みんなのシネマレビュー |
|
|
|
ネタバレは禁止していませんので 未見の方は注意です! 【クチコミ・感想】
3.《ネタバレ》 三島由紀夫の小説「午後の曳航」の映画化作品を先に観てから、その後で原作の小説を読んでみました。 そのことにより、映画と原作の小説について、いろいろと面白いことに気がつきました。 ルイス・ジョン・カルリーノ監督の「午後の曳航」は、映画それ自体としての出来栄えは、かなり良い作品だと思いました。 英国のデヴォンの港をメインにした撮影がとても美しく、雄大な海や白い崖と緑の野、そして落ち着いた古風な港町。 そして、それらとは対照的な少年たちの反抗的な行動、満たされない未亡人の生活、彼女と一人息子の生活の中に、不意に飛び込んできた海の男によって惑乱された母と子の関係、そして最後には少年たちによって、憧れの人から普通の人になり下がった海の男は処刑される-----。 このストーリーは、一歩間違えば、ひと昔前の港町を舞台にしたメロドラマになりかねないのですが、それを救ったのが、ごく控え目な、激しさを抑制したルイス・ジョン・カルリーノ監督の演出と、美しい自然の悪魔祓いにも似た作用だったと思います。 そして、海の男の英雄ぶりの失墜に対する少年たちの断罪こそ、原作者・三島由紀夫の観念に実に忠実なのですが、映画の表現としては、カルリーノ監督独自の解釈が表われていたのではないかと思います。 カルリーノ監督が、三島文学の愛好者であり理解者であることは、映画の中のいたるところによく表われていましたが、映画作家としての彼は、三島に忠実である以上に自分自身に忠実であったからこそ、そういう結果を生んだのだと思います。 それから、私は三島由紀夫の原作を読んで、やはり三島文学の忠実な映画化は、もともと無理だったのだということをつくづく感じました。 少年たちの秘密結社の行動は、確かに三島の小説の核心をなしているとは思いますが、それを三島の非現実的な理想主義的観念論で押し通すことは、はなから映画では浮き上がる恐れがある以上、これは、過去の例で言えば、リンゼイ・アンダーソン監督の「もしも---」に似た感じになるのも当然だったのではないかと思います。 海の男の凡俗化、堕落を処罰するという完全主義は、三島文学の信奉者でないかぎり、観る人を納得させることは難しいのではないかと思います。 むしろ、嫉妬からだと見るほうが、わかりがいいように思います。 いずれにしろ、三島の原作は派手な言葉の洪水に満ちています。絢爛という言葉が、まさにふさわしい小説なのです。 映画では、これはバッサリ切らなければなりませんが、切っただけでは通俗的なロマンスものになってしまいます。 映画は映画で独自の工夫というものをしなければなりません。 この点、脚色もしているカルリーノ監督は、なかなか巧みにアレンジしていると思います。 言葉と同じ価値のものは、あっさりと捨て去り、彼はそこに視覚的な世界を繰り広げてみせたのです。 彼も、三島の凝りに凝ったディテール描写の魔術をよく理解していたに違いないし、それを映画でも尊重していますが、もともと映画はそれを時間をかけずに一挙に映し出す特性を持っている以上、時間をかける三島の筆致を映画で踏襲することは、初めから無理なのだと思います。 そのため、カルリーノ監督はそういうことよりも、かなり質は違っても、街の風景や港の光景、特に海の景観の描写に重きを置いたのだと思います。 したがって、ここには、刺戟の強い三島の描写とは別の静かな情感にあふれた光景が表われている。 これが、原作に忠実な映画化かどうかには疑念があるかも知れませんが、少なくとも原作に忠実な映画作家の、映画に忠実な映画化であることは確かであると思います。 【dreamer】さん [CS・衛星(字幕)] 7点(2019-03-11 14:47:27) 2.《ネタバレ》 「午後の曳航」といいますとあの、刑法41条にて処罰対象外とされる13歳の少年たちが、よってたかって大人を殺しちゃう、三島由紀夫の小説ですね。三島作品なので、ある程度、解析的な図式によって構成されてます。未亡人である母と船乗りの男との凡庸な恋愛ドラマを描く心理小説の面がある一方で、主人公の少年が属するグループの「首領」少年の存在は、極めてドライで観念的。前者の面は大人の側で閉ざされていて、主人公の少年はそれを外部から眺め、大人の世界に憧れなり畏怖なりを感じている。それは子供らしいと言えるとともに、やはり観念的なものであり、それが「日常」によって実は汚染されていたことを知った時の憎悪が、衝撃の結末に結びついて行く。この観念(論理)と憎悪(感情)の結びつきが、物語小説としての肉付けの上手さ、他の三島作品と比べた完成度の高い低いはともかく、例えば「金閣寺」で主人公が放火に踏み切る過程よりも、この作品の方が、何となく「腑に落ちる」感じがするのです。で、この映画。なかなかよく出来てます。原作が良いんでしょう(笑)、では身も蓋も無いですが。原題は「午後の曳航」の英訳版と同じですから、「小説を映画化しました」であることは間違いなく、実際、細かいところで意外に原作に忠実です。一方で、大人側のドラマの比率を原作よりも下げて、少年の視点を中心にしているのは、これは映画化にあたり妥当なアプローチでしょう(母と船乗りのラブシーンで流れるバッハの有名なへ短調協奏曲が、ベタなメロドラマを演出)。「首領」の美少年ぶり、彼のカリスマ性がよく出ていて、そこがコワさでもあります。あるいは情景の美しさ。心理や感情を書き込む小説に対し、「美」を描き込むことで、古典悲劇みたいな論理性を映画らしく演出しており、ラストシーンのロングショットなんか、いかにも「ばっちりキメてやったぜ」という感じです。ただし「美」でキメ過ぎれば、鼻についたりもする訳で、そこに限界もあるのかも知れませんが。 【鱗歌】さん [CS・衛星(字幕)] 7点(2014-05-11 08:53:01) 1.《ネタバレ》 小説「午後の曳航」は私にとって「時計じかけのオレンジ」以上に衝撃的で忘れられない作品だった。読み終わった後に言いようのない気味の悪さと嫌悪感が残るが、それでも私を捉えて離さない魔力を持っている。そういったわけで原作に強いこだわりがあるため、映画の評価は辛口になっている。この映画は原作に遠く及ばないものだと私は感じた。原作に忠実に作ったつもりなのだろうが、「わかっていないな」と感じる部分が随所にあった。原作に出てくる少年たちならば、殴り合いのけんかをしたりはやし立てたりはしゃいだりはしないはずだ。もっと醒めており、他の一般的な少年たちを馬鹿にしているのだ。首領以外はもともと普通の少年たちで、首領によって洗脳されているだけなのだと言いたかったならば、原作のように首領がジムを処刑しようと言い出したときの彼らの萎縮した態度からほのめかされる程度にした方が潔い。首領のカリスマ性が原作と比べると乏しいのも気になった。首領はいかなるときも機械のように冷静でなければならないのだが、映画の首領は感情を表に出しすぎている。それに加えて、ジョナサンに逆らう余地を与え、最後には処刑の主導権を奪われているという体たらく。原作にあった首領の哲学的演説のシーンを登場させなかったのも決定的な間違いだと感じた。このシーンは少年たちが何を考え、何を目的として行動しているかを理解する上で非常に重要だし、原作者の言いたかったことが集約されているのだ。ハイライトである猫殺しのシーンも原作に比べると弱すぎる。そして肝心のラストだが、やはりここも原作の勝ちだろう。ジムが一気にコーヒーを飲み干すところで終わるほうが美しい。映画はこのシーンをだらだらとやりすぎている。映画と原作は別物、と考えればいいのだろうが、映画は原作の良さを台無しにしていると感じられたのでどうしても不満が残ってしまった。 【洟垂れ】さん 3点(2004-02-05 23:19:25)(良:1票)
【点数情報】
|
Copyright(C) 1997-2025 JTNEWS