けられてからも、なかなか不安感が解消されずに話が進むことだった。ちなみに実在のタクシー会社(協賛もしている)を犯罪がらみの扱いにして大丈夫だったのか。 またさらに意外だったのは、ジャンルにも「サスペンス」とあるがミステリー調の作りになっていたことで、後半では暴行事件や殺人事件まで起き、最後は犯人を前にして真相を暴くのが探偵物のようだった。なお途中で登場人物がいきなり豹変したように見えたのは、安手のヒトコワ系ホラー的な都合良さもあったりしたがまあ許容範囲か。 主人公はこれで南の島への期待が砕かれて、さらに身内も失ったことでいよいよ決意を固めたらしい。当初からのマイナス要因も切り捨ててゼロになり、ここでやっと題名の希望をかなえるためのスタート地点に来たという結末だった。これから長距離走になると思われる。 結果として "南の島なら何とかなる" ではなく "自分が何とかしなければ" という映画だったようで、主人公の悲壮な決意に心打たれるラストだった。 出演者について、主演の馬場ふみかという人はほとんど笑顔も見せず、ずっと(果物ナイフ以外)頼りない表情で、かろうじて終盤に少し締まった顔になるが、こういう役柄にこの人の風貌は結構向いているかと思った。驚いて目を丸くする顔も特徴的かも知れない。また中村静香さんは救いの天使かと思ったが、当然ながらかわいいばかりでなくそれなりに黒い人物像を見せている。 その他目についたのは喫煙に関することで、今どき露天の喫煙所でコミュニケーションを取って「一本貸し」などという場面は懐かしさを感じる。中村静香さんがひっきりなしに煙草を吸う役というのも面白かった。 [インターネット(邦画)] 7点(2025-01-18 20:31:04) |
13. あまのがわ
《ネタバレ》 福地桃子という人の初主演映画とのことで見た。いい表情を見せている場面が多く、太鼓の叩き方もかなり様になっている。 屋久島が舞台なので現地の風景がいろいろ出るが、個人的には石置き屋根が珍しかった(うちの地元にも昔は多かった)。ペンション「マリンブルー屋久島」の沖に見えたのは隣の口永良部島と思われる。船の行き帰りに映していたのは薩摩の開聞岳か。 また隣の種子島も話題に出して、屋久島は丸い/自然の島/主人公/生命を守る医師、種子島は細長い/技術の島/相手の男/工学オヤジという対応関係を作っている。「技術の島」というのが種子島宇宙センターかと思ったら鉄砲伝来だったのは意外だった。 ほかロボットはなかなかよくできていると思ったら、分身ロボット・OriHimeとして既に製品化されているとのことで、そのプロモーション的な意味のある映画だったらしい。ロボットがAIでないのに母親がAI研究者という設定なのは変だが、これは母親との関係でAIと思い込んだからこそ主人公も心を許せたと解される。 物語としては、定型的な人物設定とか都合よすぎる展開はあるが個別に心打たれる箇所もある。主人公がロボットを飛ばしたいと言ったところでは、なるほどそれはいいことだと単純に嬉しくなった。また相手の男が「自分だからこそできることがある」と言ったのは、そうだそうだと思って少し感動した。なお親友が捨て石のように終わったのは残念だった。 マイナス面は結構あるが、福地桃子さんの存在感と心優しい登場人物のおかげで全体の印象は悪くなかった。 ところで最大の疑問点は、映画の構成要素である①太鼓、②分身ロボット、③屋久島、④天の川(織姫・彦星)が、どういう必然性をもって一つの映画に入っているのかわからないことである。これに関してクラウドファンディングの目論見書を見ると、構想に至る経緯により当初から②と③④がセットになっていたようで、①はその後に追加した要素らしい。 また劇中で各種さまざまな思いが語られるのも雑多な印象だが、その中で個人的には特に、孤立せずに他者とのつながりを作るのが大事と言いたいのかと思った。一方で目論見書では「新しい世界に踏み出」せというメッセージを伝えたかったとのことで、どちらも主に上記②関係のようだが、完成した映画では①にも関わるようにして辻褄を合わせていた。これで全体構造が何となくわかった気はする。 その他雑談として、浜辺で天の川を眺める場面では「夏の大三角形」が映っていたが、この映画としてはヴェガとアルタイルが重要なはずなのに画面の下の方に寄っていたのは変だ。一方で上に見えるデネブには言及がなかったが、深読みすれば上の方から2人を(主人公寄りで)見守っている人物がいたということで、個人的には水野久美さんの演じる祖母がこれに当たると思っておく。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-01-18 20:31:03) |
14. ヤツアシ
《ネタバレ》 芸能プロダクション「テロワール」が主催する「短編映画ワークショップ」で制作された映画である。これは「初心者から演技経験を重ねたい俳優まで」幅広く参加を募り、若手監督を講師に迎えて全員出演の短編映画を3カ月で製作するもので、完成品はYouTubeやAmazonプライムビデオなどで公開し、ものによっては映画祭への出品も行っている。公式サイトで数えた限り、2016年の開始からこれまでに27本くらい完成しているようだった。 この映画は「ネズラ1964」などで知られた監督により、ワークショップ初の特撮映画として2021/8/5に完成が発表され、現在はYouTubeとアマプラで公開されている。なお必ずしも出演者全員が一般参加ということではないらしく、主人公役を含む3人がプロダクションの所属俳優とのことで、また監督の映画に常連で出る役者も入っている。 内容に関して、ストーリーとしては極めてストレートに展開し、何の捻りもなく簡単に終わる。頻繁にテロップを入れて事情を説明するので話が早い。ちなみに特別出演の古谷敏氏は内閣総理大臣役で出演されている。 物語がどうとかいうより特撮が売りなのかも知れないが、特撮といっても「ネズラ1964」で使ったミニチュアセットに生のタコを這わせるのが基本で、昭和特撮へのオマージュとはいえるがただのタコである。映像で少し目についたのはガラス戸に吸盤が張りついた場面と、人間の裸体にタコをからみつかせる趣向くらいだった。 演技者育成という目的には貢献したのかも知れないが、見る側からすればやっつけ仕事のようで泣きも笑いもしなかった。もう少し笑えるかと思ったが。 その他どうでもいいことだが、冒頭説明でのクラーケンはいいとして次のCetusはギリシア語でなくラテン語であり(天文用語では「くじら座」)、その正体がタコとは思われていない。日本神話の八足というのは意味不明である。 またTVニュースでタコが「豊洲に甚大な被害をもたらし、現在、東京都江東区に進行」と言っていたが(豊洲も東京都江東区だろうが)、豊洲では不動産業界への八つ当たりという形にして、タワーマンションに登るとか倒すとかいう場面を入れれば見せ場になったはずだ。そこまで手間と金をかけるものでもなかろうとは思うが。 [インターネット(邦画)] 2点(2025-01-11 13:24:49)(良:1票) |
15. ネズラ1964
《ネタバレ》 ガメラシリーズの前に大映が企画した特撮映画「大群獣ネズラ」が、制作途上で悲惨な状態に陥って断念する過程を描いたドラマである。劇中映画会社は「太映(たいえい)株式会社」という名前で、登場人物も実際の関係者を想定していたらしい。気色悪い助監督は後のガメラシリーズを担った湯浅監督に相当するとのことだった。 ネズミが多数出演するが、尻尾が長いので愛玩用ドブネズミの「ファンシーラット」というものと思われる。全部に名前がついていたようで、どこからかペットを借りて集めたと想像される。 ジャンルとしてはドラマだが、劇中映画の特撮映像が入るので特撮映画としての性質もある。ミニチュアの中に本物のネズミを置くだけだが、逃げる人とネズミを合成した映像などはなかなかうまくできていた。ネズミに襲われた電車の中に人影が見えたのはガメラシリーズの例に倣った趣向と思われる。また背景音楽は、TV番組「ウルトラQ」や東宝の変身人間シリーズ(電送人間、ガス人間第一号といったもの)をイメージさせた。 ドラマとしては特にどうということもなく粗筋通りに終わりになるが、途中の経過は実際の出来事をかなり反映させていたようで、最後はこの経験をガメラシリーズにつなぐ形で未来の希望を持たせていた。「回転ジェット」の発想の原点がネズミ花火との説も本当にあるらしい。 なお終盤に再登場した抗議団体のリーダーも、苦情とは別に映画会社を励ます言葉をわざわざ述べていたので、その後はガメラシリーズのファンになったかも知れない。 基本は真面目な映画だが、明らかにふざけているのがテーマ曲である。マッハ文朱氏が歌う主題歌「ネズラマーチ」は昭和のガメラマーチ風、またエンディングテーマ「大群獣ネズラ」は戦隊シリーズやメタルヒーローを意識したもので、迷惑な害獣をヒーロー扱いした歌詞なのが笑わせる。「小さな命」という言葉(「電子戦隊デンジマン」テーマより)をネズミに転用したのは上手い。 キャストは昭和・平成ガメラなど特撮の出演者が何人か出ているが、個人的には若手女優役の小野ひまわりという人が、「小さき勇者たち ガメラ」(2006)の「赤い石を運ぶ少女」役だったのは感激した。また造形作家役がガメラ第1作の少年というのも意外だった。 KADOKAWAも企画協力して大映~角川を中心にしながらも、東宝・東映系も含めた特撮全般に向けた愛が溢れていて、その筋の人間としては嫌いになれない映画だった。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-01-11 13:24:47) |
16. 大怪獣グラガイン
《ネタバレ》 監督が大学3年の時に撮った自主製作映画だが、全体構成が面白いことと特撮を頑張っていること、及び怪獣映画への愛が感じられたことで悪くないと思った。こんな素人映画が現在まで残ってAmazonプライムビデオで公開されているのもわからなくはない。 ドラマ部分の撮影場所は、博多のカメラ専門店や九州大学が出ていたので福岡市ということになる。劇中の「神ヶ崎市」は製鉄都市とのことで北九州市、大学のある「岩城市」が福岡市に相当するらしい。なお九州大学には工学部と別に芸術工学部というのがあるそうで、なかなかユニークな人材を育成しているようである。 内容としては、ゴジラ型怪獣の襲来から後日談に至る一連の出来事が、レベルに差のある2系統で表現されている。 ①劇中の大学生が学園祭用に制作したフィルム おふざけレベルの演技と特撮(ミニチュア+パペット)、ただし怪獣の動きはけっこう生き物っぽく作ってある。 ②劇中で実際に起きた出来事の描写 普通に素人レベルの演技と頑張った特撮(3DCGなど)、ここはリアルに作ろうとしている。力の入ったビルの倒壊映像と、山中から煙の上がる風景はなかなかいい。怪獣場面はほとんど夜で暗いのでよく見えないが、ディスプレイを明るくするとそれなりにできているのが見える。怪獣の足音とともに車を揺らしていたのもちゃんとできている。 全体構成としては導入部が前記①、本編が②、エンディングがまた①となって、なるほどそういうことだったかという感慨を残す。ドラマ的には、大学生4人は故郷の街(福岡市に相当)を守るために実際やれそうな範囲で奮闘したが、その功績が世間に知られることはなく、せめて①により記録に残した形になっている。怪獣対策の実行役ではなくカメラ担当の記録係を主人公にしたのは、怪獣よりも映像制作の方が重要テーマだったことの表れに思われる。 その他、映像に出た国土地理院の地図はなぜか高知県安芸市の山間部だったが(何で?)、ここはせっかくなので犬鳴トンネル(名所!)の辺の地図を使えなかったか。また夜の車中で、怪獣の足音が迫っているのにバカ話をしているのは本当にバカかと思ったが、これは恐怖を紛らわすためにあえてやっていたらしいことが結果的にわかった。好意的に読み取ってやろうとすることが大事だ。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-01-11 13:24:46)(良:1票) |
17. 銀座カンカン娘
《ネタバレ》 戦後4年目の映画だが、すでに多くの人々が普通に市民生活をして夜の銀座も栄えている。ただし戦災孤児や生活苦の話も一応あり、そもそも家族構成にも戦争の影響が見えていたかも知れない。カンカン娘というのがどういう意味か説明はなかったが、当時多かったパンパンガールに対する感情を表現したらしい場面はあり、台詞でも「カンカン」「パンパン」の対比がなされていた。 内容としては歌謡映画ということで、ノリのいい題名の歌を聞かせるほかにミュージカル風の場面もあり、正規の合唱曲が出る場面もあったりして各種の歌が入っている。歌以外では著名な落語の師匠が出演して、終幕部分を落語で締めたのは意味がよくわからなかったが、これは現代歌謡+伝統芸能(+映画も?)のコラボレーションによる総合娯楽映画だったのかと結果的に思った。 コメディなので笑わせる場面が多く、大男が日本家屋に入ると物が落ちたり倒れたりする趣向がやたらしつこいので笑った。また女児の言動がユーモラスで「たびたびすみませんねえ」は大笑いした。ポチが「腐ったような犬」というのもひどい言い草だが、映画に出るくらいなので賢い犬と思われる。このポチも雰囲気を和ませる重要キャラクターだった。 物語の面では、主人公が「流し」の経験により芸術に対する考え方を変えていて、これは映画会社が違うが2年後の「カルメン故郷に帰る」(1951)に通じるものがある気もする。また主人公の相手の男が、喧嘩でわざとやられていたのは戦後らしい非暴力の訴えのようでもあるが、ただし一度は強いところも見せていたので、守るべきものを守るために躊躇はないということらしい。 全体的には、これから希望の未来があるとまではいえなくても、前向きにやっていればそれなりに道が開ける、と思わせるような朗らかさのある映画だった。 その他に関して、主人公宅の周辺は畑や林や野道があって一体どこなのかと思う。少し歩けば町らしくなるので東京の周縁部だろうが、これは制作会社の撮影所付近と考えるのが普通のようで、世田谷区の小田急沿線だと思われているらしい。丘の上から家並みが見えて電車の走る場所は、梅ヶ丘駅近くの羽根木公園(当時の通称・根津山)と推定されているようだった。 またどうでもいいことだが、2階と屋外で歌を交わす場面で出ていた「サンタルチア」の替え歌で「何たることぞ、さらば往かん」という歌詞があったのは、後世のオヤジギャグ「なんたるちあサンタルチア」に先駆けた発想かと思った。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-01-04 16:07:08)(良:1票) |
18. 震える舌
《ネタバレ》 中野良子さんを憧れのおねえさんと思っていた時期があったので、この映画もいつか見るつもりでいながら見ていなかった。この映画の存在で、破傷風は恐ろしい病気だということを昔から擦り込まれた気がしていたが、映画自体は見ないで思い込んでいただけということである。 原作の後書きによれば作家の実体験をもとにしたそうで、登場人物のうち夫/父親が作家本人に相当することになる。 内容的にはホラーらしいところは何もなく、原作通りの家族闘病記である。公開に当たっての宣伝文句では「監督 野村芳太郎が推理映画から新しい恐怖映画へ挑む!」と書いてあり、今風にいえばミステリーからホラー分野に進出したと宣伝したために、ホラーという見方が変に定着してしまったのかと思った。 幼い子が体験するにはあまりに悲惨な場面が多いが、文章に書かれたことを映像化すればこうなるという範囲であって特に映画的な誇張はない。逆に原作では父親が時々幻覚を見ているような記述があり、これを映像化すれば変に超自然的な印象の映画になっただろうが、映画では疲れた父親が見た夢の範囲に収めてある。 物語の展開もかなり原作に忠実で、「小児科がやったにしてはきれいに切れてる」とか、胃の内容物を吸引しようとして詰まったが何とかしたという細かいことまで拾っている。違う点としては母親の精神的危機が強調されていることと、何とか抑えていた父親が最後に取り乱す場面が入れてあり、これで映画的な盛り上げを図ったようだった。 全体的にテーマ性はあまり目立たないが、この映画としては病気をきっかけにして家族のつながりを再確認したということだと思っておく(子はかすがいという意味か)。夫婦それぞれ死力を尽くして戦ったようでいて、本当に病気と対決したのは娘だったと気付いたのがポイントかも知れない。キワモノのような宣伝をしておいて、実際は極めて真面目な映画だった。 なお原作者としては、1970年段階での破傷風治療の記録になればと思ったそうだが、この映画は10年後のため若干ましに見える。現在は救急医療の体制も含め、当然さらに改善されているはずである。 登場人物では、中野良子さんの真摯で冷静な医師役に見とれていた。また子役の人はスタッフが虐待して泣かせたのではなく、本人が自分のなすべきことをわかってやっていたのだろうから感心させられる。よくあんな声を出せるものだと思うが、子を育てる立場の人々なら聞くに堪えないのではないか。 [インターネット(邦画)] 6点(2024-12-28 19:30:00) |
19. 君よ憤怒の河を渉れ
《ネタバレ》 中野良子さんが出ているので10年前に一度見たが、時間が長く荒唐無稽な場面ばかりで何を面白がればいいのか全くわからなかった。今回改めて見ると一応面白くなくもなかったが、決着の付け方があまりにも適当な上に「終わりはない」も意味不明で(また逃げる?)、娯楽映画としてはともかく納得のいく話ではない。 ドラマの面では特に、いきなり射殺していいほどの悪とは何だったのか説明がついていない。製薬業者と医師が結託した悪事は悪魔的だろうが、爆弾テロリストの排除まで悪とするなら同調できない。なお黒幕の政治家は韓国に行くと言っていたが、これは当時の軍事政権との関係を思わせるものがあり、反共ということで筋を通す人物だったかも知れない。共産主義勢力からすれば存在自体が悪となる。 世間で問題視されている点に関しては、 ○変な劇伴音楽は、ロードムービー場面のテーマと思っていればそのうち慣れる。しかし病院で突然また流れ始めたのは完全に意図不明だった。 ○クマは、この程度の出演なら着ぐるみでごまかせると思ったのであれば、当時の感覚としては変でないかも知れない。 ○いきなりの飛行機について、牧場主が「死に向かって飛ぶことが必要な時もある」と言ったのは、本人の年代からして戦時中に飛行兵の経験があったのかと思った。そういう人物がやれと励ますのなら大丈夫かという説得力と、大滝秀治氏の顔の説得力もあり、今回はそれほど変には思わなかった。 なお原作との関係では、次々起こる派手な出来事により主人公の内面が変化し、逃亡者としての覚悟が定まっていく様子が映画では見えなくなっているのが問題かと思った。ちなみに原作のヒグマは物語の行方に関わる重要キャラクターとして登場する。また映画では、わかりやすい悪として右翼の政治家を出して来たのが安易な印象で、原作本来の業界+官界の悪という社会派的な意図が薄れてしまっている。 登場人物では中野良子さんの、主人公を助けるために騎馬で駆けつけるヒロイン像が格好いい。濡れ場がいいかどうかは別として、「あなたが好きだから」とか父親に抱きつくとかの直情的な場面は好きだ。なお警察を阻止するために肌を露出したのは、原作でヒグマ除けとして言及された風習(ホパラタ)の応用と思われる。 そのほか、牧場のTVの上にクマの木彫りが置いてあったが、北海道ではどこの家にもこれがあるのか。また情の深い街娼の場面は、立川が基地の街だった頃の風情を出していたようだった。点数は、原作を6点として映画は落としておく。 [インターネット(邦画)] 4点(2024-12-28 19:29:58) |
20. 更けるころ
《ネタバレ》 夜の路傍の喫煙所で展開する若い男女の会話劇である。二人とも最後まで敬語だったが、「おねえさん」は本当に少し年上のような感じで(背も高い)、男の方は年上に対する敬語、おねえさんは他人行儀の敬語と思われる。 おねえさんは、おねえさんらしく各種経験値で男に差をつけていて、認識レベルも男の上を行っていた感じだった。例えば「普通」に関して、男の方は自分の思う普通を普通というだけだったが、おねえさんは世間でいわれる普通が何かわかった上で、あえて既成の普通を否定していたようである。また寂しいと幸せの同居に関しては、特別な誰かがいなくても自分で自分を幸せにできるはず、という助言かと思った。 男は再会を期待していたようだが、おねえさんはこの男から特に得るものはないだろうから特に来る気もないと思われる。男の方は、仮にこれでお別れだとしても今回教えてもらったこともあり、とりあえず「さよならの質」を上げた結果になったはずだ。おねえさんの方も所見を披歴できて悪い気はしなかったのではないか。基本的に人と出会って話すこと自体は悪くない。 そういうことを一応思ったが、監督本人は深読み不要というようなことを書いていたのであまり突っ込んで考えなくていいらしい。ちなみに登場人物は暑いと言っていたが、夏の夜の空気感が映像からは伝わらない気がした。虫の声はしていた。 [付記]どうでもいいことだが、撮影場所でおねえさんが去った方向に本当にコインランドリーがある。リアルな劇中世界だ。 [インターネット(邦画)] 6点(2024-12-21 09:42:44) |