| 作品情報
レビュー情報
《ネタバレ》 「怒りの葡萄」は聖書の引用で、神が怒りをもって踏み潰す葡萄のこと。葡萄畑はイスラエルの家、神が喜んで植え付けた葡萄はユダヤ人を指す。甘い葡萄を待ち望んだのに、酸っぱい葡萄(争いばかりする人間)ができてしまった。この出来損ないの人間に対する神の怒りの比喩。刑務所帰りで、小作人の息子であるジョードが、一家で土地を追われ、移住したカリフォルニアでの悲惨な生活を通じて「怒りの葡萄」という神の視座を持つまでの成長を描く。ジョードに付き添い、導くのは元説教師ケーシー。彼は資本家と労働者の矛盾を指摘し、労働者の闘う術を教え、死をもって道を示した。彼の導きで、人の魂は大きな一つの魂の器の一部に過ぎず、万人の魂は一つだと悟るジェード。二人は洗礼者ヨハネとキリストだ。まだ何も分からないが、何が誤りで、それを正す方法を見つけるために旅立つジェードは、荒野を放浪する求道者キリストだ。神の視座を持つということは、踏みつけられる民衆側の視座を含め、あらゆる観点からの視座を持つこと。それは「俺は暗闇のどこにでもいる。母さんの見える所にいる。飢えて騒ぐ者がいればその中にいる。警官が人を殴っていればそこにいる。怒り叫ぶ人の中に、食事の用意ができて笑う子供たちの中に、人が自分の育てた物を食べ、自分の建てた家に住むようになれば、そこにいる。」という台詞につながる。彼は、真の”乳と蜜の流れる地”を目指して旅立つ。警察から追われる逃亡者としてではなく、希望を持った求道者として、世の不正を糺す先導者として。成長したのは他には母親。「女は男より変わり身が早い。男は不器用でいちいち立ち止まる。女は流れる川で渦や滝もある。あっても止まらずに流れる。それが女の生き方」と女性の力強さを自覚し、「金持ちは子供が弱いと死に絶える。でも民衆は違う。死なない。しぶとく生きていく。永遠に生きる」と民衆としての誇りを取り戻す。良い言葉だが、これには伏線(成長過程)があまりなく、唐突感が否めない。大恐慌と経済制度の変化の為に土地を追われた小作農民一家の困窮ぶり、零落ぶり、過酷な移住の旅、移住地での苛烈な現実が見所である。が、母親はふくよかすぎて貧農に見えない。又過酷さを見せつけるはずの「桃摘み」の重労働場面が省略されているのは誠に残念。「人間じゃない。人間があそこまで惨めになれるわけがない」とは見えず。出所するのを何故家族に伝えない?
【よしのぶ】さん [DVD(字幕)] 8点(2012-12-22 03:29:57)
その他情報
|
© 1997 JTNEWS |