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【製作国 : アメリカ 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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1.  オペラ座の怪人(1989) 《ネタバレ》 ホラーと割り切ってる。エルム街のフレディ君。皮膚へのこだわり。常に新鮮な皮膚をほしがってる。でも皮むきや首がゴロンより、楽譜から血がワッと湧き出るようなのをもっとやってほしかった。なんと言いますか、コクがないんですね。ホラーにもなんとなくルールがあって、たとえばあのネズミ捕りの老人は殺しちゃいけない人だった気がする。あるいはスターのプリマ。後半急に殺されてスープにされると、なんか物語の流れとしてヘン。本当に邪魔ならもっと早くに殺しちゃってりゃいいと思う。殺しがテンテンとあるだけで、作品としての流れを作ってくれない。怪人がクリスティーヌと呼びながら売春婦を買うのも、違うんじゃないかと思った。この倒錯男にふさわしくない。ヒロインは純粋な音楽そのものなんだから、そんなこと考えてもいけないじゃないか。[映画館(字幕)] 5点(2014-02-21 12:34:04)

2.  オスカー(1991) スタローンのコメディ、って線で宣伝してた記憶があるけど、古風なカッチリした喜劇としてよく出来ていた。ある日の朝から昼まで、ひとつの屋敷に限定し、人の取り違えや鞄の入れ替えなんかで見せてくれる。冒頭人形の歌うフィガロで作品の質を保証してくれる。スタローンはシュワルツェネッガーほど器用でなく、慣れない世界で固くなっているのがかえって「いい奴」って感じがありました。またちょっと周囲にナメられてるようなところもあって、ギャングよりカタギののほうが向いてるんじゃないか、いう感じも合ってました。どういう順で作られたのか知らないが、まずスタローンのコメディという注文があってから出来た映画なら、成功だったと思うけどなあ。昔のコメディをなかなか超えられないと思っているのなら、ときどきこうやってキチンと復習することも大事だろう。[映画館(字幕)] 8点(2013-06-06 09:16:23)

3.  オーメン4<TVM> 《ネタバレ》 2、3見てないので、分かるかなあと思ったけど、でもこれは3から10年ぐらい跳んでるので、独立したものとして見てもいいだろうと思った次第。アンチ・キリストが少女という発想がミソなのか。父・母・娘の三角関係に重なるような構造。仲のいい父と娘に嫉妬する母の妄想ともとれる描き方をしたほうが面白かったのでは、とちょっと思ったが、このころのアメリカは相対主義に疲れてて、邪悪なものはとことん邪悪という絶対主義で憩いたかったときなんでしょう(たとえばイラク)。その邪悪なものに囚われた少女の叫びみたいなものがあれば膨らんだんだけど、やっぱ絶対主義はつまらない。アメリカにとってのカトリックを考えるサンプルにはなる。あの宗教の長い歴史には「恐れ入っちゃう」ってところが、ヨーロッパから逃げ出した者の末裔であるアメリカ人にはあるみたい。[映画館(字幕)] 5点(2013-03-07 10:23:01)

4.  愚なる妻 シュトロハイムが自信持ってるなあ、という表情って分かる。ヨーロッパの表現主義を引きずってる。たとえば空涙を流して手の陰で目を光らせてるとことか、鏡で女を盗み見るとことか、きっとああいうとこに自信があったんだと思う。今から見るとクサいんだけど、でもこういうヨーロッパ風・悪の粘着的魅力ってのが新鮮だったに違いない、アメリカでは。そこらへんの「アメリカに渡ったヨーロッパ人の映画」ってことの表現のあれこれに興味は湧くが、現在残っているフィルムで(オリジナルから見ればほとんど断片)何か言ってはいけないような気もする。セットと知らなければそれほどお金掛けてる映画に見えません。[映画館(字幕)] 7点(2013-03-05 09:18:13)

5.  オール・ザ・キングスメン(1949) 《ネタバレ》 アメリカという国は、何度も何度も「民主主義とは何ぞや」と問い返していて、それに敬服。ソ連は共産革命の賛歌を歌うのにばかり熱心で、同じような試行錯誤をやらなかった。本作は『スミス都へ行く』の、もう一つの結末という感じがする。ああ真っ直ぐに歌い上げられないから、映画としての満足感は劣るが、立派な作品です。いかにもアメリカ南部の農民という顔、アメリカの純朴そのものである顔が、そのままゴリゴリの保守主義者の顔でもある、ということ。後半の群衆の恐ろしさは、映画ならではのもので、あれも『スミス』の裏返しのようにつながっている。テロリズムに共感を寄せてしまうような結末で、考えてみればちょっと怖いんだけども。[映画館(字幕)] 7点(2013-02-08 10:05:17)

6.  おつむて・ん・て・ん・クリニック そうか、私のノートでは「おつむてんてん」となっているが「おつむて・ん・て・ん」が正式名称だったのか。設定はいいんだけど、キャストも合ってるんだけど、もひとつ弾まない。ビル・マーレイのボブがいい人っぽいんだ、あれはもっと凶々しくすべきじゃないか。まして彼なら。ドレイファスの怒りをこらえた微笑なんか、ま、お得意のものだろうが、笑える。趣味からすると、ボブがバスから降りたときに乗客が万歳するような、ああいうとこが好き。恨んでる老夫婦もいいか。子どもが夜、死について語りだすとこなんか、もっとなんか期待したんだけどなあ。と不完全燃焼なコメディでしたが、嫌いじゃない世界。[映画館(字幕)] 5点(2012-10-27 09:52:00)

7.  おしゃれ泥棒 《ネタバレ》 夜の公共施設って誰でも夢見たことがあるんじゃないか。美術館以外でも、学校とかデパートとか劇場とか、夜中にふと目覚めたりすると、昼間にぎやかだった「あそこ」は今どんな感じなんだろう、と想像してみること。そういうロマンが本作の底にはあって、そこにさらに「異性と一緒だったら」と想像を広げれば、恋愛のロマンスも自然に絡んでくる。見どころはいかにして美術品を警備の厳重な美術館から持ち出すかで、ブーメランやら鍵の位置の計測など、いったい何やろうとしてるんだろう、というハテナを前もって観客に提示しておいてから、盗みの夜を迎え、ひとつひとつ種明かしをしていくという趣向。壁を這い進んでいく鍵など楽しい。二人が潜む階段裏の物置が、盗みの支度部屋と恋愛の密会部屋の重なる空間となり、出ていくときにオードリーが記憶にとどめとこうと見回すのがいい。本作で主役の二人は、役者としてよりも映画スターとしての華やかさや洒脱さを前面に出しており、だから観客は、トイレはどうしてたんだろう、なんて心配してはいけないのだ。[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-08-13 10:09:59)

8.  汚名 《ネタバレ》 メロドラマとしてのサスペンスと、スリラーとしてのサスペンスがあるのが、本作の特徴。鍵一個でハラハラさせられる。背中越しに移したり、夜会の中でのクローズアップ。シャンペンが次第になくなっていく怖さってのもあった(露見する恐れ)。観客の心は何もヒロインにだけ寄り添っているのではないんだ。何が怖いと言って、助けを求めようがないってのが一番怖い。自分が毒飲まされることに気づいても、そこにいる第三者に言えない(するとスパイがばれてけっきょくアウト)。こういう「とらえられた!」ってのがこの監督好きね。ラストの階段降りはただただ陶然。このワル、憎めないのよね。『鳥』のお母さんみたいのがいて家庭もある。ずいぶんかわいそう。ヒロインはけなげ。愛を証すために自ら敵地に乗り込み、そのことによって誤解を受けたりして、けなげ。[映画館(字幕)] 7点(2012-06-11 10:23:47)

9.  お気にめすまま もうちょっと前半テキパキしてくれたら、くたびれ男の恋愛ものとしてそう悪くない味わいになったと思う。妹の騒動の顛末が、けっきょく単なる痴話げんかに終わってしまい、この主人公カップルもヘリコプターから痴話げんかと見られてハッピーエンドに閉じていくあたり、いちおう対になっている構成。痴話げんかで納まる夫婦もあれば、痴話げんかをするまでになれた恋人同士もあり、まあ人間、情けないもの同士仲良くやっていきましょうや、というちょいとしみじみしたハッピーな気分。エレン・バーキンはクラシック系の歌い手には見えないな。「イオウジマ」なんて苗字は、まずないぜ。[映画館(字幕)] 5点(2011-11-15 10:38:17)

10.  夫たち、妻たち 今回の趣向は、ドキュメント風の手持ちカメラで押し通すこと。ドキュメントと言うよりもニュースタッチか。二組の夫婦から始まって、少しずつほかの人を巻き込んで広がっていくおかしみ。人間関係は、より安定を求めて動いていそうでいて、実はより不安定なほうへ流れている。ミア・ファーロウのタイプを元の旦那が「受動的攻撃性」と言ったのがおかしかった。受身のポーズでけっきょく自分の思い通りにことを運んでいく、って。人間関係への期待と幻滅。灰色の帽子をかぶって妥協してしまう。笑いとしては女学生レインが身の上を語るあたりか。役者ではジュディ・デイヴィスがピタリ。険があって魅力的ってのは難しいのではないか。ヴァンプとか貴婦人なら分かるけど、普通の人間らしい魅力に仕立てている。[映画館(字幕)] 6点(2011-09-30 13:26:02)

11.  狼の血族 《ネタバレ》 夢を紡ぐのも物語をするのも全部女性。少女に限らず、老婆を含む女性たちの物語。少女の成長の話だが「女性」の物語になっている。「これこれこういう話だから、こういう映画になった」というより「こういう雰囲気の映画を作りたくて、こういう話を選んだ」って気もする。監督が男だし。三つのエピソードで、次第に狼が恐怖の対象でなくなっていくの。加害者であった狼も、終わりのほうでは「狼にされる」という被害として扱われる。また「狼が人になる」ってのが何かの恵みのように見られる視点もある。「狼」のイメージが多岐に膨らんでいく。ラスト、赤ずきんの話で復習するよう。ばあさんを「殺してくれた」狼と一緒に狼の血族に入っていく。そして現代、もう眠っている場所は子ども部屋ではない。と窓を破って躍り込んで来る狼。フロイト流に見ればかなり露骨な象徴で、なんかつまんなくなっちゃうんだけど、これが男が作った「女の映画」の限界か。というより、女性たちに「男はこう考えてますが」とこわごわ「おうかがい」をたてている映画なのか。[映画館(字幕)] 7点(2011-09-13 09:43:00)

12.  オープニング・ナイト カサヴェテスが好む「演じること」というモチーフは、当然芸人への興味に通じる。『アメリカの影』や『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』に出てくる客受けしない芸人たち。演じさせられることの嫌悪がここにはある。はしゃぐことが使命となっている人たち。自分の世界と舞台の世界との落差が彼らを疲れに追いやる。あるいは俳優。本作は、段取り通りの決められたセリフ・決められた演出がどうしようもなく嫌になってしまった女優の物語だ。段取り通りの進行に感じる閉所恐怖、それに彼女が段取り通りに老いていく不安が重なって、映画は進んでいく。舞台上の俳優をクローズアップで捉えるものだから、演じられているストーリーが意味を奪われ、舞台に閉じ込められている人物として見えてくる。演じている自分は何者だろうか、という疑問。ジーナは自分たちのことを「誰から私たちのふりをしているの」と言っていた。演じている自分も実は誰かに演じられているのであって、そういう連鎖が無限に続いた果てで何でもなくなってしまっていたとしたら。演じるということは何かのふりをすることである。幸福であるふりをすること・リラックスしているふりをすること、しかしその「ふり」をする俳優的人間は、「ふり」をしている自分は幸福ではない・リラックスしてはいない、ということをいちいち確認させられているようなものである。演じることの苦痛がここにある。彼女はとうとう舞台の上で作品を離れ即興の芝居、というよりも夫婦漫才を始めてしまう。そのはじけるような解放感。俳優は演じることによって自分自身から逃げ出せる特権も持っていたのだ、しかしそれは自分自身を限りなく曖昧なものにしていくという代償と引き換えなのだけど。この矛盾の中にカサヴェテスは「演じること」のテーマをつかんでいる。『こわれゆく女』では深刻だったが、本作ではからかいのようなゆとりがあって、若干息を抜けホッとする(ヒッチコック劇場にこの二人が出演した「ひとり舞台」というスリラーが、やはりステージものだった)。[映画館(字幕)] 8点(2011-08-10 10:15:13)

13.  踊らん哉 《ネタバレ》 今回はクラシックバレーという制約を与えて、作品の個性を作る。なにかの制約を与えて「型」に刺激を与え、マンネリを防ごうとしている。タップダンスってのが「滑って転びそうになるが手足をバタバタさせてしぶとく粘ってる」ってようなユーモアをもともとたたえていて、それと大仰なバレーのポーズとの対比。ローラースケートはいてタップさせる、ってのもそういうアイデアでしょう。レコードで練習してると針が飛んじゃって、同じところを繰り返すというギャグの落ちは、もちろんどんどんテンポが落ちていってしまって床にへたり込む、というもの。いいのは、船の機関との掛け合いの妙。そしてナイトクラブシーン。最初は仏頂面のロジャース、その周りを大袈裟にバレー風にまずアステアが飛び回る。ロジャースはただボーっと立ってるだけ。でも音楽が変わってステップ踏みながら前に歩み出すあたりから揃ってきて、あとは一気呵成。作品に個性を与えるために制約を入れるのも大事だが、ここぞというとこで定型の芯を見せるのも大事。溜飲が下がるというか、実に晴れ晴れとする。ラストのバレーで始まるショーがこの対比の集大成で、みんなロジャースのお面をつけて踊る。人形のモチーフから自然に受け入れられますね。またそれが愛の表明にもなっており、その中に一人本物が入ってるという趣向。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2011-05-04 10:18:38)

14.  狼王ロボ 《ネタバレ》 家族が出来たロボがインディアンの廃墟に住む、ってのは原作がそうなってるのか。ロボより先に土地を追われたものへの視線は、どの程度意図的だったのだろう。60年代後半だと、そこに批評的な眼がありそうだが、この映画が作られた前半は微妙な時期。少なくとも現在観るものにとっては、インディアンとロボが重なって見えてくる。そして伝説に流れ込んでいくあたり、展開としてはうまい。シークエンスの間に入るロボの歌が、カウボーイの伝説としての味を出している。こういう動物ものってのは映画でしか出来ないな。舞台でぬいぐるみでやったら悲惨だし、人形劇だと舞台が狭く、伝説というより童話になってしまう。ま、放送劇ならなんとか可能かもしれないが、視覚を伴うとなれば、実写かアニメかの映画しかないだろう。それはやはりフィルムがもともと記録のためのものだからで、とりわけロボの子ども時代は物語よりも記録性が強く、こういう「語り」はフィルムでのみ可能だ。でもあくまでこれは劇映画であり、そこが割り切れているから、たとえばテレビの動物ドキュメントなどでよく見られる中途半端な擬人化による不潔感は、かえって感じなかった。とはいえ、この手の映像がさかんにテレビで流れる現在見るといささか素朴で、その懐かしい素朴さが味わいと言えば言える。ロボは、徒党を組んで牛を襲い賞金が出ていると解説的には知らされるが、映像ではもっぱら家族レベルで描かれてたので、ラストで急に仲間がわらわらと出てきたのには、ちょっとつながりが悪かった。でも締めとしては効果的なスペクタクル。そうそう、こういうのはずっと音楽が鳴りっぱなしなんだよね。ちょっとした動作にもそれに合った音楽がいちいち付いて(「逆ファンタジア」か)うるさくはあるけど、これもなんか懐かしい。[CS・衛星(吹替)] 6点(2011-02-09 10:03:04)

15.  黄金(1948) 《ネタバレ》 今だったらタランティーノばりの三すくみになるドラマになるんだろうけど、この時代は違う。悪と善、というより、疑心暗鬼に捉われるケツの穴の小さい男としっかりした男と、さらにそれらを見越している人生経験豊富なジイサン、という三人になる。このジイサンが押さえになって、実に安定した三角を作る。また前者の二人も単純ではなく、最初はボギーもケツの穴を大きくして出資金を提供しているし、相棒もボギーが落盤事故にあったときちょっと魔がさしそうになる描写がある。イイモンの方にもそういう負い目を持たせて、ボギーの疑心暗鬼だけを突出させず、徐々に粘つかせていく。それがうまい。その粘つきが限界にきて銃が発射されるわけだ。ボギーがいちいち内心を新劇の舞台のようにモノローグするのはちょっと困るけど、そういう粘っこさがあるので、最期のあっけなさがより効果的になったのかもしれない。炎天下の「あっけなさ」ってのが、ひとつのモチーフとしてあるようで、第四の男や山賊の処刑など(帽子へのこだわりが印象深い)人々はあっけなく死んでいく。その果てに風に吹き散らされる砂金があるんだろう。そのあっけなさと対比されるのは子どもの蘇生で、丹念に腕を上下させて命を呼び戻している。またそれは、山の渇きと水のあるインディオ村の対比にもなっていて、ラストのジイサンの豪快な笑い(けっして苦笑ではない)は、欲望を越え最後は水の村に至った者にのみ与えられた正しい笑いなのである。[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-10-24 10:03:04)(良:3票)

16.  乙女の祈り 少女の特権は、現実に対する仮借なき軽蔑だ。どちらの家庭も、鯖の臭いや腐ったサンドイッチの臭いをたてている。その中で夢見る絵はがきの中のくすんだ黄色に包まれたような王国。現実逃避と言われればそれまでだけど、もともと彼女らは「現実」に対して、まじめに付き合うだけの価値を認めていないわけだ。その世間の外側、イギリスや南アのほうがかえって粘土の王国に近い。南米の芸術などを考え合わせると、どうも南半球にはイマジネーションを過剰に活動させる磁場があるらしい。あの母親役が良かった。少女の眼から見た単純な敵というのではなく、慈愛あふれるがゆえに鬱陶しい存在。これは向こうの人が観ると、ニュージーランドとイギリスの関係にダブるのかなあ。[映画館(字幕)] 7点(2010-02-23 11:54:13)

17.  オーストラリア(2008) 《ネタバレ》 この監督の独特のタッチ、たとえば水中の少年に死体が被さってくるようなところ、あるいは車から見えるカンガルーの観光的情景とその始末、人物のアップのコミックのような感じ、などのキッチュ感に出だしはかなり期待したんだけど、自国名を題にして気合いが入りすぎたせいか、後半ちょっとマジメになってしまい失速気味。全体としても散らかった印象になった。まあこれがオーストラリア史の特徴なのかもしれない。アボリジニとカウボーイと日本軍が詰まって登場してくる。東洋やヨーロッパの歴史から見ると圧縮されて感じられるアメリカ史を、さらにギュッとつぶしたみたい。その古代と現代が平気で一緒にある感じは面白かった。散らかった印象を修復しようと、同じ街なかを前半では牛を走らせ、後半では子どもを走らせ対にしたり、「オーバー・ザ・レインボウ」を「ケセラセラ」のように使って全体を綴じ合わせようとしたりしてるけど、いまひとつ効果が薄かったような。[DVD(字幕)] 6点(2009-12-02 11:59:12)

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