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《ネタバレ》 歌舞伎の世界は、一般の社会とは違う。女遊びも芸の肥やし。吉沢亮演じる立花喜久雄(花井東一郎、三代目花井半二郎)は家庭に依存せず、女性たちを利用するだけで、彼女たちの顔を見ない。襲名の足枷となる自分の娘の存在すら認めない。周りの人々を犠牲にして芸道を追求し、日本一の歌舞伎役者となる。人間国宝となる。虚空を見つめる視線の先にある芸とは一体何ぞや? 芸の極みとしてある人間国宝の価値とは何ぞや?
映画は、結局のところ、立花喜久雄の一般人からすればゲスの極みたる人間、その人間が生み出す芸を国宝として認める。犠牲にされた娘によって、ゲスな人間である喜久雄は役者として賞賛され、父親として許されるのだから。大衆はただ芸の美しさのみに感嘆し、全てを忘れるのだから。 芸とは人間である。人間から生まれる。喜久雄は、父親の惨殺を目撃し、復讐を企て失敗し、家族愛を失う。歌舞伎の世界に身を投じ、ただひたすら芸を磨く。曽根崎心中のお初を演じ、自己愛に根差す恋感情の表現に囚われる。そこに他者への献身、家族愛や善はない。あるのは個としての「悪人」、その悲しみと「怒り」、ゲスの極みたる人間そのものである。人間の本質を見つめる目は虚空とならざるを得ない。 『国宝』は「芸とは何か」を描き切っている。一般には共感し難いが、私はそこに一番共感した。映画はそこに人間の光を見ている。そして、欲望の源泉とその先の風景を映像として描いた。その先の風景。それは一握りの資格を持つ者が見ることのできる幻想であるとも。 ちなみに私は歌舞伎を生で観たことはなく、映像で坂東玉三郎の『鷺娘』や尾上菊之助との『二人道成寺』を観たことがある程度。(もちろんどちらも凄く感動した)それよりも、どちらかと言えば、歌舞伎の歴史が好きで、名跡の系譜や松竹・東宝の確執のストーリーに興味があった。歌舞伎の歴史をみれば、それは血の系譜である。五代目、六代目尾上菊五郎、九代目市川團十郎、五代目、六代目中村歌右衛門(ここが『国宝』のモデルのように思える)、初代中村鴈治郎、十代目、十一代目、十二代目片岡仁左衛門、十五代目市村羽左衛門、初代中村吉右衛門。名跡の継承、ライバル争い、妾腹、実子への固執、養子との確執、自死、殺人事件も少なくない。結局のところ多くの血は継承されていない。見渡せば、松本幸四郎の血筋だらけではないか。だからかもしれない、歌舞伎は本来、芸であり、人間なのだと切に感じた。吉沢亮。彼の目が良かった。そして、高畑充希、森七菜、瀧内公美。彼を取り巻く女性たちの彼を見つめる目も確かに「それ」を物語っていた。 【onomichi】さん [映画館(邦画)] 9点(2025-07-21 14:52:40)(良:1票) 《新規》
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