みんなのシネマレビュー |
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
ネタバレは禁止していませんので 未見の方は注意です! 【クチコミ・感想(9点検索)】
3.《ネタバレ》 「ヒロシマ・モナムール(広島、我が愛)」。 「君は何も見ていない」という言葉は、アラン・レネ自身の自問自答がこの映画に刻まれているのではないだろうか。 「夜と霧」がそうであったように、人が殺された“跡”とそれを記録したフィルムを通して見たにすぎない。直接あの惨状を見てはいないのだ、と。 レネが冒頭で原爆の惨状を伝えるフィルムとして関川秀雄の「ひろしま」を選らんだのも、あの日を経験した・あの日に家族や友人を失った者が大勢参加したフィルムだったからだろうか。岡田英次も「ひろしま」に出ていたのだから。 原爆資料館、被爆者を治療する映像、それを再現した映画が重なり、2人の男女が情事にふけながら広島の話をするのである。いや、話すのは広島にとって外部の人間であるエマニュエル・リヴァ。岡田英次はそれを黙って聞くように彼女の体を抱き続ける。人の死が刻まれた映像と共に二人は新しい生命が生まれる勢いで性交を続けるのである。 「夜と霧」が「死」だけの描かれたドキュメンタリーとして終わったならば、この映画は「死」の次にある「生」を交えながら描こうとしたのだろうか。 さすがにあれだけズッコンバッコンされると平手打ちどころじゃないけど。岡田英次もちょっと殴りたくなったわ。 2人の男女は心の中に戦争の傷跡、見えない傷が刻まれている。家族を失った男、最愛の恋人を失った女。2人は共通の痛みで接近するし、また完全な理解者にはなれないだろうという心の距離も置いている。自分の故郷にいる岡田英次は尚更だ。それは英次にとってもリヴァの過去を知らないという問題が出てくる。 リヴァもまた自分の愛した軍人と、軍人として生きていた英次の境遇を重ねているだけ。同情?興味本位?疑問が浮かぶ関係の二人は心の底から愛し合っていない。冒頭で二人の肌を覆う灰?のような粉が消えていくのは表面上の事に過ぎない。 広島のデモ行進で呼び起される彼女の記憶・「手」に刻まれた忘れることのできない記憶。冒頭シーンからして手、手、手が映される。 広島が変わりゆく街並みの中で「あの日の惨劇を絶対に忘れるものか」といたるところで叫ぶように(デモのプラカード、写真や絵まで混ざる遺影の生々しさ、被爆した人間のようなメイクを施して祭りを見物する人々、メイクで背中の火傷を再現する描写など)、女も英次に恋人の面影を狂ったように求め始める。 リヴァが悩んだ次は英次が悩む。英次はリヴァの記憶を直接見ることは出来ないのだから。リヴァが思い浮かべる故郷ヌヴェールの姿も英次は恐らく知らない。この瞬間に2人の男女の間に決定的な心の壁が生まれる。 英次がストーカーまがいの行為までして彼女を追うのも、それが悔しくてしょうがなかったのだろうか。自分も彼女も何も知る事が出来ないという点じゃ一緒だ、と。 その見えない壁は、ラストでそれぞれの故郷の名で異性を呼び合う瞬間まで存在していたのではないだろうか。何て事を思ってしまう。 【すかあふえいす】さん [DVD(字幕)] 9点(2015-06-19 13:06:26) 2.《ネタバレ》 私はこの作品を恋愛ものだと思いたくありません。二人の関係は紛れもない不倫だし、外国の街角で自分の国の言葉で話しかけてきた異性と即ベッドインなんていうのは勧められませんが、主人公のフランス人女性には戦争で壊滅的に破壊された広島という街でそうしなければならなかった理由があり、全編がその理由を語るために存在するというといってもいいと思います。作品の中盤で、ロケの休憩中に転寝をする女性のわきに長い尻尾が妙な形に曲がった猫が登場しますが、「猫なら尻尾が曲がるだけでも人間だったら心の奥底に見えない傷がある。」と言うためにこの猫を出したのでは、などというのは考えすぎでしょうか?巻頭の「君は広島で何も見ていない。」という日本人男性の言葉には「戦勝国の人間には所詮、敗戦国のことはわからない。」というような奢りさえ感じられますが、その日本人男性は次第に考えを改めていき、フランス人女性の「ドイツ人の彼が死んだ悲しみを、村の人に罵倒されたり、髪の毛を刈り取られたりしている間は忘れることができた。」という言葉で正に目が覚めたと思います。トイツ人を愛したフランスの女まで憎いというフランス人の心理は(フランス人でなくても)ただ戦争の愚かさだけを見せつけます。「目を覚ませ!」というかのように女性の頬をひっぱたく男性と感謝するように微笑む女性。最後に夜明けのバーで離れた席に座ってフランス人女性を見つめる男性と目を伏せる女性・・・癒しにはほど遠いけれど理解しあうことはできたというような結末でした。点数は一番手の方の真似をしたわけではなく、モノクロながら目をそむけてしまった被爆者の治療シーンがあることと日本語の題名のせいでー1点です。わたしだったら題名は「ヒロシマ、わたしが愛した人」にします。 【かわまり】さん [DVD(字幕)] 9点(2006-03-23 11:15:32) 1.「きみはヒロシマで何も見なかった、何も…」と、情事のさなかに、歩きながら、料理屋で、ただくり返す日本人の男。それに対して、「私は見たわ」と同じくくり返す、フランス人の女性ジャーナリスト。男にとって”原爆”の悲劇とは決して「語り得ないもの」に他ならない。何故なら、それは「世界の終末」そのものであり、それを「見る=体験する」ことは、「死=無」そのものなのだから。しかし、女の方にも、戦争中に敵側のドイツ兵を愛し、その男の死とともに彼女自身の「魂の死」を体験した”過去”があったことを、観客は知らされる。永遠にすれ違ったままの、ふたつの「虚無」…。これはまさに、アラン・レネの映画というよりも原作・脚本のマルグリット・デュラスの作品と言うべきでしょう。その短い、そして暗示的な会話の積み重ねを通じて、ヒロシマとフランスの地方都市のふたつの場所で繰り広げられた「魂のホロコースト」が浮き彫りにされていく。その語り口の、なんて”崇高”なことなんだろう! …と、初めて見た時は深く深く感動したものだった。でも、その後にデュラス自身による映像作品『インディア・ソング』なんかを見るにつけ、このレネ作品すらもがある種の”通俗さ”が免れていないことにがく然としたワケで…。それでも、未だにぼくにとって、これは映画史上最も美しい恋愛映画のひとつだと信じております。(ひとつ、これは余談ですが、リチャード・リンクレーター監督の『恋人までの距離(ディスタンス)』って、絶対この映画の影響を受けてますよねっ!) 【やましんの巻】さん 9点(2003-11-17 13:51:48)(良:2票)
【点数情報】
【その他点数情報】
|
Copyright(C) 1997-2025 JTNEWS