1. チャイナ・シンドローム
《ネタバレ》 チャイナ・シンドロームとは、原子力発電所で起こり得ると考えられる事故の最悪のものを言い、原子炉内部の高熱を事故でコントロール出来なくなり、発電所そのものがドロドロに溶解し、巨大なマグマの塊となって、それ自体の重量でどんどん地中に沈んでいき、地球を貫き、遂にはアメリカの反対側の中国に突き抜けてしまうだろうというところから来ているんですね。 この映画「チャイナ・シンドローム」の公開の前年には、我が日本でも黒木和雄監督の「原子力戦争」でも、ある原子力発電所で、それに至る可能性を含んだ事故が起こったことを、告発しようとした技術者が消されるというシチュエーションを扱っていましたが、このアメリカ映画もまた似たような着眼で作られていますね。 これは、偶然の一致というよりも、原子力発電の安全性に危惧を抱く者は誰でもそのことを考えるのだと思います。 ただ、日本では、それを余り評判にならないATG映画の低予算の小品でしか作れなかったが、アメリカでは、さすがに堂々たるメジャーのエンターテインメント作品として作り上げることに成功していると思います。 そこに、映画人の発想のスケールの違い、ひいては、民主主義の成熟度の違いがあり、また、それを支える原子力発電反対の層の厚さの違いもあるのだと思います。 もっとも、この映画がアメリカで大きな話題になり、興行的にも成功した要因として、封切り三週間後の1979年3月28日、ペンシルヴェニア州スリーマイル島の原子力発電所の二号機が事故を起こし、地域の住民が被曝するという、原発事故としては最大級の事件となり、大統領が自ら対策の指揮に当たるという事態になったからなんですね。 最悪の場合、穴が中国に届くというのはオーバーであるにしても、アメリカ国土の相当の部分が死の灰に覆われる可能性があったと言われ、人々は改めてこの映画に注目したのだと思います。 主演のジェーン・フォンダは、当時から反体制運動の活動家として有名ですが、この映画でも彼女自身がそうであるような役を演じていますね。 ロサンゼルスのテレビ局のニュース・キャスターのキンバリー・ウエルズ(ジェーン・フォンダ)は、ある日、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)と録音係を伴って、原子力発電所の取材に出かけたところ、突然、所内に振動が起こり、制御室が大騒ぎとなった。 放射能漏れがわかり、原子炉の運転が停止される。 キンバリーは、この騒ぎをフィルムに収めるが、局の上司に押さえられ放送されなかった。 不満なリチャードは、フィルムを密かに隠し持って物理学者に見せたところ、もう少しでチャイナ・シンドロームになるところだったと聞かされる。 一方、原子力発電所の技師ジャック・ゴーデル(ジャック・レモン)は、原子炉の運転が再開されたものの、なお不安を隠し切れず、調べたところ、事故の原因が建設当時、パイプ結合部を担当した業者の手抜きにあることを突き止め、真相を隠そうとする上役に反対して制御室を占拠し、言うことを聞かなければ、核物質を漏らすと脅し、キンバリーたちテレビの取材班に真相を発表する。 発電所側は、ジャックを騙して射殺し、真相を闇に葬ろうとするが、キンバリーたちは勇気を持ってそれを発表するのだった。 この映画は、こうした時代の核心を鋭く突いた、社会派映画の秀作だと思います。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2023-11-07 18:30:55) |
2. コーマ
《ネタバレ》 ジュヌビエーブ・ビュジョルドの健気な頑張りが楽しめる医学ミステリーの映画化作品。 この映画「コーマ」の原作は、ロビン・クックの医学ミステリーで、脚色と監督は、アクション小説を書き、SF小説も書き、医学ミステリーも書くベストセラー作家で医学博士でもある才人マイケル・クライトン。 ヒロインは、ボストン記念病院に勤める若い外科医(ジュヌビエーブ・ビュジョルド)で、高校時代からの親友が、簡単な手術なのに麻酔から醒めず、コーマ(昏睡)の状態のまま、死んでしまいます。 そして、次の日にも若いスポーツマンが、手術の原因不明の失敗でコーマに陥り、ジェファースン研究所という、植物人間の療養施設に送られます。 これらの事に不審の念を抱き、過去にコーマの患者が意外に多いのを知って、原因究明に乗り出す女医のジュヌビエーブ・ビュジョルド。 越権行為だと怒られたりしながら、それでも調査を続けると、命を狙われて、夜更けの病院内を必死で逃げ回ったり、換気口の長い梯子をよじ登ったり、果ては救急車の屋根に腹ばいになって逃走したりと、まるで女ジェームズ・ボンドといった大活躍をするので、楽しくてしかたありません。 しかも、このビュジョルドさん、小柄な体に思い込んだら命がけという、ヒステリックな目つきをして脅えながら走り回ったりするので、もうその健気で必死の頑張りには、手に汗を握ってハラハラしながら、応援したくなってきます。 彼女がほとんど出ずっぱりのひとり舞台なので、おかげで他の俳優さんたちは、演技のしどころがなくなって、気の毒になってきます。 彼女には同じ病院に勤める外科医の恋人(マイケル・ダグラス)がいて、彼女の引き立て役的な存在です。 そして、外科部長になるリチャード・ウィドマークが、なかなかいい味を出していて、老優、衰えず、さすがの存在感を示しています。 マイケル・クライトン監督の演出は、前半部分がかなり単調で、ラブシーンもどことなくぎこちない感じですが、さすがにスリラーとしての場面では、冴えた演出をしています。 ビュジョルドに情報を提供しようとした機械室の職員が、電流で殺されるシーンは、ハッタリが効いていて、なかなか凄まじいものがあります。 その犯人に追いかけられて、夜更けの病院内を逃げ回ったあげく、ビュジョルドが必死の反撃をするシークエンスが特に素晴らしい。 それが三分の二あたりまで進んだところで、次にジェファースン研究所へ入り込むシークエンスは、コーマの患者をワイア・ロープで吊って、宙に寝かしてある病室が、SF的風景で非常に面白いのですが、ここでの追いかけ回されるサスペンスは今一の感があります。 そこで、最後に真相がわかって、ボストン記念病院でのクライマックスになるわけですが、そこのサスペンスの演出もやはり今一なので、映画全体として尻すぼみの感じがします。 もし仮に、アルフレッド・ヒッチコック監督だったら、もっとうまく演出するのになあ---などと無いものねだりをしながら観ていました。 しかし、病院内をビュジョルドが逃げ回る場面では、拳銃を持った相手を、彼女が死人の応援でやっつけるというところは新手の手法で、一見の価値がありましたので、このようにもっと映画の細部にまで気を使って、小味なスリラーに徹すれば良かったのに、マイケル・クライトン監督のハッタリ性が、邪魔をしたような気がして残念でなりません。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2023-11-07 18:23:24) |
3. ブリキの太鼓
《ネタバレ》 この映画「ブリキの太鼓」は、奇想天外で挑発的な映画的陶酔を味わえる珠玉の名作だと思います。 映画「ブリキの太鼓」は1979年のカンヌ国際映画祭でフランシス・F・コッポラ監督の「地獄の黙示録」と並んでグランプリ(現在のパルムドール賞)を獲得し、また同年の第51回アカデミー賞の最優秀外国語映画賞も受賞している名作です。 原作はギュンター・グラスの大河小説で二十か国語に翻訳されていますが、あとがきの中でグラスは、この小説を執筆した意図について「一つの時代全体をその狭い小市民階級のさまざまな矛盾と不条理を含め、その超次元的な犯罪も含めて文学形式で表現すること」と語っていて、ヒットラーのナチスを支持したドイツ中下層の社会をまるで悪漢小説と見紛うばかりの偏執狂的な猥雑さで克明に描き、その事がヒットラー体制の的確な叙事詩的な表現になっているという素晴らしい小説です。 この映画の監督は、フォルカー・シュレンドルフで、彼は脚本にも参加していて、また原作者のギュンター・グラスは、台詞を担当しています。 原作の映画化にあたってはかなり集約され、祖母を最初と最後のシーンに据えて全体を"大地の不変"というイメージでまとめられている気がします。 そして映画は1927年から1945年の第二次世界大戦の敗戦に至るナチス・ドイツを縦断して描くドイツ現代史が描かれています。 この映画の主要な舞台は、ポーランドのダンツィヒ(現在のグダニスク)という町であり、アンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画の名作「大理石の男」でも描かれていたひなびた港町で、この町は第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により国際連盟の保護のもと自由都市となり、そのためヒットラー・ナチスの最初の侵略目標となりました。 まさにこの映画に出てくるポーランド郵便局襲撃事件は、第二次世界大戦の発火点になります。 そしてこの映画の主人公であり、尚且つ歴史の目撃者となるのが、大人の世界の醜さを知って三歳で自ら1cmだって大きくならない事を決意して、大人になる事を止めてしまったオスカルは、成長を拒否する事によって、ナチスの時代を"子供特有の洞察するような感性と視線で、社会や人間を観察していきます。 オスカルは成長が止まると同時に、不思議な超能力ともいうものが備わり、太鼓を叩いて叫び声を発すると居間の柱時計や街灯のガラスが粉々に割れたりします。 この奇声を発しながらブリキの太鼓を叩き続けるオスカルの姿は、ナチスによる支配下のポーランドの歴史そのものを象徴していて、フォルカー・シュレンドルフ監督は、原作者のギュンター・グラスの意図する二重構造の世界を見事に具現化していると思います。 超能力などの非日常的な要素を加味しながら、ポーランドの暗黒の時代を的確に表現した映像が、我々観る者の脳裏に強烈な印象を与えてくれます。 その暗いイメージは、特に海岸のシーンで象徴的に表現していて、不気味な映像美に満ち溢れています。 オスカルは、ドイツ人の父親を父として認めず、ポーランド人の実の父をも母を奪う男として受け入れません。 この二人の父親は、オスカルが原因となって不慮の死を遂げ、また気品と卑猥さが同居する母親も女の業を背負って狂死します。 この映画の中での忘れられない印象的なシーンとして、第二次世界大戦下、オスカルの法律上のドイツ人の父親は、ナチスの党員になり、パレードに参加します。 そのパレードの最中に威勢のいいマーチがファシズムを讃え、歌いあげる時、演壇の下に潜り込んだオスカルが太鼓を叩くと、マーチがワルツに変わってしまい、ナチスの党員たちまでが楽しそうにワルツを踊り始めるというシーンになります。 この意表をつく映像的表現には、まさに息を飲むような映画的陶酔を覚えます。 このダンツィヒは、歴史的には自由都市でしたが、ポーランドの領土になりドイツ人の支配を受け、その後、ソ連軍によって占領される事になります。 オスカルは戦後、成長を始めましたが、若い義母と一緒に、列車で去って行く彼を郊外から一人で見送る祖母の姿に、ポーランドという国が抱える拒絶と抵抗と絶望との暗い時代を暗示しているように感じられました。 尚、主人公のオスカルという子供が成長を止めたというのは、第二次世界大戦下、ナチス・ヒットラーの暗黒時代をドイツ国民が過ごした事の象徴であり、撮影当時12歳だったダーヴィット・ベネントのまさに小悪魔的な驚くべき演技によって、見事に表現していたように思います。 とにかくこの映画は、全編を通して奇想天外で挑発的であり、映画的陶酔を味わえる、まさに珠玉の名作だと思います。 [DVD(字幕)] 10点(2023-08-28 08:59:54) |
4. 八甲田山
《ネタバレ》 指揮権の所在と責任の明確化、指揮官の資質と判断力の重要性、周到な調査と準備の必要性などと共に、大自然に対する畏敬の念の重要性をも考えさせられる映画が、この「八甲田山」だと思います。 この映画「八甲田山」は、「砂の器」に次ぐ第二作として、橋本プロダクションが東宝映画と製作提携した作品で、脚本は橋本忍、監督は「動乱」「海峡」の森谷司郎、原作は新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」。 昭和49年2月にクランクインしてから、3年余の歳月と7億円の製作費と30万フィートを超すフィルムを費やして完成された、当時の日本映画界にあっては未曾有の超大作です。 この映画のテーマについて、森谷司郎監督は、「厳しい自然と人間の葛藤を通して、人と人との出会い、その生と死の運命を描かなければならない。自然の思いがけない不意打ちと、それに対応しようとする人間の闘い、その強さと、胸にしみるような悲しさを八甲田山中の、人間を圧倒するような量感で迫ってくる雪の中で、アクティブに描きたい。それには映画のもつ表現力が、もっとも強く迫ることができるにちがいない」と語っています。 原作と映画を比較する事は、もともと芸術の分野が違っているので適当ではないかも知れませんが、雪におけるこの原作と映画の表現に差がある事を、原作者の新田次郎は認めています。 彼は、雪に対する"筆の甘さ"に対して、「この映画は、雪を完全にとらえることができたから、雪を背景として起こった人間ドラマを完全に映像化することに成功したのであろう」と率直に語っています。 地吹雪、雪崩、その雪の中の絶望的な彷徨を、厳しく、しかも美しく描き出した映像には、この映画に参加した人達の肉体の限界に迫る苦労が、そのままにじみ出ており、芥川也寸志の音楽をバックに映画のもつ圧倒的な表現力が生かされているように思います。 日露戦争直前の明治35年1月21日、弘前を出発した第31連隊の徳島大尉(高倉健、実名は福島泰蔵大尉)の率いる部隊は37名、その大半が士官であり、十和田湖を迂回して八甲田山に入る10泊11日間、240kmの行程は無謀に見えましたが、綿密で周到な準備と道案内によって万全が期せられていました。 一方、1月23日に青森を出発した第5連隊の神田大尉(北大路欣也、実名は神成文吉大尉)の率いる部隊は211名、2泊3日、50kmの行程は一見容易に見えましたが、混成の部隊であり、第二隊長山田少佐(三國連太郎、実名は山口勲少佐)らの大隊本部が同行しており、指揮命令系統に混乱があると共に、大部隊のため食糧、燃料の運搬のためのソリ隊が足手まといとなっていたし、案内人も雇っていませんでした。 この部隊は初日に目的地の田代まで、後2kmのところで道を見失っていて、零下22度、風速30m、体感温度零下50度という猛吹雪の中で、死の彷徨が続くのです。 1月27日に徳島隊が八甲田山に入った時には、神田隊は壊滅状態になっていましたが、徳島隊は全員無事に踏破に成功したのです。 神田隊の生存者は山田少佐以下12名、凍死199名。 映画はこの両隊の劇的な成否を交互に対比させながら描いていますが、もっと我々観る者にわかりやすくするために、随時、現在地を示す地図を入れるとか、隊名やそのルートを入れるというような工夫が必要だったのではないかと思います。 この映画を観終えて、指揮権の所在と責任の明確化、指揮官の資質と判断力の重要性、周到な調査と準備の必要性、そして、環境の急変に対する臨機応変な適切な対応、特に大自然に対する畏敬の念と慎重な行動の重要性と言う事をつくづく考えさせられました。 尚、八甲田山の踏破に成功した徳島(福島)大尉は、却って、その後、冷遇されたうえ、日露戦争では雪中行軍の生き残りと共に、酷寒の黒溝台の激戦で戦死しています。 この事から、八甲田山で起こった事実を隠蔽しようとする陸軍の陰謀の匂いを感じてしまいます。 また、事実として、その後、自決した山田(山口)少佐の実像は、映画のような悪役的な人ではなかったと言われています。 問題は、危機に耐える事が出来なかった神田(神成)大尉の弱さにあったように思われます。 最も困難な時点で、徳島(福島)大尉は、「吾人もし天に抗する気力なくんば、天は必ず吾人を亡ぼさん。諸子、それ天に勝てよ」と兵に告げているのに、神田(神成)大尉は、「天はわれ等を見放した。俺も死ぬから、全員枕を並べて死のう」と絶叫しているという事からも推察できるのです。 [CS・衛星(邦画)] 9点(2023-08-28 08:53:39) |
5. 小さな巨人
《ネタバレ》 「小さな巨人」は、ダスティン・ホフマンが驚くべきメーキャップで演じた、101歳の老インディアン(?)のおしゃべりによって、この映画は始まります。 監督は、「俺たちに明日はない」で、"アメリカン・ニューシネマ"時代をリードする存在となったアーサー・ペン。 彼の思い出話によって展開されるこの西部劇は、カスター将軍、ワイルド・ビル・ヒコック、シッティング・ブル、クレイジー・ホースなどのお馴染みの人物たちが、賑やかに登場してくれます。 だが、カスター将軍の偏執狂的な描き方など、まさに西部劇というジャンルが、とてもシラケてしまった時代の産物という他ありません。 また、牧師の貞淑な妻が、欲求不満気味の浮気妻であったり、ビル・ヒコックも臆病な卑怯者であったりと、全く新しい視点で様々なエピソードを描いていくことで、"西部劇の神話"を次々と崩していくのです。 映画の夢、少年の夢の西部劇が、音を立てて崩壊していくような感傷的な気分になってしまいます。 奇妙な運命のいたずらによって、ダスティン・ホフマン演じる主人公は、白人社会と、インディアン社会を行ったり来たりしなくてはならなくなるのです。 白人でも、インディアンでもない、どちらでもない哀しみを生きる彼は、まるで場違いなところに放り込まれた"道化"といった感じです。 そのどちらでもない人間を通して、アメリカという国の矛盾が浮かび上がってくると思うのです。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2023-08-28 08:41:49) |
6. チャイナタウン
《ネタバレ》 この映画「チャイナタウン」は、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドへのオマージュを込めたハードボイルド探偵映画の傑作だと思います。 この映画「チャイナタウン」の舞台となっている1930年代のロサンゼルスは、アメリカ社会が東海岸から西海岸へと発展の波を広げて行った時期に、太平洋岸最大の近代都市を形成しつつありました。 だが、そうした急速な膨張の反面には、かなりの無理がまかり通って来るもので、当然の事ながら、そこには不当な利権や醜い政治的な裏取引が蔓延して来ます。 この映画は、そのような時代背景の中に、それぞれの数奇で不条理な宿命とでも言うべき運命を背負って、哀しみの中で生きる人間たちの苦悩、葛藤をスリリングに、尚且つドラマティックに描いています。 レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドという二人のハードボイルド・ミステリー作家へのオマージュを込めて、しかも、ロバート・タウンのオリジナル脚本によって、それまでのどの映画よりも1930年代のロサンゼルスのハードボイルド探偵映画らしく映画化されていて、複雑で錯綜する話の内容をハードボイルド的なサスペンスでたたきこんでゆくので、一時たりとも画面から目が離せません。 ストーリーや当時の風俗やしぐさが、それらしいだけではなく、この映画製作に携わった人々は、"ハードボイルド的世界の精神"をきちんとつかんでいるし、主役の過去を秘めた虚無的な私立探偵ギテスを演じるジャック・ニコルソンの"シニシズムと人間臭さ"がまた映画好き、探偵小説好きにはたまらない魅力があります。 この映画は、1930年代のロサンゼルスの陽光きらめく太陽の底に淀む、退廃的なムードと虚無感に満ちた、陰湿な世界が展開されていますが、脚本のロバート・タウンは、そのレイモンド・チャンドラー的ハードボイルドの世界を見事に再構築していると思います。 監督は「戦場のピアニスト」、「ローズマリーの赤ちゃん」の名匠ロマン・ポランスキーで、彼は1933年生まれのポーランド系ユダヤ人で、第二次世界大戦中にその子供時代を過ごし、母親をナチスの強制収容所で失うという、悲惨で哀しいトラウマを抱えた過去を持っています。 この映画のラストの30分の思いがけない意表を衝く結末については、これは有名な話ですが、監督のポランスキーと脚本のロバート・タウンで意見が分かれ、ポランスキーの主張する不幸な結末でなければ、この映画のテーマが台無しになってしまうという意見が通り、この結末になったそうですが、やはりラストはこの結末以外には考えられません。 警察も手が出せない政財界の大物であるクロス(ジョン・ヒューストン)が、「時と所を得れば人間は何でも出来るのだよ」という神をも恐れぬセリフは、ポランスキー監督の人間不信の言葉でもあるような気がします。 このクロスを「マルタの鷹」等のハードボイルド映画の監督でもあるジョン・ヒューストンが、実に憎々しげでアクの強い人間像を演じて見事です。 そして、クロスの娘であり、また女でもあるという"複雑で哀しい宿命を背負い、妖気と虚無的で退廃感の漂う"人妻イブリンを演じるのが、フェイ・ダナウェイで、彼女が十字架として背負う哀しい宿命は、彼女の左の緑の瞳の中の小さな黒点として象徴されています。 彼女の瞳の中にその黒点を認めた時、共に暗く哀しい過去を持つギテスとイブリンは、宿命の糸で結ばれます。 しかし、その愛はほんの束の間で、急速に回転し出した運命の歯車は、一気にカタストロフィへ突き進んで行きます。 車でロサンゼルスから逃れ去ろうとするイブリンを背後から撃った警官の銃弾が撃ち抜いたのは、彼女の左目である事を我々観る者は見落としてはいけないと思います。 映画の題名である"チャイナタウン"が、この映画の舞台になるのは、この最後の10分程の短いラスト・シークェンスにすぎませんが、なぜ、このチャイナタウンを映画の題名にしたのかという事を考えると、"チャイナタウン"は、アメリカの街の中の異境であり、迷路のようなこの街の中に、ポランスキー監督は、ポーランドでのゲットーと同じ安らぎを見出し、併せて、自分の妻のおぞましい惨劇を引き起こしたアメリカへの批判をしているとしか思えてなりません。 紙屑が舞い、野次馬が去って行く薄汚いチャイナタウンの夜のシーンは、哀しさと怒りを込めた、静かな中にも深く、優しさに溢れた名ラストシーンだと思います。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2023-08-24 17:08:11) |
7. 不毛地帯
《ネタバレ》 現在の日本映画で、ほとんど製作されなくなった社会派映画。 かつては、山本薩夫監督や、熊井啓監督など、数多くの気骨のある映画監督がいたものでしたが、現在の日本映画の衰退、凋落傾向の中、そのような気骨のある映画監督が全くいなくなりました。 この東宝映画「不毛地帯」は、昭和34年当時、二次防の第一次FX選定をめぐるロッキード対グラマンの"黒い商戦"を素材にした山崎豊子の原作の映画化作品です。 この映画は、その相当部分が主人公の元大本営参謀であった、壱岐正(仲代達矢)のシベリア抑留11年の描写に当てられています。 そして、この主人公の壱岐正のモデルは、元伊藤忠相談役の瀬島龍三氏であったのは言うまでもありません。 「白い巨塔」「華麗なる一族」に続くこの山崎豊子の原作は、高度経済成長下の熾烈な経済競争で荒廃してしまった"日本の精神的不毛地帯"と、厳しい自然と、全く自由を奪われた強制収容所という"シベリアの不毛地帯"を重ね合わせ、この二つの不毛地帯を、幼年学校以来、軍人精神をたたきこまれた主人公の壱岐正が、如何に生きていくか、その"人間的苦悩"に焦点を絞って描いている小説だと思います。 この映画の監督は社会派の作品を得意とする山本薩夫。 「戦争と人間」三部作、「華麗なる一族」「金環蝕」とその作風はある意味、一貫している監督です。 原作ではシベリアでの飢えと拷問の監獄、それに続く悲惨な収容所生活に多くのページを割いており、ソルジェニーツィンの「収容所群島」を連想させますが、この映画では、シベリアの部分はほとんどカットされており、ソ連内務省の取り調べも、天皇の戦争責任にポイントをおくためのものになっているように思います。 また、安保闘争をこの映画と切り離せない社会的背景とみて、原作にはないのを山本監督は意識的かつ重点的に付け加えています。 更に、自衛隊反対の自己の主張を壱岐の娘、直子(秋吉久美子)の口から繰り返し語らせているのです。 そして、当時、社会の関心が集中していた"ロッキード事件"を意識して、その徹底糾明のためのキャンペーン映画として作られており、山本監督は、それを抉るために彼の"政治的立場"に沿って、人間関係を明快に整理しているようにも思います。 原作者の山崎豊子は、「作者としては、どこまでも主人公、壱岐正が、その黒い翼の商戦の中で如何に苦悩し、傷つき、血を流したか、主人公の人間像、心の襞を克明に映像化してほしかった。この点、山本監督は、イデオロギー的な立場で、主人公を結論づけ、描いておられる。そこが小説と映画との根本的な相違であるといえる」と強い不満を語っていましたが、もっともな事だと思います。 山本監督は、「『金環蝕』も『不毛地帯』も、そのストーリーこそ違うものの、いずれも、本質的には日本の保守政治の構造が生んだ事件であり、今回のロッキード事件とその点で共通していると言える。私が『不毛地帯』を撮るにあたり、こうした保守政治の体質にいかに迫るかが、私にとって大きな課題となった」と、この映画「不毛地帯」の製作意図を語っており、このようにこの映画が、"政治的な意図"を持った映画である事を、我々映画を観る者は、よく認識しておく必要があると思います。 当時のロッキード事件というものと関連させて、なるほどと思わせる場面が多く、迫力もあり、映画的に面白く撮っているだけに、我々観る者が映像と現実をそのままゴッチャにしてしまう危険性もはらんでいるようにも思います。 ただ、山本監督は、「私は、映画はわかりやすく、面白いものでなければいけないと、常々考えている。健全な娯楽性の中に、その機能を生かせば、今度のような、いわば政治の陰の部分まで描き出せる」とも語っており、三時間という長さを全く退屈させない腕前はさすがで、その政治的な思想性は別にしても、これだけの社会派ドラマを撮れる監督が、現在の日本映画界に全くいなくなった現状を考えると、本当に凄い映画監督だったんだなとあらためて痛感させられます。 シベリア抑留の苛酷な体験もいつか薄れ、新鋭戦闘機に魅せられて、いつの間にか熾烈な商戦の渦中に巻き込まれ、作戦以上の策略を尽した結果が、心ならずも戦友の川又空将補(丹波哲郎)を死に追い込み、家族からも心が離反されてゆく、"旧職業軍人の業"といったものが切ない哀しみを持って、胸にしみてきます。 そして、自衛隊に入った旧軍人制服組の、警察出身で政治的な貝塚官房長(小沢栄太郎)に対する憎しみも非常にうまく描かれていたと思います。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2023-08-24 10:18:41) |
8. センチュリアン
《ネタバレ》 この映画の監督は、「トラ! トラ! トラ!」「マンディンゴ」等のハリウッドの職人監督リチャード・フライシャー。 原作は、ロスアンゼルス警察の部長刑事ジョセフ・ウォンボー。 したがって、アメリカの警察活動を内部から的確に描き出している点でも、とても興味深い作品だ。 警察もの、刑事ものは、その活動の対象が、庶民的な犯罪、特に社会の底辺から生まれる、喧嘩、売春、麻薬、窃盗、不法入国といった、浜の真砂のような諸悪であり、それが貧困と人種問題とを温床としていることから、この映画のように社会性の強いドラマとなる。 この点、「ゴッドファーザー」は、犯罪閥と言えるマフィアの巨大悪の、優雅な豊かさを描いていて対照的と言える。 そして一方、これに立ち向かう警官自体も庶民であり、仕事一途であればあるほど、次第に家庭から遊離し、孤独化し、どうにもならない社会の壁の前に荒んでいく。 書かれた法律と生きた法との矛盾、そこに警官は、自らの法を打ち立てようとする。 この映画での老警官キルビンスキー(ジョージ・C・スコット)がそうであり、「ダーティ・ハリー」のハリー・キャラハン刑事がそうであった。 そして、西部劇に見る、保安官と同じ姿がそこに見られるのだ。 しかし、自らの正義感に生きたキルビンスキーも、退職後は、楽しみにしていた、フロリダの娘夫婦の家庭にも受け入れられず、虚脱の中に自殺する。 この映画が、西部の大都会を舞台にしていることは、非常に示唆的だ。 無法地帯で、法を執行しようとした、かつての西部の英雄の姿は、今日では、大都会のジャングルの中に消え去る、小さな悲劇としてしか描きようがないのだ。 貧民街での夫婦喧嘩をやめさせようとして、精神病の夫に、犬のように撃たれ、「こんな馬鹿な------」と呟やきながら死んでゆく警官ロイ(ステイシー・キーチ)。 その彼は、妻に去られて、黒人との新しい愛に希望を見出したばかりであった。 その彼を抱いて、階段の上から見下ろすヤジ馬に、「毛布ぐらい投げてくれよ!」と叫ぶ同僚のガス(スコット・ウィルソン)の姿から、アメリカ社会の底辺に挫折する警官の、もっていきようのない、空しい訴えが響いてくるようなラストだ。 尚、この映画の原題は、ローマ時代に治安を守った、百人衆からとったものだが、映画の中で、キルビンスキーがロイに、「ローマの最後の日までだよ」と、皮肉を込めて百人衆に言及するところに、本来の寓意があると思われますね。 [DVD(字幕)] 7点(2023-08-24 09:52:36) |
9. チザム
《ネタバレ》 この映画「チザム」は、西部劇の王者ジョン・ウェインが「勇気ある追跡」でアカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞後の初めての作品で、当時62歳のジョン・ウェインはすこぶる元気がいい。 西部史に名高いリンカーン郡戦争の中、ニューメキシコの広大な原野に牧畜王国を築き上げ、冒険と波乱の生涯を送ったチザム(ジョン・ウェイン)の実録の映画化作品だ。 チザムの親友のジェームズ・ペッパーにベン・ジョンソン、彼らと対立する黒幕の親分ローレンス・フィーにフォレスト・タッカー、連邦保安官パット・ギャレットにグレン・コーベット、無法者ビリー・ザ・キッドにジョフリー・デュエルという配役で、西部劇ファンとしては嬉しくなる顔ぶれだ。 この映画は銃撃戦やスタンピードという牛の大暴走などの見せ場も多く、西部開拓史上に名高い人物たち、特に、後に宿命の対決をすることになる無法者ビリー・ザ・キッドと名保安官パット・ギャレットの若き日の姿(といってもビリー・ザ・キッドは21歳でその生涯を閉じた)が、描かれているのも興味深い。 しかも、ビリー・ザ・キッドと言えば、左ききのガンマンとして有名だが、この映画では史上初めて右ききで登場してくる。 彼の写真が実は裏焼きだったので、ずっと左ききだとされてきたが、右ききが本当だったのだ。 かつて二挺拳銃のジョニー・マック・ブラウンをはじめ、ロバート・テイラー、オーディー・マーフィー、ポール・ニューマンと、歴代の左ききのビリーはみな魅力的だったが、それだけに、この映画の右ききのジョフリー・デュエルが扮しているビリーが少し見劣りするのは仕方がないだろうと思う。 この映画は実録とは謳っているが、実説とはかなり違っているものの、とにかく、牛の大暴走場面あり、ガン・プレイあり----と、西部劇ならではの見せ場を次々と盛り込むサービスぶりで、かなり爽快感が味わえるのは確かだ。 ベテランのアンドリュー・V・マクラグレン監督が悠々たるタッチで西部劇の楽しさ、面白さを詰め込んだ作品になっていると思う。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2022-04-21 15:41:54) |
10. 戒厳令(1972)
《ネタバレ》 "ラテン・アメリカの某国のファシズム的な警察国家の闇を衝いた、コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督の実録政治映画の問題作「戒厳令」" ギリシャの軍事独裁政権の実態を暴いた「Z」、ソ連のスターリニズムを痛烈に批判した「告白」に次いで、社会派の俊英コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督が撮ったのが、ラテン・アメリカの某国を題材にとり、背後にアメリカの力を負いながら、ファシズム的な警察国家体制を敷いている国の実態を生々しく描いたのが、この映画「戒厳令」なのです。 この作品は、コンスタンタン・コスタ=ガヴラス監督お得意の実録ものであり、1970年8月10日にモンテヴィデオで誘拐され、銃弾を頭部に受けて殺されたイタリア系アメリカ人、ダン・アンソニー・ミトリオーネをモデルにしています。 ガヴラス監督は、当時の新聞、公式文書など、ありとあらゆる資料を調べつくし、ミトリオーネという男が受け取っていた月給の金額まで知るほどだったということですが、そういう正確な事実を基にしたという強みが、この映画にはあると強く思います。 トップシーンの戒厳令下の街頭の場面が、まず非常に冷酷で薄気味悪いムードを湛えており、一種クールな魅力を画面に与えていますが、南米のチリに長期ロケーションをした効果があって、現地での生々しい臨場感を観ている我々に感じさせます。 そして、この映画は、ガヴラス的演出で、フラッシュ・ショットによる回想シーンなどを随所に挿入し、時を自由に前後させながら展開していきます。 「Z」「告白」ともに、政治映画でありながら、ガヴラス監督の手にかかると、面白すぎるくらい面白くなりますが、ここではその映画的な技巧の円熟味は、ますます冴えていると思います。 主人公のフィリップ・マイケル・サントーレ(イヴ・モンタン)の死が、まず冒頭に出て、その葬儀のシーンあたりから、回想で彼の生前に遡り、革命派が誘拐するプロセスが歯切れよく描かれてくるあたりで、映画は観ている我々を否応なしにその世界に引きずり込んでしまいます。 この革命派の尋問につれて、サントーレという人物像が、次第に浮き彫りにされてきます。 彼はイヴ・モンタンが扮していることからもわかるように、実に風格のある人物であり、外見は良きアメリカ人であり、愛する家族を持つ良きパパなのです。 このように、サントーレという人物を、決して悪玉仕立てにしていないところに、ガヴラス監督の狙いもあったのであり、彼がアメリカから南米へ派遣されて、警察国家の陰の指導者となり、反乱分子に残酷な拷問をかけたりさせる、裏の張本人であるということが、実に感じのいい男だけに、観る者を余計に慄然とさせる効果を持っていると思うのです。 警察学校かなにかで、人体を使って拷問の実習をするシーンなど、かなりな残酷描写です。 こういう教育を受けた連中は、いつか、いとも冷酷で人間的な血の通わぬ非情な警官に育っていくのだろうと思います。 そのよき例が、秘密警察の隊長ロペスで、レナート・サルヴァトーリの何とも言えぬ凄みには圧倒されます。 一種、怪物的な魅力すら漂ってきて、脇役一筋で、地味なレナート・サルヴァトーリが、いつの間にこれほどの重量感のある俳優になっていたのだろうと驚いてしまいます。 このロペスの率いる秘密警察が、革命派の青年たちの居場所を突きとめ、追いつめ、逮捕するあたりの何とも言えない恐ろしさは、観ている我々を心の底から震撼させます。 街頭を革命派の青年が歩き、さりげなく警察官が追いつめていく、その画面にミキス・テオドラキスのクールな曲がかぶさるあたりは、どこか金属的な感じさえするムードで満たされます。 そして、この間、国会では多くの議論が交わされますが、誘拐した革命派グループの再三にわたるコミュニケにもかかわらず、結局、サントーレの生命を救うための動きは全くなく、革命派も彼を殺害する以外に方法がなくなってしまうのです。 国家とか組織とかが、個人などをまるっきり無視して通りすぎる冷酷さが、痛いほど画面の中から迫ってきます。 そして、ラストシーンでは、サントーレの死後、彼の後任として空港に到着したアメリカ高官の姿。 それをじっと見つめている、革命派の青年たちの表情の数々を映し出して、この映画は終わります。 ガヴラス監督式のスリルとサスペンスに満ちた面白さは確かにありますが、しかし、彼の最高作である「Z」の大衆講談的な面白さからはいつか飛翔して、生の実感を込めた不気味さが、ひたひたと我々の胸に押し寄せてくる思いがするのです。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2021-09-12 12:40:35) |
11. おもいでの夏
《ネタバレ》 ロバート・マリガン監督の「おもいでの夏」は、優しく、美しい、青春映画の佳作だ。 ニューイングランド沖合いの小島が舞台の映画で、原題は「'42年の夏」。 その年、その夏、15歳の少年ハーミー(ゲーリー・グライムス)が、ふと、めぐりあった年上の女性の思慕と、思いがけない初体験とわ、切なさ溢れる、追想の形で綴られていく。 太陽と海と砂丘。ひなびた避暑地で休暇を過ごす、"わんぱく三人組"の少年たちは、もてあます若さの活力を、異性とセックスへの好奇心に集中する。 性の医学書に興奮し、町の映画館に女の子をナンパするために出掛け、薬局へ勇気をふるって、避妊具を買いにいく。 そんな、息苦しくて、切羽詰まって、だがなんとも無器用で、滑稽な思春期のあせりを、この映画はホロ苦い、愛しさで回想する。 主人公のハーミーが恋したのは、岬の一軒家に住む、美しい人妻ドロシー(ジェニファー・オニール)だ。 新婚の若妻の幸福に輝く、愛の風景を、出征する夫を船着き場に見送る、悲しみの彼女を、フランス戦線の夫に、手紙を書き続ける、遠いまなざしのドロシーの姿を、ハーミーは、どれほど憧れを込めて、見つめたことだろう。 買い物帰りの荷物運びを手伝ったことから、ハーミーは、ドロシーと親しくなる。 大人ぶって、背伸びする少年のおかしさ、いじらしさ。 やがて、クライマックス。ドロシーの家を訪れたハーミーが、夫の戦死公報を受けた、彼女に迎えられて、無言でベッドに誘われる夜の場面は、静かな美しさが、悲痛な情感を盛り上げる。 夜明けの別れ。そして、ドロシーの置き手紙が、涙にかすむラストに、ミシェル・ルグランのピアノ・ソロによる甘い旋律が、胸打つ余情を奏でる。 原作・脚本のハーマン・ローチャーと、「アラバマ物語」「レッド・ムーン」の名匠ロバート・マリガン監督は、彼等自身の"1942年夏"を、愛惜を込めて、懐かしみながら、同時にそれは、荒廃した時代に身を置く戦中派の、苦悩の懺悔とも受け取れるのだ。 [DVD(字幕)] 8点(2021-06-07 00:28:59) |
12. ジュリア
《ネタバレ》 フレッド・ジンネマン監督の「ジュリア」は、知的に美しく、見事な深度と品格を持つ、映画史に残る秀作です。 アメリカの代表的な女流劇作家リリアン・ヘルマンは、"女流"という特別扱いを拒否し、また、かつて悪名高い"赤狩り"の時代における、勇気ある行動でも知られる、いわば最高のインテリ女性だが、その彼女の自伝的回想の物語だ。 一人の優れた、魅力的な女性リリアン(ジェーン・フォンダ)の、生き方に、人格に、精神形成に、少女時代から関わった、女友達ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)と、結婚の形をとらずに、三十余年の生活を共にした、愛人の探偵作家ダシェル・ハメット(ジェーソン・ロバーズ)の二人。 良き友情と、良き愛情に恵まれたヒロインの、いま老いて孤高の、だが寂寥の姿に、人生の重みが切々と迫って、深い感動に、目頭が熱くなってきます。 ユダヤ系の名門の大富豪の孫娘に生まれて、優雅と気品と理知と、勇気と感性で、幼い頃から、リリアンを心酔させた、親友のジュリアは、やがて、イギリスを経て、留学地のウィーンから姿を消す。 追われる反ナチ運動の闘士となったジュリアの、その潜伏先ベルリンに、今や売り出し中の劇作家リリアンが、命懸けで、反ナチ運動の資金五万ドルを運ぶことに--------。 全編のハイライトである、このヨーロッパ大陸横断列車の旅は、フレッド・ジンネマン監督の、ヒリヒリするような、息詰まるサスペンス醸成の演出が、実に見事だ。 この後、やつれ果てた、無惨な義足のジュリアとの再会のシーンは、ヴァネッサ・レッドグレーヴの名演技が、ある種の凄味さえ帯びて、圧倒されます。 そうした"ジュリア"とは、つまりは、リリアンという女性にとっての"幻の鏡"だ。 彼女の理念と情念の象徴なのだ。 そのリリアンが、ハメットの豊かな愛に包まれて見せる、女らしさが、とても愛おしい。 脚本のアルビン・サージェントと老匠フレッド・ジンネマン監督が、ジュリアを"心に抱く"リリアンに、透徹の眼差しを注ぐ、静かに熱い、女性讃歌が、痛いほどに私の胸を打ちました。 [DVD(字幕)] 9点(2021-06-06 08:45:41) |
13. シャーロック・ホームズの冒険
《ネタバレ》 全世界の少年少女が、生まれて初めて読む本格推理小説は、"シャーロック・ホームズ"だと言われている。 この映画「シャーロック・ホームズの冒険」の監督であるビリー・ワイルダーも、少年の頃からホームズファンで、いつの日か自分の映画に登場させたいと考えていたそうだ。 サー・アーサー・コナン・ドイルが創造した、世界一有名なこの探偵とワトスン博士を、ビリー・ワイルダーと名コンビのI・A・L・ダイアモンドが、どうこのホームズものを描くか、大いに期待しながら観ました。 名探偵ホームズとその助手のワトスン博士は、コナン・ドイルが創作した人物だが、世界中のホームズマニアは、彼らが実在した人物のように扱って色々と研究し、なかにはワトスンが女性だったり、はては二人は、同性愛だったなんていう説もあらわれる始末だ。 だからこそ、ビリー・ワイルダー監督も、この映画の題名に"THE PRIVATE LIFE OF SHERLOCK HOLMES"と、"私生活"と謳って、ひねくった面白さを狙ったわけで、こういう事情を知っておいて観ると、この映画の面白さは、一段と増すのではないかと思います。 そして、そこは、さすがにビリー・ワイルダー監督、コナン・ドイルの原作の小説を、ただそのまま映画化するわけがありません。 小説と現実をごっちゃまぜにしたトボけたおかし味を狙って、ホームズの助手兼記録者の、ワトスン博士の孫なる人物が、銀行の保護金庫にあった50年前のワトスン博士の記録を発見。 それによって、ベーカー街におけるホームズとワトスンの私生活や、今まで知られていなかった冒険の一つを再現しようとしたのだ。 そのため、時代考証も凝りに凝って、実にいい雰囲気を醸し出している上に、エピソードの趣向も面白く、特にロシア・バレエの女王からの命令的な求婚を逃れるためにホームズが、デタラメを言ったのがもとで、ワトスンが同性愛者扱いされるあたりは、大いに笑わせられる。 そして、事件は美人のジュヌヴィエーヴ・パージュと共に舞い込んで来る。 このホームズのお色気シーンというのも実に珍しくて、思わずニヤニヤしてしまいます。 彼女の夫の行方を突き止める仕事に取り掛かり、倉庫に隠されていた大量のカナリヤを発端に、次々と手掛かりをたどってネス湖に達するまでの演出も、ワイルダー監督は、悠々たるクラシック調でいい味わいを出していると思う。 だが、ネス湖の怪獣とその正体は、ジュール・ヴェルヌのSF的で、意外と平凡だったのは少し残念。 創作するなら、もっと奇想天外な事件にして欲しかったなと思う。 しかし、そうは言っても、この事件のおかげで、ホームズが背負い投げをくって、照れくさい顔をする光景が見られるし、女スパイの古典的なロマンス・ムードも生まれたのだから、結果的には良かったのかもしれませんが------。 いずれにしろ、いわゆる楽屋オチ的な面白さだけではなく、第一、第二、第三と、いくつもの手掛かりを探って、謎の事件に迫っていく、古き良き探偵小説の面白さと、冒険の楽しさがいっぱい詰まった作品になっていると思います。 出演俳優に目をやると、この映画でホームズを演じたロバート・スティーヴンスは、イギリス演劇界で活躍する役者だし、ワトスン博士を演じたコリン・ブレークリーも、元々演劇界の役者なので、渋くて地味すぎる感じもしますが、しかし、今まで登場したカッコいい英雄的なホームズのイメージをぶち壊して、人間的な魅力と親近感のあるキャラクターになっていたと思います。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2021-06-02 20:00:02)(良:1票) |
14. 夜の訪問者
《ネタバレ》 チャールズ・ブロンソンが絶頂期にテレンス・ヤング監督と組んで主演したサスペンス・アクション 「夜の訪問者」 この映画「夜の訪問者」は、チャールズ・ブロンソンがフランスに渡り、ルネ・クレマン監督と組んで大ヒットさせた「雨の訪問者」、次いでイタリアで主演した「狼の挽歌」の後に、「007シリーズ」のテレンス・ヤング監督と組んで主演したサスペンス・アクション。 その後、テレンス・ヤング監督とは、三船敏郎、アラン・ドロンという世紀の顔合わせを果たした「レッド・サン」でも組んでいます。 この映画の原作は、SF作家として有名なリチャード・マシスンのスリラー小説「COLD SWEAT(冷や汗)」の映画化作品で、南フランスの港町で釣り船の船主をしているジョー(チャールズ・ブロンソン)は、7年前に結婚した妻ファビエンヌ(リヴ・ウルマン)と娘のミシェールと平和に暮らしています。 彼は観光客相手に沖釣用の船を出すのが商売で、ある夜、突然、ひとりの男が現われ、ジョー一家に不吉な黒い影を投げかけます。 この男は、実はジョーがかつて加わった脱獄事件に関係があり、その一味が麻薬を運ぶために、ジョーの船が必要だと言って来ます。 一味のボスのロス(ジェームズ・メイソン)は、先手をとってジョーの妻と娘を人質にしますが、ジョーは家族の危機に苦悩しながらも、彼らと敢然と戦い、妻子を守るという、いかにもタフガイ、ブロンソンにぴったりのはまり役を好演しています。 娯楽映画の職人監督テレンス・ヤングは、「暗くなるまで待って」で盲目のオードリー・ヘップバーンを危機に追い込むサスペンス映画の傑作を撮っていましたが、この映画では、昔の仲間に人質として奪われた妻と娘を、悪戦苦闘しながら救い出すヒーローを、ブロンソンの個性をうまく活かして、スリルとサスペンスのツボを押さえた、うまい演出を見せていると思います。 ブロンソンのトレードマークの"口ひげ"、黒いTシャツに青いズボン、白いスポーツ・シューズというラフなスタイルと、身軽な体のこなしなど、まさにブロンソンの魅力がいっぱい詰まっています。 ブロンソンが最も脂が乗りきって、快調にスター街道を突っ走っていた頃の作品だけに精彩があり、生き生きとしたアクション演技を見せていたと思います。 そして、この映画で特筆すべきなのが、ブロンソンの妻役として、世界的な芸術監督のイングマール・ベルイマン監督の映画の常連で、数々の演技賞に輝く、「叫びとささやき」「秋のソナタ」などの演技派の名女優リヴ・ウルマンが出演している事です。 リヴ・ウルマンが彼女のフィルモグラフィーの中で、このようなアクション映画に出演するのは、非常に珍しく、そういう意味でも、この映画はリヴ・ウルマンの熱烈なファンとしては、実に貴重な作品と言えます。 また、悪役として出演している、イギリスの名優で、かつて007ジェームズ・ボンドシリーズの原作者イアン・フレミングが、ジェームズ・ボンドを演じる俳優として強力に推薦したという、ジェームズ・メイソンが、憎々しい悪役を渋く演じていて、彼が登場して来るだけで、画面が引き締まってくるから不思議です。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2021-06-02 16:31:40) |
15. さすらいの航海
《ネタバレ》 国際政治のエゴに翻弄される、ユダヤ難民の悲劇を淡々とドラマティックに描いた「さすらいの航海」 この映画「さすらいの航海」は、第二次世界大戦の直前に、各国の冷酷な政治エゴに弄ばれる、ユダヤ難民の一団の絶望的な実話を、淡々と、しかもドラマティックに描いた作品で、監督は、「暴力脱獄」、「ブルベイカー」の反骨精神の持ち主のユダヤ系のスチュアート・ローゼンバーグ監督です。 1939年5月13日、ドイツの客船セントルイス号は、国外への移住を希望するユダヤ人937人を乗せて、ドイツのハンブルク港を出港し、キューバのハバナ港に向かいました。 しかし、それは海外移住を許す事によって、ユダヤ人への寛容を示すと共に、各国がユダヤ人の受け入れを断る事を見越して、ユダヤ人問題はドイツだけの問題ではない事を、世界に宣伝しようとするナチス・ドイツの策略だったのです。 この出港に先立つ5月5日に、難民の受け入れを拒否する事が出来る、大統領令をキューバ政府が発布していた事を、ナチスは事前に承知しての事でした。 そして、更にキューバ駐在のナチス諜報員は、反ユダヤ宣伝を行なって、キューバ国民に難民の受け入れ反対を煽っていたのです。 迫害を逃れ、自由を求めて、嬉々として船に乗り込むユダヤ人達は、初めから上陸出来ない運命にあったのです。 一方、キューバにおいても、政治的な駆け引きが激化していて、時のキューバの大統領フレデリコ・ラレド・ブルーは、陰の実力者である陸軍参謀総長バチスタの力で大統領になっただけに、自らの指導力を確立する事に腐心していました。 そして、大統領フレデリコ・ラレド・ブルーのバチスタへの反撃は、バチスタの腹心であり、その資金源である移民局長官のマヌエル・ベニテス(名優ホセ・フェラー)に向けられたのです。 ベニテスは、私的な上陸許可証を査証とは別に発行して荒稼ぎをしていましたが、今回の大統領令は、この上陸許可証を禁止し、賄賂を閉ざすためのものでした。 これに対して、ベニテスは、セントルイス号の難民を人質に船会社から巨額の賄賂を出させ、その半分を大統領に渡せば事は収まるものと、甘く考えていました。 しかし、大統領とレモス外務長官は、バチスタを見逃さず、政府の威信を示そうと強行に難民の受け入れを拒否するのでした。 また、労働長官も、これ以上の難民の入国は、キューバ人の失業を悪化させると進言してもいました。 5月27日、ハバナ入港。しかし、上陸出来ないまま6月2日出向。 この間、先にキューバに入国して、身を売って稼いだお金を船内の両親に届ける娼婦(キャサリン・ロス)、それを怒り嘆く母親(マリア・シェル)。 三分間に限られた、その再会シーンは哀切で言葉もありません。 そして、セントルイス号は、マイアミ沖のアメリカ領海を徘徊しますが、ユダヤ人が最終的に行きたかったアメリカも、その難民の受け入れを巡って政治的な事情が優先されました。 というのは、時のフランクリン・ルーズペルト大統領は、欧州の紛争には関わりたくないという、いわゆる"モンロー主義"を国の政策としてとっており、また、ニューディール政策の行き詰まりによる失業者の増加のため、移民受け入れ反対の運動が盛り上がっていて、大統領の三選を控えていて、これらの状況を無視する事が出来ないという状況にありました。 このような状況の中、セントルイス号は、再びドイツに向かいますが、絶望したユダヤ人の中には、船のハイジャックを試みて失敗する一団もいれば、ユダヤ系船員(マルコム・マクダウェル)と痛ましい心中を遂げる可憐な娘(リン・フレデリック)もいました。 しかし、元ベルリン大学医学部教授のクライスラー(オス・ウェルナー)と、その気品の高い妻(フェイ・ダナウェイ)は、終始、ユダヤ人の誇りを失わず、毅然とした対応を示すというような、いわゆるグランド・ホテル形式で、様々な人々の人間模様を映画は描いていきます。 そして、欧州各国もヒトラーを恐れてユダヤ人を受け入れようとはしません。 ドイツ人だが、船乗りとして乗客の事を第一に考えるシュレーダー船長(名優マックス・フォン・シドー)は、この状況を打破するための窮余の一策として、イギリスのサセックス沖でわざと船を座礁して、乗客を上陸させようとしますが、その最後の瞬間にベルギーのアントワープへの寄港が許可される事になったのです。 6月17日にアントワープ港へ入港の2カ月後に、第二次世界大戦が勃発し、乗客の内、600人以上がナチス占領下の国々で死んだと歴史は伝えています。 尚、このシュレーダー船長は、戦後の1956年に、時の西ドイツ政府から人道功労賞が授与されています。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2021-06-02 09:20:20) |
16. スケアクロウ
《ネタバレ》 このジェリー・シャッツバーグ監督の「スケアクロウ」は、1960年代後半から1970年代前半にかけての、いわゆる"アメリカン・ニューシネマ"のひとつの頂点を示す秀作です。 旅をする人間は、アメリカ映画の永遠の登場人物で、この旅する人間を描く事は、アメリカ映画の"永遠のテーマ"でもあり、"ロード・ムービー"と呼ばれていますが、アメリカン・ニューシネマの抬頭以降、このテーマは、何度も繰り返して取り上げられ、純化して来たと言えます。 そして、"孤独な人間同士の結びつき、現代人の抱え込んでいる疎外感"などを描いて、アメリカという国の素顔をのぞかせようとする映画が、続々と製作されていた時代の正しく、この映画は、その思想のひとつの到達点を示す作品になったと思います。 監督のジェリー・シャッツバーグは、スチール・カメラマン出身なだけあって、斬新でスタイリッシュな映像表現を見せてくれます。 まず、映画の冒頭のシーンが見事です。 タンブル・ウイードと言われる枯草の輪が、南カリフォルニアの砂嵐に転んでいきます。 そこに、6年ぶりに出獄したばかりのマックス(ジーン・ハックマン)と、船から下りたばかりのライオン(アル・パチーノ)が偶然に出会い、マッチ一本をきっかけに意気投合します。 この二人の出会いのシーンの演出の素晴らしさで、我々、観る者は、一瞬にして、この"スケアクロウ"という映画的世界へ引き込まれてしまいます。 喧嘩早い粗野な大男のマックスと、人を笑わせる陽気な小男ライオンの、正に弥次喜多道中とでも言うべき旅が始まります。 性格の全く違う二人の男が、友情を抱きながら、カリフォルニアからデトロイトまで旅を続ける事になりますが、ジーン・ハックマンとアル・パチーノというメソッド演技の神髄を知り尽くした二人の名優が、まるで演技競争のようにして、ある意味、人生に敗れた、しがなさ、ダメさを、時にユーモラスに、時に切なく演じて、本物の演技のうまさ、凄さというものを我々、観る者に強烈なインパクトを与えてくれます。 アメリカ大陸を東に横切って、マックスの妹の住むデンバーと、ライオンが5年ぶりに会おうとする妻子の住むデトロイトへ、その間、約3,000km。 そして、最後は、二人で洗車屋を開く予定のピッッバーグへ。 シネ・モビルによる野外でのオール・ロケーション撮影は、敗残者と老人たちの蠢く街々の底辺と、広漠とした大陸の広がりを、ただひたすら淡々と映していきます。 途中の酒場でのドンチャン騒ぎの末に、ぶちこまれる豚小屋ならぬ、刑務農場、これもアメリカの知られざる隠れた一面を見せつけられます。 この映画でのアメリカ大陸横断には、かつての「イージー・ライダー」のような若々しい直線的な気負いというものがありません。 ダメになったアメリカ、しかし、"男同士の無垢な友情が絶望を突き抜けた希望"というものを育み、オプティミズムの明るい光を照射して来ます。 しかし、この映画のラスト近くで、暴力のみに頼るマックスに、笑いで生きる事の意味を教えたライオンが、妻子に裏切られたショックで錯乱しますが、マックスの力強い愛情によって救われます。 そこには、力のみで生きて来た大国アメリカの反省と、それを乗り越えて来た開拓者の自信といったものを考えてしまいます。 "スケアクロウ"とは、案山子の事ですが、「風采の上がらない、みすぼらしい奴」という意味もあり、「そう見られて、馬鹿にされるから、かえっていいんだ」という気負いを捨てた姿を言っているのと共に、「案山子を見てカラスは脅かされるのではなくて、カラスは実は笑っているのだ」、そして笑って馬鹿にして、『だからあいつの畑を襲うのはよそう』と、畑にやって来ないのだという、裏返しの見方が重なっているような気がします。 このように、ジェリー・シャッツバーグ監督の現代を視る眼は、複雑だと思います。 脅しが、本当は笑われているのだと力の空虚な誇示を批判しながらも、やはり、みすぼらしいながら、案山子のタフさを言おうとしているようにも思えます。 この映画を観終えて思う事は、アメリカでは開拓者の時代の昔から、男たちが、東から西へ、北から南へと歩いて行ったわけですが、この映画に描かれた人間たちも良いにつけ、悪しきにつけ、そういう人たちの一種で、当時の荒廃したアメリカも、やはり依然として、開拓者としての友情を求めてやまない社会であり、そして本質的に、男の世界である事をこの映画は描こうとしているんだなと改めて感じました。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2021-05-31 09:38:37) |
17. 君よ憤怒の河を渉れ
《ネタバレ》 この映画「君よ憤怒の河を渉れ」は、高倉健が長年専属だった東映から独立、退社後の記念すべき第一作目の作品で、「新幹線大爆破」の佐藤純彌監督による永田プロ=大映映画製作のサスペンス・アクション大作だ。 高倉健は、この映画の後、「幸福の黄色いハンカチ」「八甲田山」と立て続けに名作へ出演し続け、名実ともに日本を代表する俳優へと昇り詰めていくのです。 西村寿行の原作を出版しているのが、大映の親会社の徳間書店で、いわば、その後の角川映画のメディアミックス戦略を先取りしていたとも言える。 ストーリーは、巨大な権力の陰謀によって無実の罪を着せられた、健さん演じる現職のエリート検事が、無実の罪を晴らすために逃走、見えない敵を追って、東京から北陸、北海道、そして再び東京へと逃亡しながら、巨悪を追い詰めていくという、スケールの大きな復讐の旅を描く、一大エンターテインメント作品だ。 彼を追う警部に原田芳雄、恋人役に中野良子が脇を固め、大滝秀治、西村晃、倍賞美津子などの個性派俳優が、出演場面は少ないながらも、いい味を出して映画を引き締めていると思う。 そして、この映画を何よりも盛り上げているのは、危機一髪でのセスナ機での脱出、新宿の街頭での裸馬の大暴走などのダイナミックな見せ場と中野良子とのラブシーンだ。 いささか大味な展開を澱みないストーリー運びでグイグイと引っ張っていく演出は、さすがに百戦錬磨の佐藤純彌監督だと思う。 ただ、非常に残念だったのは、音楽の青山八郎が、キャロル・リード監督の名作「第三の男」のアントン・カラスのテーマ曲を完全に意識した曲作りが、恐らく日本映画史上、最大のミスマッチ映画音楽として歴史に残る程の大失敗をもたらした事だ。 こんなにも、映像の緊迫感と間の抜けたような音楽の組み合わせも、非常に珍しい。 そして、この映画は中国の文化大革命以後、初めて公開された外国映画として、中国では知らぬ人がない程の大ヒットをしたのは有名な話だ。 そのため、その後の中国では、日本人俳優の中では、いまだに高倉健のみならず中野良子の人気が高いという事だ。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2021-05-31 08:39:05) |
18. ドラブル
《ネタバレ》 誘拐、ドラブルという名前の破壊工作員たちの秘密組織、黒い風車、まるでスリラーの神様・アルフレッド・ヒッチコック監督のスパイ・スリラーを思わせるような、映画好きの心をワクワクさせる、実に良いムードの映画だ。 沈んで暗い色調の英国の風景も、優しくてノスタルジックな雰囲気を湛えている。 小さな一人息子を誘拐された夫婦。夫のマイケル・ケインは、秘密情報部員だが、情報部の協力を得られず、たった一人で敢然と、可愛い息子の救出のために、事件の渦中へと飛び込んで行く。 夫は外から妻に電話をかけて、情報部にも警察にも知られずに、ひとりで会いに来てくれと伝える。 その伝え方が実に面白くて、洒落ている。 と言うのも、もちろん電話は盗聴されているので、夫は妻に約束の場所を口で言う代わりに、電話でミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」の音楽を聞かせるのだ。 息子にせがまれて、夫婦が何回となく見に行った映画なのだ。 この映画の最大の見せ場とも言える、風車小屋の中の撃ち合いは、この静かなスパイ・スリラーの数少ないアクション・シーンの一つだが、職人肌のドン・シーゲル監督ならではの、スピーディーでダイナミックな演出で、見応えのある素晴らしいクライマックス・シーンになっていると思います。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2020-09-13 15:31:59) |
19. 暗殺の森
《ネタバレ》 ベルナルド・ベルトルッチ監督の「暗殺の森」は、「ラスト・エンペラー」と同様、ヴィットリオ・ストラーロの撮影を観たかったというのが大きくて観たのですが、ベルトルッチ監督のあまりにも素晴らしい手腕を見せ付けられた感じです。 若干29歳の時の作品だとは思えないほどの、映画的魅力に満ちあふれた作品になっていると思います。 この映画の原題は「体制順応主義者」で、それは主人公マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)のことに他なりません。 原作は、アルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」という小説で、この作家の原作の映画は、他に2本観ていて、「倦怠」と「ミー&ヒム」ですが、「暗殺の森」とは似ても似つかないストーリーで、恐らくいろいろなタイプの小説を書いた人だろうと思います。 子供の頃に、殺人を犯してしまったと信じ込んでいるマルチェロは、そのトラウマからか、罪の意識からか、ファシズムに傾倒していきます。 組織から、パリに亡命中であった恩師でもある、カドリ教授を調査するように命じられ、恋人であったジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と結婚して、新婚旅行を口実にパリに赴いた彼は、教授の妻のアンナ(ドミニク・サンダ)の美しさに、心を奪われてしまいます。 ストーリー自体は、それほど難しくないのですが、回想シーンが突然、出てきたり、主人公の説明がなかったりするので、どういうことなのか理解するのに、少しだけ時間がかかってしまいました。 そういう欠点はあるものの、見せ方は素晴らしいのひと言に尽きます。 特に良かったのは、アンナとジュリアが踊るダンスシーン。映画史に名高い、有名なシーンですね。 この女同士でダンスを踊るというのは、「フリーダ」にもありましたが、本当に綺麗でインパクトがあります。 そして、邦題のもとにもなっている、森の中での殺人シーンも圧巻です。 まるで、ホラー映画のような恐ろしさと緊張感がある一方で、切なくて哀しくて、やりきれないムードにも満ちあふれています。 とても、ショッキングだけれど美しい映像で、ベルトルッチ監督の天才肌ぶりを感じさせるシーンだと思います。 ドミニク・サンダは、当時19歳くらいだったそうですが、妖しい美しさをたたえる人妻の役を、見事に演じています。 彼女は「ラスト・タンゴ・イン・パリ」にも出演オファーがあったそうですが、妊娠中のため断ったというエピソードが残っています。 もし、ドミニク・サンダとマーロン・ブランドのツーショットだったら、またひと味違った映画になっていたかもしれません。 ジャン=ルイ・トランティニャンは、相変わらずクールで、不思議な雰囲気をたたえていて、ミステリアスな感じが、とても素晴らしかったと思います。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2019-06-01 15:31:10) |
20. スウォーム
《ネタバレ》 「ポセイドン・アドベンチャー」や「タワーリング・インフェルノ」などのパニック映画(アメリカではディザスター映画)の超大作の大物プロデューサーとして鳴らしたアーウィン・アレン。 ところが、この人、プロデューサーだけに専念しておけばいいのに、監督までしたがって、結果はいつも無惨な出来栄えの映画を作ってしまうんですね。 「タワーリング・インフェルノ」の世界的な大ヒットで、まさに人生最高の時を迎え、好調の波に乗ったアレンは、この時期、流行していた動物パニック映画ブームの決定版を目指し、アフリカの蜂の大群が人間を襲うという「スウォーム」というトンデモ映画を監督するんですね。 動物もの、パニックものという二つのジャンルの第一人者であるという自負を持つアレンが、よせばいいのに監督をしたのがこの「スウォーム」で、名作、駄作、珍作となんでも出演することで有名なマイケル・ケインを主役に起用し(この時点で大作感がないですが)、当時、人気のあったキャサリン・ロス、大作に見せかけるためにレジェンド俳優のヘンリー・フォンダやオリヴィア・デ・ハヴィランドら映画史に残る錚々たる面子を筆頭にオールスター・キャストの布陣を敷き、まさか失敗する要素はないかに見えました。 ところが、このこけおどしの超大作(?)はものの見事に、面白くなく、結果、大コケしてしまいました。 敗因を分析してみると、ひとえにアーウィン・アレンの演出力の欠如にあると思います。このタイプの映画は、サスペンスが命とも言える生命線なのに、全然それがないんですね。 この緊張感のなさはただごとではありません。アーウィン・アレンという人は、プロデューサーとしての力量はともかく、監督としては全くダメなんですね。 蜂の大群に遭遇したヘリコプター。パイロットは驚愕し、靄みたいな蜂の群れの中に突っ込むヘリ。 すると、ヘリはみるみる急降下を始め、墜落・爆破・炎上してしまう。この間、緊張感ゼロ。 また、マイケル・ケインとキャサリン・ロスが、レストランの保冷室に逃げ込むシーン。 保冷室の室温は5°Cで、ケインは蜂は低温に弱いから大丈夫だと言う。だが、直前に蜂に刺されているロスは怯える。 しかも、パニックに襲われた男が鍵をかけてしまった。 さあ、残されたケインとロスはどうなる!? -----と思って固唾を呑んで観ていると、なんと場面は変わって病院のベッドに寝ているロスの姿。 ケインは「もう大丈夫だ」なんて言っている。一体、どうやって逃げたんだ!!!(笑) そして、原子力発電所に何の前触れもなく蜂の大群が現われる。襲われた職員が、間違って何かのスイッチを入れてしまい、原子力発電所は大爆発。 すると、驚いたことに、場面が変わり、TVの画面に犠牲者が三万六千人以上と出る-----もう全編こんな調子であきれてしまいます。 蜂に襲われた列車の転覆にせよ、火炎放射器で蜂を焼き払おうとした隊員が、ビビってそこら中に火を放ち、町中が大火災になる場面にせよ、みんな蜂の脅威というより人災なんですね。 ただし、そこに「いちばん怖いのは人間である」などというメッセージ性を読み取ることは、まったく不可能なんですね。 とにかく、この映画は本国アメリカでも酷評の嵐に見舞われたそうですが、それはそうだと納得してしまいました。 [CS・衛星(字幕)] 3点(2019-04-10 12:13:26) |