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《ネタバレ》 自分の自叙伝を口述筆記させる冒頭に始まって、この映画は、FBI長官だったエドガー自身が語る歴史的な「事実」と、彼が決して語ろうとしなかった人生の「真実」とを合わせて描き出す。たぶん脚本家としては、この20世紀アメリカを代表する人物のひとりの、その“虚実”の皮膜をこそ浮き彫りにしたかったんだろう。そんな「事実」の“嘘”をそれこそ露悪的なまでに暴き立て、「真実」の“醜悪さ”を白日のもとにさらすことで、「J・エドガー」という人物の〈実像〉に迫り得るのだと。
けれどイーストウッドは、主人公の、そこにある虚や実などほとんど関心がないかのようなのだ。エドガーによるFBI創立や発展にいたる「事実」も、母親の抑圧的な愛情ゆえの複雑な内面や、かたくなに認めまいとしたホモセクシュアルな性向という「真実」も、ただ映像において“等価[フラット]”なものとして見せてしまう。その結果、ひとりの人物像を通して現代アメリカ史を物語る叙事的な「歴史映画」としても、偶像視された人物像のその特異な人間性を追った「伝記映画」としても、どこか曖昧な印象を与えることになったのは否めないだろう。 そう、いつの世でも精いっぱいの虚勢をはって生きざるを得なかった主人公の生きざま、その卑小な生を、映画は否定も肯定もせず、ただそのものとして映し出す。だがそれにより、観客はいつしかそんな“みじめさ”こそがこの男にとって生の所与であり、ひとつの過酷な「運命」、あるいは絶望というかたちでしかあがらえない「原罪」であることに思い至るだろう。その時、エドガーもまた極めて「イーストウッド的」な人物に他ならないのだと。 その上で、前作の『ヒア アフター』がそうであったように、イーストウッドはここでも「救済」を用意する。それは、生涯にわたって彼を支え続けその死後も彼を守り抜いた個人秘書ヘレンと、副長官クライドという2人の“守護天使(!)”の存在だ。とりわけクライドとのそれは、男同士の“老いらくの恋”という以上に穏やかさと慰安に満ちたものとして、とりわけ感動的だ。なるほど、エドガーの人生は哀れでみじめなものだった。が、そのラストに流されたクライドの涙と、ヘレンのとった行動によって、その最期の最期で「救われる」のだーー彼はじゅうぶんこの世界で「愛されていた」のだ、と。・・・この映画が用意したその“優しさ”の、何と美しく感動的なことだろう。 【やましんの巻】さん [映画館(字幕)] 10点(2012-02-15 22:35:55)(良:3票)
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