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期待したのは映像による具体的な芸談だった。もちろんそういうシーンもある。『四谷怪談』の髪すきの場で大事なのはお岩よりも宅悦の方なのだそうで、その宅悦の“いい驚き方”と“悪い驚き方”を実演してくれるところなど面白い。しかしそういう興味だけだったとしたら、カメラの動きがおかしい。演出の指導をしている場面では、それでどう演技が変わったのかを比較しなければならない筈だ。でもカメラはほとんど指導している仁左衛門ばかりを捉えている。羽田澄子が興味を持ったのは芸ではなく、仁左衛門の人物を凝視することで見えてくるものの方だった。つまり滅びゆく上方歌舞伎ではなく、滅びゆく上方人そのものだったのではないか。仁左衛門は戦後滅びかけていた上方歌舞伎を何とか復興した人である。しかし上方歌舞伎は復興したのだろうか。映画の中で何度も彼の愚痴が聞かれた。今では下座音楽も、大阪公演の時は東京から連れていくのだそうだ。研究生たちへの教育風景でも、どうしても公卿の雅びなイントネーションが出来ないことに眉をしかめる。なぜ上方歌舞伎は衰えたのか。戦後日本全国が東京化したことと無縁ではあるまい。この映画に感じるのは、最後の上方人である仁左衛門をまず記録しておかねば、という衝動である。彼のまわりに漂っている上方人としての風韻をこそカメラは捉えようとしたのであり、その試みは成功している。仁左衛門は家族だけでお茶屋遊びをする時でもキチンとネクタイをしめている。それでいてこの室内には外界を遮断した内輪だけで閉じているやや淫靡で濃密な気配も漂う。このキチンとした感覚とネットリした感覚との併存に、関東人である私などは上方的なものを感じた。芯のところに気難しさが感じられるのだけど、けっして声を荒立てない姿勢。千年の間じっくりと漉し続けられた文化が一人の人間の形となって現われている。大げさに言えば羽田はそのような千年分の記録を撮る意気込みで、カメラを回したのではないだろうか。それともう一つ、老いの問題がある。目が見えなくなりつつある老役者としての被写体。『新口村』の舞台、目隠しをして息子と対面する場面がそのまま、盲目の師と息子の弟子という現実に重なって見えてくる。彼の「老いると芸がリアルになる」という言葉、実感としてはよく分からないのだが、この場など、こういうもんかなあ、と微かにつかめた気にもなったのだ。[5部作版での鑑賞]
【なんのかんの】さん [映画館(邦画)] 7点(2009-09-28 12:19:29)
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