みんなのシネマレビュー |
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ネタバレは禁止していませんので 未見の方は注意です! 【クチコミ・感想】
4.『パッション』以降の作品に言えるんだけど、メランコリーの度が強くなってるんだよね。それまで諧謔で隠されていたものが、剥き出しになってきたというか。室内撮影はもちろんそうなんだけど、風景の寒々しさといったら。ヨーロッパのメランコリーの源流はドイツにあるのだろうか。フランス・イタリアといったいわばヨーロッパ文化の中軸的なものに対して、ドイツ的なものを置くとヨーロッパに奥行きが見えてくる。たとえば音楽はイタリアやフランスで花開いたのに、いつのまにかメランコリックなドイツに中軸が移っていった。光に対する影のようなドイツの存在。そういえばこの映画では(というよりこの人の映画では常に)音楽・音に対して鋭敏にさせられるな。ピアノの打撃音まで。スピードを操作されてビデオで再現される過去の映画、その中の人物はすべて悲劇的に見えてくる。なにかすべてが憂愁へと向かっていく。憂い顔の騎士は、自らそのイメージの陳腐さに追い立てられるように、掘削機へ向かっていく。 【なんのかんの】さん [映画館(字幕)] 6点(2011-03-25 12:14:20) ★3.ゴダール作品の中では比較的、肌に合った。 そういう意味で、私にとっては希少な作品となった。 【にじばぶ】さん [ビデオ(字幕)] 6点(2007-09-20 23:27:08) 2.主人公のレミー・コーション(主演のエディ・コンスタンチーヌは、ゴダールの『アルファヴィル』でもこの“レミー・コーション”役を演じている。そこでは「探偵」として、だったが)は、東ドイツに何十年も潜伏していた西側のスパイ。しかし社会主義体制が崩壊し、東西ドイツが統一されたことで自らの「存在理由」を喪い、かつて自分が属していた[場所(=世界)]へ戻ろうとする…。 この映画を見て、まず何よりも鮮烈に印象づけられるもの。それは、主人公の「孤独」の深さだろう。かつて『アルファヴィル』において、「言葉=思考」を人々から奪い絶対的服従を強いる全体主義世界を破壊し、アンナ・カリーナ扮するヒロインとともにさっそうと車で画面から消え去っていったレミー・コーション。その“英雄”がここでは、まったく役立たずの老スパイとして登場する。しかも、その任を解かれた今となっては、彼という「存在」はまったくの無に等しい。これまでの何十年かが、ベルリンの壁が消え去ったのと同時に“零”となってしまった。もはや彼は何者でもなく、何物も持ってはいない。その深い、深い「孤独」こそが、本作のトーンを決定している。 実際、この映画は1980年代以降のゴダール作品にあって、最も沈鬱で、内省的で、夢想的だ。レミー・コーションの独白(モノローグ)は、そこで何が語られているかではなく、その言葉がどこへも行きつかず、誰によっても受け止められないことの悲哀によってこそ「意味」を持つだろう。彼は、車ではなく徒歩によって移動する。おぼつかない足どりで、凍った湖を渡り、息をきらして道ばたにへたり込む。その歩みに過去の映画の断片や歴史的映像がコラージュされる時、映画は、この老いた男こそがドイツの、ひいては西欧の「歴史」そのものの[アレゴリー(寓意)]であると観客に示そうとしているのだ。東西ドイツの統一に湧く当時にあって、そっと西欧の“黄昏”を奏でるゴダール。だからタイトルの「零年」とは、“終わりの始まり”を意味するのに違いない。 そしてそういったこと以上に、ここにはゴダール自身の心情が、その「孤独」が、これまでにないほど吐露されているのだと思う。…映画の中で、「帝国は唯一であることをめざし、人は二人でいることを夢見る」というような台詞があった。「孤独」を定義するのに、これほど美しい言葉をぼくは知らない。 【やましんの巻】さん [映画館(字幕)] 10点(2005-03-31 19:28:45)(良:3票) 1. かの名作「ドイツ零年」とは似ても似つかない。監督は確かマルクス主義者か毛沢東主義者だったと思う。だから、東西統一による東側の敗北の時を、「零年」と名付けたはずだ。しかしこの映画で見られるようなあたかも自由主義陣営=ナチというモンタージュは時代錯誤もいいところだと思うし、建設的ではない。映画の内容自体よく分からない上に旧東側への未練だけが漂う内容とあっては、こちらもあまり見ていて面白いものではない。まるでかのショスタコーヴィチがその詩を用いた詩人、Ye.イェフトゥシェンコが、未だに社会主義時代を懐かしんで未練タラタラな詩を書いているのと同じような情けなさを感じる。 【おおしまけんいち】さん [ビデオ(字幕)] 0点(2005-03-30 22:15:13)
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