みんなのシネマレビュー |
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ネタバレは禁止していませんので 未見の方は注意です! 【クチコミ・感想】
8.この作品を観終えた時、想起したものといえば、ホウ・シャオシェンであり、テオ・アンゲロプロスだ。 素朴でポップなナンバーが頻繁に流れ、外見のイケてない若者が無邪気に自然の中を駆け回る。 そういった面で見ればホウ・シャオシェンの空気を感じる。 一方で、遠景のロングショットが多く、しかも尺も長く、叙事詩的な趣きがあるという面からいえばテオ・アンゲロプロスの作品にも似ているような気がする。 いずれにしても本作から受けた印象としては、もう一度観たらもっと味が出るだろうなぁ、ということだ。 ある村を舞台に繰り広げられる若者たちの群像劇。 そこには筋書きのない現実的な日々が映し出されているにすぎないが、かといって即興的演出でもって撮られたわけではなく、作為性も感じられる。 そういう意味で、ジャ・ジャンクー監督ならではの独自の感性が感じられる作品であった。 【にじばぶ】さん [ビデオ(字幕)] 6点(2009-07-06 00:19:31) 7.おそらく二度目により感動するたぐいの映画だろう、と日記に記しているが、まだ二度目は果たしていない。青春の自由と自由ゆえの頼りなさみたいなものが、あわあわと描かれていた。炭坑で働く人々の描写が向こうでは当局のチェックにあったとか聞いたけど、社会問題を提示するというより、青年たちがこれから出て行かねばならぬ社会の苛酷さにおびえためらう要素として置かれていたよう。汽車のモチーフが全編を貫いた。汽車を見たことのない彼らが、バスの中で警笛を真似て始まり、最後は村に戻って家庭にはいった一人の部屋でケトルが警笛のように鳴って終わる。その部屋からは、若いときにタムロしていた城門が見えている。日本にもあるサークル青春ものの中国拡大版だ。日本の青春ものの過剰ななれなれしさがない。外から聞こえてくる町の音、半野喜弘のヴァイオリンとチェロの音楽が、断片的に入る。 【なんのかんの】さん [映画館(字幕)] 7点(2008-07-04 11:22:36) 6.映画は長くて淡々としている。ただし文革後から90年代までの中国の文化や開放的な雰囲気を体感できるという点には価値がある。実際に、中国人はこの映画にとても感動するらしい。 【こまごま】さん [ビデオ(字幕)] 5点(2007-01-04 16:02:03) 5.「私たちはいつも何かを期待し、何かを探し求め、そしてどこかに落ち着き先を見つけるのです(ジャ・ジャンクー)」この映画をずっと共有できたら、と思った。しかし160分という短い時間の共有はスクリーンの向こうでは10年以上の時間だった。別に彼らは「映画のような」生き方をしたわけではない。中国の広大な国土と大自然は悠久の時の流れを思わせるが、人間の世の中はむしろ加速を続けていて、時代の大きな転換点のなかをタンポポの綿毛のように浮遊している彼らはそれでも確かにそこにいて・・・観た後に感じる茫漠とした圧倒的な感動でしばらく動けなかった。意識的に非生産的でいられる時期なんて若い時ぐらいしかなく、その間にも加速していく時間の中である者はそれにしがみつき、ある者は腰を落ち着ける。こういうことはどの時代でも起きていたのかもしれないが、この監督はその舞台を中国がどんどんと自由な国に向かおうとしている時代を選んだ。それが一番印象として現れてくるのは時が進むと共に変わっていく音楽だろう。題名の「プラットホーム」とは80年代を通して中国で大ヒットしたロック音楽で、こういった新しい音楽が古い音楽では伝えきれなくなった彼らの感情を、代弁者になり爆発させる。この映画は結構クサい場面が多い。かなり露骨に狙っている。でもそれがいい。さらに言えばこれが中国大陸をまたいだ青春映画でありそのスケールが素晴らしい。 【Qfwfq】さん [映画館(字幕)] 10点(2005-05-18 00:53:15) 4.1980年代の中国において、若者たちはいかに生きたか。そのクロニクルを4人の巡業劇団員を中心とした群像劇として物語っていく。とにかく、彼らの日常たるや「ダサい」し「暗い」し、彼ら自身もまったくもって冴えない。そんなダウナーな面々を、あまりにも広大な中国大陸的な風景のなかにポツンと置き、ゆるゆると長回しのキャメラで追うばかりの映像は、ほとんどテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』の“縮小再生産”みたいだ。…と思わせつつ、この映画が、1989年の天安門事件に至るまでの10年間の物語であること。あの、結局は若者たちの挫折に終わる天安門での出来事を、まったく描かないからこそ逆説的に思い起こさせること。この2点において、ぼくはジャ・ジャンク-監督の「政治的・人間的」な気魄(ガイスト)を見る。ここに描かれた主人公たちは、あの天安門で殺された学生や市民たちと同世代だ。彼らが「あらかじめ挫折を運命づけられた者たち」の哀しさと無力こそを象徴し、その心情が映画全体のトーンを決定していることに思い至るとき、ほとんど圧倒的な「感動」がわき上がってくる…。それゆえ、この映画は現代において最高の「政治」的映画になり得たし、最高の「青春」映画になり得たのではないか。何故なら、政治とは常にこうした過酷な運命を若者たちに強いるのだし、青春とは常にこうした挫折の連続なのだから。…正直、テレビのモニターでみるのはしんどいかもしれない。でも、素晴らしい映画です。スパッツ(?)姿の双子の娘はちょっとイケてますし、ね(とは、蛇足でしたか…) 【やましんの巻】さん 10点(2004-01-26 11:41:51) 3.ホウ・シャオ・シェンなら然るべき位置にカメラを据えると、そのフレームの中で静かに恋人たちは佇み、あるいは緩やかに自然に、フィルムが回されているその時々の感情に応じて体を移動させるだろう。 しかし、この監督はあくまでも構図の中に立ち位置を設定する、役者たちに動き方を演出する。スクリーンの左半分を占める壁の中に役者たちを行き来させながら会話を成立させ、双子の姉妹は完璧な構図の中に立ち、カメラはその片方をフォローしながらパンすると、彼女は再び完璧な構図の中にやや逆光気味で立ち止まる。 それだけではない。映画の前半の主要舞台である城壁に似た壁、その見事なロケーション。客観ショットと主観ショットの錯綜、ラスト2ショットの時制を越えたつなぎ、トラックから顔を出す役者の動きとそのショット内でのタイミング、長く会わなかった父の不在、そして、父が経営する店で、父の愛人であろう女が登場する、その長い長い間。 つまり、過剰なる「演出」。 例えばカサベテスならば構図などどうでもよい、映画的な演出などどうでもいい、と言い放つだろう。最も大切なのはシーンシーンで醸し出される人間の感情なのだ、物語などは後からやってくるのだ、と。 ところが、である。この30そこそこの映画監督は、そんな映画史など知ったことじゃないようだ。 主人公の別れた彼女が踊るシーン、フラメンコ、従兄が差し出す金、主題をシンボライズする楽曲、街を遠ざかるカメラ。それらのあからさまな抒情を映画に導入するためには、余程の覚悟と勇気、そして才能が必要とされるはず。 しかしジャ・ジャンクーはカサベテスやホウ・シャオ・シェンが無効にしたはずの「演出」を楽天的なまでに信じている。それがいいことなのかどうなのか私にはよくわからない。ただ、映画の力への確信が「プラットホーム」をかくも感動的に、完璧な作品としていることだけは確かだと思う。 涙果てるまで泣いた。20世紀の追尾を飾る傑作。 【まぶぜたろう】さん 10点(2004-01-17 11:56:20)(良:1票) 2.長すぎる。若者がかわいくない(もちろん外見のことじゃないですよ)。共感できるところがない。でも当時の様子をすることができて興味深かったです。 【omut】さん 4点(2003-07-03 03:04:19) 1.1980年代の中国をある若者たちの青春を通して、その時代の空気というものを掬い取った作品。天安門事件に至るまでの激動の歴史的な出来事は敢えて声高には描かれず、極めて普通の日常をスケッチ風に、それはまるでバスの窓から風景を眺めているかの如く、決してドラマチックにはならず実に淡々とした描写で展開されていく。主な舞台となる小さな村に遠い過去から脈々と流れ続けている時間やそのたたずまい、あるいはどの国にでもいるような、恋愛や新しいミュージックや煙草などに興味を示す若者たちの初々しい描写など、興味は尽きない。ただ漠然と鑑賞していると漠然とした印象しか残らず、精神的にも肉体的にも充実したときにでも観ないと、まさしく“プラットホーム”に置き去りにされてしまう・・・そんな作品だ。 【ドラえもん】さん 7点(2002-04-26 15:09:31)
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