みんなのシネマレビュー |
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ネタバレは禁止していませんので 未見の方は注意です! 【クチコミ・感想(10点検索)】
12.観終わって周り見たら、泣いてるオバちゃんがいてさぁ。ついもらい泣きしそうになったよ(←「自分も感動した」と素直に言いなさいっての)。クルマ音痴のワタシ、グラン・トリノと言われてもピンと来ず、グラン浜田なら知ってるんだけどなあ、と余計なコトをつぶやきつつも、さて映画を見ながら、ああ、映画界で成功をおさめたイーストウッド、ハリウッド最後の良心と言われるイーストウッドにも、あれこれと屈託があるんだなあ、と。そりゃまあ、成功した分、多くの人を傷つけたりもしただろうし、睨まれもしたかも知れない。周りの気づかないところで、ひっそりと忸怩たる想いも、持っていることだろう(一方で世の中には、「俺の人生、順風満帆だったななー」とばかり「なぜ私はこんなに成功したか」とかいうビジネス本を臆面も無く書く人がいて、ようやるわ、と思うのだけど。まあ、“ビジネス本”ってモノがすでにひとつのビジネスですからね~あまり目くじら立てるのも)。今回の映画でイーストウッドは、自らを頑固ジジイとして描き、露悪的な差別言動すらも辞さない。その一方、自らを、あえて穏やかな日差しの下に置き、木々のざわめきの中に置く。そして異民族の中に単身、身を置いてみせる。心に影を抱いたまま。主人公が、“先輩移民”として、東洋系の少年にハチャメチャな指導をする姿、国産車を愛する姿には、イーストウッドの愛国心が感じられるのだけど(庭の星条旗までも、彼の心象をそのまま表すようにはためいてみせたり)、そこにはあるのはもはや、何が正しいか何が間違っているか、などという単純な図式ではない。決して拭い去ることのできない過去、自分が一番罪の重さをひしひしと感じている過去。それを背負いながら、そこから逃げ隠れせず、押しつぶされることもなく、精一杯胸を張ってみせる、主人公の、いやイーストウッドの姿こそが、そこにある。とことん前向きなる贖罪の映画、それがこの『グラン・トリノ』ではないだろうか。・・・ところで、ここには確かにイーストウッドの過去が込められているのだけど、ふとある瞬間、この主人公ウォルトに、あるヒーローの姿が重なる。それは・・・ああ、寅さんだ(笑)。少年タオはさしずめノボルだねこりゃ。 歌はイーストウッドより渥美清の方が上手いと思った。ふふふ。 【鱗歌】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-05-01 21:10:48)(良:2票) (笑:1票) 11.《ネタバレ》 イーストウッドの、いつものマジモード文芸調の映画なのに何かこうわかりやすさが押し出されている作品だった。 前半のジョーク混じりの説明的な展開は速くて心地よく、本当によく練られていると言う感覚。 晩年余生を静かに送りたい近所のおじいさんが、ダーティハリーの台詞に似たしゃべり方でドスをきかせるセンスはすごく面白い。 さて後半、取り返しのつかない事件が起こるが結末で本当に感動してしまった。 だけど、泣けるとか涙が出るとかそう言う感覚ではなく気持ちが大きく動くと言う意味でものすごい感動だった。こういう結末で本当に感動できる安心の本物の映画職人だとおもう。 イーストウッドは44マグナムをぶっ放して、正義の味方を演じるのが得意という評価が日本に定着しているのは、映画会社の思惑なんだろう。どういう訳か、日本ではイメージが変形して固定してしまった。あげく21世紀に永遠の大根役者として評価され続けていると言うのが面白い。 イーストウッドはいつだって本気で映画を作り続けている。本気で文芸作品を撮ったかと思うと、全くの同時期に本気で固定ファン専用プロモーション刑事映画を撮る。センチメンタルアドベンチャーとファイヤーフォックスが同年であったり、バードとダーティハリー5が同年であったりする。イーストウッドが文芸調なのはほんの最近だと思ったら大違いで、愛のそよ風とダーティハリー2も同年。この人ははじめから文芸調とファン向けアクションを併走している。 この映画は(というか全部そうだけど)一切情報を入れないで観た方が良い。 宣伝番組や雑誌特集で中盤の流れを知ってしまうとせっかく脚本家が用意した驚きを得ることができず感動のしどころが一つ消滅する。 メディアの姿勢は懸命に作った脚本家に失礼だと思わないのかちょっと疑問だ。 【黒猫クック】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-30 01:29:11) 10.《ネタバレ》 ミリオンダラーベビーの書き込みで、この映画が好きか?と聞かれたら、好きではないと答えるでしょう。と書いたのですが、今回のイーストウッド監督作品はたぶん、私の好きな映画の一本に入るでしょう!なにが今までのイーストウッド作品と違うのかということです。今までの作品は問題を提起して説明して、解決を一応するのだがしかしその問題の特殊性、普遍な大きさに見ての帰りに、ともすれば気持ちが釈然としないというか、気分が悪いというか、そうなんですよいつも良い映画なのに! それが、この映画のラストときたら、五大湖から吹く心地よい風の中をこれまたビッグエンジンのグラントリノがタオのドライブで走り抜けていく!まるで、アメリカ基幹産業の象徴のように。その少し前に私に涙を溜めさせた映画のラストがこんなに爽やかで、未来の希望にあふれる穏やかなシーンで締めくくられるとは.... 確かにこの映画の中に ハリーがいます。あのマグナムをぶっぱなして強引に解決していく、でも今回は違ったのです。もうそんな時代ではない。暴力は暴力を呼び、孫子の代まで続いてしまう。そう考えたコワルスキーのとった行動があの壮絶に撃たれ死んでいくことでした。それはタオやスーの家族に対する償いだったのでしょう。また戦時中に自分の犯した罪への償いなのかもしれません。とにかくこの映画でクリントイーストウッドという人は映画の基本に立ち返った作り方をしたのではないでしょうか。それがあのラストに繋がる事になったのでは私はそう思います。 私もわざと物語にはふれません。あまりこんなの読まずに見に行きましょう。絶対に納得できる貴方にとって最高の作品です! 【としべい】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-29 22:10:09) 9.《ネタバレ》 「クリント・イーストウッド映画の集大成」と言われる。実際、集大成なのか、落とし前なのか、議論はあるかもしれないけど、この映画がイーストウッドの歴史の中に位置づけられ、その軸に沿ってこそ最大級に評価されているのは事実であろう。 確かに、イーストウッドの過去の作品のイメージ無しにこの映画を観ることはできない。『夕陽のガンマン』や『ダーティハリー』があり、『許されざる者』がいる。そういった俳優としての、或いは監督としての歴史の一連として作品が評価されるのは現代ではイーストウッド以外にいないとも思える。 作品が作者を排した一個のテキストとして評価されるべきと唱えられた時代があった。『グラン・トリノ』という映画はそんな作品論を易々と超える。作品とは個人を縛り、作品は個人に縛られる、それは作者であろうと、作品の受け手であろうと絶対的なもの、、、まぁ、そんなもんだろうと。 綿密に計算された「上手い」映画だと思う。だからこそ、ラストの驚きも自然な流れの中で観られる。そこにイーストウッドの歴史を見ればこそ、全ては腑に落ちるようだ。彼は、荒野の無頼漢であり、44マグナムを携えたタフガイだった時代の彼ではない。苦悩に満ちた「許されざる者」であり、アメリカという栄光と傷を見据えたオールドマンであり、自らの赦しを胸に刻み、新しい「光」の中に希望を見出すプレイヤーなのである。現代のアメリカの中で、ワイルドバンチはメランコリーの波間に消えたのだ。 やはり、この映画はイーストウッドの集大成的な映画なのだと僕は思う。だって、あんなラストはイーストウッド以外に考えられないじゃないか。 【onomichi】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-29 19:48:51)(良:3票) 8.《ネタバレ》 途中までは満点をつける気などさらさらなかった。 ありきたりの父&息子の成長譚に似すぎていてちと痛いとか、老人の孤独と死にまつわる諸々など個人的に映画館では見たくもないとか、カットのつなぎに性急さがちらほら見られ、にもかかわらず序盤の事件が起きない退屈さを隠蔽しきれていないとか、だいたいアメリカの片田舎でならひょっとしてあるかもしれないギャング話に、なんで日本人である私がわざわざあっちの小市民のふりして感情移入してやらにゃあならんのか、などなど。むろん間違いのない映像の質の高さに安心して身を任せてはいたのだが、そうした小文句が脳内を駆けめぐっていたのだった。 しかしあの、よくぞここまでと書くしかない娘の悲惨な姿が映し出されてからはもう、映像世界に引きずり込まれてどうしようもない。首根っこをつかまれて無理矢理という感じであり、しかも最期を遂げるシーンがあまりにも想像ベタすぎてかえって意外というか、ど真ん中すぎて茫然見逃しというか、こんなのありかという混乱の収まらぬうちにシーンは葬式会場へと移り棺を眼前にしてまるで本当の肉親が死んだかの如き気分をありありと味わい、感動して腰を抜かしていたのであった。あんた、そりゃないよ爺さん。このわけのわからない涙はいったい何なんだベイビー。 俳優イーストウッドは死んだ。映画の主人公でしかなしえない死に方で最後に死んでみせたのだ。そうしてわれわれに、現実と区別の付かぬ混乱の中で悲嘆と嫉妬と羨望の入り交じった涙を流させ、そういう死に方がありうるのだということを示し、スターとしての義務を果たしたのである。 【アンギラス】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-28 21:33:03) 7.《ネタバレ》 直球な差別用語の連発は語弊があるが分かり合えた仲間同士では粋であり、今まで演じてきた「頑固一徹・俺が正義なタフガイ」キャラは相変わらずで集大成と言える作品。でもそれでいて意固地に凝り固まっているわけでもなく、人種差別主義者で偏屈で頑固者だったはずが、ユーモア溢れる姉、軟弱な弟をはじめとしたモン族と打ち解けているあたり柔軟性もあった。モン族に古き良きアメリカというか、殺伐としている今の世の中が忘れた温もりを感じたのだろう。言葉は通じなくても心は通じるんだな。 星条旗を掲げてましたが、颯爽と力強く風になびく描写はなく、力なくただ垂れ下っていたのは今のアメリカを象徴しているようだった。それに対し昔の強いアメリカ時代の象徴のようなグラン・トリノ(希望)を託すのが、主人公に男を学んでいたあのモン族の少年。国を憂いむ老兵から新時代、新世代へのエールか。 これまでのイーストウッド作品を観てきた人には、【ケリのつけ方】が=イーストウッド(ヒーロー)の最後と見えてしまうだろう。自分の正義を貫いてきた男の最後が十字架を背負ったキリストのような散り方。お見事だった。 主人公とイーストウッドが歩んできた道が凄くマッチしていて、脚本家はイーストウッドに捧げたのだろうか?と思いましたね。ここ数年は人生を達観したかのように贖罪をテーマにした作品が多いが、自らがこのような役を演じたのは役者としてもケリをつけたのか?と思うと寂しい。 【ロカホリ】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-27 21:16:53)(良:2票) 6.《ネタバレ》 イーストウッドが、玄関ポーチにすっくと立っている。それだけで、そこに“荒野”が出現するのだ。イーストウッドが、街の不良どもに凄みをきかせる。その時そこにいるのは、まぎれもなく“ダーティハリー”その人だ。イーストウッド自身が最後の出演作というこの映画は、彼これまで演じてきたアンチ・ヒーローな「ヒーロー像」の集大成であり、それへのオトシマエに他ならない。 この映画から様々な政治的・社会的な寓意やら見解を見出すことは容易だろう(そこから、アメリカにおけるマイノリティの問題を皮相的に扱ったとか、不良少年たちの側の「問題」の背景を見ずに単なる悪役として描いている・・・等の批判も出てくるわけだ)。が、そんなこと以上に、『許されざる者』が「最後の西部劇」だったようにこれは「最後のイーストウッド映画」なのである。「監督」としてのイーストウッドは、「役者」としてのイーストウッドのキャリアをここに完結させ、“封印”してみせた。ジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』が、まさにそうだったように。 クライマックスの、両手を広げて地面に横たわる主人公は、ほとんどキリスト(!)のようだ。ここでもまた観客は、この“聖人画(イコン)”から様々な解釈やら印象を語ることができるのかもしれない。しかしそれが、「最高の死に場所」を得た主人公を映画が“祝福”するものであること、そして「役者」イーストウッドの最後の勇姿への“餞(はなむけ)”であること、ただそれだけのことだとぼくは信じて疑わない。本作の主人公であるとともに「役者」イーストウッドそのものである彼は、ここで映画に、そして「監督」イーストウッドによって召された。それをこういう形で目撃できたぼくたち観客は、何と幸福なことだろう・・・ そう、何よりもこれは「幸福」な映画なのである。だからぼくたちも、心からの祝福と“歓喜の涙”で応えてあげようじゃないか。 【やましんの巻】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-27 16:45:40)(良:7票) 5.《ネタバレ》 まさにクリント・イーストウッド男塾!イーストウッド演ずるコワルスキーが『アメリカで生活する男ならこれぐらいの事は出来なくちゃダメだ!』と庭の手入れ、他の人種の仲間との話し方、しかも女の子のアタックの仕方まで、色々と叩き込まれるモン族の少年タオ。最初はイジイジした奴なのに次第にたくましい漢に成長していくと同時にコワルスキーも頑固一徹の偏屈ジジイから、それまで見せなかった柔らかな表情をユーモアを交えて見せるあたりは絶品でした。そして彼が銃をかまえる姿、近所のどうしようないギャング集団に対して手で銃を撃つ真似をして挑発したりするシーンは様になり過ぎてると言うか・・個人的に痺れてしまいました。そしてギャング集団との決着の付け方は色々な意見があるでしょうが私は納得行くものでした。過去の戦争の忌まわしい出来事と自分の人生にケリを付けるように最後は自らは武器を取らず、丸腰で挑み自分の身体と命をもって解決してしまうなんて出来過ぎなよう・・・。その後、タオに受け継がれたグラン・トリノ・・実にいい表情で運転していて、その上に流れるエンディング曲の素晴らしさに我慢していたのですが不覚にも泣いてしまいました。ベトナム戦争で米国に利用され、用済みになったら見捨てられたモン族とポーランド系としてフォードに長年勤め上げたのに日本車の勢力に追われ車産業で栄えた街が廃れて、そこに取り残されたような主人公と共通する部分とか考えると、より興味深かったです。正直、本作で役者引退宣言していて『何でだよー』と思っていましたが、悔しい事に本作を観て、それも納得してしまいました。イーストウッドの役者人生最後を飾る、あまりにもふさわしい作品でした。 【まりん】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 20:28:52)(良:1票) 4.《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。 ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。 戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。 俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。 【すぺるま】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 12:14:04)(良:7票) 3.《ネタバレ》 あんなに悲劇的なラストなのに見終わった後は 不思議な安堵感と心地よい爽快さが残る。 CGもVFXも豪華なセットもないだけどこれは・・・ いや!これが「ハリウッド映画」だ!!!!。 【一番星☆桃太郎】さん [映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 04:02:38)(良:1票) 2.《ネタバレ》 先日のチェンジリングも素晴らしかったのですが、このグラン・トリノは私にとって特別な作品となりました。噂ではこの作品でクリントイーストウッドは俳優を引退するとか。そうだとしたら、これ以上に相応しい作品は無いでしょう。最後のシーンでは涙が止まらず、周りを憚らずに号泣してしまいました。人生って何だろう?男とは何だろう。まさに一人の男の生き様、汚い部分も、罪も、善行も、生きてきた道全てが最後の選択に凝縮されていたように思います。そして、ウォルトから受け取ったバトンを胸に、グラン・トリノで海岸沿いを疾走するタオこそ希望そのものです。黒沢監督の「生きる」に通じるものが有りますね。私は女性ですが、性別関係なく人生について考えさせられる作品です。映画でこんなに泣いたことは数えるぐらいです。それほど感動し、心の奥底を突き動かされました。中高年世代にも、若者にもぜひ見てもらいたいです。 【ClocheRose】さん [試写会(字幕)] 10点(2009-04-18 19:47:24)(良:1票) 1.《ネタバレ》 クリント・イーストウッドは変わった。『許されざる者』以降複雑な映画を撮り続けてきた。完成度は高いがその作品をどう受け止めるべきなのか、正直戸惑うことがあった。『ミスティック・リバー』では人の脆さ、暗さを描き、『ミリオンダラー・ベイビー』では死についてのテーマを観客に投げかけ、自分にも問いかけているようだった。それは冷たく突き放したような、この辛い現実も受け入れるしかない、ともとれる描き方だった。しかしここに来て彼はまた変わった。『チェンジリング』で人間の強さを示し、確かな希望を見せた。そしてこの『グラン・トリノ』。彼の近年の作品に見られなかったユーモアがあり、優しさ、希望に溢れる作品になった。ウォルト・コワルスキーという偏屈なキャラ、これをイーストウッド自身が演じたことで大きな意味が加えられた。ウォルトはタオとの交流で心を開きはじめるが、タオやスーの為にした事が結果的に彼らを傷付けてしまう。ここでウォルトは報復を決意したように見える。タオもそれを願った。彼はタオを置いて単身ギャングのもとへ行く。この展開は彼の作品群にもよく見られるものだ。しかしイーストウッドは変わった。これが彼の西部劇時代ならギャングを倒して夕陽に向かって去っていったかもしれない。『許されざる者』であれば皆殺しにしてやるせない空虚感、重苦しさを抱えて映画は終わったかもしれない。しかしイーストウッドは変わったのだ。ウォルトは自分の命と引き換えにタオやスーに何も背負わせなかった。「グラン・トリノは、俺の魂はタオに受け取ってもらえた。戦争や人殺しなんてものを次の世代に背負わせはしない。そんなものは俺の代で全て終わらせる。時代は変わったんだ。俺は席を譲るよ。」ウォルトが、かつてのハリー・キャラハンが、夕陽のガンマンが、イーストウッド自身がそう言っているように思えた。彼は自分が体現してきた象徴的なキャラクターを自らの手で葬り、そして次の世代へ、未来へ自分の魂と希望を託した。時代は変わったのだから。イーストウッド、こんなことされたら僕は泣くしかないよ。『グラン・トリノ』は俳優クリント・イーストウッドの終着点にふさわしい最高傑作、いや、それ以上に最高の“イーストウッド映画”だ! 《追記》でも『グラン・トリノ』が本当に最高なのは、こんな堅苦しい言葉を笑い飛ばしそうな程の親しさ、妙な軽さなのだな、と。改めて思った。 【Sgt.Angel】さん [試写会(字幕)] 10点(2009-04-07 00:23:44)(良:8票)
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