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【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  雨に唄えば シド・チャリシーが死んだ。『バンド・ワゴン』もとても好きな映画で、彼女のダンスシーンはどれも完璧だけど、ただミュージカルの相手役としてのドラマをこなすには、やや愛嬌が欠けていた。デビー・レイノルズが愛嬌を振りまいた後で、都会の女(ギャングの情婦)として踊る『雨に唄えば』のクールな彼女のほうが、印象としては強烈。それにしてもあれは奇跡のような映画だったなあ。初めて見たとき、映画館を出ても心のウキウキが止まらないので、ただただ道を歩いてたら(とうぜん頭の中ではタップを踊っている)直線距離にして7kmほどある家まで着いてしまい、直射日光の炎天下の日だったのでバファリンが必要になったものだ。ミュージカルの楽しさが映画の秘密を握っているのではないか、とそれ以来疑っている。たとえば発声練習の早口言葉からダンスになっていくあの一瞬のスリル、ああいう日常の光景の中で不意に踊り出す瞬間に、映画の秘密があるような気がしてならない。アステアやケリーのミュージカルを見るたびに、その秘密を見極めてやろうと思うのだが、でも見始めるともう向こうに完全に乗せられてしまって、分析しようなんて気持ちはどこかにすっ飛んでしまう。映画がサイレントからトーキーになったのは退歩ではないか、としばしば思わされることが多いが、でも『雨に唄えば』を思い起こすと、その考えを打ち消さなければならなくなる。[映画館(字幕)] 10点(2008-06-19 12:19:19)

2.  アッシャー家の末裔 空間の広がりの薄ら寒さと言ったらない。友人が犬を呼ぶが逃げていくあたりの閑散とした感じ。カーテンのそよぎ、スローモーションで本棚から崩れ落ちてくる本。レースの死に装束が風で揺れだすあたり。時を告げる鐘が鳴るとホコリがさらさらと落ちていって。アッシャー氏がギターを爪弾くと外の荒涼とした風景と共感していく。ちょっと目まぐるしすぎるかな、ってとこもあるけど、映像の音楽性を極めている。ギターの弦がぶつんと切れるなんて、日本の怪談でもよく三味線であったけど、世界共通の怪奇趣向なのね。黒猫やら振り子やらも出てくる。次第に嵐になっていくとこのカッティング。音が重要な役割りをする原作を、サイレントで映像に翻訳したという意味で、無声映画のひとつの「結論」を提示したような作品になった。姫の登場の盛り上げ。世界がブレだしてくるの。開かれたドア、狂ったようにひらめき続けるカーテン、振り子の脇からのアップ。映像によって、凍りついた音楽に耳を傾ける、いや目を凝らすという映画芸術の達成。[映画館(字幕)] 9点(2012-07-28 09:28:41)

3.  アラクノフォビア 《ネタバレ》 南の異国から来た邪悪なものが、スモールタウンを恐怖に落とし入れる。まずその蜘蛛の来訪が順々に描かれていて楽しい。最初の犠牲者の棺に付いてきて、ここから出るとき画面の隅で見せるの。瞬間だけチョロッと。烏に運ばれたりして、幼年時の体験のせいで蜘蛛恐怖症になっている医者の新居に到着するわけ。医者もそこの新入りで、ワザワイと一緒にされる。蜘蛛だから壁を這ったり二次元的な行動かと思うと、糸に伝わって三次元的に現われたりもする。ぴょんと飛び掛ったり。屋上パーティで紙コップが動くのなんかもいい。「最近コオロギが鳴きませんなあ」なんて会話も補強する。あわやの瞬間に踏まれちゃうなんてフェイントもある。田園讃歌・田舎讃歌をコケにしているようなスタンスがいいですね。地震があってもサンフランシスコのほうがいい、って。最後倒れたワインが蜘蛛の糸のように流れるのも粋。[映画館(字幕)] 8点(2013-11-03 09:24:58)

4.  あなたに恋のリフレイン 《ネタバレ》 アレック・ボールドウィンのラヴストーリーなんて、あんまり期待しないで見たんだけど、これがいいの。ボールドウィン君は「遅れてきた二枚目」って感じで、先はないなあと思ってたが、こういう活路があったのか。プレイボーイのお坊ちゃんで、ラスト落ちぶれてぼんやりと・しかし夢心地でキム・ベイシンガーを見てるとこなんか、いい感じ出てました。粋な小噺。結婚離婚を繰り返す腐れ縁の話。上り坂下り坂ですれ違い続ける。けっきょくこの二人は「合ってるんだ」。愛って不思議。ニール・サイモンの本は練れていて、「銃で脅されたもんで」というせりふが後で「今度は大砲で脅されたのかね」と生きたり、病床の父にキムが会いに行ったところはかなり笑った。キムがちょっとトイレに立ったすきに意識を戻して「嫁は、嫁は」と言って、彼女が戻ったと途端にパタンと死んじゃうの。ラヴストーリーは二人の間のいい感じを描くのが大事で、それがちゃんと出来てました。小道具としての指輪もいい。歌詞の訳が付かなかったのが残念。[映画館(字幕)] 8点(2013-02-26 09:38:57)

5.  アウトブレイク 《ネタバレ》 ペストの時代から疫病というのは半分社会問題であった。D・サザーランドが「言ってみれば、この人々は名誉の戦死なのだ」という論理。彼が常に口にする「センチメンタル」という批評、ここらへんに一番の怖さがあった。日本にもよく「センチメンタル」で切り捨てる知事がいるでしょ。多数と少数の問題。多数の側に立てば、あらゆる人道的発想はセンチメンタルとして扱われるだろう。小さな町が軍に封鎖されてからが本筋。なあに脅しだけさ、と逃げた車が容赦なく爆破される。不意に少数の側に区分けされてしまった市民、こっちの側に立てば「センチメンタル」などと言ってられないのだ。そうは言っても多数の側に立てば、やっぱり安全を考えちゃうだろうし。そこらへんの問題。多数はこういった少数の集積であるって考えが大事なんだろうね。アメリカ映画でいいのは、主人公が組織の問題児ってところ。勇気ってことも絡んでくる。それと責任ってことか、責任から逃げない。そういう本筋の健全さが偉い。D・ホフマンをつかまえにきた軍に、レネ・ルッソが「背の高い男よ」と教えるところは、もっと笑っていいんじゃないか。[映画館(字幕)] 8点(2010-04-19 12:00:10)(良:1票)

6.  アメリカン・ビューティー 《ネタバレ》 みんな「こんな生活、もうヤ」と不満を持ちつつ、といって確固たる未来の夢がそうそうあるわけでもなく、永遠の過渡期のような“かけがえのある日々”に苛立ち、するとつい娘の友だちに恋心を募らせる中年男も出てくるわけで。どんな異常も平凡に回収されてしまうのが現代の悲劇なら、平凡が平凡であることを異常に嫌悪するのが現代の喜劇。ことさらアバズレを装った小娘とキレた中年男との間に、マゴコロが通じてしまったりもする。なんだか知らないけどあたしは、雨の部屋で、ねじくれた果てに、あたかも父と娘のようにちょっとだけ心が通い合う、男と娘の友人アンジェラの場にホロッとしてしまった。きっとこれピューリタン的には、邪恋を改心して歳の差にふさわしい正しい思いやりになった、と中年男の心理を解釈するのだろうが、どうだろう、ねじれが一回転してしまったとはとれないか。これはこれで邪恋の成就ではなかったか。[映画館(字幕)] 8点(2008-09-26 10:58:17)

7.  アマデウス 舞台だと日本人が日本語であちらの芝居をやってても気にならないのに、映画だと同じ西洋人がやってるのにヨーロッパ言語であるべきところが英語だと気になってしまうことがある(気にならないときもあるんだ)。フィルムの記録性に対する信頼がどこかに残ってるのかなあ。本作のモーツァルトやコンスタンツェのしぐさや口跡なんか、意図してアメリカ風にしてたんじゃないか(『ヘアー』のヒッピー?)。現代アメリカとの対比みたいな狙い。亡命者の視線がどうしても出てしまい、それが作品をややしぼめていた気がする。「神の悪意」というテーマだけで面白いんだから。サリエリを少年時代から回顧したのは良く、モーツァルトの楽譜を見たときのショックが生きた。面白かったところ。医師がアイネクライネをサリエリの作曲かと思ってホッとして口ずさむとこ。空中ブランコや馬が壁破って出てくる「ドン・ジョバンニ」の舞台。俗と聖の関係を一番単純にやってたのは、義母ががみがみ怒鳴ってるのが「魔笛」の夜の女王のアリアになっていくところ。精神病院好きの監督だ。今回は神による拘禁からの自由ということか。[映画館(字幕)] 7点(2013-05-10 09:57:46)

8.  アリス(1990) おばさんのアリスにとっても、この世は不思議の国。カメラはいつものニクヴィストではないが、室内の光線などタッチは似てる(冒頭の室内の長回し、奥深い廊下)。現実は退屈だけど、それを覆す形式として「不思議」というものが必要になってしまう。浮気をするにも、媚薬の調合にラ・クンパルシータのBGMで促されなければならない。テレビドラマの作家になる才能もなく、自力で浮気をする勇気もなく、でもカトリック少女だった夢が、ラストで生きてくる。マザー・テレサになるんだ、カルカッタだ、って。秋の動物園、記憶の中の実家、家の前に懺悔室があって、ここらへんの秋の雰囲気が美しかった。常に平均点以上の作品を作ってるんだけど、なんかこのころから、新展開の驚きのない枠が窮屈に感じられ出した。この退屈世界では吹っ飛んだところまでいかないと、手応えを得るのは難しいよ、あたしたち現実のニューヨーカーには難しいでしょ、って嘲ってるようなところもあり。[映画館(字幕)] 7点(2013-02-12 09:54:55)

9.  アパッチ砦 男たちの世界への朗々とした讃歌であり、また挽歌でもある。仲間うちの世界に、H・フォンダが闖入してくるわけだ。楽園の終わり。彼も悪役なのではなく、格下げされたことにコンプレックスを感じていて、それが裏返されて厳格さを強調することになる。繰り返される「ノークエスチョン?」。階級差と士官学校出か否かのズレ、も男の世界の味わいを出す。営倉の男の歌も味。整列のだらしなさの指摘と、全員が一歩出て振り返る態度。こういった男の世界のドラマが話の芯で、それと比べるとアパッチはさほど重要でない。騎兵隊にとってフォンダが闖入者であったように、インディアンにとっては騎兵隊が闖入者だったわけで、その疚しさがあるとドラマが膨らむけど、この時代の西部劇はそういう複雑さで邪魔してはいけなく、常に画面に雲が大きく占めるあの晴れ晴れとした気分を白人男性の気持ちで味わうべきなんでしょう。[映画館(字幕)] 7点(2012-09-14 10:09:52)(良:1票)

10.  アダムス・ファミリー(1991) むかしテレビを観てた者には、やはり懐かしい雰囲気が味わえる。危ない遊びを子どもたちがしているところなんか。学芸会のシーンも好きだな。清らかにに歌っているのを退屈そうに聴いているアダムス家の人々。しかし子どもたちが血しぶきいっぱいの史劇を始めると生き生きしてくる、なんてあたりにあのドラマの味わいがあった。ただしスターたちにコメディをやらせる場合、ちょとでも隠し芸的な気配が漂うと、余興の緩みが出てしまうのでけっこう難しいのだ。私のノートには「ウェンズディやった子は『恋する人魚たち』のクリスティーナ・リッチ」としっかり記されている。美少女というより、あの手の癖のある少女のチェックに抜かりはなかった。[映画館(字幕)] 7点(2012-07-19 09:57:40)

11.  アメリカの影 芸人、それも受けない芸人というモチーフは、監督のデビュー作から登場していた。慣れないジョークの練習をする。歌も本格的すぎて重く、ハショられてしまう。客との関係をうまく演じ切れない芸人。「演じること」へのこだわりは、監督の作劇法にも根ざしていて、おおむね役者に任せたって言うじゃない。演出するってことで(映画の)観客の期待におもねってしまう意識が入り込んでくるのを拒否したかったのか。観客との齟齬を感じる芸人を描くにあたって、そのドラマの演出から姿勢を決めてきている。ステージから降りても、人の暮らしは「演じること」に満ちている。「演じてしまうこと」と言ったほうが正確か。突然現われてくる人種偏見の凄味。妹が黒人青年にダンスパーティを巡って示す高慢な態度、これも「演じること」だろう。他人の存在になにやら作用を受けて、その当人が動かされてしまう。当人が動くというよりも、動かされる・演じさせられる。そういうふうに社会を眺めている監督なのだった。[映画館(字幕)] 7点(2011-11-25 10:02:24)

12.  ア・フュー・グッドメン 冒頭の規律正しい動きの美しさと気味悪さで、すでに作品の雰囲気が決まる。「軍はもうキューバを撤退するよ」というジョークを何の疑いもなく打電に行きかける兵士のエピソードなどでも「軍隊」を垣間見せる。ほかにも正装して自殺する軍人や、無罪になったのに除隊処分される兵士など、軍隊というものをじっくり観察していく演出。殺された兵士の視点に密着させなかったことで(邦画だったら彼の側にもっと情緒的につくだろう)、乾いたトーンが出た。殺した側の弁護でスタートさせるとこが憎い。T・クルーズが成長していくときのD・ムーアの役割りは、恋人というより正義の女神みたいなもん。前半は旗を振り、後半は後押しをする。キューバでJ・ニコルソンがテーブルで若造をコケにするあたりの「常軌を逸した社会での権力者」って感じが、やはりうまい。人間関係の調節などにまったく気にせずにやってこられた男とその環境。その尊大さ・横柄さだけなら、たぶんM・ブランドのほうが一つ上だろうが、その興奮しやすさ・馬鹿さもくるめて「軍人」という人種を嬉々として演じるとなると、ニコルソンだ。アメリカ映画でいいのは「超人」の正義でなく「僕たちの勇気」によって光りだす正義を描くとこ。法廷もの映画が流行る国には、それなりに正義を追求してきた歴史がある。[映画館(字幕)] 7点(2011-11-23 12:48:29)(良:2票)

13.  アフリカの女王 《ネタバレ》 話の大枠は冒険ものだけど実質は「流れ下る室内劇」で、男女二人のドラマを楽しむ味わい。船という密室空間でほかの男女に出会えない状況なのだから、ロマンスの成長だけが見どころになり、それを二人の名優がたっぷり見せてくれる。とりわけキャサリンはピタリの役どころで、宣教師の妹の英国淑女が自分の流儀を保持した態度をとりつつ、けっこう過激な提案を荒くれ男の船長に提示していくあたりのおかしさ、ひとたび結ばれると自分からお茶を「旦那さま」に運んでいくかわいさ、などなど。ときに思い出したようにドイツ軍の銃撃があったり急流があったりするが、ほとんど二人の心理劇だけで運ぶ前半はなんとも鷹揚で、映画黄金期の観客はそれをゆっくりと見物する大らかさを持っていたのだろう。しかしのちの「映画がコセコセする時代」になってからの映画ファンである私にはいささか大らかすぎて物足りなく思っていると、終盤、その大らかさの味わいが私などにも分かってくる。船が隘路に入って身動きが取れなくなってしまい、二人は絶望し神に祈ったりしている。そのときカメラはそっと上昇し、すぐ先に湖への出口があることを観客にだけ知らせてくれるのだ。そしてスコールが訪れ、船は動き出し湖に出て行く。後の映画だったらそれは伏せといて、脱出の驚きの効果を優先するのではないか。でも監督は手の内を見せて、観客にゆっくりと見物させるほうを選ぶ。そのとき生まれるユーモアの味わい。あるいはラストのひっくり返っているクイーン号に静かに近づいてくる敵艦のカット、これも先に起こることを観客に知らせておいてゆっくり見物させる手法だ。そのカットの生み出すユーモアこそ、後のコセコセした時代の映画が失ったものだろう(晩年の監督作『女と男の名誉』では飛行機が飛んでるカットだけで笑わせた)。なんか第一次世界大戦の映画ってノドカでいいんだよな、もちろん殺し合いをしてたには違いないんだけど。[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-16 10:09:19)

14.  アポロ13 面白い題材をいかにもハリウッドらしくソツなく料理したという一編。難関に次ぐ難関を一つ一つ乗り越え、家族の反応なんかも折り込み飽きさせずに楽しめるが、結局それがそうであっただろう生々しさから遠ざかってしまった気もする。3回目だというのにもう飽きている大衆が背景にあって、家族よりもこっちをもっと突っ込んだほうが面白かっただろう。事故になった途端飛びついてくるテレビ。なるほどと思ったのは、もうコロンブスなどの個人の英雄の時代ではない、ってこと。どこまでも可能性を求めていくスタッフの冷静な姿勢が現代の英雄的行為なのだ。四角と丸の空気清浄器をあれこれ繋ごうとする。ライカ犬とは違うんだ、と生理データ器具を取り捨てる、なんて意地も見せ、困難を前にチームの和は固まり、無関心だった娘が家族の愛に戻ってくる、といったアメリカ人好みの「教訓」もいろいろ揃えてあります。[映画館(字幕)] 7点(2010-02-26 11:08:06)

15.  嵐ケ丘(1939) これはもうあちらの『忠臣蔵』というか、いろんな版があり、このほかにブニュエルの、吉田喜重の、J・ビノシュのヒロインで坂本龍一が音楽やったの、を観てるが(リヴェットのは未見)、どれも独自の趣向を凝らして面白いけど、何か物足りないのも事実。これ、映画よりも連続ドラマに向いてる話なんじゃないかなあ。ヒースクリフの帰還までにモッタイをつけたいところが、映画だとそれが出来ず、キャシーとヒースクリフの愛憎のごちゃごちゃをこちらでほぐして味わう時間が足りない。キャシーがただのヒステリーに見えてきてしまう。時間を強制されたくないストーリーってこと。それでも多くの名だたる監督たちを魅了してしまう魔が、この小説にはあるんだ。この戦前白黒のワイラー版が余分な解釈のない分、基本の位置を確保していて見応えがある。私はヒースクリフなのよ、って叫ぶあたりはやはりコワい。ロウソクのゆらぎで盗み聞きしていたヒースクリフの退場を知る、なんて演出。[映画館(字幕)] 7点(2009-11-05 12:02:27)(良:1票)

16.  嵐の孤児 おそらく数年前のロシア革命がダブっているだろうことは否めない。貴族の暴虐がまずあり(腕に鉛・馬車が子どもを轢く・頽廃パーティ)、それを踏まえて人民裁判の恐ろしさがまたある。とどちらにも偏らない姿勢を取っているのが、うまく逃げたな、という印象にもなってしまう。前半では「うん、貴族は悪い」と思い、後半になると「君の気持ちは分かるが、これはやり過ぎだよ」と、観ているほうの気持ちがきれいに切り替われて、何らかの統合、と言うか、暴虐と民衆とのより良い戦い方を目指さそうとはしない。まあそこがアメリカ映画の限界というか、良さでもあるんだけど。ただただすれ違ってしまうことの哀しさを歌う、その語り口だけを洗練させていく。やっと会えると逮捕されたりして、もう悲痛きわまりなく、メロドラマの語り口というものは、グリフィスで(とりわけ『東への道』で)おおかた定まり、あとはほとんど進化する必要がなかったのだなあ。[映画館(字幕)] 7点(2009-10-23 11:58:33)

17.  アイズ ワイド シャット 最初のパーティー会場の冷え冷えとしたまぶしさに、一番この監督らしさを感じた。あとは夫婦の会話が、切り返しの積み重ねで緊張を高めていくあたり。まあこれだけでもけっこう満足できたが、ただ肝心の仮面パーティーがどうも弱い。その死を抱えた弱さそのものを描いたのかもしれないし、冒頭の見知らぬ者のパーティーの陰画かもしれないが、イタリアの監督だったらもっとノリノリで見せてくれるところだなあ、と思ってしまう。ここらへんで歯車が狂ったまま、うまく乗り切れずに見終わってしまった。この人はずっと理性の外側の世界に興味を抱き続けてきたわけで、制御不能なものに取り巻かれ・あるいは制御不能なものを抱え込んで生きている人間を見つめてきた。本作もその線はあるのだけど、キリキリと絞り込まれていくいつもの力は感じられなかった。これ原作読んでみたけど、世紀末ウィーンという背景の中で生きる物語って気がしたな。だから『バリー・リンドン』みたいな、克明に時代を再現する種類の映画にした方が良かったんじゃないか。まあそれをするだけの体力がもうなかったんだろうけど。ショスタコーヴィチの物憂げなワルツとリゲティのピアノ曲、ワルツとリゲティって言ったら『2001年…』と同じ組み合わせだ。[映画館(字幕)] 7点(2008-11-15 12:03:01)

18.  アザーズ 冒頭のヒロインの悲鳴が、終わってみると意味深長で。召使たちが怪しく、ヒロインも怪しく、観客はどこにも足を落ち着けられずに、この家を見守ることになる。最初のうちは姉のいたずらという可能性を残しているところも膨らみ。死者の写真は気味悪く、二階からの音も効果満点。でも終わって一番怖かったのは、カーテンを閉め切って太陽の光を避け、暗い部屋で息を殺してじっとしている存在って、いまここに集まっていた映画館の観客である我々のことではないか、と思ったとき。キャーッ。[映画館(字幕)] 7点(2008-07-14 10:49:41)

19.  愛がこわれるとき 《ネタバレ》 だんだんと旦那がパラノイアと分かってくるあたりがいい。いかにも楽しげな新婚生活。服の汚れを謝るのも微笑ましい。と思っていると、タオルの掛け方から缶詰の向きとか、潔癖の過剰さが露わになってくる。嫉妬狂を扱ったブニュエルの『エル』を思い出す。マニアっていいんだな。どうしても旦那のほうに肩入れして見てしまうんだけど「幻想交響曲」を流すってのはつまんなかった。ヒロインが海に消えてからは、視点が代わる。ここらへんからは旦那とヒロインとの知恵比べとなる。男装させたり舞台衣装つけて踊ったり、いささかプロモーションフィルム的でダラケた。愛する妻を見つけた夫が、タオルを揃えたり缶詰を整頓したりしてるとこを想像するとおかしい。何も殺さなくてもいいとおもいません? 愛ゆえの襲撃者は怖い。愛を捧げ尽くした男の物語。[映画館(字幕)] 6点(2013-09-06 09:54:56)

20.  アンディ・ウォーホル/スーパースター スーパースターってのは、ウォーホルの造語だったそうだ。なんか意味が違ってきてる。今はスターの中のスターって感じだけど、この人のは、スターを超えて、って感じ。ウォーホルのドキュメンタリー映画。この人の表情はヤク中だとばかり思ってたけど、ああいう表情で防御しなければならない立場に自分を追い詰めていった、って感じもある。自分から大衆=マスコミと関係を持ち続け、彼らがそうしてほしがる「微笑」の対極へ対極へ押されて行っちゃった、っていうのか。微笑も駄目だが奇人を装うことも陳腐になってしまう、そういう恐ろしい時代を、彼も加担して作ってしまったのだ。芸術家は奇人を装って大衆から隠れていればよかった、たとえばダリなんかの時代はまだ牧歌的だった。家族とファクトリーの連中とは会わせなかった、っていうとこ、なんか痛ましい。[映画館(字幕)] 6点(2013-05-28 09:57:55)

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