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カサヴェテスが好む「演じること」というモチーフは、当然芸人への興味に通じる。『アメリカの影』や『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』に出てくる客受けしない芸人たち。演じさせられることの嫌悪がここにはある。はしゃぐことが使命となっている人たち。自分の世界と舞台の世界との落差が彼らを疲れに追いやる。あるいは俳優。本作は、段取り通りの決められたセリフ・決められた演出がどうしようもなく嫌になってしまった女優の物語だ。段取り通りの進行に感じる閉所恐怖、それに彼女が段取り通りに老いていく不安が重なって、映画は進んでいく。舞台上の俳優をクローズアップで捉えるものだから、演じられているストーリーが意味を奪われ、舞台に閉じ込められている人物として見えてくる。演じている自分は何者だろうか、という疑問。ジーナは自分たちのことを「誰から私たちのふりをしているの」と言っていた。演じている自分も実は誰かに演じられているのであって、そういう連鎖が無限に続いた果てで何でもなくなってしまっていたとしたら。演じるということは何かのふりをすることである。幸福であるふりをすること・リラックスしているふりをすること、しかしその「ふり」をする俳優的人間は、「ふり」をしている自分は幸福ではない・リラックスしてはいない、ということをいちいち確認させられているようなものである。演じることの苦痛がここにある。彼女はとうとう舞台の上で作品を離れ即興の芝居、というよりも夫婦漫才を始めてしまう。そのはじけるような解放感。俳優は演じることによって自分自身から逃げ出せる特権も持っていたのだ、しかしそれは自分自身を限りなく曖昧なものにしていくという代償と引き換えなのだけど。この矛盾の中にカサヴェテスは「演じること」のテーマをつかんでいる。『こわれゆく女』では深刻だったが、本作ではからかいのようなゆとりがあって、若干息を抜けホッとする(ヒッチコック劇場にこの二人が出演した「ひとり舞台」というスリラーが、やはりステージものだった)。
【なんのかんの】さん [映画館(字幕)] 8点(2011-08-10 10:15:13)
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