みんなのシネマレビュー |
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ネタバレは禁止していませんので 未見の方は注意です! 【クチコミ・感想(10点検索)】
2.《ネタバレ》 世に数多存在するサクセスストーリーは「目標を掲げ」「弛まず努力し」「挫けず諦めず」「成功を勝ち取る」が基本です。その点本作は全く当てはまりません。好きな事を続けていたら人気者になれた話。メッセージは極めてシンプルで「好きなことをしよう」です。これは「自分らしく生きることのススメ」でもありました。『そんな綺麗事言ったって結局は成功者の自慢話じゃん』にならないのが素晴らしい。そのためにわざわざ本人(原作者)を登場させ「さかなクンが世に出なかった場合」もフォローしています。彼は不幸せに見えますか?人生の勝ち負けとは「お金」でもなければ「社会的地位」でもありません。楽しく生きた者勝ち。そこに出自や性別、健常性といった属性は関係ないのでしょう。とはいえ「お金は無くていい」「社会に認められなくていい」「好きなことだけすればいい」ではありません。ミー坊はきちんと報酬を受け取っていますし、魚の絵が評価されたのもTVで人気が出たのも社会のニーズと合致したから。よく伊集院光氏が師匠・三遊亭円楽の言葉として『好きなことに社会性を持たせろ。そうしたら食っていける』を紹介しますが、まさに本事例のこと。ただ残念なことに皆が実践できる生き方ではありません。「運」の要素は少なからずあります。実際ミー坊はついていました。彼の成功は「子の好きを肯定し続けた母親」と「よき理解者の助力」があったればこそ。とくに母親については(嫌な言葉ですが)「親ガチャ」と呼ぶくらい完全に運任せです。「あの母親にしてミー坊あり」なのは間違いありません。たぶん我が子の生まれ持った性質上「出来ないことを出来るようにする」は多大な苦しみが伴い幸せを遠ざけてしまう。それなら「好きなこと、やりたいことを全力で応援する」へ教育方針の舵を振り切ろう。そう決断したのだと思います。これは生半可な覚悟ではありません。「普通」を捨てることだから。もしかしたら離婚原因の一端では。そうだとしたら夫とお兄ちゃんは大変お気の毒ですが「腹を括る」とはこういうこと。母親はミー坊の幸せだけを願ったのです。その強い思いこそ「愛」であり、尊くもありますが恐ろしくもあります。 実は本編冒頭の「男か女かはどっちでもいい」でズッコケました。あぁ~しらきかと。そんな事は物語を通じて伝えればよい話で、わざわざ最初に断るなんて野暮もいいところ。あまり期待できないと感じました。ところがどっこい。もうずっと可笑しくて。本当に全部楽しかったです。それでいて寂しくなったり、辛くなったり、嬉しくなったり、グッときたり。大いに揺さぶられました。脚本が良いのは勿論ですが、それ以上にキャスティングが神懸っておりました。何といっても主演ののんさんが素晴らしい。ミー坊役がフィットする男性俳優さんなら沢山思いつきますし、雰囲気重視なら「もう中学生」もイケそう。それなのに、あえて役と性別が異なる女性俳優を選ぶとは。『福福荘の福ちゃん』じゃあるまいし。ある意味博打だった気がしますが、ジャンボ宝くじ1等級の大当たりじゃないですか。あえて「男か女かは~」と宣言した監督の気持ちも理解できるというもの。もう「のんミー坊」にゾッコンでした。自分のナイフは魚臭くなるから嫌だとか、ししゃもの種類で店員に酔って絡むとか、ミー坊が映る全シーン全カットに釘付けでした。破格の愛らしさとでも申しましょうか、人間性の「旨味」に溢れていたと思います。のんさん(能年玲奈も含む)主演作品は『海月姫』と『この世界の片隅で』を鑑賞済みでしたが、これほど魅力的な役者さんとは気づきませんでした。面目ない。替えが効かないオンリーワンな俳優さんだと思います。脇を固める皆さんも最高でした。友情厚い狂犬、実は気のいい総長、シャツの網目が広すぎるカミソリ籾、トホホなバタフライナイファー(そんな言葉はない)、胡散臭い成金?歯医者、憂い多きモモコさんに顔が優勝娘ちゃん、もちろん強くて優しいお母さんも。例外は先生(ドランクドラゴン鈴木)くらいかな。うそうそ冗談です。もう全員大好きです。やはりコメディはキャラクターが命。これだけ素敵な人を揃えられたら文句の一つも出てきません。奇を衒ったようにも見えますが、王道の人間賛歌であり愛の映画でありました。年明け早々こんなに長文になってしまい申し訳ありません。いつもはこの半分くらいを目安に感想を纏めるよう心掛けていますが今回ばかりは無理でした。それだけ「語りたくなる映画」という事でお許しください。本編も2時間20分もあることですし。 【目隠シスト】さん [インターネット(邦画)] 10点(2024-01-01 00:00:00)(良:1票) 1.「普通って何?ミー坊はよくわからないよ」 「普通」じゃない人生に嘆く幼馴染に対して、主人公の“ミー坊”は純粋にそう言い放つ。 そこにあったのは、安易な“なぐさめ”でもなければ“やさしさ”でもなかった。 ミー坊自身、普通じゃない生き方をしていることへの自覚があったわけでもないだろうし、好きなものをただ「好き」と言い続けることの価値なんてものを「意識」していたわけでもないだろう。 ただボクは“お魚さん”が好き、だから、“お魚さん”のことばかり考えて生きていきたいし、生きていく。 もし、ただそれだけのことが「普通」じゃないとされるのなら、しかたがない。 彼の根幹にあり続けるものは、雑味のないその「意思」ただぞれのみであり、それ以上でもそれ以下でもない。彼は自ら選択したその生き方に対して、他者からの意味も価値も求めていない。だからこそ、決して揺るがず、ブレない。 それが、この映画の主人公の魅力であり、彼を描いた本作の魅力だろう。 誰しも、自分自身に対して嘘偽りなく、まっすぐに生きていたいと心の中では思っているはずだ。 でも、残念ながらこの世界はそういうことを簡単にまかり通せるほどやさしくできていないし、そういう意思表示をすることさえ難しい。 そんな「意思」を貫き通す主人公が登場しても、「こんなのファンタジーだ」と、普通の大人なら感じてしまうだろう。 そう“普通”なら、こんな馬鹿げたヘンテコリンな映画は、まともに観ていられないはずなのだ。 だがしかし、この映画の中心、この映画を生み出したプロジェクトの中心に存在するモノが、「さかなクン」という“リアル”であることが、この作品を奇跡的に成立させているのだと思える。 どんなに“変”な人間たち、どんなに普通じゃない人間模様を見せられていたとしても、そこにさかなクンという現実に存在する人間の人生が存在する以上、この物語が破綻することはなく、私たちはこの映画世界に没入することができる。 また、いびつで愛おしく多幸感に溢れる映画ではあったけれど、この映画は決して“綺麗事”や“理想論”を都合よく並び立てているわけではない。 あからさまにネガティブなシーンは敢えて一つも見せていないけれど、この映画世界の中では、常に苦悩と孤独、人生における辛酸がぴったりと寄り添っている。 その極みこそが、さかなクン自身が演じる“ギョギョおじさん”の存在だろう。 社会から拒絶され疎まれ、孤独に生きる“ギョギョおじさん”は、まさにさかなクン本人の“ありえたかもしれない姿”であり、主人公ミー坊自身の未来像かもしれなかった。 藤子・F・不二雄の短編漫画「ノスタル爺」のように、子供の頃に出会った孤独な大人は、自分自身の未来の姿だったという悲壮な展開すらも容易に想像できた。 作品のイントロダクションから伝わってくる情報を大きく越えて、全編に渡る“多幸感”とそれと合わせ鏡のように存在する“闇”を孕めた特異な映画だったと思う。 フィルム表現のザラつき、エモーショナルな時代の風景、性別なんて概念を超越したアクトパフォーマンス、そして好きなものを好きと言い続ける崇高さ、映画表現を彩るあらゆる面で、意欲と挑戦に溢れた傑作。 【鉄腕麗人】さん [映画館(邦画)] 10点(2022-09-23 09:51:55)
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