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■「モ・クシュラ」という謎の言葉、レモンパイを出す店、スクラップ、それらの配置はいかにもハリウッドの文脈にのっていて、そこからはずれることはない。この映画のラストを、ハリウッド映画一流のさげ、と評してもおかしい話ではないし、「ウェルメイド」な物語が現実と程良く折り合っている、と批判したって構わないとさえ思える。演出は完璧だし、フォード的、ホークス的な疑似家族は私たちを心地よく映画の世界に引き込んでくれる。■しかし、そう言いきれない居心地の悪さ。妙なズレ。■それは例えばマギーの口にねじ込まれるボールペンであり、片足の無いシーツのふくらみであり、がらんとした部屋で詰られるマギーの姿である。それは「残酷な現実をクールに描く」というものでもない。また「多様な現実を並列に配置している」わけでもない。■「現実」ではなく「映画」が要請しているから描いただけ、イーストウッドにとって「現実」とは「映画」なのだ、と思う。「映画」が世界の有り様をねじ曲げていくのだ。現実ではなく「映画の倫理」の中でしか、イーストウッドは生きていない。■だから、「マギーの選択の是非」「イーストウッドの決断の是非」を問う言葉、あるいは、「感動した」「マギーの家族がステレオタイプ」「後味が悪い」などの評に、賛否を問わずことごとく違和感を感じるのは、それらの言葉が常に現実を参照しているからだ。現実との距離を計測し、自分と映画の立つ位置を定める言葉。それらはこの異様なる傑作を前にして、すべて無効となる。■しかし、それらの言葉は当然と言えば当然ではある。映画は常に現実の模倣であり、あるいは現実との不断の闘争の場である。ところがイーストウッドはそれをすんなり乗り越える。軽いフットワークで現実を凌駕する。「映画」が世界の有り様をねじ曲げていくのだ。しかもハリウッドの文脈の中で。凄すぎ。■でもね、クリント、そんなのよくわかんないすよ。だから私はただ途方にくれ、ただ泣くしかない。その完璧なスタイルの中で繰り広げられる異様な事態を見続け、これが「映画」だと、ああ私は今まさに「映画」を観ている、凄い何か、異様な何かが目の前で進行している、と思う以外にない。
【まぶぜたろう】さん [映画館(字幕)] 10点(2005-06-06 11:37:16)(良:4票)
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